◆蒼い月と紅い太陽

第十一話 嵐の前


一、


 その日は夜明け前から風が強かった。

 窓をコトコトと風が叩く音で、乱馬は目が覚めた。
 瓦を叩きつける雨音はしない。だが、何となく湿気を含んだ空気が鼻先を通り過ぎて行く。きっと、もうすぐ雨が降るのだろう。
 そう思いながら、ふと目を開くと、そこは己の部屋では無かった。
 あかねの部屋だった。そう、あかねのベッドの上に横たわっていたのだ。しかも、道着のままで。

 正直、面喰った。
 
 記憶がふっつりと途切れていたからだ。

「確か…あかねと道場に居た筈だが…。」
 どう辿っても、記憶が繋がらない。
 あかねは…と思って、辺りを見回すと、ベッドの下に気配を感じた。灯されたわずかな灯りを頼りに、覗きこむように床を見ると、あかねが別の蒲団を敷きこんで、その上で眠っているのが見えた。
 彼女は道着ではなく、ちゃんとパジャマを着ているところを見ると、自分より後に眠ったに違いない。
「もしかして…こいつがこの部屋まで運んでくれたのか…?」
 乱馬はあかねの寝姿をベッドの上から眺めながら、推理を張り巡らせる。
 並大抵の女性なら、大の男を道場から母屋の二階まで担いで来るのは大変だろうが、相手はあかねである。
 彼女なら、その怪力で、いとも簡単に乱馬を背負いあげて、ここまで連れ帰ることができる。
 枕元の時計は、まだ六時を回ったところだった。
 夜が明けているとはいえ、薄暗かった。

「やっぱ、あかねの所作だろーな…。こいつの馬鹿力なら、有り得ねえ話でもねーし…。」

 苦笑いとも微笑みともつかぬ複雑な笑いを浮かべながら、あかねの寝姿を上から覗きこんだ。
 屈託ない寝顔で眠るあかね。
 『馬鹿力』と何度も乱馬が揶揄した少女の怪力は不変なようだ。
 

「夕べ、道場で眠りに落ちてしまった自俺を、そのまま担ぎあげて、ここまで運んで来たのは、こいつしかいねーな…。そこら辺の女とちがって、こいつの怪力は半端ねーしな…。俺を担ぎあげるなんて、造作もねーだろうし…。
 こいつのことだ…。道場から一気にここまで俺を運んで来たんだろうぜ…。で、一旦、このベッドに俺を下ろし、俺の部屋へ蒲団を敷きに行ったに違いねえ…。
 が、さすがに大の男を二階まで担ぎあげる行為は、馬鹿力のこいつでも限界があったんだろうな…。俺の部屋に蒲団を敷いて、また俺をここまで担ぎあげて来るのが、急に面倒になったに違いあるまい。
 かといって、あかねのベッドの上に二人眠るのは、スペースが狭すぎる。ならば、俺の蒲団を持って来てここへ敷いて自分が寝れば万事丸く収まる…。そう思って、実行に移したんだろーな…。」

 そんなことをつらつら考えるうちに、ふと、古い記憶が脳裏に浮かんだ。

「そういや、一度だけ、俺はこいつに負ぶさって貰ったことがあったっけ…。」

 出逢った頃の記憶が甦る。小乃接骨院から帰る途中、腰抜けて立てなくなった。東風先生に腰に細工されたのだ。
『男がそんな恥ずかしいこと…。』
 腰抜けてもなお、強がる乱馬に、ホースで水を浴びせかけ、
『女同士ならいいわけね?』
 と言って退けながら、無理やりおんぶして帰宅した。
 その時の記憶が、ふと甦る。

 まだ、お互い、好きという感情の微塵も無かった頃の思い出だ。

「あんときはまだわからなかったっけ…。本当に優しい、いい子だよ…ってこいつのことを評した東風先生の言葉の意味が…。
 男勝りで、凶暴で…それでいて泣き虫で…。」

 ふと古い記憶に想いを馳せて、柔らかな微笑みが浮かんだ。
 
「今はまだ、床は一緒にできねーが…。この戦いが終わったら、名実ともに夫婦になろう…。そのためにも、俺は…出来ることをしっかりやるだけだ…。」
 ギュッと握りしめる拳。

 あかねは疲れ切っているのか、健やかな寝息をたてながら、眠りに落ちている。

「もう少し、寝かせておいてやるか…。」
 それに、己も、あかねの寝顔をこのまましばらく見詰めていたい。
 愛する者の健やかな寝顔を眺めることは、男として、ささやかな幸せの一つであろう。
 こんな穏やかな時間は、今しばらく封印せねばなるまい。

 あかねが起きたら、彼女を伴って、暫し修行に出るつもりであった。
 どこか、適当な山に籠り、修行を積む。早雲が示した約束の日まで、せいぜい十日ほどの短い期間しかないが、精一杯、鍛錬しなければなるまい。無論、女連れで修行など、不謹慎とも取れるが、あかねが魔龍に狙われている以上、離れるわけにはいかなかった。
 あかねの傍にいなければ、守ることもままならないだろうからだ。それに、残れと言っても、この勝気な娘は拒否するだろう。彼女もまた、武道家の端くれだ。どこまでも、一緒にあろうとするだろう。
 それが、あかねであった。
 考えてみれば、天道家へ身を寄せるようになって以来、常に彼女が傍らに居た。勿論、一人離れて修行の旅に出たこともあるが、影のように彼女はいつも乱馬の近くに居た。
 いや、本当は真逆なのかもしれない。彼女が光なら、己が影。彼女が紅い太陽なら己は蒼い月。彼女が母なる大地なら己は蒼い海。
 男は陽、女は陰。そう解釈するのが普通だが、事、自分たちの間柄は、かねてから、そんなセオリーどおりではないような気がしていた。
 太陽を守るためなら、どんな修羅にでもなれるように思った。

 今の己には、仮題が山ほどある。それも痛いほどわかっていた。
 故に、五月に入ったら、修行に籠る…となびきにも断言していた。
 なびきと交わした最初の仕事の契約も、一段落ついた。己が望んでいた内容とは遠いものだったとはいえ、この際、贅沢は言っていられないだろう。あかねとの婚約を公にしたなびきは、それによって、己を奮い立たせようとしたに違いない。
 約束を違え、魔龍に飲まれればどうなるか。

『約束よ、乱馬君。破ったら、針千本飲ませ…いえ、八つ裂きにするわよ…。墓場にまで踏み込んで骨ごとくだいちゃうからね…。』
 にこやかに微笑みながら、そう言い放ったかすみを思い出しながら、苦笑する。
 冗談だとは思えない凄みが、あの時のかすみにはあった。武道こそ嗜んではいないが、その辺り、武門の天道家の長女だけのことはある。そう思った。
 言わば、己の肩一つに、あかねを託されたのだ。責任は重い。

と、その時だった。
 窓の外に気配を感じた。コトンと風とは別の音が、あたったような気がしたのだ。
 ふと振り返って、仰天した。
 巨大な獣が窓ガラスに貼り付いていたからだ。そいつは、三白眼を上に向けて、大きな口を開いてベロを出しているのが目に入った。

「でえっ!」
 思わず、大声をあげてしまった。
「え…?何…?」
 床の蒲団で眠っていたあかねも、その声に驚いて、目を覚ました。
 乱馬と同じ方向を見詰めて、キャーと一声はりあげた。起き抜けの彼女には、化け物に見えたのかもしれない。思わずひしと乱馬に抱きつく。
「いやあああっ!化け物っ!」
 
「落ちつけっ!大丈夫…あれは親父だ。」
 乱馬があかねを受け止めならが、苦笑いした。
「え…?早乙女のおじさま?」
 くるりと振り向くと、そいつは、様々な表情を作りながら、窓の外でふざけていた。
 確かに、良く見ると、パンダだ。
 パッと見、化け物チックだが、良く目を凝らせば、そいつは白黒モノトーンの毛皮に包まれたパンダその物だった。
 パンダなど市中を闊歩している訳がないので、変身した乱馬の父、早乙女玄馬以外にありえまい。

「くおらっ!親父っ!朝っぱらから、人んちで何やってやがる。」
 ガラガラっと窓を開いて、開口一番、文句を浴びせかけた。

『いよ、朝からお熱いこって…。』
 パンダはニッと笑って看板を掲げた。
 
「この野郎。わざわざからかいに天道家へ赴いてきやがったのか…。てめーは…。」
 ふるふると握りこぶしを右手で作りながら、乱馬は玄馬へと畳みかける。

『いや、別にそういう訳ではないが…。ちょっと話があってなあ…。』
 キュキュッとマジックを片手に、看板へと会話文を書き始めた。

「だったら、さっさと人間にもどりがやがれーっ!」
 忍耐が萎えた乱馬は、傍らに置いていたポットから湯を浴びせかけた。


「こらっ!バカ息子っ!いきなり熱湯をあびせかけるとは、熱いではないかっ!」
 人間に戻った玄馬が怒鳴る。
「やかましーっ!尋ねて来るにしても、もうちょっとやり様があるだろーがっ!それじゃあ、不法侵入者と変わんねーぞ!」
「だから、おまえに用向きがあるから、わざわざ朝一番に尋ねて来てやったんじゃろーがっ!」
「これが尋ねてくる人間のすることかっつーのっ!てめー、良い年こいて、馬鹿なことやってるんじゃねーぞっ!ったく…。」
 朝っぱらから、緊張感の欠片も無い、親子であった。
 あかねも、たはは…と笑うしか無かった。
 乱馬が修行の旅に出て以来、このような早乙女父子のお茶らけた行状を目にしたことは無い。久しぶりの光景である。
 ある意味、懐かしかった。

(この二人が居候していた頃は、しょっちゅうこんな光景にお目にかかったっけ…。)
 ふと笑みがこぼれる。
 当時、この父子は周りの目を気にすることも無く、互いに小競り合いばかりしていたものだ。
 おかずを取ったの取らないの、おやつが多いの少ないの、どっちが先か後か…などなど。些細なことで良く渡り合っていた。
 あかねの顔から思わずクスッと笑い声がこぼれた。
「ほれみろ…あかねが苦笑いしてるじゃねーか…。」
 乱馬は父親をたしなめる。
「いや、あかね君は、朝から父子の濃厚なスキンシップを微笑ましく思っておるに違いあるまい。」
「何がスキンシップだ!」
「スキンシップの度合いが足らなければ、地獄のゆりかごをかけてしんぜようか?」
「すんなっ!気色悪い!あの技だけは、絶対にかけるなよっ!」

 地獄のゆりかご。タイヤに戯れるパンダの如く、対戦相手をがんじがらめにし、頬ずりをしまくる、玄馬が編み出した嫌がらせ技だ。何度かその技の餌食になっている乱馬には、悪寒が走る程、性質の悪い技であった。

「それより…親父…。そんなことを言いに朝っぱらから尋ねて来た訳じゃ、ねーんだろ?」
 乱馬は不機嫌な瞳を玄馬へと投げ返した。
 早く本題に入れと言わんばかりの瞳を投げつける。

「だったら、何じゃ?」

「でえーっ!本当に、お茶らけに来ただけなんだったら、とっとと帰りやがれっ、クソ迷惑親父っ!」
「クソは余計じゃわいっ!折角、これを持って来てやったのに…。」
 そう言いながら、玄馬は道着の胸元に右手を突っ込んでごそごそやり始めた。

「あん?」
 突っかかる素振りを一旦収めて、乱馬は玄馬を覗きこむ。

「えっと…ここに入れておいたと思ったが…。」
 ごそごそと道着の胸元を肌蹴て、何かを探し始めた。

「何だ?」
 何が始まるのかと、乱馬は興味深げに覗きこむ。その後ろから、あかねも一緒に覗きこむ。

「おっと、あったあった。」
 玄馬の瞳がパッと見開く。
「何があったって?」

「これじゃ!」
 そう言って、右手に高らかに差しあげたのは、真黒な瓶。

「どら…。」
 そう言いながら、乱馬はその瓶を手に持ち、しげしげと眺める。
 瓶には「怒髪天」と書いてあった。あの、コロンが以前、玄馬に試供品を渡した強烈な毛はえ薬である。どうやら、製品になったらしく、うやうやしげに「強烈毛はえ薬」と書き添えてあった。

「こらーっ!てめー、ふざけんのもいい加減にしろよーっ!少なくとも、こいつは、俺には不要の長物じゃねーか!」
 デンと思わず蹴りを食らわせる乱馬。
 その後ろで、あかねがずごっとズッこけた。
「何、貴様も我が子なら、いずれは無くなるぞ…。」
 蹴りあげられて玄馬がふははと笑いながら言った。
「てめー、もっとボコボコにされてーか?」
 ギュッと拳を握りしめる乱馬に、玄馬は畳みかける。
「落ちつけっ!ちょっとふざけただけじゃろーが…。」
「どこがちょっとでいっ!終いにおっ放り出すぞっ!」
 眉毛を吊り上げながら、乱馬はギュウっと拳を作って見せる。本当に、叩きださんとする勢いだ。
「じゃから、渡したかったのは、ほれ…これじゃよ。」

 どこまでおふざけでどこからが本気なのか。玄馬はニッと笑うと、懐から一本の巻き物を出して来た。
 古びた巻き物で、いかにも…という風体の物だった。
 
「これは…?」
 
「天道君からの預かりものじゃ。」

「お父さんからの?」
 あかねも身を乗り出して来た。

 玄馬の手には、古い桐の箱が一つ、握られていた。何か大切な物をしまいこんでいるような桐の箱だ。その表には墨書きで「家伝書」と書かれている。

「こいつは…。」
 一瞬で真顔になった乱馬に、玄馬は一つ頷いて見せた。

「天道家に先祖代々伝わる「家伝書」が入った桐の箱じゃよ。もしものときは貴様に託してくれと、天道君から預かっていたものだ。」
 玄馬はそう言うと、乱馬へと桐の箱を渡した。
 天道早雲からじかに預かった貴重な家伝書である。天道家の家宝と言っても差し支えあるまい。
 あかねも初めて目にしたものだ。勿論、その存在すら知らなかった。
「ワシも中身までは確かめておらん。が、天道家の家伝書じゃ。その巻物には恐らく、魔龍のことも詳細に書いてあるに違いあるまい。」
「ま、順当に考えると、魔龍に対することも書かれてあるんだろうぜ…。ともかく、おじさんに託されたんなら、こいつは俺が預かっておくぜ。」

「あかね君もそれで良いかね?一応、天道家の武の跡目は君が取ることになるのじゃろうから、あかね君の意見も聞いておかねばなるまいが…。」

「お父さんが乱馬に託したのなら、乱馬が持つべきだと思います。」
「では…。」
「全て乱馬に委ねます。」
 澄んだ声であかねは答えた。

「決まりだな。」
 そう言いながら、乱馬は着ていた作務衣の懐へと桐の箱ごと預かり入れた。天道家の家伝書だ。ぞんざいに扱う訳にもいかない。
「修行に持って行って、じっくり読ませてもらわあ…。」
「それが良いじゃろう…。さて、くっちゃべっている間に、日も高く上ったわい。ちゃっちゃと支度して、修行に行かねばな…。時は金なりじゃ。ほれ、二人とも、いつまでも寝床に居ないで、ちゃっちゃと支度して来いっ!」
 玄馬は指図した。

「おい…。てめー…まさか、俺たちの修行について来る気じゃねーだろうな?」
 乱馬は玄馬を見返した。

「何を今更。当然ワシも同行するぞよ。」
 玄馬は言い切った。

「こらっ!なんでてめーがついて来やがるっ!部外者だろーがっ!」
 乱馬がまた怒鳴り始めた。
「部外者などではないぞ!立派な当該者じゃっ!」
「何が当該者だっ!てめーは天道家とは無関係じゃねーか!」
「何が無関係じゃ!乱馬、貴様、あかね君にプロポーズしたんじゃろ?」
「それが、どーした?」
「だったら、ワシはあかね君の舅(しゅうと)じゃぞっ!無関係ではないぞ!」
 と澄まし顔で答える。
「何を言うに事欠いて…。」
 食ってかかる乱馬など、屁とも思っていないのだろう。玄馬は一刀両断言い捨てた。
「修行するのに、相手は必要じゃろうが…。おまえ、あかね君に危険な修行の手伝いをさせる気でいるのではなかろーな?あかね君に、本気にはなれんじゃろうがっ!
 その点、物心がついた頃から共に修行に明け暮れた父親のワシなら、本気で相手できるのではないか?」
「まあ…そいつは否定しねーが…。」
「おぬし…まさか、修行にかこつけて、あかね君といんぐりもんぐりやる気で居るのではなかろうな?」
「ばっ!そんな訳ねーだろがっ!」
「あやしいぞ…。そんなにムキになって否定する辺りが…。」
「俺が相手にするのは得体の知れねえ「化け物」だぜっ!それに、あかねは化け物(そいつ)に狙われてんだぞっ!そんな余裕なんかある訳ねーだろっ!ボケッ!」
 ぽかりと一発、玄馬に拳骨を食らわす。
「余裕があったらやるつもりなのではないのか?この、スケベ息子っ!」
 うりうりと玄馬は乱馬を刺激する。
「しまい目に、怒るぞっ!クソ親父っ!」
「そうよっ!おじさまっ!あたしたちは、そんなふしだらな関係じゃないですっ!」
 あかねも否定に走った。玄馬と乱馬のやりとりに、居たたまれなくなったのだろう。
「許婚は別にふしだらな関係ではないと思うがのう…。」
「いい加減にしやがれーっ!」
 バコンと乱馬の蹴りが玄馬の後頭部に入った。そのまま、玄馬は前につんのめる。
「たく…。こちとら真剣なんでーっ!一分一秒も惜しい時に、割って入ってくんなっ!」
 ハアハアと息を荒げながら、乱馬はつんのめって、床にはりついた玄馬に、文句を吐きつける。

「でも、乱馬…。おじさまの言う事にも一理あるかもしれないわよ。」
 あかねが横から声をかけた。
「あのなあ…。俺たちはこれから修行に行くんだぜ?そんな、ふしだらな…。」
「誤解しないでっ!そっちじゃなくて…。」
「あん?」
「おじさまがついて来るって言ったことよ。確かに、今は真剣にならなきゃいけない時だから、お茶らけてる場合じゃないけど…。この際、あたし一人より、おじさまにも加わって貰った方が、効率よく修行が出来るんじゃないかしら。」

「……。」

 乱馬はあかねの言葉に、押し黙ってしまった。

 元々はあかねと二人、修行に行こうと思っていた。二人、関東のどこかの山へと籠り、激しい修行をおっぱじめるつもりだったのである。
 だが、玄馬もあかねも、二人より三人の方が修行効率が上がるのではないかと提案してきたのだ。迷うのも無理は無い。

「確かに…親父の言う事にも一理ありそーだな…。おめー一人を相手に修行するより、親父に加わってもらった方が、より、激しい修行が出来るな…。それに、約束の日まで十日足らずだ。残された時間も少ねーか…。」

 渋々、玄馬の同行に承知した乱馬であった。



二、

 修行場所は、伊豆半島にある小さな孤島。誰も住んでいないひっそりとした離れ小島だった。
 乱馬とあかねを伴って、玄馬が連れて来た修行場だった。
 幼き頃から父の玄馬と修行に明け暮れ、様々な修行ポイントを知っているが、乱馬も初めて来る場所だった。
 玄馬がどこからか手配してきたポンポン船でここまで来た。道先案内してくれた船頭さんもあまりなじみがない島の様子で、季節外れの訪問者に怪訝な顔を浮かべながらも、送り届けてくれた。
 昔は人が住んでいたようで、思ったよりも人の手が入っていて、何棟かの朽ちかけた民家も見受けられた。何より、ちゃんと船着き場もあった。コンクリートで塗り固められ、以前はそれなり船の往来があったようにも見受けられた。
 不思議な島だった。
「何だ?この島は…。荒れ果ててはいるが、昔は人がそれなり居たようだな…。」
 上陸して開口一番、乱馬は玄馬へと問いかけた。

「その昔、日本海軍が所有していた島だからな…ここは。」
「日本海軍だって?何時の時代の話だよ…。」
「昭和初期じゃよ。日本海軍が所有していた訓練所の一つじゃったそうじゃ。」
「訓練所ねえ…。」
 言われてみて、何となく、それらしい名残があった。
 木造建築物は灰塵と化していたが、所々にトーチカなどがあった。時代を何十年も遡れそうな、朽ちかけた人造物の数々。
 無論、そのままそこへ入るのは危険だから、あえて足は踏み入れない。
「まあ、ついて来い。」
 玄馬はどうやら見知った島のようで、生い茂った草木を掻き分けて、ぐんぐんと海岸線を歩いて行く。陸地側からは反対側、ずっと開けた砂浜に出た。
 ちょっとした湾になっていて、小さなリゾート地としても通用しそうな感じのところへと出た。
 が、季節は海水浴にはまだ早い。浮かれた気分にもなれなかった。

「こっちじゃ。」
 玄馬は乱馬とあかねを誘って、海岸線から少し入った岩場へと入る。 
 ゴツゴツとした岩が辺りに広がっていた。その先にそれはあった。
 コンクリートで作られた二階建の建造物だ。
 耐震性も良いのか、何度かあったろう大きな地震にも倒れることなく、しっかりとしている。
「何だここは…。」
 建物を前に、乱馬が父へと問いかけた。
「灯台だった建物じゃよ。」
「灯台?」
「ああ…。ほれ、二階の屋根の上に、それらしい物があろう?」
 確かに、小さな灯台チックな建物が二階の平らな屋根の上に乗っかっていた。鉄の扉は錆つき、もう使えなさげだったが、カンテラでも置けば、立派な灯台として機能しそうだった。
「ま、見張り台も兼ねておったんじゃろうな…。さてと…ここを塒(ねぐら)として使うぞ。
 そう言うと、重い鉄の扉を、ギギギッと開けた。

「こ…これは…。」
 乱馬もあかねも互いに目を見張った。
 朽ちかけた外見と違い、中はきれいに整備されていた。ホコリこそかぶっていたが、床も壁も天井も手入れされ、十分、寝泊まりに耐えられそうだった。
「何、ぼさっとしておる。さっさと荷物を整理して、修行を始めんと。時間が勿体なかろう。」
 玄馬が発破をかけた。
「お…おう。」
 乱馬もあかねも戸惑いながらも、返答を返した。
「何を狐につままれたような顔をしておる。」
「だってよー…。こんな場所、何で親父が知ってるんだ?見たところ、初めて来た訳じゃなさそうだし…。」

「ここは、天道君と修行していた頃に良く使った修行場の一つじゃよ。」
「お父さんと修行していた頃って?」
「ワシが貴様らくらいの頃じゃったから、今から二十五年ほど前の頃かのう。」
「にしたって、何で親父たちがこんな場所を使ってたんだ?」
「ワシらというより、使っていたのはお師匠様じゃよ。お師匠様に連れられて何度か来たことがあったんじゃ。もちろん、天道君と二人きりで修行したこともあったがな…。」

「まあ、あの爺さんなら、神出鬼没だから、ここを知っていても不思議じゃねーかもな…。」
「そうね…。もしかすると戦時中か戦前に、お爺ちゃん自体がここで軍事訓練していた経験があったのかも…。」
「兵役に連なる人ではないとは思うがな…。何せ、人間離れした妖怪のようなお方じゃからのう。
 ま、それは置いておいて…。
 ベッドは備え付けのを使え。何、ちょっと前にワシが来て、軽く掃除はしておいたから。野宿よりはましじゃろうて…。」
「マシどころか…十分だわ。」
 あかねも目を丸くした。
 ロッジ顔負けの備え付け二段ベットが二つ、合計四床のベットがあった。
 ここの見張り番が使っていたものなのだろう。あちこちに修理した痕跡もある。が、身体を横たえるのに十分な空間だった。
「ワシはあっちで眠るから、おまえたちが好きに使え。少し狭いが、一緒に寝てもよし。その辺はおまえたちの算段に任せるわい。わっはっは。」
 玄馬はそう言い置く。
「べ、別におじさまが同じ空間に居てもあたしはかまわないけど…。」
 あかねが慌ててそう声をかけると、
「そこまで野暮じゃないわい。」
「ちぇっ!人の修行に勝手について来た奴が、野暮じゃねーって言い切れるのかよ…。」
 ボソッと乱馬は言葉を吐きつけた。

 午後、早速、修行に取りかかった。

 真上の空は晴れてはいるが海原の向こうは低い雲が垂れ込めている。湿気を含んだ強い風が頬を撫でてゆく。まだ、梅雨の季節には早いが、天気が崩れる予兆なのか、白波が立ち、風も強い。
 二人は太平洋に面した海の端に立っていた。そして向き合いながら気合を入れていた。そう、乱馬は気砲と向き合っていた。迫り来る闘いをイメージしながら高める己の気。


「はあっ!!」

 乱馬の向こうで波が弾けた。
「まだまだっ!!」
 玄馬が叫ぶ。
「だあっ!!」
「気負い負けしておるぞ!!」
 乱馬は気を腕先に込めて、発し続ける。連続気功を打ち込んで波を裂く。一発打ち損なった。
 目の前で波が大きくうねりを上げ岩にぶつかって壊れた。
「はあっ…。なかなか上手くいかねえもんだな…。」
 流れる汗を拭いながら乱馬はほっと気を緩めた。
「数日間サボっておったのがありありとわかるのう…。気の技にキレが全く無いぞ。」
「ちぇっ。ずっと離れていたのに、技のキレの有る無しなんかわかるのかよ…親父は…。」
 乱馬はどさっと砂浜に腰を下ろした。傍にいたフナ虫たちが一目散に岩場に逃げ出す。
「わかるとも。おまえを育て上げたのは、このワシじゃからな。」
 玄馬は厳しい顔を手向けた。
「ちょっと休憩させてくれよ…。こう、まだ、時差ぼけが完全に抜けきってねーみてーなんだ…。日本を離れて長かったしな…。」
 そう言うと乱馬はどっかと両腕を広げて仰向けに転がった。
「情けないのう…。もうかれこれ帰宅して、半月にもなるのに、まだ、時差ぼけを引きずっとるのか?」
「仕方ねーだろ。体内時計がすっかり崩れっちまってるんでー。」
「…まあ、修行には小休止も必要じゃからな。半時間ほどだけじゃぞ。休んでいる間もイメージトレーニングはしておけよ。」
 玄馬が言葉を投げた。

 つかの間の小休止。

 乱馬が腰掛けると、あかねが水を持ってやって来た。
 身体を動かした後は、水分補給は欠かせない。ペットボトルに入った飲料水を、がぶがぶと胃袋へ詰め込む。下手なお茶やジュースより、水が一番だ。そして、忘れてはならないのは「塩」。密閉容器に入れて持ち歩いている「塩」を少し手ですくって舐める。塩分補給も水同様欠かせないのである。
 
「何か、苦戦しているようね…。」
 あかねも乱馬の横に座り込んだ。
「まーな…。本調子じゃねーことは確かだ…。気が全然足らねー…。」
 ぽつりと乱馬が吐きだした。
「どうしてそう思うの?」
「んー…。上手く言えねーけど、こう、イメージ通りに出来ねえっつうか…。何か、気候の違いだの時差ぼけだのあるのかなあ…。技の切れも良くねえし…。」
「そんな、心細いこと言わないでよ。」
 あかねが乱馬を見返す。
「ま、身体を順当に動かしていけば、一日、二日で気は満ちて来るだろうが…。」
 ほおっと溜息を吐きだす。
 その向こう側で玄馬が手ウチワでパタパタやっているのが見えた。玄馬も休憩している。
 と、乱馬が鼻をひくひくさせながら、あかねへと声をかけた。
「おい…なんか焦げ臭くねえか?」
「あっ!しまったっ!あたし、夕飯の準備をしてたんだっけ!」
 あかねは飛び上がって身を翻した。
 建物の中に据えてあったカマドへと急ぐ。焦げくさい匂いは、ここから立ち上ってまん延していた。
「やだーっ!鍋の底が、焦げてるっ!」
 と、悲鳴をあげた。

「たく。ちっとも進歩してねえんだな…。そっちの腕はよぅ…。」
 溜息を吐きだす乱馬に、あかねは紙パックの汁椀にその液体を注ぎ込んで来た。

「これ…ちょっと味見してみて…。焦げちゃっててもいけるんじゃないかなあ…。」
 確かに、ちょっとお焦げが椀に浮き沈みしている。おっかなびっくり、差し出された椀を口に含んだ乱馬。中身はごった煮。

「ん…。まあ、食えるかな…。」
「でしょ?でしょ?」
「まあ、それなり進歩はしてきてるみてーだな…。おめえにしちゃあ。」
「それどういう意味よ。」
「二年半前のことを思ったらかなりの進歩だってことだよ。昔のおめえの作るものっていったら、殺人的で食えたもんじゃなかったからなあ…。このくらいの焦げ臭さはいいさ…。食えるし、捨てるのももったいねーし…。やっぱ、おめーは二足のわらじは履けねえな…。」
「悪かったわねっ!不器用でっ!」
 あかねの怒声が飛んだところで、後ろから声が飛んできた。
「ほれ、いつまで休憩しとる。もう、十五分経ったぞ。」
 玄馬がニュッと顔を出した。
「ああ…。修行に戻るから…。その夕飯、ちゃんと仕上げとけよ。これ以上、焦がすなよ。」
 と、ビシッと鍋を指差した。
「わかってるわよ…。さっさと修行に戻んなさい。」
 あかねはふくれっ面をしながら、乱馬を戸外へと追いだした。

 それから日が暮れて真っ暗になるまで、乱馬は玄馬と共に、海岸で修行に明け暮れた。
 なまった体を作りなおす。まずはそこから始めねばならなかった。

「さてと…たんぱく質もちゃんと補っとかないとね…。」
 あかねは辺りを見回した。
 少し脇へ行けば、砂浜ではなく岩場。そう、磯がある。ここは魚介が豊富に捕れそうな場所だった。
 釣りをしてみようと持っていた竿へ釣り糸を通して、エサをつけてみた。下は少し深そうな海面が広がる。
 岩の上からそっと釣り糸を投げ入れてみる。
 乱馬が脇に居たのなら、
「おめえに釣り上げられるようなドジな魚はいねえだろうよ!」
とか何とか言うだろう。そんなことを考えながら、あかねは釣り糸を垂れた。
 空を見上げると、太陽が輝いていた。まだ春だとはいえ、まだ光線はそれなりにきつかった。
(焼けちゃうかな…。日焼け止めクリーム塗っておいてよかった…。花嫁が真黒じゃ見苦しいものね…。。)
 炎天下も元気に走り回っていた少女のころとは違って、年頃の娘だ。本当は日傘の一つでも欲しかったが贅沢は言っていられなかった。ほとんど化粧っ気はなかったが、薄くルージュだけは引いていたし、日焼け止めだけはがっちりと塗りたくっていた。 
 額を伝う汗。寄せる波の音。ともすれば生死を賭けた闘いに臨む将来の夫と修行へ来ているという事実すら忘れそうな穏やかな海だった。
(結局、このまま会社を辞めることになるんだろーなあ…。)
 フッと溜息を吐きだす。
 自分の能力はわきまえているつもりだ。会社勤めと家事を両立できるほど器用ではないので、遠からず辞めることになるのはわかっていた。
 会社にとって、自分の代わりは何人もいるだろう。が、乱馬の嫁は自分しか居ない。
 今の彼女には会社勤めよりも大切な乱馬だった。彼を支え、そして共に歩いて行きたい…。
(帰ったら辞表を書かなきゃね…。)
 蒼い空を見上げて、コクンと一つ、頷いた。
 と、目の前の釣り糸がぐいっと波間へと引いた。
「来た来たっ!」
 軽く叫ぶと、あかねは釣り糸を引っ張り始めた。思ったより早く獲物の到来だ。
 途端、陸から海へ向かって、風がうなりをあげて吹き抜けた。湿気を含んだ重い風。
 と、それに煽られてあかねは身体のバランスを崩した。
「あっ!」
 一瞬であった。しまったと思った時は、もう水の中へと身を投げ出されていた。悪い事に料理は進歩したがカナヅチが改善した訳ではない。
 そう、未だに泳げないのであった。
 あかねは焦った。焦れば焦るほど、もがけばもがくほど、身体は水の底へと引き込まれてゆく。
「乱馬っ!!」
 叫んだとき、がっと後ろから身体ごと支えられた。
 ぶはっと水面へ出た時、後ろで声がした。
「たく…。己の領分をわきまえろよな…。無理して魚なんか釣らなくてもいいんだよ…おめーは…。」
 乱馬だった。
「危なっかしくって、修行に集中できねーだろが…。」
 そう言いながら逞しい腕はあかねを抱えて、岩場ではなく砂浜の方まで軽く泳いでいった。
「ごめん…。」
 むせぶように咳をしながらあかねは罰が悪そうに答えた。
「おめえ、まだ泳げねえんだな…カナヅチのまんまか…。」 
 そう言って乱馬はふははははっと愉快そうに笑った。
「何よ…。そんなに笑うこと、無いじゃない…。」
 あかねは小声ですねてみせた。
「ま、いいや…。あかねらしいとこ見せてもらえたし…。」

 陸へと上がると、乱馬は慣れた手つきで焚き火を起こした。

「ほら、風邪ひくと厄介だからな…。陸(おか)は暖かくても海の水は結構冷てえからな。」
 濡れてしまった道着を絞りながら乱馬は言った。
「うん。ごめん…修行の邪魔しちゃって…。」
 すっかりぐしょぐしょになった髪をタオルでしごきながらあかねは答えた。
「ったく…。いいか?てめーは海へ近寄るなっ!たまたま俺たちが近くに居たから良かったものの…。下手こいたら、溺れてるぜ。」
 少しきつめに乱馬はあかねへ言葉を投げる。
「じゃな…。あかね君は海へは近づかん方が良いな…。蛋白源なら、心配は要らんよ。魚介はワシと乱馬で潜って捕るから。」
「でも…。」
「親父の言うとおりだぜ。魚を捕るのも海に潜るのも、修行の一貫だからな。俺たちでやる。だから、おめーは陸で料理を作ってろ。いいな?」

 渋々あかねは承知した。
 一分一秒も無駄に出来ない乱馬の修行を妨げることだけは、決してしてはならない。
 ならば、苦手な水場へ近づくことは辞めるべきだろう。

「わかったわ…。乱馬たちが居ない時は、海へは近づかないわ。」

「ああ、そうしろ。」
 乱馬はそう言い置くと、玄馬と共に修行へと戻って行った。


三、

 夕日が海原へ沈む頃は、すっかり辺りが暗くなり始めていた。夕飯はカンテラで灯された建物の中で三人、雁首並べてがっつく。

「確かに…料理の腕は上がってきたようじゃのう…あかね君は。」
 玄馬が汁椀を飲みほしながら言った。
「でしょ?」
「でも、まだまだ免許皆伝とは言えねえな…。焦がしてるようじゃ…。」
「うるっさいわねっ!」
 ムッとして乱馬を見据えるあかね。

「腹いっぱいになったところで、少し横になるぜ…。やっぱ、まだ身体が休養を欲してやがる。」
「何か、体内時計がなかなか日本時間に合わないのねえ…乱馬は。」
 あかねは乱馬を見ながら吐きだす。
「何故か…無性に眠くなる時があるんだよ…。」
 フッと乱馬は溜息を吐きだす。
 そうなのだ。日本へ帰国してこの方、もう一週間は過ぎたというのに、時折、激しい眠気が降りて来るのだ。
「さっさと寝るに限るな…乱馬よ…。」
 玄馬も乱馬の様子を見て、コクンと頷く。
「ああ…。もう、喋るのも億劫なくれえ、眠いんだ…。悪い…先に床へ行くぜ。」
 そう言いながら、乱馬はおおあくびをこきながら、先にベッドへと身を横たえに行った。
 あかねはふっと表情を緩めると、食事の後を片付け始めた。文句を言いながらも、作った分はぺロッと平らげた乱馬。まだまだ精進を続ける必要はあったが、あかねなりに少しは料理の腕前が進歩したのだった。
「あかね、おめーも、寝とけよ…。」
 ベッドから乱馬の声がする。
「ハイハイ…。あたしも寝るわ。油や蝋燭が勿体ないし…。」
 フッと灯りを消すと、あかねは寝床へと入る。枕元には蝋燭の頼りげ無い灯りがゆらゆらと燃えている。それも、後少しで消えるだろう。

「ねえ…乱馬…。」
「あん?」
「乱馬、昼間…。どうしてあたしが溺れたのがわかったの?」
 あかねは率直に疑問をぶつけてみた。そうだ。乱馬は玄馬と少し離れた場所で修行を続けていた筈だ。。なのに、すぐさま、都合よく助けに現れたのが、あかねには不思議だった。
「気だよ…。」
 乱馬はするりと答えた。
「気?」
「そうさ、気さ…。あの時…一瞬、おめえの気が乱れた。」
「え?」
「おまえの体から発せられる気の流れが乱れたんだ。それで危険を察知した…。それだけのことだ。」
 乱馬は淡々と吐きだした。
「気の乱れ?乱馬…そんなのわかるの?」
「ああ…。三年間の放浪修行の成果かもな。まだ、そんなに上手く探れる訳じゃねえけど…。おまえは俺にとって…その…特別な存在だからな…。だから、乱れたのがすぐわかった。」

「特別な存在」。あかねのことをそう言ってしまって、自分で照れたのか、乱馬はそのまま黙ってしまった。
 あかねはその言葉が嬉しくて、ふっと微笑を零した。
「そんな、可笑しなことじゃねえだろ?助け上げることに夢中だったんだからよ…。」
 あかねが笑ったので乱馬が旋毛(つむじ)を曲げた。
「可笑しくて笑ったんじゃないわよ。その…ちょっと嬉しかっただけよ。」
 あかねを見上げた顔をほっと緩めると、そっと手を伸ばす。
「おまえは特別なんだ。こうしてると安心できる。」 
 柔らかい腕があかねの身体に伸びてきてそっと包んだ。
「だから、俺のものにしてえ…。」
「それって口説いてるの?」
「そんな下衆なもんじゃねえよ。」
 引き込まれた腕の中、あかねはトクンと波打つ己の心臓を感じていた。
 じっと頭をくっつけて、乱馬の腕の中にすっぽりと収まる。
「なあ、あかね。」
「え?」
 あかねはくんと顔を持ち上げた。すると乱馬の優しい瞳に出会った。
「俺だって男だ。本当はおまえをこのままこの腕の中に、今すぐにでも深く沈めて一つになりたい気持ちはある…。でも…今暫くこのまま、純潔を保っていたいんだ…。」
 お互いの純潔。許婚でありながらずっと保ってきたもの。手を伸ばせばいつでも破ることはできた。でも、敢えて破らなかった。いや、破ることが出来なかった。
「この闘いに勝つまで、俺たちは結ばれちゃいけねー…。上手く言えねえが…その…何かがそう警鐘を鳴らすんだ。」
 柔らかな吐息があかねのすぐ傍で漏れた。
「魔龍と闘いに終止符を打ったら…その時は、晴れて一つになろう…。あかね。それまで待っててくれ…闘いに勝つまで。」
 乱馬の腕は広くて暖かい。
「ん…。乱馬がそう言うのなら、あたしも無理に求めない…。」
「でも、己の欲望を抑えるのは大変だな…。本当は深く交わりたいくせに…。狂おしいほどの情熱が行き場を無くして空回りしてやがる…。」
「それくらいあたしのこと愛してくれてるんでしょ?」
 あかねは悪戯っぽく乱馬を見上げた。
「ちぇっ!いい気なもんだぜ…。俺の弱いところ突いてきやがって…。」
 乱馬の唇が軽くあかねの唇へ触れた。
「でも、あかね…。眠るときはずっと、こうさせてくれ…。おまえと肌を合わせているだけで気が休まるんだ。この先を知るのは後でもいい。でも…安らぎはずっと感じていてえ…。心も身体も癒されてえ…だから…。」
 そう囁くと乱馬は目を閉じた。腕に抱く大きな安らぎ。規則正しい息遣いが漏れ始める。多分、眠ってしまったのだろう。
「意地っ張り…。」
 あかねは乱馬の鼓動を聞きながら微かに呟いた。
 
 愛している…。愛されている…。
 
 緩やかな愛情が、肌を通じて互いの心を行き交っていく。激しさだけが情熱ではない。
 許婚として出会い、互いを高め、闘いながら築いてきた確かな愛情。冒しがたい聖域でもあった。
 とっくに交わりを持ってもいい関係なのに敢えてそうしない自分たち。純粋なほど、プラトニックを貫いている。
 それでいいとあかねは思った。自分たちらしいと思った。
 大切に愛されている…。そして、自分も大切に愛したいと思っている。

「絶対、魔龍を倒してね…。それから、一つになろう…。あたしは、離れないから…。ずっと、乱馬の闘いを見守るから…。」

 あかねは眠る乱馬にそう囁きかけると、自分も目を閉じた。
 互いの身体を慈しむように抱き抱かれたまま、深い眠りへと落ちてゆく。
 悠久の時の中にある、恐れも迷いも無い、柔らかな休息の眠りの泉。闘いの前の戦士の休息。

 窓辺から覗く、いびつな形の月が二人を照らし出す。にっこりとほほ笑みながら、若い二人と見詰めていた。




つづく







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