◆蒼い月と紅い太陽
第一話 プロローグ〜桜花の旅立ち
「わあ、この木のお花きれい…。」
幼女はふっと顔をほころばせて母の方を顧みた。
「うふふ…。きれいでしょう?ここはね、母さんと父さんの思い出の場所なの。」
母は悪戯っぽい笑顔を娘に差し向けた。
「思い出?」
幼女はきょとんと母を見上げる。
この春、五歳の誕生日を迎える。今日、幼稚園の入園式を終えたばかりだ。まっさらなブレザータイプの園児服。母は薄ピンクの着物を着ていた。
二人、そぞろ歩きながら母がこの場所へ彼女を連れて来たのだ。
母と二人で辿る家路。母は何を思ったのか、帰り道を少しそれて、ここへ立ち寄ったのである。さっきまで一緒だった、父や姉たちは先に帰っていた。
春霞がかった東京の遠望。グラウンドから渡る風はなだらかに頬を掠めてゆく。傍では高校生たちが懸命に野球の白球やサッカーボールを追う姿がある。
「ここって学校?」
幼女は母を見て不思議そうな声を上げた。
「ええ…。母さんと父さんが通っていた高校よ…。」
そう言って母は懐かしげに眺めた。
「お父さんと通っていたの?」
「そうよ…。お母さんが通っていた高校。そして、ここはお父さんと出逢った場所なのよ…。」
母はそう言って穏やかな笑顔で桜を見上げた。
「お母さんね、この木の下でお父さんに出会って、恋をして…。そして、卒業する時に愛を誓ったの…。」
目を細めて母は桜の木を仰ぎ見た。
「この桜はね、「恋桜」って呼ばれているの。この木の下で誓った愛は果てることなく続いてゆくって…この風林館高校では語り継がれているわ。」
「ふうん…。」
わかったようなわからないようなそんな顔を母へ投げ返す幼い少女。
「あかねにはまだ難しい話かもしれないわね…。あなたも恋する年頃になったらきっとわかるわよ。」
母はそう言って愛娘を見詰めた。
天上に枝(え)を張る桜の古木。母の云わんとしていた話は幼い心には難しすぎた。
が、その枝先いっぱいにたわわに花をつけて咲き誇る桜の姿は、幼心にしっかりと焼き付いた。
その後暫くして夭折した母との数少ない思い出の一つとして。
一、
「たく…。相変らず素直じゃないんだから。」
なびきがあかねを見ながらこそっと声を継いだ。
「何がよ。」
あかねはぷんっと横を向きながら姉に対して言葉を投げ返した。
「本当にあんたたちって最後の最後までそうやって喧嘩三昧してさあ…。」
「別に、喧嘩してるわけじゃないわ…。」
あかねは投槍な口調でそう言った。
なびきはちらりと妹を見ながら言葉を続けた。
「良いの?このまま別れると、進歩どころか、何もかも終わってしまうかもしれないわよ。少しは素直になったらどう?」
姉はそう告げるとさっとその場を離れた。まるで「忠告はしたからね。」というような態度であった。
この春、あかねと乱馬の二人は揃って風林館高校を卒業した。
あかねは希望通りではなかったが第二志望の短大へと合格し、進学を決めた。もうすぐその短大の入学式。
なびきはこの春から四年制の大学の二回生。そして長女の姉かすみは、相変らずこの天道家を取り仕切っている。
天道家の暮らしも、この春から一転しようとしていた。
そう、居候の乱馬が、明日この家を旅立つというのだ。
ここ半年程、乱馬は真剣に己の将来、取るべき進路について悩み抜いたようだった。
世間の高校生たち大半は、最終学年の三年生になると、途端、将来のことを考え始める。ある者は進学、ある者は就職…。己の行く末を現実として描き始める。
乱馬も夏休み前頃から、「武道家」として辿るべき道を悩み抜いた。数多あった「大学への推薦入学」の話は尽く断った。学生生活を送りながら、生ぬるい環境で武道を目指すことを固辞したのである。
そして彼が導いた結論は、「旅立ち」であった。天道家(ここ)を出て、修行に出る。武道家としての修行である。
もっと強くなりたい…。
その一心が、彼をそういう結論へと導いたのであった。
あかねは、無難に進学を選んだ。
「受験」。この魔物との闘いは、予想を越えて大変だった。受験という闘いを甘く見ていたツケを喰らってしまったのである。
これもそれも、乱馬を廻って、乱入して来る「ライバルたち」に振りまわされてしまったことにも、遠因はある。が、己の気持ちの持ちようで、四年制の大学は見事に玉砕してしまったのである。
かといって、浪人するほど強く進学を希望していた訳でもない。たまたま、センター利用で出願していた短大に合格。
そこへ入学する決心をした。
(こんないい加減な気持ちで入学していいの…?)
その自問自答はまだ続いてた。
それに対して乱馬は。
己の中で一大決心をした彼。受験に苦しむあかねをそっと見守りながらも、進むべき道をしっかりと定めていたのだ。
そう、つい最近、二人で手合わせしていたときに、乱馬がぽつんとあかねに打ち明けた。「これから」のことを。
ショックだった。
昨春頃から、様々な格闘大会や試合に出場して、優勝をかっさらっていた彼に、たくさんの大学から入学の誘いがあった。当然、その中の一つに入学するだろうと思っていたからだ。
それを全部、断ってしまったなんて…。
彼があかねに気持ちを告げたときは、もう、旅立つ決意をしっかりと固め、揺るがぬものになっていた。止めても無駄だろう。いや、止める権利などあかねにはない。彼はしっかりと地に足をつけて立っている。
『乱馬が天道家を出て行く。』
それはあかねに、苦痛となるほどの衝撃を与えた。
彼に決意を告げられたのは、卒業式を明日へと控えた三月初旬のことだった。
道場で軽い手合わせをした後、「折り入っておまえに話しておきたいことがある…。」と告げられたのである。
「俺はもっと強くなりてえ。そして自分の足で大地に根を下ろしてえんだ。」
「どのくらい修業の旅に出るの?」
恐る恐る訊いたあかねに彼は答えた。
「わからねえ…。一年になるか、二年になるか…。それとも…。もっとか…。」
あかねは脳天を勝ち割られたようにぼうっとなってしまった。
今まで当然のように寄り添っていた存在が近くから消えてしまう。…そう思うと、心は千路に乱れた。
「これは俺自身がもっと強くなるための試練なんだ。だから…。一人で旅立つよ。」
そう言葉を区切って大きく息を吸った乱馬。深呼吸をしてあかねに向き直った。
「その前に、お前との関係もちゃんと整理しておきたいと思って……。」
彼は、そう言葉を継ごうとした。
ところがそれは挫かれた。見事に遮ったのは、天道家のお邪魔虫たち。覗いていたのだ。
ガタンと音がして戸板が外れた。振り返ると好奇の目をした面々がひしめいて、外れた戸板の向こうに並んで居た。聞耳を立てていたのだろう。
「もうちょっとだったのに、おじさまったら…。」
なびきが苦笑して声を出した。
「天道くんが後ろから押すからばれてしまったじゃないか。」
「人のせいにしないでくれるかい?早乙女君。君だって身を乗り出すから戸板が外れるんじゃないか。」
「あら、まあ…。でも気にしないで続けなさいな…。」
のどかが静かに笑ってはいたが、続けろと言われてはいそうですかという具合にはならないだろう。それが真面目な話であればあるほど、話は迷宮へと入りこむ。
途切れた話は、その場でそれ以上繰り返されることはなかった。
こうやって、例によって例の如く、交わそうとしていた重大な会話は、乱入してきたお邪魔虫たちによって見事に粉砕されてしまった。
「その前に、お前との関係もちゃんと整理しておこうと思って……。」
彼のその言葉の先に話される筈だった内容とは…一体、何だったのか…。
宙ぶらりんになってしまった、二人の会話。
『高校を卒業したら祝言。』
どこかにそんな淡い期待があったかもしれない。
父親や姉たちが勝手に決めて押し付けた「許婚」。それが乱馬であった。最初は反発していた気持ちはいつか「恋」へと転化していった。気がつくと彼は新鮮な空気のように必要不可欠な存在になっていた。今更離れることなど、どう考えても出来そうにない。
聞きたかった彼の本音、話の核心部分は見事に、お節介な家族たちによって中断されてしまった。
それだけならまだしも、乱馬がここを出てゆくということを、どこからともなく聞きつけた連中が、その日から引っ切り無しに天道家へと乱入し続けた。
九能兄妹、シャンプー、ムース、良牙、右京などなど。
一筋縄でいかない連中が、夜駆け朝駆け駆けつけるものだから、結局、肝心な話は宙ぶらりん。空に浮いたままだった。
「乱馬が出てゆく。居なくなってしまう。」
只でさえ衝撃的なこの言葉にあかねはすっかり翻弄されてしまっていた。それに果たして自分はどう餞(はなむけ)の言葉を贈れば良いのか。それすらわからないで、出発までの短い時間を過ごしてしまったのだった。
あれ以来、乱馬とは殆ど口を利いていない。いや利けずにいた。
乱馬も出発の準備に余念が無かったし、彼の周りにはシャンプーや右京、小太刀がずっと張り付いてくることも、二人の疎遠に拍車をかける。
あかねが取り付く島もない。言葉をかけようとしても彼が一人になることなど殆どないのだ。
彼を取り巻く現状が、二人を近寄らせまいと、意地悪している。
そんな気がした。
よしんば口が利けたとしても、己の中に巣食う天邪鬼が素直な気持ちを隠してしまうかもしれない。
ろくな会話を交わせないまま、とうとう、乱馬の出立の前日を迎えてしまったのだ。
姉が部屋から出て行った後、あかねは深い溜息を吐いた。
「何もかも終わってしまう…か…。」
今聞いた姉の言葉を何度も頭で反芻してみる。厳しい言葉だった。
宙ぶらりんなまま乱馬と別れたら、彼は己のことを忘れてしまうのではないか。そんな不安にも駆られた。旅立てば最後、もう天道家(ここ)へは戻ってこないかもしれない…。
そう、二人の間には何の進展も、何の結論も見い出されていないのだ。
「親が決めた許婚」。それ以外は。
愛を形にできないまま過ごしてきた時間を、今更ながらに悔やんでいる己が寂しかった。
明日、彼が発つとき、はたして笑顔で送り出せるのだろうか。
自信がなかった。
自室の窓の外へと目を遣ると、乱馬と父、早雲が連れだって道場へと入って行く姿が目に入った。恐らく、二人きりで話がしたいと父が思って、連れて行ったのか…。それとも、乱馬が何某かの決意を、早雲に述べようとしているのか…。
父と乱馬の表情が、離れている場所からにも関わらず、いつもになく、真剣に見えた。
(あたしには関係ない…わよね…。)
また漏れる溜め息。
「ぼちぼち出かけるわよ。下りてきなさいな…。」
下でかすみが声を掛けた。
「はーい。」
あかねは重い腰を上げた。
明日は乱馬が旅立つ。
それを肴に、今夜は宴会が催される。
乱馬の親しい友人、知人たちが一同に会する。それも、折角だからと花見がてらに。
ソメイヨシノの咲き乱れる近くの公園で、こぞって花見の大宴会だ。
花を愉しみ、そして別れを惜しむ。そんな春宵の宴(うたげ)。
集まったのは、乱馬を取り巻く一癖も二癖もある面子ばかり。
あかねはその宴に、少し遅れてかすみと来た。かすみが作ったご馳走を両手に抱えて、先に父親たちが陣取っていた場所へと進む。公園は桜を楽しもうと集まってくる人々で、夕暮れが迫ってきているというのに賑やかであった。其処ここでカラオケの音や、拍手喝采が鳴り響く。
公園の中央に見事に咲き乱れる桜の大木の下に陣取った一行。早雲やかすみ、なびき、そして早乙女夫妻、八宝斎の爺さん。天道家の住人たちは勿論のこと、シャンプーやムース、コロン婆さん、右京に小夏、九能兄妹、大介にひろし、ゆかにさゆり、あかりと勝錦に担がれた方向音痴の良牙。東風先生はかすみの横でおどけている。公園内でも一等賑やかな宴会が広げられている。
主役は勿論、旅立つ乱馬。
誰彼ともなく声を掛けられ、その接待にてんてこ舞いしている様子がわかる。
まだ未成年なので「酒」という訳にはいかなかったが、皆一様に彼との別れをそれぞれの思いで惜しんでいるのだ。
あかねは乱馬から一番遠い所に座して、そんな様子をぼんやりと眺めていた。
まだ、彼が居なくなることに実感が持てずに居る。
本当はあの言葉の続きを聞きたいと思ったが、とうとう、何も聞き出せずに別れの宴まできてしまった。
(このままじゃ幕が引けないじゃない…。)
そんな言葉にならないじれったい思いが心の中に沈殿している。溜息と共に押し込められているのだ。
だが、そんな気持ちとは裏腹に、あかねの様子は明るかった。
自分でここまで陽気になれるのかと思うほど、乱馬との別れを意識しないように振舞い続けていた。
「乱馬くんと何か進展したの?」
あかねの様子があまりにも痛々しく映ったのだろうか。ゆかとさゆりが心配してこそっと耳打ちした。
「別に…。あたしたちはそんなんじゃないもん…。」
あかねはそうこそっと吐き出した。
「この期に及んで…。乱馬くんって案外冷たいんだ。」
さゆりがほつっと言った。
「冷たいも何も、あたしたちの間には何もないのよ…。あたしも彼が旅立つことだって、何とも思ってないんだから。」
そう言って精一杯強がってみる。
その視線の先に居る乱馬は普段と変わりなく、無愛想でそれで居て照れ屋であった。
シャンプーと右京、小太刀が寄って集ってご馳走をすすめている。
取りつく島もない。
また、彼も全然あかねに視線を送ってこない。あかねも目に入らないようにわざと目をそらせていた。
お互いここまで天邪鬼が過ぎれば褒章ものであろう。
そんな二人の様子が気になったのか、のどかがそっと近寄ってきた。少しお酒が入っていて仄かに頬が紅い。少し桜の幹に枝垂れかかりながら、あかねに言葉をかけた。
「本当に乱馬は、ここでいいお友達に囲まれて、立派に成長したわ。こんなに別れを惜しまれるほど、慕われて…。何て幸せなことなのでしょうね…。」
母親冥利に尽きるとはきっと彼女のことを言うのではないかとあかねは思った。
のどかに言われて、乱馬の方を盗み見ると、確かに、彼の周りには彼を慕う少女や彼を好敵手として認める少年たちが取り巻いている。そして、それを見守る東風や父たち大人も。
自分だけが乱馬を独占したいと思うこと自体がいけないことかもしれない。
あかねはふっとそんな気持ちになった。
きっとのどかは、こうやって仲間や友人に囲まれる息子が愛しいに違いない。彼女は長い間、それこそ十年以上も待ち続けた我が子なのだ。たいした母だと思った。
折角再会した息子なのに、また別れ行く母の気持ちは、もっと複雑なのかもしれないと。
それでも言葉を交わせない寂しさは、あかねの心を寒くしていた。
桜の花は柔らかに一行を見下ろす。春は爛漫に咲き誇っているというのにだ。心は冬のまま。
『もっと、素直になりたい。』
ただその言葉を懐の奥に握り締めていた。
そんなあかねの心境とは裏腹に、宴はどんどんと盛り上がり始める。乱馬を取り巻く人々が料理や美酒、そして満開の桜に酔いしれる。
楽しい宴。
乱馬と距離を保ちながらも、あかねは、賑やかに彼と名残を惜しむ人々をぼんやりと見詰め続けた。
乱馬の取り合いをやっている三人娘。そして、ライバル心を剥き出しにしながらも語らう九能先輩や良牙、ムース。皆の餞(はなむけ)を乱馬はどう感じているのだろうか。
そして、己の餞(はなむけ)の言葉は…。
そう思ったとき、傍らで早雲が言った。
「おお。酒が品切れかな…。もう少し飲みたいな。」
「あ、あたし、家から持って来ようか?」
あかねは自然にそんな言葉を継いだ。この宴から少し距離を置いて、己の心を整理したいとふっと思い立ったのだ。
「あかね、行ってくれるかね?」
早雲が悪そうに言った。
「うん…。いいわよ。」
「あかねさん、俺も行こうか?」
良牙がさっと立ち上がったが
「いいわ…。良牙くんが一緒だと、その…。」
と言葉を継いだ。
「そや、あんたが一緒やと、あかねちゃん、かえって迷惑やで。この方句音痴が。」
右京が横槍を入れて来た。
「そっかな…。」
良牙はそう言ってバリボリと頭を掻く。その傍らであかりがのほほんとかすみと語らっている。
皆それぞれに輪を作り、それぞれの話が花咲いている。そんな雰囲気を壊したくない。乱馬を送るそれぞれの仲間たちの餞に水をさしたくはない。
「大丈夫よ、一人で。すぐ持って来るだから…。」
あかねはにっこりと笑うと、たっとそこを立ち上がった。
桜がすぐ上でたわわな花枝を揺らす。ゆっくりと行っておいでと言っているような気がした。
二、
あかねは桜の花の下を抜けて賑わう公園から出た。
人ごみを離れて少し冷静になろうとそう思った。
桜の満開の公園は、その見事な美しさに酔いしれる人々で溢れている。物思いに耽(ふけ)る余裕もない。乱馬への餞は何なのか。己は旅立つ彼に何を言えば良いのか。まだ結論は出せずにいた。
結局、餞別の品も買えずに終わった。何を贈ればよいのか、皆目見当もつかなかったからだ。姉のなびき辺りに頼んで、選べば良かったかもしれないが、別れを鮮明にするようで、ためらわれて日が過ぎ去った。
花見客で溢れる公園から弾き出されて、通りへ出る。
早く戻らなきゃ……と考えながらも、ある場所へと自然と足が向いていた。
そこからそう遠くない場所。
それは、つい最近まで学生生活を過ごした「風林館高校」だった。
角を曲がって、通い慣れた通学路を辿る。住宅地を通り抜けたところにある、暗闇に浮かぶ高校の正門。
それを脇に見て、あかねは迷わずグラウンドの方へと回っていった。
何故だろう、急にここへ来たくなったのだ。
誰も居ない夜の校庭はひっそりと町の中に佇んでいた。
グラウンドの脇のフェンスはボロがきていて、一人分なら入れる隙間があった。そこへとそっと足を踏み入れる。校庭は真っ暗だったが、外灯がいくつか校舎を照らしていた。かえってそれが侘しく見える。
はあっ、と息を吐くと少しだけ白い。花冷えだ。
人っ子一人居ない校舎。不気味だとは思わなかった。
この前ここを去ったばかりなのに、自分の青春が遠くなった。そんな感傷があかねの胸に過(よ)ぎった。
ここで過ごした三年間。いつも傍らには乱馬が居た。彼の息吹を少しでも感じたくて、自然にここへ足が向いたのかもしれない。喜びも哀しみも憂いも慈しみも、全てこの場所に思い出として埋もれている。
通い慣れた高校のグラウンド。
ここへ来れば、己なりの結論を見い出せそうな気がしたことは確かだ。
お遣いのことなど、とうに脳裏から離れていた。いや、お遣いはあの場から逃れるための口実に過ぎなかったのかもしれない。
逃げようと思っていたわけではないが、華やかで儚げな宴から一歩下がっていたかった。
とにかく、一人になりたかった。
「そうだ…。」
あかねはふっと思い立って、グラウンドへと足を踏み入れた。
校舎とグラウンドから少し入った所、そこにあの木があることを思い出したからだ。
幼い頃、母と見上げた桜の古木。毎年、たわわに花を揺らせながら、空へ向かって咲き誇る、母との数少ない思い出の場所。
風林館高校の中に静かにその木は佇んでいた。
思った通り、桜の花は枝いっぱいに咲き乱れていた。
見事な花を讃えて、夜空へと真っ直ぐに枝葉を向けている。その先の天上には、月が蒼白く照り輝く。
幽玄様の世界がそこに開けていた。
「綺麗…。」
あかねは思わず声を上げた。
その見事な咲きっぷりに息を飲む。
夜風がさあっと桜の木を撫でた。と、風に煽られてひらひらと花が舞い降りてくる。
もう盛りは過ぎるのだろうか。
桜はこの短い花の季節の為だけにじっと一年を待ち続ける。そして春の到来と共に一斉に空へと花枝を伸ばす。まるで愛でてくれと云わんばかりに。そして、盛りを過ぎるとこうして見事に散ってゆくのだ。
そう思うとぎゅんっと胸が痛んだ。
得も言われぬ寂しさがこみ上げて来た。
気がつくと、涙が一粒零れ落ちた。
「どうしたんだよ…。らしくねえな…。」
ふっと傍らで声がした。耳慣れた少年の声。
振り返ると、彼が居た。
じっとこちらを見据えている。
「乱馬?」
思わぬ伏兵の出現にあかねは一瞬戸惑った。だが、すぐに気を取り直す。勝気な少女へと立ち戻ろうとした。
「桜…綺麗だな。」
乱馬は近くへ歩み寄ると、ふっと表情を緩めた。そしてしげしげと花枝を見上げる。
「何で、ここへ足が向いたんだ?この桜が見たかったのかよ?」
と軽く声をかけて来た。
「ここは、この木の下は…。父さんと母さんが出会った場所なんだって…。子供の頃に母さんが言ってたから…。」
あかねはぽつりと言った。
「そっか…。」
乱馬はそう短く答えると、あかねの傍に立った。
「たく…ちょっと目を離したすきに、一人で宴会離れたと思ったら、こんなところまで足伸ばしやがって。たく、おめえときたらいつだって計画性なくて…。酒、頼まれたんじゃなかったのか?」
「だって…。」
「だってじゃねえよ…。一人でほったらかしたら何しでかすかわからねえからな。おまえは。だから…だから、適当に座を外してついて来たんだよ。俺の、気配、察知できなかったのか?武道家の端くれのクセに…。」
そう一気に言ってから溜息を吐く。ほおっと彼の肩の力が抜けるのがわかった。
「喧嘩吹っ掛けてるの?あんたは…。それが、明日、ここを旅立つ人の言い草な訳?」
非難めいたことを言うつもりはなかったが、自然とそちらへ言の葉が流れた。
「馬鹿…。」
笑っているような怒っているような、そんな複雑な表情を差し向けられた。
「そうよ…。あたしは馬鹿よ…。悪い?」
こうなるとあかねはただの駄々っ子だった。薄っすらと目に涙が浮かぶのを乱馬は見逃さなかった。
「泣いてんのか?」
「泣いてなんかないっ!」
「嘘つけっ!じゃあこれは何だよ。」
乱馬はあかねの雫にそっと手を触れた。
「乱馬のバカ…。人の気も知らないで!」
途端、ボロボロと溢れ出す涙。
止めようがなかった。
己の意思とは別のところから流れ出る涙。
その涙に、いつもなら、狼狽する彼だが、今夜は少し様子が違っていた。
「ごめん…。別に、意地悪言うつもりじゃなかったんだ…。」
そう言いながら、泣いているあかねへと、そっと手を伸ばしてきた。まるで、壊れ物を扱うように、両手で柔らかに包み込む。
彼の長いおさげが、あかねの頬に触れた。
「俺は…。この前、言い出せなかったことをおまえに伝えにきたんだ。たく、素直じゃないのは俺も同じだな。」
その言葉にハッとして見上げたあかね。真摯な暗灰(ダークグレイ)の瞳に捕えられた。その強い眼差しに、あかねの涙は堰き止められた。
あかねの瞳を静かに見据えながら、彼は静かに口を開いた。
「あかね…。俺は今夜立つ。」
風がすうっと二人の傍を通り抜けた。
「え?」
あかねは乱馬をはっとして見上げた。
ドキンと心が一つ跳ねた。
「今夜…立つ…。」
震える声であかねは乱馬の言葉を反芻した。
思ってもいなかかった唐突な宣言。
そのまま、言葉を飲み込んでしまった。
「大丈夫…。あたしは平気…。平気だから…。ちゃんと見送れるわ…。」
本当はかなり動揺していた。それが証拠に声がかすれていた。微笑みながらも、またつうっと涙が零れ落ちた。見事な泣き笑い。
吹いていた風が何時の間にか凪いだ。
「あかね…。」
乱馬はそんな彼女を優しい眼差しで見詰めた。
精一杯強がろうと背伸びして言葉を継ごうとする彼女が愛しく思えた。
「明日の太陽が昇るまで待っていたら、きっと、俺はここから旅立てなくなっちまう…おまえの涙を見ちまったから…余計に…。
おまえにだけはちゃんと話しておきたいことがあって…。こうやってここまで追いかけて来たんだ、本当は…。」
乱馬は静かに言葉を進めた。
「この前、道場で言おうとしていたこと?」
あかねは恐る恐る彼に問うた。こくんと頭が垂れて、乱馬がたどたどしく話し始めた。
「ああ、そうだ。この前おまえに言おうとしていたことだ。あかね…。今回の旅は何年かかるか、俺にも想像はつかねえ。
一年で帰れるか、それとも二年、三年…或いはそれ以上かかるかもしれねえ…。その、これは、俺の男としての自立の為の旅なんだ。」
「わかってる…。それは十分にわかってるつもりよ…。あたしには乱馬(あんた)を止める権利はないもの。乱馬の人生は乱馬のものよ。」
「少し、黙って聞け…。」
乱馬はあかねの言葉を遮った。
「だけど、…だけどこれは、別れじゃねえ…。だから、その…。上手く言えないけど、ちゃんと男に戻って、俺は…おまえのところへ帰ってくる。だから…。」
乱馬はぐっとあかねを抱きしめていた腕に力をこめる。そしてしっかりとした透き通る声で言った。
「待っていて欲しいんだ…。」
凪いでいた風がまた少しづつ頬を掠めて吹き始めた。ひんやりと冷たい春風が渡ってゆく。
乱馬は大きく目を見開いてあかねの姿を捉えた。その瞳の光に気圧されてあかねは瞬き一つできないでじっと乱馬を見詰め返した。
「随分身勝手な頼みごとだって、それは百も千も承知だ。でも、俺の帰る場所は、いや帰りたい場所は一つ、お前のところなんだ…。」
乱馬は一つ息を吐き出すと、意を決したように命令口調で短く言った。
「だから、待ってろ…あかね。」
風がまた一気に吹き抜けた。
桜の枝がゆらゆらと風に煽られて大きく揺れた。
と、その風に乗って、堪えていた桜の枝葉から、淡雪のように一斉に舞い落ち始める桜花。
「はい。」
震える声で、でも、しっかりとあかねはそう返事した。
「本当か?」
乱馬は目を嬉しそうに輝かせて見開いた。そして目の前でこくんと頷く小さな肩にそっと手を伸ばした。
「乱馬…。あたし、待ってる…。喩えお婆さんになったって、貴方の帰りを待つわ。だって、あたしは…。乱馬の許婚よ。当然でしょ?」
「あかね…。」
柔らかく彼女の名前を呼んで、乱馬は伸ばした二の腕で一回り小さな身体を引き寄せた。
「乱馬…。」
あかねはそう軽く呟くと、彼の逞しい胸の中に涙顔を埋めた。
再び、強く抱きしめられる。
彼の胸は、広くて大きくて暖かかった。
ゆっくりと息を吸い込めば、微かに彼の匂いがする。
互いの想いがゆっくりと交差する。
二人の上で時が静かに止まる。
花がひらひらと二人の上をたおやかに舞い降りてくる。
やっと素直になれた許婚たちを祝福するように、舞い降りてくる。
恋焦がれてきたこの瞬間をいとしむように、桜たちは風に踊りだす。
乱馬は抱き締めていた手を緩めてそっと離した。
「あかね…。これをおまえに。」
それからそう言って、乱馬はズボンのポケットに手を突っ込み、あかねに小さな箱を差し出した。
掌にすっぽりとはいってしまうくらい小さな箱。それをあかねの手に添えた。
「これ?」
赤いリボンで包装された包みをあかねは不思議そうに覗き込んだ。
「開けてみな。」
乱馬はふっと微笑んだ。
「ん…。」
あかねは促され、そっとリボンを解く。と、その包みの中から、ビロードの小箱が現れた。
「これ…。」
あかねは乱馬を見上げた。
「ペアリングね。」
嬉しそうに声をあげた。
一回り違う二つのシルバーの指輪がそこに納められていた。
「ひとつはおまえに…。そしてひとつは俺のだ。」
乱馬は悪戯っぽい瞳を光らせる。
「乱馬…。」
「ずっとこれをおまえに渡したくてウズウズしてたんだ…。でも。なかなか二人きりになれなかったろ?家族の前じゃ渡し辛くて…。」
そう言いながらも固まる彼は、出会った頃とちっとも変わらない。シャイなのである。
「そ、その…。安物だけどな…。あ、でも、ちゃんとバイトして溜めた中から買ったんだからな。」
そう言う顔は桜色に染まっているようだ。最初は流れていた言葉も、だんだんと硬直して途切れ始める。人前では絶対に出そうとはしない本心を、今夜は余すところなくあかねにぶつけてきた。
そんな彼の気持ちがあかねは嬉しくて溜まらなかった。
「ありがとう…。乱馬。」
そう言って微笑んだ。心から湧き上がるような笑みだった。
「右手、出しな…。つけてやる…。」
乱馬はやおらあかねの右手を取った。
「本当は左の薬指なんだろうけど…。その、俺は留守中おまえを束縛はしたくねえ。でも、今日の約束は忘れずに居て欲しい…。だから、右手の薬指にこの指輪をはめていて欲しいんだ。矛盾だらけだけど…。いつか、旅を終えておまえの元へ帰って来たら、今度は俺の手で、左手の薬指にはめかえてやるから。」
乱馬の顔は真っ赤に染まり、身体もカチコチに硬直していた。
「そのときは…。その…祝言を挙げよう…。」
詰まりながら、たどたどしく言い終えた。
あかねはその様子にくすっと笑った。そして言葉を継ぐ。
「本当に帰ってきてよ…。帰ってあたしのこの右手から左手に指輪をつけ替えて頂戴よ…。約束。じゃないと結婚してあげないんだから…。」
乱馬はこくんと一つ首を縦に振ると、あかねの右手に指輪をはめた。
「ぴったりだったぜ…。なびきに訊いておいて良かった。」
乱馬は照れ隠しになびきの名前を出した。
「なびきお姉ちゃん?」
「ああ…。」
「そっか…。だからお姉ちゃん…。」
あかねはなびきが指輪を貸してくれと言って数日前に持ち出したことを思い出していた。
「たく…。要らぬ請求も来たけどな…。」
乱馬はにっと笑った。
「じゃ、今度はおめえの番だ…。」
乱馬は残っている一回り大きな指輪をあかねに差し出す。
「乱馬…。」
感極まってその先は言葉にならなかった。ありがとうと言おうとして、あかねの目から、涙が、また一粒ほろりと落ちた。
「バカ…。指輪くらいしっかり決めてはめろよ。不器用だな…。」
乱馬はやれやれというような口調であかねを窘めた。
「何よ…。失礼ね…。」
あかねは涙声になりながらもそう答えた。霞んだ目でしっかりと乱馬の太い指をなぞった。
それから震える手で、でも、しっかりと彼の右手にリングをはめた。
「あかね…。」
乱馬は指輪をはめて貰った手をあかねの手に絡ませた。
「必ず戻る。おまえの元に…。」
「約束…。破ったら針千本飲ませるんだから…。」
「破らねえよ…。」
「絶対?」
その問いに答えないで彼は静かにあかねの瞳を見た。その中に映る己の姿は、只ひたすらに真理を貫く。指輪が輝く乱馬の右手はなぞるようにあかねの頬にそっと添えられた。
見詰め合う瞳。
潤むあかねの瞳は静かに閉じられてその聖なる時を待った。出会って以来蓄積されてきた想いが一気に昇華されてゆく。
迷いも哀しみも寂しさも怒りも苦しみも、その瞬間には抗えない。
ざわついていた心は嘘のように沈静してゆく。
研ぎ澄まされる五感で、溢れだす愛を余すところなく受け入れていく。
二人の静かな対峙の時を、咲き乱れ散り染める夜桜。行く春を惜しみ、その厳粛な瞬間をとらえようと思わんばかりに、徒然と上から舞い降りる白銀の花びら。
あかねの目から流れ落ちる涙は真珠の輝き。
二人はその誓いを心に刻むように、ゆっくりと唇を重ね合わせていった。
あかねは、何故、人には男と女の二種が居るのか、わかったような気がした。
愛しい人と離れるのは辛い。だが、そこには強い絆があることをはっきりと自覚した。
乱馬は己の半分。そう思った。
喧嘩も強がりも甘えもすべて等身大でぶつかり合い受け止めてくれる己の半分。いつか一つになれるもう一人の魂。
乱馬と出会えたことにあかねは心から感謝した。
『お母さんね、この木の下でお父さんに出会って、恋をして…。愛を誓ったの…。』
あの遠く過ぎ去りにし母の言葉が耳の奥底で聞こえたような気がした。
母の想いがあかねの上に去来し、そして柔らかく包み込んでくれるような優しさを感じた。
いつか結ばれるべきその半身。それが乱馬だという確信。
過ぎた春の記憶が己をこの桜の木の下に導いてくれたようなそんな不思議な想いに捕らわれた。
瞼の裏の母は桜の乱舞を背に娘に微笑んだ。
『あかね…。彼を待てる?』
その問いにあかねは答えた。
『うん、大丈夫…。あたし…彼の帰りを…ずっと待つわ。』
すうっと引き上げられる現実。
乱馬はふっと唇を離した。そしてきりっと姿勢を正した。
「別れの言葉は言わねえ…。確かな明日を掴むために、俺は旅立つんだからな…。じゃあ、あかね…行って来る。」
「いってらっしゃい…。乱馬が帰る場所はここだから…。あたし、ずっと待っているから。」
桜は前へ進もうとする二人の若者たちを優しく見下ろしていた。
恋桜。
その上には遥かに夜空を照らしつける蒼い朧月。
春爛漫。夜空は二人を静かに包んだ。
ここから始まる二人の本当の恋物語。波乱に満ちた、でも、決して色褪せることのない輝き。
もう一度熱く口付けると、少年は前を向いて歩き始めた。明日を見つけるために大志を胸に。そして少女は穏やかに彼を見送る。
再び、帰り来る日を、互いに強く希(こいねが)いながら…。
つづく
一之瀬的戯言
本作「蒼い月と紅い太陽」は「蒼い月」「紅い太陽」シリーズを根底に敷いて書き直しました。
いつか丁寧に二人の成婚について書きたいと思っていました。
「蒼い月」「紅い太陽」のシリーズのプロットは、「閑話戯言」掲載の「分岐点」シリーズ(未完)の延長線上の世界で妄想していたものでした。でも、この二つの物語を繋げるのは、とっくに諦めています。
「蒼い月と紅い太陽」は「乱馬対早雲」…だった筈なのですが…。最初は十話くらいでの完結を目指しましたが…また、長くなりました。
この「桜花の旅立ち」はもともとあった、「桜の旅立ち」に少し手を加えたものです。
今回仕上げるにあたって、全話をチェックしていた中、重大なミスをみつけたので、修正しました。
今の法律では、お酒は未成年が購入することはできない…ということを、忘れていました。
故に、家に取りに帰る…というシチュエーションに書き換ました。ご了承ください。
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