◆蒼い月と紅い太陽

第十二話 海鳴

一、

 翌日から乱馬は、父・玄馬とあかねと共に、激しい修行に明け暮れた。
 と同時に、休憩時間には、「天道家家伝」を貪るように読み解く。

 修行時間がもうすぐ終わる。そうだ。約束の満月は明後日だ。明晩には否が応でも早雲との戦いに赴かなければならない。
 決戦を間近に控えた昼下がり。

「くそ…。まだイメージができねえな…。」
 乱馬は空行く灰色の雲を見上げて呟いた。
 いつの間にか、青空は視界から消えていた。恐らく、雨が近いのだろう。鼻につく湿気交じりの磯の空気が、そう予感させる。既に太陽は西の端へと沈みかけているのだろう。そろそろ夕闇が近い。
 乱馬の手には「天道家家伝」という巻き物が広げられている。
 無論、古文がさらさら読める訳ではない。予め、電子辞書を持って来たあかねに手伝ってもらいながら読み解いていく。墨字で書いてあるため、達筆過ぎて読めない字は想像力をたくましくし、イメージで読み進める。そんなにかけられる時間があるわけではないし、修行もしなければならないから、ある程度は仕方が無い。役立つかもしれないと、玄馬は「字体辞書」を持って来てくれていた。「楷書」「行書」「草書」「隷書」「仮名字体」が集められている、書道家が持つような特殊な辞書だ。
 乱馬が玄馬と組み合っている間は、あかねが電子辞書と字体辞書を駆使して、文字を拾い現代語訳を作って行く。その合間に家事もこなさなければならず、あかねもゆったりとはしていられなかった。
 そして、休憩時間になると、乱馬と二人、顔を突き合わせて直訳したものの検討に入るのだ。
 その家伝には、魔龍のことには一切触れてはいなかった。が、かわりに、様々な武道技がしたためられていた。
 その中で、乱馬の目を引いたもの。それが「邪天慟哭破」という技であった。

「邪天慟哭破(じゃてんどうこくは)。天道家伝来の禁断技か。」
 考え込むように空を見上げた。
 乱馬の傍らに、あかねが来て、ちょこんと腰をおろした。二人、流れる雲を眺める。
「己の闘気を際限まで高めて放つ危険な技か…。なかなかイメージできねえな…。」
「邪天慟哭破…。危険な技みたいね…。できれば、使って欲しくないかも…。」
 心細げにあかねの顔が揺れる。
「でも…文脈からすると、この技が魔龍を倒す大技の一つだってことだけは想像がつくぜ。」
「かもしれないけれど…。この先の記述がちょっと…。」
 とあかねは文面を指差す。
「気砲系暗黒技故に、禁じ手とする…って書いてあるのが気にかかるわ…。」
 天道家の子女という血のせいなのか、あかねにはどうしても乱馬にそのような技を体得させる気にはならないのだ。嫌な予感が過ぎるのである。「邪」という文字がつくところからして、打ち込む気は英気や精気では無く、邪気や妖気の類のような気がするのだ。そんな陰湿な気を乱馬が扱えるかどうか、甚だ疑問であったし、喩え出来たとしても、撃って欲しくは無い。

 だが、乱馬はあかねの心配など、お構いなしだ。
 相手が魔龍である以上、簡単には倒せまい。あかねを守るためなら、多少は無理をしてでも、究極技を身につけたかった。
 玄馬もそんな乱馬(息子)の気持は痛いほどわかるようで、激しい修行の相手を続ける。

「どうした?もっと撃って来んかっ!」
「まだまだ、もっとじゃっ!怯むなっ!」
 と乱馬を煽り続ける。
 己の気や体力を極限まで使い、乱馬はうねり来る波と砂塵をも相手に厳しい修行を続けた。玄馬は波打ち際にくると、パンダに身を転じるが、それはそれで、獣の勢いで乱馬へとぶつかり続ける。
 疲れたら横になり、回復すると、また立ち上がる。ただ、赴くままにそれを繰り返すのである。
 あかねは時に近くで一緒に気合を入れ、時に食事の支度をし、家伝の続きを訳すのだ。

 そして、夜が更けると、二人一つの寝床に入り、つかの間の夢をまどろむ。彼の隣でその腕に抱かれながら安らぎを与える。
 玄馬も眠るときだけは、二人の傍から少し離れる。壁一つ隔てた空間で別に眠りを貪るのだ。流石に、許婚たちの語らいの邪魔立てはしないのだ。夕飯がすむと、さっさと自室に決め込んだ部屋へ転がり込み、横になる。

「こん夜半には雨になるかもしれぬな…。」
 その日は寝床へ入る前、玄馬がポソッと吐きだした。
「え?そうなんですか?」
「ああ…朧月が照っている…。それに、ワシの獣のカンがそう言うでな…。」
「獣のカン…ですか…。」
「おうさ…外れることはまずないぞ!」
 と得意げに玄馬は言った。
 玄馬は乱馬と違い、呪泉洞の闘い以降、呪泉郷へは足を踏み入れていない。従って、まだ、パンダに変身する体質は現役だった。
「確かに、さっき聞いたイヤホンラジオではそんなこと言ってたわ。これから関東沿岸部へ向かっ低気圧が通過するって…。」
「雨もまた、修行には絶好な天候なんじゃよ…。風と雨の中で技を発動させるのは、思ったよりも集中力が必要じゃからな…。最終日が雨になるのもこちらには好都合かもしれぬよ…。」
「そんなものですか?」
「明日は泣いても笑っても最終日じゃ…。もっと激しく修行するぞ。風と闇と雨とが加わって、「邪天慟哭破」を修得する絶好のチャンスになるじゃろうからな…。そして、決戦へと雪崩込む…。」
 そんな言葉を残して、玄馬は自分で定めた寝床へと立ち去って行った。

 固いベッドの中。時の流れがそこだけ隔絶した空間となる。

「あかね…おまえは不思議な存在だな…。」
 あかねを懐へ深く抱きながら乱馬が言った。
「なあに?急に…。」
「こうやって身体を合わせているだけで、疲れた心も肉体(からだ)も癒される。ヘトヘトで力を使いきっていても、また、新しい力が身体の底から沸き立ってくる…。」
「そう?あたしは別段、特別なことはしてないけど…。」
「おまえの中の気が俺の中に満ちてくるというか…。こうやって傍に居てくれるだけで和らぐ…。」
 そう言いながら落ちてゆく眠りの中。
 実際、あかねを抱いて眠る乱馬の表情は、恩愛に満ちていた。闘いに臨むときの厳しさは皆無だった。
 身体を極限にまで追いやった後、疲れ切った肉体と精神を休められる至福の場所。それはあかねの傍だった。
「ホントに、子供みたいなんだから…。」
 甘えるように身体を寄せて眠る片割れに、あかねは慈愛に満ちた目を向けて微笑んだ。
 男と女の情愛はまだ交わしていない。信じられぬくらいに純情で奥手な乱馬。
 カッコつけ過ぎよ…と言いたかったが、今はこのままこれ以上を求めたいという気持ちはあかね自身の中にも無かった。
 今の乱馬は、猫化したときと合い通じるものがある。
 あかねはそんなことを思って柔らかい溜息を吐いた。
 高校時代、まだ、お互いの気持ちに素直になれなかった頃。猫化した時だけ、堰を切ったように思い切り甘えて膝の上に乗って来た乱馬。あの頃は強がりばかりで、素直な気持ちを見せようとしない頑なさを持っていた乱馬。だが、理性が吹き飛んで、猫化しているときだけ、思い切りあかねに甘えてきた。
 思い起せば「あかねのファーストキッス」は猫化した彼から貰ったものだ。

「さて、目覚めた時のためにまた食事支度しておかなきゃ。」

 とにかく乱馬は良く食べる。身体が欲しているのだろう。修行の後と先に、身体の中に食物を満たす。馬車馬のような食べっぷりだった。
 あかねは眠った乱馬から身を離すとゆっくりと起き上がった。乱馬はよほど疲れているのだろう。微動だにしないで眠り続けている。
 バラバラと屋根に雨が当たり始めた。遂に、雨が降り出してしまったようだ。
 おもむろに当てたイヤホンから、雨風に気をつけるように促すラジオ音声が響いてくる。
「明日は一日中雨かしらね…。」
 雨音に耳を澄ませながら、あかねはふっと吐き出す。
 降り出した雨は、音を荒げ始めた。みるみる音を響かせ屋根や窓を打ち始めた。
 風も唸り声を上げて吹き始める。
 その音を諸共せず、乱馬は惰眠を貪り続ける。疲れ切った身体には、嵐の音など、取るに足りない小さな音なのだろう。身じろぎ一つせず、寝息を発てて眠り続ける。
 この嵐がピークになる頃、彼はまた目覚めて、修行に励むだろう。

 疲れた身体は、返って眠気をはじき返すことがある。その夜のあかねがまさにそうだった。
 傍らで健やかな寝息を発てる乱馬とは相反して、目が冴え渡っていた。バラバラと打ちつけて来る雨音の激しさに、つい、眠る感覚まで麻痺させられてしまったようだ。
 眠らない訳にはいかないので、灯りを消すと、乱馬の傍に横たわる。が、眠りたいと思う意志から反して、神経は更に尖がっていくのだ。悪循環であった。
 それでも、寝ようと目を閉じる。
 耳元では激しい雨音。時折、小降りになるのか、暫し音が静まり返ることもある。
 が、継続的に雨は降り続いているようだ。波の音も加わって、不気味な饗宴が繰り広げられているようだった。
 どのくらい、身体を横たえていたのだろうか。乱馬が眠ってから小一時間、いや、もっと経つのかもしれない。案外、浅い眠りに身を投じていたのかもしれない。
 夜中、再び、あかねの瞳が見開いた。
「おトイレ、行っておこうかな…。」
 乱馬を起こさないように、あかねはそっと蒲団を抜け出した。

 トイレは別棟にある。屋根があるので、傘はささずとも良いが、それでも、一度、炊事場の脇のドアを開いて、外に出なければならない。
 ドアを開くと、暗闇が開けていた。炊事場の蛍光灯を灯しているとはいえ、足元は暗い。雨音が激しく降り注いでいる。乱馬を起こすのも気が引けたので、一人で出てきた。
 当然、洋式では無く、和式。それも、今では珍しくなったボットン便所である。
 用を足し、トイレから出ると、ふうっと一つ溜息を吐きだす。そして、暗闇が広がる空を見上げた。無論、星一つ光って居ない。分厚い雲の上から、雨が激しく振り続けている。風も出てきたようで、灯台を囲む木々の木立ちが、雨に打たれてザザザと音をたてながら、不気味に揺れていた。
 雨のせいで視界も悪くなっているのだろう。東京湾を行き交う船の灯りも見えなかった。
 と、遥か向こうに何かが光るのをあかねは見つけた。
 懐中電灯のような仄かな光。ちかちかと自分を呼んでいるような妖しい赤いランプのような輝きだった。
「何かしら…。往来する船の灯りじゃないわね…。」
 あかねは勝手口の脇に立てかけてあった傘を手に取った。トイレと真逆の方は、海岸の岩場に続いていた。コンクリの建物沿いに歩けば、石段がある。その石段を降りれば、少しばかり砂浜がある海岸があった。乱馬と玄馬が激しい修行をこなす場所の一つであった。
 光はその海岸付近で点滅しているようだった。
 まるで、あかねにおいでおいでと呼んでいるかの如く、淡く光り続けている。
「何か嵐に変なものでも打ち上げられたのかしら…。」
 恐怖よりも好奇心が先に立っていた。
 いや、そこへ行かねばならない…というような変な義務感が湧き出していた。尋常ならぬ光なのに、何故か惹かれたのだ。

 砂浜に降りてみて、驚いた。そこに、ボートの影を見つけたからだ。それも、ポンポン船では無く、手漕ぎの小舟だ。遊園地や溜池に浮かんでいるような、ボートだった。嵐の中を渡って来るような船ではない。



 と、そのボートの脇に、人影が浮かんだ。
「天道あかね。やはりここに居ましたね…。」
 そいつはあかねを認めると、そんな声をかけてきた。
 その声には、確かに聞き覚えがあった。
「誰?そこに居るのは…。」
「あら、よもやわたくしを忘れたとは言わせませんですわよ、天道あかね…。」

 闇に浮かぶ人影は、黒いマントをひらつかせて微笑んでいた。
 そこに立っていたのは、九能小太刀だった。

「小太刀っ!」
 あかねも即座に彼女と認めて、身構えた。
「あんた、嵐の晩にボートを漕ぎだして来たの?」
 意外な人物の登場にあかねは驚きを隠せなかった。しかも、嵐の中を、ここまで渡って来たと言う事だ。

「ふん、こんな嵐など、わたくしにかかれば造作も無きことですわ…。」
「何しに渡って来たのよっ!」
「そんなの…決まってますわ。あなたを倒し、乱馬さまを私の手に取り戻すために来たのですわっ。」
 不敵な笑みを浮かべながら小太刀はザッと砂浜へと降り立った。
「何言ってるのっ!取り戻すも何も、乱馬はあたしの許婚よっ!」
 あかねはきっと彼女を見返した。
「お黙りなさいっ!乱馬様はわたくしのもの。覚悟なさいませっ!天道あかねっ!」
 そう言い終ると、小太刀はマントをばっと捲り上げた。マントの下には、お決まりの格闘新体操のレオタード。
 小太刀が右手に持ったリボンを翻すと、風を背に受けて、黒バラが舞い上がった。

「勝負ですって?」
 あかねも同時に飛び上がった。
「ふふ…。正々堂々、あなたを倒して、乱馬様をいただきますわっ!」
「冗談じゃないわっ!そんな訳のわかんないことさせるもんですかっ!」

 九能小太刀は、理屈が通る相手では無い。そんなことは百も承知のあかねだった。
 彼女は恐らく、本気なのだろう。

 舞い上がる黒バラの花びらの中で、二人の女が火花を散らせた。
「えいっ!とうっ!とりゃっー!」
 小太刀は飛び道具を持ち出した。ひらひらと舞う鋼鉄のリボン。
 それから、まきびしや手裏剣など。
「小道具を使うなんて卑怯よっ!勝負するなら、飛び道具無しで来なさいよっ!」
 飛んでくる武器をすんででかわしながらあかねが叫ぶ。
「正々堂々、武器を使ってしあげているのですわっ!おほほほほ…。」
 小太刀は次々と獲物をあかね目掛けて打ちつけて行く。
 どこにそんなものを隠し持っているのかと思うほど、攻撃は激しさを増す。

「だあーっ!!」
 それを一つ一つ確実に仕留めるあかねもまた必死だった。飛んできたバトンを一つ、おもむろに掴み取り、持ちかえると、果敢にも小太刀へと立ち向かって行った。
 あかねとて、乱馬と離れていた三年間、全く何もしていなかった訳ではない。無差別格闘天道流の跡目として、それなり修行は続けていた。故に、身体は良く動いていた。
 風が音を切って耳元を流れてゆく。手にとった鋼鉄のバトンで、小太刀が投げてくる飛び道具を、一つ一つ、丁寧に打ち返して行く。
 カランと最後の凶器が地面に舞った。
「どうやら、品切れしたみたいね…。」
 流れる汗を拭いながらあかねはにっと小太刀を見上げた。

「小ざかしい…道具は、まだまだありましてよ…。それ、風塵の舞っ!!」
 そう言うと小太刀は隠し持っていた小瓶の蓋を開けて、毒粉を撒いた。
「痺れ薬ねっ!そんな手には引っかからないわっ!あんたの技なんてお見通しよっ!!」
 目の前を通り抜ける粉じん。それをさっと避けた。
 勢いよく飛んで、小太刀から遠ざかった。彼女が繰り出す毒薬にあてられないように、小太刀の姑息な攻撃を避けたつもりだった。
 と、あかねに向かって、光る玉が飛んできた。着地したあかねの一瞬の隙を狙って、小太刀が連続して繰り出してきた瑠璃色(るりいろ)の玉。野球ボールくらいの玉だった。
 その玉は、勢い良くあかねの身体にぶつかると、プッシュっと音をたてて弾けた。
 弾けた瞬間、ぶわっと中から何かが飛び出して来た。
「あっ!」
 良く見ると糸玉だった。そいつは、まるで意志を持つかのように、あかねの肢体目掛けて襲いかかる。

「かかりましたわねっ!」
 小太刀は楽しそうに動きを止めて、あかねの方へと視線を流して来た。

 あかねの身体に、みるみる銀の糸が絡みついて行く。数秒もしないうちに、あかねの動きを封じ込めていた。
「何っ!!これ…。勝手に絡みついて来るわっ!」
 切り離そうともがいたが、糸はますます絡みつくばかりで、逃れられなかった。

「これは、龍神様から頂いた蜘蛛の糸ですわ。」

「龍神様…ですって…?」
 あかねは締めつけられながら、小太刀を睨みあげた。

「そうですわ。わたくしの恋を応援して下さる、ありがたい神様ですわ。ほっほっほっほ…。」
 そう言って高笑いする小太刀を見返して、あかねはハッとした。
 小太刀の肩から薄気味悪い煙がせり上がっている。前に対した中堀やシャンプーがこのような瘴気を背負い込んでいたことを思い出したのだ。
「魔龍…。小太刀、あんた、化け物に憑依されたのね?」
 そう声を荒げた。


二、

「化け物ではありませぬわ…。これは尊い龍神様ですのよ。」
 小太刀の顔が灯りもないのに真っ赤に輝いていた。ちょうど、あかねを呼びこんだほのかな灯火のような光が小太刀の身体から発せられていた。とても、人間とは思えないような光り方だった。
 明らかに彼女が異生物に憑依させれていることを伺わせていた。
 まだ、魔龍は早雲を含め、数匹残っていると乱馬は言っていた。その一匹が、小太刀に憑依したのだろう。
 彼女が嵐の中、ボートで単身乗り込んで来た無茶も、魔龍の手引きがあったとしたら、納得できた。

「神様なんかじゃないわ。そいつは…化け物よっ!」
 あかねは叫んだが、小太刀は聞く耳など持つ筈も無い。

「それがどうしたと言うのです?乱馬様を手に入れるためでしたら、わたくしは…悪魔にでも心を売り渡しますわ。ほーっほほほほほほ、おーっほほほほほ。」
 小太刀は笑いながら言った。
 彼女ならありなん…その高笑いを聞きながらもあかねは束縛から逃れられる一瞬の隙を探っていた。
 すぐ後ろには彼女が乗りつけてきたボートがある。そこには櫓が立てかけてあるのが目に入った。

(あの櫓へ飛び込んで、この糸を切れないかしら…。)
 咄嗟にそう思った。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか。こんなところで小太刀にやられる訳にはいかない。あかねなりに必死だった。
(一か八か…やってみるっきゃないわね。)
 そう決意すると、あかねは気合いをこめる。幸い、糸が絡みついているのは上半身だけだった。下半身には巻き付いていない。

「でやああああーっ!」
 あかねは急転直下、駆け出すと、小太刀をかわしボートの傍へと勢いよく駆け込む。そして狙い通り、立てかけてあった櫓へと身を投じた。
 上手い具合に、糸の下へと櫓を潜り込ませることに成功した。

「しめたっ!」
 あかねは上半身をよじりながら、糸を思い切り櫓で切り離した。
 バサバサっと音がして、絡みついていた糸が弾け飛んだ。
「糸が切れたわっ!」
 そう吐きだすと同時に、攻撃態勢へと身体の向きを整えた。そして、小太刀へ向かってキッと向き直る。が、小太刀は一向に慌てるそぶりは見せなかった。余裕の笑みを浮かべながら、あかねを見つめ返していた。

「考えましたわね…。でも…そうやすやすとは、逃げられませんことよ…。ほうら…。」 
 小太刀が合図すると今度はあかねの周囲から、複数個の玉が飛んできた。

「えっ?」
 玉は小太刀のところからではなく、全く別の場所から飛んできたのだ。それも、あかねの死角から。
 バラバラっと弾けて、糸が一斉にあかねへと襲いかかって来た。さっきと同じく、糸はまるで意志を持つかの如く、全てあかね目掛けて巻き付いて行く。
「くっ!!」
 あかねの身体に幾重もの新しい糸が撒きついた。
「今度は足の動きも止めてさしあげますわ。ほうらっ!」
 パチンと小太刀が指を打つと、また、背後から玉が飛んできて、中から吐きだされた糸は、あかねの足へもまとわりついた。

 ざざっと音がして、あかねはそのまま、前につんのめって転がった。糸に絡まれていたものの、受身は取れたので激突はまぬがれたものの、しこたま背中を打ってしまった。
「うっ!」
 その痛みに、思わず顔が歪んだ。

「ほほほ…いい気味ですわ。」
 小太刀がふてぶてしく笑っていた。小太刀はあかねの前に顔を手向けた。そして、倒れたあかねを蜘蛛の糸ごしに摘まみあげると、雨の中をずぶ濡れになりながら岩場を進んで行った。
 と、その岩場にぽっかりとほら穴が一つ開いていた。そこへあかねを連れ込むと、どさっと地面に投げ置いた。
 そこは、奥行が五メートルほどある空洞だった。自然の波が作ったのか、それとも、ここで訓練していた日本軍の物たちが作りあげた人造の空間なのか、定かでは無かったが、雨風を凌ぐに不都合は無かった。
 まだ、雨は降り続いている。
 
「もう、動くことも叶わないでしょう?どのように料理して差し上げましょうか…。」
 そう言いながら、動けないあかねの頬へと手を伸ばす。冷たい手だった。とても、体温が通っている人間の手とは思えぬほどに、小太刀の手は冷え切っていた。


「ダメだよ…小太刀さん…。独り占めしちゃ…。ぼ…僕が居ることを忘れて貰っちゃ…。」
 と、背後から別の声が響いて来た。少し弱々しげな男の声だった。


「そうだったわね…。天道あかねを捕縛するのに、あなたの手も借りたんでしたわね…。」
 クスッと小太刀が笑った。
「あたしを捕縛するのに…別の手も借りた…ですって?」
 あかねは小太刀を見上げた。
「ええ…。そうですわ。」
 事もなげに小太刀はあかねへと言い放った
 小太刀がそう促すと、人影がもう一つ横から現れた。
「卑怯者っ!!二人がかりだったの?」
 あかねはキッと小太刀を見返した。
「卑怯も何も、勝つためには手段など選べませんわ…ほほほほほ…。」
 
 小太刀の後ろ側に立った、もう一つの人影を見てあかねは驚いた。そこに立って居た男の姿を見て、思わず声を吐きだした。
「ご、五寸釘君…。」
 蒼白な顔をした青年が一人、高校の同級生だった五寸釘光がそこに立っていたからだ。

「や…やあ…。天道さん、お久しぶりだね…。」
 五寸釘は右手を挙げてニヤリと笑った。
「何故…五寸釘君が…こんなところに…。」
 みの虫みたいに転がったまま、あかねは五寸釘を見上げた。

「早乙女の奴が君を誑(たぶら)かしたって聞いたからね…。居ても立っても居られなかったんだ。そうしたら、龍神様が僕に力を貸してくれるって…。」
 ヒヒっと五寸釘は笑った。

「まさか…五寸釘君…あなたも…。」
 あかねはゴクンとツバキを飲んだ。
 五寸釘の身体が小太刀と同じように、うすらぼんやりと光を放っていた。その上、彼の背後からも、怪しげな煙が立ち上がっているのがはっきりと見えるではないか。間違えなく、魔龍を身体の中に憑依させている証拠だ。

「小太刀さん…あかねさんを捕縛したのな僕だ…。だから、あかねさんは僕が貰い受けるよ…。そういう約束だっただろ?」
 ゆらりと五寸釘の瞳が妖しく揺れた。

「ま、仕方がないですわね…。天道あかねはあなたが好きになさいませ。」
「勿論、そのつもりだよ…ククク…。」
 怪しい光が小太刀と五寸釘の身体から発せられる。そのあまりのおぞましさに、あかねはゴクンとツバキを飲みこんだ。

「さて…あかねさん。君はこの僕に断りなく早乙女の奴とやましい婚約の約束をした…だから、まずはその罰を受けて貰うよ…。」
 五寸釘はくくっと笑った。
「ちょっと、待ってよ…。あたしと乱馬は元々許婚同士よ。やましい約束なんかじゃないわよっ!」
 思わずあかねの口から困惑の声が漏れた。

「黙れ、黙れ、黙れっ!君は僕の物だ。」
 五寸釘は高揚してあかねの問いに逆らった。
「あたしは物じゃないわっ!」
 あかねは五寸釘に向かって声を荒げた。物扱いされたことでカチンと来たのだ。気の弱い五寸釘なら、ここで一歩も二歩も後ろへ下がるのだろうが、今は魔龍に憑依されている。あかねの言葉に、折れることなく、マイペースで自分勝手に話を進めて行く。
「ねえ…あかねさん。これ、何だかわかる?」
 そう言って懐から出して来た妖しいピンク色の液体。
「香媚薬っていうんだ…。」
 ゆらゆらとあかねの前に振りながら嬉しそうに囁く。その瞳は虚ろげで、既に五寸釘の我など存在していないかのようだった。
「これを振り掛けると、誰でも目の前の人に対して従順になってしまうんだ…。君を早乙女なんかにやりはしないよ…。君は僕の女になるんだ…。今、ここでね…。」
「なかなか面白い物をお使いになりますのね…。」
「ああ…いつかあかねさんに使おうと思って、手に入れておいたんだ…。ククク…。やっと使う日が来て嬉しいよ…。」
「わたくしもその香媚薬とやらの効力をしかとこの瞳に留め置かせていただきますわ…。気に入ったら乱馬様にも使わせていただきますわ。」
 小太刀の瞳も怪しげに光った。五寸釘とあかねの睦みあいをとくと見学するつもり満々の様子だった。

「な…何、言ってるの?あんたたち…。」
 あかねは肩を怒らせて声を荒げた。が、蜘蛛の糸に絡め取られていて、全く身動き出来ない。そんなあかねの背中を上から小太刀が抑えつける。

「ふふ、観念なさいませ…天道あかね…。泣いてわめいても、誰も助けには来ませんことよ…。」
 小太刀が不気味に笑った。
「小太刀っ!あんたって人は…。」
 あかねは動かない身体を懸命に揺さぶりながら、キッと小太刀を睨みつける。
「ほら、五寸釘さん。とっとと天道あかねに香媚薬をお使い遊ばせ。」
 高らかに小太刀が勝ち誇った顔で笑い出した。
「ほら…あかねさん、忌まわしい早乙女乱馬との絆は、僕が消し去ってあげる…。」
 五寸釘はにやりと笑って近づく。
「いやっ!来ないでっ!」
 あかねは動かない身体を捩って最後の抵抗をしようと試みる。
「大丈夫。決して君を不幸にしない。ずっと大切に愛してあげる。だから僕と一緒になって明るい家庭を作ろう。」
「何言ってるのっ!こんなことやめてっ!五寸釘君っ!」
「往生際が悪いですわね…。さあ、早くやっておしまいなさい。後がつかえているんだから。」
 小太刀が痺れを切らしたように言い放った。
 それに呼応するように五寸釘が近寄った。
 
「あかねさん…。」
「いやーっ!!乱馬ーっ!!」

 万事休す。
 そう思ったときだった。
 後ろで壮絶な気が弾けた。
 一瞬のことだった。五寸釘が手にしていた瓶はその激しい気の到来に宙を舞い。後ろへと吹き飛ばされた。

 パリンッ!

 ガラスの砕ける音が響いて、ピンク色の液体は余すことなく地面へと流れて消えた。
「あ…。」
 五寸釘の表情が一瞬強張りつくと、虚ろに開いた掌を見つめて立ち尽くした。
 更に、その気はあかねの傍をなぞるように飛んできて、身体にまとわりついていた糸をも弾き飛ばした。
「誰ですの?わたくしの企みを邪魔されるのはっ!」
 小太刀が振り返る。
 だが、傍には人影が無かった。
 その代わり、蒼白い光線が後方の洞窟の入口から飛んでくるのが見えた。
「はっ!」
 小太刀はその光線を横へ飛んで避けた。
 バウンッと轟音がして、傍の岩に当たって光線は弾け跳んだ。背後の岩壁は見事に打ち砕かれている。洞窟がさらに大きくなったようにえぐられていた。
 間隔を置かずに、もう一発飛んできた。今度は五寸釘の頭上の天井岩に当たって砕けた。ガラガラガラと音をたてて、岩が弾けて石つぶてとなり、五寸釘へと襲いかかる。

「乱馬っ!?」
 あかねは自由になった身体から忌まわしい糸を薙ぎ払いながら叫んだ。飛んできた気砲から発せられる気脈は乱馬のものだ。そう思った。

 風が物凄い勢いで洞窟の入口から吹きこんで来た。
 と、洞窟へと姿を現した人影は、すっくと立ち上がって、小太刀と五寸釘を見比べた。そしてゆっくりと吐き出した。

「てめえらっ!あかねから離れろっ!今すぐにだっ!!」

 怒りの気を背後に背負いながら立つ。それは、紛いも無くあかねの許婚、早乙女乱馬であった。



三、

 乱馬は砂煙を身に纏いながらすっくと立ち上がってあかねを襲った二人を鋭く睨みつけていた。

「乱馬様…何故ここに…。」
 小太刀は目を丸くして乱馬を振り返った。」
 乱馬は静かに、しかし激しい闘気を背負っていた。
 その激しさにあかねは固唾を飲んだ。

「小太刀…五寸釘…。てめーら何時の間に徒党を組みやがった…。」
 乱馬は怒り心頭な瞳をたぎらせながら、二人を睨みえすえていた。

「まあ、そんなこと。私は乱馬さまのためを思ってしたまでのこと…。このような誰にでも靡く、下賎な娘は、乱馬さまには相応しくありませんことよ。」
 小太刀は彼女らしい論理を乱馬目掛けてまくしたてた。

「相応しい相応しくねーは、俺が決めることだ…。てめーらに勝手に圧しつけられるもんじゃねえ…それに…。俺から言わして貰えれば…小太刀…、てめーは論外だ。俺の範疇にも居ねえ…。」
 乱馬は少しずつ間合いを詰める。
 その気は激しさを増す。あかねを危険に曝されたことが余程頭にきているのだろう。

「乱馬…。」
 当のあかね本人が当惑を通り越して戦慄するほどに、増大する乱馬の闘気。

「こうなったら仕方ありませんわね。いいでしょう。乱馬さま。口で言ってお分かりにならないのなら…。天道あかねともども、このわたくしに宿った龍神様の力で始末して差し上げますわ。」
 小太刀の瞳が妖しく光った。
「勿論…僕も加勢するよ…。」
 怯んでいた筈の五寸釘も、ゆっくりとその場から立ち上がった。その瞳は化け物に魅入られて、怪しく光り輝いていた。
 
「容赦はいたしませんことよっ!」
 小太刀はそう言うとリボンを高々と空へ挙げた。
「僕も行くよ…。早乙女君を倒して、あかね君を貰う…。」
 五寸釘も動いた。手にはソフトボールくらいの黒い水晶球を抱えていた。空いた手を上に差し出すと、小太刀のリボンが彼の腕に当たった。と、当たった部分から血が滲み出す。
「五寸釘君?」
 あかねの叫んだのと、五寸釘が不敵に微笑んだのは殆ど同時だった。彼の右腕から流れ落ちた血はそのまま水晶玉に滴り落ちた。
「開けっ!魔空間っ!」

 五寸釘の血を得た水晶玉は黒い光を放ち、一瞬にして弾けた。

「何っ!?」

 洞窟だった空間はどす黒く垂れ下がり、周りの状況が変わり始めた。
 傍に見えていた海は黒い波飛沫を上げて押し寄せる。春嵐の風どころではない。台風並みの暴風が渦巻くように乱馬とあかねに向かって逆巻き始めた。
 立っているのもやっとのような風の渦が二人を取り巻く。

「ふふふふ…。早乙女くん、覚悟することだね…。僕は今、この邪水晶の玉に血を注いだ。これが何を意味するかわかるかい?魔空間という異世界を開いたんだ。この世界の中では、風も波も僕の思い通りになる…。純粋で無垢なあかねさんを僕から奪おうとした報いを受けるがいいっ!!」

 ぴしゅっ!!

 五寸釘の能書きと共に、小太刀が投げた紙ふぶきが飛んだ。遥か空へ舞い上がり、それらは鋭い刃となって二人に襲い掛かってきた。
「くっ!!」
「やっ!!」
 乱馬とあかねはそれを避けるように互いの気を混合させて打ち砕いた。
 だが、砕ききれずに破片が一つ乱馬の腕に当たった。と、乱馬の肩のところから道着が切れて真っ赤な血飛沫が飛んだ。

「ほほほほほ…。いかがですか?五寸釘さんが作り出した魔空間は…。そうそう、もう一つ言っておきますわ。この魔空間は、五寸釘さんだけでは無く、わたくしの言う事をききましてよ。ほーほほほほ。」
 風の向こうで小太刀の声がした。
 五寸釘も小太刀も、声はすれども乱馬とあかねからは姿が見えなかった。


「くっ!どこまでも卑怯な奴らだな…。あかねっ!大丈夫か?」
 乱馬は傍らのあかねを見やって言った。
「うん。あたしは大丈夫。それより乱馬、その腕の傷…。」
「へんっ!このくらい平気さ・・・。行くぜっ!」
 乱馬は構えると果敢に小太刀へ立ち向かっていった。
「たあっ!」
 乱馬は振り返りざまに気を放つ。
 が、当たらずに横へ飛んだ。
「ちっ!かすったか…。」

 しゅるるるるっ!
 音がしなって、今度は小太刀のリボンが舞う。

「乱馬っ!右から来るわっ!」
 傍らであかねが声を発する。牽制の声だ。
「おっと…。」
 あかねの示唆した声に反応すると、乱馬はかろうじて避ける。
 シュッと音がして乱馬の右頬をかすった。
 と、再び、乱馬の血飛沫が飛んだ。

「ほほほっ!わたくしたちの攻撃に、どこまで耐えられのかしら…。悪いことは言いませぬから…さっさとギブアップして、乱馬さまはわたくしの、天道あかねは五寸釘のものにおなりなさいっ!」
 勝ち誇ったような小太刀の声。

「冗談じゃねえ…。誰がてめえらの言うとおりになんかなるものかーってんでいっ!」

「あくまで拒否すると言い張るのでしたら、ここで死に絶えるがよろしいことよ…。お望みどおりお二人御一緒に葬り去ってあげますことよ…!そーれっ!」

 風はますます威力を増してゆく。
「ほほほ…ここは海端…風だけでなく、波も操れますのよ…。」
 高らかに挙げたリボン。小太刀のかざすリボンに呼応してどこからともなく海水が浸入して、波打ち始める。波は高く浮き上がった。そして、五メートルはあろうかというどす黒い波と駆け上がり、二人目掛けて襲い来る。
 それはさながら水の凶器だった。
 泳げないあかねにとって、波は苦手だった。水に飲み込まれて引きずりこまれる…そんな恐怖心があかねの動きを固くした。

「あかねーっ!後ろへ跳べっ!!」
 乱馬のががなり声と共に、我に返ったあかねは、思い切り足を踏み込んで、後ろへと跳躍した。
 どどっと目の前で波が地面を叩きつけた。目の前の空間は、えぐられたように浅い穴が開いていた。さっきまであかねが立っていた場所と寸分も違わない。もし、乱馬の声に後ろへ飛んでいなければ、今頃空間ごとざっくりとやられていただろう。
 間一髪であかねを避けさせたものの、乱馬はあかねに声を出した弾みで一瞬己の動作が遅れてしまい、バランスを失って後ろへと尻餅をついてしまった。

「くそっ!この魔空間じゃ不利だぜ…。」
 乱馬は右手で頬の血を拭った。漏れる息は荒くなり始めていた。
「もしかして…この空間は空気が薄いのか…。」
 
「ほっほっほっほ…今頃お気づきですか?乱馬様。」
 小太刀の声が響く。
「ただ、息苦しいだけではございませんでしょう?そろそろわたくしが仕込んだ痺れ薬が利いてきているのですわ。きっと…。」

「けっ!んなことだろうと思ったぜ…。」
 あかねが心配げに乱馬を振り返った。
 小太刀が言うように痺れ薬が作用し始めたのだろう。身体の感覚がマヒし始めていた。このままでは身体の動きはやがて止まってしまうだろう。

(畜生っ!痺れ薬が利いてきやがったか…。)

「まだまだ、これからですわよ。」
 小太刀の声に呼応するかのように今度は風が激しく二人を取り巻く。そして鋼鉄のような波もまた上から二人を削ろうと牙を剥く。
 最早、風のせいで目を開けることもままならない。その合間を縫って仕掛けられる小太刀の波攻撃。
 二人は呼応しながら必死で避ける。
 何度目かを食らった時に、あかねの膝ががくんと落ちた。
「あかねっ!!」
「大丈夫…。ちょっと小石につまずいただけだから…。」
 あかねは気丈を保つ。その上を小太刀の放った波が飲み込もうと逆巻く腕を振り上げた。

「小石?」
 魔空間にそんなものがあるのか。不思議に思った乱馬は辺りを見回した。と、どうだろう。痺れ薬のせいで感覚がマヒし始めたことが幸いしたのか、魔空間と現空間が重なり始めていた。何も無かった筈の空間に、岩壁が見え隠れし始めたのだ。
(もしかして…魔空間は目の錯覚を利用した妖の類か?)
 乱馬の脳裏に閃いた。じっと辺りを見回すと、まんざら気のせいではなさそうだった。
(一か八か…。)

 乱馬は傍で波と揉み合うあかねの手を引いた。
「乱馬?」
 急に手を引かれて、あかねは乱馬を見返した。
「俺に任せろっ!考えがあるんだ。」
 乱馬はそう言い放つと、そのまま、大きな岩影が目に映った方へと一目散に走り出した。

「逃げ惑っても無駄ですわよ。ほら、もっと波が唸りますわ…。」
 
 岩陰に一時退却したものの、風を少し防ぐぐらいで一向に事態は好転しない。
 それどころか、信じられないことに岩が砕かれ始めた。見ると小太刀のリボンに呼応した波が上から岩を噛み砕いている。
「ほうら…、大人しくわたくしの手にかかって、玉砕されてしまいませ。」

(このままじゃ、ここもそう長くは持たねえ…。くそっ!何か手立てがあるはずだ…。考えろっ!乱馬っ!!)
 乱馬は全身の毛穴を開いて打開策を考えた。
 目を凝らして見ると、鈍い光が小太刀の少し先にあるのが見えた。風はそこから流れ込んでくる。そして、波もそこから湧き上がる。
(ひょっとして、あれは、さっき五寸釘が持ってた水晶玉じゃねーか…。)
 小太刀の攻撃を避けながら乱馬はじっとそれを見つめた。妖気がそこから漂ってくるのを全身で感じる。
(もしかして…。あれを攻撃したら…。)
 そう思ったとき、また風が強くなった。
「ほほほ。ぼちぼち年貢の納め時が来たようですわよ。この魔空間の中で天道あかね共々、仲良く砕け散りなさいませ。」
「ぐわっ!!」
 吹き付けて舞い上がる風と波は息をするもの叶わぬほどに荒れ狂い始めた。
 

(くそっ!気が満ちて来ねえ…これじゃあ、まともな気弾は打てねえ…畜生っ!)
 身体中の気を一点に集中して高め、丹田へ力を込めて空へ放つ気砲はそれなりの構えが必要だった。
(痺れ薬の影響が出始めている今の俺の力量じゃあ、精気が満ちて来ねえのか…。)
 
『邪気には邪気を当てろ…。』
 ぐっと握った拳の向こう側から、誰かが乱馬へと声をかけてきた。

(邪気?)
 乱馬はその声に向かって問いかけていた。

『そうだ…邪気だ…。この前から散々、修行してるじゃねーか…。』
 その声はかつて聞いたことがある声だった。
 そう、女に変化した時の己の声…女乱馬の声だ。
 闘いの刹那、自問自答しているかの如く、そいつは乱馬へと囁きかけてきた。

(邪天慟哭破…。)
『そうだ…そいつを撃ってみろ…。』
(馬鹿な…そいつはまだ未完成だ…。)
『ここは奴らの邪気が渦巻いている…。そいつを利用すんだよ…。』
(…渦巻いている邪気を利用するだと?)
『まーだわかんねーのか…。おめーが得意とする飛竜昇天破の要領で行けばいいのさ…。』
(しかし…その技はまだ…未完成だ…。)
 乱馬は拳を握りしめた。
『何戸惑ってやがる…。たく…女々しい奴だな…。』
 女乱馬の声が、乱馬の脳裏に響き渡った。
『おめーが打たねえんだったら…俺が代わってやろうか…?』
 そいつは、乱馬の頭の中で笑いかけてきた。
 
 グワン…と何かが乱馬の中で蠢いた。

 思わず乱馬はそのまま膝を着いてギュッと己の身体をわしづかむ。

「乱馬?」
 その乱馬の様子を変に思ったあかねが声をかけて来た。
「だ…大丈夫だ…。何でもねえ…。」
 乱馬は片膝を立てながら、すっくと起きあがった。
「あかね…頼みがある…。」
 乱馬は態勢を立て直しながらあかねへと声をかけた。

「頼み?」

「ああ…。まだ未完成だが…。あの技を使ってみてえ…。多分、この状況下はあの技を完成させるための千載一遇のチャンスだ…。」

「あの技って…まさか…。」
 あかねが声をかけると同時に、乱馬の頭が縦に動いた。
「ああ…邪天慟哭破だ…。」
 その声に、あかねの肩がビクンと揺れた。
「小太刀の痺れ薬のせいで…気が…精気が満ちて来ねえ…。が…あの技で使う邪気ならここに満ちている。あの水晶玉から存分に流れだしている…。見ろ…あかね。」
 促されてあかねは乱馬がアゴで指示した方向を見やった。
 確かに、水晶玉の周りには、この世のものとは思えぬ何かが渦巻いている。真黒な邪気だ。
「危険を承知で頼む…。俺が気を溜める一瞬だけでいい…。奴らの気を逸(そ)らせてくれっ!」
 乱馬はあかねへと瞳を手向けた。戸惑いを隠せないゆらめきがそこにあった。
 
「いいわ。乱馬。あたしが小太刀と五寸釘君の気を逸らせるわ…。だから良く狙ってあの水晶玉を打ち砕いてっ!」
 と頷いた。

「ああ…頼んだぜ…あかね。」
 乱馬はグッと拳を握りしめた。
 失敗するわけにはいかない。あかねを守らなければ、意味が無い。
(確実、一発で決める…決めてやる…。この邪天慟哭破で…。)

 ゴゴゴっと乱馬の周りの空間が歪み始めた。
 真黒な邪気が乱馬を取り囲むように回り始める。

『そうだ…それで良いぜ…。その技を完成させろ…。早乙女乱馬…。』
 クスッとそいつは笑った。乱馬の心の奥底で。



つづく








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