◇第二十話 さらば鄙の都

五十七、決戦

 果てることなく続く白んだ空間に、突如出現した白い鳥居。
 天まで届こうかというほど巨大な鳥居だった。 
 周りは霧のような白い靄がかかり、棚引いている。霧のため鳥居の向こう側は見えないし、伺い知れなかった。
 恐らく、これが「隠の門」なのだろう。
 まるで、早く雌雄を決して入って来いと言わんばかりに、浮かび上がった。

 あかねを飲みこんだ「巫女玉」がゆっくりと鳥居の方へと上昇して行く。そして、鳥居の中へ飲み込まれることなく、下の横柱の少し下辺りで止まった。
 巫女玉の中では、あかねが地面に身構える、乱馬とマドカを見降ろしていた。

「乱馬ーっ!乱馬っー!」
 必死で許婚の名を呼び、玉壁を叩きながら声を張り上げる。

『無駄じゃ…。ここからは何も聞こえぬ…。』
 あかねの耳に声が響き渡った。声のトーンからすると、しわがれた女の声に思えた。
 声の方を振りかえってギョッとした。

 鳥居の向こう側の方から見詰めてくる、二つの瞳と目が合ったからだ。瞳は真紅に輝いていた。まるで焔を宿しているような輝きだった。
 当然ある筈の顔の輪郭は見えない。眉も鼻も口も無い。鳥居の向こう側から、ただ、目だけがこちらを見詰めている。

『今度の巫女媛はそなたか…。』
 そいつは声を発した。

「巫女媛って?」
 あかねが恐る恐る問いかけると、
『おまえさんのことじゃよ…。』
「あたし…そんなんじゃないわ。」
 あかねは否定に走ろうとしたが、声の主はふぉふぉふぉっと笑った、

『巫女玉に捕われたのが何よりもの証。望まぬことでも、逃れはできん。見よ…。』
 声の主はあかねを誘うように視線を翻した。真っ赤な瞳が振り返った視線の先に、あかねはそれを見た。
 鳥居の向こう側、丁度、夜見の桜と反対側の向かって右手にそびえ立つ樹があった。樹とはいえ、花や葉は一切無く、ただ、あかねを包んでいる玉と同じような大きな玉が、ポツン、ポツンと生えるようにくっついている。
 その玉を見て、あかねは息を飲んだ。

 一つ一つに映し出される人影。良く見れば、どれも、年端のいかぬ少女や若い娘たちが瞳を閉じて、玉の中を漂っていたからだ。ある者は巫女姿で、ある者は武装して…。いずれ劣らぬ美女や美少女ばかりで、今にも息を吹き返しそうなくらい瑞々しさを漂わせていた。
 ただ、生きた気配は一切しなかった。蝋人形のように動かず、玉の中を漂うままに浮き沈みしている。

「何…あれは…。」
 思わずギョッとしてあかねは声の主へと問い返していた。

『あれは、スサノオに捧げられた巫女たちじゃ…。生贄として捧げられた者、神聖なる王の交代の儀式において亡き王の巫女として命を断った者、また、ここへ至った王の供をしてきた者…千差万別じゃがな…。共通しているのは、全て、王の名の元に隠のスサノオに捧げられた巫女ばかりじゃよ…。おまえと同じようにな。』
 そう言って瞳は笑った。

「あたしは…巫女なんかじゃないわ。」
 あかねはキッとして、その声に応えた。

『望むとも望まぬとも、おまえは巫女じゃ。逃れは出来ぬ…。その玉に捕われた以上、どうにも出来ぬ…人間の力ではな…。』

「どういうこと?」

『それは、そのうち、身を持って知ることじゃろう…それより…。戦いが始まる…。』
 瞳はあかねを下界へと誘う。

 そうだ、鳥居の下では、乱馬とマドカが、隠への扉を廻って、戦いを始めようとしている。

『どちらが、この門をくぐるに相応しい王か…。選別の戦いが始まる…。勝った方が、おまえを巫女と定め、こちらへ至る…。』

「乱馬…。」
 あかねは思わず、乱馬の名を呼んでいた。
 
『ほう…おまえは、あの長い髪を後ろへ棚引かせた男を好むのか?…おまえはあの青年の巫女か?』
 声は興味深げに問いかけてきた。

「違うわ…。」
 あかねは首を横へ降った。

『ならば、あの術者の男の巫女か?』
 マドカを指して、声は問うてきた。

「それも…違うわ…。」
 あかねは再び、首を横へと振った。

『ほう…いずれの巫女でもないと?』

「ええ…そうよ。さっきも言ったけど、あたしは巫女なんかじゃない…。ただの娘よ。巫女の修行もしていないし霊力も無いわ。でも…。」
 あかねは澄んだ声で答えた。
「一つだけ、はっきりしていることがあるわ…。」

『ほう…何だ?そいつは…。』

「あたしは…早乙女乱馬の許婚です。それ以上でも以下でもないわ。」
 凛とした声だった。

『なかなか面白いことを言う娘だな…。さて、あの青年が同じようにおまえのことを想っているか否か…。執拗な文氏の末裔に勝ってここへ至れるか否か……暫し、楽しませて貰うとするか…。』
 そう言って瞳は鳥居の中へと同化するように消えてしまった。


「乱馬は勝つわ…。絶対に…。」


 ぎゅっと握りしめる拳。
 いったい、出逢ってからここまで、何度、彼の戦いぶりをこの目に焼き付けてきだろう。
 「親同士が勝手に決めた許婚」であることは紛れも無い事実だ。最悪の出逢いであったが、そんなことはどうでも良いと思っている。一人の男として愛し始めていることも、一人の女性として愛され始めていることも、既にあかねは知っていた。
 破れてボロボロになった日もある。勝ってボロボロになった日もある。勝つまで戦う事を止めない、あの向こう見ずなしぶとい青年は、挑まれた格闘を尽く撃破して来た。
 男の意地をかけ、そして命をも賭けて、格闘に挑んで来た青年…それが乱馬だ。


 今度の相手も、一筋縄ではいかないことを、あかねも察知していた。
 こちらの声は聞こえないが、あちらの声は面白いほどあかねの耳に届いていた。
 従って、乱馬が相手している奴が、文忌寸氏の末裔で、全ての根源の種だということも理解していた。彼が己の私利私欲のために、時を巻き込んで壮絶な陰謀を張り巡らせて来たことも。それに巻き込まれてしまったことも、あかねには呑み込めていた。

「自分の巫女を利用するだけ利用して…切り捨ててしまうなんて…。」

 一人の恋する少女として、絶対にマドカが許せなかった。
 愛し合っていたか否かは別としても、マドカにとってナルヒメはパートナーだった筈だ。間違った方向へ世界を導こうと画策していたとしても、一度は王と巫女の関係を築こうとした絆を持っていた筈である。
 だが、乱馬がナルヒメを倒してしまうと、ここぞとばかり姿を現して来た。そして、今度はあかねを巫女へ据えようと、戦いを挑んで来たのだ。
 できれば、乱馬が闘って傷つく光景など見たくはない。乱馬の肉体から血潮が飛べば、己の身が引き裂かれんばかりに動揺が駆け抜ける。が、己はこの闘いから目を離してはならないことも、良く分かっていた。

「乱馬…後はあんたに任せたわ…。必ず勝って…。」
 ギュッと握りしめる拳。






「いざ、勝負だっ!」
「いくぜっ…。」

 掛け声から始まった男たちの戦い。
 一見、格闘家として鍛え上げられた肉体を持つ、乱馬の方に分があるように見えた。
 だが、このマドカという青年も侮れた者では無かった。
 真っ先に猛攻を仕掛けた乱馬の肉体を、すっと寸ででかわし、避けて見せる。そればかりか、ダンッとカウンターパンチを去り際に返して来る。
「くっ!」
 乱馬はパンチを寸ででかわした。
 ピシッと服が破ける音が耳元で聞こえた。触れてもいないのに、右腕のところが少し破けているのが見えた。

「ちぇっ!かわしたか。」
 口を拭いながら、マドカがニッと笑った。

(こいつ…見てくれに反して、身のこなし方やパンチ力は半端じゃねえ…。)
 破けた個所を見ながら、乱馬はキッとマドカを睨みつけた。
 気魄に飲まれたら負けが近づく。この格闘一辺倒の青年は、肌でそれを知っていた。
(格闘技とは無縁な顔をしてやがるが…相当、鍛えこんでやがる…。)
 
 返す瞳で睨みあげながら、マドカへと気迫を飛ばす。


「まあ…君も亀石を動かせたくらいの人間だから、そう簡単にはいかないか…やっぱ…。」
 マドカはそううそぶいた。

「てめーも相当鍛えこんでやがんな…。」
 乱馬も吐きつけた。

「ああ…。精神だけでは無く、肉体も鍛えているよ。亀石を動かさなければならなかったからね…。でも、筋肉バカの君とは違う。」
 そう言って、マドカは乱馬を煽った。体の良いからかいの言葉だ。

「筋肉バカだ?俺がか?」
 ムッとして乱馬は吐きつけた。

「そうだよ…。格闘技は力だけで押すもんじゃない…。それに、僕が鍛え上げているのは何も肉体だけじゃないってことだよっ!」
 そう言って、マドカはニッと笑って身構える。
 右掌を乱馬へ向け、そこへ一気に気を集中させた。

 ピカっ!

 乱馬の目ので、マドカから発した気柱が炸裂した。

「くっ!」
 乱馬は上空へと飛び上り咄嗟にその気柱から逃れた。

 ドオオンッ!

 マドカから発せられた気が、乱馬の居た辺りで炸裂する。煙が一気に噴き上がり、それが収まると、人間一人分を軽くえぐるほどの大穴が地へと開いていた。土くれではなく、何かわからない地面が白煙をあげて、ばっくりと開く。
「気…気弾…か。気砲も撃てるって訳か…。」
 乱馬は上空から開いた穴を見詰めた。

「そうさ、こいつから、逃げ切れるかな?」
 マドカは上空へ飛んだ乱馬目掛けて、連射した。
 今度は掌から数発、立て続けに気が飛び出してくる。

「わたっ!連射だと?」
 乱馬は焦った。上空へ飛んだことは返って不利に働く。飛べる訳ではないから簡単に逃れられない。大きな的となって上空に居るからだ。
「クソっ!やられてらまるかっ!」
 乱馬は咄嗟に気を集めると、飛んでくるマドカの気砲を相殺するべく打ち込んだ。

 バンッ、バンッ、バンッ!

 乱馬から発した気がマドカの気を打ち砕く。が、マドカの気の方が少しだけ押していたようで、砕き損じた一発が、乱馬のすぐ右側で弾けた。

 ドオンッ!

「うわっーっ!」
 気砲の風圧に飛ばされて、一気に地面へと落下する。
「くっ!」
 地面に投げ出される瞬間、右手から気を放出させ、耐える。そして、空で一回転すると、シュタッと降り立って見せた。
「あっぶねーっ!やれれるかと思ったぜ…。」
 思わず口をついて出た言葉。
 


「奴のは…俺が撃つようなタイプの気弾じゃねえ…。己の僅かな気を術式か何かで増幅させてやがる…。」
 乱馬はそう呟いた。
 気を何発か放出して防御した乱馬が肩で息をしているのに、目の前のマドカは平然としていた。気を殆ど使っていない証拠だ。

「そのとおりだよ…。さすがに、君もある程度の腕はあるようだから、僕の気の正体が薄々見えたみたいだね。」
 マドカは余裕を持って、涼しげに笑っていた。

「ああ…。てめーの気砲は格闘家が何年も修行して編み出すような類(たぐい)のもんじゃねえ…。最小限の気を思い切り増大させる…術式の技…。そうだろ?」
 息を切らせながら、乱馬はそう吐き出した。

「ふふふ…。君のは純粋な気の技。放出した気とダメージはほぼ一緒。等価交換の気だ。だから連打するとそうやってすぐに息も切れてしまう…。
 でも、僕の技は違う。最小限の気で最大限の効果を出す陰陽師の放つ気技だからね…。言わば、省エネタイプの気技だよ。」
 マドカは愉快げに言った。

「省エネか…。ちぇっ!ってことは、気を打てば打つほど、俺には不利って訳か…。」

「そういうことだね…。もっとも、僕は一切手加減などする気はないよ。」
 マドカは笑って、更に身構える。
 ドン、ドン、ドン、と乱馬目掛けて、気弾を撃ち込んでゆく。
 もわもわと白い煙が辺り一面に広がる。土くれではないが、良く分からない物体で出来た地面だ。えぐられるごとに、白煙を巻き上げる。
 それが鼻や口にまとわりつくから、大変だった。
 ケホケホ、ゴホゴホ…咳が出るし、涙目になる。
「敵前大逆走っ!」
 早乙女流の奥義の一つ、逃げながら攻撃を考える一手。敵の攻撃をかいくぐりながら逃げ惑うのは案外難しいと玄馬が言うように、マドカの仕掛ける攻撃を尽くかわして見せる。



「あいつ…。乱馬が気を使い果たすのを待ってるんだわ…。」
 玉壁にへばりつきながら、あかねが呟いた。
 上空からは手にとるように二人の動きが良く見える。
 煙がもうもうと立ちこめる地面。煙が止むと穴が開く。その繰り返しだ。
「あれは…。」
 あかねは上空からハッとして見下ろした。
 マドカは無計画に気弾を打っている訳ではないことが、理解できたからだ。上空から見下ろす地面に、ある意図を持ってマドカは気弾を打ち続けていた。
「あれは、式陣だわっ!」
 上空から見下ろすあかねには、そう見えた。マドカは穴をある法則を持って打ち込んでいたのだ。上空から見るとそれが、手にとるようにわかる。
 マドカの開けた穴を線で結ぶと、ある図形が浮かび上がる。
 それは六芒星だった。
「乱馬ーっ!そいつ、式陣を描いているわーっ!」
 声を限りに叫んでみても、声は乱馬には届かない。グッと拳を握りしめた。


「おらおらおら…逃げ惑ってばかりじゃあ、疲れるだけだよ…。」
 マドカはにっこりとほほ笑みながら、気弾を連続して打ち続けてくる。
 無論、一発でもまともに喰らえば、致命傷を負えるくらいの威力である。それが証拠に地面は既に穴だらけだ。

「畜生…図に乗りやがって…。俺が力を使い果たすのを待ってやがんな…。…狡猾なあいつのことだ…。このくれーの攻撃で収まるわけねーよな…。」
 手足を必死で動かし続けながらも、考えを巡らせる。
 武道家たるもの、諦めたり、現況に甘んじてしまえば、敗北の二文字の餌食になる。経験的に乱馬にはわかっていた。この攻撃が恐らく次の攻撃の糸口になることも。
「奴は陰陽術も使いやがる…。だが幸い、奴の放つ気はどちらかといえば熱系統の気。これに始終すると俺にも勝機はある。」
 逃げまどいながら考えた。



「ふふふ…そろそろ良いかな…。」
 マドカの瞳が輝いた。と同時に、マドカは印を結んで見せた。

 ドンッ!
 と地面が戦慄いた。

 と同時に、一斉に何かが地面から湧き出すのが見えた。
 ぞわぞわと湧き上がり、そいつらは乱馬目掛けて襲い来る。

「しまったっ!やっぱり式陣かっ!」

 陰陽道の「お」の字も知らない乱馬には、どう足掻いてもその式陣を破ることは出来ない。つまり、無防備な状態で魔の手にかかる。

「畜生っ!術式で俺の動きを封じる手に出やがったっ!」
 今まで軽快に動いていた足が、ピタッとその動きを止めた。まるで張り付いているように、足が地面へとへばり付く。

 その様子を見て、マドカがほくそ笑んだ。
「さて、動かぬ足で、これを凌げるかな…。」
 マドカは式陣を連動させながら、乱馬目掛けて己の気を打ち込んだ。


「乱馬ーっ!」
 あかねの悲鳴と共に、マドカの気が乱馬目掛けてうねりをあげた。

 乱馬が思った通り、いや、それ以上の熱気が吹き抜けて行く。 
 マドカの放った気は、焔系の気弾だった。
 みるみる、六芒星の形にその焔は吸い寄せられて行く。
「焼け尽きるが良い…。僕の焔で…。」
 マドカがにっこりと笑った。

「クソ―ッ。この焔に飲まれるのか…。」
 燃え盛る焔の中で、乱馬がそう吐きつけた時だった。

『安心せい、乱馬よ…。一度だけ、ワシが防御してやるわい。』
 ここ覚えのある声が傍でしたかと思うと、真っ赤な炎が目の前から払拭されて行く。感じていた熱気は身体を襲い来ない。まるで、バリアーが張られたように、乱馬の気が光った。

「こいつは…。佐留爺さんの気…。」
 覆いかぶさるように己を守ってくれる気は、腰元に結わえてあった「真布津の錆剣」から発せられて来た。
 そう、それはまさに甘樫の丘の麓にあった「蘇我氏の廃墟」から乱馬が取り出したあの、物部氏の宝剣「真布津剣」の中に勝手に入り込んでいた、柿本佐留のものに違いない。
 その気はまるで乱馬を取り囲み、守るように作動した。そればかりでは無い。マドカが放った焔を払拭するように消し去って行く。

『悪いな…乱馬よ。もうワシの命はこれが限界じゃ。これ以上はお主を守ってやれぬ…。故に、この空間からももうじき弾き飛ばされてしまうじゃろう…。
 この先は、お主の力で闘うしか術は無い…。早乙女乱馬よ…。お主、あやつに…文忌寸マドカに勝てるな?』
 燃え盛る焔の中で、爺さんの声が乱馬の耳元へと響いて来た。
「ああ…俺は勝つっ!…ありがとな…佐留の爺さん…。後は、俺に任せなっ!」
 乱馬はその声に対して、静かに応えた。
『術はあるのか?乱馬よ…。』
 爺さんは返す声で尋ねて来た。
「ある!」
『そいつはマドカを打ち砕けるか?』
「打ち砕く…絶対に…。そして、俺は…あかねを取り戻す…。」
 強い光が乱馬の瞳に宿っていた。

『倭国(やまと)は言霊の国…。強い意志の言葉は必ず窮地を乗り越えられる…。だから、早乙女乱馬…。お主にこの国の…秋津島の行く末、全てを託したぞ…。ワシの最期の力…お主が持って行けーっ!』

 焔の中で揺らめきながら、佐留が声を限りに叫んだ。

「ああ…。託されてやる…。俺は負けねえっ!」
 乱馬は払拭された焔の中で静かに闘志を燃やし始めた。


「ふん、佐留の防御術で何とか凌いだか…。悪運の強い奴だ。だが…今度はもう、防ぎきれないぞ。」
 マドカが鳥居を背に、笑っていた。

「防御か…もう、防御なんてする気はねえ…攻撃あるのみだ…。これ以上、おめーの好きにはさせねえ…。」
 蒼い闘気が乱馬を覆い始めていた。真っ赤な焔に対して、氷のような研ぎ澄まされた冷たい闘気が乱馬の身体を静かに廻って行く。



(乱馬…あれを仕掛けるつもりね…。)
 あかねは静かに遥か眼下を見下ろした。

 彼女には手にとるようにわかっていた。乱馬が次に何をしようとしているかを。
 眼下はマドカが放った焔による熱気が渦巻いている。しかも、再び、マドカは焔系の闘気を剥きだしに、最大級の焔の気弾を乱馬へと手向けるつもりなのがありありと分かった。
 マドカの手に燃え盛る焔の熱気が、あかねにもビンビンに伝わって来るからだ。
 一方乱馬は、淡々としていた。決して熱されない氷の心。その心で打つ技。
 「飛竜昇天破」だ。
 
「ナマクラな宝剣しか持たぬ君に、最早勝ち目はない。」
 そう言って得意げにマドカはどこからか手にした宝剣を抜いた。そう、恐らくそれは、蘇我馬子の島の桃幻墓で乱馬と麻呂爺さんを出し抜いて手に入れたもうひと振りの真布津の剣だ。
 そいつは乱馬の腰元で揺れている錆ついた刀剣とは比べ物にならないくらいに、光り輝いていた。

「勝ち目が無いかどうか、その剣で確かめてみな…。」
 煽るように乱馬は静かに吐き出した。いつもの彼なら、もっと熱くなっていたろうが、この時は違っていた。全てを達観したように、不気味なほどに落ちつき払っていた。勿論、瞳はギラギラと輝いている。

「ああ…むろん、そうさせていただくよ…。君を打倒し、巫女を傍らに侍らせ…隠(いなば)の門の向こう側へ行くのは、僕だからね。」
 
「来いっ!勝負だっ!」
 錆剣を脇から抜くと、乱馬は身構えた。

「ふふふ…けなげだねえ…。そんな錆剣を振りかざしてまでも…。僕は遠慮はしないよ。夜見の桜が君の命が散りゆく時を、今か今かと待ちわびているからね。」

 その言葉に夜見の桜がざわざわと揺らめいた。この闘いの敗者を取り込むために、雄叫びをあげたかのようだった。
 マドカの挑発の言葉にも、乱馬は一切反応しなかった。彼は全てを悟っていたのだ。佐留爺さんの遺した物や、この闘いの果てにあるものを。全て。

 時は熟した。


 あかねはそんな乱馬の勝負を見届けるべく、静かに玉の中に正坐していた。
(乱馬…あたしは信じてる…。乱馬なら勝てる…。だって…乱馬は最強の格闘家だから…。)
 あかねの瞳にも一縷の不安も曇りも無かった。ただ、真っ直ぐに、己の許婚の戦いを見詰めていた。

「火焔の舞…末期の焔っ!」
 
「飛竜昇天破―っ!平面打ちーっ!」

 赤い焔と蒼い焔が真正面から火花を散らせた。
 焔の気弾を抜いた刀の切っ先に乗せて、マドカは乱馬目掛けて打ち込んだのだ。
 同時に乱馬は氷の一撃を、その焔のど真ん中目掛けて打ち込んだ。左手のスクリューパンチだ。
 氷の闘気と共に、乱馬の手から激しい竜巻がほとばしる。
 それは、真っ直ぐに鳥居目掛けて打ち込まれて行く。

 研ぎ澄まされた氷の心が、充満する焔で満ちた空間へと打ち込まれる。それに乗って湧きおこる凄まじい風。それは一瞬にして、焔を飲みこんで行く。

「こんなもの…僕のこの刀剣で打ち返せば…。」
 マドカは手にしていた刀剣を大きく振りかぶり、振り下ろした。
 乱馬の打った風が、マドカの持つ刀剣の刃に当たり、振り返される。それだけではない。マドカの放った焔が、乱馬目掛けて吹き荒ぶ。
「勝った…。」
 マドカが瞳を大きく開いたその刹那、乱馬は静かに剣を抜き去った。
 刀が錆ついた鞘から面白いようにフッと抜けたのだ。しかも、鞘から現れたのは、光り輝く蒼白い切っ先。

「でやあああああっ!」
 それは乱馬が放った、渾身の一撃であった。
 マドカが打ち込んで来た焔の竜巻を、その一振りで軌道を変えた。

「な…。何だとぉ?」
 己の勝利を確信していたマドカを、焔の竜巻は一瞬で飲み込んで行った。
「うわあああああああっ!」
 マドカの断末魔の叫びと共に、桜がザワッと戦慄いた。
 途端、何かが弾け出したように、桜へと飲み込まれて行くのが見えた。恐らくそれは、マドカの魂だったに違いない。

 焔はマドカの身体も、手にしていた真布津の刀剣も、全て飲みこんで行った。

 あかねは打ち込まれた焔が、空間に飲み込まれ消えゆく様を見ながら、静かに、瞳を閉じた。



五十八話 乱馬の願い

 風が吹き止んで、焔が全て消えさった後、辺りは何も無かったかのように静まり返っていった。
 マドカの術によって開けられた穴も、彼の姿も手にしていた刀剣も、どこにも無かった。
 
 ただ、あるのは、妖しげに揺れる夜見の桜と、白い大鳥居。そして、巫女玉に捕えられたあかねだけであった。

「この錆刀(さびがたな)が甦るなんてな…。佐留の爺さんが最期に封印を解いてくれたようなもんだな…。」
 フッと一つ、溜息を吐きだして、乱馬は持っていた刀剣を鞘へと収めた。
 どんな封印がこの剣に施されていたかは不明だが、何らかの力が、あの刹那に働いたことを、乱馬は理解していた。
 いつの間にか、錆ついていた鞘も、元の輝きを取り戻したように、美しく光り輝いていた。装飾の石も輝きを取り戻し、在りし日の姿へと戻っていた。
 それだけではない。いつの間にか、首に「黒い勾玉」が麻ヒモで吊下がり、胸元で揺れていた。真黒な勾玉は自ずから淡い乳発色の光を発している。
 と、その光に反応するかのように、鳥居の内側から、レーザー光線のような一筋の赤い光が乱馬の胸元の勾玉目掛けて飛んできた。

「な…何だ?」
 驚愕の声をあげると同時に、ふわっと乱馬の身体が宙へと浮き上がる。
「え?…」
 躊躇する間もなく、乱馬の身体は上昇を続けた。そして、上空に浮いていた巫女玉の中へと吸い込まれるように、招き入れられた。

「乱馬…。」
 巫女玉の中で捕われていたあかねが、声をかけてきた。
「あかね…。」
 ところどころ焦げて破れた衣服があかねの瞳に飛び込んで来た。血も少し滲み出している。その様は、ここに至るまでの戦いの壮絶さを物語っていた。
「良かった…無事で…。」
 矢も楯もたまらなくなったのだろう。あかねは乱馬の胸にすがりつくと、ワッと泣き崩れた。
「ば…バカ…。泣くなっ!」
 あかねの涙には滅法弱い乱馬は、動揺の声をあげた。こんな場合、どうすれば良いのか、咄嗟に判断に迷った手は、あかねの上で泳ぎ始める。すぐさま抱きしめてやればよいのに、それすらおぼつかないのだ。
 代わりに、怒ったような悪態が口をつく。
「お…俺があんな奴にやられる訳、ねーだろがっ!」
「だって…こんなになるまで…だから…あたし…。」
 この場合、あかねの方が、己の感情に対して純粋だった。ここに至るまでの、様々な感情が一気に溢れだし、留める術が無かったのである。
 次から次へと流れて来る涙を、止めようが無かった。強がりな少女の純粋なまでの想いが、乱馬の胸へと浸みこんで来る。

「…たく…いつからそんな泣き虫になったんだよ…。」
 泳いでいた手を、そっとあかねの肩に回した。柔らかい乙女の髪の毛が、頬に触れる。
 
 まだ、完全に楽観出来る状態では無い。それは百も承知だが、触れたあかねの温もりを、愛しげにその胸の中に抱きしめた。

 そんな二人のしっとりた時間を包みこみながら、二人を飲みこんだ玉は、フワフワと漂いながらも、真っ直ぐに鳥居へと吸い込まれて行く。
 ゆっくりと玉は二人を乗せて、空間を渡り始めた。夜見の桜を背に、鳥居の下をくぐり抜ける。
 その瞬間、フッと気の流れが変わった。何かがすり抜けたような違和感を覚える。
 思わず、あかねを抱いたまま、辺りを見回した。あかねも乱馬の腕の中から、不安げに見上げる。

 そこは混沌とした闇の空間が広がっていた。空も地面も無い空間が、暗くどこまでも続いている。
 
 その中ほどに、そいつは存在していた。真っ黒な霧状の雲のような塊だった。
 大きさもわからぬほど、そいつは膨らんだり縮んだりを繰り返す、真っ黒な塊。時折、稲光のような蒼白い光がピシピシと音をたてながら、閃光している。
 そして、そいつは渦巻くようにゆっくりと時計回りに動いていた。

「もしかして…こいつが…龍神…か。」

 思わず、乱馬もあかねもゴクリと唾を飲み込んだ。
 どこをどう取って見ても、凡そ、龍には見えなかった。麒麟のような顔もないし、鱗や尻尾も無い。
 一般に言われている龍とは全く似ても似つかない物体が、そこに蠢いていた。
 しかも、半端ない妖気を漂わせている。
 乱馬に寄り添うあかねの表情も硬くなった。つい、乱馬の身体に添えた手に力が入る。

「怖いのか?」
 乱馬はあかねへと声をかけた。
「ちょっと…ね。」
 あかねは心底怯えているようだった。強肩でならした格闘娘ですら、足元をガタガタと震えさせる凄まじい妖気の塊だ。
 乱馬も、この塊に触れようものなら、木端微塵に跡形も無く、消されてしまうような恐怖感を覚えた。
 だが、ここで恐怖に飲まれる訳にはいかない。隣に己を頼って必死ですがるあかねが居る。虚勢を張ってでも、恐怖心を覚えていることを現してはならない。
「大丈夫だ…俺がついてる。」
 そう言って、右手で寄り添って来るあかねの左手を強く握りしめた。
「うん…。」
 あかねも握られた左手をギュッと握り返してきた。

 やがて巫女玉は、バックリと渦が大口を開けるように蠢いている真上で動きを止めた。このまま玉が割れると、二人、この渦に飲まれて、どこまでも落ち続けそうな嫌な感覚に襲われる。



『ようこそ…隠の奥つ城へ。』
 どこからともなく、声が響いて来た。
 あかねに話かけてきた瞳の主の声と同じだった。
 今度は瞳だけでは無く、乱馬たちの巫女玉の真正面に、彼女は居た。
 渦に飲まれることなく、その真上に浮いたまま、老婆が一人、こちらを見詰めて佇んでいたのだ。
 頒布(ひれ)を背中から垂らし、筒状の美しい衣装に身を包み、玉串を両耳の横当たりに巻きつけた鉢巻状の布に差している。いかにも…といわんばかりの古代の巫女であった。
 

「おめーは誰だ?」

『我が名はスセリ。隠(いなば)の巫女じゃ。』

「隠(いなば)の巫女だあ?」

『ああ…。この世界を斎(いつ)き、清めておる。』

「一体、この世界は何だ?」

『この世界は創成の世界。当たらな世界を創ることを許された者だけが渡って来る言わば、神界。』

「神界だって?どこに神が居るってんだ?」
 
『ここに居る。』

ゴオオオオオー…

 スセリの言葉に反応するかのように、黒い渦が轟音を鳴り響かせた。嵐の吹き荒ぶ音に似ている。

「あれが神?」

『破壊と創成の神、スサノオだ。』
 ニッと巫女は笑った。

「破壊と創成…。」
 その言葉にキッと乱馬の顔がきつくなった。

『創成の前には破壊は付き物。前にあった世界を全て壊し得てこそ、新しき世界が広がる。さあ、ここへ至れりし創成の王よ。その巫女媛を差し出し、おまえの望みをかなえよ。』


 巫女の言葉と共に、閃光が走った。眩いばかりのその光に、つい、目を眩ませ、視界が削がれた。
「うわっ!何だ…この光の洪水は!」
 いや、それだけではない。閃光が解けて、視界が戻った時、傍らに居たあかねの姿はそこには無かった。
「あかね?あかねーっ?」
 キョロキョロとあかねの姿を求めて、辺りを見回す。

「乱馬ぁっ!」
 その呼び声に反応して、あかねの声が聞こえた。その声にハッとして、瞳を見開く。
 と、巫女玉の外に弾き飛ばされ、あかねが闇に浮いていた。
 その下には真黒な渦が不気味な音をたてて、渦巻いている。その中から一本、触手のように渦巻きが這い上がり、あかねの肢体へと巻き付いていた。
 白いあかねの巫女衣装が、黒いヒモで拘束されて行く。
 あかねはそれを振りほどこうと、必死で足掻いたが、抜け出ることも引きちぎることも出来なかった。


「あかねっ!」
 ドンドンと巫女玉を叩いたが、ヒビは愚か、傷ひとつつけられない。
 今度は乱馬が巫女玉へと取り残されてしまった。
「てめえーっ!あかねをどうするつもりだ?」
 思わず、巫女スセリへと荒い言葉を投げつけた。

『どうするつもりも何も…。古来からのしきたりに従って、巫女媛として供するまでのことじゃよ。スサノオにな。』

「じ…冗談じゃねえっ!あかねは巫女媛なんかじゃねえっ!返せっ!今すぐ、こっちへあかねを返せっ!」
 乱馬はスセリへ向けて、声を張り上げた。

『それは出来ぬ相談じゃ。既におまえは隠(いなば)へと足を踏み入れてしまったからな。もう引き返せぬ…。全てが終わるまでは…。』
 スセリが冷たく言い放った。
『隠(いなば)の門を越えてやって来た新しい世界の覇王は、その巫女媛はスサノオへ供する…これすなわち、古来より定められし隠(いなば)の約定。巫女媛の命を糧として、新しき世界が開ける…。
 早乙女乱馬…おまえは永遠の命を得て創成の神格として新しき八十島の祖となるのじゃ。八十島の産土(うぶすな)を従属し、新しき国を産み育てる。それがここに足を踏み入れたおまえに定められし、宿命。
 そして、天道あかねの宿命は、おまえの巫女媛として、スサノオへと捧げられ、永遠の時をあそこで眠ったまま時を過ごすことだ…。
 それが不服だと、言うのか?』

 スセリはニッと笑いながら乱馬へと問いかけた。

「ああ。そんなこと、聞き入れられる訳がねえっ!」
 きっぱりと乱馬は言って退けた。

『そうか…不服か…ならば…。少し我が話を聞くが良い…。』
 そう言って、スセリは妖しげに瞳を巡らせ、指を高く差しあげた。

 スセリの指差した先に、それは揺らめいていた。
 夜見の桜にも見劣りしない、大樹に、ポツン、ポツンと揺れる大玉。その一つ一つの中に、美しき女性たちが巫女衣装のまま目を閉じて、ゆらゆらと揺れていたのだ。

『あれの多くは阿射加の巫女媛たちじゃ。』

「阿射加の巫女媛?」

『元々、阿射加国はスサノオへの信仰が篤い国で、古よりたくさんの巫女媛を生贄として捧げて来た。
 あそこに眠る殆どの巫女媛は国の重要な祭祀の折に、スサノオへと捧げられた生贄たちだよ。まだ当時阿射加にあった「龍穴」と呼ばれる穴倉へと、捧げられたいずれ劣らぬ乙女たちばかりじゃ。
 未開な社会では神に対する畏怖は想像以上に強いものじゃからな…。
 捧げられた巫女媛たちは、この隠(いなば)の永遠の闇の中で、ああやって、眠って時を過ごして行く、いわば、それが彼女たちの宿命…。
 もっとも、そんな宿命を持った巫女媛ばかりではないがな…。そら…。』
 
 スセリがその中の一つを指差した。
 大半の玉は蒼白く輝いていたのに、その玉は赤く輝いていて、ひと際目を引いた。
 中に眠っているのは、髪の毛が長い十代後半ほどの美しい巫女媛だった。手には剣を持ち、それを己の身体へと突き刺したまま、時を止めていた。半開きになった瞳と口は、何かを訴えかけているようにも見えた。
 穏やかな他の巫女媛とは違って、見上げた乱馬の瞳も驚きを隠せず、思わず釘づけられた。

『あれは、カヤヒメだよ。』

「阿射加のカヤヒメ…か?何故、彼女は剣を刺してる?」

『あれは殊勝な巫女媛でなあ…。
 阿射加国が日向国に攻め入られた折、シロヒコ王が禁忌を破り、ここへ渡ってきたことがあった。阿射加王だけに伝わる、伝承をヒモ解き、シロヒコ王はここまで入り来た。
 その折、巫女媛として連れて来たのが、あの、カヤヒメじゃ。シロヒコ王は隠へ至り、永遠の命と国の存亡を願ってここまで渡って来たのじゃが…。生憎、再生の前には破壊が行われねばならぬからのう…。
 シロヒコ王はそれでも構わぬと、宣言したが…あの巫女媛はそれを良しとはしなかった。
 カヤヒメはたとえ阿射加が滅んでも、八十島を滅ぼすことを良しとは思わなかったんだろう。国は滅びても人は滅びぬ…そう言ってな。
 カヤヒメは巫女としても秀逸な力を持っておった。それゆえ、隙を見て持って来た剣璽でその胸を貫いた。
 そして、シロヒコ王の望みを成就させる前に、そのまま息絶えたんじゃ。その命を持って、シロヒコの願いを奪ったんじゃ…。』

「じゃあ、シロヒコ王ってーのはどうした?願いをかなえられなかったのなら…。」
 
『シロヒコ王はスサノオへと同化した。』

 ノオオオオッーと闇の渦がうねり音をあげた。

 恐らく、スセリが言っていることは真実なのだろう。だが、今、何故、彼女がそんな話をする気になったのか、真意は乱馬にはわからなかった。が、暗に彼女が言わんとしていることが、少しだけ理解できた。

「婆さんは…俺に選べって言いたいんだろ?」
 そう言葉を投げかけた。
 じっと乱馬を見詰めたまま、婆さんはその疑問に関しては一言も発しなかった。
 無言で通すことが全てを物語っていると察した。

 とはいえ、どうやって、この状況を打破するか。
 方法は見つからなかったが、腹はとっくに決まっていた。

(何がなんでもあかねを取り戻すっ!この手に…。)

 喩え、互いの肉体が滅んだとしても、離れ離れにはなりたくなかった。生や死といった結果にも、執着はなかった。
 ただ、あるのは、『もう彼女から離れないっ!』その一点であった。
 その揺るがぬ決意のせいか、胸元が熱くなり始めた。いや、胸元ばかりでは無い。腰に結わえた真布津の剣が淡く光り始めた。
 

『さあ…。時は満ちた。願えっ!その命の先をっ!』


 それを合図に、乱馬は飛び出していた。

「うおおおおおおっ!」
 手にした真布津の剣で、己を捕えていた巫女玉を真っ二つに切り裂いたのだ。

 フツッ!

 そう音がして、巫女玉は両断される。当然、乱馬の身体は、黒い渦目掛けて、まっしぐらに落ちて行く。

「このまま終わらせてたまるかーっ!猛虎高飛車ぁ―ッ!」

 ドオオン―ッ!
 
 乱馬は剣をつがえて居ない左手を後ろに、一発、特大の猛虎高飛車を打ち込んだ。それをエネルギーに変えて、一気にあかね目掛けてダイブする。

「あかねを離しやがれーっ!」
 今度は剣を構えると、あかねを捕えていた渦の触手へと、切りかかる。

 ビシュッ!

 鈍い音がして、触手が千切れた。勿論、全てが一刀両断出来た訳ではない。
 ノオオッと怒りの音をあげて、再び闇から触手が這い上がる。

「こなくそーっ!でやああっ!」
 ビシュッ、ビシュッと闇を何度も何度も切り刻む。
「これでどうだあーっ!」

 バシュッと音がして、あかねにまとわりついていた渦が全て千切れた。

「あかねーっ!」
 返す手でそのまま、あかねの身体目掛けて突進した。
 持っていた真布津の剣は、どこかへと吹き飛ばされて渦の中へと落ちて行く。落ちた剣を気にする余裕など乱馬には無かった。いや、剣などもうどうでも良かった。
 その身一つで、必死にあかねに追いすがる。

「乱馬―っ!」
 あかねも懸命に乱馬へと手を伸ばして来た。飛べる訳でもないのに、少しでも近付こうと、手足をバタバタさせて動かした。
「あっかねーっ!」

 精一杯伸びあがり、その手を広げて、掴もうとする愛しい者のしなやかな手。二つの落ちて行く塊に、共鳴し合うように、互いの胸元で揺れる、黒と赤の勾玉が光り輝いた。
 呼び合う二つの魂は、その瞬間、固く結ばれる。
 
「あかね…。」
 届いた瞬間、無我夢中、あかねの身体を抱き寄せていた。
「乱馬…。」
 あかねもまた、安堵の微笑みを浮かべた。
 当然のことながら、落下は留まる事を知らなかった。
 どこまでも続く闇の中。果てることも無く、猛スピードで落ち続ける。
 相変わらず、危機的な状況に居るにもかかわらず、二人は互いに見詰めあい、微笑みあった。

「もう、離さねえ…。絶対に…。」

 それから瞳を閉じ、どちらからともなく合わされる、柔らかな唇。
 それはごく自然なキスだった。
 柔らかな唇は、溢れ出る想いを一気に吸い上げていく。苦しみも悲しみも喜びも怒りも全て織り交ぜて睦びあう。
 
 不思議と心から恐怖心は消えていた。いや、そればかりか、満ち足りていた。
 このままずっと落ち続けようとも、それはそれで構わないとさえ思い始める。やがて、意識が遠のき始めた。夢の中に吸い込まれるように、柔らかな温もりが身体中を覆い尽くした。

 最早、己がどこに居て、どんな状況下におかれているのかさえ、うすらぼんやりとしてきた。ただ、胸に抱いた温もりだけは、決して離すまいと力を籠めて抱きしめていた。己が全身全霊を賭けて愛した女(ひと)の温もりだ。
 やがて、落下している事実も、夢の中にあるような不思議な感覚に見舞われ始めた。
 まるで無重力空間に、二人、放り出されたように、あてどなく漂っているような気分だった。抱きあった二人を愛でるがごとく、渦巻きは緩やかになり、穏やかに二人の身体を包みこんだ。

 静寂が二人の上に降りて来る。抗うことなく、その闇に、二人、身を任せて瞳を閉じる。


『早乙女乱馬よ…汝、何も願わぬのか?』

 遠ざかる意識の下で、誰かが問いかけてきた。さっきのスセリの声ではない、どちらかというと、男の声のように思えた。

(へっ!俺が何かを願った途端、またあかねと引き裂くんだろ?…んなのは、金輪際、ごめんだね…。)
 乱馬は不機嫌そうに黙したまま、心でその声に答えた。

『何故だ?何でも願いが叶うのだぞ?そこまでおまえが無欲だとは思えんが…。』
 困惑げに声は問いかけてくる、

(馬鹿にすんなよ…。俺だって色んな欲望はあらあっ!でもよ、俺が望んでこの世界へ来たんならまだしも、俺は巻き込まれちまっただけだぜ?被害者なんだよっ!…たく…。
 こんなボロボロになるまで闘いたくも無かったんだっ!それに、何で古代まで渡って来なきゃならないんだってーのっ!
 亀石を一番先に動かしただのなんだの…俺に言われても知るかってーのっ!
 世の中を変えたいとか、永遠の命が欲しいとか、そんな願い事なんて、はなっから持ってねえっつーの!)
 ぐだぐだと心が勝手に話し出す。

『ほう、永遠の命…それも要らないというのか?』
(そんなもの…。手に入れたって無意味だ…。)
 と一蹴した。
『何故だ?永遠の命は人間の最大なる願いではないのか?』
(永遠が最大の願いだって?…少なくとも俺はそうは思わねえな…。命はいつか尽きるからこそ、生きるのが面白えんだ…。時間の長さと幸せは必ずしも一致しねえ…。)
『ならば、覇王になることはどうだ?格闘界の覇王にもなれるのだぞ。』
(そいつもごめんだね…。最初から決まってる覇王なんて、意味ねえし…。己の血と汗と努力で名声や栄誉は掴むもんだ。…決まった覇王なんてつまんねえ…。)
『隠(いなば)の力を使えば、呪泉に行かずとも完全な男に戻ることもできると言うのに…。女の身体ともおさらばできるのだぞ?それも嫌なのか?』
(そりゃあ、男に戻りたいぜ…。)
『そうだろう?すぐさまにでも完全な男にしてやろう…。』
(バカ言うな…あかねが居ねえところで完全な男に戻ったところで、意味ねーんだよ。)
『どういうことだ?』
(結構、この女になる変身体質の生活も慣れれば愉しいもんだぜ?親父なんかパンダでも平気で過ごしてるもんな。俺は…あかねをずっと傍で守るために…男に戻りてえ。男の姿で見守ってやらねえと、このじゃじゃ馬娘、心配でやってらんねーしよー…。)

『そんなにこの娘が大切なのか?』

(当り前だ…。喩え、永遠の命を手に入れられても、覇王として世に君臨できたとしても、神として崇められても、完全な男に戻れても…あかねが傍に居なきゃ…全てが無意味なんだよ…。
 ずん胴で凶暴で口より手が先に出て、色気も無くてかわいくねえし、生意気で意固地な奴だけど…本当は涙もろくて繊細なんだ…俺が傍に居て、守ってやらなきゃダメなんだ…。
 いや……こいつが居るから、俺は…女になっても前向きで居られるし、強くなるための修行にも力が入る…。
 こんな男と女が入れ変わっちまう変身体質のせいで、毎日がドタバタ続きだけど…あかねの笑顔が傍にあれば良いんだ。
 だから…あかねは…誰にも渡さねえ…たとえ、それが神だろうが悪魔だろうが…。絶対に渡さねえっ!渡さねーったら渡さねーんだっ!)

 それは誰に向けて放っている言葉なのか。最早、乱馬にはわからなかった。
 心の声なのか、それとも、隠の巫女なのか龍神スサノオなのか。
 しかし、語っていることに嘘はない。全て本当のことだった。

『本当に願いは無いのか?』

 本心をえぐり出すように問いかけて来る声に、そっと乱馬は言った。

「もし願いがあるとすれば…俺は…こいつとの約束を果たしてえ…。真神の里でかわした「二人で元の世界へ帰る」っていう約束をな…。」

 そう言い切った乱馬への返答は無かった。
 ただ、代わりに「ピシャン…。」と聞こえる筈も無い、水たまりに水滴が跳ねる音が聞こえた。

 その音にびっくりしたように、瞳が開く。
 水滴の波動が円周に広がるように、黒い霧がさあっと晴れ渡った。



五十九話 カヤヒメ

「ここは…。」
 ふと気がつくと、そこは無色透明な空間が広がっていた。あえて言うなら、水の中のような空間だった。
 ゆらゆらと着ていた衣服も髪も、空気の中を漂っている。だが、空気はあるようで、楽に呼吸ができた。
 乱馬はあかねを抱いたまま、ふわふわとその空間の中に、真っ直ぐと立ったまま浮かんでいた。
 胸に抱いたあかねは、柔らかくその瞳を閉じていた。

「あかねっ!」
 焦った乱馬は彼女を揺り動かそうとした。その刹那、声が響いて来た。

『大丈夫…力を使い果たして眠っているだけだから…。』
 ハッとして顔をあげると、美しい女性が傍の岩場に腰掛けて、こちらを見て微笑んでいた。

「おめえは…。」
 見覚えのある顔だった。ここへ落ちる刹那見た顔だった。

『私はカヤヒメ…阿射加の最期の巫女媛。ここは私の心の中の世界よ。』

「心の中の世界?」

『ええ…。隠に眠る巫女媛にはそれぞれ心の世界を持っているわ。その中身までは知り得ないけれど、巫女としての霊力が高い娘たちばかりだから、それ相応の世界観は持っていると思う。
 やっと、私も本来の霊力を取り戻し、こうやって、あなたと対話できるようになったの…。そのお礼が言いたくて…。あなたと話をさせて欲しいって、スセリ様にお願いしたの…。
 普通に喋ったら、私の言葉は通じないだろうから…って、スセリ様は思金の実を少し分けて下さったわ…。』
 
「思金の実?」

『ええ…もっとも、柿本佐留は術式でこれを式神に萌芽させるのが得意だったけれど、私にはそこまでの霊力はないから…。』
「あん?」
『ほら、何て言ったかな…この子の姉を式神として通訳に使ってたでしょ?』
「なびきか…。そういや最初、一緒に居たっけな…。」
 そう言いながら、乱馬は苦笑いした。なびきが居なくなって、正直ホッとしているのも確かだ。あれが、本当のなびきだったら、どれだけたかられるかわかったものでは無い。
 恐らく、その実を使っているせいで、この、カヤヒメという巫女は現代風な砕けた言葉を使っているのだろう。


『早速だけど…見て…ここを…。』
 そう言いながらカヤヒメは胸をはだけた。

「おいっ!こらっ!こんなところで脱ぐなっつーのっ!あかねが起きたら、誤解が生じるぜっ!」

『ホント、馬鹿みたいに奥手で純情なのね…あなたって。何も乳を見せようって訳じゃないわ…。あなただったらわかると思ったんだけど…。あなたのおかげで、私の身体から剣が抜けたのよ…。』

 そう言えば、と乱馬は目を見張った。確かに、巫女玉の中に居た、カヤヒメには剣が突き刺さっていた。しかも、スセリによると自分で突き刺した剣だという。

「自分で突き刺したんじゃねえのか?」
 クレッションマークを点灯させながら、カヤヒメへと言葉を継いだ。

『まあね…。自ら突き刺した剣ではあるけれど…。スセリ様にも抜けなかった剣を取っ払ってくれたのは…乱馬、あなたよ。それから、これをあなたに戻しておくわ。』
 そう言いながら、カヤヒメは剣を乱馬の前に差しだした。
 蒼白い光を放つ刀剣、真布津の剣がそこにあった。あかねを救う刹那、どこかへ落ちていったあの剣である。

『あなたは言っていたわよね…。自ら進んでこの世界へ来た訳じゃないって…。』
 返す瞳でカヤヒメはそう語りかけた。

「ああ…。」

『でも…少なくとも、ここへ召喚されたのがあなたで良かった…。』
 カヤヒメはそう言って笑った。
「どういう意味だ?」
『私が巫女媛としてここへ来た時、シロヒコ様が願ったことが成就されなかった訳ではないからよ…。私はシロヒコ様がスサノオに願う前に、少しその邪魔をしただけですもの…。』
「邪魔?」
『シロヒコ様が一番望んでいた願いを言えないようにしただけ…。シロヒコ様が何も願わなかった訳では無いわ…。』
「そう言えば、スセリが言っていたな…。シロヒコはスサノオと同化したって…。」
『そうよ…そうするしか術が無かったのよ。シロヒコ様は最後に願ったの、自分の願いを成就させる代行者をここへ呼び込めってね…。八十島を消滅させて新たに創りだそうと願う者をこの隠(いなば)へ再び召喚するのが彼の願いに変わったのよ…。私がこの剣を自分で刺して、彼の言霊を奪ったから…。』
「おい…でも、俺は、そんな大それたことは、これっぽちも願っちゃいねーぞ…。」
『でしょうね…。』

 少し馬鹿にされた気がして、乱馬はムッとした。

『でも、その願いはある意味、成就されたわ。文忌寸氏の末裔、文乃円と私の妹ナルミ…ナルヒメによってね…。あの子たちは、シロヒコ様の願いに従順過ぎる程、意欲を燃やしていたわ…この八十島を滅っすることに…。』
 そう言いながら、カヤヒメは憂いを帯びた瞳を乱馬へと手向けた。
 そしてすっとあかねに向けて手をかざす。と、あかねの袖の中から勾玉が浮き上がり、カヤヒメの手にすっぽりと収まった。

『ナルミ…馬鹿な子よ…。シロヒコ様の意志を継ぐなんて…。』
 その勾玉をそっと握りしめながら、カヤヒメは呟くように言った。

「そっか…その勾玉は…。」
 乱馬の言葉にカヤヒメはコクンと頷いた。
『これはあの子の印の玉。シロヒコ様があの子に握らせた勾玉…。ここにシロヒコ様の曲がった願いが籠り、様々な禍を産み出したのよ…。檜隈の巫女たちのことも、稚媛のことも全ては…この勾玉が引き寄せた悪夢…。』
 言葉とは裏腹に、カヤヒメは寂しげに勾玉を見詰めた。
『でも…もう大丈夫…。この勾玉は私がここで、これからずっと浄化し続けるわ。それが、私にできる唯一のことだから…。スセリ様もそうおっしゃっていた。』

「でも、解せねえな…。シロヒコってのは結局どうなったんだ?この勾玉に籠ってるとかなのか?」

『シロヒコは闇に帰ったわ。スサノオと共に…。シロヒコ様の曲がった野望は達成できなかったのよ…。誰かさんのおかげでね…。』
 クスッとカヤヒメは笑った。

「あん?」
 何を言い出すかと、乱馬はカヤヒメを顧みた。

『スセリ様はおっしゃっていたわ。シロヒコ様のかけたこの八十島への呪言は、純粋な心を持った青年しか祓いきれないって…。これは一つの賭けだった。様々な兆しを下界へ与え続けて、そこから選ばれたのが…あなた…早乙女乱馬という一人のうら若き青年だったのよ。』
「はあ?」
『スセリ様は言ったわ。次に隠(いなば)の門を越えて来る王に全てを託せとね…。その者に八十島の運命を託したのよ…。
 巫女媛を召し上げ、あなたが願った願いは…シロヒコ様の野望を打ち砕くに十分過ぎた…。即ち、全てが元の鞘に収まったって言う訳…。
 ここへ至ったのがあなたのような純粋な青年で本当に良かったわ。』

「それって…褒められてるっていうより、思いっきり馬鹿にされてるように聞こえるぜ…。」
 ブスッと乱馬はしかめっ面をカヤヒメへと投げかけた。

『この娘と交わした、「二人で元の世界へ帰る」っていう約束を果たしたい…なんて、純粋な願い、なかなか口に出して言えるものではないわ。
 シロヒコ様の邪念なんて、その純粋な穢れ無き願いで吹き飛んでしまったもの…。だからこそ、私の胸を貫いていたシロヒコ様の剣は消えて無くなったの…。』

「うるせーよっ!本当にそれっきゃ、願い事なんて無かったんでいっ!わりーかっ!」
 吐きつけるように乱馬は言った。
 この場であかねが己に抱かれて眠っていてくれたのが、せめてもの救いだった。彼女に聞かせられた内容ではない。


『それから…スセリ様がおっしゃっていたんだけれど…。あなたのその純粋な願い事をかなえるにあたって、一つだけ了承しておいて欲しいそうよ…。』

「純粋は余計だっつーのっ!で?何だ?その了承ってーのは?」

『本来なら、願いを成就させるためには巫女媛が必要なんだけど…。あなたの願いはその子と帰ることだから…その子は巫女媛にはできないって…。
 だからその代わりに…異世界での記憶貰うって…。異世界の記憶の全てを消し去るってね…。あなたも、その子も、それから良牙って言う子の記憶も、あなたたちに関わった全ての人々の記憶も全部…消えて無くなるわ…。折角深まった、その子との絆も無くなっちゃうけど…。』


「無くならねえよ…。」
 ポツンと乱馬は言葉を投げ返した。
「俺とあかねの絆は無くなりはしねえよ…。今回のことで思い知らされたさ…。俺にはこいつが必要だってな…。そして、こいつには俺が必要だってことも…。
 何があっても、どんな困難にあっても、決して手を離しちゃいけねえーってことも身に浸みてわかったさ…。
 だから…絆は無くならねえ…。喩え、ここでの記憶が全て消えてしまったとしてもな…。それに…俺のこいつへの想いは不変だよ…。記憶を消されても想いは変わらねえし…変えられねえ…。
 こいつは俺の大切な許婚だ…。その関係に戻るだけさ…。」

 その言葉を聞いて、カヤヒメはフッと笑った。

『いけしゃあしゃあとのろけるのねえ…。この子が聞いてたらどうするの?』
「ね、眠ってんだろ?まさか起きてるとか…。」
『何なら、キス…してみる?』
「か、からかうなっ!」
 真っ赤になって乱馬は怒鳴った。古代の巫女と話しているというより、これではまるで同学年の友人と会話しているようなノリだった。

『ま、それを聞いて安心したわ…。記憶を差し出すことを渋ったら、恐らく、あなたたちは元の世界へは辿れないから…。』

「それよか…本当に帰れるんだろうな?途中で変な時代へ投げ出されるなんてこと…。」
『大丈夫よ…。スサノオ様の霊力は人間の英知を遥かに超えるわ…。』
「わかったよ…。で?どうやって帰るんだ?」

『その真布津の剣をあかねさんの持つ鏡へと突き刺しなさい。』
「あかねの持つ鏡?」
『胸に結わえてあるわ…。』
「胸っておめえ…。」
『あら、許婚なのに、胸にも触れないの?』
「さ、触れる訳ねーだろ?そんなことしたら、命なんて無いっつーのっ!こいつの凶暴さは強烈だからな…。」
『うふっ!ほんと、純情なんだから…。ほら…。』
 そう言いながら、カヤヒメがグッと手をあげると、それにつられて、鏡が出て来た。

「本当に鏡を持ってやがったのか…。」

『これは阿射加の鏡よ…。滅んで久しい国だけど…大事にされて来たのね…。まだ光り輝いているわ…。』
 しげしげと眺めながら、カヤヒメは言った。

「人は去り時は移ろっても、残る物は残るか…。でも、剣を刺したら割れちまうんじゃあ…良いのか?」

『形ある物はいつかは壊れる…。それに、この鏡の持つ霊力であなたたちが飛べて、全て丸く収まるなら、呪具としての本望よ。』

「呪具としての本望ねえ…。」

『その刀も役割を終えるわ…。これも、元は阿射加の技術の粋を伝えて出来た宝剣。人は去り移ろっても、確かにその営みは次の世代へと形を変えて伝わって行く…。だからこそ、安易に大地を滅してはならないのよ。』
 乱馬はその言葉の中に、カヤヒメの本音を聞いたような気がした。


 ピシャンと水滴が上から落ちて来た。

『そろそろ時間切れね…。スセリ様が催促し始めたようね。』
 水滴の輪が広がって行くのを眺めながら、カヤヒメは重い腰をあげた。

「じゃあ…またなって…もう会うこともねえか…。」
 乱馬は左手にあかねを抱き変えた。右手に剣をつがえ、鏡へと突き立てなければならないからだ。

『待って…。その姿じゃあ戻ったら大騒ぎになるわ。』
 そう言って、カヤヒメはパチンと指を鳴らした。
 ボワンと音がして、乱馬は赤いチャイナ服と黒ズボンに、あかねは薄青のシャツに青いデニム。元居た世界で着ていた物だ。
「こいつは、ありがてーや。確かに、記憶を手放して古代の衣服で帰ったら、大騒ぎになることは間違いねえしな…。」

『それから…これ…。』
 そう言って、カヤヒメは乱馬とあかねに向かって手を翳した。そして、何かを念じた。
 もわっと乱馬とあかねの胸元が光り出す。
「これは…勾玉?」
 そう、黒と赤の勾玉が光っていた。
『ふふ…その勾玉に巫力(ふりょく)を籠めてあげたわ…。』
「巫力(ふりょく)?」
『そう、阿射加の巫女としての私の最後の言霊の巫力(ふりょく)よ…。ずっと、二人で寄り添っていけるようにって…ま、一種のおまじないみたいなものだけどね…。』
「そんなまじないの力に頼らなくても…。」
『でも…その子を手放したくないんでしょ?だったら素直に信じなさい。在りし日の阿射加の私の霊力は確かなものだったんだから…。ね?』
「ん…まあ…別にそれは良いけどよー…。」
 戦いの終焉後に出逢ったこの同世代の娘が、本当にカヤヒメだったのか。疑問に思いつつ、乱馬はあかねが持っていた鏡を地へと置いた。
 蒼白く輝く地面は、鏡が置かれた波動の輪を広げて行く。カヤヒメは少し高い場所へと浮き上がって、乱馬とあかねを見詰めていた。


 乱馬はあかねを左手に抱きかかえたまま、右手で鞘から真布津の剣璽を抜き去る。氷の刃が暇乞いをするように切なく輝く。
「乱馬…。」
 その気配を察したのか、閉じられていたあかねの瞳に一瞬、光が戻った。
「あかね…帰るぜ…。俺たちの世界へ…。」
「帰れるの…?」
「ああ…。だから、吹き飛ばされねーように、しっかり俺につかまってろっ!いいか、絶対に離すなよっ!」
 あかねの手に俄かに力が戻ったように思った。
「阿射加の鏡、それから、真布津の剣…俺たちを元の世界へ導いてくれっ!」
 そう叫ぶと、持っていた剣を、足元に置いた鏡面に向かって勢いよく突き下ろした。


 パアッと鏡面から光がさしこめてくる。その閃光に誘いだされるように、乱馬とあかねは鏡へと吸い込まれて行く。
 彼らが去った後、パリンと音をたてて、鏡が割れた。
 それを合図に、一斉に、舞いあがった物があった。

 夜見の桜である。

 満開に咲き誇っていた花びらが、一斉に、舞い落ちたのだ。
 美しくも儚き花は、時空を越えて、ヒラヒラと舞い散って行く。

『夜見の桜が散り染めて行く…。』
 その姿を見詰めながら、カヤヒメがそう呟いた。
『これで、止まっていた倭国の全ての時間が、元通りに動き出した…。』
 どこからともなく現れたスセリがカヤヒメの傍に居た。
『さて。スセリ様、私は眠りに就きます…。』
 そう言ってにっこりとほほ笑んだ。
『ワシも少しまどろむとするかな…。あの二人の行く末を夢で眺めながら…。』
『スセリ様は何でもお見通しなのですね…。』
『夢の中でワシも少し楽しませて貰うかの…。』
『あの二人がこの先、どんな風になって行くのか…スセリ様も興味が御有りなのですか?』
『当然じゃ…。あのシロヒコ王の野望を打ち砕いた乱馬とかいう若者がどうなって行くか…興味が湧かぬ筈が無かろうて…。』
 二人の巫女は、互いに笑いあった。

 散りゆくその花びらを、乱馬とあかねも時の流れの中で見詰めていた。

 
「見て…桜が一斉に流れて行くわ…。」
 乱馬の腕の中であかねは小さく吐き出した。
 ヒラヒラと花びらは、二人の瞳にも映った。
「見惚れて、時の狭間に落っこちるなよ…」
 乱馬はギュッとあかねを抱きしめながらそれに答えた。
「桜って、散る時は一斉なのね…。」
「だからこそ、愛されるんだろうけどな…。」

 桜の花びらと共に、時の流れを一気に駆け抜けて行く二人。互いに身体を寄せ合いながら、千三百年を飛び越えて行った。



 千三百年の時を一瞬で越えた乱馬とあかね。勿論、良牙も時の狭間から一気に現代へと引き寄せられた。
 

 夜見の桜が舞い散ったと同時に、全ての時空が何事も無かったかのように動き始めていた。
 
 だが、その影に、乱馬たちの活躍があったことを、誰も知らない。勿論、当人たちもすっかりと忘れ去っていた。きれいさっぱり、三人の脳内からは、古代の記憶そのものがこそげ落ちていたのである。




 バッシャ―ンッ!


 乱馬とあかねの時は、水落遺跡の遺構から再び刻み始めた。
「乱馬のバカーッ!」
 缶コーヒーを廻って、口論をおっぱじめ、ムカッと来たあかねが、乱馬の背中を蹴りあげて、水路の遺構の中へと突き落した場面から始まる。
 あまり水は溜まっていなかったが、全く水が無かった訳ではない。
「うわっー!」
 いきなり蹴りあげられたのだ。乱馬はそのまま水溜りに尻から突っ込んでしまった。

「くぉらっ!あかねー。この凶暴女っ!てめーいきなり何しやがるーっ!」
 水路の中から、水浸しになった乱馬が思い切り怒鳴り声を張り上げた。

「はっ!どーせあたしは凶暴女よっ!」
 柵の上からあかねが乱馬へとあかんべえを投げつける。
「おめーなあっ!もうちっと、おしとやかにしねーと、嫁に貰ってやんねーぞっ!こらっ!」
 水から上がりながら、乱馬が吐き出した。
「うるさいわねっ!お転婆は生まれつきよっ!」
「減らず口を叩くな、減らず口をっ!おめーみてーなずん胴凶暴女を嫁に出来るのは、俺しか居ねーだろがっ!」
「あんたみたいな変態男の嫁になるって、結構大変なんだからっ!わかってんの?」
「それとも何か?俺の嫁になるのは嫌だってーのか?」
「嫌だなんて言ってないでしょーがっ!」

 へっという表情を、そこに居た者が、二人へと手向けた。
 そして、言ってしまった乱馬もあかねも、ハッとして己の口元を押さえていた。
 ドサクサに紛れて、つい、言葉に乗せてしまった本音。

 右京もシャンプーも狐につままれたような瞳を乱馬とあかねへと手向けていた。
 
「乱馬君…。」
 ポンとなびきが肩を叩いた。
「老婆心から言わせて貰うけど…そういうセリフは、女の子の時に言っちゃうと、威力が半減すると思うんだけど…。」

「う…うるせーよっ!ったく…服も汚れっちまったじゃねーかっ!尻も真黒だし…。ったく…。」
 そう言いながら、顔を真っ赤に火照らせて、乱馬はその場から離れて行ってしまった。
 キョトンとしているのは、乱馬たちばかりではない。少女が少女に告っている…周りのギャラリーには不可思議な光景に見えた筈だ。
「ねえ…あの女の子たち…ひょっとしてゆりな関係かしら…。」
「どっちも可愛いのに…そんな不可思議な関係を築かなくても、彼氏ができそうなものを…。」
 などと、無責任にコソコソと互いの感想を言い合っている声が聞こえて来る。
 
 あかねは耳をそばだてながら、顔を真っ赤に熟れさせている。内心、激しく動揺していた。あかねもまた、乱馬以上に純粋(ピュア)な心の持ち主である。

「あんたたち、何か進展でもあったの?何か、聞き捨てならないセリフが往来していたみたいだけど…。」
 なびきがしたり顔であかねを覗きこんだ。
「し、進展なんて、ある訳ないわよ。」
 ボソッとあかねが吐き出した。勿論、心当たりは一切ない。
「あかね、ゆうべ、乱馬を誘惑したのと違うのか?」
「せや…。洗いざらい白状しー…。」
 シャンプーと右京の瞳が険しい。
「だから、何もないわっ!無いんだったらっ!」
 たじたじであかねが後ずさる。そんな言葉だけで引き下がるような、娘たちではないからだ。
 いつもは乱馬と繰り広げられる追いかけっこが、今はあかねが繰り広げている。


「たく…あいつら、懲りねえな…。」
 あかねが追いかけられている様子を、遠巻きでながめながら、乱馬はふと微笑みを返した。
 持っていたポットの湯をかぶり、男の姿に戻っていた。

「でも…何で、俺、本音を言っちまったんだろう…それも、さらりと…。」
 
 当然のことながら、古代世界での出来事は、きれいさっぱり、忘れてしまった。あかねを守るため、命を賭けた戦いを繰り広げたことも、記憶の外へと追いやられていた。

 さも、当然であるがの如く、自然に口をついて流れた言葉に、我ながら動揺していた。
「いや、何も俺だけじゃねーな…。あかねも本音らしき言葉を発してたよな…ごく自然に…。」
 そのこと自体が不思議だった。
 互いに隠している筈の想いが、ポロリと零れ落ちたからだ。
 だが、嫌な気は全くしなかった。むしろ、心は弾んでいた。

 誰かの声が脳裏をかすめた。
『その勾玉に巫力を籠めてあげたわ…。』と。

 その声にハッとして、瞳を移すと、そこには黒い勾玉が揺れていた。
「こいつはあかねが選んだものだったよな…。あれ?こんなヒモなんてついてたっけ…。」
 と首を傾げた。買った時はヒモなど無かったように思ったからだ。
「ま…いいか…。」
 まるで愛しき者の手を握りしめるようにキュッと勾玉を掴んだ。
 追いかけられて困っているあかねを見詰めながら、ふっと微笑みがこぼれた。
 相変わらず、追いかけっこは続いているようだった。
 
『倭国(やまと)は言霊の国じゃ…。』
 また、違う声が響いた。

「言霊か…。言葉には神霊が宿るって、いつか誰かが言ってたっけ…。ならば…いつか…この胸一杯に詰まった想いを、ちゃんと言葉にして伝えてやんなきゃな…。」


 いつか…きっと…。


 ふと見上げた空は、青く美しかった。
 あかねが逃げ惑う、のどかな田園の向こう側には、天の香具山。
 その麓にあったという泣沢の泉も埴安池も小治田宮も、今となってはその伝承地を辿れない。どこにあったかすらも詳らかになっていない。真神原のオオカミも居なくなって久しい。甘樫丘東麓遺跡も水落遺跡も石神遺跡もその全容は不明だ。ましてや、阿射加国はその存在すらあやふやだった。本当にあったのか、今となっては確かめる術も無い。
 敷島の倭国(しきしまのやまとのくに)と称したこの国の、最古の都が建てられた場所。千三百年前に寧良(なら)の平城京へ遷都して行って以来、忘却の彼方へと遠のいた鄙の都。それが飛鳥だ。

 鄙の都の上に広がる美しい空。古代の人々も見上げたであろう青い空。そしてその空に連なる青垣。
 恋する人への情熱を胸の奥にたぎらせたまま、乱馬は少女たちの追いかけっこに驚いて、飛び立った鳥たちを見送った。




 完

(2013年9月7日完筆)





一之瀬的戯言 
 ラストをどう描くか、久々に迷った作品です。「スロー・ラブ」に匹敵する迷走ぶりでした。 
 結局、軽く突っ走ってしまいました。もっと重く書こうと頑張ったのですが…無理でした。
 回りくどい作品ですいません…。飛鳥という土地が大好きなもので、つい、色んな展開が頭に浮かんでしまって…まとめるのが大変でした。気持ちとは裏腹に、どんどん濃密度が上がって行くし…色んな意味で散々悩んだ作品です。
 途中、脳梗塞に倒れてしまい、入院やらリハビリやら、結構大変な出来事があったので、すっ飛んだエピソードもいくつかあります。処理しきれずに起き逃げたままの伏線もあったし(滝汗)
 使い切れなかったエピソードは次回作「まほろば」へ持ち越そうと思っています…。書き損ねたシーンが…結構あるのよね…これが…。
 「まほろば」は思いっきりファンタジーで書くつもりでありますが…。でも、また、記紀神話からきっと一杯引っ張ってしまうことになるかと…。
 だって好きなんだもん!飛鳥も古代史も記紀神話も!勿論、乱馬君も!

 もし、飛鳥を訪れることがありましたら、ちこっとこの作品のことも思い出してやってくださいませ。

 軽くなりましたが、結構最終話は気に入っています。
 うだぐだ乱馬が本音を言っている辺りが…(笑…原作の乱馬も多分、ああいう本音であかねを見ていたのではないかという妄想からの作文です。
 何はともあれ、長丁場、お付き合いくださり、多謝っ!



蛇足
 私、一之瀬が飛鳥へドライブに行くと、必ず立ち寄る場所があります。天の香具山の南麓の岩戸神社の傍にある、「みるく工房飛鳥」(西井牧場)。
 「蘇」と呼ばれた藤原時代の古代チーズをイメージして、牛乳を煮詰めて作った「飛鳥の蘇」を製造している牧場の工房です。とにかく、ここのソフトクリームが逸品なのであります!これを食べに寄るのが飛鳥ドライブの楽しみの一つであります。
 「飛鳥の蘇」は飛鳥寺の入口前にある売店にも売っていますが、ソフトクリームが食べられるのは、ここだけです。幹線道路からちょっと入ったところにあるため、道が狭く、昨今では結構有名になってきたためか五台分くらいしか止めるところがない駐車場はいつも満杯なので、今の私の運転技量じゃちょっと覚束ないかも…。(バックが上手い人じゃないと、車をひっくり返すのが大変かもね…。)


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