◆飛鳥幻想
第八話 薬狩にて



二十一、麻呂爺さんの離脱

 乱馬が眠りこけている頃、小治田宮内で異変が起こっていた。

 乱馬が深い眠りに就いた昼過ぎに、突然、早馬が駆けて来て、役人がドヤドヤと宮へと乗り込んで来たのだ。数にして、十数騎。いずれも、武人のようで、甲冑を着こみ、いかめしい武器を携えている。

「何事です?ここは、男子禁制と知ってのことですか?男は入ってはなりませぬ!」
 桂が目くじらをたてて、使者たちと押し問答になった。

「ほう…。桂郎女。そなた、いつから私にそんな大口を叩けるようになったのだ?」
 早馬から降りて来た見事な坊主頭の僧籍の男の声に、ハッとした表情を送る桂郎女。そのまま、頭を地面へつけて、平伏した。
「大丈夫じゃ。ワシとて、ここがどういう宮かは心得ておるわ。ちと麻呂様と二人で話さねばならぬことができたでな。
 麻呂様をそうじゃな、あちらの離れへ呼んでもらおうか。」
 男はそう言うと、母屋とは別棟に建てられている小屋の方へと歩いて行った。


「誰…あれ…。」
 遠巻きにトイレに立ったあかねが、引き下がって来た桂へと声をかけていた。
「あれは…義法(ぎほう)様です…。麻呂様の後を受けて、今の陰陽寮を束ねている御方ですわ。」
「陰陽寮を束ねているって?」
「陰陽寮の頭(かしら)です。」
「陰陽師の頭ねえ…。」
 テレビや映画で見慣れた、陰陽師とは、ずいぶん、イメージが違っていた。
「義法様は、新羅国へ渡来して、仏教や道教、それに儒教などと共に様々な陰陽を唐で学んできた、新進気鋭の陰陽術者です。その力、誰もが目を見張るほどのもので、この前まで僧籍にあったのを尊皇様の命によって、陰陽寮に召抱えられ、還俗(げんぞく)されました…。」
「還俗?」
「僧籍から離れて公民に戻ることですわ。」
「へええ…。お坊さんを辞めたってことね。」
「寧良(なら)に都が遷るまでは、麻呂様が取り仕切っていた陰陽寮や祭祀の実権は、今は全てあの義法様が握っていらっしゃいます。巷では、麻呂様を遥かに凌ぐ術者だともっぱら評判になっていますわ。中には、麻呂様は年老いてその力が弱くなったから、古京に残されたとか言う人もいらっしゃるようですけど……。」
 桂が吐き付けるように言った。
「で…麻呂(お爺ちゃん)に一体何の用なのかしら…。」
「何か悪いことでなければ良いんですけど…。」

 二人の懸念が現実にななるまで、そう時間を要さなかった。



「麻呂様に蟄居(ちっきょ)を命じるですってえ?」
 半時ほど後、桂は麻呂爺さんやあかねを前に、大声をまくしたてていた。
「何故なんです?麻呂様っ!」
「まあまあまあ、そんなに喰ってかからんでも…桂ちゃん。」
 蟄居を命じられた麻呂爺さん当人の方が至って冷静だった。わかっていたかの如く軽く受けしていた。
「麻呂様がここから外されるってことは、小治田宮が丸裸にされたも同然ですよ!…。もし、義法様が首皇子様に呪詛を仕掛けているとしたら、どうされるおつもりです?」

「ちょっと…桂さん?」
 桂の言動に、あかねが驚いた。

「これこれ、滅多なことは口に出して言うもんじゃないよ、桂ちゃん…。おまえさんまで蟄居を命じられたらどうするんじゃ。」
 慌てて、麻呂爺さんは桂を止めた。そして、周りの気配を伺いながら、凄い剣幕の桂の口元をグググッとシワだらけの掌で抑え込んだ。

「すいません…。口が過ぎました…。
 でも…、義法様が今回の首皇子様の呪詛事件に関わっているのではないかというのは、あちこちで囁かれていることは麻呂様もご存じでしょ?」
 と小声でぼそぼそっと呟くように麻呂へと話しかけた。
「まだそうと決まったわけではあるまいよ。」
 と麻呂が言った。
「麻呂様をこの宮から遠ざけようとなさっているのですから、その可能性が高いのではありませんか?」
 桂は食いついてくる。

「まあ、義法の奴がしゃしゃり出てくるのも仕方がないんじゃよ…。そのくらいのことをやってしまったんでな…。ワシは。」
 と、麻呂爺さんは落ち着き払って言った。
「やってしまったって…いったい、麻呂様は夕べ、何をしでかしたんです?」
 さっきから疑問符が点灯しっぱなしのあかねが爺さんに問いかけた。
「奴に訊いとらんか?紀寺を襲い、竈門娘様の魂抜きの儀を妨害したと…。」
「麻呂様、まさか、本当にそんなことを、なさったんですか?」
 桂の問いかけに、爺さんはコクンと頷いた。
「う…嘘でしょう?麻呂様!麻呂様が紀寺を襲うだなんて…。昨夜は、邑を襲った妖の影を求めて、近郊の邑への夜周りに出かけられていたのではないのですか?」
 狼狽しかけた桂を押しのけるように、爺さんは答えた。
「…実は、紀寺まで足を延ばしておったんじゃな…これが…。」
 麻呂爺さんは笑いながら言った。
「お爺さん、一体全体、何があったんです?乱馬もあのザマだし…。」
 あかねは隣の部屋を気にしながら言った。乱馬はあのまま、眠り続けたままだった。相当、疲れているようで、起き上がる気配もない。
「ま…ちょっとすったもんだに巻き込まれたとでも言うかのう…。ワシと乱馬は紀寺を襲った妖(あやかし)と闘ったんじゃよ。」
「妖…ですって?どういうことです?邑を襲った妖が、紀寺を襲ったとでも…。」
「そういうことじゃ。実はのう…妖が檜隈女王様に化けておって、その化けの皮を乱馬と二人がかりではがしてきたんじゃよ。もっとも…義法の奴は信じなかったがのう…。」
「そりゃ、そーでしょ。檜隈女王様が妖だったなんて…そんな非現実的な話…。本当なんですか?」
 あかねがたたみかけると、爺さんは、あくびをしながら面倒くさげに言った。
「ああ、本当じゃよ。後で乱馬に聞くがよい…。それが証拠に、稚媛様だけしか戻って来ておらぬじゃろう?」
「そう言えば、今朝、乱馬と一緒に戻って来たのは、お爺さんと稚媛様だけよね…。」
 あかねも頷いた。
「…もう、細かいことは良いではないか。乱馬もああして無事じゃったんじゃし…。」
「はぐらかさないでください!乱馬があの状態で、どこが無事なんですか!」
 にじり寄るあかねに、爺さんはすらっとかわした。
「ほう…あかねちゃんはそんなに乱馬のことが気になるかのう?」
「からかわないでくださいっ!こんな時にっ!」
「そうそう、真正直に全部、義法の奴に話すのはまずいから、乱馬が一緒に居たことは内緒にしとる。そのつもりで、桂ちゃんも、滅多な事を口外するでないぞよ。」
 と桂へ向き直った。
「義法の奴には、ワシとワシの式が妖と戦ったとしか説明しとらんからな。乱馬関係したことが明るみに出るのもややこしいしな…。あかねちゃんも乱馬とは離れ離れになりたくなかろう?」
「そりゃ…まあ、そうですけど…。」
「桂ちゃんもあかねちゃんも、余計なことは言わん方が良いぞ。乱馬は今回のこの件に関してはあくまで無関係じゃ。乱馬はなびきちゃんと同じく、この世界に来た疲れで床に伏せっておる…。そう屋敷の者たちにも言ってある…。良いな?」
「ちょっと、お爺さん、それだけですませて、ごまかそうとしてません?」
「そうですよ。もっとちゃんと義法様に申し開きしてください!麻呂様!今、麻呂様にこの宮から離脱されると、私たちが困ります!首様のために麻呂様が張り巡らせた結界はどうなります?

 桂も食い下がってきた。
「いや、ここらで離脱するのも一法なんじゃよ…。むしろ、予定どおりじゃ。」
 麻呂爺さんはにやりと笑った。
「また、そんな戯言を…。」
「戯言などではないぞ。そろそろ、ここの場から自由になりたいと思っておったところなんじゃ。でなければ、自在に動けんしな…。」
「じゃあ、率直に伺いますけど…麻呂様が抜けると、首皇子様をお守りしている結界は誰が護るんです?私一人の力では無理ですよ。」
 桂が言った。
「そんなヤワな結界ではないわい。ワシが居なくても結界は作動する。」
「新羅国仕込みの呪術使いですよ…義法様は…。」
「かっ!ぺっ!大陸帰りじゃからとて呪力が強いとは限らんわいっ!それに、桂ちゃんが知らんかもしれんがのう、ワシだって新羅国へ渡ったことがあるんじゃぞ!
 それに、現に奴め、檜隈女王様の化けの皮を剥がされて、慌てふためいて、ワシを更迭する方向へ転じたではないか…。義法の力など、たかが知れておるわい。」
「本当に、宮から出て行かれても大丈夫なんですか?麻呂様…。」
 桂は心配げに麻呂爺さんを見返した。
「ああ…。大丈夫じゃ…。ここに張り巡らせた結界は簡単には破れん…。ワシ一人の力だけで張った結界ではないからのう。それに、ワシもこの宮から解放されれば、動きやすくなるしのう…。そう、心配するな。」
 爺さんはにやりと笑った。


 こうして、あっさりと、爺さんは宮から退去することに決まった。


「後のことは桂ちゃんに任せたぞ…。…それより…あかねちゃん。」
 立ち去り際に爺さんはあかねに言った。
「乱馬は思ったよりも深く傷ついておるようじゃ…。妖によって、生き魂を引きずられたでな…。まだ、眠りこけておろう?」
「え…ええ。あれからずっと死んだように眠ってます…。」
 あかねは乱馬が横たわっている部屋へ視線を投げかけながら頷いた。
「この近くの野原に「桜葛(さくらずら)」という名の薬草が生えておる。それを取ってきて煎じて飲ませれば、回復も早かろう…。」
「その、桜葛って草は…どんな草なんです?お爺さん。」
「桜葛の扱い方は桂ちゃんが良く知っている。滋養強壮に良いんじゃ。それを煎じて乱馬に飲ませれば、たちどころに症状は緩和して元通り、元気になるじゃろう。」
「その薬草が無いと、乱馬は…?」
 心配げに尋ね返すあかねに、爺さんは言った。
「治らぬことはなかろうが…。今の様子じゃと元通りになるまでに、時間がかかるかもしれぬな…。数日…或いは数十日…。」
 爺さんの言葉に、あかねは決意した。
「わかりました。乱馬には一日も早く良くなって欲しいから…。あたし、その薬草を摘みに行ってきます。」
「そうしてやってくれ…。」

「ちょっと…あかねさん…。」
 あかねとじいさんのやりとりをきいて、慌てたのは桂だった。
「御言葉ですが、麻呂様…。」
 何か危惧でもあるのか、桂が口を挟もうとした。それを押し留めるように麻呂は言った。
「桂ちゃん…。明日にでも館内の女武人を何人かひきつれて、一緒に出向いて行けばよい。少し早目の薬狩じゃな。」
「そんな簡単に言わないで下さいよ。薬狩だなんて…。」
「薬狩って何です?」
 あかねの問いかけに、桂が答えた。
「初夏にする薬草摘みのことです。春先から初夏にかけては、薬草が野山にたくさん芽吹きますから…。それをみんなで摘んで集める行事です。…でも桜葛が群生している辺りは、この前、安宿媛様たちが真神に襲われた場所に近いんですよ。麻呂様…。」
 怪訝な顔を桂は麻呂へと手向けた。
「何、朝のうちなら奴らは動かぬ。奴らが動くのは夕刻近く。朝日が昇ると同時にでかければ、難無く帰って来られよう…。それとも、桂ちゃんは真神が怖いのかのう?」
「いえ…真神など怖くはありませぬ!」
 桂は言い切った。
「なら、行って来るがよかろう…。」
「わかりました…。乱馬さんには私も一刻も早く良くなっていただきたいので、桜葛を摘みに参りましょう。」
 桂も勝ち気な一面があるようで、爺さんのけしかけに乗ってしまった。


「ふふふ、少しばかり派手にやり過ぎたが、幸い、長年の労に、お役御免を申し渡されただけで済んだ。尊皇様もワシが束ねる物部の八十氏(やそし)を真っ向から敵に回すことは避けたいのじゃろう。
 義法もワシをこの宮から追い出すだけで精一杯じゃろうしな。」
「そうでしょうか…。それだけで、事が収まりますか?義法様が絡んでいらっしゃるのなら…麻呂様も無事でいられるかどうか…。宮を出た途端、襲いかかるつもりでは…。」
 心配げな桂を、爺さんは笑いながら一蹴した。
「このワシを誰と心得る?そんじょそこらの術者とは違うぞ。年老いたとはいえ、義法一味如きに簡単にやられるワシではないわい…。かっはっは!
 それより…。良い機会じゃ。宮を離れて、様々なことを入念に調べ直してみるわい…。」
「何を調べるんです?」
「まあ、いろいろとな…。ここには、様々な耳や目がある…。これ以上は内緒じゃ。」
 爺さんはにっと笑った。これ以上は何も言うつもりはないらしい。
「何かわかったら…。」
「勿論、おまえたちにも知らせてやる。…それより…奴らがワシの結界を壊すほどの強力な呪詛を仕掛けるのは…恐らく…。三日後じゃろう。」
「何で、そう断言できるんです?」
 今度はあかねが口を挟んだ。
「三日後…太陽が二上山(ふたかみやま)と三輪山を結ぶ上を通る日じゃからな…。光と闇が同じ長さにな日じゃから。」
「三日後…。光と闇が同じ長さになる日…それって、彼岸の中日…そっか、春分の日ね!」
 ポンと手を打ったあかねに麻呂爺さんは頷いた。
「太陽を葬るに適した日じゃからな…。」
「太陽…?」
「なあに、心配せんでも、その日までにワシも、こっそりとここへ戻って来るわい。とにかく、後のことは桂ちゃん、おぬしに任せたぞよ。」

「何か、釈然としないんですけど…。わかりました。」
「桂ちゃん。せいぜい、気張れよ…。」

 そう言い置くと、麻呂爺さんはそそくさと宮を辞して行った。



二十二、薬狩へ

 翌朝、あかねは早くに目覚めた。
 乱馬の横でずっと一緒に休んだが、一夜が明けても、乱馬はまた辛そうだった。
 それでも、朝餉は無理にでも食させたが、食欲も湧かない様子だった。
「ごめん、もうちょっと横にならせてくれ。」
 そう言って、自ら寝床へと潜り込む。「彼らしくない」、行状だった。

 乱馬が深い眠りに入ってしばらく経つと、カタンと物音がして、桂が入って来た。

「その後、乱馬さんの具合はいかがです?」
 とそっと覗き込む。
「かなり疲れ切っているみたいで、朝餉の後、泥のように眠ってます。食欲もあんまりなかったみたいで…。無理やり口の中に入れているような感じだったわ…。」
 曇った顔つきであかねが答えた。
「この様子だと、爺様がおっしゃっていたように、元通りになるまで時間がかかりそうですね。」
「ええ…。多分。」
 あかねはそっと、乱馬と繋がっていた手を外した。気配を感じることもなく、深い眠りに入っている。
「やっぱり「桜葛」を摘みに出かけましょうか…。」
 桂は誘いかけてきた。
「そうね…。良い天気だし…。乱馬はしばらく目覚めそうもないし…。出かけましょう。」
 あかねは腰を上げた。

 御簾によって、部屋は光を遮断されて薄暗いが、外は明かりに満ち満ちている。春の息吹が、御簾越しにも存分に感じられる。このまま、部屋へ閉じこもるには、もったいないほどの上天気だった。
 
「なびきお姉ちゃんは?」
「あの方も、まだ、伏せって、お休みになられていますわ。」
「まだ、調子が悪いの…。お姉ちゃんにしては、珍しいわ…。」
 同じ屋根の下で過ごす姉妹だが、なびきが寝込んだことは、子供の頃の記憶にしかなかった。武道とは関わっていないが、身体は丈夫な姉にしては珍しいことだった。
「ええ…。ちょっと、覇気もないから、気になってるんですけど…。」
「何だか、気がついたら周りは、病人だらけよねー。薬草も必要だわよね。」
 フッとあかねがため息を吐きながら言った。
「春先は、古傷が痛んだり、長い冬から解放されて、具合が悪くなったりする人って、案外居るんですよ。」

 一応、社交辞令のように、宮内で、麻呂爺さんの更迭が告げられた。麻呂爺さんの更迭は、宮内を少しばかり重い空気にさらしていた。
 信じられぬという顔と、やっぱりという顔とが交錯している。

 そこここで囁かれている噂話。これを機に麻呂様は隠居するだろうという憶測が、一番大きく飛び交っていた。

「麻呂様も、もう七十年以上も生きて来られた御方ですから…。休息も必要かもしれませんね…。」
 桂が苦笑いを浮かべながら言った。
「七十歳ねえ…古代じゃ、長寿な方よねえ。…それに、確かに春先は、老若男女限らず、いろいろあって当たり前よね…。うつ病が増えるのもこの時期だし…。花粉症もこの時期よね…。」
 あかねも頷いた。春先のこの時期、あかねの身の回りには「花粉症」を発症する友人も多い。この頃は老いも若きも、花粉症がまん延していた。また、武道家の父、早雲も、時折、若いころ修行で痛めつけた腰の具合が悪いと湿布薬を貼る光景もこの時期が一番多いような気がする。
「木の芽時だものねー…。」
 桂に聞こえない声であかねは吐き出した。

「で?麻呂爺さんが言っていた、甘樫丘の近くまで行くの?」
 あかねは桂に問いかけた。
「ええ、あの辺りは桜葛の自生地ですからね。」
「ま、ちょっとしたお散歩気分よね。」
「ええ。」
 そう相談していると、ひょっこりと、安宿媛が顔を出した。
「今日も薬草摘みに出るんじゃろ?」
 とにっこりとほほ笑んでいた。
「ご同行は、駄目ですよ…。危ないですから。」
 素気無く桂が言うと、安宿媛は頬を膨らませた。
「わらわも連れて行ってたもれ。「桜葛」は首様の咳にも効くと、稚媛が言っておったんじゃ。」
「稚媛様が?」
「余りにしげく咳こまれることが多いから、首様の薬師(くすし=薬を調合する医者の役目をした人)も「桜葛」があれば良いのに…と申しておった。」
「では、私が皇子様の分も摘んで参りましょうか。」
 桂が言い含めようとしたが、珍しく、安宿媛は首を頑として縦に振らなかった。
「いや、首様に捧げる薬草は、わらわが自分で摘みたい。人任せになどしとうない。」

「桂郎女、こんなに安宿媛様が強く所望しているんだから、一緒に連れて行ってあげたらどうかしら?」
 後ろから、ニュッと文忌寸円が顔を出した。女言葉の宦官野郎だ。

「つ、円様。いつの間に…。」
 突然の円の登場に、桂がギョッとした。あかねも桂同様、円の気配を読めなかった。
「あーら、桂郎女らしくないわねえ…。駄目よ、そんなことでは。ついでだから、私も一緒に警護がてらついて行ってあげるわ。」
 にっこりと円が微笑んだ。
「円が一緒なら、安心じゃ。のう…わらわも一緒に行って良かろう?」
 安宿媛がにっこりと笑った。最初から円を同行させて一緒に行こうという腹積もりだったようにも見える。
「わ…わかりました。その代わり、あまり無茶はしないでくださいませよ。安宿媛様。」
 渋々、桂は承知した。

 あかねは桂に伴われて、歩き出した。他にも数人、宮仕えの女官を引き連れていた。

「ねえ…。桂さんって、かなり強いんでしょ?」
 あかねがこそっと尋ねた。
「え…ええ。そこそこ鍛えてはいますよ。あかねさんも武道をやってるんでしたよね?」
「一応、道場の跡取り娘だから…。」
「道場?」
「武道をやる建物のことよ。」
「あかねさんはどんな武道が得意なんです?槍ですか、剣ですか?それとも、弓矢?」
「うーん…どれも違うわ。うちは徒手武道よ。」
「徒手っていうことは武器は使わない相撲みたいなものですか?」
「相撲も徒手武道だけど…ちょっと違うかな…。柔道も空手に似てるけど…。あは…でもどっちの武道も、この時代には存在してないんだっけ…。」
「乱馬さんも徒手の使い手なんですか?」
「ええ…。乱馬の場合は徒手だけじゃないわね…。気も巧みに扱うから…。」
「気?」
「体内に還流している気脈みたいなものよ…。木や岩も砕けるほどの強い力を発するの。」
「あかねさんは?」
「あたしはダメ。犬の子一匹倒すことができないへなちょこな気砲しか打てないわ。乱馬の足元にも及ばない。」
 ため息混じりに答えた。近頃になって、少しばかり気技を使えるようになってきたとはいえ、まだまだ前途多難だ。
「乱馬さんはそんなに達人なんですか…。道理で…。麻呂様が私ではなく乱馬さんを、紀寺へ同行させた訳ですね…。」
「あいつ、たぶん、今回、気を放ち過ぎて、へたってるんだと思うわ…。気力が残ってないとか言ってたし…。あんなになるまで気力を使い果たすのも珍しいくらいよ…。」
「なるほど…それで気つけ薬が必要なんですか…。」
「気つけ薬?」
「桜葛は一種の気つけ薬になるんです。気脈が弱まれば病も禍も呼び込みやすい…そう思われているので。」
「へえ、そーなんだ…。」


 その女人たちの色鮮やかな衣服が、萌え始めた緑色によく映えて、美しく揺らめいていた。
 竹で編んだカゴを手に、あかねたちは鼻歌交じりで野へ出た。現代ほど整地されてはいないが、ところどころ、開墾された田畑が広がっている。
 アスファルトで覆われた道路もコンクリートも無い、古代社会だ。温暖化など心配ないせいか、少しばかり現代より、季節の進み方が緩やかなような気がした。三月末だと早い年は桜が咲き始める現代だが、当然、桜の木のつぼみは堅い。一方で桃や梅がまだ、少しばかり咲いていた。
「ねえ…この時代の人たちも、お米を作ってるの?」
 あかねが桂に問いかけた。
「勿論。お米は大切な食糧ですわ。保存もできますし、炊いてから干して糒(ほしいい)も作れます。」
 桂は頷く。
「そうよね…。お米は保存食だったわよね…。」
「残念ながら、春先には、どの米倉も空っぽになりますが…。」
「へえ…。お米は一年中、食べられる訳じゃないの?」
 あかねが問いかけると、
「ひと冬持てば、良い方ですよ。あかねさんたちの時代でも、お米は食べられているんですよね?」
「勿論よ!日本人は米を食べなくちゃ!…あたしたちの時代には、年がら年中、お米があるわ。」
「へええ…。凄いんですね。」
 とりとめもない会話が続く。
「また、昨日みたいに、食べられる草花や薬草になる草を選別しながら、一緒に摘んで行きましょう。ここまで出て来た以上は、桜葛だけではなく、他にも薬草や食物になる草木が茂っていますから…。」
 桂が笑いながらあかねを促した。
「わああー、つくしんぼもあるわ。菜の花もいっぱい!」
 傍で安宿媛が眼を輝かせている。
 あかねも一緒にはしゃいだ。都会の生活に馴染んだ瞳には、なかなか、摘んでまで食する機会などない。アスファルト道路が無い分、古代は少しばかり季節が遅く進んでいるような気がした。

「春は好きですわ。野原にはこんなに食材が溢れていますもの。」
 と目を輝かせながら、桂は野草摘みに励む。
「野草が食糧になる時代なのねえ…。」
 飽食の時代に生きている己と古代では食糧事情は大きく異なるだろう。嬉々として野草摘みに明け暮れているのは、桂だけではない。他の女官たちも歓声を上げながら、それぞれの作業に興じ始めた。
 あかねも、安宿媛の傍で、自分の仕事に明け暮れる。とりあえずあかねでもわかる食用草、つくしへと手を伸ばした。

「稚媛も一緒に来れれば、喜んだじゃろうなあ…。」
 ぽっかりと浮かぶ雲を眺めながら、安宿媛がポツンと言った。
「そう言えば、稚媛様は昨夜もお出かけになられたのよねえ…。」
 あかねが尋ねた。
「今朝がた、この前のように、麻呂爺が先導して屋敷から連れ帰ったそうじゃな。麻呂爺も夜通し働いて疲れた故、俄かに病が起こって伏せってしまわれたとか。」
「誰がそんなことを?」
 あかねが問い質すと、安宿媛は答えた。
「宮内の者が申しておった…。で?麻呂爺は大丈夫なのか?それに…檜隈女王様も御帰りになられなかったが…。どうしたのであろうか?そちたちは知っておるか?」
 安宿媛の問いかけにあかねと桂は互いに顔を見合わせた。恐らく、麻呂爺が檜隈女王に化けていた妖とやり合ったことが元で、騒動となり、更迭されたことは、安宿媛には説明されていないのだろう。もっとも、説明しろと言われても、まだ、子供の彼女には重い話になる。

「ええ…麻呂様も御年をお召しになられましたからねえ…。最近、急に暖かかったり、寒かったりと天候が不順ですから…。連日連夜のご無理に病を発せられたようですわ…。」
 苦笑いを浮かべながら、桂が苦しい説明をした。
「麻呂爺は何歳くらいなのじゃ?」
 安宿媛は桂へと問いかけた。
「えっと、確か…七十四歳くらいかと…。」
「ほう、麻呂爺は七十を越えておるのか?」
 安宿媛が目を丸くした。医療などない古代だ。七十代で足腰がカクシャクとしている爺さんは、珍しかったに違いない。
「七十を越えておるということは…。壬申の乱も乙巳の変も見てこられたのか。」
「ええ…一応そういうことになりますわね。さすがに乙巳の変の折はまだ、御幼少だったと思いますから、記憶には残っておられないかもしれませんが…。」
 桂が頷いた。
「壬申の乱の折は、沖真人(おきのまひと・天武天皇の国風諡号の一部分)の尊皇(すめらみこと)様の元にあって、大いに活躍されたんじゃろうなあ…。」
 ポツンと安宿媛が言った言葉を受けて、桂が返した。
「いえ、麻呂様は元は葛城皇子様の御子、伊賀皇子(=大友皇子)様方の重臣でした。」
「え、麻呂爺は近江方の重臣じゃったのか?」
 安宿媛は不思議そうに問い返した。今の言をまともに受ければ、壬申の乱の敵方の重臣だったことになる。己の耳を疑った。


「麻呂様は伊賀皇子様の首を手土産に、大海人皇子様の軍に下ったと、言われてたわねえ…。近江方から見れば、裏切り者よねえ。」
 ひょいっと、文忌寸円が、声をかけてきた。
「円様…。」
 桂は、険しい表情を円へと手向けた。
「麻呂爺が、近江方の重臣じゃったというのはまことか?」
 と安宿媛が興味深げに問いかけた。
「ええ、そう聞いてますわよ。」
 桂は淡々と答えた。
「麻呂爺は、近江方の重臣じゃったのに、どうして、左の大臣(おとど)まで登りつめたんじゃ?」
「そりゃあ、上手く、大海人皇子様に取り入ったからに決まってるでしょ?誰だって、命は惜しいものだしねえ。」
 円が不気味な笑いを浮かべながら言った。

「そのくらいにしておいてくださいません?円様。」
 いら立った顔で、桂が円を制した。どうやら、その話題は触れて欲しくないと、言いたげな顔がそこにあった。
 そんな桂の問いかけを無視するかの如く、円が、桂へと質問を投げかけた。
「前から一度、ききたかったんだけど…、あんたは、何で石上麻呂の元に来ることになったのかしら?」
「術師たるもの、あまり自分のことは話すなと、麻呂様に言われていますから、お話しできませんわ。」
 桂は冷たく言い放ったが、その傍で、わくわくと瞳を輝かせている、安宿媛様の姿があった。
 好奇心をそそられたとばかりに、問いかけてきた。
「のう、桂郎女は、いつから、麻呂爺のところに仕えておるのじゃ?」
 一応は、麻呂爺さんよりも目上になるこの少女の問いかけを、無下に無視することもできず、桂は、苦い顔を浮かべながら、その問いかけに答えた。
「そうですね…麻呂様の元へ来て、四年ほどになりますかね…。」
「どうして、麻呂様の元へやってくることになったのじゃ?」
 桂はその問いかけに答えるかどうか一瞬迷った。が、ここで何も答えないのは、大人げないと思いかえし、安宿媛の問いかけに答えた。
「まあ、一番の理由は、陰陽術を習得するためです。麻呂様は優れた陰陽術使いでもありますからね。」
 そう、安宿媛の問いかけだったので、桂は丁寧に答えた。そんな桂の横から、円が、声をかけた。
「へええ、桂郎女は、陰陽術を学ぶために、麻呂様のところへ来たの。で?麻呂様と肉体関係は?」
「あ、ある訳ないでしょう!」
 当然、桂が吐き捨てるように怒鳴った。
「そうね…。あんたが、麻呂様の元に来た頃には、麻呂様は六十歳を大きく越えてなさったから、もう、男としては役に立たなくなっていたわよねえ…。」
 それを聞きながら、あかねが困惑気に口を挟んだ。
「ねえ…やめてくれません…。安宿媛様が、好奇心いっぱいの瞳で見てるわよ…。子供には刺激が強すぎるわ。」
「あら、安宿媛様も、近い将来、首皇子様へお輿入れなさるでしょうから。そんなに、刺激が強い話ではないでしょうに…。
 …そういえば、あなたのお連れさん…えっと、乱馬ちゃんだっけ?あの子は今日は見かけないわねえ…。一緒に来なかったのかしら?」
 円は奔放に、思ったことをそのまま口にするタイプの人間のようだ。
 きょろきょろと乱馬を探した。

「ちょっと、具合悪くて、伏せってるんです。…乱馬やなびきお姉ちゃんのための草摘みだって、聞いてませんでした?」
 おもむろに、あかねは答えた。
 一応、乱馬が昨夜、麻呂爺さんと同行していたことは、内緒になっている。そのことを思い出して、誤魔化したのだ。
「そう…。乱馬ちゃん、伏せってるの…。強そうに見えて、案外、華奢なのねえ…。」
「だから、桜葛を摘みに、ここまで出たようなものなんですよ。もうお一方、なびきさんも伏せっておいでですからね。」
 と桂が返した。
「うふ、じゃあ、乱馬ちゃんのところに、お花でも摘んで、後でお見舞いにでも行こうかしらねえ…。強い子が弱ったところって、そそられるのよねえ…。うふふ。」
「じ、冗談でもやめてください…。そういうの…。」
 たまらず、あかねが言い放った。
「あら、どうして?」
「乱馬にそんなこと、思うなんて…気持ち悪いわ…。」
「まあーっ!やっぱり、この娘っ子、乱馬ちゃんを狙ってるのね。」
 円はあかねに吐き出した。どんどん、話が横道に逸れていく。
「別に、乱馬とあたしはそんなんじゃ…。」
「あらあら、惚れてるってあなたの顔に書いてるわよ!駄目、ダメダメ、ダメよ。あなたは普通の女人でしょう?宦官は何も生み得ないわよ。宦官には男としての機能はないんだから。惚れたって、子供は授からないわよ!
 だから、宦官は宦官同士が良いのよ!乱馬ちゃんは私にさっさとよこしなさいな。悪いようにはしないから…。」
「だから、乱馬は宦官じゃないです!あなたと一緒にしないでください!」
「誤魔化しても無駄よ。あの乱馬って子からは、生きの良い男子の精気が立ち上っているんですもの。女の姿はしているけれど、あの子の心は男よ。」
 
「あの…。お二人さん…。そろそろおやめになりません?…安宿媛様の手前ですし…。本当に、子供には刺激が強すぎますから…。」
 聞くに聞きかねて、今度は桂が止めに入った。

 目の前で、安宿媛が不思議そうにあかねと円を見つめていた。
 気まずくなったあかねは、そこで会話を切った。

「さてと…。草むしり、草むしりっと…。安宿媛様も頑張って、たくさん摘みましょうね…。」
「草むしりではなくて、薬草摘みじゃ。」
「そうね、薬草たくさん摘みましょう!」
 とわざとらしく、話題を切り換えたのであった。



二十三、安宿媛の許婚

 あかねは安宿媛を伴って、草摘みを開始した。
 道具といえば、石ナイフ。石器時代に使っていたような尖がった石だ。鉄の農具など目が飛び出るほど希少な古代だ。草むしりはこのくらいがちょうど良いのだろう。

「稚媛様はどうなさってるの?やっぱり…疲れてらした?」
 あかねは手を動かしながら、安宿媛へ問いかけた。
「稚媛は疲れ切って帰ってきたからのう…。何があったかも良く覚えていないと言っておった…。」
「あれから稚媛様とお話したんだ…。」
「ちょっとだけな…。わらわが昨日、草摘みしてきたと言ったら、今度行く時は、「桜葛」を摘んで来ればよいと教えてくれたんじゃ。それだけ言うと、また、結界の向こう側へ入ってしまったがな…。」
 少し寂しげに、安宿媛は言った。
「結界の向こう側ねえ…。あの、宮の奥に張り巡らされた結界…。何のための結界なのか、今一つわからないわ。」
「あの結界は首様のために貼られたようなものじゃからのう…。」
 と、安宿媛はポツンと言った。
「首皇子様って安宿媛様の何かな?もしかして、安宿媛様って首様が好きなのかしら?」
 あかねはカマをかけてみた。安宿媛が光明子だとすると、首皇子は将来の彼女の夫になる。ちょっとした好奇心が頭をもたげたのだ。

「首様は私の許婚じゃ。」
 安宿媛の口から、そう返答がすぐに返って来た。
「許婚…。」
 あかねはその言葉に反応してしまった。
「そうじゃ。もっと幼い頃から、父君が申しておった。何が何でもわらわは首皇子様の元へ嫁がねばならぬと。そして、男子を産めと…。我が藤原一族のために…と。で、去年、正式に首様の許婚となったんじゃ。」
「安宿媛様ってお年はいくつなの?」
 つい問いかけていた。
「首様と同じ、十四じゃ。」
「十四歳って…。この時代は多分、数え年だから、実年齢は十二歳?小六から中一くらいかあ…。」
 あかねは、独り言を言いながら指を折る。
「小学生で、一族のための婚約者かあ…。あたしは高一、十六歳だったけど…。」
 そんな独り言のような言葉を吐き出しながら、あかねはふううっとため息を吐いた。
 安宿媛の父親は藤原不比等だと言っていた。ということは、首皇子は仕組まれた結婚相手、政略結婚でもある。しかも、幼少の頃から父親に仕組まれていた、カップリングなのだ。
 もっとも天道家と早乙女家でも、乱馬が生まれた頃から、三人の娘のうちの誰かを彼の嫁にするという約束をしていたらしいから、さほど、藤原家と事情は変わらないようだが、あかねが許婚として乱馬と引き合わされたのは、高校生になってからだった。
 考え込んだあかねに、安宿媛が声をかけた。
「あかね?どうしたのじゃ?急に黙りこんで…。」
「実はね…あたしにも許婚が居るのよ。」
 あかねは、安宿媛にそう切り返していた。
「あかねにも、許婚が居るのか?…というより、あかねは、まだ独り身なのか?」
 と今度は一転、安宿媛の方が目を輝かせて問いかけてきた。
「まだ…ってのは、余計よ。あたしたちの世界じゃ、十六歳ってまだ適齢期じゃ無いの。」
「あかねは、十六歳なのか?…うーむ…それでまだ結婚していないのは、何故じゃ?許婚もおるのに…。許婚に嫌われておるのか?」
「だから、まだ、結婚適齢期じゃないのっ!それに…別に嫌われてないわよ。」
 あかねは苦笑いを浮かべながら、安宿媛へと弁明した。この時代の結婚は、十六歳では晩婚に入るようだ。まるで、オバサンに対するような、安宿媛の物の言い方に、あかねは少し戸惑った。

「なあ、あかねの許婚は、どのような男子(おのこ)なのじゃ?」
「自意識過剰で、我がままで、唯我独尊を地で行くような変態…。」
 即答した。
「変態?…何じゃ?それは…。誉めておるのか?腐しておるのか?」
 言葉の意味が良く通じなかったらしく、稚媛は首を傾げた。
「女心を全く理解しない、トンチンカンなのよ。素直じゃないってあたしにいつも言うくせに、自分だって、かなりのへそ曲がりなの。」
「あかねは、その許婚が好きなのか?」
「ええ、好きよ……。でも…。」
「でも?」
「これが、ままならないのよねえ…。あいつの周りには、自称、許婚がたくさん居るから。」
「良き男には、たくさんの許婚が居ても、別に不思議ではなかろう?」
 安宿媛は、そう切り返してきた。
「首皇子様には、安宿媛以外にも許婚がいらっしゃるの?」
「ああ、居るじゃろうな。よしんば、居なくても、嬪になるのは、わらわ一人ではあるまい。あかねは、それが嫌なのか?」
 と問いかけて来た。
「うーん…。どう説明したら良いかしらねえ…。あたしの世界では、一人の男に一人の女しか結婚できないって、そういう決まりがあるのよ。」
「一人の男に一人の女しか、結婚できぬとな?」
 と、安宿媛の方が、目を丸くして、聞き返してきた。安宿媛の生きる時代の常識では一夫多妻制が当り前の世界など、想像だにできなかったに違いない。
「のう…ということは、あかねの許婚は、一人の女に絞りかねているのか?あかね以外にも、好きな女が居るのか?」
「うーん、というより、他の女の子たちが、寄ってたかって、彼を追いまわしているのよ。」
「取り合いしているのか?それほど、良き男なのか?あかねの許婚は…。」
「って、訳でもないんだけどねえ…。とにかく、複雑なのよ…。」
 あかねはため息と共に吐き出した。珊璞や右京、小太刀たちとのいきさつを知らない安宿媛に、どう説明してよいのやら、あかねには皆目見当がつかなかった。

「ねえ、安宿媛様は、許婚の皇子様のこと好き?幼い頃、お父様に押し付けられた許婚なんでしょ?」
「子供の頃より、一緒に育ってきたようなものじゃからなあ…あのように、我がままな皇子様じゃが、優しさはある。だから…渋る、父君に頼み込んで、一緒にここまで付いて来た。時折でも、皇子様の話相手になれれば、気も紛れよう?」
 安宿媛はそう吐き出した。
「ねえ、首様はどうして都からわざわざ飛鳥へやって来たの?」
「呪詛除けのためじゃよ。」
「呪詛…。」
 ハッとして安宿媛を覗き返す。
「ああ…。首様を亡き者にしようという陰謀が、渦巻いておるからのう…。」
「ねえ、まさか…あの奥の宮の結界って…。」
「ああ…。呪詛除けのために、麻呂爺が張った結界じゃよ。」
 安宿媛の頭がコクンと垂れた。
「体調を崩したまま、なかなか良くならない首様を心配して、陰陽寮の役人が占いをしたんじゃ。すると、このまま寧良の都に居ては、呪殺されるという占いの結果が出た。首皇子様にかけられた呪いから守れるの飛鳥の古宮に残る麻呂爺だけじゃと…。我らは、占いの結果を頼って、飛鳥の古宮へ来たんじゃ。」
「そういうことだったの…。」
 占いで行動を起こすなど、現代人のあかねの理解の範疇を越えてはいたが、どうやら、何か背後にキナ臭い物があることを、あかねなりに嗅ぎ取っていた。

「噂では、皇子の父君も、その祖父君も呪詛で短命じゃったと…。」
 と安宿媛は続けた。

 あかねは当然知らなかったが、首皇子の父、文武天皇(珂瑠皇子)も、またその父であった、草壁皇子(日並知皇子)も短命だった。草壁皇子は天武天皇(大海人皇子)と持統天皇(鵜野讃良皇女)の一粒種であったが、皇位に就く前に病死したと伝えられている。悲哀に暮れた鵜野讃良皇女(うのささらこうじょ)は、天武亡きあと、その孫へ皇位を伝えるべく、即位し持統天皇となったと通説では説かれている。
 もっとも、その孫、文武も短命だった故、その子、首皇子へ皇位を伝えるべく、文武の母の元明天皇、そして、文武の姉の元正天皇が相次いで中継ぎとして即位したのである。
 短命の皇太子の負の連鎖は、天武系の王朝に続いているようだった。

「ねえ、その呪詛ってどんなものなの?」
「首様は、時折、激しく咳こまれるのじゃ。明け方や夜中、苦しそうに…。麻呂爺に、飛鳥へ来れば楽になると言われたのに…。」
 心配げに安宿媛が言った。
「それって、一向に良くならない…ってこと?」
「前より具合は良くなったと爺は申しておったが…。今のわらわは結界の向こう側に居る首様の傍に、なかなか近寄れぬ身の上。よほど、血色の好いときでなければ、首様は結界を越えて、出ては来られぬ。たまに出てこられても、また、咳がひどくなって、すぐ結界の向こう側へ引きこまれるのじゃ。現に、そなたたちに話しかけたあの日以来、また、咳がひどくなってしまわれた。」
「そう…だから、屋敷内をうろついてなかったんだ…。皇子様の顔を見ないと思ってたのよねえ…。で?安宿媛様は首皇子様のところへは顔を出してあげてるの?」
 その問いかけに、安宿媛は力なく首を横に振った。
「わらわは結界を越えられぬ…。じゃから、皇子様の様子は、爺と稚媛の話から推し測るしかない。じゃから、稚媛に頼んで逐一、首様の様子を教えてもらっているんじゃ…。」
「じゃあ、ゆうべ、あんなところで土をくべていたのは?」
「ゆうべはわらわの寝屋まで咳こむ声が聞こえてきたゆえ、たまらず、稚媛に教わったとおり、呪詛を避けるための、まじないをしてみたんじゃ。」
「ふーん、そんなことをやってたんだ。」
 あかねは頷いた。
「そうか、あかねが、わらわを見つけて寝屋へ連れて行ってくれたのじゃったな。」
 安宿媛はあかねの言葉から夕べのことを思い出したのだろう。ペコンと頭を下げた。
「ああ、別に、気にしないで…。あんなところで寝ていたら風邪をひいちゃうと思っただけよ…。そう…首皇子様のことが気になって、あんな時間にまじないをしていたのね。」
「そうじゃ。稚媛が、埴をくべる咒法を教えてくれたんじゃ。…あかねたちに出会った時、そのための埴を取りに行って、真神たちに追われたんじゃ。まさか、真神一族に襲われて追い回されることになろうとまでは、思わなんだが…。」
「…首皇子様のために、あんなに無茶をしたのね…。時折激しく咳こむねえ…。もしかしたら、首皇子様の家系って、喘息(ぜんそく)持ちなのかも。」
「喘息?」
「あたしたちの時代では、そう呼ばれる病があるのよ。激しく咳こんで呼吸が苦しくなるらしいわ。」
「あかねの時代にも呪いはあるのか?」
「呪いねえ…。非科学的だけど…呪いの泉に落っこちた奴も居るから、皆無じゃないか…。」
 とあかねは笑った。
 
 いとしい人への想いが、彼女を突き動かしているのだろうか。親が決めた許婚とはいえ、恐らく、安宿媛は首皇子のことが大好きなのだろう。

「安宿媛様とあたしって、何だか似ているわ。」
 あかねはポツンとそんな言葉を吐き出した。
「似ている?」
 キョトンと見上げた安宿媛にあかねは言った。
「実は、あたしの許婚も呪いを穿たれているのよ。」
「あかねの許婚も呪われているのか?」
「ええ…。ちょっと厄介な呪いなの…。」
「激しく咳こんだりするのか?」
「ううん…。水に濡れると変身しちゃうのよ。」
「水に濡れると変身…?そんな呪いがあるのか?」
「それが…あるのよねー。後で実践してあげるわ。」
 あかねは微笑みかけた。
「実践する?」
「ええ…。今は女の子の格好してるけど…湯を浴びせると、元の男に戻るから。」
 あかねは笑った。
「…今は女の子の格好をしているって…。まさか…あの乱馬か…。」
「ええ、乱馬は本当は男なの。で、あたしの許婚。」
「本当に、男に変身するのか?乱馬は。」
 安宿媛の瞳が、キラリンと輝いた。
「するわよ。湯を浴びせたら、男にね…。」
「湯と水で男と女を行ったり来たりするのか?」
「ええ…。誰もいないところで、こっそりと見せてあげるから…。」
「約束じゃぞ。」
「ええ、約束ね。その代り、これは内緒よ。この世界で、乱馬の変身の秘密を知っているのは、安宿媛様だけよ…。わかった?桂さんや円さんにも言っちゃダメよ!」
「秘密じゃな。」
 にっこりと安宿媛は微笑んだ。子供らしい微笑みに戻った瞬間だった。

「大丈夫、きっと良くなるわ。」
 とあかねは励ますように、安宿媛へと声をかけた。
 気候が不純な季節、喘息は起こり易い。特に、子供や老人に引き起こされるが、化学的療法が無い時代なら、大人でも激しく咳こむことがあるかもしれない。かといって、医学的知識が皆無なあかねには、下手に介入することもできないのだ。
「そうじゃな。せいぜい、わらわには、薬になる草をたくさん摘んで、薬膳に使ってもらうしかあるまいな…。」
 そう言い放つと、安宿媛は再びせっせと、手を動かし始めた。


「何か、すっかり打ち解けてらっしゃいますのね。」
 桂が後ろから覗き込んできた。

「ええ、安宿媛様とあたしって、ちょっと似たような境遇だってことがわかったんで。ねえ。」
 とあかねは笑った。
「そうじゃな。あかねにも許婚が居るみたいじゃし。」
 にっこりと安宿媛も微笑んだ。

「それはよろしいことで…。」
 そう言いかけた桂の様子が変化した。
「どうしたの?」
 覗き込んだあかねに、桂はシッと口を閉じて見せる。
 何かの気配を察したようで、キッと険しい瞳を、ゆっくりと立ち上がりながら野原中へと巡らせた。

「そこっ!何奴っ!」
 飛び上がりざまに、目の前に転がっていた掌大の石を、ヒュッと草むら目がけて投げ込んだ。

 ザザザッと音がして、そいつが勢い良く飛び出してきた。

「何?獣?」
 あかねは眼を見張るのと、後ろから抱え込まれるのは、ほぼ同時の出来事だった。
「御迎えに参りました、媛。」
 そんな男の声が後ろ側でした。
「ちょっと、何っ!」
 振り向きざまに拳を振り上げようとしたが、それをグイッと物凄い力で阻まれた。
「ほんに、お噂どおり、気の強い御方じゃ。兄者(あにじゃ)が気に入るのもわかるわい。」
 脇を見てぎょっとした。がっしりとした体格の男が、あかねを後ろ手に締め上げている。腕力もかなり強い。いとも軽々とあかねの急所を抑え込み、動きを封じてしまっている。

「あんた!誰?」
 あかねは激しく問いかけた。
「真神一族の次の長(おさ)、真神速人(まかみのはやと)の使いの者だ。」
 男はえっへんと胸を張りながら答えた。

「真神ですって?」
 桂が睨みあげながら問いかけた。

「おおさ。真神原を統べる飛鳥の名族、真神の者ぞ。」
 男はニッと笑いながらそれに答えた。
「大口の真神一族が、我らに何用です?」
「何、用があるのは、この、娘御だけだ。他の女人には用など無いから安心せい。」
 男は答えた。
「何を戯言をっ!」
 桂はそう言いながら、持っていたクナイのような鏃(やじり)を、再び男へ向けて投げかけてきた。
 が、両脇から、獣がビュッと飛び出して来て、目もとまらぬ速さで鏃を口へくわえた。まるで、フリスビーへ食らいつく犬のような勢いのある動作だった。
「無駄な足掻きじゃ。そんな鏃(やじり)ごとき武器にもならぬわ。それに…。あまり反抗すると、手元が狂ってそっちの女たちの命が無くなるかもしれぬが、良いかのう?」
 そう言いながら、男は後ろを振り返った。
 いつの間にか現れたのか、男たちがそれぞれ、一緒に野草摘みをしていた女官たちにまとわりついて、刀剣を喉元へ突き立てているのが見えた。いやそれどころか、安宿媛の喉元にも、刀が突きつけられていた。

「おぬしたち、何を?」
 桂の表情がさらに険しくなった。安宿媛を傷つけるわけにはいかないからだ。

「そなたが余計な事をすると、容赦なく、喉元掻き切るぞ。」
 凄味のある声色で男は桂に声を投げかけた。脅そうとしているようだ。

 桂はグッとあかねを掴んでいる男を睨みあげた。
「女を盾にするとは!真神は卑怯者の集まりかっ?」
 と吐きつけた。

「ふっ!争いごとを好まぬだけじゃ。そなたたち女など、我らの手にかかれば、ひとひねりよ。無益な血は流した無い気配りだと思いはせぬのか?」
 大男は笑いながら桂へと言葉を投げつけた。

「何をこしゃくなっ!」
 桂は印字を結ぼうとした。

「おっと…おぬしは、陰陽の術者かっ!」
 そう言うと、大男はサッと左手を後ろに引き、何か合図を送った。と、物影から物凄い勢いで、獣が飛び出して来て、桂を襲った。
「きゃっ!」
 桂が空に描こうとしていた印は、その獣の乱入によって、弾け飛んだ。
 ヒュンヒュンと狼たちが、とっかえひっかえ草むらから桂へと襲いかかり、彼女に印を結ばせる余裕を与えなかった。

 最後に、桂は仰向けに尻もちを着いて、草むらへと投げだされた。

「印を結べねば、術も発動できまい。」
 勝ち誇ったように、大男は桂を見下ろす。
「それはどうかしらっ!印を結ばぬとも発動できる技はあるわよっ!」
 それをキッときつい表情で睨みつけながら、桂は最終手段に打って出ようと手を地面へと宛がった。ゴゴゴゴゴと音がして、地面を何かが走り抜けてくる。
「地返しの術かっ!面白いっ!浅人(あさと)!返せっ!」
 大男はあかねを抱えたまま、大きく上に飛んだ。グラグラっと地面が浮き上がったが、器用にそいつを避けて飛んだ大男の前に、十歳前後の少年が前に立ちはだかった。と、浅人と呼ばれたその少年は、地面へと拳を突き立てていた。

「地の術、総返しっ!」
 まだ、声変わりしていない甲高い声が、響き渡る。
 少年の声に呼応するかのように、今度は地面の畝(うね)が桂目がけて走り出す。
 

 とその時だった。何を思ったか、勢い良くあかねは、大男の腕に、ガブリと噛みついた。とにかく、手を離させようと必死だったのだ。手さえ離れれば、逃げだせる。その一心だった。
「痛っ!何をするかっ!」
 大男はあかねを睨みつけると、握りこぶしを作り、鳩尾(みぞおち)に一発。喰らわした。
「はうっ!」
 鈍い叫び声をあげると、あかねは気を失った。
 千載一遇の逃げるチャンスを逸してしまった。あかねの小さな頭は大男の頑強な腕の中に沈んだ。と同時に、術を仕掛けた、桂も、術返しの憂き目に合わされていた。

「きゃあっ!」
 己が仕掛けた、地面のウネリに足を取られ、見事にすっ転んだのだ。いや、それだけではない。身体にしびれが走った。そして、そのまま、動きを封じられ、地面へと投げだされてしまった。ビリビリと足がしびれてしまい、その衝撃で動けない。

 その間に、大男はあかねを担ぎあげ、その場から遠ざかる。

「しかと、この、乱馬媛を貰い受けた。兄者が言うには、この娘を貰いうける適妻の証として、既に幾許(いくばく)かの甘樫(あまかし)の埴(はに)を手渡してあるらしいからのう。」
 はっきりと、そう聞こえた。

「乱馬媛ですって?」
 桂はギョッとして、大男を見上げた。大男がかっさらったのは、あかね。乱馬ではない。人違いも甚だしかったからだ。
「ちょっと、待って、その娘さんはっ!その子は、乱馬媛じゃないわーっ!」
 と声を荒げたが、最早、耳には入らない距離を大男は飛ぶように逃げて行く。
 一緒に他の女人をはがいじめにしていた男たちも、一気に引く。狼たちも男の後を追った。
「待ちなさいっ!その子はあかね媛よ!」
 声を限りに振り絞ったが、真神の者たちには聞こえず、あかねは連れ去られてしまった。

「桂様…あいつら、いったい…。」
「あかね様、連れて行かれましたよね。」
「どうします?追いかけますか?」
 各々、女官たちも立ちあがる。一様に、困惑の表情が浮かび上がっていた。
「あかねっ!」
 安宿媛も声を震わせていた。

「追いかけるといっても…相手は、真神原の連中。一筋縄ではいかないわ。それより…円様っ!居たんでしょ?何故、助けに入ってくださらなかったの?」
 桂はそう吐き出した。
 すると、傍らの木の上から、ザザッという音と共に、円が降りたった。
「いやあ…真神の連中…見事にあの娘をかっさらって行ったわねえ…。」
 パンパンと衣服についた木の葉を払い落しながら、おどけて見せる。
「あなた、真神から私たちを守るために付いて来たのではないのですか?円様っ!」
「ええ、護っていたわよ。連中が安宿媛に手を出していたら、容赦なく、切り捨てたわ。」
 円は不敵な微笑みを浮かべた。
「ふざけないでっ!まさか、あなた、乱馬さんに気があるから、あかねさんがさらわれても知らんふりを決め込んでたんじゃ…。」
「そんな怖い顔しないで…そんなんじゃないわよ、桂郎女。ある方がおっしゃったの。真神一族が客人(まろうど)をさらって行っても、追いかけるな…ってね。」
 にんまりと円が笑った。
「誰がそんなことを…おっしゃったというんです?」
 桂はきつい瞳を円へと手向けた。
「ふふふ、内緒よ。それより…ここはひとまず、宮へ帰るわよ。薬草も摘んだことですし…。さあ、引き上げるわよ。皆さん。」
 と、円はゆっくりと、一同へと声をかけた。





 つづく



ちょこっと解説

薬狩
 本来の薬狩は現在の端午の節句辺りに行われた行事。字のごとく、野山に出て薬草を摘んだものです。
 有名な「茜さす」の額田王と大海人皇子の和歌のやりとりは、薬狩の中で詠われたとも言われています。
 桜葛は適当に創作したものです。

義法(ぎほう)
「続日本紀」によれば、新羅から慶雲四年(707年)に帰国し、その後、還俗して大津意比登と名乗ったという記述があります。
 



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