◆蒼い月と紅い太陽
第十話 闇の中のふたり
一、
「こら、なびきっ!てめー、よくも俺のプライベイトを踏みにじってくれたなあ。」
ぎゅうっと握りこぶしを作りながら、乱馬はなびきへと食ってかかった。
「ホントにそうよっ!何てことしてくれたのよっ!」
隣であかねも一緒に苦言を垂れる。
当然である。
あれから社内は騒然になった。
早乙女乱馬の婚約発表が、センセーショナルに行われたのだ。
しかも、婚約者は御社の女性社員だ。となると、騒然にならない方がおかしいであろう。
乱馬自身があかねの名前を大きく口走ってしまったので、誤魔化しようも無かった。
結果、祝福の嵐。あかねも乱馬も、周りからシッチャカメッチャカ揉みまくられた。
「あら…あたしはお礼こそ言われても、文句を言われるようなことは、これっぽっちもしていないわよ。」
なびきは小指の先を立てて見せながら、澄まし顔で言って退ける。
「何、いけしゃあしゃあと言ってやがんでー。」
「そーよ!あたしもこれじゃあ、明日からまともに仕事なんかできないじゃないのっ!」
あかねも口を尖らせる。
「別にこのまま寿退社で良いじゃないの。」
なびきはするっと口にした。
「他人事のように言わないでよ、お姉ちゃん。」
あかねはムキになって姉へ怒声を浴びせかける。
「あら、他人事なんて思って無いわよ。姉としての最大の心遣いよ。」
となびきは頬杖をつきながら、あかねの方へと見返った。
「何が心遣いよっ!」
あかねはまだ怒りが収まらないのか、なびきを睨みつける。
それを一蹴するかのようになびきは言った。
「あたしのようにビジネスウーマンがはまる女ならともかく…あかね、あんたは、家庭へと素直に収まった方が良いタイプでしょう?ねえ、乱馬君。」
「何で俺に振るんだ?」
乱馬がなびきを顧みると、
「あら、あんた言ってたじゃないの。あかねは二足のわらじは履けないって。」
ふふんとなびきは鼻先で笑いながら笑ってみせた。
「まあ、確かに言ったけど…。」
ボソッと乱馬が吐き出すと、あかねが今度は彼へ向けてギロリと眼(まなこ)をヒンむいた。
「何よっ!それっ!」
当然、喧嘩腰である。
チッチッチッと人差指を立てて横に振りながら、なびきがあかねと乱馬の間へ割って入った。
「あかね、あんただって自分の不器用さは百も承知でしょう?あんたの場合、専業主婦に徹して、夫の乱馬君を支えていくのが良策よ。」
「そりゃあ、あたしだって、機会を見て、仕事は辞めるつもりだけど…。でも、それとこれは話が別よっ!」
納得がいかないあかねは、執拗に姉へと食い下がる。
「別じゃないわよ。良い、潮時を与えてあげたんだから。」
なびきは一歩も引かない。というより、最初から妹など、てんで相手にしていないようだ。
「これのどこが潮時なのよっ!」
バンとあかねはちゃぶ台へと手をついた。
「たく、俺もそう思うぜっ!」
乱馬もあかねに肩入れをしながら、身を乗り出して来た。
「ほんと、一から説明しなきゃわかんないのかしらねえ…、乱馬君も。」
ふうっと溜息をついて見せる。
「いいこと?これから乱馬君を売り出して行くのに、あんたの会社と組むのは上策なのよ。新展開するウエディング部門の最初の宣伝に起用して、最大限に利用したら、あんたたちだって挙式の必要経費がグッと安くなるでしょう?挙式資金が安くなれば、それだけ新婚生活に回せるんだから。」
「おめーは、損得勘定のことしか頭にねーのか?」
乱馬が呆れ顔を手向けると、なびきは手を振りながらそれに対してきた。
「だから、まだ、蒼いのよ、あんたたちは。お金は無いよりある方が良いに決まってるじゃない。
こっちだって慈善事業をやってるわけじゃないんだし、ビジネスサイドから考えていかなきゃならないんだから…。あんたたちの挙式を格好の宣伝案件として使わせて貰うわよ。」
「なびき…てめーは妹の結婚まで、己のビジネスの餌食にするつもりか?」
「あら、当然でしょ?最大限にビジネスチャンスを活かして活用していくのがあたしの仕事だもの。妹の結婚式だって最大限に利用させてもらうわよ。我が社の儲けに繋がることなら…ね。」
「なんだとっ!」
「お姉ちゃんっ!」
乱馬とあかねが顔をしかめるのも当然だった。
どこまで業突く張りなんだと、半ばあきれ顔でなびきを見返す。
「それに…。」
なびきは鞄から書類を出して、それを右手にちらつかせながら続ける。
「この契約書がある限り、あんたたちに勝ち目は無いわよ。」
と、乱馬とあかねのサインがある契約書を目の前に差し出す。
「これは…。」
「あの時の…。」
「そっ!ドレスは指定業者に任せますっていう契約書よ。この場合、あかねの会社が指定業者なの。そして、乱馬君のスポンサーでもあるわ。これがどういう意味か、わからない訳じゃないでしょう?」
余裕綽々、言葉を投げつけるなびき。契約書を目の前に出されると、乱馬もあかねも引き下がるしかないだろう。
「てめー…最初っからこれを狙って…俺たちをはめやがったな…。」
グググッと乱馬は握りこぶしを作る。
「だから言ってるでしょ?ビジネスに繋がることなら、何だって最大限に利用するのがあたしのポリシーなの。
いいこと?これを断ったら、うちの社運をかけたウエディングプロデュース事業は成り立たないわ。で、あんたがブッ壊した式場の修理代を耳を揃えてすぐに払って貰うことになるけど…。それでも良いの?
あれだけ大々的にあかねをフィアンセとして紹介もしちゃったし…。ねえ…。」
ぐいぐいと圧されては、二人はぐうの音も出ない。
この姉が描く、ビジネスプランの図絵を崩そうなら、己たちの結婚どころではなくなるだろうことは目に見えていた。
二人が押し黙ったことを良いことに、なびきは一人で続けた。
「良いこと?あんたたちの婚礼は六月の吉日。我が社と乱馬君のスポンサーとなった数社で仕切るわ。」
「お…おい。スポンサーはあかねの会社だけじゃねーのか?」
「あら、当然よ。一社な訳ないわよ。心配無用よ。こっちで全部仕切るから。」
と平然と言い放つなびきだ。一枚どころか何枚も乱馬の上手を行く、金の亡者である。
「ってことで、あかね。あんたの最後のお務めは、ウエディングドレスに身を包み、精一杯、乱馬君の花嫁を立派に勤めあげることよ。そのことだけにこれからは集中して貰うわ。だから…向こうひと月ほどは、あんたは出社しなくて良いわ。」
「ちょっと、何?お姉ちゃん、それ…。」
あかねが口を挟んだ。
「何って…聞いた通りよ。あんたは明日から自宅待機よ。」
「はあ?」
ときびすを返したあかねに、なびきは続けた。
「マスコミの対応とか色々あるから、あんたは出勤しなくて良いってことよ。あ、大丈夫よ。会社都合だからちゃんと御給金は貰えるわよ。」
「ちょっと、お姉ちゃん…もしかして、あたしに内緒でそんなことを交渉してきたの?」
「あら、当然よ。」
「何で、勝手にそんなこと…。」
「あんたは自分の身に降りかかる火の粉を乱馬君共々振り払えってことよ。」
「火の粉?」
「ええ…。あんたをつけ狙う黒い影を乱馬君共々、払拭しなさい。但し、猶予は一か月…。」
「なびき…まさか…てめー…。あかねに余計な気を遣わせねえように…。」
黙って二人のやりとりを聞いていた乱馬が、ハッとした表情でなびきを見返した。
「やっとわかったようね…。乱馬君は。」
キョトンとするあかねを余所に、なびきは言い放った。
「そういうこと…。この先は、乱馬君、あんた一人の力だけでは通用しないんでしょ?あかねの助けも必要になるんじゃないの?
あかねが出社しないで良いのなら、乱馬君だって動き易いでしょ?
それを慮(おもんばか)っての、あたしの精一杯の差し金よ…。姉としてのね…。」
「たく…恩着せがましく言いやがって…。」
ボソッと乱馬はなびきへと言葉を投げた。
「じゃ、あたしはまだ他に詰めなきゃならない仕事があるから…。」
なびきはそれだけを言うと、スッと腰をあげた。
そして、後は二人で形をつけろと言わんばかりに手を振りながら、茶の間を出て行ってしまった。
残されたのは、乱馬とあかね。
乱馬はなびきの真意が汲み取れたが、あかねには疑問符がたくさん点灯しているようだった。
「なびきもああ言ってくれたことだし…。」
乱馬はすっと座りなおして、あかねへと向き直った。
「一体、何なのよ…。あたしには全然、話の筋が見えて来ないんだけど…。」
困惑げにあかねは乱馬を見返した。
真摯に投げかけられる乱馬の瞳。彼にはどうするべきかわかっている様子だった。
「見えねえで当り前だ…。おめーには肝心なことを何一つ話しちゃいねーからな…まだ。」
「肝心な話って?」
キョトンとしている円らな瞳に、乱馬は言った。
「これから話す。だから、道着に着替えて道場へ来い。」
「道場?」
「ああ…。道場だ。すぐ来いよ…。話はそれからだ。」
そう言いながら、乱馬は立ち上がった。
「もう、一体全体、何なのよ…。お姉ちゃんも乱馬も…。」
あかねは困惑げな表情を浮かべながら、言われたまま、道着に着替えるべく、茶の間を後にした。
二、
シンと静まりかえる春の宵。だんだん膨らんで満月に近づく、いびつな形の月が、薄雲に包まれて、ぼんやりと天上から道場を照らしていた。
道場まで渡る廊下には灯りが無い。心細げに渡る廊下の向こうから道場の窓から漏れる蛍光灯の光。かすかにあかねの足元を照らしていた。
先に乱馬が道場に入って、蛍光灯のスイッチを入れたのだろう。
暗夜の中に灯る光に導かれるように、あかねは廊下を渡って行く。
廊下にはスノコが敷かれているので、靴なしでも渡って行ける。従って、裸足だ。
冬が去り、ひんやりとした冷たさは脚先からは感じられなかった。
ふと、あかねは道場の脇に佇む、古井戸へと視線が流れた。今では珍しい、四角の井戸だ。
井戸蓋がしっかりと上から乗せられ、四辺の真中辺りに、白い封印のお札が貼り付いている。
乱馬が帰って来たあの日、己は井戸から出た化け物に襲われたのだ。
瘴気にさいなまれ気を失う寸前、助けに入ってくれた逞しい背中が目に飛び込んで来た。
後のことは自分は知らない。姉や乱馬の父・玄馬の話から想像するに、乱馬と父、早雲が二人がかりで魔物を井戸に押し込めたという。
そして、乱馬が語るには、まだ完全に化け物を滅した訳ではない。封印する刹那に飛び散った七つの玉が全て回収されてはいないからだ。
井戸蓋の下から、得体の知れない何かが蠢いてまだ自分を狙っている…そんな陰湿な感じがした。
思わず、足を留めたあかねは、ブンブンと首を振った。
「大丈夫よ。乱馬が…あたしを守ってくれるわ。あかねっ!気を確かに持ちなさい。彼を信じていれば、必ず全てが丸く収まるわ。」
意を決するように井戸から目を離すと、あかねは道場へ向けて、足を進めた。
何が起こっているのか、自分はまだ十分に把握している訳ではない。一体この先、どうなるのか。正直、不安はつのるばかりだが、だからと言って、逃げる訳にも行くまい。
乱馬には何がしかの決断を強いられるかもしれないが、何事が起ころうとも、乱馬を信じて付いて行く。その決意だけは揺るがないと、自分に言い聞かせた。
道場の中では、乱馬が縦横無尽に駆け巡っていた。
己に気合いを入れるためだろうか。
「でやーっ!たああーっ!」
床板を蹴り、振りあげる脚。
シュッと音を発して空を舞う拳。
美しいまでに鍛え抜かれた筋肉。
どれをとっても、三年前とは格段に鋭さが増していた。
躍動する彼の姿態に、思わず見惚れて、戸口から入れずに足を止める。
同じ格闘家としての憧憬の念だけでは無い。明らかに異性として彼の姿を捕えている自分が居た。
自然に、彼を見詰める瞳に熱がこもる。
近い将来、あの美しき肉体に抱かれて女としての新たな目覚めの時を迎える…そんな妄想が頭をよぎり、思わず頬を赤らめた。
(やだ…あたしったら、何てこと…考えてるのよ…。こんな時に…。)
ふつっと溜息を吐きだした。
そんなあかねを見透かしたように、乱馬は動きを止めた。
「あかねか…。そんなところに突っ立ってねーで、中へ入れよ。」
滴り落ちる汗をぬぐいながら、乱馬は道場から誘いの声をかけてきた。
「え…ええ。」
己を覆っていた「妄想」を払拭するように、軽く頷くと、あかねはそのまま道場の板の間へと足を踏み入れた。
道場。
それは、格闘家にとって、神聖な場所だ。
元々、格闘技は神に捧げられる荒神事の一つだとも言う。陰陽、二つの影が競い合い、吉兆を断ずる一つの形態だとも言われている。
日本の国技と称される「相撲」も神前で行わていたくらいだ。
故にか、長らく、武舞台は女性に上がることは許されなかったし、未だ、大相撲の土俵に女性は上がれない。
それはともかく、天道家の道場「天武館」にも、たいていの道場がそうであるように、きちんと神棚が祀られている。
その神棚の袂に掲げられた、「はろい」と大きく書かれた額。いや墨字は右から左へ向かって読むので、正確には「いろは」だ。その額の前に座して、静かに向き合って正坐する。
まだ、乱馬は先ほどの武技の波動が体内に残っているのか、心なしか、気が荒かった。
「座れ…。」
まず、一言、乱馬はあかねへと声をかけた。
差し向かいで二人は座して互いを静かに見詰め合った。
背筋をピンと伸ばして、乱馬が静かに言った。
乱馬の目は一縷の曇りも無く、真っ直ぐにあかねに伸びてくる。
「あかね…。おめーに伝えておかなきゃならねーことがある。」
真正面に坐した乱馬は、そう言いながらはっしとあかねを見据えた。
凛とした空気が道場内を流れて来る。
ピンと張り詰める緊張感。
一体、彼は何を語ろうとしているのか。
無論、真面目な話であることは揺るぎが無い。得も言えぬ緊張感を背後に背負う乱馬を見ていて、それは重々承知だ。
「その前に、一つ…。おめーに確認したいことがある。」
そう言いながら乱馬はあかねを澄んだ瞳で見詰めた。一点の曇りも無い乱馬の漆黒の瞳が、グイッと己を捕えて来る。
言葉の代わりにあかねはゴクンと一つ、唾を飲み込んだ。
「あかね…。これから先、何があろうとも…おめえは俺を信じてついて来る覚悟はあるか?」
真摯な瞳はあかねを捕えた。
高校生の頃より上に伸びた乱馬の肩。精悍になった顔つき。もう少年の面影は残っていない。青年の凛々しさがそこにあった。
視線を外したい心境にかられたが、あかねは決して乱馬から目を反らさなかった。
「も…勿論、あるわ。」
震えながらも、はっきりと答えた。
「おまえと結ばれる前に、俺は…俺にはどうしてもやらなきゃならねえことが一つある。だが、恐らくそれは、修羅へと繋がる厳しい結果を招くかもしれねえ…。この手を血に染めなきゃならねーこともあるかもしれねえ…。が…それでも、おめーは俺について来るか?」
静かだが、声が響き渡る。
暫し静寂が二人を包んだ。互いの息遣いが聞こえてくるほどに、辺りは静まり返っている。
何かわからないが、とてつもなく大きな決意を持って、乱馬がこの場に臨もうとしていることだけは、あかねにも察しがついた。
「乱馬がそれを望むなら…。あたしはついて行くわ。」
「おめえに辛い決断を強いることがあっても、その意志は変わらねえか?」
「もとい、覚悟はできているわ。あたしだって武道家の端くれよ。一度決めたことは何があっても覆さないわ。」
あかねは噛みしめるように答えた。強い意志の言葉だった。
その言葉に二言は無い。決して軽い気持ちから言った言葉では無かった。
「なら、覚悟しておいて欲しい…。俺は…。おめーの父親、天道早雲と命を懸けて闘わなきゃならねーことになりそうだ…。」
乱馬も膝に手を置いたままじっとあかねを見据えた。
その言葉を聞いて、あかねの瞳が小さく開いた。
えっという表情で乱馬を見返す。
「今…何て言ったの…。お父さんと闘うって?」
そう問い質そうとした矢先のことだった。
風が渡り引き戸を鳴らせた。
一瞬の沈黙が二人の上を流れる。
何か嫌な気配がそこに入り込んで来たような殺気を感じた。
ジジジッと音がして、ふっと天井から照らしつけていた蛍光灯の灯りが、一斉に消えた。
まるで、蝋燭を吹き消されたかのように、一瞬で辺りは暗闇に包まれる。
と、その気配に尋常ならぬものを感じたのだろう。乱馬は咄嗟にあかねを抱きかかえ、暗がりの中、
横へと飛んだ。
ジュッと音がして、目の前を閃光が走った。稲妻のような一瞬の光だ。
「きゃっ!」
あかねは小さく叫んで、思わず己を守ろうとした腕にしがみ付く。
「大丈夫だ。俺がついてる。」
目の前で逞しい腕があかねを支えていた。当然、乱馬のものだった。
と、背中がゾクッとざわめいた。何かとてつもなく嫌な気配が傍に現われた気がしたからだ。人の気配というよりは、鬼神の気配とも言うべきだろうか。
乱馬はあかねを抱きかかえて、ゆっくりとその陰湿な気配を放つ影に向かって声をかけた。
「随分、手荒なことするじゃねーか…。おじさん…。いや、お義父さん…。」
乱馬は背後に立った影に向かって吐きつけた言葉に、あかねはハッと目を見開いて振りかえる。
窓から差し込んで来た月光に照らしだされた影は、見覚えがある姿だった。
長い髪を後ろになびかせ、すっくと腕を組んでこちらを睨む影。
そう。父、天道早雲の影であった。
三、
「ふふふ、流石だな…乱馬君。我が雷撃を一瞬で悟って避けて見せるとは…。しかし…。私はまだ、君にお義父さん呼ばわりされる覚えはないがね…。」
紛れも無い、早雲の声がそこに響いていた。
「お…お父さん。」
あかねが乱馬の腕を振りほどいて、早雲に駆け寄ろうとした途端だった。
「ダメだ…。あいつはおめー良く知る父親じゃねえっ!不用意に近づくなっ!」
と乱馬に一蹴された。そして、乱馬はあかねを抱えると、再び少し横に跳び、影から間合いを取って離れた。
「ど…どういうこと?」
あかねは乱馬に守られるように抱きとめられながらも、問い質して来た。
「あれを見な。あかね…。」
乱馬がアゴで指示した場所。あかねの居た辺りの床が、黒焦げになって凹んでいるのが見えた。ブスブスと音をたてながら、床板が焦げている。乱馬が咄嗟に抱えて飛んでくれなければ、己が黒焦げになっていたところだろう。
「あいつは天道早雲であって、そうじゃねえ…。面は同じだが、魂は大きく穢されちまってる。」
「どういうこと?」
「あれはおめーをつけ狙う魔龍の一匹だ。そいつに、おじさんは魂ごと乗っ取られちまってるんだ。それが証拠に…俺の腕にあるこの数珠がさっきからざわざわとざわついてやがる…。」
「ふふふ…。随分な言い方じゃないか…。私は君が娶ろうとしているあかねの父親だよ?」
「じゃ、聞くが、実の娘に向かって邪気を孕んだ雷撃を食らわせる父親が、どこに居るってんだ?」
はっしと影を見据えながら、乱馬は怒声を浴びせかけた。
「何、君に靡く娘の姿を見て、投げつけた一種の父親のジェラシーだよ…。あれはね。」
影はクスッと笑いながら言った。
「あれがジェラシーっていうのかよ…。俺には、娘の許婚諸共、破壊しようとしたようにしか見えねーぜ…。」
「たく…。もう少し口のきき方を勉強した方がよさげだねえ…。乱馬君は。そんなんじゃ、あかねを君には任せられられないね…。」
「だったらどうするってんだ?」
乱馬はゆっくりと影へ向かって言葉を投げつけた。
「許婚の件は破棄ってことになるかな?」
あかねは父の発した言葉に耳を疑った。乱馬との婚儀を一番望んでいたのは父なのではないか。
「ちょっと、お父さん。何よそれっ!言っときますけど、そもそも、乱馬を最初にあたしの許婚にしたのは、お父さんだったじゃないのっ!」
思わず声をあげて身を乗り出しかけたあかねを、横から乱馬が静かに右手を出して制した。ここで飛びだされては、相手の思うつぼだと判断したからだ。
「あかねの言うとおりだぜ…。随分、乱暴な話じゃねーか…。人の意志はオザナリにして、勝手に許婚にしてくれたってーのによ…。」
乱馬は影へと言葉を吐きつけた。
「だから破棄にしてあげようっていうんだ。気に食わないかね?」
影は面白がって、煽っているようにも見えた。
「ああ…。気に食わねえな…。最初のきっかけはどうだったにせよ、俺はあかねを手放す気はねーんだ。魔龍の手には渡さねえっ!」
振り向きざまに、乱馬は気弾を放った。
ドオオン。
と音が弾けて、影が飛び散ったように見えた。
「たく…するに事欠いて、この私に刃を向けようとは…。まあ、それは良い…。ならばこうしようか…。私と闘って勝利すれば、あかねとの婚儀を認めてやろう…。
だが、君が負ければ…あかねとの婚約は破棄させてもらう。当然、あかねは私が用意する別の者と結ばれてもらう。どうかね?」
随分、乱暴な話である。そもそも、早乙女家と天道家の縁組を模索していたのは、乱馬とあかねの父親同士だ。それを根底から破棄しようというのである。
「否を言ったところで、聞きいれるつもりはねーんだろ?」
乱馬は身じろぎひとつせずに、乱暴に言葉を返した。
「当然だよ。もっとも、今、ここでという訳にもいかないからねえ…。ここは我が先祖から受け継いだ大事な場所だ…。それに、私も準備があるからねえ…。君だって準備したいだろう?
折角の闘いだ。万全で臨まなければならない…。だから…。」
「だから?」
「時間と場所はこちらから指定するよ…。玉が作りだす最高の場所をね…。」
「そっちの掌の上での勝負か…。」
「気に食わないかね?」
「まーな…。だが、受けるしかねーんだよな?」
「物分かりが良い。」
「で?いつ、どこで勝負するんだ?」
「今日から数えて十日目の満月の日…。」
予め、早雲はそのつもりにしていたに違いない。よどみなく、戦いの日を指定してきた。
「あいわかった。今日から数えて十日目…満月の日だな…。で?場所は?」
「ふふふ…こちらから出向いてやろう…。」
「おじさんの方から出向いて来るって?」
「ああ…。おまえの気配を追って出向いてやる…。それで良かろう?」
「あいわかった。約束の日に俺が居る場所が決闘の場所だな?」
乱馬ははっしと早雲を睨みかえした。
「ふふふ、せいぜい首を洗って待っておくんだね…無論、私は手は抜かないよ。全力で君を殺しにかかるつもりだ。」
寒々とした言葉を、早雲は平気で乱馬へと投げつけて来る。
「お父さんっ!正気なの?」
割って入ったあかねの言葉を早雲は制した。
「ああ、正気だよ。武道家たるもの、常に強き相手と遣り合う事は、一種、本能が求めることに違いあるまい?あかね、おまえも武道家ならわかる筈だ。」
「だからって、何で乱馬と闘う必要があるの?」
「乱馬君が強いからに他ならないよ…。あかね。私は一度は彼と思い切り手合わせしてみたいと思っていたんだ。
わくわくするじゃないか。強い者と闘えるなんて…。だから、当然、手を抜くつもりはない。乱馬君も私を殺すつもりでかかって来たまえよ。」
くすっと早雲は笑った。まるで、闘神に魅入られた瞳が暗がりで輝いている。
思わずあかねは、ゴクンとツバキを飲みこんだ。乱馬ではないが、確かに目の前に居るのは、早雲の顔はしているが、別の人格であった。否、早雲の武道家としての意地が見せた彼本来の本性なのかもしれない。
「でも…。」
父親と婚約者が命を賭して闘うと言うのだ。板挟みになるあかねは、気が気では無かった。必死で止めようと食い下がるのは、当り前の行動だろう。
が、乱馬はグッとあかねの身体を抑え込んだ。
「あかね…。おめーには辛い選択を強いることになるって言ったろ…。これは化け物を退治するためには避けられねえ戦いの一部だ。」
「それって…どう言う事?まさか、お父さん…化け物に…。」
「察しの通りだよ。あかね。でも、私はあえて己の身体へ魔龍を受け入れたんだ。乱馬君と闘うためにね…。」
早雲はそう吐きつけた。
「己が、人生に於いて一度くらいは命を賭した賭けをするものまた一興でだろう?ワシも武道家。乱馬くんと闘うのも悪くは無い。いや、同じ無差別格闘流を修錬した我が好敵手、早乙女君の息子の息子だからこそ戦ってみたい。」
「そういうことだ…あかね。おじさんの闘いへの強い憧憬の念が、魔龍を己が身体へと引き入れちまったんだよ…。井戸へと封印される刹那に弾けた玉の威力によってな…。」
乱馬は早雲を睨みながらそう吐きつけた。
「そうか…。やはり、君も薄々とは気付いていたんだね。」
「ああ…。あの封印の刹那、おじさんの持っていた玉は弾け飛んだ。恐らく、その一瞬の隙を狙って、魔龍の玉がおじさんに憑依した…。そうだろ?」
「なかなか侮れないね…。そうさ。あの時、確かに、私の身体に魔龍の一部が混入した。
それだけわかっているなら話しは早い。君も早乙女君から聞かされて承知しているかもしれないが…。私は全力で君を倒す。だから君も…。」
「全力で闘えって言いたいんだろ?」
「ああ、そうだよ。そのくらいの気概は背負っていて欲しいね。でないと面白くなかろう?」
早雲は愉快そうに微笑む。
「わかった…俺もまた武道家だから…闘う相手への礼儀として、本気で倒しに行く…。そして、魔龍、おめえを再び長き眠りへとつけてやる…。」
と、早雲の瞳が暗闇の中で真っ赤に光った。
そして、早雲の口から確かに吐き出された黒い霧。そいつが早雲の口を借りて言葉を紡ぎ始める。
『ふふふ…良かろう。若者よ…おまえの死か、その娘の父親の死かか…二者択一…。なかなか酔狂な闘いとなろう…。ふふ…、せいぜい修行してくるんだな…。』
おどろおどろしい声だった。
「俺は勝つ。あかねの親父も死なせねえ…。絶対に…。」
乱馬は言葉を吐きつけた。
『せいぜい楽しませてくれよ…。はははは…。』
早雲は魔龍の声を響かせながら、闇へと吸い込まれるように、消えて行った。
三、
早雲が去った後も、乱馬とあかねは身じろぎ一つしないでその場に佇んでいた。
心なしか、あかねの肩が震えている。
この闘いは避けられない…あかねも観念した。観念したが、感情が収まる素振りは無かった。
武道家二人の意地がぶつかり合う。止めに入ったところで、止まるものではないだろう。
言わば、宿命とでも位置づけられた闘いになるからだ。
さっきまでの緊張感から開放されて、二人は静かに道場のど真ん中に座っていた。
あかねのすぐ傍には、早雲が技を投げつけて壊した板が黒く焦げ目を残している。
「乱馬…。」
あかねが顔をあげて、乱馬を見上げた。その瞳は困惑で揺れている。
「悪かったな…。今まで一番肝心なことを、おめーに黙っていて…。へへっ、余計な手間が省けたかな…こりゃ…。」
力無く、ポツンと彼は言葉を投げた。
そうだ。早雲に魔龍が憑依したことを、乱馬は知っていたのだ。
思えば不可解なことが多すぎた。化け物を井戸へと封印して以来、あかねは早雲を見ていない。
早雲はいずこかへ逐電してしまったのだ。
恐らく、姉たちはとっくに真実を知っていたのだろう。
さっき、茶の間でなびきが言ったことが、耳奥でこだまする。
『あんたは自分の身に降りかかる火の粉を乱馬君共々振り払えってことよ。』
『火の粉?』
『ええ…。あんたをつけ狙う黒い影を乱馬君共々、払拭しなさい。但し、猶予は一か月…。』
『なびき…まさか…てめー…。あかねに余計な気を遣わせねえように…。』
乱馬はその口で確かに、そう言っていた。
恐らく乱馬が改めて道場に呼び出してあかねに話したかったことは、今、目の前で繰り広げられた事に絡んでのことに違いあるまい。
父と許婚の闘い。それは不本意な事に違いないが、避けて通れない。
自分はそれを見届ける義務がある。
この天道家の娘として挑む、最後の闘いが始まるのだ。
あかねはそっと乱馬の顔を見詰めた。乱馬は瞬きもせず、じっと正面を見据えているようだ。
蛍光灯は消えたままだったので、その表情は伺い知れない。しかし、彼から発せられる気は、普段の穏やかなものに立ち戻っていた。
「悪かったな…あかね。肝心な事を一番最後までおめえに話せなくて。」
ポツンと乱馬は言った。
「あたしこそ、相変わらず鈍くてごめんね…。お姉ちゃんたちはとっくに気付いてたのに…。考えたら変だよね。お父さんがこの家を飛び出したことだって…。」
「俺も気付けなかったことに関しちゃ、同罪だな…。親父に呼び出されて指摘されるまで何も察せなかったからな…。」
「え…?おじさま?」
意外な名前が乱馬の口を吐いて出てきた。
おじさま…つまり乱馬の父、早乙女玄馬の名前だ。
「ああ…。親父の野郎、予め、早雲おじさんから直接、示唆を受けてたらしいんだ…。
で、実は俺、親父から直接連絡を貰って、日本へ飛んで帰ってきたんだ…。」
無論、あかねには初耳である。
「どういうこと?」
「俺は電話口でおめーの家が大変なことに巻き込まれてるって、親父に煽られて…予定を一週間ほど早めて日本へ帰って来たんだよ。
そうしたら案の定だ。井戸端から飛び出した化け物がおめーを襲って暴れてたって訳だ。」
「そうだったの…。」
「あの井戸の化け物は、何でも江戸が出来た頃、おめーの御先祖たちによって鎮められた魔物なんだそうだ。」
「江戸が出来た頃って…?」
「徳川初代将軍、家康が江戸に幕府を開いたころだからざっと四百年ほど前のことかな。
おじさんが親父にくっちゃべった話をまた聞きしたところによると、何でも大江戸八百八丁を作る時、跋扈していた魔龍を封印して閉じ込めた冥界へ繋がる唯一の出入り口が、おめーの家の古井戸らしいぜ。」
「そ…そうなの?」
「ああ…。かすみさんやなびきも同じことを言ってたから、間違いねーだろう。で、おめーの家は代々その古井戸の結界を崩さないように守ってきたらしいぜ。
だが、悠久の時を経て、結界が揺るんじまって、化け物が復活したのが今回の騒動らしい…。」
「そうだったの…。」
「前兆があったらしいな…。春先、井戸の水が濁ったんだって?」
「ええ…お彼岸頃だったかしら。突然、真っ赤な赤さびのような水に変わっていたから、驚いちゃったわよ。血の色のような濁った赤い水だった…。」
「なるほどねえ…。結界崩落の前兆じゃねーかって、おじさんは一切を俺の親父に語ったみてーだ…。」
「お父さんがおじさまに?」
「ああ…春先、水が濁った頃から、俺の親父にいろいろ相談していたらしい。あのスチャラカ親父が真顔で畳みかけてきやがったから…相当、やばいと思ったんだろうな…。もし、化け物の再封印に失敗したら、後は俺に託せって伝言までしたっていうらしいからな…。」
「そんなことがあったの…。あたし、全然知らなかったわ。」
あかねはふっと溜息を吐きだした。
恐らく、父のことだ。娘たちには微塵も悟られまいと振る舞っていたのだろう。元来、感度が鈍いあかねのことだ。そんな、父の徒労など、全く気にせずに居た。
「おめーが気に病むことじゃねーぜ。おじさんだって、考えなしに魔龍に身をのっとられた訳じゃねーと、俺は思ってるけど…。」
「どういうこと?」
「責任感の強いおじさんのことだ…。その、何だ。他の奴に魔龍を憑依させるくれーなら、己にって思ったんじゃねーかな…。あの刹那、魔龍に一番近い位置に居たのはおじさんだし、親父は結界の中に居たから部外者みてーなものだろうし…。
咄嗟に身体を差し出して、わざと魔龍を引き寄せた…俺も親父もそう思ってる…。」
「でも、お父さんが化け物に憑依されていることには変わりは無いわ…。」
あかねは困ったという表情を浮かべた。
「おめーらしくねーな…。何、黄昏てやがる…。」
乱馬はバシッと、あかねの背中を軽く叩いた。
「大丈夫…。俺は、負けねー…。それに、決して誰一人死なせはしねえ…。だから、あかね…。俺を信じろ。」
そう言いながらあかねの両肩へと両手を伸ばす。
「信じるわ…。乱馬ならきっと、上手くやれる。」
「あったりめえだろ?俺は格闘という名がついた戦いには負けたことはねー。勝つまでやり続けるのが俺のモットーだ。だから…。」
「約束よ…。魔龍を絶対、封印してみせるって…。」
「ああ…約束だ。絶対に違(たが)わねえ…。」
「なびきお姉ちゃんが作ってくれた有給休暇を、存分に生かして、あんたの修行に付き合うわ…。多分、それが、あたしが今、一番にやらなきゃならないことだろうから…。」
「ああ…。俺の傍から離れるな…。まだ、魔龍を宿した玉はおじさんのを含めても、四つ残ってる。俺も、今、おめーから離れるわけにもいかねーからな…。」
あかねの芳醇な香り。さらさらとした髪の毛と柔らかな肌への感触。
何故だろう。心身共に癒されていくような気がした。
いつか彼女の全てをこの身体に収めたいと思った。思えば出逢ったその日から追い求めてきた。
こうやって包むだけの行為で、落ち着く不思議な存在。彼女の発する気は柔らかで安らぎに満ちている。だからこそ、己の処に留めたい。そう思った。
想いが通じ、自分に素直になれた今でも、その切なる願いは、出逢った頃と何も変わらない。
…全てが終わったとき、俺はおまえをこの胸の中に収める。そしたらずっと離さなねえ…。二人で次の新しい未来を作っていこう…。だから…。
軽く目を閉じて、想いを馳せる。
立ち塞がる魔龍に恐怖を感じないことは無い。荒れ狂うであろう嵐の予感。
でも、彼女が傍に居れば大丈夫だと思った。
…名実ともに早乙女あかねになったら…その時はおまえの全てを俺が貰い受け、俺の全てをおまえに与える…。そして一つの無垢な魂になろう…。
それまでは絶対、何人にもおめーは冒させねえ…。俺が全身全霊で守り抜く…。この命を賭して…。
ふわっとあかねを抱きしめていた乱馬の力が抜けたように思った。
「乱馬?」
動きを止めた許婚をあかねはそっと覗き込むように仰ぎ見た。
まだ体内時計が変調しているのだろうか。乱馬はまどろみの中へと落ちてしまったようだった。あかねをしっかりと腕に抱きしめ、安らぎに満ちた顔で眠っている乱馬の顔がすぐ真横にあった。
「もう…。相変わらず緊張感がないんだから…。」
そう言いなら微笑みと共に、ほっと息を一つ吐き出す。そして体制を整えなおすと今度は自分の胸の中に乱馬を抱え込むように抱きしめた。
おさげをそっと撫でながらあかねは耳元で囁いた。。
「乱馬…あたしもあなたと共に強くなりたい。どんなことにも動じないような…地に足がついた強さが欲しいわ…。だから…喩え、乱馬の手が血にまみれるようなことがあったとしても…あたしはあなたについて行く…。そう決めたから…。」
静かに抱きあう、純朴な二人の周りを湿っぽい匂いを含んだ風が唸りをあげて、窓から吹き抜ける。
嵐の予感の風。二人で歩き出した道は、まだ闇の中だった。
つづく
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