◆飛鳥幻想
第九話 真神の里

二十四、さらわれたあかね

「あかねがさらわれただあ?」
 持っていた箸を落としそうになりながら、乱馬が答えた。桜葛の入った粥をすすめられて、食し始めたところだった。

「ええ…。」
 桂が乱馬に事の仔細を報告した。

「桂さんほどの手練が、簡単に連れ去られるのを指をくわえて見ていたってーのかよ?」
 ぐっと桂の方へと顔を手向けて詰め寄った。
「私ひとりなら、何とかなったのでしょうが…。生憎、同行した安宿媛様をはじめ、女人たちを盾に取られてしまいましたゆえ…。」
 桂も悔しそうに拳を握りしめている。それから、恨めしそうに、後の方を見やった。すぐに助けに走れば、何とかなったかもしれないのだが、円が止めたのだ。
 ところが、円は知らん顔を決め込んでいるようで、乱馬が臥せっている部屋へ入ってくる様子も無かった。

「何で、あかねだけ連れ去られたんだ?」
 とにじり寄る乱馬に、桂は言った。
「それが…。どうやら、乱馬さんと間違えて、あかねさんを連れて行ったみたいなんですよ…。」
「あん?」
 怪訝な顔を乱馬は桂へと手向けた。
「乱馬媛を貰いうけた…ってはっきりと名前を口にしていましたし…。それに…気になることがもう一つ…。」
「何だ?」
「あかねさんを連れ去る時に、適妻(むかひめ)の証として、既に幾許(いくばく)かの甘樫(あまかし)の埴(はに)を手渡してある…とか叫んでいましたし。」
「知るか!土収集の趣味なんか、無ぇーっつのっ!そもそも、適妻(むかひめ)って何だ?」
「妻を迎えるという古語よ。」
 脇からにゅっと、なびきが顔を出した。マスクをまだはめていて、不健康そのものの青ざめた顔付きだったので、思わず後へ下がりかけたくらいだ。
「妻を迎える?」
「ええ。適妻の証…ということは、おそらく、「妻問いの宝」のことね。」
「妻問いの宝だあ?」
「古代、男が嫁を迎えるにあたって、それなりの宝を与える風習があった。それが、「妻問いの宝」ね。話から推測するに、「甘樫(あまかし)の埴(はに)」っていうのが、この場合、「妻問いの宝」に当たるんじゃないかしら。」
 なびきが答えた。
「甘樫の埴(はに)?…何だそれ。」
「埴は土のこと。甘樫丘(あまかしのおか)の土…直訳すればそうなるわ。」
「冗談じゃねーぞ!何で、妻問いの宝が土くれなんだ?」
 乱馬は興奮し始める。
「なるほど…かなりの宝には違いないです。」
 ウンウンと桂が頷いた。
「おいっ!土のどこが宝なんだ?」
「宝も宝。大宝物ですよ。甘樫の埴といえば、この香具山の埴と同様、一部の術者にとっては、喉から手が出るほどに欲しい、上等品です!」
 桂は言い切った。
「はあ?ただの土なんだろ?」
「例えば、この香具山の埴を巡っては、古くから術者同士の熾烈な争いが繰り広げられたと言われています。」
 桂は講釈を始めた。
「確かに…記紀神話の中に香具山の埴(はに)を巡った争い事の記録があったわね…。この際、省くけど…。でも、甘樫丘の土って特別な呪力があったって話は、知らないわね。記録には残って無いわ。」
 なびきが首をかしげた。
「ですから、一部の術者にとって、有効な素晴らしい埴として、好まれる逸品なんです…。甘樫の埴は。…そう言えば…。安宿媛様、この前、埴を盗ったって、真神一族に追われていたんですよね?」
 桂は安宿媛へと問いかけた。
「ああ…。まじないをするために、甘樫の埴が必要だった故、飛鳥川を越えた。」
 安宿媛は頷きながら答えた。


「あーっ!そういえば、安宿媛、確か、奴らの土地から土を盗ってきたって言ってたっけ!でも、何でそいつが嫁取りの話まで飛躍すんだ?」

「じゃ、これはどうです?相手に促されて、大声で御自分のお名前を名乗ったりしてませんよね?」
 桂の問いかけに、しばらく乱馬は考える素振りを見せた。
「うーん、記憶が定かじゃねーが、多分、名乗ってると思うぜ…。確か、あいつが先に名乗ってきたから…。」
 乱馬は首を傾げながら、そう言った。
「それだ!」
「それだわっ!」
 桂となびきは、乱馬の答えに瞬時に本筋を理解したようで、互いに顔を見合せて頷き合った。
「あん?」
 乱馬だけは、良く飲み込めないで、クレッションマークを顔中に点灯させていた。

「乱馬君…。前にも、説明したじゃない。古代において、己の諱(いみな)…つまり男性に乞われて本名を明かすのは、婚姻を認めるという意味でもあるって…。」

 その言葉を受けて、乱馬の顔がみるみる、驚がくへと変化した。

「あーっ!そういえば、あいつ、変に俺の顔見て、ポッと顔を赤らめてやがった!気持ち悪かったから、良く覚えてるぜ。」
 と乱馬は叫んだ。
「そーか、あいつ、そんな下心があったから…。」
 腕を組みながら納得する乱馬。

「なるほど…これで話が見えて来ましたね。あかねさんは、あからさまに諱を名乗った乱馬さんと間違われて、連れ去られたということじゃないでしょうか。」
 桂が頷く。

「んだと――――っ!ってことは、あかねがあの気色悪い男の嫁になるってことか?じ、冗談じゃねーっ!」
 乱馬の顔が俄かに、険しくなる。
「乱馬さん?」
「真神一族って、どこに住んでんだ?」
 乱馬が桂に問いかける。
「本来は真神原が彼らの土地なんですが…。」
「真神原ってのはどこだ?」
「蘇我氏が建てた法興寺(飛鳥寺のこと)の辺りに広がる野原を真神原と呼んでいるのですが…。現在は、甘樫丘(あまかしのおか)辺りに、居を移しています。」
「甘樫丘ねえ」
「え…ええ。ここの川向こう側に見えるあの小高い丘ですわ。」
 そう言いながら、桂は答えた。
「その甘樫丘の東の麓(ふもと)に、蘇我本宗家の邸宅跡があって、真神たちはそこをねぐらにしているらしいですわ…。」
「こっから、どの方向へ行くんだ?」
「この小治田宮のすぐ南側に流れる、飛鳥川を越えて行くんです。」
「わかった、サンキュー!」
 それだけ言い置くと、一気に持っていた椀から粥を口に啜りあげた。そして、やおら床から立ち上がる。
「ちょっと、乱馬さん?」
 ギョッとして桂が乱馬の背中へ声をかけた。乱馬とあかねの関係を知らない桂は、乱馬の剣幕に驚いたのだ。

「悪い!俺、あかねを取り戻しに行って来るわっ!」
 そう言うと、振りかえりもせず、一目散に外へと飛び出した。
「乱馬さんっ!乱馬さんってば!闇雲に飛び出しても、助けだせるかどうか、わかりませんよ?」
 目を白黒させながら、桂が追いすがった。
 が、あかねの危機となると、放ってはおけない。周りが見えなくなる彼の性質。

「乱馬さんっ!」
 桂も一緒に飛び出そうとしたのを、後ろから、引き留めた者が居た。

「止めなくてよろしいですわ。」
 ぐいっと強い力で肩を引き留めたのは、文忌寸円であった。今の今まで、部屋にも居なかったのに、乱馬が部屋を出た途端、突然、顔を出したのだ。
「円様。何をっ!」
 桂は振り向きざまに、円へと襲いかかろうとしたが、軽くかわされてしまった。
「落ち付きなさいよ。あんたらしくないわねえ…。桂郎女!」
 円はにっと笑った。
「これが落ち着いていられますかっ!乱馬さんを止めないとっ!」
「ふふふ…。大丈夫よ。これもそれも、全ては計画どおりなのだから…。」
 円は声を落としながら、にんまりと笑った。
「計画どおり…ですって?一体誰、何の…。」
 じっと円の顔を見て、桂にはある疑念が浮かび上がる。
「ふふふ、それは内緒よ…。」
「でも、相手は真神ですよ!そんな悠長なこと…。」

「嫁取りだから、真神一族はあの子たちに危害は加えなわ。それに、真神には、真人(まさと)が存命しているもの。滅多な事はないわよ。」
 円は不気味に微笑んだ。
「真人って、真神の首領の?」
「ええ、年老いたとはいえ、まだ、大口の真神の長、真人(まさと)は、健在だわ。あの子たちは大丈夫よ。それに、蘇我の宝の情報も一緒に持ってきてくれるでしょうしね。」
「蘇我の宝?」
「ええ…。」
「もしかして、円様は、それを手に入れようとなさっているんですか?」
「まあ、そういうことになるわね…。」
「何故、蘇我の宝を手に入れたいと?」
「ふふふ、内緒よ…。…それにしても…、愛の力は偉大だわねえ…。」
 円は乱馬が出て行った方を見ながら、ふううっとため息を吐き出した。
「愛の力?」
 その言葉を不思議そうに桂が反すうすると、
「だって…。乱馬ちゃん、あかねって子の急難って聞いただけで、病を撥ね退けて、駆けだしていっちゃったんですもの…。」
「あ…そういえば…。乱馬さんって気を使い果たして伏せってたんでしたっけ…。薬草入りの粥を食べていましたが…そんなに早く効果が出るわけじゃないですものねえ…。」
「あーあ…。このままじゃあ、今回も私の一方的な片思いで終わるのかしら…。」
 そう吐き出した円を、桂はギョッとした眼で見上げた。
「ひょっとして…本気だったんですか?」
「当然よ!同じ匂いのする最良のカワイ子ちゃんに出会ったと思ったんだけど…。あの子の眼中にはあかねちゃんしかないようだし…。」
 ふううっと、円は溜め息を吐きだした。

「乱馬さんとあかねさんって、女同士ですけど…。やっぱり、愛し合っていると思われるんですか?」
 桂が尋ねた。乱馬の本性が男だと知らない桂には、やはり不思議に思えたのだ。

「あらあら、あんたの目は、節穴ね。だから術にも落としやすいのよね。」
 円の瞳が怪しく輝いた。

「術?」
 不思議そうな瞳を手向ける桂に向かって、円は、クスッと笑った。

 その瞬間、桂は、何か得体の知れない気配が己の体の中を、瞬時に駆け抜けていくのを感じた。

「円様…。あなたは一体…。」

「ふふふ…。今頃、身構えても遅いわよ…。もう、術は発動したわ。」
 円が愉快げに桂へと言葉を投げかけた。ハアハアと桂の息は荒くなった。手も足も、ビクとも動かない。
「円様…何を…。」
 振り絞る声で、円へと話しかけた。

「緊縛術をかけたのよ…あなたに…。」

「緊縛術?何のために…。」
 苦しげに声を発する桂へ向かって、憎らしいほど余裕で円は言った。

「そりゃあ、私たちのために忠実に働いてもらうために決まっているわ…。
 あなたは、私の呪縛から、もはや逃げることはかなわない。桂郎女。」
 円が桂郎女の肩に手を当てると、静かに耳元で囁きかけてくる。
 
 桂郎女の瞳に、暗黒が浮かんだ。それは、彼女の中の何かが、崩れ去る瞬間だった。
 ガクンと頭からうなだれ、崩れ落ちるように、円の腕の中へと入って行く。

「ふふふ、これからは、我らのために働いてもらうわよ…。あんたは阿雅衆(あがしゅう)の手の者なんでしょう?桂郎女。」
 円はうすら笑いを浮かべながら、桂へと瞳を巡らせた。
 阿雅衆という言葉に桂の表情が変わった。
「何故…それをって言いたげねえ。ふふふ。」
 円は楽しげに言った。
「私も陰陽寮の術師よ。あんたの素性くらいちゃんと調べてあるわ…。あんたが阿雅衆(あがしゅう)の長の娘だってこともね…。」
「まさか…。」
 苦しげに問いかける桂に円は言った。
「あんたをこちら側に引きこめば、阿雅衆を利用できるわ…。」
「それが目的で私を…。」
 きつい顔で見返して来る桂に円は言い放った。
「あら…。そんな怖い顔しはないでよ。阿雅衆にとって石上麻呂は仇敵なんでしょ?忘れたの?麻呂は伊賀皇子を裏切ったことを…。」
 その言葉に桂の肩がピクンと上がった。

「伊賀皇子を裏切った…石上麻呂…。そう、憎い御爺(おんじい)…。」
 桂の瞳に何かが灯った。

「そうよ…。私に心を委ねなさい。…。桂郎女。決して悪いようにはしないから。ふふふふふ。」

 円の呼びかけに反応するかのように、桂の瞳から光が消えた。見開いた瞳は、暗い影に染まって行く。








 一方、飛び出した乱馬は。
 外に出たところで、呼び止められた。安宿媛が声をかけてきたのだ。

「乱馬はあかねを助けに行くのか?」
 安宿媛は目を輝かせて、尋ねた。
「ああ、助けに行くぜ。あったりまえだろ…。」
「そうか。許婚なら当然か。」
「おい…。おまえ、どこでそれを…。」
 乱馬は一瞬足を止め、険しい顔を安宿媛へと手向けた。その顔を受け流すように、安宿媛は笑顔を浮かべながら言った。
「あかねが教えてくれた。」
「あいつ…また、余計なことを言いやがって…。」
 少し戸惑った乱馬に、安宿媛は率直に問いかけた。
「乱馬はあかねを助けだせるか?」
「誰に向かって言ってやがるっ!許婚一人助けられない俺だと思ってんのか?」
 そう言うと、乱馬は再び、走りだした。
「あかねは俺の許婚だ。絶対連れて帰ってくらあっ!」
「待っておるぞ。帰ったら男のそなたにも会ってみたい。」
「たく…あかねの奴、余計なことをベラベラと…。」

「必ず戻って来るんじゃぞ!」
 乱馬は、ピースマークを作った手を、きゅっと後ろ手に高くかかげて見せた。任せとけと言わんばかりに。



二十五、真神の里

「へへっ!こんな娘っ子、さらってくるなど、造作も無いや。」
 男は得意げに、あかねを抱え込んだまま駆け慣れた野原の道を馳せた。あかねは、ミゾオチに痛恨の一発を喰らい、気絶したままだ。
 
 男は小治田宮のある場所から、どんどんと南に川を遡っていく。
 川沿いに駆けた後、浅瀬をバシャバシャと渡って行く。そして、川から這い上がると、今度は右手の丘陵地帯へと足を踏み入れる。少し右手に入ると、山肌に沿って、かつて人が暮らしていた痕跡が残っている土地があり、そこへ向かって、一目散駆け続けた。
 そこは、ずいぶん前に廃墟になったようで、ところどころに家があったらしい礎石がある。どうやら火の手が回った痕跡があり、真黒な灰が辺り一面散らばっていた。 湿気の多い日本のことだ、焼け残った木材も朽ち果ててしまって土と同化してしまったようだ。
 その灰と一緒に土器に混じって瓦の破片も散らばっていた。瓦屋根など、ごく一部の限られた建造物にしか使われなかった時代だ。ここにはかなりの実力者の介在した建物があったことが伺えた。
 相当前の廃墟らしかったが、草木に埋もれることがないのが、逆に印象的だった。恐らく、誰かがここを守って、管理しているのが一見してわかった。
 男は、散らばった土器の破片などを踏み荒らさぬように注意しながら丁寧に通り抜け、少し高台になった方へと向かって走って行く。

 高台には廃墟とは別に、竪穴式住居が何棟か建てられている。屋根には獣の頭が、幾つも飾られている。狩で仕留めた獲物なのか、熊や鹿、馬の頭蓋骨が並んで恨めしそうに下を見下ろしている。
 一種、独特な雰囲気が漂った集落だった。

「速人兄者っ!連れて来たぜ!」
 と、あかねを抱いたまま、大男が勢い良く集落へと凱旋してきた。

「待ちかねたぞ!勇人っ!」
 中央の広場は、すっかり婚礼のお祭りモード。毛皮を身にまとった顔に入れ墨がある男たちと、女たちが輪を作って、待ち構えていた。

「こ…ここは…。」
 あかねは喧騒と煙の臭いに我に返った。
「おお、これは、花嫁殿のお目覚めじゃ!」
 そう言いながら、あかねの前に真っ直ぐに立った、長髪の青年。にこやかにあかねへと顔を手向けたが、みるみる顔が曇った。
「こら!勇人!これは乱馬媛ではないぞ!」
 と、あかねを連れてきた大男に向かって、不機嫌な顔を向けた。

「あん?だって…。兄者が嗅がせてくれた、赤い布きれと同じ匂いが、この女からしたぜ?」
 大男が反論する。
「そんな訳なかろう?」
 長髪の青年が、大男を睨みかえす。
「だったら、嗅いでみなよ…。ほら。」
 誘うように、あかねの前に立つと、大男は長髪の青年をこまねいた。
「どら…。」
 その誘いに乗るように、長髪の青年もあかねの前に立つ。そして、二人の男たちは、共に、あかねの胸元へと鼻を寄せ、嗅ぐ動作をし始めた。
 クンクン、クンクン…。左右から、男たちがあかねの胸のくぼみに顔をくっつけるように鼻を当て、匂いを嗅いでいる。

「ちょっと、何すんのよっ!あんたたちっ!」
 思わず、あかねは、二人に向かって平手を打ち出してしまった。
「痛いっ!」
「この娘っ子め!何をする?」
 男たちは、左右からジロリとあかねを見据えたが、あかねも負けずと睨みかえした。
「あんたたちねー、いきなり人の胸に顔当てて、何のつもり?このど変態っ!」

 あかねが怒鳴った。当たり前だ。見ず知らずの男たち二人に、いきなり、胸元や臀部をクンクンやられたのだ。

「そなた、生娘じゃな?」
 にやりと長髪の青年が笑った。

「なっ!これ以上馬鹿にするなら!」
 と振り上げた手を、ぎゅっと握り抑えつけた。
「暴れるのも大概にしないと、狼たちの餌になるぜ。」
 と大男はあかねを脅した。
「狼たちの餌?」
 集落の周りに、幾重にも獣の影が見え隠れした。放し飼いにされているのだろう。ちょろちょろと中型犬ほどの黒い塊が数十匹、うろうろしている。つい、ゴクンとツバキを飲み込んだ。
「ええ、この良く膨れた柔らかそうな女性の肉は、さぞかし、狼たちに喜ばれましょうから…。」
 にっと長髪の青年が笑った。

「おいおい、兄者。ってことは、この娘、乱馬媛とは違ってたのか?」
 大男は青年に尋ねた。
「ええ。残念ながら。あなたが乱馬媛と間違ったのは、これのせいですね。」
 そう言うと、あかねの胸元へ手を引きいれ、はらりと前をはだけると、さっと胸の谷間から、あかねが吊り下げていた黒い勾玉を引き千切った。

「ちょっと!いきなり、何すんのよーっ!」
 勝ち気なあかねががなったが、ひょいっとそいつを手に取ると、兄者と言われた長髪の青年はあかねから離れた。
 彼が手にしたのは、乱馬と交換した黒い勾玉だった。
「返しなさいよっ!泥棒っ!」
 と叫びながら、再び、青年へと襲いかかろうとしたあかねを、ぐいっと大男が抑えつけた。
「おいおい、さっき、速人兄者が言ってたのが聞こえなかったか?大人しくしないと…狼たちの餌にされるぜ。」
 そう言いながら、大男はあかねを後ろからはがいじめにした。いや、大男だけではなく、周りで好奇な瞳で三人のやり取りを見つめていた、他の男たちも、一緒になってあかねを包囲する。
 多勢に無勢。反撃もむなしく、あかねは大人しくするしか術がなかった。

 あかねが大人しくなったところで、兄の速人が弟の勇人へと、黒い勾玉の他に、赤い布きれを差し出しながら答えた。赤い布きれ。それはどうやら、乱馬のチャイナ服の切れ端のようだった。
「おまえがこの娘を乱馬媛と間違ったのは、この勾玉のせいだったようだね。勇人。」
 そう言いながら速人は、大男の鼻先へ黒い勾玉と赤い布を差し向けた。
 大男は鼻がクンクン、クンクンと勾玉と布きれの匂いを嗅ぎ比べる。
「ホントだ…。この勾玉とその布きれ、同じ匂いがする…。が…この娘っ子の匂いとは違う…。」

「何に惑わされて、間違って連れて来るんですかねえ…。この役たたずな弟は…。」
 苦笑いしながら、速人は弟の勇人を見下ろした。

「すまねえー、兄者。」
 勇人は頭を掻きながら、兄へと詫びを入れている。
「でも…、兄者。乱馬媛の勾玉を持しているということは、こいつ、乱馬媛とゆかりのある者に違いねーぞ。」
 勇人は両脇を他の青年たち二人に抱えこまれて、身動きできないあかねを見つめながら言った。
 と、何を思ったか、すいっと勇人があかねの前に立ちはだかった。そして、じっとあかねを見据えながら、問いただしてきた。
「おい、おまえ…。名は何と言う?名乗ってみねーか?」
 勇人はあかねをまっすぐにとらえながら見据えた。
「こらこら、勇人、おまえ、いきなり…。」
 隣の速人が慌てて、勇人へと声をかけたが、勇人はそれを制するように、己の名前を口にした。
「俺は、真神の長の次兄、真神勇人だ。おまえの名前は何て言う?」
 力強い瞳が、あかねを捕える。勝気なあかねは、視線をそらすことなく、澄んだ声ではっきりと答えた。

「天道あかねよ。」

 その言葉に、おおおーっと周りの者たちが、奇声を張り上げた。
 同時に、勇人が、大きく笑いだした。

「ぐわっはっはっは。聞いたかよ、兄者っ!皆の者!」

 その声に、周囲が奇声を発して答えた。

 何が起こったのか、キョトンとしているあかねを前に、両手を挙げて、万歳している。いや、そればかりか、うんうんと大きく頷き始めた。

「ああ、聞いた、この耳で聞きましたよ。その娘の名前を…。良かったじゃありませんか、勇人。勝気そうですが可愛らしい娘さんで。」
 速人が大きく頷いている。

「人生この方、名を尋ねた女は数知れず。…兄者!やっと答えてくれた女ができたっ!がっはっは!乱馬媛が来れば、一緒に祝言じゃ!」


 何が起きたのかわからないあかねに、ニヤニヤと笑いながら、両脇を押さえている男があかねの耳元で囁きかけてきた。
「おぬし、なかなか、豪快だのう…。己をさらった勇人の剛腕に惚れたか?」
「あの…。言ってる意味が良くわからないんですけど…。」
 困惑しきったあかねは、怪訝な顔で脇の男を見上げる。
「いやあ、目出たい!」
 男はあかねの腕を解くと、バンバンとあかねの背中を叩いた。
「だから…、何なんです?」
 躊躇するあかねに、男は一言、たたみかけた。
「勇人、良かったのう!可愛い嫁御じゃ。」

「はあ?嫁?嫁御?」
 ますます意味がわからずに、戸惑うあかねの腕を、勇人がガッシと引いて、高らかに声をあげた。

「この娘、ワシの嫁御じゃあ!今宵、婚姻するぞ!」

「な…何ですってえ?ちょっと待って、どういうところからそんな風に展開する訳?」
 あかねは大声を張り上げたが、周りの歓声に、その声は虚しく、掻き消されてしまった。

「お主、諱を名乗るということは、弟の申し込みを受けたことになろうが。わっはっは。愉快、愉快!弟を頼むぞ!あかね媛。」
 脇で、一転、にこやかな速人がバシバシとあかねの背中を叩いた。

「さあ、今宵は二組の祝言じゃあ!」
「そうじゃな…。さっさと乱馬媛を迎えに行け!」
「速人様のためじゃ!小治田宮まで迎えに行こうぞ!」

「申し上げます。飛鳥川のほとりの見張りの者が、急ぎ伝令を伝えて来ました!」
 と声がした。
「何だ?」
 と速人が問いかけると、伝令が言った。
「女が一人。こちらへ一目散にやってきます。浅瀬を探して、飛鳥川を渡ろうとしております。」
「女だと?」
 一同の瞳に闘争心の光が灯る。
「誰だ?この真神に侵入したのは!」
「また、甘樫の埴を奪いに来たのかよ?」
 祝いムードが一転、緊張が走る。

「いえ…見張りの者の報告によりますと…。前に一度、遭遇したことがある者の臭いを身にまとっているということでありますが。」
 伝令が声早に言った。
「前に一度、遭遇したことがある者の臭い?」
「はい、その赤い布きれと同じ匂いの女だそうです。」

 その声に、速人の瞳が大きく揺れた。

「おお!もしや、それは乱馬媛?乱馬媛自ら、飛鳥川を越えて?この真神原へ?」
 そう言って、立ちあがる。
「恐らく、そうだと思われます。これが、その者が現在召している衣服の一端です。」
 そう言いながら、小さな白い布きれを差し出した。それを片手に、クンクンと匂いを嗅ぎだす速人。その瞳が大きく揺れた。
「おお、まさに!これは乱馬媛じゃ!」

 一斉に、また、声が響き渡る。

(乱馬が来る!)
 あかねの心にも火が灯った。恐らく、あかねがさらわれたことを聞きつけ、助けに近づいているのだろう。

「乱馬媛、一人か?小治田宮近くに詰めている、朝廷の兵士たちは?」
 速人の問いかけに、伝令は答えた。
「それが…。不思議なことに、お一人だそうです…。他の者の気配もありません。どうされます?」
 伝令は困惑しきった顔で告げた。
「そうか…。小治田宮は動かぬか…。ま、あの連中のことだ…。何か策を巡らせていないとも限らぬが…。それとも、陰陽寮の連中の得意な占いで動くなと出たか?…まあ、良い。乱馬媛一人を、あの川を超えさせるのは忍びない。傷一つおつけするわけにもいくまい。元々、勇人は乱馬媛を迎えに行ったのじゃ。さあ、ぐずぐずするな!すぐに迎えに行けっ!」
 速人は周りの青年たちに言いつけた。

「者ども!速人殿のお達しじゃ!行くぞ。」
「勇敢にも一人でここへ来られる、乱馬媛を迎えに行け!」

「女どもは二組分の祝言の準備じゃ!」
「ぬかるな!」
「今宵は宴じゃ!」
「祝いじゃ!祝いじゃ!」

 集落中に、男や女たちの声が満ちた。
 

 お祭りモードで盛り上がっている周りを尻目に、あかねは困惑を隠せなかった。

 何が何だかわからないが、どうやら、速人は乱馬と、勇人はこの自分と、祝言を挙げる気満々で、盛り上がっているのは確かなようだった。
(ま…いいか。乱馬が助けに来てくれるんだったら…。)
 逃げ出す算段を考えなければならないところだが、地理にも明るくない。しかも、野道は慣れない。下手に動くと、乱馬と会うこともかなわないだろう。

 と、この邑の女たちが、わっとあかねを取り囲んできた。
「勇人様の嫁御、あかね媛…。さ、お支度を!」
「ホント、あの乱暴者の嫁になるって、凄いわあ。」
「この一族の女、誰も、名前を名乗らなかったのに…。」
「凄いわあ。」
 けなされているのか、感心されているのか、わからないが、どうやら、このままだと、あの勇人と婚姻させられるという危機に瀕してしまったことだけは理解できた。
「あの…もしかして…。大声で名前を名乗ったから…。」
 あかねが恐る恐る女たちに尋ねると
「諱(いみな)を名乗るのは婚姻を承諾したことですものね。さあ、長老様にお顔をお見せくださいませ。あかね媛様。」
 逃げ出すにも、どの顔も、生気に満ち溢れている。女たちも足や腕の筋肉が盛り上がっていて、身体能力には優れていそうだった。逃げれば襲いかかられるのではないかという恐怖心にすらかられる。明らかに、迎賓宮に居た女人たちとは違っていた。男勝りな力を持っていた、桂とも類が違う、野性味あふれる武装集団だった。

 ずらずらっと居並んだ、顔に青い入れ墨をしている筋肉質な女たちは、あかねを連れて、一番奥に建てられた、大きな竪穴式住居の中へと入って行った。


 

二十六、真神一族の少年

 真神原。
 蘇我一族の本拠地でもあった、飛鳥寺周辺から甘樫丘東麓に流れる飛鳥川にかけて広がる湿地帯を、当時の人々はそう呼んでいた。ここには、「大口の真神」と呼ばれる「狼」が、古来から棲んでいたとも言われている。
 、現在の日本に、野性の狼は存在していない。明治期に日本列島から狼そのものが絶滅して果てたという。
 が、万葉の時代には、飛鳥にも狼たちが生息していたのだ。狼と言えば、徒党を無し、群れて人を襲う獰猛なイメージがあるが、案外、人里近くに生息し、ちゃっかり人間のおこぼれを頂戴していたらしい。
 飛鳥時代、蘇我氏が他の豪族を抑え、朝廷内に台頭していた。蘇我馬子、蝦夷、入鹿。その三代は天皇家を影から支配し、私利私欲に駆られ、遂には中大兄皇子と藤原氏の始祖、藤原鎌足に滅ぼされたと、記紀、双方には記されている。が、蘇我氏はどこから来たのかその発生も定かではないし、「大化の改新」と呼ばれる、乙巳の変の実態も果たして、通説通りだったのか。異論、抗論、様々である。それまであった歴史書は蘇我一族の滅亡と同時に灰塵に帰した後では、確かめるすべもない。それ以前の歴史は謎のベールに包まれてしまったと言っても良いだろう。いや、案外、それが後進の中臣氏、もとい、中臣氏から突出した新貴族、藤原氏の目論見だったのかもしれない。

 甘樫丘。
 国見の丘として知られているこの丘の東麓には、蘇我蝦夷、入鹿親子の豪邸が建ち並んでいたという言い伝えもある。先ごろ発掘された甘樫丘東麓遺跡が、それに当たるのではないかと言われている。焼け焦げた痕跡がある、当時としては最先端を行く瓦葺きの屋敷跡が発掘されたのだ。
 この甘樫の丘周辺の飛鳥川を越えれば、馬子が建てた飛鳥寺がある。また、飛鳥寺のすぐ南には「伝・飛鳥板葺宮跡」がある。俗に、エビノコ大殿と称される建物跡が出土している辺りが、飛鳥板葺宮の伝承地とされている。エビノコ大殿辺りでは、そ四つの異なる時代の建物遺構が発掘されており、それぞれ、飛鳥岡本宮、飛鳥板葺宮、後飛鳥岡本宮、そして、飛鳥浄御原宮だったのではないかと見られるようになった。
 そう、飛鳥に都があった七世紀頃、まさに、真神原から甘樫丘に続く土地は、この日本国の中心だったのだ。
 無論、そんな、歴史的背景など、道を急ぐ、この女性化した男、早乙女乱馬には、てんで興味はなかった。


 乱馬はひたすら、甘樫丘を目指して、走り続けていた。女体に戻るのも面倒だったので、そのまま飛び出してきた。男に戻っても良かっただろうが、真神の連中が自分と間違えてあかねをさらったのなら、女体の方が問題に対処し易いと思ったのである。
 ぐっすりと眠ったおかげか、気力は満ちていたし、元々、深くは無かった傷も、血は止まり、特に痛みも感じなかった。何より、あかねの危機と聞いて、身体が奮い立ったと言ってもよさそうだった。
 闇雲に小治田宮を出て来た。太陽の位置を見て、東がどっちだということだけは、ある程度、見当をつけていたが、もちろん、この辺りの地理には明るくない。交通網も整備されていない古代だ。未知は押し並べて「土くれ」。野山の修業で道なき道を駆けることには慣れているとはいえ、アスファルトになじんだ足には、少し、走り辛さを感じていた。幸い、雨の気配は無かったから、脚を取られずに走ることはできた。
 途中、細いが川が行く手を阻んでいた。飛鳥川であったが、それすら知る由もない。
 泳いで渡るほどの水量ではなかったが、春先とはいえ、河川両岸には、草木が負い茂っている。近くに橋も見当たらない。前に、安宿媛と稚媛様が渡った橋があるようだが、どこにあるか、わからない。
 川の手前で止まった乱馬は、流れる川面を眺めながら、さて、どこをどう渡ろうかと思案していた。
 と、前から小型の獣の尾っぽが姿が見え隠れした。

「あれは?」

 じっと眼を凝らすと、乱馬の方に、視線を送ってくる。まるで、付いて来いと言わんばかりにだ。チラチラと乱馬の前を往ったり来たり。そして、顔を東へと手向ける。
 真神速人が、乱馬媛を出迎えるために差し向けた先導だった。人間よりも足が速い狼を、先に差し向けたのだろう。

「おい、付いて来いってか?」

 送り狼という言葉は聞いたことがあるが、迎え狼という言葉など知らない。妻問いの後、あかねが己と間違われて連れて行かれたのであれば、敵として認識されているわけではあるまい。

「ま、方向的にはあっちの方角に真神の里があるみたいだし…。この狼も、俺に危害を加えるつもりはないみてーだから…ここは、こいつに付いて行ってみるか…。」
 
 そう決断すると、先導する狼の後を追って、走り出した。

 並走する狼の数は、走るにつれて、増えて行く。
 甘樫丘へ至るまでには、飛鳥川を渡らなければならない。勿論、狼たちは一番、渡り易い川瀬へと乱馬を導いてくれた。
 女の足幅は男の時と違って、歩距離も伸びない。それだけ川を渡るのが困難になるが、狼たちはそれを見越して、道案内をしてくれているようで、乱馬には有難かった。
 飛鳥川は決して、川幅が広い河川ではなかったが、橋を架けるのが困難な時代だ。川原には草木が当然のように生い茂っているし、岩肌もゴツゴツしている。乱馬一人では、どこをどう渡れば良いか、かなり悩まされそうな道筋だった。が、狼たちの的確な案内により、最小限の疲労ですんだ。

「男姿で来なくて正解だったな…。ま、川の水をバシャバシャやれば、嫌でも女にならなきゃ渡れなかったが…。」
 そんなことを考えながら、飛鳥川を渡り切ると、少年に声をかけられた。

「へええ…。あんた、女だてらになかなかやるねー。普通なら、川水に浸るのを嫌がるものなのに…。」
 にんまりと年頃が十歳前後の少年が笑っていた。
「バカにすんな!こんくれー平気だ!」
 乱馬は思わずムキになって声を張り上げた。
「あんた、変な髪型してるけど…巫(かむろみ)とは違うのか?」
 少年は興味深げに乱馬に尋ねかけてきた。
「巫(かむろみ)じゃねーよ。」
「じゃあ、陰陽寮の術者か?」
「それも違うぜ。」
「へえ。巫でも、術者でもねーんだ。」
「ああ、どっちでもねーよ。」
「じゃ、巫を護る、女武人か?腕っぷしも立ちそうだし。」
「それも違う。」
 乱馬は首を横に振った。
「じゃあ、何なんだ?川を渡るのもへっちゃらだし、狼たちと引けを取らないくらい、早く走ってるし…。変な女だな。」
 その生意気な言い方に、少々ムッとしたが、グッと堪えながら、吐き出した。
「その辺の女とは格が違うからな。」
「ふーん…。なるほど…だから、速人様が気に入ったんだ。」
「速人様?」
「ああ。真神の一族の次の長になる方だ。…って、あんたの夫になる御方だよ。」
「ならねーよ!」
 乱馬は吐き捨てるように言った。
「何でだ?」
「何でもだ!ま、早いこと、そいつのところへ連れて行け!行ったらわかる!」
 乱馬が言った。
「じゃ、俺について来い。」
 先に立って少年は走り出した。
「早っ!」
 乱馬は負けじと少年の後を追って走り始めた。相手の少年も、乱馬の走力を見極めようとしたのかもしれないが、スピードを緩める素振りも見せなかった。
「おいおいおい…女にはもうちっと、優しく接しねーと、もてねーぞ。」
 乱馬は前を行く少年に声をかけたが、
「へっ!これくらいで音を上げるなら、真神一族の嫁にはなれねーぞ。」
 とため口を叩いて来る。
「たく、生意気なガキだぜ。俺がこんくらいで音を上げると思うなよっ!」
 乱馬も勝ち気な性分だ。年端のいかない少年でも、駆けっ子に負かされるのは面白くなかった。遅れまじと、ムキになって走り出す。連れらるように、周りの狼たちも走り出した。

 走ること、十分足らず。その、集落へと辿り着いた。
 まだ、日暮れ前だ。
 辺りの様子は手に取るようにわかった。
 甘樫丘の東麓。
「何だ?この廃墟は…。」
 ハアハアと息を切らせながら、乱馬は連れて来られた場所を見回しながら、声をかけた。
 半分、土に埋もれた礎石が、そこに建物があったこと物語っている。黒く焦げた土が入り混じり、ここにあった建物が、火災で燃えたことを伺わせる。
 草木が覆いかぶさるのを、誰かが手入れしているようにも感じた。
 建物跡の横を通ると、驚いたことに、瓦が足に当たるではないか。この時代に来て、板葺または草葺の屋根しか目にしていない乱馬には、不思議だった。
「おい、ここって…寺院か何かの焼け跡か?」
 と思わず少年に話しかけていた、
「蘇我入鹿様と蝦夷様親子の屋敷があった場所だよ。知らねーのか?」
 少年が答える。
「知らねーよ!んなの!」
 乱馬は吐き捨てるように言った。
「へえー、ここに蘇我氏の邸宅があったことを、全く知らない奴もいたんだ。」
 少年は小馬鹿にしたように乱馬へと言葉を投げつけた。
「知らないもんは知らないんだから、しょうがねーだろ?」
 乱馬は不機嫌に投げつけた。
「第一、蘇我氏ってどんな一族だったんだ?」
「今から百年ほど前、この国の実権を握ってた大豪族だよ。その力があまりにも広大すぎて、妬んだ者たちの謀略によって滅ぼされたんだそうだ。」
「ふーん…。で?その蘇我氏の館の焼け跡におまえらは住んでるのか?」
 乱馬は少年に話しかけた。
「ああ。蘇我氏は俺たち真神一族を庇護してくれた豪族だったしな…。この蘇我の屋敷跡は俺たちが護ってる。」
 少年は得意げに言った。
「護るねえ…。ちゃっかり焼けた土地をいただいただけじゃねーのか?言いかえれば…。」
「そんなんじゃねーよ!それより、ほら、俺たちの集落はあそこだ。」
 少年は焼け跡から少し上を指さして言った。そこには、竪穴式住居が雑然と並んで建っている。
「やっぱ、ちゃっかりいただいたんじゃねーの?前に建物があったとこより、上に集落を営むなんてよー。」
 疑いの目を差し向けながら、乱馬が言うと、少年は反論を試みる。
「違うよ!侵入者が蘇我の宝を持っていかないように見張るため、少し高いところに集落を作ったんだ!」
「蘇我の宝?」
 乱馬が問いかけると少年は答えた。
「俺っちも良く知らねー。けど、焼けた土の下には尊皇も持ってない、すげえ宝が埋もれて眠ってるって話だ。」
「それって矛盾してね?普通、宝物も一緒に焼けるんじゃねーのか?」
「んな、細かいこと、俺にわかるわけねーだろ!それより、行くぜ。速人様も待ちかねているだろーしな。」
「だな…あかねも待ってるだろーし。」
 乱馬はそう吐き捨てると、少年に従った。

 横を見ると、いつの間に集まったのか、迎えに出てきた狼たちが二人の傍に集まって来ていた。
 
「なあ。狼を飼っているのか?」
 乱馬は少年に問いかけた。
「飼っているというより共生してんだ。俺たちの祖先は狼だから…。」
「あん?人間の祖先が狼だなんて話は聞いたことがねえぞ。」
「真神の一族は勇敢な狼の血が混じってんだ。そう伝えられてる。実際、最長老のおじじ様は狼の血を受けておられるし。」
「狼の血だあ?呪泉郷で溺れた奴が祖先なのか?」
 乱馬は、狼溺泉にでも落っこちたのか、と思った。
 乱馬がある狼と視線がかち合うと、ウウウと遠巻きに尻尾を巻きながら唸り声を上げる物も居る。
「何か、友好的な奴ばっかじゃ、ねーみたいだが…。」
 乱馬は苦笑いしながら、狼たちを見やった。
「そりゃ仕方ねーさ。だって、あんたさー、この前、速人兄者と遭遇した時、狼を数匹、ぶっ飛ばしたんだろ?あんたを、警戒してんだよ。怖がってる奴も居る…当然だよ。」
「あはは。ど派手に飛竜昇天破をぶちかましたしな…。」
「なあ?どうやって、あの凶暴な狼たちをぶっ飛ばしたんだ?」
 少年が興味深げに乱馬へと言葉を投げかけた。
「気技を使っただけだ。」
「気技?」
「ああ。体内の気をポンと解き放つ技だ。」
「陰陽師の連中が使う技みたいだな…。おまえ、陰陽師の修行でもしたのか?」
「いや…陰陽師というより格闘家の修行だな。」
「格闘家?」
 聞き慣れぬ言葉に少年は眼を丸くしながら問いかける。
「ああ。術とかいうんじゃなくって、肉体から解き放つほとばしる力を使うんだ。」
「よくわからないなあ…。」
 少年は小首を傾げた。
「こういう奴だよっ!」
 ニッと笑うと、乱馬は気を空へ向けてポンと解き放った。掌から飛び出した白い光が、木の上に居た山鳩目がけて、真っ直ぐに飛んだ。と思うと、山鳩はバタバタと羽音を響かせて、慌てて飛び立った。

「すげー。術式も何も使わずに、ポンと出した…。」
 少年は眼を丸くして乱馬へと瞳を巡らせた。
「これが気だよ。」
 乱馬は笑いながら言った。
「なあ、その技、俺にも教えてくれよっ!姉ちゃんっ!」
 少年は敬意の瞳を乱馬へと手向けた。
「まだ、おまえには時期尚早だな…。それに、俺は姉ちゃんじゃねー。」
「何でだ?速人兄者の嫁になるなら、同じ母親から生まれた俺っちにとっては、姉ちゃんじゃんか!」
「だから、俺は速人の嫁にはなんねー。」
「でも、名乗りを上げたんだろ?最初に名乗り合った男女は夫婦になるって…。」
「最初に名乗り合った間柄でもねーんだな…これが。」
 乱馬がにやりと笑いながら言った。
「ま、詳しい話はそっちへ着いてからだ…。それより、最初に名乗りあうんじゃなかったら、お前の名前を聞いたって、大丈夫だよな?少年。」
 乱馬は少年に尋ねかけた。
「あ、…ああ、大丈夫だよ。」
「じゃ、聞く。おめー名前は何て言うんだ?」
「えっと…浅人(あさと)。真神浅人だ。」
「あのよー。浅人。」
 乱馬は焼け跡を踏みしめながら、丁寧に歩きつつ、浅人少年に話しかけた。
「何だ?」
「事のついでに、折り入って、おめーに頼みたいことが一つあるんだが…。」
「あん?俺に頼み?」
 浅人は不思議そうに乱馬を見やった。
「ああ。人肌程度のぬるいお湯を沸かして、俺のところに持ってきてくれねーか?」
「ぬるいお湯?」
「ああ…。熱い湯じゃなくってぬるーいお湯だぜ。火傷しねーくらいの。」
「ぬるいお湯だね?」
「で、俺が合図送ったら、俺の元まで持ってきてくれねーか?」
「何で?」
「ちょっと、まじないつーか。その、厄除けっつーか、禊(みそぎ)っつーか…。そうしてもらうと助かるんぜ…。頼むっ!頼れるのはおめーだけだ、浅人っ!」
 と乱馬は、お願いと言わんばかりに、浅人の前で、手を合わせた。
「いいよ、湯なら、女たちがたくさん沸かしてるだろーし。わかった。持ってってやるよ。ぬるい湯を沸かして、合図と共に姉ちゃんのところまで持って行けば良いんだな?」
 少年は二つ返事で快諾した。この年頃の少年は、自分を頼られることを好む。その心理を利用した形になった。
「ああ、頼む!」
 乱馬は両手を前に拝むように少年に言った。
 頃合いを見て、男に立ち戻るつもりだった。とにかく、速人に己が女でないことを指し示さねば、話はややこしい方向へ流れることは、目に見えている。問題は、どのタイミングで男に戻るかだ。未知の世界に居る不便さもある。できるだけ、無用な争い事は避けたいと彼なりに思っていた。

(下手な小細工は無用だな…。出たとこ勝負で挑むしかねーか…。)


 目の前に開ける、真神一族の集落。
 乱馬はグッと拳を握りしめると、少年と共に、その入口へと一歩、踏み出して行った。




二十七、真神のおじじ様

 集落の中は、イメージしていたよりも、広かった。広場が中央にある。それを取り巻くように、山肌に沿って、地をならし、建物が作られている。狼たちは犬のように、集落の周辺に放し飼いだった。

(狼ってのは、人間にこうもなびく種族だったっけ?)
 と乱馬が目を疑うほどに、ここの狼たちは、人間に良く飼い慣らされていた。犬のように、我が物顔で、集落の中を闊歩している。首に縄が掛けられている訳でもない。放し飼いの状態にかかわらずである。

「おお、これは乱馬媛。よく参られた!」
 にこにこしながら、近づいてくる顔に、見覚えがあった。真神速人だ。
 やけになれなれしく、友好的な態度だ。
「この度はすまなかったなあ…。弟の勇人がそなたの連れと間違って、別の女人を連れて来たようで…。」
「あかねは無事なんだろうな?」
 乱馬は率直に問いかけた。
「ああ。勿論、丁重にお預かりしている。何しろ、彼女は我が弟の勇人の嫁になるのだから。」
「な、何だと?」
 乱馬は我が耳を疑った。
「あかねが勇人って奴の嫁になるってぇ?どういうことだ?」
 勿論、食ってかかった。
「ははははは。あのお嬢さんも勇人の問いかけに、はっきりと名乗りをあげられたのだ。どうじゃ?目出たいだろう?我らと一緒に婚儀じゃ!」
「じ、冗談じゃねーぞ!」
 乱馬は眼をひんむいた。
「一緒では不服か?別々の方が良かったか?」
 速人は神妙な顔で乱馬に問いかける。
「いや、そういう問題じゃなくって…。」
「それより、ささ、早く、我が一族の祖、おじじ様が、早く、そなたに会いたいと首を長くして待っておられる。さ、一緒に参れ。そして、婚儀の許しを得るのだ。」
「あかねもそこに居るのか?」
「ああ。さっきから勇人と待ちかねている。ささ、早く。」
 速人は乱馬の手をグッと引きそうになったのを、乱馬はさっと避けた。男と嬉しそうに手を繋ぐ趣味は無い。
「乱馬媛はウブじゃなあ…。そんなに恥ずかしがらなくても…。」
「恥ずかしがってんじゃなくって、嫌がってんでー!」
 乱馬の怒声が響いた。
「またまた、冗談を。ささ、とっとと行くぞ。乱馬媛。」
 もう何を言っても、聞く耳を持たない速人。
(たく…後で吠えずらかくなよ!この変態男!)
 乱馬はぎゅうっと握りこぶしを作りながら、速人の後へと従った。あかねの様子がわからない以上、下手に動けない。ここは、あかねも待っているという、その「おじじ様」の元へ行くのが妥当だろうと思った。


「おじじ様、乱馬媛が到着しました。」
 そう言いながら、誘われた、中央の広場の前に建つ、ひと際大きい竪穴式住居。入口には何かの動物のシャレコウベが幾つか上から吊ってある。良く見ると面長な動物のシャレコウベ。大きさ的には狼くらいのものだった。
(あんまり気持ちの良い置物じゃねーよな…。)
 思わず絶句しかけたが、物怖じしていると思われるのも癪だから、何も思わないふりをして、前に留まる。
 そろそろ夕刻を思わせる時間だ。だんだんに太陽の光がその力を失い始めている。 
 好奇心の瞳を持った人々が、だんだんに辺りに集まり始めた。いずれも顔に入れ墨がある。
 その向こう側からは、微かに御馳走の匂いと共に、女たちの歓声が漂ってくる。恐らく、今夜にでも婚儀が行われるその準備に、没頭しているのだろう。
 
 幾人かの輪の中に、ポツンと、あかねが居た。

「あかね…。無事だったか…。」
 ホウッと乱馬の頬が緩んだ。特に変わりなく、小治田宮に居た時と同じ、巫の格好をしていた。
「乱馬…来てくれたんだ。」
 隣同志に並んで座らされた。
「おまえ…勇人とか言う奴の嫁になるんだって?」
 早速、たたみかける。
「そういうあんただってやばいんじゃないの?」
「何か、習慣の違いから、変な誤解が、あちこちで生じてるみたいだな…。」
「ねえ、どうするの?」
「どうするって、正直にノーって言うしかねーだろ?」
「で…丸く収まると思う?」
「収めるように努力するしかねーだろ?それとも何か?おまえ、勇人とか言う奴の嫁になりてーのか?」
「バカ言わないでよ!そんな訳ないでしょ?」
「とにかく、俺に任せておけ。」
「何か策があるの?」
「ああ、まあな…。何とかなるだろ。いや、何とかするぜ。最後は力ずくでも…。」
「わ、わかったわ。」

 と、目の前の竪穴住居の中から、一人の老人が現れた。
「ささ、おじじ様、いつものようにこちらへ。」
 そう促され、総白髪のヨボヨボ爺さんは、乱馬とあかねの真正面へと向かい合って坐した。

 フサフサに茂った白髪眉毛の間から、円らな瞳を覗かせながら、爺さんが二人を見比べる。赤い鼻と白い頬。痩せこげた身体。麻呂爺さんよりも年上で、百歳近いのではないかと思える外見だった。

「ほう…これが速人と勇人の嫁御となるおなごか?」
 爺さんは舐めるように、上から下まで二人の身体を見比べながら言った。

「はい、双方、元気よく、我らの名乗りを返してくださりました。おじじ様。」
 速人がまず、口を開いた。
「名乗り返すということは婚姻を快諾したも同然です。おじじ様。」
 にこにこしながら、勇人も告げた。

「ほう…名乗りをのう…。本当か?ご両人。」

「確かに、名を聞かれたから名乗り返したが…。それが何で、婚姻を快諾したことに繋がるんだ?」
 乱馬が睨みながら問い質した。

「それは我らの掟(おきて)じゃが。不服かの?」
 爺様は長く胸辺りまで垂れ伸びたあご髭を触りながら、ジロリと乱馬を見返しながら言った。

「名乗り返すことが婚姻の快諾を意味するなんて知ってたら、当然、名乗ってません!」
 あかねが横からはっきりと言い切った。
「俺だって、知ってたら、名乗ってねーよ。」
 乱馬も即答する。

「ふむ…。ご両人はそう言っておられるが…。どうなんじゃ?」
 爺さんは速人と勇人を見比べながら、厳しい顔つきで問いかけた。

「ここは承諾してくださいませ。乱馬媛。でないとお命が幾つあっても足りませんよ。」
 慌てて、速人が横から乱馬にささやいてきた。あかねの耳にも聞こえた。
「あん?何でだ?」
 乱馬が怪訝な顔で訊き返した。
「他の集落から嫁をめとる時、おじじさまの前で誓約を交わすのですが、その時、否を口にした女は、狼たちの餌になるのが決まりなのです。」
「狼の餌だあ?」
 乱馬が突拍子もない声を張り上げた。
「何で、結婚を否定しただけで狼の餌にされなきゃならねーんだ?訳わかんねーぞ!」
 ときつく言い返す。
「それが真神一族の掟なんです。おじじさまの前で婚姻を断られたということは、大恥をかかされたということになりますからね…。」
「恥をかかされたのは、男の方で、女には関係ないでしょ?男に甲斐性がないだけで、何で女が狼の餌にされなきゃならないのよっ!」
 あかねも鼻息荒く、吐き出した。
「そういう掟なんですってば!」
 速人が吐き出した。
「だから、さあ、おじじ様の前で婚姻の誓いをご一緒にたててください。じゃないと、お二人とも、狼の餌になりますよ。」
 速人が言った。
「それはできねー話だ。」
 乱馬は突っぱねる。
「あかね媛は大丈夫ですよね。狼の餌になるくらいなら、俺っちと婚姻の誓いを…。」
「嫌ですっ!」
 あかねも突っぱねた。
 その様子に、居合わせた真神の者たちは、ざわめき始めた。

 速人も勇人も、二人の言葉に慌てうろたえはじめた。通り一辺倒の婚約儀礼のひとつで、実際は狼の餌になった娘など居ないのであろう。いわば、前代未聞の婚姻騒動勃発。
 ひそひそと話す声がそこら中で響き出す。人が気の後ろ側を狼たちがうろうろと歩きまわっている。
 人々の前で、おじじ様は眉間一つ動かさず、じっと、乱馬とあかねを睨みつけていた。杖をぎゅっと握っている。その杖が二人を指して、狼の餌にしろと言えば、お終いだ。
 青ざめながら、速人と勇人はそれぞれの相手を必死で説得する。

「お二人とも、冷静になって考えてくださいよ。このままだと狼の餌ですよ。」
 速人がなだめすかしながら、乱馬へ声をかけた。
「そうだぜ。あかね媛も、狼の腹の中へ進んで入りたいって言うのか?」
 大男が汗を噴き出しながら、おろおろしている。

「そいつは、てめーらの勝手の掟だろーが!」
 乱馬は溜まらず、そう声を張り上げた。

「おぬしら…。そんなに真神一族の嫁になるのは嫌か?」
 しびれを切らしたのか、おじじ様が乱馬を睨みつけながら問いかけた。

「ああ。俺たちは、婚姻する気もねーし、狼の餌になる気もねーつのっ!」
 乱馬は吐きつけた。
「これ、おじじ様にそのような乱暴な物言いをしなさるな!く、首が飛ぶぞ。」
 速人が必死で乱馬をなだめすかそうとするが、一向に静まる様子はない。

「そこまで頑(かたく)なに拒否するのであれば、それ相応の理由でもあるのかの?」
 おじじ様はじっと乱馬を見据えながら言った。
「ああ。ある。大有りだ。その訳も聴かずに、勝手に嫁入りだあ?冗談じゃねー!」
 乱馬は吐きつけた。

「おぬしら、小治田宮の事で拒否しているのなら、何の心配もいらぬぞ!真神一族の長として、正式に小治田宮へ使いをやろうぞ。」
 おじじ様はそうたたみかけた。
「へっ!使いもいらねーさ。俺たち二人は、小治田宮とは一切関係ねー人間だからな。」
 乱馬は勝ち気な瞳を手向けながら答える。

「では、何故、そう嫌がる?」
 おじじ様はギラギラと瞳を巡らせて、乱馬を睨みつけた。
「じゃ、その理由っつーのを見せてやらあ!」
 そう言いながら、振り向くと、大声を張り上げた。
「おいっ!浅人っ!さっき頼んだものを、俺に寄こせーっ!」
 そう叫んだ。

「あいよっ!」
 甲高い声が響き、人垣の後側から大きな甕を掲げながら、一人の少年が、歩み寄って来た。一人で甕が歩いて来るようにも見えた。
 少年の姿を見つけると、それを両側から包み入れるように、人垣は囲んでいた開けた。
 ざわつく人垣を器用にくぐり抜け、少年は乱馬の前に止まった。
「姉ちゃん、約束のお湯、持って来たぜ!」
 得意満面に少年が埴輪のような土色をした甕をトンと地面につけた。たっぷん、たっぷんと水面が湯気を上げながら揺れている。少年には重かったろうその甕を見ながら、乱馬はニッと笑った。

「よっしゃー!爺さん、それから、おめーらも、よーく、その目、かっぽじって見ときなっ!俺が嫁になれねー訳を、知りやがれっ!」
 乱馬は甕を持ち上げると、頭の上にかざした。そして、思いっきりお湯を頭から引被った。

 バシャバシャと音がして、湯けむりを上げながら、乱馬へと浴びせかけられる。

 どよめきが、一同の口ぐちにかけめぐった。

 目の前に居た娘が、いきなり、湯を浴び、男へと変化する様を、居合わせた人々は目の当たりにした。
 まるで、何かの奇跡を見るかのように、人々は恐れおののいた。
「ら…乱馬媛?」
 一番、衝撃に打たれたのは、速人だったことは言うまでも無い。

「どーだ?これが俺の正体でいっ!てめー。これでも俺と結婚する気か?」
 痛快な面持ちで、乱馬は速人を笑い見た。

「ら…乱馬媛が、お…男に…。」
 がっくりとうなだれる速人。
 が、おじじ様は乱馬を見て、手を叩いて笑い始めた。

「ほーっほっほっほ。こりゃ、愉快じゃ。そーか、そなた、やはり、男だったか。」
 アワを吹いたような速人や観衆の視線の中、おじじ様だけはコロコロと笑い飛ばした。
「おい…じじい。」
 乱馬がハシッと爺さんを睨みつける。
「そうじゃないかと、思ったんじゃ。おぬしの体からは男の匂いがぷんぷんとわき立っておったからのー。」
 ウンウンと頷きながら、爺さんは言った。
「はじめから、わかってたとでも言うのか?じじい。」
 乱馬が問い質す。
「ワシを馬鹿にするではないぞ。年老いたとはいえ、鼻は効くぞ。わからいでかっ!」
 おじじ様は鼻息荒く、言い放った。
「たく…。速人よ。こやつの本性が男だと見抜けぬとは…。おぬしの鼻は相当鈍いわい!この頃、修業をさぼっておるのではないのか?ええ?」
 ポカンと一発、持っていた杖で速人の頭を思い切り叩いた。
「痛たた。痛いではありませんか。」
 頭を抑えつけながら、速人が反論した。
「おじじ様、わかっていらっしゃったのなら、もっと早くに…。」
「この大バカ者っ!」
 くわっと目を見開いて、爺さんは速人を見据えた。
「尋常ならぬ匂いがこのお二方から漂っておるのを、そなたらのその鼻は嗅ぎ分けられなかったのか!ああ、情けない。いつから真神一族の能力は、かように地に落ちた?」
 爺さんは乱馬を杖で指しながら、言い含める。
「たく、おぬしの鼻は飾り物か!」
 おじじ様は、再び、ポカンと速人の頭を杖で叩きのめした。

「あの…。おじじ様、まさかとは思うけど…あかね媛も…お…男だと?」
 恐る恐る、勇人がおじじ様を見上げた。
「バカ者ー!あかね媛は正真正銘のおなごじゃ!それ如きも嗅ぎわけられぬのかーっ!」
 おじじ様は勢い良く、今度は勇人の頭を杖でポカンとやった。
「痛いっ!今しがた、おじじ様は尋常ならぬ匂いがこのお二方から漂うていると言われたばかりではありませぬか。だったら、あかね媛も男(おのこ)なのではないのですか?」
 半分、涙目になりながら、勇人が食い下がった。
「じゃから、おぬしはバカ者なんじゃーっ!」
 再び、ポカンと爺様の杖が唸った。
「いててて、痛いっ!」
 たんこぶが二つ、勇人の頭に追加される。

「では、あかね媛は私の嫁にできるのでありましょう?」
 勇人は涙目になりながら、おじじ様に問いかけた。

「悪いな、それもできねー話だ。」
 乱馬が前に立ちはだかった。
「何故じゃ?あかね媛は女であれば、何一つ、支障ないではないか!」
 勇人が納得いかないという顔を乱馬に差し向けた。

「あかね媛を嫁に出来ぬ訳、こやつにわかるように説明してくれるかの?乱馬媛…いや、乱馬殿。」
 おじじ様は乱馬を見やった。

「ああ、説明してやるよ。あかねと俺は、ここへ来るずっと前から、結婚の約束が出来てる。親同士が認めた許婚同士なんだ…。結婚の約束は、先にあった方が有効なんだろ?だから…。あかねは嫁にはやれねー。あかねは俺の許婚だからな…。わかったか!」
 そう言いながら、グッとあかねの手を強く引っ張って、引き寄せた。
「良いか!あかねは俺の嫁になるって決まってんだっ!手を出したら、ぶっ飛ばすぜ!」
 あかねの顔がポッと紅く染まった。
「ちょっと、そんなにはっきりと言わなくても…。」
 通常の乱馬なら、凡そ、口にしないだろう言葉が、ポンポンと口から紡ぎ出される。自分たちを知る顔が一つもないことが、ここまで彼を大胆にしたのかとも、思えた。

「という訳じゃ。速人!勇人!」
「は、はいっ!」
 ビシッと速人と勇人は背伸びして、気をつけの姿勢を正した。
「このお二人を嫁にするなどという、戯言を申し出た詫びを、入れるのじゃな!」
「は…はああっ!申し訳ありません!」
「す、すいませぬ!」
 両人、その場に頭をなすりつけて、ひれ伏し、土下座をした。

「時に…乱馬殿、あかね殿。お二方は共に、異世界から来た御方であろう?」
 おじじ様は振り返りながら、乱馬とあかねに質問を投げかけた。
 その言葉に、そこに居合わせた者たちが、どよめきの声を張り上げた。
「わかるのか?」
 乱馬はおじじ様に言葉を返す。
「勿論…。この世界の人間とは違う匂いを、お二人とも身にまとっておられるからな…。」
「匂いねえ…。そんなに匂うか?俺たち。」
 クンクンと腕先を嗅ぎながら、乱馬は答えた。

「おぬしらが時を越えて召喚された神じゃ…。違うかの?」
「神…じゃねーよ、ただの人間さ。未来から来ただけの…。」
 乱馬は吐き出した。

 その言葉に、一同は、再び、どよめいた。
 
「いや、時を越えて来たというだけで、十分、神に値すると、ワシは思うがのー…。」
 おじじ様はじろりと二人を見比べながら言った。
「異世界から来たものだから、名乗り合うことが求愛行為だということを知らぬでも仕方が無いか…。それに、その異能な身体。乱馬殿は呪泉郷に浸ったことがあるとお見受けした。」
 おじじさまが言った。
「爺さんも…呪泉郷を知ってるのか?」
 乱馬の瞳が輝いた。
「知らいでか…。ワシも、そなたと同じく、若い頃、呪泉の水を浴びておる。ほれ。」
 そう言うと、自ら傍にあった水甕を浴びせかけた。

「え?」
 乱馬とあかねの目の前で、おじじ様の姿が、変身する。みるみる、狼へと、それも銀色の美しい毛並の狼へと変化したのだ。
 おじじ様は変身したところで、すぐに、湯の入った甕へとその身を浸らせ、再び、人間へと戻る。
「水を浴びて狼に変身し、湯で人間に戻った…。ってことは、確かに、爺さんも呪泉を浴びた…。それも、狼に変化する狼溺泉(おおかみできせん)…。」
 乱馬の言葉に、爺さんは頷き返した。
「然り。ワシは狼溺泉へ落ちた人間じゃ。わっはっは。」
「なるほど…だからこそ、狼を犬の如く飼い馴らすことができる…。そういうことか。」
 乱馬は頷いた。
「ああ。そうじゃ。この里に居る者は殆どが、ワシの血を受けておる。狼も人間も。余所から婚姻のために連れて来られた者たち以外はな…。わっはっは。」
 爺さんは愉快そうに笑った。
「じゃ、この里の人間は、皆、狼と人間の間を往ったり来たりできるのか?」
 乱馬の問いかけに爺さんは答えた。
「いや…。狼と人間に変身できる子孫は居らぬ。人間は人間、狼は狼じゃ。狼と人間に入れ替わる体質は子供には伝わらぬからのう…。」

「遺伝はしねーってことか…。」
 乱馬の顔にホッとした表情が浮かんだ。
「ちょっと、乱馬、何安心、こいてんのよ…。」
「だってよー。遺伝しねーってことは子供は変身体質になんねーってことだろ?だったら、俺が完全な男に戻れなくても、ちゃんと変身しない子孫は残せるってことになるじゃねーか。」
「何、変なことで納得してるのよ。あんた、完全な男に戻る気ないの?」
「たとえば、の話をしてるんだよ!」
「まー良いわ…で、人間は人間、狼は狼で子孫が居るってことは…人間の女性と狼の雌と、双方と交わって子作りに励んだってことよね?」
 こそっとあかねが乱馬の耳を打った。
「…あんまり考えたかねーが…そういうことだになるな…。」
 乱馬もぼそっとその問いかけに答えた。
「お爺さんは、人間と狼の両刀使い…。しかも、ここの皆の御先祖様…。」
 そう言ったまま、真赤になって固まったあかねに、
「だああっ!バカっ!想像すんな!頭ぶっ飛ぶぜっ!」
 と乱馬が突っ込みを入れた。

「異世界から来られた人たち…ということは…。そなたたちが「客人(まろうど)」か。」
 爺さんは二人を見比べながら問いかける。

「さあね…。「客人(まろうど)」の定義が俺には良くわかんねーが、小治田宮の麻呂爺さんも俺たちのことを「客人」と呼んでたな…。」
 乱馬は答えた。

「ふん、石上麻呂もそんな言葉を使っておったか。」
 そう口にしたおじじ様に
「麻呂爺さんを知ってるのか?」
 乱馬が問い質した。
「知ってるも何も…。六十数年来の仇敵みたいなもんじゃよ。互いに昔から様々な事を争うたもんじゃ。子を成した数は、このワシにはさすがにかなわなんだがな。がっはっは。」

「そりゃ、両刀使いなら…ねえ。」
 自分で言った先、ポッと紅く頬を染めたあかねに、乱馬が怒鳴る。
「だああーっ!あかねっ!想像すなっつってるだろーが!」
「何よ、あんただって、想像してんじゃん!顔が赤いわよ。」
 うりうりと真赤な顔の乱馬の脇腹を突く。
「うるせーっ!」
 

「あいわかった。そなたたちが伝説の客人ならば、それ相応にもてなさねばならぬだろう…。速人っ!勇人っ!見紛うた罰じゃ。饗宴の準備を恙無く整えよっ!」

「はいっ!」
「おじじさまっ!」
 速人と勇人はそれぞれ、爺さんの命に従って、乱馬とあかねをもてなす側へと身を転じた。
 

 その夜、真神の里は、呑めや歌えの大宴会となった。

 元々は、真神の次の長(おさ)でもある、速人の「婚姻の宴」となるはずだったから、御馳走も予め、たんまりと用意してあったようだ。
 並べられたは、肉や魚を焼いたものや、煮野菜だ。無論、調味料などあまり無い古代。大方は、塩、もしくはそれに準ずる調味料しかない。が、古代版、バーベキューといった感じで、たらふくと腹に入る。

「乱馬殿は酒は飲まぬのか?」
 酒をすすめてきた、速人に、乱馬は首を横に振った。
「あいにく、俺たちの社会の掟(おきて)じゃあ、二十歳をこえなきゃ、飲めないんだ。」
「二十歳まで飲めぬのか?」
 目をきょとんとさせて、速人がそれに対した。
「ああ…。なあ。」
 隣にちょこんと座っているあかねに声をかけた。
「ええ、あたしたちの世界じゃ、二十歳をこえない未成年はお酒は飲めないんです…。」
「二十歳をこえないと成人じゃないのか?何て、遅いんだ!」
 驚きの声を真神たちはあげた。
「お二人の年は?」
「もうすぐ十七歳です。」
「十七歳…。ということは、既に所帯を…。」
「まだ、一緒になっていません。」
 あかねがうつむき加減に答えた。
「十七っつったら、立派に結婚できる年齢だぞ?女の十七はむしろ初婚としては遅いくらいじゃぞ?まさか、婚約だけで放ったらしなのか?」
 驚きの顔で、二人を見比べる速人と勇人。
「あ…俺たちの時代は、もっと晩婚なんだ。なあ。」
「え、ええ。まだ高校生だし。」
「コーコーセイ?」
「あはは…。やっぱ、言葉、通じないか…。」
「親御様たちはどう思っておいでだ?お預けを食らわせておられるのか?」
 勇人が問いかける。
「いや、親父たちは乗り気ってか…。いつでもゴーサインなんだろーが…。」
「なら、何故、夫婦として契られぬのじゃ?」
「ま、いろいろ、複雑な事情ってーのがあるんだよ…。」
 乱馬はぷいっと横を向いてしまった。
「あかね殿はそれでも良いのか?」
「え…ええ。結婚はまだ時期尚早だと思ってるから…。」
 と誤魔化しにかかる。
 形式的な婚約しかしていないと知れると、また、ややこしい騒動が持ち上がらないとも限らない。この場は乱馬との許婚のことを、いつものように全否定には走らなかった。

「あー、それよりも…嬉しいぜ!久々の肉の塊!」
 乱馬は骨ごと、焼かれた肉に食らいついた。
「小治田宮じゃよー、精進料理みてーなのばっか、食わされてたから、正直、力が出なくて…。」
 嬉しそうに、頬張っている。
「あんた、そんなこと言ったらバチ当たるわよ。」
 あかねはさすがに、乱馬ほど大口をあけられない。また、肉といっても、何の肉か得体が知れない。豚や牛がこの時代に食されていたとは思えないし、野ウサギか狐狸、鹿の肉がせいぜいだろうと思ったので、なかなか口へ放り込む勇気が出なかったのも、正直なところだった。
 野菜を煮込んだ汁も、訳のわからない具がたくさん浮き沈みしている。乱馬は平気で飲み食いしているが、なかなか手を出し辛い。
 魚は恐らく、川魚か池魚。真水魚の独特の臭みがある。
「おめー、さっきから全然、箸がすすんでねーじゃん?久しぶりの蛋白源だぜ?」
 乱馬が言った。
「だって…。肉っていっても何食べさせられてるか、全然わかんないし…。」
 箸を持ったまま、躊躇している。せいぜい、食べられるのは、木の実くらいだろう。
「何、お嬢様ぶってんだ?これ食ってみろ!美味しいぜ。」
 と自分の持っている肉の塊をすすめてくる始末。
「あんたさあ…。良く平気で食べられるわね…。」
 ふうっとため息をこぼすと、
「あったりまえだ。野山で修業するときなんざ、贅沢、言ってらんねーんだぞ。タヌキやキツネだって食うし、スズメも焼いて食ったことがあるぜ。猪やウサギなんか御馳走だし、鹿も食える。あっと、ヘビとかカエルも焼いたら結構旨いんだぜ。昆虫食ったこともあったな…。」
 とにっと笑った。
 その言葉に、うげっとなりながら、あかねが吐き出す。
「信じられない…。ゲテモノ食いじゃないの…。」
「大地に生きているものは、毒さえ持ってなきゃ、何でも食えるもんだ。親父なんか、本当に飢えたら、パンダになって笹食ってるぜ。」
「そ…そーなんだ。」
 聞く耳を覆いたくなるような、食事情だ。
「とにかく…。嫌でも何か口に入れとけよ。汁だけでも、旨いぜ。」
 と、椀をあかねに差し出す。ぷっかぷかと何か得体の知れない物が浮いている汁物。
「ま、おめーの料理より、マシだ。」
 と毒づいた乱馬。
「うるさいわねっ!」
 思わず、脇腹に肘鉄を食らわせていた。

 酒を飲めないなら食べる。それを地で行くような乱馬の旺盛な食欲。
「良く、食うな…。」
 と大食感の勇人をもうならせる食べっぷりだった。

「ふへー、食った食った。」
 満腹になったお腹をさすりながら、悦に入る乱馬。
 回りの大人たちはすっかり、酒で出来上がっていて、そこら中で話の花が咲き誇っている。また、腹いっぱいになると眠くなるのもので、ゴロンと横になって眠り出す者居る。
 夜はすっかり更けて、月も高く昇っていた。


「おまえさんたち、未来から来たと言っておったのう。」
 おじじ様が杯を片手に、二人に話しかけてきた。

「え、ええ…。一緒に迷い込んだ、お姉さんが、ざっと千三百年の時を飛び越えたって言ってました…。ここが本当にあたしたちの時代に続く飛鳥時代なら。」
 あかねが頷いた。
「千三百年後の世から参られたか…。」
 おじじ様は、乱馬とあかねを見比べながら言った。

「なあ、爺さんは俺たちが何でこの世界に呼ばれたか、わかんねーか?」
 乱馬はおじじ様に問いかけた。何でも良い、帰れる方法を模索したいと思ったからだ。


「そうじゃな…。その前に、この国の成り立ちのことなど、少し、話しておくかのう。」
 おじじさまはゆっくりと話し始めた。



つづく




一之瀬的戯言
 お久しぶりです。約二か月脳梗塞で入院していました。その間、病床にて、実はこの作品のプロットを練り直しました。二通りの展開のどちらを取るべきか、昨年末から考えあぐねてぱったりと手が止まっていました。
 やっと、迷っていたキャラクターの設定に方向性が見えたので、一気にラストまで書こうと思っています。



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