◇第十八話 埴安池

五十一、泣沢の宮

 程なくして、あかねたちは埴安池(はにやすのいけ)へと到着した。
 良牙と麻呂爺さんと共に、桂郎女に先導されてそこへ至ったのだ。
 文忌寸円がかけた呪縛の術が解けた時、桂郎女は、己の中に封印されていた記憶を全て取り戻したと言った。
 隠の扉へ至る道が、埴安池に存在すると桂に言われ、一気に駆け抜けて来たのである。

「こっちです…皆さん。」
 池の畔まで行くと、女人たちが何人か手招きしているのを見出した。

「あれは…?」
「泣沢の宮の者たちじゃな。」
「泣沢ってーと、さっき助けてくれた女性の…。」
 良牙が声をかけると、麻呂爺さんは頷いた。
「ああ、宮子様じゃ。天の香具山から湧き立つ聖なる泉、泣沢の泉を守っておられる方じゃ。」
 爺さんは言った。


 天の香具山の麓のすそにあるこの泉は、古くから「泣沢の泉」と呼ばれて人々に親しまれてきたという。こんこんと人が泣いているように泉が音をたてて湧き出していたから、この名がついたとも伝わっている。
 天武天皇の一番年上の息子であり、奈良時代、藤原不比等によって謀殺された「長屋王」の父でもあった高市皇子が、この泣沢に居所を構え、そして死後、その殯宮(もがりのみや=墓へ埋葬するまで設営された遺体安置所)も営まれた地ともいう。
 勿論、現在では枯れ果てて、どこにあったのか、場所さえ明瞭ではない。
 一説によると、木之本にある神社が在る辺りがそうだったのではないかと言われている。
 泣沢の泉のように、「埴安池」もまた、幻の池の一つだ。天の香具山の西側にあったのではないかと言われているが、定かではない。
 泣沢の泉から湧き出た水が注いでいた…とだけ、伝えられている。


 池のほとりに小川があって、その向こう岸に女性が立っていた。
 田んぼを流れる用水路くらいの小さな小川に小さな橋がかかっていた。
 いや、橋というよりは、ただの丸太が二本、合わさっただけの簡単な橋だった。大雨が降ればひとたまりもなく流れ去ってしまいそうな橋だ。
 轟々と音をたてながら水が流れている。無論、欄干などない。数メートルの小さな橋だが、暗がりと丸太の橋に慣れていないあかねは、一瞬足がすくんだ。
 滑り落ちれば下は川だ。小さな川とはいえ、水流には勢いがある。そのまま、埴安池まで流されてしまうだろう。泳げないあかねは、ギュッと手を握りしめた。
「あかねさん、早くっ!」
 先に渡り終えた桂郎女が声をかけてきた。
「ええい、ままよっ!」
 あかねは勇気を出して、一歩を踏み出した。足がすくむとどうしてもバランスが悪くなる。ましてや慣れない丸太の橋だ。しかも水気を含んで滑り易いときている。
 途端、グラッと来た。
「きゃっ!」
 と、良牙が手を伸ばして、あかねを支えた。そして、間一髪、グイッとあかねを引っ張った。
 身体ごと引っ張ってもらって、大事には至らず、何とか対岸へと渡り終えた。
「良牙君、ありがとう…。」
 ホッと胸を撫でおろしながら、あかねは礼を述べた。
「いや、あかねさんの身に何かあったら、乱馬の奴に申し訳がたたねえからな。それより、あんまり時間が無いんだろ?急ごう。」
 良牙は照れ隠しでそう吐き出すと、先に宮へと足を踏み入れた、桂郎女や麻呂爺さんの後を追った。


「待っていましたよ…。」
 すっくと前に女性が立った。
 男の狩衣を着た長髪の女性がにこやかにそこに立っていた。
 衣装には不釣り合いな色とりどりの勾玉の首飾りが首からかけられている。
 年の頃合は、三十過ぎくらいだろうか。


「あ…あなたは…。あの時の…。」
 あかねはハッとして顔を上げた。見覚えのある姿形だったからだ。
 そう、乱馬が紀寺へ赴いた留守の晩、小治田宮で遭遇したあの女性だ。

「覚えてくれていましたか?」
 にっこりと、女性は微笑みかけた。
「ええ…勿論。」
 あかねはそれに答えた。

「あかねさんは宮子様にお会いしたことがあるのかの?」
 横から麻呂爺さんが不思議そうに声をかけた。
「ええ…一度だけ、小治田宮の中で。確か、麻呂爺さんが乱馬と紀寺へ出かけて行った晩でした。」
「そうか…あの晩に宮子様とお会いしたのか。」
 麻呂爺さんはコクンと頷いた。
「え?宮子様はこの泣沢の宮地からは離れない身の上なのでは…?それを、忍んで小治田宮まで参られたとでもいうのですか?」
 不思議そうに桂郎女がそれに対した。
「何、宮子様くらいの御方なら、自分の写し身だけを実体化させて飛ばすくらいの術はお使いになられるぞ。先ほどのようにな…。」
 麻呂爺さんはにこりと微笑みながら、それに対した。
「麻呂様の言うとおりですよ。私は、時折、術を使って、小治田宮の様子を見ていましたもの…。あかね媛とはその折に一度だけ、言葉をかわしました。」
 宮子は微笑んだ。
「なるほど…姿映しの術ですか…。確かに、宮子様くらいの巫(かむろみ)だったら、そのくらいはお出来になりますよね…。でも、何故、小治田宮の様子を見てらしたんです?」
 桂郎女の疑問に、麻呂はすぐさま答えた。
「何故って、決まっておろう?宮子様は首皇子様を気にかけておられたんじゃよ。」
 麻呂爺さんは微笑みながら宮子へと言葉をかけた。

「首皇子様?」
 あかねがきょとんと問いかけると、桂郎女が補足説明してくれた。
「宮子様は首様の御生母であらせられます。事情があって首様とは離れてこの泣沢の泉を祭祀しておられますけどね…。」
「そうだったの…。宮子様が首皇子様のお母さんなの…。」
「子の行く末を案じない親など居ないからのう…。」
 麻呂爺さんは頷いて見せた。

 あかねの心に引っかかっていた、一つの謎が解けた。
 乱馬に置いてけぼりを食ったあの夜、庭で眠りこけていた安宿媛をあかねに託したこの女性は、首皇子の母親だったのだ。安宿媛と首皇子は周囲が決めた許婚だという。ということは安宿媛の姑、つまり、あかねの立ち位置から見ると、乱馬の母、のどかと同線上に居る女性である。
 ならば、息子の将来の嫁を心配して、時折、様子を見に術を飛ばして覗いたことも頷けた。

「そう言えば、小治田宮に居た首皇子様と安宿媛様はどうなったの?」
 あかねは二人のことが気になって思わず、宮子へと問いかけた。義法や円たちに囚われていたに違いないと思ったからだ。
「大丈夫…。二人はとうに助け出されましたよ。今頃は小治田宮でホッと一息ついていますよ。先ほど、小治田宮に術を飛ばして覗き見た折、確認しています。ご案じくださいますな。」
 宮子はにっこりと微笑んだ。
「それなら良いんです…。」
 あかねはホッと胸をなでおろした。首皇子と安宿媛に何かあっては、歴史そのものが書きかえられてしまうからだ。

「それより…隠(いなば)へ至る道がこの近くにあるということじゃったが…。」
 麻呂爺さんが問いかけると、宮子の表情が凛と固くなった。
「そうでしたね…。その道を開く前に…。あかね媛。そなたに託さねばならない物があります。そのために、ここへ立ち寄っていただいたのですから。」
「あたしに…託すもの…ですか?」
 キョトンとあかねはきびすを返した。
「ええそうです。あかね媛…こちらへ。」
 宮子はそう言うと、あかねを招いた。
 
 厳重に注連縄が張られた結界の向こう側へとあかねを招いた。
 一緒に行こうとした良牙を、慌てて麻呂爺さんが止めた。
「こりゃ、呼ばれたのはあかね殿だけじゃ。無暗におヌシは動くな。」
 と首根っこを掴む。
「何しやがるっ!」
 良牙が目をヒンむいたが、爺さんは動じない。
「あの奥は聖地じゃ。誰かれもが行ける場所ではないわい。」
 そう言われて、良牙はすごすご引き下がる。

 あかねは招かれるまま、宮子へとついて注連縄の結界を越えた。
 誰かれもが近寄れる場所ではないらしく、うっそうと茂った木々の中にそれはあった。が、剥き出しの地面では無かった。幾つかの小石が敷き詰められ、整備された場所を辿れるように作られていた。
 その石畳の奥にあったのは、小さな泉だった。
 ゴロゴロと音をたてながら勢いよく地面から湧き出している泉がそこにあったのだ。清らかな流れが泉の傍に出来ていた。
 その泉は真っ直ぐに埴安池へと流れているようだ。
 
 宮子は石畳の傍へしゃがむと、おもむろに、吹きだして来る水の中へと手を差し入れた。
 あかねは黙ってその様子を眺めていた。
 宮子は両手で、仰々しく一つの鏡を取り出した。
「これをあなたに授けます。」
 宮子はそういうと、鏡をあかねへと手向けた。
 ずっしりとした重みを感じながら、あかねは鏡を受け取った。
 直径三十センチほどの鏡だった。恐らく銅鏡なのであろう。模様が施された背面は淡い緑色をしていた。
「これは?」
 あかねは鏡を受け取ると、宮子へと問いかけた。
 長らく水の中にあったようだが、鏡面は錆もしないで、銀箔の輝きを持っていた。
「これは、この泣沢の宮に古くから祀られていた鏡です。伝わる話によると、阿射加国から伝わる聖なる鏡で、夜見の扉を開閉する道具の一つだと言われています。
 夜見の扉より内へ至りたくば、聖なる泉が注ぐ水たまりへこの鏡を胸に飛び込め…そのような伝承があります。恐らく、夜見の扉とは「隠(いなば)の扉」、聖なる泉とは「泣沢の泉」そして、水たまりは「埴安池」と同義でありましょう。
 故に、あかね媛、この鏡を、これから隠に渡ろうとするそなたに託します。」

 そう言いながら、宮子はまた元来た石畳を辿り、みんなが待つ建物内へと渡って行く。
 あかねの腕にはずしりと鏡が携えられていた。

「ほう…やはりその聖なる鏡をあかねちゃんに預けたのか…。宮子様は。」
 あかねの抱えて来た鏡を見て、麻呂爺さんが言った。
「ええ…。この鏡はあかねさんに必要な筈です。それを持って埴安池へ飛び込みなさい。そうすれば、隠(いなば)へと辿れる筈です。」
 そう宮子は言い放った。

「あの…この鏡を持って、池に飛び込むんですか?」
 あかねが恐る恐る問い質した。
「はい。」
 澄んだ瞳で宮子は言った。
「でも……あたし……泳げないんですけど…。」
 切羽詰まった声であかねが切り返した。泳げないあかねにとって、池に飛び込むのは決死の覚悟がいるからだ。
「大丈夫。あかね媛。喩えそなたが泳げずとも、桂郎女がちゃんと誘導してくれますよ。」
 宮子はにっこりと微笑んだ。
「桂さんが?」
 不思議に思ったあかねが言葉をかけると、コクンと宮子は頷いて見せた。


 宮子の様子を見て、桂郎女は言った。
「やはり、宮子様は私のことを…。」
「ええ…、勿論です。桂郎女…そなたは阿射加(あざか)の民の末裔なのでしょう?阿射加国は倭に敗れはしたけれど、民は滅びなかった。ならば、その古詞(ふるごと=歴史など)を受け継いで来た者が居てもおかしくはありますまい…違いますか?」
 桂郎女はコクンと頷いた。
「そうです。確かに私の祖は阿射加国の民。宮子様がお察しの通り、阿射加の古詞を継承してきた語部の一族です。」
 桂郎女は顔を上げて、静かにそう答えた。
「ということは、ありとあらゆる阿射加の伝承が桂ちゃんには…。」
「記憶されています。」
 麻呂爺さんの問いかけに、桂は即座に答えた。
「なるほどのう…。佐留の奴めが桂ちゃんをワシに預けた時、何か裏があるとは思っておったが…。そういうことじゃったのか…。」
 麻呂爺さんは複雑な表情を桂郎女へと手向けた。
「別に、麻呂様を謀ろうと思っていた訳ではないのですけれど…。私も記憶を操作されておりました故に今まで何もお話しする機会がありませんでした。」
 申し訳なさそうに、桂郎女がそれに対した。
「そう言えば、桂ちゃんは佐留の奴めに記憶を消されたと言っておったのう?それと、語部のことと、関連しておるのかね?」
 麻呂爺さんは桂郎女を見詰めながら問いかけた。
 コクンと揺れる桂郎女の頭。
「はい…。私の中に記憶されている言の葉を守り通すため、佐留様は私に暗示をかけて記憶を消したのです。」
「ほう…。」
「佐留様は先見の力で、何もかも見通していらっしゃったんです…。倭国に禍が起ころうとしていることも、それに隠と文忌寸氏が関わっていることも、そして、遥か遠い未来から招かれざる客人(まろうど)が現れることも…全て。」
「で、それを阻止すべく佐留めはその力を使って突っ走った…ということかのう…。」
 麻呂爺さんの問いかけに、桂郎女は深く頷いた。
 
「柿木佐留様が倭国の急難をそれとなく察知して伊賀の国へ参られた時、私が暗誦した古詞(ふるごと)をその優れた言霊使いの力で読み解かれました。佐留様も私と同じ伝承をその身体の中にお持ちでしたから…。」
「同じ伝承?」
「はい…。佐留様の血縁の中にも、阿射加国の血筋の者が居て…隠の伝承を諳んじる方がいらっしゃったからです。」
「ほう…。佐留(やつ)にも阿射加の血が混じっておるというのかのう?」
「はい…。柿本氏の祖先は文忌寸氏と同じく大陸人ではありますが、その中に、阿射加の血も混じっていたようです。混血の過程で様々な血が混じり合う事は多々あることでしょう?」
「まあ、そうじゃな。」
「佐留様は伝わる様々な阿射加の伝承を、自らの言霊使いの能力を使って、様々読み解かれたそうです。
「そして、この度の件も読み解いた…ということになるのかの?」
「そのとおりです。」
 桂郎女は頷いた。
「隠の扉を開かせてはなりませぬ。隠の扉を開くこと、即ちそれは…秋津島の消滅に繋がります。」
 桂郎女ははっしと瞳を見開きながら、麻呂へと言葉を投げた。
「消滅とな?」
「はい…。消滅です。」
 桂郎女は言い切った。

「かいつまんで、我が一族に伝わる話をお話しておきましょう…。無論、時間がありませんから、手短に略してお話しますが…。」
 そう前置いて、桂郎女は己が一族に伝わる阿射加の記憶を話し始めた。

「阿射加国が大陸の者の手引きによって、倭国の祖、日向国に滅ぼされた時のことでした。
 阿射加の王、シロヒコが隠の扉を開こうとした折、それを阻止したのは、斎王のカヤヒメ様でした。カヤヒメ様自らが身を呈して一度開かれた扉を閉じられたのです。
 騒乱の末、阿射加国は日向国に併合され、やがてその姿を消しました。
 あの当時の倭国の小さな邑や国々がそうだったように、 阿射加の民の多くは日向国に吸収されました。
 が、一方で、阿射加国が滅亡の淵に立たされた時、日向へ併合されることを嫌った人々も居ました。
 阿射加の巫女媛の一人、カヤヒメ様の妹にナルヒメ様という御方いらっしゃいましたが…彼女もまた、日向へ併合されることを忌み嫌った一人でした。」
 ふつっと桂から又一人、新たな女性の名前が飛び出した。
「ナルヒメじゃと?阿射加の巫、カヤヒメに妹が居たというのか?始めて聞いたわい。」
 麻呂爺さんが思わず声を荒げた。さしもの者知り爺さんも、承知していなかったようだ。時は日向王の末裔でもある大王家が実権を握る、大和朝廷の時代。阿射加国たらいう亡国の伝承など定かではなくなっていた。
「はい…。国事に当たる巫女は一人でも、その候補者が居ない訳ではないでしょう?それに、阿射加には優れた力を秘めた巫女が数多居ましたから。
 ナルヒメ様はカヤヒメ様と双子の妹巫女で、姉のカヤヒメ様に劣らぬ巫(かむろみ)の力をお持ちだったと伝わっております。
 ただ、その力の性質はカヤヒメ様とは相反するものだったそうです。」
「相反する物?」
 麻呂は問いかけた。
「はい。カヤヒメ様の力を陽と表現すれば、ナルヒメ様の力は陰。つまり…ナルヒメ様の力は…ツクヨミの力に近い、負の気(け)に満ちたものだったそうです。
 カヤヒメ様の力が猛威を奮う天神地祇の荒びを鎮めるものなら、ナルヒメ様はその真逆。天神地祇の荒びを増幅させるものだったそうです。
 故に、阿射加の国ではナルヒメ様をあまり重用されてはいなかったようです。いえ…逆に腫れものを触る如く忌み嫌ったとも伝えられています。
 その強大な忌むべき力故に、ナルヒメ様は日陰(ヒカゲ)の巫女として扱われていました。」
「日陰の巫女…。」
 
「兄王シロヒコ様が開こうとした隠(いなば)の扉をカヤヒメ様が閉じられてしまった後、ナルヒメ様は一人、日向国へと抗われようとしました。が、争いごとを嫌った阿射加の民たちは、誰一人ナルヒメ様へと従わなかった。
 阿射加国の民は国政を捨て、日向国へと靡きました。その当時の多くの国衙がそうしたように、強大な日向国へと併合される道を選んだのです。
 しかし、ナルヒメ様はそれで終わろうとはなさらなかった。ナルヒメ様は日向国だけではなく、阿射加国の民たちにも強い怨念を持ってしまいました。
 ナルヒメ様は強い怨恨を胸に抱いたまま…己の力を振り絞り…時を越えたのです。」
「時を…越えた…。」
 麻呂爺さんはギョロリと鋭い視線を桂郎女へと手向けた。
「何しにそのナルヒメ様は時を越えたんだ?」
 良牙も問いかけた。

「その目的はただ一つ…。姉カヤヒメ様の閉じた隠(いなば)の扉を再び開き、龍神スサノオを解き放ち、この秋津島そのものを消し去るために必要な…滅びの代行者を選ぶために…。」

「滅びの代行者…とな?…まさか…。」
 麻呂爺さんの顔が俄かに強張った。

「そう…滅びの代行者とは…恐らく麻呂様が懸念されているとおり…それは…文氏の末裔…文忌寸円のことを指していると思います。」
 桂郎女は静かに答えた。
 宮の傍に流れる、泣沢の泉に浸みわたるような、清涼な声だった。
「ナルヒメ様は時を越え、あかねさんたちの世界へ行き、文忌寸氏の末裔、円と出逢ったのでしょう。そして、彼をたきつけ術を伝授し、再び古代へ戻り…隠の扉を開こうとしているのです。…阿射加国を滅ぼし、日向国の末裔が栄えたこの秋津島そのものに引導を渡すために…。」
 桂郎女はあかねへと視線を移しながら更に言葉を続けた。

「何があっても…隠の扉を守らねばなりません。それが我らに与えられた使命です。
 ナルヒメ様がスサノオの力を解放してしまえば、この秋津島は消滅します。地上から忽然と姿を消します。 だから…あかねさん。力をお貸しください。私たちが生きているこの大地を、秋津島を守るために…。」

「あたしの力…ですか?そんな大それた力なんて…あたしには…。」 
 戸惑いながら、あかねが声をかけた。
「いいえ…あなたがこの世界へやって来たのは、単なる偶然ではなく、必然だったのです。あかねさんが選ばれてここへ来たのも…きっと。」
 桂の叫び声と共に、重苦しい空気が一同の上をのしかかって来た。

「あかねさん…。」
 良牙が心配そうにあかねを覗きこんだ。
 黙って桂郎女の話を聞いていたあかねは、ギュッと胸の赤い勾玉を握りしめて言葉をついだ。
「この世界へ紛れ込んでしまった以上…部外者って訳にはいかないわよね…。それに、乱馬のこともあるし…。」
 そう言って一つ大きく息を吐き出した。それから、キッと桂郎女に向き直ると、承諾の言葉を吐き出した。
「いいわ…。あたしも武道家よ…。一度決めたら後退はしないわ…前進するのみ。あたし……行きます。」
 きっぱりと言葉を吐きだした。

 桂の表情が艶やかに緩んだ。

「ありがとうございます。あかねさん。強い意志をお持ちで安心しましたわ。」
 と手を取って、あかねへと礼を述べた。
「強い意志?」
 あかねが不思議そうな顔を手向けると、麻呂爺さんが横から声をかけた。
「あかねちゃん、倭国(やまと)の国は言霊の力が大きく左右する国じゃ…ということはこの先しかと心に止め置いておくのじゃ。」
「言霊の力?」
「ああ…。言霊の力じゃ。言葉には霊力が籠る。つまり…強い意志の籠る言葉は何よりの武器になる。意志の弱い者は言霊の力も弱くその恩恵は受けられぬ。じゃが、強い信念と意志を貫く者には強い言霊が宿り、その者を導いていくのじゃよ。
 だから、是が非でも前に進むとか元の世界へ帰るとか…そういう強い意志は決して途中で諦めたり捨てたりしてはならんのじゃ。わかるかの?」

「強い意志の言葉…。言葉には言霊が宿る…。」
 あかねは己に言い聞かせるように一度、言葉を吐き出した。
 今一度、己の究極の願いを心に念じてみた。
(あたしの願いは…乱馬と共に平成へ帰ること…。そうよ、絶対に二人で帰るわ…。)
 ついこの前、真神で過ごした夜に、寝床の中で共に約束した時のことが甦った。

『約束して…どんなことがあっても、必ず二人で一緒に帰るって…。あたしたちが、本来居るべき世界へ。』
『ああ…わかった…。何が何でも、元の世界へ帰る方法を見つけようぜ…。そして、必ず、二人で帰るんだ。』
『うん…。二人で帰ろう…。絶対に…。』

 あの、淡い夜の記憶は、あかねの切なる願いが、力へと変換された瞬間だったかもしれない。
 胸の辺りがふっと暖かくなったような気がした。

 と、宮子がそれを察したのか、急にあかねへと言葉を手向けて来た。
「…あかね媛…。そなたの持つ、その胸の勾玉をもう一度私に見せてください。」
「え…?あ…勾玉ですか?」
 乱馬との記憶を覗かれたような気恥しさで、一瞬、戸惑ったあかねだが、すっと胸元から乱馬と取り換えた赤い玉と良牙に貰った黄色の玉を取り出すと、素直にそれらを宮子へと差し出した。

「あの時と色が違う…あの時の玉とは別物…ですね…。」
 宮子は差し出された赤い玉を見詰めながら言った。

「え…ええ。乱馬の奴が隠へ飛び込む前に交換していったんです。」
「ではあの黒い勾玉は?」
「乱馬が持っています。」
「そう…黒い勾玉は元の持ち主に戻ったんですね?」
「はい…。」
 あかねはキスのことを記憶から一緒に手繰り寄せて、少し頬を赤らめた。勾玉を無理やり交換していった乱馬は、刹那に唇を重ねてきたのを思い出したのだ。

「あなたが受けた験(しるし)の玉が本来の持ち主の戻って、良かった…。そして、この前の漆黒の勾玉も元の持ち主へと戻って良かった…。」
 そう言いながら宮子はにっこりと意味深にほほ笑んだ。
「はい?」
 その意図がわからなかったあかねは、不思議そうに宮子を見つめ返した。
「本来の持ち主に戻ったということは、勾玉に与えられた力が、ちゃんと正常に働くということです。」
 宮子は赤い勾玉をあかねに返しながら言った。
「はあ…。」
 気に無い返事を吐き出すあかねに、宮子は続けた。
「いずれわかります。この赤い勾玉の力はあなたを導いてくれるでしょう…。それから、そちらのお方。」
 にっこりと良牙に向かって宮子は微笑んだ。
「そなたもその胸にある黄色い玉を決して手放してはなりませぬよ。」
 とそう告げた。
 
 良牙がどこかの土産物屋で手に入れた黄色い勾玉のことを指したようだ。良牙はあかねに手渡したが、円にそそのかされてあかねを襲った時、あかねから抜き去り円が良牙に戻していたのだ。その記憶は一切良牙には残っていなかったようだ。
「あ…これは、元々あかねさんに差しあげたものなんですが…。あれ?何で俺の手元にあるんだろ…?」
 首を傾げながら懐から良牙は黄色い玉を出した。あかねに手渡した筈のものがそこにあるのが不可思議でならなかったようだ。
 それを握りしめて戸惑っていると、
「験(しるし)となる玉が無ければ、時の扉を通れませぬ。良いですね、そこのそなた。その玉を肌身離さず持っているのですよ。」
真剣な面持ちで宮子は良牙へと進言した。

「そうよね…。良牙君も帰れないと困るでしょうから…気にしないで持ってて…良牙君。」
 あかねはにっこりとほほ笑みかけた。
「あ…わ…わかりました。何で俺がこれを持ってるのかは知らないけど…俺だって、一人でこの世界に残りたくはないし…。持っておきます…。あは…あははは。」
 良牙は愛想笑いをしながら黄色い玉を懐へと押しこんだ。あかねへプレゼントしたお土産だったのに、また自分の元へと戻される、そんな複雑な少年の心理が良牙の上を渦巻いていた。
 むろん、鈍いあかねにそのような良牙の複雑な心が分かろうはずもない。

「それから、あかね媛…。これも持って行きなさい。」
 宮子は小さな竹筒をあかねへと差し出した。

「これは?」
 受け取りながらあかねは宮子へと視線を投げ返す。
「泣沢の泉の水です。この水には呪泉の呪いを一度だけ解呪(げじゅ)する力があります。あなたには必要でしょう?」
 そう言いながら意味深に笑った。どうやら宮子はこの水があかねに必要なことを見抜いていたようだ。恐らく乱馬の変身をこの水で解けとでも言いたいのであろう。
 いずれにしても、須弥山の池の水を浴びて、乱馬は女性化しているだろうことは容易に想像できた。呪泉の呪いが一度きりでも解けるということは、乱馬が男に戻れるということである。
「あ、ありがとうございます。」
 あかねは有り難く竹筒を受け取った。きっと使う幕があろう。それはあかね自身が一番良くわかっていた。
「そなたにも預けておきますね。そなたにも必要でしょうから…。」
 そう言って、宮子は良牙にも竹筒を手渡した。暗に良牙にも呪泉の解呪が必要になることを知っていたようだ。
「良牙君にも泣沢の水ですか?」
 あかねが不思議そうに振り返った。無論、あかねは良牙の変身体質は知らない。
「俺ってば汗っかきだから、水をしょっちゅう飲みたいから、た…助かります……あっははは。」
 と笑ってごまかしながら、良牙も有り難くその竹筒を受け取ってささっと胸元へと仕舞い込んだ。


「それより急いでっ!あまり残された時は多くはありませぬ。」
 宮子に促されて、あかねと桂郎女は宮から外へと出た。



五十二、甦った記憶

 外に出てみると、埴安池の水面が美しく照らされていた。電灯などない古代だ。水面を照らし出すのは、赤々と焚かれた松明の光だった。
 あかねたちについて来た、真神や阿雅衆の者たちが、松明を手に、池の畔に立って、暗がりの水面を照らしているようだった。



「あかねの姉御っ。ちゃんと準備は整えているぜ。俺たち真神と阿雅衆でさあ。」
 人懐っこい声をかけてきたのは、浅人だった。真神の少年だ。

 真神や阿雅衆たちが集まって、どこからともなく舟を調達し、池の水際に浮かべて、あかねたちが出て来るのを待ち受けていた。
 無論、古代の舟。エンジンなどは無く、人の手で漕ぎ出してゆかねばならない。
 月明かりがあるとはいえ、辺りは闇に包まれている。真神や阿雅衆の男たちが池を周りから照らしてくれているのは、心強かった。
「ほれ、良牙、舟を漕げっ!」
 爺さんはあかねたちが乗り込むと、そう言って命じた。
「たく…人使いが荒い爺さんだぜ…。」
 良牙は櫓を持つと、さっと漕ぎ始めた。
 が、そこは方向音痴の彼のこと。漕ぎ出したは良いが、方向定まらず、闇雲に小舟が進んで、岸辺から離れる様子が一向に無い。

「こら、どこへ向けて漕いでおる!池の中央はあっちじゃ!」
 思い余って、麻呂爺さんは良牙をポカンと杖で殴った。
「痛えっ!何しやがるっ!」
 良牙の怒声が響いた。彼は彼で必死で良かれと思う方向へと漕いでいるのだ。理不尽を感じて当然だ。
「このままじゃ、埒が明かないわ。良牙君、変わって。」
 あかねが良牙の櫓を取り上げて漕ぎ出す。
 無論、あかねとて、櫓漕ぎなど慣れているものではない。思いはあれど、一向に小舟は動かない。遂に痺れを切らした麻呂爺さんは、桂郎女に命じだ。
「ダメじゃこりゃ…。仕方ない。桂ちゃん。」
「わかりました、私が漕ぎますわ。あかねさん、櫓を私に。」
 麻呂爺さんに促されて、桂はあかねから櫓を受け取ると、慣れた手つきで櫓を漕ぎ始めた。

 スーッと波も立てずに、小舟は埴安池の真中へ向けて進み始めた。
 松明の火に照らされて、美しく浮き上がる。

「で?このまま池の真ん中まで行って、それからどうするんだ?」
 良牙が桂郎女へと問いかけた。
「勿論、水の中へ飛び込みます。」
 桂は静かに言った。
「飛び込むって…。まさか、隠へ行くのに水の中を通れとか言うのかよ…。」
「隠は別の空間に存在するからのー。それに、ほれ、乱馬も小治田宮の苑池に飛び込んだじゃろう?」
「ええ…まあ。でも…。」
 良牙は心配するようにあかねを見詰めた。
「水かあ…ちょっと厄介かもな。」
 そいう、あかねがカナヅチで全く泳げないことは、良牙も承知していたからだ。いや、それだけではない。自身も水に濡れると乱馬同様変身してしまうのだ。しかも、あかねに変身体質ということはひた隠しに隠し続けている良牙だった。
「あたしのことなら大丈夫よ…。桂さんや良牙君がついてるから…。」
 とっくに覚悟はできているのだろう。あかねはサラッと言って退けた。

「でも、この池の水の下に、その…隠へ通じる道ってのは、本当にあるんだろーな?」
 良牙が険しい顔を桂へと手向けた。

「ええ…阿射加の伝承によれば…多分。」
「多分って…随分、漠然としてんだなー…。気にくわねー…。」
 良牙が言葉を吐き出した。リスクを背負ってまで、池に飛び込むのは、正直、胡散臭かった。
「気に食わかろうが、信用して行くしか術はないわ…。」
 あかねは鏡を胸にギュッと抱え込んだ。
 何かを決意した様子だった。
「あかねさん?」
 あかねの表情が気になった良牙があかねへと視線を移した。

「あたし…思い出したの…。たった今…。」
「思い出したって…何をです?」
 突然に「思い出した」と口にしたあかねを、不思議そうに良牙が問い質した。一体、何を思い出したというのだろうか。
「東京から明日香に来た晩のことをね…。」
「明日香に来た時ですか?そもそも何であかねさんたちは奈良県なんかに来たんです?」
 良牙が問いかける。
「ええ…。あたしのお父さんの古いお友達がね、今度、飛鳥に民宿を開くから、そのモニターに来てくれないかってね…。それで、みんなで三泊四日の日程で東京から出て来たのよ…。
 で、最初の日の夕方にさあ、その家の庭先にあった、「鏡石」を割っちゃったのよ…あたし。」
「鏡石?」
 合いの手を入れながら、良牙や麻呂爺さんはその話に耳を傾けた。
「ええ。そう呼ばれていた置き石だったみたい。この鏡くらいの大きさで、丸くって…。
 あたしもね、割るつもりは無かったのよね…。こう、お風呂を沸かすための薪割りを乱馬たちと競っててさあ…力が余ってこうバキッとね、勢いでつい割っちゃったのよね…。
 まあ、民宿のおじさんは別に大事な石では無いからって、とがめずに居てくれたんだけど…。
 その時、民宿のおじさんに聞いたのよ。この辺りは昔、池の底だったってね。鏡石はその池の底にあったって言い伝えもあって…。今もう枯れ果てて存在しない池の名前…それが確か…埴安池だったの。」
「やはり…埴安池はあかねちゃんたちの時代には存在しておらんのか…。」
 麻呂爺さんは溜息と共にあかねを見詰めた。
「ええ…。とうの昔に枯れ果てたって、民宿のおじさんも言ってました。
 それに…無くなったのは何も埴安池だけじゃないですよ。水落遺跡は存在していましたけど、建物は姿かたちも残っていません。それから、須弥山のあった池も…小治田宮も…。多分、泣沢の泉も…。須弥山だって、土の中から掘り出されたくらいですからね…。この時代から千三百年経っているんですもの。」
「そうか…埴安池はおまえさんたちの時代には存在せぬか…。」
 そう呟いたまま、麻呂爺さんは押し黙ってしまった。
「鏡石をあたしが割ってしまったその晩のことだったわ。あの女性に逢ったのは…。」
「女の人…ですか?」
 良牙が問いかけた。
「人じゃなくって、幽霊みたい…。この世のものではないって自分で言ってたくらいだから。」
「ゆ、幽霊に逢ったんですか?あかねさん。」
「ええ…皆が寝静まった後、夜中にトイレに立った時…その巫女さんの霊に逢っちゃったのよ…あたし。」
「巫女さん?」
「ええ。千三百年ほど、そこに眠っていたって自分で言ってたわ。実体として見えたし、ちゃんと足もあったし、初めは信じられなかったんだけど…。名前は確か…依羅(よさみ)さんとか言ったわ。」
 あかねは、巫女の名前まで思い出した。
 あの巫女は、去り際に自ら依羅(よさみ)…確かにそう諱を告げたのだ。

「で、その依羅さんとかいう巫女さんの霊と何があったんですか?」
 良牙が興味津津問いかけて来た。
「ん…。あたしにお酒をすすめて来たわ。」
「お酒…ですか。まさかあかねさん…。」
「勿論、飲んでないわよ。まだ、お酒なんて飲める年じゃないし…。その巫女さんが自ら口で噛んで発酵させたっていうお酒なんて…不衛生だから、飲めても飲まないわよ。絶対に…。」
 あかねは手を振りながら笑って否定した。
「その巫女さんが言ってたのよねえ…。亀石が動いたから目覚めたって…。」
「亀石って…?」
「良牙君と乱馬が動かしちゃった亀の形をしたユーモラスな石よ。覚えてない?」
「そう言えば…そんなことがあったっけ…。」
 良牙は首を傾げて考え始めた。その様子を見ながらあかねは続ける。
「亀石が動いたから時の扉が開いたから私は目覚めたって…その巫女さんが言ってたわ。そして、あたしに印の石を持ってるだろうって…問い質してきたの。」
「印の石?」
「ええ…。この勾玉よ。乱馬があたしに買ってくれたものなの…。」
 首から下がっていた真っ赤な勾玉を見せた。
「今の今まで巫女さんと逢ったこと自体…忘れていたわ…。でも、多分、巫女さんと出逢ったことも、鏡石を割っちゃったことも、今、あたしがここでこうしていることに、関係してるのよ、きっと…。」
 ギュッと勾玉を握りしめながら、あかねは言った。
「…だから…。あたし、行きますっ!」
 あかねは決意を固めたようだった。

「なるほど…今のあかねちゃんの話で、この陰謀の全容が見えたわい…。」
 麻呂爺さんがふつりと言葉を投げた。

「どういうことだ?」
 良牙が爺さんを見やった。

「様々な思惑が絡んで、この事態を引き起こした…。全ては、漢王の不老不死への固執から事が始まったとな。」
「あん?」
「考えても見ろ。漢王の使いが不老不死を求めて、この八十島の国へ来なければ、何も始まらなかったろう。
 奴らが不老不死を求めなければ、日向国と結託することもなかったろうし、阿射加国も日向に滅ぼされなかったかもしれぬ…。が、漢王の不老不死への執念は、八十島の国を一つ、滅ぼしてしまった。それも、強大な「隠(いなば)」の龍神を祀った国をな。
 阿射加の巫女、ナルヒメはシロヒコ王の亡国の怨念を抱え、時を越えた。
 恐らく、彼女はその使命感から、何度にもわたって、時を越えてこの阿射加国の後に栄えた倭(やまと)の国を滅ぼすための代行者を求めたのじゃろう。不老不死の法というとてつもない餌を片手にな…。
 漢王の放った大陸の武人はこの八十島へ根付いた。が、彼らの脳裏から不老不死の憧憬と欲望が潰えた訳では無かった。彼らの末裔が、諸処の時代でナルヒメと遭遇し、稚媛様のような日蝕えの巫女を操り不老不死を求めて迷走を続けた…。が、いつも、何かの抑止力が働き徒労に終わった。恐らく、それが真相じゃろうて…。」

「その抑止力って?」
「これはワシの想像にすぎんが…産土(うぶすな)と呼ばれる土地の精霊たちや阿射加の伝承を血の中に濃く受けた佐留のような術者たちじゃろうな…。
 痕跡は残らずとも、恐らく、何某かの抑止力は働いた筈じゃ。厩戸皇子の時も、壬申の乱の時もな…。
 カヤヒメは幾度も失敗を繰り返し、何度も時を越え、代行者を探しまわった。
 …そして、遂にはあかねちゃんたちの暮らす未来世界へまで足を伸ばし…そこで文忌寸氏の末裔、円と出逢ったのじゃろう…。
 幾度にわたる失敗を重ね、それなり知恵を付けたカヤヒメは、謀略を張り巡らせ、今度は未来から時を越えてこの時代へと渡って来た…。
 じゃが、それを阻止して来た抑止力もまた、その強大な陰謀に牙を剥いた。
 『柿本佐留』の出現じゃよ。奴は漢王の流れ、それから阿射加の流れ、そのどちらとも血縁を結んでいる術者じゃ…。恐らく、彼は…己の掌の中で、この壮大な陰謀の幕を引こうとその命を賭けたんじゃろうよ…。」

「己の命の中で?何故、そんなことを…。」

「それは、彼が強大な力を持った術者じゃからじゃよ。同じく術者であるワシにはわかる…。奴は、阿射加の禍根を全て終わらせるのが、強大な力を持った者に与えられた使命と信じて突き進んでおったに違いあるまい…。」

「多分…麻呂様のおっしゃっていることは、真意に近いと思います…。」
 櫓を静かに漕ぎながら、桂が言った。

「ナルヒメ様は何度も時を渡り、その最期に文忌寸氏の末裔、円に出逢った。そこで二人の間にどんな盟約が結ばれたかまではわかりませんが…。円はナルヒメ様の計略に乗った。
 そして、隠(いなば)の扉が消滅していたあかねさんたちの世界から時を越えて、再びこの時代まで遡ったんじゃないでしょうか。」
 桂はポツンと言った。

「じゃろうな…。石神の苑池も埴安池も泣沢の泉もあかねちゃんの時代には無いと言っておったからな…。隠(いなば)へ続く道を開くため…こちらへ来た。」

「でも、何で俺たちまで、こっちへ連れて来られなきゃならなかったんだ?術を発動するためなら、何も部外者の俺たちを連れて来なくても…。」

「隠に至るには、それ相応の特別な贄(にえ)のような者が必要だったということじゃろう。」

「贄…っていけにえのことですか?」
 あかねはそれに対した。

「ああ…。今までの話から察するに、文忌寸円は、あかねちゃんたちのうちの誰かを、贄として差し出すため召喚しなければならなかった…。一度、ワシは奴らの口から「供物」となるという言葉を聞いたことがあるからな…。」
 麻呂爺さんは吐きだした。檜隈王女の式神と闘った折、彼女が乱馬目掛けて「供物」という言葉を投げつけたことを思い出したのだ。

「恐らく、隠(いなば)を開くためにはそれ相応の生贄が必要となる…。そして、この場合、その役割を担わされたのは…。」

「乱馬…。」
 あかねがハッとして麻呂爺さんを見た。

「そういうことじゃろうな。」

「ということは…乱馬の命が危ない…。」
 良牙も顔をしかめた。
「あやつめ、円に煽られるように自ら敵地へと乗り込んで行きよったからな…。」
「あの単細胞め…。」
 良牙はグッと拳を握りしめる。

「それを見越して…佐留め…。あやつがあかねちゃんをこっちへ引っ張ったようじゃな。」
 ニッと麻呂爺さんはあかねを見詰めて笑った。

「どういうことです?」

「乱馬を守る強い守護としておまえさんを導いたんじゃろう。なあ、桂ちゃん。」
 麻呂爺さんはポツンと桂へ声をかけた。

「ええ、そうでしょうね。」
 桂の頭もコクンと揺れた。

「さっきのあかねちゃんの話であかねちゃんを召喚したのが柿本佐留だとはっきりわかったからのう…。」
 爺さんはにっこりと微笑んだ。
「さっきの話って?」
「おまえさんが鏡石を割った時に遭遇したという、依羅(よさみ)…という巫女じゃよ。依羅は佐留の妻の名前じゃからな。」

 えええっと言わんばかりに、あかねと良牙は麻呂を眺め見た。

「依羅は佐留が石見国へ旅だった時に寄り添っていた女子でな…。その地で名前を轟かせた優秀な巫女だったとも佐留から聞いたことがあるのじゃよ。そうか…。奴め、依羅(よさみ)の呪力を利用して、彼女を伝令役としてこの埴安池へと魂を鎮めておったのか…。あかねちゃんを呼ぶために…。」

 あかねは揺れる水面を見詰めていた。

「奴は…妻の魂を境界へと封印したんだよ…。そして、隠(いなば)の扉を開こうとする者たちの抑止力になる巫女を、ここへと導いて来た…。
 最早、疑う余地は無い…。良牙と乱馬の二人を召喚したのは円じゃろう…だが、あかねちゃん…。おまえさんをこの世界へ導いたのは…佐留じゃ。」

「確かに前に一度、佐留様もおっしゃっていました…。何とかして益荒男(ますらお)の助けとなる巫女を一人召喚せねばならないと…。そして、佐留様はこの国を命を賭してでも守り切ると言霊にこめて、自らも時の狭間へと入る決意をされました。
 私の記憶を消し去り、誰にも悪用されぬようにということも忘れずに…。そして、記憶を失った私を、あなたへ…麻呂様へと託されたのです。」
 桂郎女は静かに言葉を継いだ。
「でも、おまえさんの記憶を消せなかった部分もあったようじゃがな…。」
 麻呂爺さんはフッと笑った。
「え?」
「桂ちゃん…。おぬしは阿射加の伝承者と言う身分もさることながら…伊賀皇子の血も受けておるんじゃろう?」
 桂郎女は一瞬黙した。恐らくその沈黙が全てを物語っているのだろう。
「どうして…それを。」
 ポツンを言葉を投げた。
「いや、何じゃ…。おまえさんが円に操られていた時、ワシに対する憎悪の瞳は尋常では無かったからのう…。」
「確かに…。私は伊賀皇子の庶子の娘です。母の名は語りませんが、伊賀皇子の血をこの身に受けています…。」
「だから、円は伊賀皇子を大和朝廷へ差し出したワシへの憎悪の感情を利用して、おぬしを術へ陥れたんじゃろうがなあ…。」
 麻呂爺さんはフッと笑った。

「亀石が動いた気配を察した佐留様が術を発動させて、時の狭間へ入ってしまわれて以来、佐留様は現し世に帰って来られませんでした。そして、円は過去から時を飛び越えて過去へとやって来てしまった…。それがどういう意味合いを持つか、麻呂様にはおわかりかと存じます。」
「時の狭間で佐留は円たちを一戦を交えた…そして奴は…。」
「恐らく、そのまま時の狭間へ閉じ込められたか、或いは佐留様は既に…消滅したのかも…。」
 自分で言って、桂は黙り込んだ。

 その背中をバシンと一つ、麻呂爺さんは叩いた。

「何、弱気になっとんじゃ?桂ちゃんらしくない…。奴なら大丈夫じゃ。生きているとまでは言わぬが、奴の魂は恐らく…今、乱馬の持つ剣璽と共に在るじゃろうよ。」

 へっと言うような顔を桂は手向けた。

「おまえさんが憎しみをたぎらせてワシらと闘っておったとき…確かに感じたんじゃ。乱馬が持つ真布津の剣璽から奴の気配が流れて来るのをな…。
 奴の魂はまだ脈々と波打っておる。このままでは消滅せんとな。
 奴の強い意志と言霊が、まだ、力を持っておる証拠じゃよ。じゃから…ワシらはそれぞれの役目を必死で果たすまでじゃ。」

「そうですね…。倭国(やまと)は言霊の国でしたね…。強い意志の言霊は力を持ち、困難に打ち勝つ…。佐留様も日頃からおっしゃっていました。」


 闇の中で静かに舟が止まった。真ん中に至ったようだ。暗闇の中で、水面が松明に照らし出されて、ゆらゆらと揺れていた。



五十三、池の底

「さて…この辺りが埴安池の中心辺りですね。」
 桂郎女はそう言って、そっと櫓を舟へと置いた。
 池の程良い真ん中辺り。
 桂は櫓をそっと麻呂爺さんへと託した。
 櫓を受け取りながら、麻呂爺さんはコクンと頷く。
「爺さんは行かねえよな?」
 良牙が確認する。
「ああ…。ワシには隠へ渡る術は無いからのう…。飛び込んだところで辿れんわい。それに、老いぼれじゃからのう…。辿れたところで足手まといになるだけじゃ。」
 そう寂しげに笑った。
「けっ…こんなときだけ老人面しやがって…。まあ、良い。」
「じゃあ、お爺さんはこれから…?」
「小治田宮へ戻るよ。首様も安宿媛様も待っておいでじゃろうからのう。」
 ふっと天の香具山の方角を見た。チラチラと松明の灯りが輝いて見える。
「それが良いんじゃねえか?」
 良牙も静かに言った。

「後はおぬしらに任せたぞ。」

「ああ、ドンと任せやがれ。」
 良牙は胸を叩いた。
「では、この辺りに、道を開きます。皆さん準備はよろしいですか?」
 桂が静かに澄み渡る声で告げた。

「ああ。」
「はい。」
 良牙もあかねも水に飛び込む勇気を奮い立たせる。良牙は豚になる、あかねは泳げない。それぞれの禍根を胸にぎゅっと抑えつけ、その時を待つ。
 水面は舟に灯されたあかりで、キラキラと輝いて見える。
 本当に、この下に隠(いなば)へ至る道が開けるのか。正直疑問は付きまとう。が、迷っている暇は無い。

「じゃあ、一斉に飛び込みますよ。」
 桂は発破をかけた。
 そして、何やら胸の前で印字を切る。
「阿射加の賽の巫女、阿雅桂子(あがのかつらこ)がその諱により命じる…隠(いなば)へ至る道、速やかに恐(かしこ)みて開けーっ!」

 池の底からその光は輝き渡った。
 まるで、あかねたちを飲みこむように、大波となって渡って来る。


「行くぜっ!あかねさんっ!」
「ええっ!」
 良牙の声を合図に、あかねはその光の渦の中へと身を投じた。無論、桂も一緒だ。

 ごぼごぼと大きな泡が音を立てながら、あかねたちの身体を池の中へと引き込んで行く。
 その渦の中へと身を飲まれまいと、必死で小舟の端へと麻呂爺さんはしがみ付いた。

 ザブーンッ!

 大きな水柱と共に、あかねたちの姿は、影一つ残さず、消えて行く。

「頼んだぞっ!この国の未来はお主たちの腕一つに、託したぞっ!」
 消えゆく渦に、麻呂爺さんはそう呼びかけた。



 いったいどのくらい、水の流れへと身を任せていたのだろう。
 水の中だというのに、息は出来た。よく見ると、大きな泡が身体を包みこんでいる。辺りを見回すと、他にも大きな泡が幾つか寄り添うように存在していた。
 恐らく、良牙と桂郎女を包んで、同じ所へと導いているのだろう。



 不思議と恐怖は無かった。

『絶対に、乱馬を助けるっ!そして、陰謀を打ち砕き、本来居るべき世界へ帰るわっ!』
 落ちて行く中であかねはそんなことを考えていた。

 と、急に泡が弾け飛んだ。
 
 バチンと音を発てて尻もちをついた。

 ピーッ!
 近くで子豚の鳴き声が聞こえたような気がした。Pちゃんの声に似ていた。
「Pちゃん?…。」
 あかねは呼んでみた。

 実はこれ、水に飛び込んで良牙が変身した良牙が発した声だった。あかねはまだ、良牙とPちゃんが同一生物だと知らなかった。この鈍い乙女は、未だ、良牙に変身体質があることを知らずに居た。
 幸い、辺りは薄暗かった。地の中に居るような空間に弾き出されていた。
 当然、泡からはじき出された良牙は、必死で宮子がくれた竹筒の水を浴びていた。そして、瞬時に男に戻ると、何食わぬ顔でぱぱっと衣服を羽織った。
 桂郎女も二人の傍らに降り立った。

「ここは…。」

「ここは隠(いなば)と現を結ぶ狭間の世界です。」
 落ちつき払った声で桂がそう吐き出した。
 光はどこからも降りて来ない、音もなき無味無臭の空間がそこへ広がっている。どのくらい広さがあるのかさえ、見当がつかない。数メートル先は闇で覆われていて、己が居る場所にだけ、薄らと光源がさしている。
 つまり、自分の姿と良牙や桂の姿だけは見えている。
 摩訶不思議な世界だった。

「ほら、あそこを御覧なさい。」
 桂郎女は少し先を指差した。

「あれは…。」
 良牙もあかねも目を見張った。
 桂が指差した方向、ここから数百メートルもあろうかという空間に、そいつは誇らしげに白い花をたわわに揺らせていた。まるで一つ一つの枝葉が生きているかのように、うねっている。
「あれは…夜見の桜です。」
「夜見の桜…。」
 あかねは反すうした。
「夜見の桜って、確か稚媛が翳していたあの鏡に映っていた…。」
 良牙の声にコクンと桂は頷いた。

「あれは人の気や魂を食らう妖木です。」
「人の魂を食らう…。そうだ、思い出したぜ。義法とかいうタカビーなおっさんが稚媛をたきつけて、敵味方構わず鏡から魂を食らってた…あの忌まわしい桜の木か…。」
「あの桜は現と隠の境界に咲く妖木。あの木につけた花が開き切った時…隠の扉は開くのです…。だから、ここで気を打っては奴らの思う壺…。」




『汝らどこから来た…。』
 

 どこからか低い声が聞こえて来た。勿論、聞き覚えのない低い男性の声だ。
 ハッとしてその声のする方向を顧みた。
 と、そこには亀石がそびえ立っていた。 
 明日香や苑池で見た亀石の数倍はあろうかという、巨大な岩石だ。
 半開きになった瞳を、あかねたちの方へ向けて手向けた。

「あれは…亀石…。」
「にしても、でかいっ!」
 圧倒される大きさだった。

『招かれざる者はここから去れっ!』
 亀石は唸り声をあげた。

「嫌だと言って、簡単に引き下がる気はねえよな…。」
 良牙が身構えた。

『立ち去らぬなら、ここで潰えるが良い…。』

 その声と共に、空間がグワンと揺らいだような気がする。
 あかねたちの立っている空間が不気味に雷同し始めた。
 

 ゴゴゴゴゴと時鳴りが響き渡る。
 亀石の口がばっくりと開いた。
 と、その中から、そいつらはぞろぞろと這い出してきた。
 亀石の口から吐き出されて来る異様な物体。
 目を凝らして良く見ると、それは人体ほどもあろうかという蟲たちだった。もぞもぞと這いまわりながら、あかねたち目掛けて押し寄せ始める。
 芋蟲やゲジゲジ、ムカデの類だ。昆蟲というにはゲテモノ過ぎる。もぞもぞと這い出しながら、あかねたちへと指し迫る。
 甲冑も何も武器がないあかねたちはたちまちピンチへと追い込まれる。

「いやっ、気持ち悪いっ!」
 あかねが後ずさりながら叫んだ。
 武人たちならまだしも、気味悪い地を這う蟲たちばかりだ。あまり婦女子が好む物ではない。

「爆砕点穴っ!」
 良牙は亀石目掛けて打った。
 バスンと音がしたが、亀石は微動だにしない。爆砕点穴が効くような構造物ではないようだ。
 人差指は、地面にめり込むことも、岩肌にうがたれることも無かった。少しばかり、指先が痛んだ。
 
「ちっ!効かねえか…。」
 指先をさすりながら、良牙は憎々しげに吐き出す。
 
 その間にも、容赦無く蟲たちは湧き出してくる。
「仕方ねえ…。一つ一つ奴らを打つしかねえか…。」
 良牙は身構えると、蟲たちへ向けて気弾を解き放った。

 ドオンッ、ドオンッ!

 気弾を浴びた蟲たちは、バラバラと音をたてて粉砕されていく。羽や手足がもげ、虚空へと消える様は、あまり気持ちの良い眺めではない。

「こいつらには攻撃は有効か…。」
 良牙は襲い来る蟲たちへ向かって、容赦無く気弾を浴びせかける。

 桂は手で印を組み上げ、無視目掛けてそいつを解き放った。得意の陰陽術を仕掛けているのだろう。面白いほどに、組んだ手から刃の気弾が飛び出し、蟲たちの巨体を切り裂いて行く。
 
 悲鳴をあげることもなく、ただ、無言で蟲たちは
 多勢に無勢。武器も無ければ防具も無い。が、良牙と桂はそれでも諦めずに攻撃に身を転じた。
 良牙は爆砕点穴、桂は陰陽術を駆使して蟲たちを攻撃する。良牙や桂の攻撃に、蟲たちは声を張り上げることも無く、ただ、無言で散っていくのだ。
 あかねはというと、足元に押し寄せてくる蟲を、得意の蹴りで粉砕するのがやっとだった。奴らの不気味な姿に、拳を突き上げるのも、気が引けた。

「くそっ!こうしている間に、隠への扉が開いちまう…。どうしたらそれを阻止出来る?」
 攻撃を打ちながら良牙が唸った。
 彼のいうとおりだ。このままでは埒が明かない。が、具体的にどうすればよいかは闇の中だった。

 と、あかねの瞳にはるか先の夜見の桜の幹が光り輝いているのが見えた。何かを指し示しているように赤く淡い光を放って差し込んで来る。数百メートルは距離がありそうなのに、その光はこちらへと集中してくる。
 蟲たちを避けながらあかねはその光を見詰めた。

「あれは…。あの光は一体…。」
 

「あかねさんっ!」
 桂郎女があかねへと声をかけた。
「何です?」
 あかねは咄嗟に桂へと返事を投げかけた。
「あの光が見えますね?」
 確認するように桂はそう問いかけた。
「ええ…。あれって一体…。」
「恐らくあそこに乱馬さんがいます…。」
「乱馬が?」
 あかねはハッとしてその方向を見た。
 桂の声に答えるようにその光は、何度か瞬きを返して来る。明らかにこちらに何かを指し示そうと懸命に光っているように見える。
「あかねさんっ!あなたならあそこまで辿れる筈。」
 桂は迫りくる蟲たちへ術を浴びせかけながら必死であかねへと進言した。
「行くってどうやって?武器も何も持っていない状態でこの蟲たちをかいくぐるなんてこと…。」
 あかねは戸惑いながらそう言いかえしていた。いつになく弱気な言葉だった。
「いいえ、あなたなら行けますっ!宮子様の託されたその鏡は蟲たちを寄せ付けないみたいですっ!」
「え?鏡…。」
 ハッとして胸を見た。そう言えば、蟲たちはあかねには一様に襲いかかって来ない。さっきから足元まではもぞもぞと近寄ってくるものの、何故かそれ以上這い上っては来ないのだ。明らか、あかねを避けている様子だ。桂には、それがわかったようだ。

「これって鏡の効果なの?」
 あかねは桂へと問いかけた。

「多分…そうです。その鏡は宮子様が託された阿射加の鏡…ということは、恐らくは祭祀のための鏡です。だから、邪な物体は近寄れない…。だから…あかねさんっ!あそこまで行ってくださいっ!あそこへ行けば、きっと…何とかなる筈です。
 私にはわかるんです…。あの光は…あかねさんの持つ力と惹き合っています。だから…。」
 桂は息を切らしながらも、懸命にそう叫んだ。


「そうよね…ここでじっとしていたって、何も始まらないわ…。この状況を打破出来ないと…円の思う壺。この国の過去も現在も未来もあいつの好きにさせられない…。」
 あかねはギュウっと拳を握った。
 ともすれば足がすくみそうになる大量の蟲たち。だが、気持ち悪いなどと言っている場合では無い。
 それに、桂が言うように、あの光はここへ来いと言っている。
 光の元に乱馬が居る…そう思った。

「あたし…行きますっ!」
 あかねはそう吐き出すと、ダッと駆け出した。

 無我夢中である。
 足元だけならまだしも、空にも前方にも後方にも、ゴソゴソと巨大な蟲たちが大挙として押し寄せてひしめいている。気持ち悪がるなと言う方が酷だろう。
 が、皆一様に、牙を剥いてあかねには襲っては来ない。何故か寸でのところであかねを避けていく。面白いほどに。
 あかねは駆けた。懸命に。途中、何度も転びそうになり、蟲たちの上へと倒れそうになったかわからない。が、かろうじて踏ん張って駆け抜ける。
 が、いつまで駆けても、桜の木には程遠かった。何故か距離も縮まらない。
 さすがのあかねも息が途切れて来た。

「変ね…。どうして近くまで行けないの…。」
 走りを緩めて疑問を投げかける。
 夜見の桜はそんなあかねをあざ笑うように枝葉をゆらゆらと漆黒の空間へと揺らめかせている。

「何かカラクリでもありそうね…。考えるのよ…あかね。」
 あかねは立ち止った。ぞわぞわと蟲たちが傍を駆け抜けて行く。
 どこをどう通って行けばあの夜見の桜の元へ辿りつけるのか。
 ともすれば、くじけそうになる心をぎゅっと引き締めて、懸命に考えを張り巡らす。

「恐らくこの空間はみせかけのもの…。本当は距離なんて無いのよ…。でないと、見えている桜の木に近づけない筈がないわ。
 でも、全く近づけないってことは…もしかして、あの桜はこの空間の次元とは別の空間にあるのかもしれないわ…。例えば、投射機で映し出された映像のようなものを見せられているのかもしれない。
 妖の映像…。でも…光は渡って来る。揺らめいている…。光…。」

 ハッとしてあかねは光源を見詰めた。
 何故にその光は一途に己の方向へ射してくるのか。
 その時、初めてあかねは悟った。
 その光はある一点を目指して射して来る。そう、あかねの胸元だ。
 胸元目掛けて射していた。
 その光に呼応するように、もう一つの光が輝き渡っていた。

「勾玉…この紅い勾玉へ向けて光は射しているわ…。」
 少し熱を帯びたそこには、あの赤い勾玉が象られたからだ。そう、乱馬が明日香で買ってくれたあの茜色の勾玉だ。
 と、その紅い勾玉は、ある一方向を照らし始めた。光が飛んで行く方向に、あかねの瞳は釘づけられた。
 蟲たちが大挙として這い出して来る方向。その方向を光は指し示している。まるで、あかねにそこへ行けと言わんばかりに。
 
 その光の照らす先から、君の悪い蟲たちが、ゾロゾロと這い出していた。

「そうか…。亀石…。あの亀石の口があちらへ渡る近道…。岐(ちまた)なのよ…。だから、この蟲たちが溢れだす場所は、きっと、あの夜見の桜に繋がっているんだわ。」
 目からウロコが取れた瞬間だった。
 
 次の瞬間、あかねは一目散に蟲たちが大挙として湧き出してくる方向へ向かって走り出した。

「行くわっ!あたし…。円っ!絶対にあんたの好きにはさせない!」

 その一心で駆け抜ける。
 グワンと空間が一瞬揺らめいたような気がした。だが、あかねは臆することなく、亀石の大口目掛けて、勢いよく飛び込んで行った。



つづく




一之瀬的戯言
 この第十八話は書き直すこと数回…。情けないことに、そのまま手が止まってしましました。
 風呂敷き広げ過ぎちゃったんだよなあ…。
 でも結局、一番最初に考えたプロットへと話は流れていくのでありました。ちゃんちゃん!


ちょこっと解説
依羅郎女(よさみのいらつめ)

石見国へ赴任した時に柿本人麻呂に寄り添っていた女性、いわゆる、現地妻だったのではないかと言われています。
萬葉集には数首、彼女の詠んだ歌があります。

 今日今日と我が待つ君は石川のかひに交りてありといはずやも

訳 今日帰るか今日帰るかと待つ愛しいあなたは、石川の峡(かい)で貝にまじってしまったのですね。

境界を現す「峡」と海の底に沈む「貝」とをかけたこの歌は結構有名ですから、柿本人麻呂とセットで古文で習った方もいらっしゃるかも…(私もその口なんですが…)
人麻呂が石見国で死んだときに偲んで歌われたと言われています。

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