◆飛鳥幻想
第三話 古代との邂逅

六、古代へ

 飛鳥の水落遺跡。
 古代の水時計施設の復元遺跡の近くを流れる側溝へ、言い争いをした乱馬を突き落とした途端、乱馬の目の前に現れた怪しい猿面の若者。神楽で使う木の面を、すっぽりとかぶっているので、どんな人間なのか、まるでわからない。狩衣風な衣装を身にまとい、烏帽子を頭にかぶっている。
 声色から、若い男であることは伺い知れたが、それ以外は謎だ。
 人なのか、それとも物の怪なのか。不気味だった。

『嫌なんて言わせない…。君に選択の余地はないんだよ。』

 猿面男は乱馬ににじり寄りながら、そう声をかけてきた。不気味な異様さを感じた乱馬は、咄嗟に身構えていた。
 武道家の直感が、只者ではないと激しく反応したのだ。

 ズズズズズ…。
 と、足元で大地が揺らぎ始めた。

「なっ!何?」
 周りを見渡してギョッとした。
 あたり一面、急激に色彩を失い始めたからだ。
 カラーフォルムが一気にモノクロームへ急転する。
 そればかりではない。色と共に、周りの人々の動きも止まっていることに気付いた。
 すぐ傍で缶飲料を飲んでいるウっちゃんも珊璞も、不自然な恰好のまま止まっていた。近くではしゃいでいたパンダ親父も、早雲も思い思いの動きのまま、静止している。

「何が起こってんだ?」
 乱馬は、周りの皆の異常に気付き、声を荒げた。
「おまえ、皆に何をした?」

『そう警戒しなくても、大丈夫ですよ。私はある方に命じられて、あなたをお迎えに来ただけですから。』
 猿面は薄っぺらい微笑みを浮かべながら、乱馬へとにじり寄る。
「迎えに来た?」

 乱馬はキッと猿面を見据えて言い放った。

「生憎、俺はおめーと一緒に行く気なんてないぜ!」
 すっと足を後ろに引いて身構えた。
 そして、気玉を猿面目掛けて、思い切り打ちこんだ。
 
 バリンッ。と音が弾けて、猿面が真っ二つに割れた。

「おめーはっ!昨日の土産物屋の!」
 乱馬の顔が険しくなった。
 現れたのは、見覚えのある顔だった。そう、昨日、勾玉を売っていた若い男だったからだ。

『全く…乱暴ですねえ。』
 割れた面を拾い上げながら、男が笑った。

「てめー、どういうつもりだ?」

『さっきも言ったでしょう?私はあなたをお迎えに来ただけです…。』
 そう言いながら、男はくわっと目を見開いた。と、同時に、乱馬の肢体に何かが駆け抜けた。

「しゃら臭えーっ!」
 再び、気砲を食らわせようと、乱馬は身構えた。が、身体は反応できなかった。蹴りも拳も、一撃も、放てなかったのだ。
「か、体が動かねー?」
 金縛りにあったように、乱馬の身体は固まってしまった。必死で動かそうと足掻いたが、微動だにしない。

『無闇に傷つけたくないですからね…。動きを封じさせていただきました。さあ、行きましょう…。』
 乱馬の動きを封じた男は、勝ち誇ったような瞳を傾け、右手をすっと差し出してそのまま連れ去ろうとした。


「そうはさせないわっ!」

 脇で声がしたかと思うと、こちら目がけて突っ込んで来る少女の姿が見えた。

「あかねっ!馬鹿っ!来るなっ!」
 他の誰もが凍りついたように動かない中、何故、あかねだけが動けるのか。不思議だったが、理由など考えている余裕などなかった。

『おおっ、こちらにも動けるお嬢さんが居るとは…面妖な!』
 男は、飛んできたあかねの一撃を身軽に交わした。ひらりと空へ飛びあがる。その身のこなし方は、機敏だった。
『あなたも昨日、あの輪の中に居ましたね。勾玉も持っているし…まあ、よいでしょう。この術の中で動けるのなら…。あなたもお招きせねばなりますまい。…さあ、二人とも、おいでなさい…。』
 そう言うと、男は両手を前に突き出した。

『天の海に…』
 男は語りかけるように謡い始めた。まるで、百人一首の歌を詠んでいるような言い回し。勿論、耳馴染まない謡い方だった。

「うわっ!」
「きゃっ!」
 乱馬とあかねの足元が、それぞれその謡いの声と共に、ググッと盛り上がった。

『…雲の波立ち…』
 と、今度は、グルグルと周りの世界がぶれ始めた。
 止まった景色が、彼らの周りで回転し始めた。

『月の船…。』
 地面がグワンと唸り音をあげ、脇に居たあかねが崩れ落ちるように、乱馬の方へと倒れかかって来た。

「あぶねーっ!」
 無我夢中だった。前のめりに倒れそうになったあかねを、守るべく、今まで微動だにしなかった身体を動かし、あかねの腕を掴んでいた。
「クッ!」
 必死にあかねを己の方へと引き寄せる。
 と同時に、地面が脚元から離れた。釣り針に絡め取られた地面と共に、身体が宙へとすくい上げられていくような感覚が、身体を通り抜けたのだ。離れまいと手を取り合うのがやっとだった。

『星の林に…』
 流れる空気は、上昇気流のように上へ上へと身体を誘う。空気を吸うのもためらわれる程に、冷たい風が下から吹き上げ、上へと巻き上げられている感じ。ちょうど、飛竜昇天破の竜巻のど真ん中に吸い込まれるように、上へ上へと引き上げられて行く。
 そして、激しい気流の渦の中へと吸い込まれる。

「放すなよっ!絶対に、放すなっ!」
 ともすれば、振りほどかれそうになる手。ぎゅっと満身の力を込める。
 哀しいかな、女化してしまった故、あかねを抱きかかえるほど、腕力が無かった。男の体ならば、難なく引き寄せられたろうに…。

「乱馬ーっ!」
「あかねーっ!」
 互いを呼び合いながら、必死で手を取り、握り合う二人。そのまま、空に輪を描くように飲まれていった。

『榜ぎ隠る見ゆ…』
 その上で、謡う声が高らかに響いて消えた。







 いったい、どのくらいの時間、その気流の中を飛ばされていったのか。白んだ世界だったのか、色が一気に押し寄せてくる世界だったのか。記憶には無い。
 途中、気を失ってしまったのかもしれない。


 チクチクと身体を刺す痛みで、息を吹き返した。
 良く目を凝らすと、鬱蒼とおい茂った木々の中へと放り出されていた。太陽はその上から注いでいるらしく、木々に覆われた地面は薄暗かった。
 土の匂いが鼻先にツンと香る。
 ここは水落遺跡ではない。溝も遺構も、跡かたも無く史跡は消え去っている。
「いてててて…。ここは、どこだ…。」
 何が身の上に起こったのか、確かめる間もなく、すぐ脇で人影が蠢いた。
「何よ、何が起こったのよ。」
 そう吐き出された声。
「あかね…か?」
 乱馬は声をかけた。
「ら、乱馬よね…。」
 恐る恐る、受け答えが返ってくる。
「良かった…無事か…。怪我とかしてねーか?」
「え、ええ…。どこも痛くないし怪我わないわ。乱馬は?」
「俺も大丈夫だ…。誰かさんのせいで、女化しちまってるけどな…。」
 ほおおおっと乱馬は胸をなでおろした。何が起こったかわからないが、とにかく、あかねは無事だった。それだけは何よりだと思ったのだ。
「ちぇっ!俺たちをここへ導いた奴の姿は見えねーか…。」
 気配を探りながら、乱馬が舌打ちした。
 猿面男の影はどこにも無い。
「ねえ、…ここ、どこだと思う?」
 あかねは不安げに辺りを見回しながら尋ねた。
「さーな…。でも、元居た場所じゃないことだけは確かだな…。ま、体よく言うと、俺たちは、異世界に引きずりこまれたってところかもな…。」
「ここが異界って何でわかるの?根拠は?」
 あかねは乱馬を振り返る。
「根拠なんてない。」
 あっさりと乱馬は言い切った。
「だが、一緒にあの水落遺跡に居た、他の人間の気配が、全く無え…。あそこからここに飛ばされてきたのは、俺たち二人だけみてーだな…。残念なことに親父やおじさん、珊璞やウッちゃんたちの気配は、微塵も感じられねー。違うか?」
「珊璞や右京の姿がないのは、残念なの?」
「言葉尻捕まえて、文句言うなっつーの!こんなところまで来て、ヤキモチ妬いてんのか?おまえ…。」
 乱馬があかねの顔を覗き込みながら、言った。
「ヤキモチなんて、妬いてません!っつか、妬きません!」
 フンとそっぽを向きながらあかねが答えた。

「とにかく…ここにいつまでもじっとしてても始まらねーしな…。このまま日没になったら洒落になんねーし……。」
 パンパンとズボンのでん部についた土を払いながら乱馬は言った。今日のいでたちはいつもの赤いチャイナ服。それと黒いズボンだ。あかねは薄青色のデニムシャツとズボン。
 いったいここがどこなのか。日没が近いならば、一夜の宿をどうするか…飲食料の確保はどうするか、考えねばならない。生暖かい穏やかな気候だとはいえ、陽が落ちると、寒気が襲い掛かるかもしれない。山中は昼夜で寒暖差が激しいものだということを、経験上、知っている。
 乱馬は父親との修行行脚のおかげで、野宿などお手の物なくらい慣れていたが、あかねが一緒なら、それ相応の野宿の準備を日没までにやっておかなければならないと、思ったのだ。

 と、その時だった。目の前の茂みが、ガサガサと鳴った。

「誰か来るっ!」
 乱馬は咄嗟に身がまえた。
 人の気配を感じたのだ。

 ザッザッザッザッ…。
 足音のような茂みの音は、一定に音を刻み、だんだんに乱馬たちの方へと近づいてくる。

「複数居るぜ!」
 乱馬の言葉に、あかねにも緊張が走った。

 やってくるのは誰なのか。敵か味方か。森をさまよう獣か…はたまた、異世界の使者か。
「俺に任せて、下がってろ!」
 乱馬はあかねを促すと、下がるように、左手を後ろ側に突き出して指図した。

 いつでも来いと、攻撃できる態勢を整え、瞳を凝らして、じっと茂みを睨みつけた。
 身体を研ぎ澄まし、いつでも攻撃できる態勢を取る。格闘家の基本だ。
 山に修行していた乱馬自身、何度か修羅場をくぐり抜けたことがある。日本の山中には、熊や猿、猪や鹿といった野生動物が広く分布している。奴らは臆病なので、滅多に人里まで降りてくることはなかった。だが、昨今、里山は荒れ、餌場も困窮して、人家近くまで降りてくることもある。人間側から奴らのテリトリーの山中へ入るとなると、状況は一層変わってくる。
 修行場で野生動物と鉢合わせになることなど、珍しいことではない。
 むしろ、格好の格闘相手ともなり得る。
 
 緊張の糸が、ピーンと張りつめた。

「来るっ!」
 拳に力を入れて身構えた。

 ガササササ…。


 勢い良く茂みから飛び出て来たのは二人の少女だった。

「なっ?子供?」
 再び、出しぬかれたように、動きが止まった乱馬。
 
 飛び出してきた主をよく見ると、あかねたちより少し幼いくらいの十代前半くらいの少女たちだった。いずれも髪は長く、てっぺん付近で蝶型に結わえてあった。しかもだ、洋服ではなく着物、それも、見慣れた形のものとは少し違った形っていた。
 一人は頒布(ひれ)を靡かせた古代史の教科書に出てきそうな衣装。そして、もう一人は巫女さんのはく袴(はかま)に似た感じの白い衣装で、襟元に大きな鏡を身につけている。鏡を吊り下げている紐には勾玉が幾重にも重なっていた。
 不思議ないでたちの子供たちだった。
 しかもだ。何かに追われて、必死で逃げて来た様子だった。
「お願いっ!助けてっ!」
 肩から頒布(ひれ)をまとった少女は乱馬やあかねの顔を見るなり、息を切らせながら、そう話しかけてきた。

 乱馬も相手が年端もいかない少女となると、振り上げた拳を一旦、納めた。助けを求めて来た少女に、手を挙げる訳にはいかない。

「おまえら…何だ?誰かに追われているのか?」
 と声をかけた。
 コクンと頷きながら、少女は、逃げて来た方角を指さした。
「そう、追われている…。助けてたもれっ!」
 少女がすがるように声をかけてきた。もう一人の少女はしきりに後ろを気にしながら、怯えきった表情を手向ている。乱馬たちにも警戒しているのか、声をかけて来た少女の後に、すっぽりと隠れるように怯えていた。

「大人は居ないの?」
 あかねが声をかけた。

「おらぬ。…。わらわとこの子だけじゃ。」
 と、最初に声をかけてきた少女が答えた。この少女は物怖じしない風だった。それに対して、もう一人の少女は寡黙に怯えて震えていた。

「あんまり、見かけない服を着た子供たちだなあ…。コスプレでもやってるのか?」
 乱馬が軽口を叩きそうになったのを、不謹慎よと言わんばかりに、あかねが袖を引っ張った。
 と、その時だった。乱馬の表情がみるみる険しくなった。
「怖い人たちに追いかけらてるって言ってたな…。」
 少女が指さした方角に、数多の気配を、捉えたのだ。
「確かに、あっちから別の奴らが近づいて来るぜ!」
 後ろ側で控えている、あかねに向かって警告を発した。
「一、二、三、四…。いや、もっとだ…これは…人の気配だけじゃねー。獣?」
 ビンビンに身の毛が逆立ち始める。数多の殺気が、差し迫ってくる。そいつは、真っ直ぐにここを目指している。
 子どもたちにもその気配は伝わったようで、怯えきった瞳を差し向けた。彼らにとって何か恐ろしい者が迫ってきていることは明白だった。
 子どもたちは、乱馬たちの後ろに隠れた。よほど、おっかない目に遭ったのだろう。不安そうな瞳を、追手の方へと手向けている。
 
 やがて、キャンキャンと犬たちが吠えるような声が辺りに響いて来た。
 ザザザと辺りの茂みが鳴り響き、ウウウと唸り声を上げている。
「犬…?」
 黒い中型犬くらいの大きさの塊が、茂みの中からチラチラと見え隠れした。
「野犬の群れか?」
 その獣達は、群れを成して輪を固めて迫って来るようだった。絶対に獲物を捕獲すると言わんばかりの気迫だった。
「大丈夫だ!俺に任せておけ。」
 乱馬は怯えきった子供たちを見返しながら、吐き出した。

「あかねっ!この子らを頼む。」
 そう言って、傍にいたあかねに、子供たちを託した。
「わかった。みんな、こっちに来てっ!」
 あかねは頷くと、少女たちを乱馬から引き取った。少女たちも乱馬に促され、あかねの傍へと駆け寄った。
「あの者、刀を持っておらぬようじゃが、大丈夫か?」
 少女は、あかねに問いかけた。
「大丈夫よ…。武器なんか持ってなくても、乱馬は強いわ。」
 あかねは自信ありげにそう告げた。そして、傍らに立っていた高木の陰に駆け込んだ。

 乱馬の魂胆はあかねにはわかっていた。以心伝心。彼は気弾をぶっ放すつもりに違いない。

「あんたたち、なるべく姿勢を低くして、じっとしてなさいよっ!」
 と少女たちに声をかけた。少女たちは無言のまま頷くと、あかねの指示に従った。



「おいっ!そこの奴!こそこそ隠れてないで、出てきやがれっ!」
 乱馬は右側の茂みに向かって吐きつけた。

 と、その声に反応して、一人の青年が茂みからゆっくりと姿を現した。
 耳から頬にかけて、朱色と黒色の刺青が数本あった。頬は陽に焼けていて浅黒い。黒い髪の毛は長く後ろ側にくくりつけ、垂らされてある。棍棒のような鉄製の武器を握りしめている。
 ギラギラした瞳は獣のそれと同じだ。獲物を虎視眈々狙っている、強い光を宿した瞳だった。身体は細めだが、筋肉質だった。しかも、無駄な筋肉など一片もついていない、鍛え抜かれた身体だった。
 獣の皮をなめした毛皮のベスト状の衣装を身にまとっている。そこから見え隠れする胸板も、勿論、極上に厚い。

「これはこれは…。他にも可愛らしいお嬢様方がおられるとは…。」
 青年は、乱馬とあかね、そしてなびきを見比べながら、ふっと表情を緩めた。が、その鋭い瞳は、決して笑ってはいない。むしろ、警戒している気配が、全身からうかがえた。
「見たところ、その子たちの保護者という訳でもなさそうですねえ…。お二人はこの辺りでは見慣れぬ格好をなさっていらっしゃる…。どうです?その子供たちをこちらへ渡していただければ、この森の出口までお送りいたしますが…いかがいたします?」
 青年は、丁重な言葉を投げかけて来た。

 青年の言葉に、ピクンと子供たちの肩が震えた。傍らに居た、巫女姿の少女のぎゅっとあかねを握り返す手に力が入った。

 乱馬は青年を睨みあげながら答えた。
「この子らを渡せってか?…それはできねー相談だな。」
 目の前の子供たちがこの上なく怯えている以上、易々と手渡す訳にはいかなかった。どんな角度から考えても、極悪非道の青年が、無理やり子供たちを連れて行こうとしているようにしか思えなかったからだ。人さらいかもしれない。

「何故、手渡してもらえぬのですか?」
 青年は不敵な笑みを浮かべながら、声を荒げることなく、丁寧に乱馬に尋ねてきた。

「何故って、人さらいが幼い子供を連れて行こうとしているようにしか、見えねーからな。」
 乱馬は投げつけるように答えた。

「人さらいねえ…。私は我々の土地で不穏な行動を働いたこの子たちに用があるだけですよ。」
「不穏な行動だ?」
 乱馬は問い質した。
「ええ、この子たちは真神の土地へ侵入しました。真神の土地の土も木も水も全て、我ら一族の宝。それを侵略されて黙って見過ごすわけにもいかないのですよ。それが我が一族の掟ですからね…。」
 と青年はあくまで丁重な言葉で乱馬に話しかけた。
「掟だろーが、そんなこと俺の知ったこっちゃねーっ!この子らが怯えている以上、黙って引き渡すつもりはねー!何なら力ずくで連れて行くか?」
 と乱馬は果敢に挑発した。
「そんなことをおっしゃっていると、怪我をしますよっ!」

 シュッと音がして、青年の手が動いた。
 乱馬は、咄嗟に、右に避けた。左腕のすぐ傍を何かがものすごい勢いで通っていく。

 バシッと音がして、乱馬のすぐ後ろ側に立っていた木に、小石が当たった。

「ほう…。避けましたか。あなた、腕に覚えがありますね。」
 青年が答えた。

「てめー、いい加減にしろよっ!」
 乱馬が怒鳴った。
 交渉は決裂して話し合う余地などない。相手もそう判断したようだ。
「ふむ…。乙女を傷つけるのは、本意ではないのですが…。この場合、いたしかたないかもしれないですね。多少の怪我はお許しくださいよ。」
 青年が、すっと身構える。
 合わせて、乱馬も身構えた。

「あかね、子供らを連れて、もっと後へ下がってろ。」
 と声をかける。
 急場を察したあかねは、「うん。」と頷くと、少女たちの手を引いて、乱馬から少し離れた。




七、異世界との邂逅


「お相手はあなたお一人ですか?他のお嬢様方は?」
 青年が乱馬に向けて言った。
「ああ…。こいつらには戦わせねー。てめーらなんざ、俺一人で十分だ。」
 乱馬は答えた。
「ほう…これは、勇ましいお嬢さんだ。お一人で、我々と対峙なさるおつもりとは…。面白い。」
 口笛をピーッと吹き付けた。
 と、茂みの中から、ビンビンに気配を放っていた犬たちが、一匹、また一匹、出てきて姿勢低く、身構える。

「こいつら…まさかっ!」
 乱馬の瞳が驚愕に変わった。

「どーしたの?」
 乱馬の様子に、あかねが後ろ側から尋ねた。

「いや、何でもねー。相手が何だろうと、ぶっ飛ばせば、同じだな…。」
 乱馬は、自分に言い聞かせるように吐きつけると、ぐっと右手を前に身構える。
「あかねっ!おめーも、身構えとけっ!危険を感じたら、容赦なく攻撃しろっ!迷うなよっ!」
 と吐き捨てるように言った。

 ごく最近だが、あかねは乱馬に気弾の初歩を習っていた。が、力任せの技が多いあかねには、気弾は繊細すぎてなかなか上達しない。ましてや、こんな修羅場の最中、気弾をぶっ放せるかどうか、自信はない。
「わかった、最悪、バカ力でぶっ飛ばすから、あんたはあんたで存分にやって!」
 目の前にあった木枝を握ると、乱馬にそう吐きつけた。

「バカ力でぶっ飛ばす…か。ま、何でも良いから、頑張れよっ!」
 とあかねにエールを送りながら、乱馬もゆっくりと身構えた。


「あの者、本当に、大丈夫なのか?」
 少女が心配げにあかねを見上げる、
「大丈夫…乱馬は負けないわ。絶対に。」
 あかねは真摯な瞳で答えた。



「さて、その強がり…。どこまで通用しますか。さっさと降参して、その子供たちをこちらに差し出された方が良いと思いますが…。」
 青年の言葉に、乱馬が吐きつける。
「誰が降参なんてするもんかっ!とっととかかってきやがれっ!」
「勝気な娘さんだ。お相手いたしましょう。遠慮なく、こちらから行きますよ!」
 青年は唐突に、右手を輪にし、口笛を吹いた。

 ピーッ。

 口笛の音が、あたり一面に響き渡る。
 それを合図に、犬たちが一斉に、大口を開いて、乱馬目掛けて飛びかかって来た。

「けっ!んな、脅し、俺には通用しねーぜっ!」
 乱馬は両手を前に身構えると、果敢に攻めに行った。
「無差別格闘早乙女流秘儀…猛虎高飛車っ!」
 怒号と共に、体内より排出される気を、獣たちに向けて、解き放った。
 猛虎高飛車。傲慢なほどの強気を砲撃に変えて、相手にぶっ放す気技の一種だ。両掌から、丸い大きな闘気が飛び散る。

 バンッ!と橙色の火花が、目の前で弾けて、気弾が炸裂する。

 キャン、キャン!
 
 その烈風で、乱馬目掛けて襲いかかってきた獣たちが、次々、空へと飛ばされた。そして、地面へと叩きつけられる。
 想像を絶する乱馬の強さに、さすがの狂犬たちも、二の足を踏んで、後ずさりし始める。敵わぬ相手と睨んだのだろうか。
「まだまだーっ!猛虎高飛車!乱れ打ち!」
 乱馬は小さな気弾を手から解き放ち、連続して打ち始める。

 キャイン、キャイン!

 面白いほどに、気弾が獣を撃ちつけ始めた。いつもなら接近戦へ持ち込んで、火中天津甘栗拳を用いる方法を取るのに、今回は気弾をど派手に打ちまくっている。意識的に犬たちとの接近戦を避けているようで、乱馬らしくないといえば、らしくない戦いだった。


「す、凄い……。」
 物影から少女たちは目を丸くして、その様子を見つめていた。
「乱馬…また、強くなった…。」
 あかねも真摯に乱馬を見た。  
 女化しているにも関わらず、拳や蹴りのパワーがあまり落ちていない。いや、スピードを増すことで、破壊力の低下を補っているのだろう。
 ここ数カ月の修行で、また、一段高みに登ったようだ。勝気なあかねとしては、複雑な表情で乱馬を見た。

 と、犬の群れの一頭が、何を思ったか、乱馬ではなくあかねに襲い掛かってきた。
「きゃっ!」
 あかねは握っていた木の枝棒を、思いっきり、襲い掛かってきた獣へ向けて、ブンブンと振り回した。傍にいた勝ち気そうな頒布を靡かせた少女も、あかねの真似をして、拾った木の枝を振り回して、獣たちを引き寄せまいと、懸命に動いた。

 ギャイン!

 さすがに、日頃から鍛えているだけあって、あかねの振り回した棒は、見事に獣の腹へとヒットする。と、そのまま、次々と空へと馬鹿力で飛ばしていく。

「あたしに襲い掛かろうだなんて、百年早いわ!」
 鼻息荒く、あかねは叫ぶ。目の前の乱馬の戦いぶりに刺激され、あかねも高揚しはじめたのだ。
 あかねたちに襲いかかろうとしていた犬たちも、後ずさり始める。本能的にあかねの凶暴さを察知したのだろう。これ以上、この女にかかわると、身の上が危ないと。

 ウー、ウーと歯茎を見せながら、じりじりと後ずさりする。
 その様子を見ながら、乱馬が青年に向かって言葉を投げつけた。
「へっ!まだやるか?それとも、おまえも一緒に、この拳から突き出す気弾で弾き飛ばしてやろうか?」
 そう、声をかけながら、最大の気弾を浴びせるべく、体内の気を掌へと充満させていく。

 バタバタと倒れていく子飼いの獣たちを目の当たりにした青年は、状況の不利を悟ったようだ。
「素晴らしい…。気弾を扱うとは…。素晴らしい!」
 青年は感嘆の声を挙げた。そして拍手しながら、乱馬を見やる。
「なるほど、あなたのその力と勇敢さ。気に入りました。」
 そして、乱馬へとふっと笑いかけた。
「私は、真神速人(まかみのはやと)と申す者。真神一族を束ねる長の息子です。そなたのお名前は?」
 青年は名を名乗った。
「俺の名は…早乙女乱馬だ!」
 乱馬は勢い良く、問いかけに答えた。
「おお、御答えくださいましたか。早乙女…乱馬。なかなか、趣のある良いお名前ですね…。男(おのこ)のような…。」
 速人は、頷きながら言った。

「時に、乱馬媛。」
 青年は、乱馬に改めて向きなおった。

「まだ、やるってか?」
 乱馬の鼻息はまだまだ荒い。油断させておいて、ばっさりということもあり得る。そう思い、気を緩めては居なかった。

「そう、力まなくても、今日はこれで退散しますよ。また後日、改めてごあいさつに伺いましょう。…それより…。」
 青年は、あかねの方へと視線を流した。あかねにしがみついている少女を見据える。

「行きがかり上、その子たちをお助けになったようですが…。一つ忠告しておきますよ。特に、そちらの巫(かむろみ)姿の少女には、せいぜいお気を付けなさいませ。その子は強い魔性の瞳を持っている…。それも、身の毛もよだつほどのおぞましい魔性を…。」
 青年は怯えている中の一人の少女へと指を突き出した。巫女装束に近いいでたちの少女を名指しするように、見据えたのだ。

「な、何言ってやがる?」
 乱馬は青年に問いただした。彼の言っている意味が全くわからなかったからだ。
 乱馬の問いかけには答えずに、青年は身を翻し、右手を差し上げ、ピーッ、ピーッと二回、口笛を吹き鳴らした。
 それを合図に、犬たちは一斉に、男の後方へと後ずさり始めた。退散の合図だったのだろう。
 乱馬の猛虎高飛車に倒された獣も、必死に四肢で立ち上がり、すごすごと退散し始めた。時折止まっては、乱馬を睨みつけ、ウウウーと低い唸り声をあげている。負け惜しみを吠えたてているように見えた。
 
 乱馬は黙したまま、いつでも気弾を打てるように身構えながら、退散していく獣の群れと青年の背中を見送った。
 獣たちが茂みの向こう側へ消えてしまうと、青年は再び乱馬をじっと見据えながら言った。
「乱馬媛…いずれ、正式にお迎えに上がります。その娘が持ち出した、甘樫(あまかし)の埴(はに)は適妻(むかひめ)の証として差し上げましょう。その子たちが我らが土地で働いた不埒な行いも、今日のところはあなたの勇敢さに免じて、許してさしあげます。
 そこのお子様方!今度、勝手に我らが領地に侵入し、不埒な行為を働いたら、今度こそ命は無いとお思いなさい。」
 それだけ言い置くと、彼はクルリと後ろを向き、そのまま、退散していった。

 危機は去った。
「何とか勝ったか…。」
 男の姿が完全に見えなくなると、乱馬はようやく、臨戦態勢を解いた。ふううっと大きな溜息が漏れる。


「何だったの?あの人…。」
 あかねの周りからも、犬たちが消え、緊張を解きほぐし、乱馬の元へ駆け寄った。
「何言ってたの?あたしたちのところからは何も聞こえなかったわ。」
「何か、良く言ってる意味わかんなかったぜ…。甘いハニーがどうとかこうとか…。さっぱりわかんねー。」
 乱馬は祖っ気なく答えた。青年の言った言葉の意味が理解できなかった乱馬は、後に、あの青年に振り回されることになるのだが、このときは想像だにできなかった。

 甘樫(あまかし)とは地名。国見の丘として有名な「甘樫丘(あまかしのおか)」のことだ。埴(はに)とは土のこと、すなわち、「甘樫の埴」で、「甘樫の土」という意味である。大昔は、土を成形して土器や祭事器を焼いて作っていたし、土は食物となる農作物を生えさせる生命の源でもあった。故に、土には呪力が備わると信じられていた。それが名のある土地の土ならば尚更だ。
 「あおに良し」と奈良の都の枕詞があるが、これも「青丹(あおに)」つまり、青い埴(はに)のことで、平城宮辺りの土は青い土として認識されていたことから、奈良の都を冠する枕詞になったとも言われている。

「それより…。見ろ。」
 小首を傾げるあかねに、乱馬は目の前につんのめったまま、気絶している一匹の犬を指さしながら言った。大方、さっき、退散していったが、一匹だけ残ったのだ。子犬なのだろうか?少し小さめの幼い顔をした犬だった。
「見ろ…あかね。俺が倒した獣を。」
 その子犬を指差した。
「獣って…この犬?」
 あかねが近寄ろうとしたのを、乱馬はがっと制した。
「バカッ!不用意に近づくと噛み付かれっぞ!」
 乱馬はグイッとあかねの肩を止めた。女乱馬の時は、力はさほど強くはない筈なのに、指型が肩に食い込まんばかりの勢いだった。
「何すんのよ!」
 思わず、その強さに、あかねが声を張り上げたほどだった。

「こいつ…犬なんかじゃねーぜ。」
 乱馬はボソッと吐き出した。
「犬じゃない!どこから見ても犬よ?」
 あかねがキョトンとそれに返答した。
「よく見なっ!似てっけど、違う…。犬より鋭い牙、そして、裂けた大きな口に精悍な体つき。こいつは、多分、狼だぜ。」
 そう吐き出した。

「狼?あんた、何言ってるの!野生の狼なんて、日本には居ないわ。」
 あかねが驚いてそれに答えた。
 クマやサル、猪といった動物の被害は時々耳にするが、野生の狼の話など、聞いたことも無い。

「あら、日本にも狼は居たわよ。」
 ひょいっと後ろから、聞きなれた声が響いて来た。
 
 ぎょっとして、後ろを振り返って、乱馬とあかねは驚がくした。
 そこに立っていたのは、なびきだったからだ。

「なびきお姉ちゃん!」
「なびき!てめーも、一緒に飛ばされてきたのか?」
 あかねも乱馬も驚きを隠せなかった。

「まーね。気が付いたら、この森の中に居たわ。あんたたちに声をかけようとしたら、その子たちが現れて、戦いが始まって…。やばそうだったから、ずっと、そこの茂みに隠れていたのよ。あんたたちと違って、あたしは格闘とは無縁だからね。」
 となびきらしい物言いで受け答えた。

「で?日本にも狼が居たって言ってたけど…。本当なの?お姉ちゃん。」
 あかねが問いかけた。
「ええ。今の日本には、狼は居ないかもしれないけど、昔はちゃんと居たんだから。」
「昔っていつ頃までだ?」
「明治時代頃までは居たとかいう記録があったと思うけど…。」
 となびきは答えた。
「ねえ、乱馬、本当に犬じゃなくって狼なの?」
 あかねは信じられぬという顔で乱馬を見た。
「どういう訳でこいつらがここに居るのかはわかんねーけど…。紛れもなく、こいつは狼だぜ。」
 乱馬は言いきった。
「何で、そんなことがわかるのよ?あんた、野生の狼なんか、見たことがあるの?」
「ある…。一度だけな。中国の呪泉郷へ行った時、親父共々、狼の群れから逃げたことがあったからな。」
「そんな…野生の狼が日本に生息してるなんて…。」
 あかねは驚きを隠せないようだった。
「第一、ここが現代日本だなんて保障はないぜ。」
 乱馬は淡々と吐き出した。
「え?」
「さっきのおっさんの格好とか、この子らの格好とか…。現代日本で見たことあるか?」
「でも、ちゃんと、日本語、喋ってたわ。」
 あかねは反論を試みる。
「俺たち、異世界へ連れ込まれたんじゃねーか?あの野郎に…。狼を駆使する奴が居るような世界に…。」
 乱馬の言葉に、あかねが反応した。
「じゃあ、ここはどこなの?」
「んなの…知るか!わかったら苦労なんてしねー。第一、あの野郎もどこかトンズラこきやがって、気配も感じねーしな…。」
 乱暴に吐き出した乱馬は、驚いて自分を見つめている複数の瞳とかち合った。
「ごめん、別におまえらに対して苛立ってるわけじゃねーから…。」
 と、小さく謝った。子供たちは、不思議そうに首を傾げるだけだ。さっきから、言葉を口にしないで黙りこくっていた。恐らく、助けてもらったものの、自分たちと随分、着ている物が違う乱馬たちに、改めて、警戒心を抱いているのかもしれない。

「さて…もうすぐ日が暮れるな…。どーすっかな…。」
 乱馬は恨めしそうに空を見つめた。
 確かに、さっきよりも空は光を失い、日がかなり傾いていた。森の夜は急激に近づいてくる。真っ暗になる前に、何とかしなければと気ばかり焦る。
 さっきの青年や狼が、再び現れるかもしれない。となると、そっちの対策も考えなければなるまい。
 乱馬一人きりならまだしも、あかねも居る。なびきも居る。助けた子供たちも居る。同時に五人の面倒もみなければならないのだ。
 太陽の光が、山の端へと差しかかり始めた。空は急激に光を失い始める。心なしか、風が冷たくなってきたようにも感じた。

「どっか、雨露を凌げる、ほら穴とか、岩陰とかあったら良いんだが…。暗くなる前に、探すか…。」
 乱馬はゆっくりと立ち上がった。

 と、その時だった。

「なら、ワシと共に来れば良い。」
 老人の声が響いた。

「誰だ?」
 唐突に表れた声の主に、乱馬はダッと身構えた。

「そう、敵愾心をむき出しにして身構えなさるな。ワシは敵ではないよ。むしろ、味方じゃ。」
 ガサガサと音がして、木の上からその老人は、降るように身軽に降り立った。

「麻呂じいっ!」
 乱馬が助けた少女が、目を輝かせて、老人へと駆け寄った。

「麻呂じい?誰だ?そいつ。」
 乱馬が少女へと声をかけた。

「我らの世話をしてくれている、陰陽寮の責任者じゃ。稚媛、麻呂爺が来てくれたぞ。もう安心じゃ。」
 少女は、もう一人の幼い少女へと声をかけた。

 その時だ。爺さんの背後から、たくさんの人の気配が立った。
 ハッとした乱馬が振り向くと、いかつい兜をかぶった集団が、弓矢でこちらを狙い定めていた。天道家にもあるような鎧兜ではなく、もう一時代、いや、もっと以前の鎧と兜のように見受けられた。ちょうど、昨日行った、飛鳥資料館で見た埴輪の武人の格好のような…。

「一同、弓矢をおさめよっ!この者たちは、どうやら、媛様たちを助けてくれたようじゃ。媛様たちの御前でもある。手荒な真似はよせ。」
 爺さんは背後の者たちに向かって、叫んだ。その声に、一斉に、狙い定めていた弓矢が緩んだ。

「一体全体、何なんだ?」
 訳もわからず、その場に立ちつくす乱馬たちに向かって、爺さんは、ゆっくりと言った。
「媛様、ご無事で何よりですじゃ…。」
 そう言って、深く頭を垂れる。

「うん。すまなかったな。勝手に館を飛び出してしまって。」
 少女は、頷くように言った。

「おい、この爺さん、…この子らの身内か?」
「身内って言うより…下僕(しもべ)って感じだわよ…。」
「だな…。」
「もしかして、物凄いお嬢様じゃないのお?お礼が期待できるかもよ…。」
 なびきの瞳が輝いていた。
 


八、小治田の古宮へ

 冑(かぶと)をすっぽりとかぶった武人たちは、少女たちを見つけると、さっと馬上から降り立ち、一斉に少女へ向かって頭を垂れる。
 腰から直刀を下げている。時代劇で見慣れた、侍が持つ刀の形ではない。丸いイボイボがたくさんついた鉄冑をかぶり、蛇腹のような鎧を身にまとっている。見慣れた戦国時代の刀兜とは形が全く違う。それよりも以前の時代に好まれた形のようだ。そう、古墳で発掘される埴輪の武人の装束に近い鎧冑だった。
 馬も見なれたサラブレッドではなく、ロバに近いずんぐりむっくりだった。

 その様子から考えると、どうやら、少女たちは、かなり身分が高い様子だった。
 唐突に木の上から降って来た爺さんは、兵士を引き連れて、子供たちを探しに、この森の奥までやってきた…そんな風に見えた。

「爺っ、わかっているとは思うが、この方たちは、敵ではない。わらわたちを助けてくださった恩人じゃ。決して手荒な扱いをしてはならぬっ!」
 少女の凛とした声がその場で響いた。

「かなりしっかりした子ね…。あの子。」
 あかねがこそっと乱馬に耳打ちした。
「みたいだな…。俺たちに助けを求めてきたときだって、あの子が口火を切ったし…。」
 乱馬も一緒に頷いた。

 兵士たちは、老人の声に応じて、それぞれ、手にしていた弓矢を、一旦、おろした。勿論、いつでも構えられるように、間合いを取っている殺気が、ビンビンと伝わってくる。
 少女は、老人の前から身を翻すと、乱馬の前に駆け寄り、ペコンと頭を下げた。そしてこちらへと言わんばかりに、乱馬たちを武人の方へ誘導する。

「ほう…。真神の者たちから、媛様たちを助けてくださっとな?」
 爺さんは、真っすぐに乱馬を見つめながら話しかけてきた。
「ああ、出会いがしらで、助けたってことになるのかなあ。」
 乱馬はその問いかけに答えた。
 じろじろと上から下まで、乱馬たちを舐めまわすように見つめる。
「おぬしたち…、変わった格好をしておるのう。どこの国の者じゃ?」
 と乱馬へ声をかけた。
「どこの国の者って言われてもなあ…。俺たちも、ここがどこかわからなくて、戸惑ってんだ。」
 乱馬はあかねとなびきへ視線を促しながら言った。
「ほう…。この森の中で迷ってしまわれたのかな?」
「この森っていうより、多分、別世界から迷い込んだと思うんだけどな。」
「別世界じゃと?」
 爺さんの瞳が、驚きに揺れた。
「…実は、俺たちにもさっぱりわかんねーんだよ…。幸い、言葉は通じてるみたいだけどよ…。」
 乱馬が答えた。
「お前さんがた、倭(わ)の者ではないのか?」
「倭(わ)?きいたことあるか?」
「んー…。聞き覚えがあるようでないような。」
 乱馬に振られた質問に、あかねが答えあぐねていると、傍でなびきが言った。
「倭って、日本の古い呼び方よ。」
「ホントか?」
 乱馬がその言葉に振りかえった。
「あ…。そう言えば、歴史の先生がそんなことを言ってたわ。」
 ポンとあかねが手を打った。

 それを聞きながら、少女が、こそこそっと爺さんに何か耳打ちした。それを聞きながら、老人は何度か頷いた。

「事の仔細は後でゆっくり尋ねるとして…そろそろ日も暮れる。迷い人なのであれば、今宵の宿にもあてはないのじゃろう?我らと一緒に来るが良い。」
 と、爺さんは、乱馬たちを促した。

「どうする?」
 あかねが乱馬に尋ねると、
「どーするも何も…。いつまでも、こんな森の中に居るわけにもいかねーだろ?ここがどこかもわからねーし…。それに、ついて行ったら、宿と飯くらいにはありつけるだろ?」
 と答え返した。
「そうね…もう日も暮れたし…。こんな森の中で、さっきみたいな獣に襲われるのも嫌だわ…。」
 なびきも頷く。
「じゃ、行くか?」
「そうね。」
「ついて行きましょう…。」
 あかねもなびきも乱馬の提案に合意した。

 背後の兵士たちも、襲いかかる様子はない。さっきまでビンビンにこちらへ向けられていた殺気もいつしか消えていた。

 少女二人は、それぞれ武人たちに抱え上げられて馬上へ乗った。土の道を、直(じか)に歩かせる訳にはいかない身分の少女たちなのだろう。頒布姿の少女と巫女姿の少女も、武人たちが連れていた馬へ一緒に引き上げられた。
 それを見ながら、乱馬は爺さんへと言った。
「爺さん、悪いけどさ、この二人も一緒に馬に乗せてやってくれねーか?」
 と頼み込む。
「あたしなら、大丈夫よ。山道は慣れてるから…。でも、なびきお姉ちゃんは足腰鍛えてないから、乗せてもらったら良いんじゃない?」
 とあかねが隣から口を出した。
「おめー、山道なんか歩けるのか?この頃、修業さぼってるだろ?」
「歩けるわよ!馬鹿にしないでね!」
 とあかねは勝気さを露わにする。
「こちらのお嬢さんだけ乗せれば良いかのう?」
 爺さんが話しかけた。
「ああ、なびきだけ乗せてやってくれ。」
 なびきは兵士に引き上げられて、馬上へと乗っかった。
「わああ…。馬の背中って、ゴツゴツしてるのねえ。」
 なびきは馬上で喜んでいる。
「日が落ちる前に、帰りますぞ。」
 爺さんは一斉に、兵士たちへと命を下した。兵士たちは、ゆっくりと森の出口へ向かった歩きだす。

 乱馬とあかねは、馬たちの後から歩きだす。
 爺さんも馬には乗らず、乱馬とあかねに追随していた。

「爺さんは馬に乗らねーのか?」
 乱馬が不思議そうに尋ねると、爺さんは答えた。
「ああ。じかに歩く方がワシは好きじゃしのう。それに、おぬしらが迷子にならぬとも限らんからのう…。思いやりじゃ。」
 とおどけてみせた。
「たく…。得体の知れない爺さんだな。」
 と乱馬は吐き出した。
「何でよ。」
 その言葉に、あかねが食いついてきた。
「だってよー。相手は爺さんだぜ。なのに、腰の入れ方とか、足運びとか…。老人とは思えねー。」
「そうかしら…。」
「そうだよ。まあ、俺たちは普段から、八宝斎のじじいとか、猫飯店の婆さんとか、並はずれた老人ばかり相手にしてっからなあ…。慣れっこになってるかもしれねーが、老人ってのは、こんなに身軽に歩けると思うか?」
「あ…そっか。」
 変にあかねは納得した。
「すっとボケた感じだけど、かなり鍛えてんぞ、この爺さん。」
 乱馬は傍らを歩く老人に視線を流しながら、言った。

 すっかり陽も落ちて、辺りは暗闇に包まれていた。
 近くを川が流れているようで、水音が絶えずしている。
 前後に行く兵士たちは手に、松明を持っていて、足元を明るく照らしてくれる。しかし、あかねたちには慣れない暗がりの土の道。街頭も人家の光もなく、真っ暗だった。スニーカーでも、枯葉に足を取られて滑りそうになる。
 パキパキと枝葉を踏みつけながら、へっぴり腰気味に、ゆっくりと歩くあかね。乱馬に負けたくないという勝気さから、自分も歩くと言ってはみたが、少し不安になった。
 乱馬は平素から修行で山道を行くことには慣れている上、履き慣れたチャイナ靴だったので滑ることなく足取りも軽い。暗がりにも慣れていて、闇にも比較的平気だった。
 前を歩いていたあかねは、枯葉に足を取られて、ずずっと滑りそうになった。乱馬は咄嗟に手を差し伸べ、ワシッと腕を掴み、転倒を防いでやる。
「気をつけろよ…。もっと、下半身に力を入れて歩け。馬鹿っ!」
 と、手をつないだまま、ぶっきらぼうに言い放つ。
「うるわいさねー。山道は慣れていても、暗がりは慣れてないから、しょうがないでしょ?」
「たく…。もっと、足は平素から鍛えとけよ!しゃーねーから、手を引いてやってるだけだからな、俺は!」
 ぼそぼそっと乱馬が吐きつける。あかねの手を握りしめながら、緊張している風にも見えた。
 
 幸い、比較的浅い森だったようで、案外簡単に抜け出ることができた。

 抜け出ても、もちろん、舗装道路など、どこにもなかった。
 電柱も無い。ということは、文明社会ではないようだった。

「…何か…本当に時代を遡(さかのぼ)ったみたいね…。」
 馬上のなびきが辺りを見回しながら、ボソッと吐き出した。
「時代を遡る?」
「ええ…。タイムスリップして、過去へ飛ばされたような気分よ…。ほら、人家があっても、電灯もないし…。一緒に歩いている人たちの靴だって…。」
 と、なびきは、前を行く兵士の足元を指さした。
「靴というよりは、靴下みたいだな…。」
 乱馬も頷いた。兵士たちがはいているのは、凡そ、靴と呼べる代物ではなく、厚めの布ですっぽりと素足を囲っただけの簡単なものだったからだ。衣服も良く見ると縫製が荒いし、織り目もかなりいい加減だ。工業製品ではなく、手製の織物だということが、暗がりでもありありとわかる。
「俺はむしろ、タイムスリップ…というより、パラレルワールドにでも迷い込んだような気分なんだけどよー…。」
 乱馬が吐き出した。
「いずれにしても、あたしたちが知っている、現代日本じゃないことだけは確かよ…。」
 あかねが力なく吐き出した。

 暗闇の中を二十分ばかり、トボトボと歩いたろうか。暗闇のせいで、時間が平素より長く感じただけかもしれない。
 途中、人家もあるにはあったが、いわゆる見なれた瓦葺きの木造建築物やコンクリートの建物ではなかった。明らかに、草で作り上げられた粗末な丸い家。竪穴式住居である。
「あれは、竪穴式住居ね…。」
 なびきが馬上から言った。
「竪穴式住居って何だ?」
「主に、弥生時代に住まわれた住居よ。日本史で習ったでしょ?」
 乱馬の疑問に、あかねが答えた。
「あら、竪穴式住居は弥生時代だけじゃなくっもっと後の時代、平安時代初期までは、一般に使われていた住居だわよ。」
 となびきが上から答えた。
「えー?あたし…てっきり、弥生時代頃までの住居だと思ってたんだけど…。」
「文化はそれぞれ継続して流れていくものだから…。弥生時代に発生した住居が奈良時代に継続して使われていても不思議はないわよ。」
「へええ…知らなかったわ。」
 と驚くあかね。
「現代でも、江戸期の建物に住んでいる人もいるでしょう?それと同じことよ。」
「おめーん家だって、相当なオンボロ古家だけど、ちゃんと住んでるじゃん。」
 乱馬がからかい気味に言った。
「オンボロは余計よっ!そのオンボロに居候してるあんたたち一家は何なのよっ!」
 あかねが鼻息を荒げた。
「それより、ここって…やっぱ、昔の大和なのか?」
 乱馬があかねに尋ねた。
「し、知らないわよ…。あたしも、いつの時代に飛ばされたのか、ドキドキしてんだから!」
「ま、昔の大和って考えた方が、しっくりくるかもしれないわね…。にしても…この竪穴式住居…人の気配がないわね。」
 なびきがポツンと吐き出した。
「空き家か?」
 静けさに包まれた住居がそこにあった。捨て去られた集落なのだろう。辺りに人の気配は無かった。
 別に、朽ちている廃墟でもなく、割と最近、廃墟になったような感じがした。
 暗がりの中なので、あまり良く見通せないが、廃屋の竪穴式住居がいくつか暗闇に浮かび上がる様は、不気味だった。
「人が一人も居ないなんて…。疫病にでもかかって、一族もろ共壊滅したのかしら…。」
 なびきがポツンと言った。
 風がゴオオッと廃墟の中を吹き抜けて行く。
「ちょっと、不気味ね…。」 
「だな…。」
 乱馬が険しい視線を廃墟に流しながら呟いた。

 程なく歩くと、別の集落もあった。そこは、廃墟ではない。
 もくもくと勢い良く、煙も上がり、人の声がちゃんと聞こえる。一行の通り過ぎる気配を感じ、飼い犬がワンワンと吠えたててくる。好奇心の瞳でこちらを見つめるいくつかの姿があった。服装は原始人のような毛皮ではなく、白っぽい着物の上着のような感じだった。頭は上で結わえている。
「こっちの集落は人が居るわ。」
 ホッとした表情を浮かべながら、通り過ぎる。
 が、積極的に乱馬たち一行の前に出ようとは誰も思わないらしく、物影に息をひそめて、じっと窺っているような感じだった。

 ところどころ、道なりに小規模な竪穴式住居の集落が点在していた。
 土の道をゆっくりと進んで、連れてこられたのは、竪穴式住居ではなく、板葺屋根の木造の建物だった。しかも、土壁ではなく、全て板張り壁の建物だった。中庭には砂利石が敷き詰められ、歩くたびに、ザックザックと音が響き渡る。
 明かりの松明が壁にかけられ、チロチロと揺れているのが、幽玄の世界に居るように見えた。途中見えた、竪穴式住居とは明らかに格が違う建物だった。が、屋根に瓦は吹かれていない。藁ぶきでもなく、単なる板葺。
 特別な館だということだけは、容易に想像できた。警備も仰々しく、清掃もいきわたっている。
 建物は奥にも広がっていて、何棟かの木造建築物の影が見え隠れしていた。

 乱馬たちが到着すると、俄かに騒がしくなり、中から人々が我先に飛び出してきた。
 武人の元へと、館の人々は一斉に近寄ってくる。頒布(ひれ)を肩からかけている少女は、手を挙げて、出迎えに応えた。
 居並んでいた人々は、それぞれに、うやうやしく、少女たちを拝して、地面に座り込み平伏す。
 やがて、少女たちは館の奥深くへと消えて行く。一緒に歩いていた老人も、いずこかへと入ってしまったようで、姿が見えなくなっていた。ぞろぞろとついてきた武人たちは、いつの間にか、その場から散り散りに立ち去っていた。
 後に残された乱馬たちは、館から迎え出て来た家人たちに促されて、館の中へと足を踏み入れた。

 
 通された館の中は、案外、広い。板張りの床。各部屋は襖や扉ではなく、竹の御簾で区切られている。部屋の中に畳もない。まるで、平安期の物語絵巻を見ているようなそんな感じの板張りの館だった。
 そう、瓦屋根ではなかったのだ。見慣れた瓦ではなく、屋根は板葺か茅葺。
 明かりはもちろん、燈火だが、行燈やロウソクでもなく、皿に油を入れて、燃えさせているようなそんな明かりだった。それに、外は煌々と松明が燃やされている。
 一種、独特な情緒を持った屋敷だった。
「何か、すっげー、雰囲気がある建物だな…。」
 乱馬がきょろきょろとあたりを見回しながら、感想を述べる。
「やっぱり、かなり時代を遡ったみたいね…。瓦屋根が見当たらないし…。」
 なびきが言った。
「かなりってどのくらいだ?」
 乱馬が尋ねると
「平安時代…より前かもしれないわね…。奈良時代…。いえ、飛鳥時代かも…。瓦屋根は飛鳥時代頃、中国から伝わったらしいけど、当然、瓦を焼く技術って当時、すごく高度だったし、伝えられた当初は仏教寺院に使われていた程度だったらしいわよ。
 飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)っていう名前の宮があるけど、屋根が板葺だったってことを暗に示した名前だって聞いたことがあるし…。」
「おめー、知ってたか?そんなこと。」
「知らなかったわ…。お姉ちゃんって博識だわ。」
 なびきの言葉に、乱馬とあかねは思わず、顔を見合わせた。

 待つこと数分。


「何もないところですが、ゆっくりとくつろいでくださいませ、御客人方。」
 人の気配が立って、見ると、女性が一人、こちらへと入って来た。
 きりっとした眉毛に、化粧っ気のない顔。和装とチマチョゴリの合いの子のような衣服を着こんでいた。長い髪をてっぺんでふわっと結い、後ろ髪は長く垂らしている。年頃は二十代初めくらいに見えた。
「私は、桂郎女(かつらのいらつめ)と申します。麻呂様の命で、あなたたちのお世話をするように言われました。以後は、桂とお呼びくださいませ。」
 そう言いながら丁寧にお辞儀をする。

「あ…どーも…。」
「ご丁寧に…。」
 つられて、乱馬もあかねもなびきも、お辞儀した
「あの…さっそくですけど…ここはどこなんです?」
 なびきが尋ねた。お
「ここは小治田(おはりだ)の古宮です。」
「小治田の古宮?」
 なびきは興味深げに尋ねた。
「ええ。その昔、炊屋姫皇女(かしやきひめのみこと)様の治世に造られた、古い宮です。」
 桂が言った。

 当然のことながら、乱馬とあかねは、炊屋姫皇女という名に全く覚えはなかった。 
 どこだそれ、誰だそれ…という顔をする。
「炊屋姫皇女ですって?」
 が、傍のなびきが、その言葉に反応した。
「知ってるのか?」
 と乱馬が問いかけると、
「まーね。古代史検定のために、結構、本気で勉強したからねえ…。炊屋姫皇女っていうのは、推古天皇の皇女名よ。小治田宮っていうのは、推古天皇の時代の都の名前よ。確か、まだ、はっきりとした場所は確認できていない宮で、小山にある古宮土壇(ふるみやどたん)と雷丘(いかづちのおか)の二説が有力地として挙げられてるわ。」
 得意満面、なびきが説明してくれた。

「何か、お姉ちゃん、凄いわ…。」
 あかねが感心しながら見返すと、
「なびきは、ほれ、九能先輩との勝負に勝つため、気合い入れて勉強してたって言ってたじゃねーか。その時、詰め込んだ知識がまだ、頭の中に残ってんだろうよ。」
 と乱馬が耳打ちした。
「あ…そっか…。それでやたら、詳しいんだ。」
 あかねは頷いた。この金の亡者、なびきは、恐らく、かなりの勢いで古代史を短期間で集中勉強したのだろう。


「じゃあ、…何だ?ってことは、その…推古朝から程遠くない時代に、俺たちは飛ばされて来たっつーことになるのか?」
 乱馬が問いかけた。
「うーん、小治田宮を古宮扱いしているみたいだから、推古朝よりは後になると思うわよ。」
 なびきが推理し始める。

「あの…桂郎女さんっておっしゃいましたっけ…。今の在世の天皇陛下のお名前は?…って…まだ、一般に「天皇」って名前は定着してなかったかな…。えっと、時の大王(おおきみ)様…お名前は?」
「珂瑠(かる)皇子様がお亡くなりになって、現在は阿倍(あべ)皇女様が立たれています…。」
 なびきの問いかけに、桂が答えた。

「珂瑠皇子と阿倍皇女…おい…。誰だ?それ…。」
「さあ…。」
 乱馬とあかねが首を傾げていると、なびきが横から答えた。
「珂瑠皇子は文武天皇、阿倍皇女はその母、元明天皇のことだったかしらね…確か。」
 記憶の糸を辿りながら、なびきが答えた。
「ますます、わかんねーっつーのっ!いったい、いつの時代の天皇なんだ?そいつら…。」
「飛鳥時代から奈良時代にかけての天皇よ。」
「奈良時代だあ?西暦で言えば、何年頃なんだ?」
「元明女帝の時代なら、多分、七一〇年前後。」
 なびきが即答した。
「七一〇年って…平城京遷都の年よね?何と南都の平城京って習ったし…。」
「あん?」
「鳴くよウグイス平安京はあんたでも知ってるでしょ?」
「ああ、平安京遷都の七九四年にちなんだ語呂あわせだよな…。」
「その平城京版よ。七一〇年をナント(南都)にかけてあるのよ。知らない?」
「知らねー、始めて聞いた…。」
 あかねと乱馬のやりとりを横で聞きながら、なびきが頷いた。
「西暦七一〇年は奈良時代の始まりの年でもあるわね。」
「寧良(なら)の地へ遷都して今年で四年目ですけど…。」
 桂が口を挟んできた。
 その言葉に、乱馬もあかねもなびきも一瞬、固まった。確かに桂は「寧良(なら)」という言葉を口にしたからだ。
 最早疑う余地はない。どうやら、本当に、奈良時代まで飛ばされたようであった。
「嘘…。あたしたち、時を遡って、奈良時代まで飛ばされちゃったってこと?」
 あかねが瞳を丸くして質問を投げつけた。
 俄かに信じがたいのも無理はない。なびきの言からだと、古代の飛鳥地方へタイムスリップしてきたことになる。
 黙り込んだ三人に、桂が尋ねた。
「あの…。今のお話から察するに…。あなたたちは、遠い別の世界から、ここへ飛ばされて来られたと…。」
「まあ、遠い世界には違いねーけど…。」
 乱馬はため息混じりに答えた。
「いずれにしても…安宿(あすか)媛様たちを助けていただいた恩義がありますから、あなたたちは御客人です。この古宮でごゆっくりとお過ごしください。」
 とにっこりとほほ笑んだ。
「安宿媛?」
「はい。さきほど、あなたたちが助けたのは、左大臣、藤原不比等様の三番目のご息女です。」
 と桂がさらりと言った
 矢継ぎ早に問いかけた乱馬に、桂は答えた。
「おい…。なびき、安宿媛って誰だかわかるか?」
「うーん…察するに、藤原不比等の娘の光明子(こうみょうし)のことね。」
 なびきはさらりと答えた。
「光明子…誰だ?それ…。」
「聖武天皇の正妃よ。藤三娘(とうさんじょう)って自ら名乗ってたって記録もあるけどね。」
 なびきの答えに、あかねが横から反応した。
「光明子って、えーっと、確か、皇族以外で初めて皇后になったお媛様じゃなかったっけ?」
「ふーん…。おめーでも、知ってるのか?」
「習ったじゃないの…。」
「うるせー、日本史の授業なんて、うざいだけじゃん。藤原不比等とか聖武天皇とか安宿媛とか知らないっつーのっ!…。」
「こらこら、呼び捨てにしない方が良いんじゃないの?」
 桂郎女が複雑な顔を手向けているのを見て、あかねが乱馬に口添えした。
「あんまり不用意な発言はしない方も良いかもね…。」
 なびきもあかねに同調した。
「だって、まだ、光明子になるあの子も大人になっていないから、いくら歴史的根拠があるって言っても、この時代から見れば、立后はかなり先でしょうし…。」
 と、こそっと諌めたのだ。
「あ…。そっか…。あんまり余計な話はしない方が無難よね…。歴史を変えちゃったら不味いものね…。」
 あかねは、慌てて、口を押さえた。桂はキョトンと目を見張りながら、あかねたちの会話に聞き耳を立てているのが目に入ったのだ。
「あは…今のは聞き流しておいてください、桂さん。」
「忘れてくれ。何事も。」
 と慌ててあかねに続けて乱馬も言った。

 瞳がかち合ったところで、桂は言った。
「何をおっしゃっていたのか良く意味がわかりませんでしたが…。」
 困惑気味の桂に、ふうっと胸をなでおろす。
「詳しいお話は明日伺いますわ。今日のところは、夕餉を食して、お休みくださいませ。追々、この屋敷の中もご案内しますが、今夜のところはこの部屋にてお過ごしください。お小水はこの隣の小屋でしてくだされば良いです。下に川が流れていますので、くれぐれも落っこちないようにしてくださいね。」
 桂が言った。

 運ばれてきた夕餉は、汁物と野菜の煮炊物、それから菜葉の茹でたものと川魚。米以外の雑穀入りの固いご飯。
「何か…精進料理のような飯だな…。」
 と乱馬が評した食膳だった。もちろん、テーブルといったものはなく、直に床に食器を置いてある。
「贅沢言わないの!ご飯を食べられるだけでもありがたいと思わなきゃ。」
 とあかねが横から突っついた。
「かなりの高級食だと思うわよ…。庶民は野菜くらいしか口にできなかった筈だし…。さすがに宮と呼ばれるだけのことはあるかもね。」
 なびきが言った。
「これが高級飯なのか?」
 目を丸くする乱馬に、なびきは頷く。
「雑穀とはいえ、ちゃんとお米も入ってるじゃない。庶民は特別な日でも無い限り、お米なんて口にできる時代じゃなかったわよ。それに、ほら、こっちには塩が盛られているじゃん。」
 黒っぽい粉状のものを指さした。
「塩?これが?」
 指にくわえてみると、確かにしょっぱかった。
「古代の製塩技術といえば、直に海水を大鍋で焚いて乾燥させて作るのが主流だった時代よ…。私たちが見かける白い塩なんか皆無に等しかったわよ。」
「でも、何のために、盛られてるんだ?」
「多分、調味料として野菜や魚に直接つけろってことで盛ってあるんじゃない?」
「そうよね…。あたしたちの時代みたいに、調味料がやたらとある訳じゃないものね。」
「はあ…こんな粗食ばっかだと、力が出ねーな…。」
 文句を言う割には、パクパクと口を動かす乱馬であった。





「ふへー、食った食った…。あとは、テレビもねーし…。横になるしかねーな。何か疲れちまったぜ…。」
 ゴロンと床に寝そべる。
 その様子を見て、給仕していた女官たちが慌てて、蒲団を持って来る。もちろん、蒲団とは名ばかりの、固い布だ。ふかふかの寝心地は期待できない。まあ、無いよりはましかという代物だった。枕も竹か何かで編まれたものに布を巻いたようで、小さく固い。
 三人で暗い天井を仰いだ。
 燈火もチロチロと心もとなく、どちらかといえば、中庭で焚かれている焚き火の方が光を与えてくれる。

 と女官が香炉を持って入って来た。
「失礼します…。ぐっすりお休みになられますように、安眠の御香をお持ちしました。桂郎女様のお申しつけにございます。」
 そう言って、香炉を部屋の片隅に置いた。芳しい臭いが部屋に湧きあがる。
 
「ちょっとしたアロマテラピーよね…。」
 そう評したあかねに、
「何か、煙たいっつーか…。線香臭いっつうか…。」
「御香だもの、仕方がないわ。でも、良い香りねえ。」
 なびきが笑う。
「お香は高ぶった気を抑えてくれる効果があるって言うしね。」
 あかねも同調した。
「年寄りじみたこと言うなあ…。」
 と乱馬が突っ込むと、あかねが否定した。
「お香に親しむ若い女性って結構多いのよ。」
「へええ…。」
「でも、ちょっと、現代人の私たちにはきつい薫りかもね……女官さん、御簾の向こう側で焚きこめてくださいな。」
 なびきが女官に頼んだ。
「承知しました。」
 女官は頭を下げると、香炉を御簾の向こう側へと置いた。
「こんくらいで丁度よいわ。」
 あかねが微笑む。
「うーん…。線香臭いのはかわらんが…。」
「虫よけにもなるかもしれないから、焚いてもらっとく方が良いわよ。」
 なびきが言った。
「じゃ、蚊取り線香か?」
「もう…。いい加減にしなさいよ。」
 そんな他愛のない会話をしながら、一行は就寝の準備をはじめる。パジャマなど勿論ないから、上着を脱いで、少しだけ身軽にして横たわる。

「ここが古代だなんて、まだ、信じられないわね…。あたしたち、元の時代へ帰れるのかしら…。」
 真ん中に寝転んだあかねの口から不安が口を吐いた。
 それを受けて乱馬が答えた。
「帰れるさ…。」
「そうあって欲しいけどね…。」
 なびきが同調した。
「ま、何とかなるさ。」
 乱馬はあかねに背を向けた。おさげがあかねのすぐ傍にゆさっと落ちる。
「あんたってお気楽ねー…。」
 乱馬の背中を眺めながらあかねが言った。あかねが用水路につき落としてからずっと、女に変化したまま過ごしている。
「お気楽になんねーと…この体質とは付き合えねーんでな。」
 ぼそっと乱馬が言った言葉に、あかねはハッとした。
「そっか。あんたって変態体質だったっけ…。」
「こら、俺は変態じゃねーっつのっ!眠いからもう寝るぜ、俺は!」
 怒ったような言葉を投げつけて、乱馬はすっぽりと頭から蒲団がわりの布きれをかぶってしまった。
「そうね、深く考えてみたところで、今の状況が変わるわけでもなさそうだし…。ここはしっかり睡眠とっとかなくっちゃね。あたしも眠くなってきたわ…。」
 なびきも同調した。
「おやすみなさい。」
 あかねも目を閉じた。いろいろあり過ぎて、身体も頭も疲れきっている。姉が言うように、今は体力を温存するために、睡眠を摂ること。それが最良だろう。
 乱馬となびきが傍に居てくれる。その安堵が、緩やかな眠りへとあかねを誘いこんだ。

 時折聞こえる、獣の遠吠え。それから吹きわたる風が木々を鳴らす音。自然の音しか聞こえない深遠な闇の世界。御簾の向こう側から焚きこまれている香木の香り。
 夜半ごろから雨になった。板葺の屋根に叩きつけられる雨音も気にならぬほど、三人とも疲れ切っていた。
 それらを子守唄に、乱馬もあかねも深い眠りに落ちていった。
 目覚めれば元の世界へ帰りついていることを、淡く願いながら。








ちょこっと解説


 「日々戯言」に置いていたプロトタイプの作品をお読みになった方は、あれっと思われたかも…。
 猿面男も、最初は老人だったんですけどね…。まあ、これもいろいろと辻褄合わせが…。
 でもって、一話一話がめっちゃ長い作りになっています。
 多分、プロトタイプの作品より、ぐっと、一話の長さが伸びているかと…。


真神原
 (大口)真神は狼を表す言葉らしく、この辺りは狼の生息地だったようです。飛鳥寺付近を古来から真神原と呼んでいたようです。三輪山周辺の「おおみわ」も漢字表記すれば「大神」となり、狼とのかかわりがあったかもしれません。
 明治時代以降、日本狼は絶滅したと言われています。
 また、真神原と呼ばれた飛鳥寺から甘樫丘にかけては蘇我氏本宗家の本拠地でした。蘇我蝦夷の館は甘樫丘の東山麓にあったと伝えられていて、近年、焼けた館の跡が発掘されました。大化の改新のときに焼かれた蝦夷と入鹿の館の遺構ではないかと推測されています。
 なお、甘樫の埴は一之瀬の創作になります。香具山の埴はともかくとして、この甘樫の地の呪力が高い土として重宝されたという確かな記録は多分ありませんのであしからず。


小治田宮

 推古天皇の時代に使われた宮の名前です。小墾田宮とも表記します。
 古くは、小山というところにある、古宮土壇と呼ばれる遺跡が、小治田宮ではないかと言われてきましたが、昭和60年代に発掘された「雷丘東方遺跡」で、「小治田宮」と書かれた土器が発見されるに至り、雷丘東方遺跡説が有力になりました。
 いずれにせよ、どこにあったのか、今となっては不明な宮名だけが記録されたものです。
 一応、本作品では、雷丘東方遺跡を比定地として扱います。


引用した和歌
 「万葉集」 伝・柿本人麻呂
    口語訳 天の海原に雲の波が立ち、月の舟が星の林に漕ぎ隠れて行くのが見えるよ。



安宿媛(あすかひめ)
詳細は次回で



 
 
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