◆蒼い月と紅い太陽
第十三話 満ちる月
一、
邪天慟哭破。
それはあかねの父・早雲が乱馬の父・玄馬を通じて乱馬へと託した天道家の家宝「家伝書」の中に書き記されていた「天道流奥義」の一つである。
その巻物には技に要する気のため方や打ち方が古語で書き記されていた。他の気砲系の技のように、体内から湧きいずる己の気を溜めるだけではなく、周りに渦巻く気も共に集めよと書いてあるようだった。
長い年月の間に、巻き物の紙も痛みが激しく、ところどころ虫食いだの墨が滲んで読み辛くなっている 箇所もある。しかも、古語にあまり馴染みなどない現代の若者だ。
辞書を片手に意味解いたとしても、多少の不都合はあったかもしれなかった。
そう、この「邪天慟哭破」を解説した部分にも欠落があったのである。墨字が湿気で滲んだのか、不鮮明な箇所があったのである。滲んだ文字を無理にでも読み解き、勝手な解釈をつけて訳す…そんな具合になったろうか。急場しのぎではそうする他は無かった。
あかねや玄馬の解釈や意見も聞きながら、乱馬は巻き物の内容を己の物とした。その典型が「邪天慟哭破」の項であった。
ただ一つ、あかねは腑に落ちない部分があったらしい。
できれば、乱馬にはこの技が使って欲しくはない…そんな感じなことも口走っていたくらいだ。
何故、あかねがそんなことを口走ったのか…。それは、この「邪天慟哭破」について書かれた部分の最後に、こう書き添えられていたからに違いあるまい。
「この技、気砲系暗黒技故に、禁じ手とする」と。
本当に、暗黒技だった故に禁じ手となったのか。それは闇の中だった。が、悪い予感がするといったあかね。そして真逆に、この巻き物を預かった乱馬には、何故かこの技を使えなければ話にならない…そんな相反した予感が過ぎったのである。
(…おじさんと相対する時、この技の正体を知らなければ、勝てねえ…。)
この巻き物を手にした瞬間から、心がざわついていた。
故に、この修行場では「邪天慟哭破」を打つことに的を絞って、修行を重ねていた。
乱馬の相手をしていた玄馬も、黙って息子に従っていた。玄馬は邪天慟哭破に関しては何も口を挟まなかったが、積極的に息子の修行につきあっていた。
「勝つためには、敵を知ることも、また有効であるには違いないからのう…。」と、そんな言葉を吐きだして、息子と共に修行に明け暮れていたのだ。
「ここからが正念場だな…。」
乱馬は気を集めながら呟いた。
「一発で当てねえと…あかねが危ねえ…。いや、ここで終わっちまう…。」
気功の光が右手の拳の中で蒼白く光り始める。
あかねは乱馬の脇から、じっと、小太刀と五寸釘の様子を伺っていた。
乱馬の指示通り、彼らの気をこちらへと引きつけなければならない。
無論、危険は承知していた。
「乱馬…。」
あかねは湧きの乱馬をチラッと見た。乱馬は無言で気を集め続けていた。
その右手が蒼白く輝く。
「信じてるからね…。」
あかねはそう言って軽く息を吸い込んだ。
敵の前に飛び出すことにためらいが無い訳ではない。なまじ武道を嗜んでいるからこそ、恐怖もある。
だが、ここで怯んで何も出来ないで終わることは、もっと嫌だった。彼女の武道家としてのプライドにかけても、乱馬の役に立ちたいとも思っていた。
(乱馬は…あたしのために…ううん、二人の未来を掴み取るために闘っている…。)
グッと拳を握りしめた。
意を決すると、あかねはそのまま、隠れていた岩影を飛び出した。そして、小太刀に向けて、蹴りを炸裂させた。
「でええええっ、やあああっ!」
あかねの蹴りは定評がある。流星開脚蹴(りゅうせいかいきゃくげり)など、破壊力が強い蹴り技も持っている。
乱馬のように、自在に気を扱えなくても、肉体そのものを凶器と化して突っ込む激しさを持っている。それが、あかねの格闘スタイルだ。華奢な身体に見えて、鍛え上げられたバネのある筋肉は相手を粉砕するに余りある。
が、五寸釘はともかく、対峙している小太刀も名うての格闘新体操の選手だ。彼女もまた、美しく鍛え上げられた筋骨を持っている。一筋縄で倒せる相手では無い。
「天道あかね、覚悟っ!!」
飛び出してきたあかねは格好の標的だ。小太刀はリボンを手元で一度しごくと、高く振りかざした。このリボンで風を差し向け、その反動であかねを倒す。彼女は狡猾にあかねを狙った。
と、その刹那、吹きつけていた風が止まった。
吹いて来る筈の風が来ない。一瞬、小太刀に隙が出来た。
この魔空間を操り、波風を吹き起していたのは、五寸釘だった。その五寸釘が飛び出してきたあかねに気をとられて、波風を起こす手が一瞬怯んだのだ。五寸釘は格闘家では無い。それどころか、武道のたしなみ一つない素人…いや、運動神経は並み以下。むしろ、最低の部類に属する。
あかねの覚悟の攻撃に対し、身がすくんでしまったのも無理は無い。
吹き荒んでくる風が止まれば、小太刀の技の威力は半減する。いやそれどころか、彼女もまた風がやんだことに戸惑って動作が止まった。
千載一遇のチャンスだった。これを逃す手は無い。
「今だっ!!」
乱馬は岩影から、無我夢中で飛び出した。集めた気をほとばしらせた右手を前へ突き出した。狙うは五寸釘の傍にある水晶玉。
ドクンと水晶玉が揺れた。
と、乱馬の気の流れが一瞬変わった。
(な…何だ…こいつは…。)
何故だろう、どす黒い何かが水晶玉から飛び出して、己の身体の中へと入り込んで来る嫌な感覚を覚えたのだ。そいつは瞬く間に乱馬の全身を覆い尽くす。
だが、躊躇っている余裕は無い。この刹那を逃すと、こっちがやられる。乱馬は浸みこんで来る邪気を身にまとったまま、思い切り腕を前へと突き出した。
ゴオオッ!
乱馬の差し出した両手から放たれた真っ青な気砲の塊は、小太刀の右肩越しに寸分の狂いもなく目標物へと飛んだ。飛ぶほどに、周りに渦巻いていた邪気をも巻き込んで、威力を増して行く。
気の刃が空間を容赦なく切り裂いて行く。
「わあっ!!」
「きゃあっ!!」
五寸釘と小太刀の悲鳴と当時に辺りの空間が大きく歪んだ。
乱馬が放った気が増幅し、風船が割れる如く、水晶玉はバリンと音を発てて空で弾けた。
「くっ!」
乱馬は水晶玉の爆裂と共に、空へとはじき飛ばされたあかねへと身を乗り出した。このままではあかねが地面に叩きつけられる。
全身でダイブして受け止める。
胸元から弾け出た数珠が、ふわっと空に浮き上がった。
まるで湧き出した煙を自ら吸い上げに行くかの如く、数珠が唸り音を上げながら、空へと舞い上がる。
ドゴオオッ…。
乱馬があかねを抱えて地面に這いつくばると、同時に、眩い蒼い閃光が辺りを覆い尽くした。その閃光に中(あ)てられて、五寸釘と小太刀の身体が触れもしないのに大きくわなないて揺れた。
「ああああ…力が抜けて行く…。」
「ダメ…ダメですわああああ…。」
五寸釘と小太刀の身体から黒い煙が噴き出されて来る。そいつは、ノオオオオオとこの世の物とは思えない音を発て、もくもくと湧き立ちながら、空へ飛ばされた数珠へと吸い込まれて行く。
その間、息をするのも忘れるくらいの衝撃が、乱馬とあかねの頭上を通り越して行った。
それに巻き込まれまいと、必死であかねの身体を下に抱えて抑え込む。
ノオオオオ…
グオオオオ…
獣の断末魔のような叫びが最後に響き渡った。
チャリ…。
乱馬の目の前に数珠が落ちて来た。数珠は黒い煙をくすぶらせながら淡く光る。やがて光は数珠に飲み込まれるように消えて行った。白かった玉が二つ、真っ黒に変色を遂げていく。
「へへ…やったぜ…。」
乱馬は数珠を掴み取ってそう吐きつけた。
ゆっくりと身を起してみれば、辺りは洞窟の岩場へと戻っていた。嵐が吹きずさび、唸りを上げる野原。海鳴の音が遥かに響く。現実の風、そして雨であった。
視線を辺りに廻らせると、倒れこむ二つの肢体があった。この勝負の敗者の五寸釘と小太刀だった。
「終わったか…。」
ふうっと溜息を吐いて乱馬は己の腕の中を顧みた。
「あたしたちが…勝ったのね…。良かった…。」
力なくあかねが笑いかけてくる。
「大丈夫か?怪我はねえか?」
乱馬は自分の宝物へと問いかける。
「大丈夫。乱馬が守ってくれたから…平気よ…。」
勝気なあかねは乱馬の腕の中で動いた。そして自力で地面へ立ち上がろうとした。だが、乱馬は力強い腕でそれを急き止めた。そして柔らかく力を注いで腕へと抱きとめる。
「嘘つけっ!傷だらけじゃねーか…。」
「こんなの…かすり傷よ…。」
そう言いながら微笑んだ。さっきの爆裂に中てられたのか、それとも、乱馬の放った気弾の影響を受けたのか。ドサッと足元からあかねの力が抜けた。
「あかねっ!」
乱馬は必死であかねを抱きとめた。
「大丈夫…あたしは平気だから…。」
そう言いながら、あかねは腕の中から乱馬を仰ぎ見た。
「おめーがそう言うなら…大丈夫だな…。でも、もう何もしゃべるな…。黙って俺の腕に抱かれてろ…。」
「乱馬…。ありがと…。」
あかねは遥かにそう呟くと、フッと身体中の力が抜け落ちてゆくのを感じた。そして、そのまま乱馬の腕に意識ごと身体を沈めた。
呼吸に乱れは無い。目立った傷も無い。全身の気を使いきっただけだろう。
目を閉じたあかねから、穏やかな気が乱馬へと流れ始めた。
暖かな光の輪が二人を包んで行く。不思議と荒ぶっていた乱馬の気が穏やかになるのを感じた。「邪天慟哭破」を打った時に感じた、邪気の渦があかねによって浄化されている…そんな感覚をおぼえた。
(あれは何だったんだ…。)
あかねを抱きしめながら、乱馬はふと考え込んだ。「邪天慟哭破」を打った瞬間、流れ込んで来た邪気。
(ま…いい。考えるのは後だ…。)
乱馬はすっくとその場から立ち上がった。このままこの洞窟の中で過ごすのもどうかと思ったのだ。
全身はずぶ濡れだ。このままでは風邪をひくかもしれない。闘いで傷ついた身体を癒すのが最優先だ。そう思ったのだ。
「おい…親父。そこに居るんだろ。だったら、ちったあ…手伝いやがれっ!!」
と、背後に向かって叫んだ。
乱馬から少し離れたところに、パンダ化した玄馬が佇んでいた。
「ばふぉ…」『ちっ!ばれてたか!』
乱馬に呼ばれて渋々玄馬は重い腰をあげる。
乱馬はぐったりとしな垂れるあかねを腕に抱き上げてゆっくりと歩き始めた。
「帰るぜ…。」
そう言いながら玄馬へと声をかける。
いつから玄馬は乱馬の闘いぶりを見物していたのだろうか。しかも、助け舟を出す訳でなく、ひたすらに見ていたのだ。
「ばふぉ」『この人たちは置き去りか?』
玄馬は倒れている小太刀と五寸釘を指差しながら、看板を掲げた。
「ああ…。」
乱馬は吐き捨てる。
「ばっふぉ…。」『おまえ、冷たいな…。』
「闘いを高みの見物を決め込んでたおめーに言われる筋合いはねーよ…。それに、こいつらのことだ…。このまま放っておいても、大して支障はあるめーよ…。あかねを襲った罰だ…。転がしときゃいいんだよ…。」
「ぱふぉふぉ…。」『淡白な奴だな…。』
「だったら親父が運んで行くか?」
「ばふぉふぉふぉふぉふぉ。」『いや、面倒くさいからワシはパスる!』
「だったら文句言うなっ!」
闘いの後、乱馬はそのままベッドルームへと直行した。あかねを抱いたまま折り重なるようにベッドへと潜り込む。小太刀の痺れ薬の影響もあったのか、ベッドに身体を沈めると、もう起きあがるのも億劫(おっくう)だった。
胸に抱いたあかねも、疲れきっているのだろう。軽く寝息をたてていた。
「ちぇっ…身体が言う事をきかねえや…。」
闇に横たわりながら、ボソリと吐きだす。
「親父…悪いが、後はてめーに任せたぜ…。もう、限界だ…。」
と後ろに向かって声を投げた。
「たく…だらしがないのう…。」
雨に打たれてパンダに変身していた玄馬は、ポットの湯を浴びて、人間へと戻っていた。
「しゃーねーだろ…。こっちは小太刀の痺れ薬を浴びてんだ…。」
ムッとしながらそれに対する。
「その分だと、邪天慟哭破を打つことができたようじゃな…。」
玄馬は乱馬へと声をかけた。
「親父、てめーは闘いの一部始終を見てたんじゃねーのか?だったら、わざわざ聞かなくてもわかってるだろーが…。」
乱馬は横たえたまま、面倒くさげに玄馬を見た。
「まあな…。貴様が打った技は、邪気をも飲みこんで水晶玉を弾き飛ばしたようじゃな…。」
玄馬は柱を背に、腕組みしながら、乱馬へと対した。
「少なくとも俺は…家伝書に書いてあったセオリー通りに打ったつもりだぜ…。」
「あれが邪天慟哭破だと言うのなら、打てたと見なしてよかろうが…乱馬よ、天道君との闘いの中で、再び打つ自信はあるか?」
その玄馬の問いかけに、乱馬は暫し考え込んだ。
あの技を構えた刹那、流れ込んで来た邪気。それに一瞬、飲まれそうになったことを思い出したのだ。
「打てなきゃあかねを守り切れねえなら…俺は打つ。」
とそれだけを言い置くと、ゴロンと玄馬から背を向けた。
「ま、いずれにしても、もう少し、修行の余地はあるようじゃな…。バカ息子よ…。」
玄馬の眼鏡がきらりと光った。
「わかってるよ…。それくらいは…。あの技はもっと磨きをかけなきゃなんねー…。それは俺自身が一番わかってる事だ…クソ親父…。」
乱馬は壁を見詰めながら、背後の玄馬に向けて、言葉を放った。
「ならば、さっさと休んで疲れを取ることじゃな…。また、太陽が昇ったら、ワシが修行相手をしてやるわい…。あと一日しか猶予がないんじゃからな。」
「親父もとっとっと休めよ…。時間は限られてる。一分一秒も無駄にできねーからな…。じゃーな…俺は眠る…。」
そう言って、乱馬は会話を切った。
もう、これ以上、玄馬に喋りかけられても、返すつもりは無かった。
玄馬もそんな乱馬の心情を理解したのだろう。それ以上、言葉を紡がなかった。黙って乱馬を一瞥すると、柱から背中を外して、乱馬たちの部屋を出た。
外の嵐は、だんだんに収まってきているようだ。もう、雨音も止んでいた。
「なあ、天道君よ…。乱馬が邪天慟哭破を会得したよ…。君が描いたシナリオ通りに順調に事は運んでいるようだ…。」
玄馬は窓の外の闇を見詰めながら、そう吐き出した。玄馬が懸念するまでもなく、早雲との闘いは、文字通りの死闘になるだろう。
「邪天慟哭破…。これを乱馬が君へ向けて打ち放った時…本当の闘いが始まる…そうだったね…天道君。」
夜の闇は何も玄馬には応えない。
「乱馬とあかね君の絆は、ワシらが望んだ以上のものだよ…。天道君。あかね君には乱馬の闇を浄化する力があるようだ…。」
ふっと玄馬は微笑んだ。
「後は…乱馬がどこまで己の闇に対処できる力を身につけることができるかだ…。これからが本当の正念場となるぞ…乱馬よ…。」
玄馬はそう言いながら、闇へと言葉を投げた。
乱馬もあかねも、既に、つかの間の休眠へと落ちている頃だ。互いの身体をどちらからともなく引き寄せ、深い眠りの淵に身体を沈めていることだろう。二人、共に極上の休息の時を重ねる。
誰にも邪魔できぬ、まどろみ。あかねは乱馬の闇を浄化し、乱馬は浄化させた気を再びあかねへと廻らせる。このことが何を意味するのか…彼らはまだ理解していないだろう。
「今は…ただ眠れ…。若獅子たちよ…。もうすぐ時が満ちる…。」
玄馬も瞳を閉じた。
乱馬とあかねは、そのまま眠り続けた。
互いに寄り添ったまま、気を緩やかに交配させながら夜の闇の中をまどろむ。安堵の吐息がどちらの口元から漏れる。
柔らかなあかねの身体。逞しい乱馬の身体。
共に疲れ切っているのに、互いの身体に触れていると、不思議と意識の深層部から力が湧き上がってくるような感触に捕らわれていく。身体の深き場所に灯る力の種火が、ポウッと大きく輝き始める。
あかねの身体は柔和な精気に満ち溢れている。
乱馬の身体は燦々と輝く精気に溢れている。
互いの気が交錯していく。
あかねの気は、天空からふりそそぐ太陽の光に似た緋色に輝く。対する乱馬の気は、透き通る海の蒼さ帯びて輝き始める。そしてそれはやがて、互いを包んで共に廻るように幾重にも輝き始める。
互いの夢の中で、吐きだされる言葉。
「透明な輝きに満ちているのね…乱馬の気は…。あたしを包んで守ってくれる…。」
「あかねの気…。あったけえ…。俺の力が湧きあがる程に癒してくれる…。」
夢の中で、共に驚嘆の声をあげた…。
俄かには信じられないが、気がお互いを癒しながら交配している。
確かに感じるあかねの気。そして乱馬の気。
触れ合った部分から全身へと流れて共鳴する。
「前にどこかで聞いたことがある…。武道家は己の本当の半身に巡り合ったとき、身体の中の気は互いを癒し回復させるために交配することがあるという…ひょっとしてこれは…。」
あかねはこくんと頷いた。
「難しいことはわからないけれど…あたしも感じてる…。あたしの気が乱馬に流れて行って…それから、乱馬の気があたしに流れ込んで来ていることを。」
確かに思い当たる事は多々あった。
あかねを胸に抱いているとき、それは何とも言えないほど穏和で暖かい思いが身体中に溢れる。ここは己が帰る場所だと確信できる。懐かしく愛しく。あかねを抱いて目覚めた後は不思議なくらい身体が軽かった。
だからといって彼女の生気を吸い上げている訳ではなさそうだった。
「あかねは、やっぱり、俺たちは…一つの塊なのかもしれなえな…。」
乱馬はそう呟くと柔らかく腕に力を注いであかねを己に引き寄せた。
気は微かな光を帯びて、交配を繰り返す。
お互いの傷ついた肉体と心が癒されてゆくのを感じながら、二人は互いの気の中で眠りにつく。
静かで暖かい気の海に漂いながら。
はるか遠くに聞こえる海鳴が喩え二人を翻弄しようと襲い掛かっても、二人一緒なら怖くはない。
悩みも恐れもない暖かな眠りに落ちる。
「乱馬…。この先、何が起ころうとあたしは、決して恐れはしない。もう、迷わない…。」
「あかね…おまえは俺の求めていた半身だ…。やっとわかった。決してこの半身は誰にも渡さねえ…。それがどんな邪悪な魔物でも…。」
そして、目覚めたとき、また新たな闘い始がまる。
互いの運命を賭した聖戦に臨むための修行に明け暮れる。
確かな明日を勝ち取るために。
三、
翌朝は、穏やかに晴れ渡っていた。
嵐は去り青空がこうこうと広がっていた。雲ひとつない空から太陽が燦々と降り注ぐ。
あれだけ夜中に暴れたのに、ダメージ一つ残っていない身体。頭も冴え渡っていた。
互いの吐息に目が覚める。ふっと微笑み合い、蒲団から抜け出る。ここのところ、そういう光景が日課になっていた。どちらからともなく、合わせられる唇は、おはようの挨拶代わりだ。
柔らかな感触で、互いの目覚めを確かめあう。
今朝は特別の朝だった。
修行最終日。明日はいよいよ決闘の時だ。
乱馬の元へと早雲から出向いてくる約束になっていた。
「で?俺たちは東京へ帰らなくって良かったんだな?」
乱馬は半信半疑の瞳を玄馬へと手向けた。
ここは、乱馬たちが修行をした島。結局、東京へ戻らずに、そのまま、相模湾の孤島に佇んでいる。
魔龍に憑依され、ボートを漕ぎだしてやってきた、九能小太刀と五寸釘光の姿は既にない。
夜が明けるとすぐに、二人を連れ戻しに佐助がこの島まで乗り込んで来たのだ。当然、小太刀も五寸釘も東京へ帰ることを拒むだろうから、目が醒めぬうちにと、佐助が船へと積み込んだ。二人とも、昨夜の戦いで肝を抜かれたようで、身じろぎひとつせずに眠り…いや気絶し続けていた。
とどのつまり、強制送還である。
「途中で目が覚められても面倒でござるから…。」
佐助は二人を荒縄で縛り上げた。
「ま、五寸釘はともかく、小太刀は拘束しておいた方が無難だな…。」
乱馬も苦笑いする。
「そうよね…。もし途中で目が覚めたら、佐助さんじゃ持て余すかもね…。」
「大丈夫でごじゃるよ。その時は、この粉薬でまた眠っていただければ良いだけですから。あっはっはっはっはー。」
佐助は明るく笑った。
こうして、お邪魔虫たちは孤島から追い払われ、清々しい朝を迎えたと言う訳だ。
「おじさんを迎え撃つのは天道家じゃなくって良かったのかよ…親父。」
去りゆく船影を見送りながら、乱馬は玄馬へと声をかけた。
乱馬は当然、佐助たちと共に、東京の天道道場へ帰るものだと思っていたのだが、玄馬がそれを制して、ここへ留めたのである。なびきたちは帰して、己は乱馬とあかね共々ここに留まった。
早雲が乱馬の元へ出向くということは、乱馬が居るこの場所が決闘の地になるということである。
「東京の平和な住宅地で血なまぐさい決闘を、おぬし、やるつもりなのか?」
玄馬は逆に乱馬へと問い質した。
「いや…別にそう言う訳じゃねーが…。」
「良く考えろっ!このバカ息子っ!天道家で決闘をするなどとは、近所迷惑も甚だしいぞ。それに、天道家をふち壊す気か?おまえは…。」
ぽかっと玄馬に一つ、拳骨を食らわせられた。
「てっ!痛えじゃねーか、このクソ親父ッ!」
乱馬が殴られたところへ手を当てながら、抗議に出る。
「この地ならば、誰にも迷惑がかからんじゃろ?それに、おまえも思い切り闘えるのではあるまいか?ええ?」
「まあ…そりゃあそうだけど…。おじさんがここへ辿りつけるのかよう…。」
「その辺りは大丈夫じゃろうて…。相手は妖(あやかし)ぞ。」
「で?どうやって、ここへ来るってんだ?」
「知らんっ!」
「でええええっ!何じゃそりゃ…。」
「ワシがそんなもの知っとるわけ、なかろーが。バカ息子っ!」
ポカッと玄馬はまた一つ、乱馬目掛けて拳骨を打つ。
「いい加減にしやがれっ!痛いじゃねーか、このバカ親父っ!」
今度は乱馬が玄馬へと襲いかかる。
「ちょっと、やめなさいよ。二人とも。大人げないっ!」
慌ててあかねが仲裁に入る。が。二人の取っ組みあいはとどまるところを知らなかった。
「もう…二人とも、緊張感が無いんだからーっ!」
ふうっとあかねは溜息と共に、微笑みをこぼした。が、すぐに真顔に戻った。
傍から見ていれば、穏やかな父子の光景だが、こんなのん気な光景も、もうすぐ終わりを告げるだろう。明日はあかねの父、早雲との対峙の時を迎える。実の父と許婚の本気の戦いである。しかも、背後には得体の知れない「化け物」が控えている。
どちらかが傷つき、倒れるまで、その死闘は繰り広げられるだろう。
宿命の対決。
乱馬と玄馬は、船が見えなくなると、また、二人、浜辺に出て、修行の仕上げに入ったようだ。
昨夜、小太刀と五寸釘に襲われた時、辛くも打ち込めた「邪天慟哭破」。その技の完成度を上げるための仕上げの修行が、早乙女父子で行われているのである。
姿が見えない場所に居るのに、彼らの気の高まりは、あかねにも手にとるように分かった。
少し距離がある海岸からは、さっきから爆裂音が、ドンドンと響き渡っている。恐らく、乱馬と玄馬が技を打ちあっている音だろう。それは、間髪入れず、連続的に響いて来る。
気と気のせめぎ合い。
「どうしたっ!もっと集中せんかっ!」
「うるせー、わかってらー、んなこと!」
時折、父子の喧嘩のような怒声が響き渡って来る。この父子の修行に、自分(あかね)の身の置き場は無い。改めて、そう思った。
あの激しい打ちあいの中に、自分は邪魔者になるだけだと遠巻きに理解できた。
もう少し若いころのあかねなら、己もあの輪の中に加わろうとしただろうが、今の力量では邪魔にこそなれ、何の足しにもならないだろう。
(おじさまも、それなり修行を積んでいらしたのね…。)
少し意外な気もした。
玄馬と言えば、どうしても、その飄々とした立ち居振る舞いから、いい加減な修行しかしていないような気もするのだが、どうしてどうして。息子が修行の旅に出ている間に、鍛錬を積みあげていた様子だ。
(あたしじゃあ、あそこまで乱馬と対峙出来ないものね…。)
あかねが相手では、乱馬は二の脚を踏んでしまうだろう。激しい修行は出来なかったに違いない。
玄馬に付き合って貰ってよかったと思った。
陽が傾き始めると、二人は修行を早めに切り上げた。
「今日は早めにあがるの?」
夕食を作る手を止めて、あかねが修行から上がって来た二人に声をかけた。いつもなら、日がとっぷりと暮れてしまってからも、身体を動かし続けている二人が、早くにあがってしまったのが不思議でならなかったからだ。
「決闘は明日じゃからな…。」
「ああ、親父の言うとおり、今日は早めにあがって、さっさと休んで身体をベストな状態にしとかねーとな…。」
乱馬がボソッと吐き出した。
「あ…そっか…。」
あかねはハッとしてお玉を持つ手を止める。
何も、ここへ、通常の修行をしに来たのではない。究極の目的は、あかねの父・早雲に巣食った化け物を退治することにあるのだ。
「たーく…これだからなあ…おめーは…。ボロボロになるまで修行して明日身体が動かなければ意味がねーんだよっ。素人じゃあるめーし…。ちったあ考えろよな。」
と軽くあしらう。
「悪かったわねっ!ド素人みたいで…。」
ムスッとあかねが口を尖らせた。
結婚を決めたとて、乱馬は乱馬だ。自信過剰、かつ、ナルシスト。そして口の悪さは変わってはいない。ただ、己に向けて来る優しさを隠すことが無くなったのが、唯一、以前と違うところであった。
いや、乱馬だけではなく、あかねの勝気な性質も、なりを潜めた訳ではない。感情に火が灯ると、激しく燃え上がる性質は健在だ。
売り言葉に買い言葉。その流れは、何ら三年前と変わらないのであった。
「こらこら、喧嘩はいかんよ…。喧嘩は。」
思わす苦笑いを浮かべながら、玄馬が二人の間に入った。
「別に喧嘩してるわけじゃねーよ。」
ブスッと乱馬が吐きだした。
「そうです、おじさま、ただの言い合いです。」
「だから、それが喧嘩だと言うんじゃよ…乱馬もあかね君も、相変わらずじゃのう…。まあ、そのくらいの喧嘩はおまえたちらしいわい…。」
そう言って、玄馬は笑いながら建物へと入る。
あかねの作った夕飯を平らげると、玄馬も乱馬も早めに寝床へと入った。
まだ、宵の口である。夕食後の家族団らんの時間だろう。が、ゆうべは小太刀と五寸釘のせいで、良い睡眠が取れたとはお世辞にも言えない。
乱馬も玄馬も、それからあかねも、三人三様、疲れがピークへと達していた。
いや、或いは、玄馬にはその獣のカンで、来るべき異変を察知していたのかもしれない。
草木も眠りに就く夜半過ぎのことだった。
天上から照らしつける月は、間もなく満月を迎える。満月とそう代わりの無い丸い月だった。
いや、月齢など、最早意味を成さなかったのかもしれない。
どこからともなく現れた雲が、瞬く間に、天上の星や月の姿を隠してしまった。
辺りは闇に包まれる。海の波音だけが、響いて来る。
と、乱馬はハッと目が覚めた。
異様な殺気が、辺りを漂い始めたのに気がついたのだ。
ゆっくりと起き上がって、道着へと着替える。
「どうしたの?こんな夜中に…。」
あかねがあくびをしながら、隣で起きあがった乱馬へと声をかけた。
携帯電話の電源を入れると、時刻は午前零時を少し回ったところだった。
「まだ、真夜中じゃないの…。」
「おめー、感じねえか?」
と乱馬があかねへと声をかける。
「感じるって?何を?」
キョトンとあかねが毛布を肌蹴て、そのままベッドへと座ると、トントンとドアをノックする音が聞こえた。
「乱馬よ…起きているか?」
玄馬の声であった。
「ああ…起きてるぜ。」
そう言いながら玄馬へと答えを返す。
「もしかして、親父も感じたのか?」
と玄馬へと言葉を投げた。
「ああ…。感じないでか…。この異様なまでの妖気。」
玄馬は声を潜めた。
「妖気…ですって?」
あかねが怖々、乱馬を顧みた。
「ああ…。妖気だ。それもタダならぬほどの邪悪な気だ。見ろ…こいつを…。」
そう言いながら、乱馬は早雲から預かった数珠をあかねへと見せた。
そいつは、自ら鈍い光を放っていた。
「こ…これは…。」
あかねがハッとして乱馬を見上げると、それに答えるように乱馬が頷いた。
「どうやら、奴が来ちまったみてーだな…。俺はてっきり、夜が明けて再び夕闇が訪れる頃だと思っていたが…。予定より、丸一日近く早い、ご登場のようだ…。」
そう言いながら、数珠をグッと握りしめた。
「乱馬…。」
不安げに見詰めて来るあかねへと、声をかける。
「大丈夫だ…。俺は…負けねえ…。この先は、何があろうと、魔龍を倒す。」
そう言いながら、すっくと立った。
「準備は念入りにしておけよ…。乱馬よ…。」
玄馬が戸口で声をかけて来た。
「準備だと?」
問い返す乱馬に、玄馬は頷いた。
「相手は狡猾な魔龍じゃ。どんな手を使っておまえを倒しに来るかわからん…。こうやって、裏をかいて早くに乗り込んできたことからも、奴め…何かを企んでおるに違いあるまい。」
そう言いながら息子へと声をかける。
玄馬の言も頷ける。
「だったとして…何か対処する方法でもあるって言うのか?」
「まあな…。」
ニッと玄馬が笑った。
「親父?」
その玄馬らしからぬニヒルな笑いに、乱馬は疑問の表情を浮かべた。
「あかね君はワシに任せておけ…。こうなることも予感して、先に防御の布陣も書いておるわ…。」
と玄馬はドアの外に佇みながら声をかけて来る。
「防御の布陣だあ?」
「ああ…。天道君とおまえが初めて魔龍と闘った晩も、その結界陣の中に最初におったんじゃよ。屁のツッパリにしかならぬかもしれぬが…無いよりはマシじゃろう?」
「ってことは、親父も戦いを見物するのか?」
乱馬は玄馬を顧みた。
「ああ…。これでも、おまえの父親だからな。それに、あかね君は早乙女家の大切な嫁御(よめご)じゃ。関係ないとは言わせないぞ。
何、結界陣はちゃんとしたものじゃ。天海僧都直伝のものじゃよ、天道君から予め教わってある。」
「でも、あかねの親父は今回の敵だぜ…。その仇敵に教わった結界陣なんだろ?」
不安げに乱馬が問いかける。
「それはこの前の戦いの結果、仇敵になったにすぎんじゃろが…。それなら、結界も張らずに見物しろとでも、貴様は言いたいのか?」
その玄馬の問いかけを受けて、暫く無言で乱馬は考え込んだ。
そして、重い口を開いた。
「ま…いいだろう…。たとえ、気休み程度にしかなんねーにしても、一応はちゃんとした結界陣みてーだからな…。」
そして、後ろを振り返りながら、あかねへと言葉をかけた。
「あかね…。おめーは親父と一緒に結界陣の中で戦いの行方を見守ってろっ!」
と吐きだした。
「う…うん。わかったわ…。」
あかねは頷いた。この場合、下手に戦いの邪魔になることだけは避けなければならない。辛い戦いでも、見届けなければならないのなら、結界でも何でも、乱馬の父、玄馬と共に観戦するのが一番良策だろう。
「なら、道着に着替えろ。おめーが着替えたら、外へ行く…。」
そう言いながら、乱馬は部屋の扉を閉めた。まだ、結婚前の身の上だ。あかねの着替えを覗くのは躊躇われた。
乱馬が出ていってしまうと、枕元に畳んで置いてあった道着へとあかねも袖を通した。
道着は武道家の戦闘服、かつ、正装だ。黒帯をキュッと締めると、一緒に気合いも入れる。
「戦いが始まるわ…。」
自分が戦うのではないが、父親と許婚の果たし合いだ。正直、身も心も引き裂かれそうな気がする。
「しっかりしなさい…。あかね。あたしは天道家の跡目である前に、早乙女乱馬の許婚でもあるんだから…。乱馬がきっと、何とかしてくれるわ…。信じないでどうするのよ…。」
そう自分へと言い聞かせるように、気合いを入れて行く。
避けられぬ戦いなら、腹をくくってしかとその行方を見届けるまでだ。
「準備できたか?」
ドアの外から乱馬が声をかけてきた。
「ええ、できたわ。」
あかねは戸惑いを打ち消すように言った。そして、ドアノブを回し、部屋から出た。
乱馬の顔は戦いに赴く青年のものへと変わっていた。
久しく見なかった精悍な顔つき。今までの妖たちとの闘いとは少し様子が違う。
あかねの父、早雲と闘うのだ。違って当り前なのであろうが、悲壮なまでの決意に満ちた顔つきであった。
乱馬の向こう側に玄馬の顔も見える。彼もまた、いつものお茶らけたパンダ親父とは違って、真剣そのものだった。
「あかねは、任せたぜ…。親父。」
乱馬はそう吐き出した。
「ああ…。ワシが守ってやる。大船に乗ったつもりで、おまえも思い切り天道君と遣り合ってこい。」
ドンと胸板を叩いた玄馬。
「けっ!難破船になるなよ。」
「わかっとるわい。」
軽口は叩きあっているものの、否が応にも緊張感が高まって行く。あかねの口からは言葉が出なかった。
何故だろう。悪い予感ばかりが走るのだ。
(ダメよあかね…。あたしがしっかりしないと…。)
震える手を握りしめて、外へと目を転じる。
外は風が吹き始めていた。
ドアを開けて外へ出ると、フンと生臭い気配が漂っている。魚の腐りかけたような臭気がどこからともなく漂ってくる。
と、真正面に早雲の姿が見えた。
海の上を浮かんでいる。彼の背後には蒼白い光が輝いて見えた。自ら光っているような光背だ。
彼の背後には、黒い霧が湧き立っているのが見えた。どす黒い妖気を孕んだ霧だった。
遥か上には、まん丸い満月が、澄んだ光を放って見えた。
「乱馬…。」
不安げに声をかけたあかねに、乱馬は一つ軽く頷いた。
「俺は負けねえ…。絶対に…。」
そう言いながら、早雲の前に歩み始めた。
つづく
ここで、長らく手が止まる…。迷いながらの創作であった(ため息
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