◇飛鳥幻想
第十七話 夜見の桜
四十八、夜見の開花
辺りの闇に隠れている嫌な臭い。黒子豚に変化する良牙にはその臭気が、狼の鼻を持つ真神の連中と同様、手に取るようにわかった。
「来るぜ…死人の匂いをまっとった嫌な客人が…いや、化け物なのかもな。」
漏刻楼の建物が焚かれた薪の炎によって、不気味に闇に浮かび上がっている。その傍に、じっとこちらを見据えてくる複数の瞳があった。恐らく、円が仕掛けてきた「刺客」だろう。武器を手に、こちらの様子をつぶさに見詰めている。
その視線の中に、ひと際異彩を放つ視線があった。その氷のような冷たい気配に、覆わず良牙の背中がゾクッとなった。
良牙が促した先を、厳しい目で見詰めながら麻呂も声をかけた。
「貴様も居るのじゃろう?そんな隅っこに隠れておらずに、前に出てきたらどうだ?義法よっ!」
険しい顔を暗闇の向こうへと手向けながら、叫んだ。
ざわざわと風が通り抜けて行くと、ザックザックと足音を響かせて、背後から一人の男が前に現われた。
結構、ガタイが良い中年の男が現れる。麻呂爺さんと同じように、狩衣風な衣装を装着した男だった。暗がりでよく色目は見えなかったが、錦糸で作られた上等な衣装に見えた。
「ほう…。余が背後に居ることがわかったか、麻呂様よ。まだまだ、術者としての眼力は衰えていないと見える、褒めて使わそう、ふふふ。」
そいつは憎らしげに高飛車な言葉をかけて来た。
「何だあのいけ好かねえオッサンは…。」
良牙がもそもそっと麻呂爺さんへと声をかけた。男の物の言い方が気にくわなかったようだ。
「義法という今の陰陽寮の長(おさ)じゃよ。新羅帰りの陰陽術者じゃ。」
麻呂じいさんは瞳を動かすことなく、良牙の問いかけに答えた。
「そうだ。我が名は義法っ!そこの麻呂より数倍強い、陰陽師のなっ!」
ブンと麻呂爺さんは式術を放った。
シュッと音がして、良牙たちの背後へと光の輪が飛ぶ。
「ぎゃーっ!」
という複数の声がして、バタバタと人が斃れる音がした。
「そちらの影にも潜ませていたことを、良く、悟ったな、麻呂様。腐っても、陰陽寮を任されていただけのことはあるな。」
「フン、貴様のやることなど、お見通しじゃわい。」
麻呂爺さんは侮蔑した表情で笑い飛ばした。
「年寄りは年寄りらしく、大人しくしておれば、少しは長生きができたものを…。」
「何のッ!若い者にはまだ負けはせんっ!」
麻呂と義法は互いに対峙しながら、言いあいを始める。
「俺、良く分かんねえが…。あの二人、争ってるのか?あかねさん。」
良牙がこそこそとあかねへと問いかけた。
「ええ…みたいねえ…。何でも、麻呂爺さんが先代の陰陽寮の頭なら、あの、義法とかいう人がその後を受けた当代の頭みたいで…。で、二人とも、陰陽師みたいよ…。凄腕の。」
「ふーん…なるほどねえ。新旧陰陽師の争いってことか?」
良牙は両者を見比べながら言った。
「口の減らぬ爺さんだよ…。まあ良いわ。…貴様らの命は最早、我が手の中だ。どうあがこうとも、その事実は変えられぬ。大人しくしろ…と言っても、その気はなかろう?」
義法は麻呂へと対した。
「当り前じゃ。ワシの命の輝きを貴様のちんけな野望へくれてやる気など、さらさらないわいっ!」
ペッペッとツバキを吐きながら、麻呂爺さんはそれに対した。
「まあ、そう言うとは思ったが…だからと言って、こちらも引き下がるつもりもないがな…。
気の毒だが、稚媛の餌食になって貰おうか…。」
そう言いながら、ニッと笑った。
「おまえさんの狙いはそれか…。」
麻呂爺さんは身構えた。
「なあ、爺さん、その稚媛ってあの小さな女の子のことじゃねーだろーな?」
稚媛を知らない良牙が、ぼそっと麻呂爺さんに問いかけた。
先ほどから異様なくらいの殺気、いや、妖気をふつふつとふりまきながら、妖しい視線投げかけている幼女が只者とは到底思えなかったからだ。黒子豚に変身できる良牙の持つ野性のカンが、激しく警鐘を鳴らしてくる。
その幼子が、敵の中で一番厄介な相手だということは、麻呂爺さんの解説無しでも良く分かった。恐らく、義法という男などとは比べ物にならないくらい、嫌な気の持ち主だった。
「ああ…稚媛様とはあの子のことじゃ。」
「何者なんだ?あの子…。周りにまとった気が尋常じゃねーぞ。」
「良牙、貴様にもわかるか。」
「あ…ああ。」
「稚媛様は…忌まわしき運命の元に生まれた、巫女媛(みこひめ)さまじゃ。ワシも、あまり相手にはしたくは無いが…この場はそうも言っておられんのう…。気をつけろっ!良牙殿。あやつは、人の魂を抜きとる術を心得ている。」
「人の魂を抜きとるだあ?」
「そうじゃ、稚媛様に魂を握られれば、確実、死に至らされる…。」
「じょ…冗談きついぜ。」
「ワシは冗談など言ってはおらんよ。残念ながらなっ!」
笑っている義法の前面に進み出て、稚媛は良牙たちへとじりじりと迫って来た。無論、眼の焦点は合っていない。
「けっ!子供を相手に闘うのは気が引けるが…手加減とか悠長な事は言ってられそうにねーな…。」
良牙も身構えた。
ざわざわと風が吹き抜けた。
稚媛の袂(たもと)で、首から吊り下げられた「鏡」が妖しげに焔を揺らめかせている。
「寄こせ…わらわに…そちらの無垢な魂を…。寄こせ…。」
稚媛はとっくに平常心を失っているらしく、ぶつぶつとそんな言葉を吐き出していた。
「あかねちゃん、ワシから離れるなよっ!」
そう言い放った麻呂の声を合図に、義法と稚媛…そして彼らを取り巻く一団からの攻撃が始まった。
「ふんぬっ!」
麻呂爺さんは勾玉を束ねた首飾りを右手に持ち、印を結んだ。
「この結界の中へ。」
麻呂に促されて、あかねは麻呂爺さんの背後へと回りこんだ。
ひょおおおおーっ
空をかする音がして、あかねの傍を妖気が駆け抜けていった。間一髪、妖気をかわして、あかねは結界の中へ飛び込んだ。
ザザザッ!
今度は義法が攻撃を仕掛けてきた。稚媛とは違い、直接的な攻撃を仕掛ける。麻呂爺さんは身じろぎもせず、印を結んだまま、攻撃に耐えた。何事にも揺るがない、そういう決意で、攻撃の矢面に立つつもりなのだろう。
ドオーンッ!
自分の前で噴煙を上げながら気砲が弾け飛んだ。結界に護られているとはいえ、万全ではない。麻呂爺さんの小さな身体を気焔が駆け抜けた。
「お爺さんっ!」
じっと攻撃に耐える麻呂を見て、あかねは思わず声を荒げた。
「動揺するなっ!ワシなら大丈夫。それより、あかねちゃん、絶対にワシから離れなさんなよっ!」
と麻呂はあかねへと声をかけた。
「けっ!やられっぱなしじゃねーぜっ!」
良牙が飛び出して、攻撃をしかけた。
「爆砕点穴っ!」
人差指を地面へ突き立て、地面を砕き、襲ってくる敵へ向けて攻め立てた。
バキバキバキッ!ドガッ!
良牙によって粉砕された地面が踊り上がる。
「ぐわあああっ!」
石や岩が当たった敵陣の兵士たちが、バタバタと地面へと崩れ落ちる。と、その横に立っていた稚媛の瞳が妖しく光った。
「ギャアアアアアッ!」
痛みとは違う、もっと鮮烈な悲鳴が、轟き渡った。
その有様をみて、良牙はギョッとした。
稚媛がうすら笑いを浮かべて、倒れた男たちへと襲いかかったのだ。稚媛が天空へ翳した鏡が妖しく光る。その鏡へ向けて、男たちの身体から蒼い光が吸い込まれ始める。
「や…やめてくれええっ!」
「ワシらは味方ではないのかあぁぁぁっ!」
声を荒げながら、男たちの顔が瞬時に歪む。と、そのまま、ドオッと地面に前のめりに崩れ斃れる。
バタバタバタ…。
一人、二人では無い。少しでも良牙の仕掛けた攻撃に、傷ついた兵士たちが、数人単位で折り重なるように倒れて行くのだ。
信じられない光景だった。
「おおお…。華麗じゃ…。今際の悲鳴…恐怖…どれをとっても、甘(うま)し魂じゃっ!」
そう叫びながら、ケタケタと笑っている。
「良牙、おまえさんも結界の内側へ入れっ!」
外に居た良牙へと、麻呂爺さんは叫んだ。
「お…おう。」
あまりの異様さに、流石の良牙も度肝を抜かれてしまい、身を翻すと、ザザッと結界の内側へと転がりこんだ。
あかねはあまりのむごさに、思わず視線を外した。
「あの子…味方を容赦なしに…。」
良牙もグッと拳を握りしめる。
「下手をすると、ワシらとて、あの男たちのようになるぞ。」
麻呂爺さんが声を落して二人に言った。
その目の前で、鏡を翳しながら、稚媛は嬉々と笑っている。
「あんまり小さい子に手荒なことはしたくねーが…。そんなことも言ってられねーか…。」
良牙も頷く。
目の当たりにしているのは、既に幼女とは言い難い化け物だった。
次々と鏡へと吸い込まれて行く、敵の兵士たちの魂。バタバタと倒れる躯体を見ながら、稚媛は笑っている。
結界の外側に居る敵方の殆どが、稚媛の餌食となった。
稚媛は一通り魂を吸い出し終わると、はっしと、麻呂が張った結界の方へと向き直った。
妖しい瞳が赤く輝く。魔性の瞳だった。
ドクン…。
足元で結界が揺らめいた。
「結界か…無駄なことを…。」
義法がふふっと笑った。その前で稚媛は唸り声をあげる。
「わらわの呪縛からは逃れられぬ…。貴様らの魂を寄こせっ!」
その横で声を荒げる稚媛。とても、子供の発する声とは思えなかった。
「ぐぬぬっ!」
麻呂爺さんは必死の形相で、結界陣を強くした。
ビリビリと結界の境界辺りで空気が振動する。
結界を突き崩そうとする稚媛の力と、護ろうとする爺さんの力。
それが拮抗しているのだ。
「このままじゃ、埒が明かねえな…。」
結界の内側からは直接攻撃は出来ない。良牙は背後からため息交じりで呟いた。
「もしかして…あの鏡を壊せば、何とかなるんじゃねーのか?爺さん。」
「ああ、壊せたらな…。じゃが、どうやって壊す?」
爺さんは諦め顔で言った。
「ワシは結界を保つので精一杯じゃ。しかも、結界を出れば、稚媛の餌食になるのは明らかぞ…。」
「結界を出なけりゃいいんだろ?だったら…。気技を使うまでだっ!」
良牙は「はあっ!」と気合を込めて、息を吸った。そして瞬時に体内の気を己の右手へと集めた。
「行くぜっ!獅子咆哮弾ッ!」
溜めていた気を一気に稚媛へと解き放った。
ドオオオン!
良牙の気が稚媛の上で炸裂した。
バラバラと稚媛の身体から鏡とそれを結わえていた紐が飛び散った。
「でやああっ!」
続けざまに、鏡へ目掛けて、幾つもの小さな気を打ち飛ばす。
バリンッ!バリンッ!パリンッ!
稚媛の身体から弾き飛ばされた鏡の鏡面にヒビが入り、砕け飛ぶ。
「やったか?」
良牙が自分の放った気の威力を見ようと、稚媛の方を見た時だった。稚媛が笑った。良牙を見て、してやったりという表情を浮かべた。
あまりに不敵な笑みを浮かべたため、鏡を弾き飛ばした良牙の方が、不気味になった。
何よりも、傍で見物を決め込んでいた義法が慌てている様子もない。あたかも、予定の行動だと言わんばかりに、笑っていた。
ほどなくして、パラパラと鏡の破片が地面へと落ちて来た。
太陽の輝きはとっくに無くなったというのに、キラキラと鏡面が輝いて見えた。不自然な程に。
その異変に最初に気付いたのは麻呂爺さんだった。
てんでばらばらに飛び散ったように見えた鏡の破片が、ある意図を持っていることに、この長けた老人は気付いたのである。
鏡の欠片が、爺さんの張った結界へとなぞるように降り注いだ。キラキラと爺さんの結界の上へと鏡の欠片が張り付いた。
「しまったっ!結界破りの咒法か?」
爺さんの叫び声と共に、ぶわっと地面から光が上がった。そう、散らばった鏡の欠片から発せられた輝きだった。
と、まき散らされた鏡の欠片が、一斉に浮き上がった。
「え…。」
鏡の欠片の動きとと共に、結界の中に居た筈の、あかねの足元も一緒にフワッと浮き上がる。
「あかねちゃんっ!」
「あかねさんーっ!」
麻呂爺さんと良牙の叫び声が響き渡る。
その声を下に、あかねの身体がゆっくりと上昇し始めた。
「ふふふ、捕まえた。もう逃がしはせぬ。」
稚媛は得意げに手を振り上げた。
その手の動きに合わせるようにバラバラになっていた鏡の欠片が合わさり始めた。
ひとつ、また、ひとつ。意志を持っているかのように、繋がって行く。
見る見る間に修復されていく。いや、それだけではない。鏡は直径一メートルもあろうかという巨大鏡へと変化した。
その鏡の中心に向かって、暗黒色の歪んだ渦巻きが回りはじめていた。鏡面をかき混ぜるように、ゆっくりと。そして、ゴオゴオと不気味な音をたてながら回っている。
その鏡面の前へとあかねの躯体がゆっくりと差しあげられていく。勿論、手足をバタバタと動かして、抵抗を試みるも、その力には抗えなかった。
「させるかーっ!」
良牙が稚媛目掛けて気砲を打ちこんだ。彼女を攻撃すれば、あかねを助けだせる、そう思った咄嗟の攻撃だった。
が、良牙の目論見は無駄に終わった。
気砲は稚媛の方へは飛ばず、バリバリと音をたてながら、横の鏡面の渦へと吸い込まれていくではないか。
「何っ?俺の打った気砲が呑み込まれて行く?」
良牙は声を荒げた。
「良牙っ!気砲を打つのはやめろっ!」
異様さを察したのか、麻呂じいさんが良牙の腕をがっと掴んで、止めた。
「爺さん?」
急に止められて、良牙は怪訝な顔を麻呂爺さんへと手向ける。
「それ以上気砲を放っては、稚媛の思う壺じゃ。」
爺さんは首を横に振りながら良牙を留めた。
「稚媛の思う壺?」
良牙が顔を挙げると、稚媛が笑っていた。
「ふふふ、石上麻呂の言う通りじゃ。見ろ、おまえの満ち足りた気砲を与えて貰って、鏡の向こうの夜見の桜が喜んでいるぞ。」
義法が笑った。
「夜見の桜?」
ギョッとして良牙が鏡を見やった。と、鏡の渦がふっと消えて、そこに一本の桜の大木の姿が映し出された。幾重にも闇の天へと枝葉を広げ、たわわに膨らんだつぼみをつけていた。開花寸前の花たちだ。その花枝が良牙の撃ち込んだ気砲の風を受けたのか、ゆっくりと揺れていた。
そして、揺れが収まると、ふっと少しばかり樹枝の輝きが増したようにも思えた。
それは、あまりに美し過ぎる、妖艶な光景だった。
鏡の向こう側の闇に浮かぶ、幽玄の世界。
「今の気砲で、また花咲く今際(いまわ)に近づいた。」
ニヤッと義法が笑った。
「花咲く今際(いまわ)?」
良牙が目を凝らして、樹を眺めた。確かに、枝葉の周りがざわざわとざわめいている。開花の時を、今か今かと待ちわびているようにも見えた。
「そうだよ。あの桜が、満開に花開いた時、隠の扉は開く。そして、我は永遠の命を手に入れるのだ。」
義法は満面に笑みを浮かべながら吐き出した。
「尽きぬ永遠の命…そんなものが欲しいのか…義法よ。」
麻呂爺さんは侮蔑したように、義法へと吐きつけた。
「ああ…。尽きぬ永遠の命…それは誰しもが手に入れたいものであろう?あの桜の花の妖力で隠(なばり)が開いた時、余は永遠の命を手に入れ、そして、この倭国の真の王になるのだ。わっはっはっは。」
「それがお主の、野望か…。貴様、そんなもののために、たくさんの命をもてあそびよってっ!」
「なんとでも吠えよ。…ふふ、遊びは終わりじゃ。桂郎女っ、やれっ!」
義法の合図に、何かが暗闇から飛んできた。
ストッ、ストッ、ストッ、ストッ、とそいつは打ちつけられる様に、良牙と爺さんの周りに着地して突き刺さる。それは、この時代ではまだ珍しい、クナイのような鋭い鉄の武器だった。
「しまったっ!呪縛の術っ!」
麻呂爺さんが慌てて、術を返そうとしたが、それより早く地面が一瞬、光りを放った。
その閃光は瞬く間に、良牙と爺さんの姿を照らし出す。
「ワシとしたことが、油断したわいっ!桂郎女っ!」
麻呂爺さんが苦しげに吐き出した。
金縛りにあったように、良牙も麻呂爺さんもその場に足を留められる。まるで強力な磁石に捕われたように足が地についたまま、びくともしない。
無論、手の動きも同時に止められてしまった。いくら足掻いても、身体はピクリだにしなかった。
「くそっ!動けねえっ!」
良牙も歯を食いしばって身体を動かそうとしたが、無駄であった。これでは、爆砕点穴も打てない。
「ふふふ。良いザマじゃな。愛弟子にやられるのはどうだ?麻呂よっ!」
義法が笑った。その背後から、無言で見詰めて来る無表情な女が姿を現す。
桂郎女であった。その瞳に生気は無かった。操られているのは一目瞭然だった。
「ぐぬっ!ぬかったわい。桂郎女をけしかけるとはっ!」
麻呂爺さんは動かぬ身体で吐きつけた。
「ははは、これでおまえたちの動きは封じた。術を使うのも無理だろう?」
二人の動けぬ様をみて、義法が笑い始めた。
「さてと…。仕上げだ。こいつらの命を夜見の桜へと与えてやれっ!」
「ふふふ…。やっと、おまえの魂が喰らえる…。光り輝く、美しい命の輝きがわらわのものに…。ははは、あはははは…。」
とても、幼子の笑い方とは思えなかった。何かにとり憑かれたように大きな笑い声が響き渡る。
その声に呼応する如く、轟音が辺りから鳴り始める。
まるで、辺り一面が稚媛の笑い声に支配されていく。
いや、本当に笑っていたのは、稚媛ではなく、鏡の闇の向こう側で浮かびあがる、夜見の桜なのかもしれない。稚媛の笑い声と共に、たわわにつぼみをつけた枝葉を、ゆさゆさと揺らしているのが見えた。
「さあ、隠の扉を開かせる今際の時じゃ…。稚媛よ、その娘の穢れ無き生気を吸い取り、あの美しい夜見の桜を開かせておくれ…。」
義法は稚媛へと声をかけると、稚媛は一歩前へと足を進め、うやうやしく両手を鏡の前に捧げた。まるで、その上に浮き上がったあかねを、鏡へと差し向けるように両手を広げた。
「ほら、夜見の桜…お食べ…この娘(こ)の美しくて光り輝く魂を…。余すところなく、全部、そなたに捧げてあげる…。」
「はうっ!」
上空であかねの身体が一瞬、戦慄いた。と、身体から金色の煙が立ち上り始めた。
「ほう…。これはこれは…。美しい気じゃ。時を越えて来た巫の娘だけのことはあるな…。」
義法も目を細めた。
「あかねさんっ!」
良牙の悲痛な声が下から響き渡る。
「いいやああああああっ!」
あかねの声は一瞬にして悲鳴へと取って代わった。あかねの身体の表面で揺らめいていた、金色の煙が、一斉に、鏡の中へ目掛けて吸い込まれ始めた。
鏡の中の夜見の桜が、ざわざわとさんざめいた。
あかねの気を取り込んで、つぼみが一斉に花開いていくではないか。
「やめてえええっ!」
苦しみあがきながら、それでも懸命に気を取られまいと、足掻いていた。
その様子を眺めながら、稚媛は楽しそうに笑っている。
「ふふふ…無駄じゃ。そなたのその美しき気は全て、わらわと夜見の桜のもの。咲かせよ、見事な命の花を…。あははは、あはははは。」
絶体絶命。
その場に居た誰もが、敗北を色濃い物と、認め始めた。
四十九、泣沢の巫女
『生玉(いくたま)…』
どこからともなく、囁き声が、闇の四十万から聞こえてきた。
最初にギョッと反応したのは、あかねへと手を伸ばしていた稚媛であった。
「どうした?稚媛…。」
稚媛の変化に、義法が声をかけたその時だった。
『…死反玉(まかるがえしのたま)…』
少し大きめで、澄んだ女性の声がそう朗々と響いて来た。
と、急に、稚媛の様子に変化が表れ始めた。
「や…やめろ…。」
そう言いながら、両手で頭を抱え込み、耳を塞いだのだ。
『…足玉(たるたま)…』
最初はか細かった女性の声が、だんだんに大きくなり始める。静かに冴え渡る中響く声は決して荒くは無かったが、はらわたへと浸みわたる得も言えぬ迫力を秘めていた。
耳を塞いでも、その声は脳裏に響くのか、稚媛はにわかに苦しみ始めた。
「や、やめろーっ!やめてくれーっ!」
稚媛にお構いなしに、一つ一つ丁寧に重ねられていく言霊の呪文。声はだんだんに大きくなっていく。
『…道反玉(はんがえしのたま)………』
女性の声が一瞬止んだ。
だが、稚媛の錯乱は収まることはなく、苦しみ続けている。
「誰ぞっ!そこに居るのはっ!」
矢も盾たまらず、義法が声のしてくる方へ向かって、クナイを投げた。
ピシュッと音がして、クナイが何かに当たる音がした。
カラン…クナイが何かに当たって落ちた。
一瞬、時が止まったように、辺りが静まり返った。
「やったか?」
義法が闇へと眼を転じた時、ひと際強い、女性の声が轟き渡った。
。
『祓いたまい、清めたまうっ!』
その女の言葉に呼応するがの如く、ゴオオッと辺り一面に、風が吹き渡って行く。
と、風が通り過ぎたと共に、一筋の光が矢のように鏡面目掛けて飛んできた。
バリンッ!
次の瞬間、鏡面にヒビが入った。
その光が、鏡面を射貫いたのである。
ミシッ…ミシミシミシッ… パアンッ!
あっという間に、ヒビが鏡面全体に広がったと思うと、粉々に砕け散った。
いや、砕け散るというより、正確には浄化されたという方が良いだろうか。
欠片の残さず、すうっと闇へと溶け込んでしまった。
と、ガクンと足を折り、稚媛が地面へとへたりこんだ。
恐らく、鏡の粉砕と共に、全身の力が抜けてしまったのだろう。稚媛はそのまま意識を失ってしまった。
ドサッと音をたてて、稚媛の身体は地面へと投げ出されてしまった。
鏡の消滅と共に、勿論、空に浮いていたあかねの拘束も緩んだ。そのまま地面へと吸い寄せられるように落下する。
「あかねさんっ!」
呪縛が解けたと察した良牙が、慌てて上から落下してきたあかねを、両腕で抱え込んだ。
ドサッと音がして、あかねは後ろ向きに良牙諸共、地面へと雪崩込んだ。
幸い、後ろには何もなく、二人一緒に尻もちを着く。
「あ…あかねさん。大丈夫ですか?」
下敷きになった良牙が、あかねの背後から声をかけた。
「だ…大丈夫よ。ちょっと、力がフワッと抜けたけど…。」
「立てますか?」
「ええ…。」
ゆっくりと、あかねはその場に立ち上がる。
ゆらゆらと立ち上がった。一体、何が起きたのか。自分たちを助けたのは誰なのか。
そこに居た誰しもが、理解しあぐねていた。
振り向いてあかねはハッとした。
「あれは…。」
闇の中から、月に照らされた、大きな石のオブジェが背後に見えた。
どうやら、先ほどの光の矢はそのオブジェから飛んできたようにも思えた。
と、チロチロと水音がそのオブジェから流れてくる。
「あれは…須弥山(しゅみせん)…。」
そう、須弥山だった。男根にも見紛うような立派な古代の石造物だ。古代人の宇宙観を現したとされる巨石オブジェの一つとされているあの巨石だ。
今をさかのぼること数時間前、乱馬が飛び込んだ苑池の脇にあった巨石である。
「どうして、この石から光が…?」
『それは、わらわが打ったからです。』
凛とした声が暗闇の向こう側から響いて来た。無論、声のみで姿は見えない。
「邪魔立てをする気か?泣沢の巫女(かむろみ)っ!」
義法の顔色が変わった。どうやら、この声の主がわかったようだ。
「泣沢の巫?誰だそれ?」
良牙が問いかけた。
「天の香具山を祭祀する聖なる巫女様じゃよ。香具山の傍にある泣沢の泉のほとりに神殿を建て、そこで斎いていらっしゃる、中臣宮子様じゃ。」
麻呂じいさんは良牙の問いに答えた。
「で、どこに居るんだ?その巫女は?」
「いや…これは術式で飛ばしている声じゃ。」
「術式?」
「ああ…宮子様は祭祀場を離れる訳にはいかぬからな…。ほれ…あそこを見ろ。」
麻呂爺さんの指差す方向、須弥山の上辺りがぼんやりと光っていた。
「あの光に声を移して、ここまで飛ばしておられるのじゃ…。泣沢の宮からな…。
浮世離れした力を、宮子様はお持ちじゃ…。宮子様は聖なる泣沢の泉の力で、声やその力を飛ばしておられるんじゃよ…。須弥山の水を通じてな…。」
麻呂爺さんの後ろ側で、光に照らされて、須弥山からチョロチョロと音をたてて、水が流れ落ちている。
「ここは宝皇女様(=皇極・斉明女帝)の水の祭祀場もあった場所。そして、宝皇女の皇子、葛城皇子様(=天智天皇)の作った、漏刻の水時計もあった場所じゃ…。水を司る宮子様の力をもってすれば、遠い場所から声を飛ばすことなど、造作もないことじゃろうて…。」
「良くわかんねーが、水の力で声を転送してるってことか…。」
良牙は頷いてみせた。
「そう言うことじゃ…。稚媛様の魔の鏡を打ち砕いたのも。宮子様の呪言のおかげじゃ…。」
「やってくれたなっ!泣沢の巫女っ!」
義法は恨めしい表情を、声へ向けて差し向けた。
『そなたに、この国は御せませぬ。義法っ!』
須弥山の上で漂っている淡い光が揺らめきながら、声を荒げた。
「それで余に勝ったつもりか?泣沢の巫女よ。」
クククと、義法が笑い始めたではないか。
「何だ?負け惜しみか?みっともねー。」
呪縛が解けた良牙が義法へと苦言を吐いた。
「ふん…。何も分かっていないのはそなたたちではないのか?」
それを受けて、義法が反論してきた。
「どう言う意味だ?」
良牙が好戦的に、義法へと言葉を返した。
「おまえたちは何もわかってはおらぬ…。ククク。稚媛の鏡が割れたとて、夜見の桜は枯れてはおらぬ…。いや、それだけではないぞ、咲いてしまった。それがどういう意味か、わからぬかな?ははははは。」
その言葉を聞いて、麻呂爺さんが、
「そうか…。夜見の桜は咲いてしまったのじゃったな。」
と小さく呟いた。
あかねの気が吸い込まれた時、確かに、桜の花は開き始めていたのだ。
「鏡が壊れたからって、あの桜が滅んだってことじゃねーのか?爺さん。」
良牙が麻呂爺さんへと問いかけた。
「ああ…。あれは奴が言ったとおり、隠(いなば)とこの世の境にあるという、黄泉津比良坂(よもつひらさか)に根を下ろす樹木だからな。」
「ってことは…。」
「奴が言うとおり、隠(なばり)の扉の錠が外れたということじゃ。後は、扉を開く咒法を施せば…。」
「その、隠の扉は開いちまうってことかよっ!」
ずいっと良牙が身を乗り出した。
「もう遅いわ。後は、隠の扉が開けば…。」
『開けばどうするというのです?義法よ。』
背後の巫女の声が厳しく問いかけた。
「そんなこと、決まっておる。隠へ出向き、永遠の命を…。」
と言いかけた義法を遮るように泣沢の巫女が言い渡した。
『その隠へどうやって、行こうというのですか?』
「そ…それは…。」
義法の言葉が詰まった。
『「隠はこの現の世界ではありませぬ。そこへ至る道は誰しもが至れるものではありませぬ。それを、そなたはどうやって辿ろうというのです?』
険しい声が問い質して来た。
「それは…円が…。そうじゃ、円が…。」
『文忌寸円(ふみのいみきのつぶら)が?この場に円の気配すら無い円がどうやってそなたを導いてくれるとでも?』
辛辣な言葉だった。いや、的を射た言葉だった。
「そ…そう言えば、円の姿が見えないわ。勿論…気配もない。」
辺りを見回しながら、あかねが声を出した。
「そんな馬鹿な筈は無い…。円はずっと、余と共に…。」
蒼白になりながら、義法が辺りの暗闇をキョロキョロと探し回る。
『義法よ…まだ気づきませぬか?』
きりっと巫女が言った。
『そなたは…円に利用されただけだということに…。』
「な…。何じゃと?そ…そんな馬鹿なっ!」
義法は顔を真っ赤にして怒鳴った。
当然だろう。この「企み」の中心に居たのは、今の今まで自分だと思っていたからだ。
「義法よ…。最初からあやつはこの場所には来ておらんよ…。そんなこともわからなかったのか?」
静かに麻呂が言い放った。
「そんな…ワシは信じぬぞっ!隠の力はワシのものじゃーっ!」
そう叫んで暴れ始めようとした義法へ向けて、良牙が咄嗟に気を放った。
「獅子咆哮弾っ!」
軽く解き放ったものだったが、義法を倒すには十分な威力はあった。
「ぐ…くそうっ!くそーっ!このワシがこんな奴らに…。」
バタンと音がして、義法もその場へと沈んだ。
「たく…往生際の悪いおっさんだぜ…。」
ふうっと良牙は額から流れる汗をぬぐった。
「そうよ…思い出したわ。」
あかねはグッと拳を握りしめながら言った。
「円って…あたしたちと同じ平成の御世から来たって…。そして…乱馬に言い放ってた。平成の御世へ帰るか、自分と戦うかって…。だから…きっと、円と乱馬は…隠の扉の前に行ったんだわ。」
…そうだった。あの時…己を失った良牙に襲われて、柱にされそうになったところを乱馬に助けられた時…。
目論見に破れた円は、二人の前で笑いながら挑戦を叩きつけていた。
『自分(円)と戦うか…もしくは、平成の御世へ逃げ帰るか。選びなさい…。』と…。
『俺は、格闘というものには、負けたことはねーんだっ!』
強敵に出逢う度、そう言って己を奮い立たせていた。あの負けず嫌いが尻尾を巻いて逃げる訳はない。
『ごめん…こうすることしか思い浮かばなかったんだ…。』
気を失う刹那、そう言って口づけた乱馬。そのまま、己の意識は沈んで行った…。
「冗談じゃないわ…。このまま終わらせてたまるもんですかっ!乱馬のバカーッ!」
色々なことが、頭の中を、一瞬で通り過ぎて行ったあかねは、いつもの如く、つい、口に出して叫んでしまっていた。
「あ…あかねさん?」
唐突のあかねの怒鳴り声に、良牙がキョトンと見返して来た。
「あ…ごめんなさい…。あたしったら…つい…。でも、そうよ、良牙君、あいつ、絶対、円と一緒に居るわ。多分…その隠の扉の前で。戦いに挑んでいる筈よ。一人でね。」
あかねは良牙へと言葉をかけた。
「で…でしょうね。あいつ、一度言い出したら聞かねえし…。とはいえ、今の俺たちは、その隠の扉の前まで行ける術は…。」
『術ならあります。』
凛とした泣沢の巫女の声が響き佐立った。
「術があると?」
麻呂爺さんの瞳が輝いた。
『はい…。一つだけ…。』
そう言い終わると、須弥山の上で留まっていた光は、すっと、傍に倒れていた桂郎女の上へと移動した。そして、パアッと眩い光を桂郎女に向かって放ちかけた。
『目覚めなさいっ!桂郎女!そなたの使命を果たすときですっ!』
その声に促されると、桂郎女はゆっくりと閉じていた目を開いた。
それから、にっこりと、一同へと微笑みかけた。
『桂郎女…。まずは客人たちを泣沢へお連れしなさいっ!事はそれからです。急いでっ!』
光はそれだけを叫ぶと、ふっと途切れて消えてしまった。勿論、女性の声も同時に聞こえなくなってしまった。
代わりに、桂郎女が一同の前へと進み出て来た。その瞳から殺気は消え失せ、あかねや麻呂爺さんが良く知っている穏やかな光が輝き始めていた。
「皆さん…。円に術をかけられていたとはいえ、いろいろご迷惑をかけてしまったようで…。ご…ごめんなさいっ!」
ペコンと桂は頭を垂れた。
「何…おまえさんは操られていただけのことなのじゃから…。のう?あかねちゃん。」
「ええ…ま、私や麻呂爺さんにも怪我は無かったし…。」
「それより…さっき、泣沢の巫女、宮子様がおっしゃっていたことは…。」
「はい…麻呂様。お任せください…。私、全てのことを思い出しました…。」
すっかり気を取り戻した、桂郎女はにっこりとほほ笑んだ。
「全てのこと思い出した…じゃと?」
キョトンとして麻呂爺さんが桂郎女へと瞳を巡らした。
「ええ…。私がここへ至るまでのこと、そう、佐留様から暗示をかけられて消された記憶のことも全て…。」
「な、何っ?佐留に消された記憶じゃとぉ?」
驚く麻呂爺さんに向かって、桂郎女はコクリと頷いた。
「いろいろ紆余曲折があって、佐留様に暗示をかけられて一度、記憶を全て自分の中から追い出しました。」
「また…どうしてそんなことを…。」
「話せば長くなりますから、手短に言いますが…私の持つ記憶を…必要な方に正しく伝えるために佐留様がそうさせたのです。」
「何か訳あり…みたいじゃのう…。」
「はい…。そして、恐らく…その伝えるべき人…というのは…あかねさん、あなたのことを指しているのだと思いますわ。」
「あ…あたし?」
あかねは思わず己を指差していた。
「とにかく、急いでくださいっ!隠の扉へ至る、もう一つの道は…埴安池(はにやすのいけ)に存在します。」
「埴安池ですって…?」
「とにかく、急いでください。事体は一刻も争います。」
桂郎女が先導を切って、急ぎ始めた。
「良牙君っ!どこへ行くの?」
内心あかねは焦った。さもありなん、良牙は名うての方向音痴だ。桂が先導する方向とは全く違う方向へと走り出そうとしていたのだ。
「こらっ!良牙とやら、こっちじゃ、こっちっ!」
ポカンと持っていた長い杖で、麻呂爺さんは良牙の頭をコツンとやった。
「痛っ!何しやがるっ!じじいっ!」
「たく、こっちじゃ。そっちは真神原だぞっ!」
「良牙君、いいからこっちっ!」
あかねが良牙の手をガッシと掴んだ。
「あ…あかねさん?」
唐突にあかねに手を掴まれたので、良牙は真っ赤になってあかねを見返した。
「事は一刻を争うのっ!早く、乱馬のところへ行かないと…乱馬が…。」
あかねは良牙を振り向かずに、グイグイと手を引っ張って、桂の後をついて走り始めた。
「乱馬……ですか…。やっぱり、あかねさんは…乱馬のことが気になって…。」
「当り前よっ!このまま、乱馬を放ってはおけないわっ!約束したことは守って貰わないと…。」
「約束…ですか?」
「ええ…。あれほど強く約束したのに…あいつったらっ!」
ぐいぐいと良牙を引っ張りながら、あかねは桂の後を急いだ。
(約束…乱馬の奴…あかねさんとどんな約束を…。まさか、一緒になるとか…。)
ぐるぐると良牙の思考が廻りだす。
「とにかく、乱馬を助けなきゃっ!だから、良牙君も迷子にならないでっ!」
(あかねさん…乱馬のことしか頭に無いんですね…やっぱり…。)
複雑な表情で、良牙は成すがままに引っ張られて、暗闇を走りだしていた。
漏刻楼の周りで戦っていた真神の者も、義法側の人間も、一行の様子に驚いて戦いの手を止めた。いや、麻呂爺さん、そして、あかねたちの出現に、義法側の敗北を知ったのである。
ボスが戦う気を無くしてしまえば、その部下はただの烏合の衆へと立ち戻る。しかも、次尊王の首皇子の御母と麻呂爺さんがシャキンとしているのだ。誰しもが、弓や刀を投げ捨てた。
それだけではなく、いつしか、真神の者も阿雅衆の者も敵も味方も、一行へと続いて駆け出して来る。
「姉御っ!どこへ行くんだい?」
いつの間に現われたのか、浅人が興味深げにあかねへと寄り添っていた。彼もまた途中で戦いを放棄してくっついて来た口だった。勿論、浅人だけでは無い。真神の速人も勇人もその輪に加わっているではないか。
さながら、祭行列の如く、人の輪が加わって行った。
ものの数分で池のほとりへと出た。
闇の中に静かに水面を揺らす「埴安池」の姿は、現代に生きる二人には少し不気味に見えた。
五十、桜の俘囚
あかねたちが埴安池を目指して、懸命に駆けていた頃、乱馬にもまた、危機が訪れようとしていた。
ゆらゆらと輝く淡い光が、乱馬の身体を包みこんでいた。
「畜生…。完全に囚われたか…。」
その塊の中で、乱馬は力なく言葉を吐き出した。
手にも足にも胴体にも、その異様な触手は絡みついている。己がどのような形で取らされているのかさえも、触手に埋もれていてわからない。
幾本にも伸びる、ぬるぬるとした触手。一本、一本が直径三センチほどの、不気味なミミズ色のヒモであった。
「ふふふ…なかなか良い光景だこと…。」
触手の群れの向こう側で、円の声が響いて来た。
「どう?少しは大人しくなれたでしょう?乱馬ちゃん…。」
「けっ!人をちゃん呼ばわりするなっ!気持ち悪いっ!」
乱馬は円へ向かって声を荒げた。
「あら、まだ軽口を叩けるくらいの元気は残っているのね。」
円は動けぬ乱馬の身体へと手を伸ばして来た。それからいきなり乱馬に絡んでいた触手を一本掴むと、そいつを下半身へと差し向ける。
「うわっ!」
触手の向こう側で乱馬が身をよじらせた。股下へそいつを滑り込ませると、ニッと笑った。
「この野郎、どこ触ってやがるっ!」
顔を真っ赤にして乱馬が怒鳴った。
ぬるんとした触手の嫌な感触が、謀らずしも女体の一番大事な部分をなぞったのだ。一瞬であったが、味わったこともない屈辱感が乱馬を支配した。
「良かった…。まだ穢れを知らぬ乙女ね…。安心したわ。」
「なっ!てめー、変態か?」
満足そうにほほ笑む円に、思わず言葉を投げつけていた。
「まさか、このまま身体を弄ぶ気じゃ、ねーだろーな?」
動けぬ身体をくゆらせながら、乱馬は円を見上げた。
「甚振って欲しい?」
「ばっ、そんなわけねーだろーっ!」
思わず唾が飛ぶ。
「怒った顔もなかなか良いわねえ…。惚れなおしそう。」
思わず、ゾクッとした。恐怖というよりも、得体の知れぬものを円に感じ取ったからである。
このように乱馬を触手でがんじがらめにしていることはもとより、微笑みの中に浮かぶ、冷たい魔性に、心を凍らされてしまうような恐怖を感じたからだ。
「一体てめーは何なんだ?俺をこんなふうに閉じ込めやがって…。」
「乱馬ちゃん、こうでもしないと、暴れ回るでしょう?触手を放せば、一気に襲いかかって来る気でしょうから…。私は争うのは苦手なの。」
と、円は吐き出しながら微笑んで見せた。
「それに…。」
すっと乱馬の頬へと手を滑らせた。
「どうせなら、美しいままの状態で、上納したいもの…。」
「上納?」
聞き慣れない言葉に、乱馬はきびすを返した。
「ええ…。あなたは大切な御供物(ごくもつ)になって貰わなければいけませんからねえ…。」
「御供物だあ?」
「そう、御供物。隠の扉の向こう側の奥つ城に眠る、龍神への捧げものとして…。ほら…。」
そう言いながら、円は少し上を見上げた。
「もうすぐ扉が完全に出現するわ。そろそろ私も準備しなくちゃね…。」
すいっと円は立ちあがった。
「準備?」
「ええ…。扉の向こう側へ入るための準備よ…。」
ざわざわと風が鳴った。
木々など無い筈なのに、枝葉を揺らす音が聞こえ始める。
思わず背中がゾクッとなった。
と、乱馬を捕えていた触手が一斉にざわめいた。何だと思う間に、触手は上へと伸びあがり始めた。無論、乱馬を抱えたまま。
「な…?何だ?」
ハッとして辺りを見回すと、触手に掲げられて、上へ上へと上昇し始める。
「ふふふ…夜見の桜がもうすぐ咲くのね。」
下方で円の声がした。
「夜見の桜?」
「ええ…前を御覧なさい。」
円の示唆で、乱馬は視線を前方へと移した。
「こ…これは…。」
触手の林の向こう側に、乱馬はそいつを見た。
闇に浮かぶ、美しい一本の桜の高木を。
幹も枝もそれは闇に栄えるがごとく、乳白色にぼんやりと光を解き放っている。その枝葉の先には、桜の蕾が、咲く時を今か今かと待ち構えんばかりに、琥珀色に輝きながら揺れている。
「それは夜見の桜。生きたままの人間の命を餌に、蕾を膨らませ、そして花開かせるのよ。」
「生きたままの人間の命だって?」
「ええ…あなたも見たでしょう?稚媛が鏡を使って集めていた…。」
その言葉に、乱馬の表情がきつくなった。紀寺で遭遇した稚媛と檜隈女王との戦いを思い出したのである。
「まさか、あの時に奪った人の魂…。」
「そうよ…。」
さらっと言ってのける円。
だんだんと腹立たしさを強めていく乱馬を気にする様子もなく、言葉をつづけた。
「この夜見の桜の花が開き切った時、あの扉は開くのよ。そして、龍神を目覚めさせ、あなたを御供物として捧げれば、私の願いは成就されるわ。」
「てめーの願いだって?」
「ええ…。龍神の力を手に入れて、私は倭国の覇王となるわ。平成の御世までの倭国を滅ぼし、新しい倭国へ塗り変えるのよ。そして私は永遠の命を得て、新しい国の王となるの。」
「お…おまえ…正気か?」
「勿論よ…。私の一族が古代連綿、ずっと追い続けてきた理想郷を、私が手に入れるの。」
「古代連綿、追い続けてきた理想郷…?」
「そう…。その理想郷を…私がこの手に握るのよ。あなたにも協力してもらうわ。」
いつの間にか円は、乱馬のすぐ近くまで登って来ていた。触手の一本につかまり、一緒の高さまで登り詰めていたのだ。
「さて…この辺りが良いわね。」
円はそう吐き出すと、動けぬ乱馬の傍へ来ると、すっとその胸元へと手を入れた。
そして、胸元を広げる。
「な…何しやがるっ!」
乱馬は思わず声を荒げた。
女体化した乱馬の福与かな胸が、こぼれんばかりに触手の向こう側に見え隠れしている。
「へええ…。きれいな穢れ亡きオッパイしているわねえ…。」
福与かに放り出された胸を見ながら、円は笑った。
「見事ねえ…。これが本来、男だというんだもの…。すごい水よねえ…呪泉郷の水は。」
「て…てめーやっぱり…。呪泉郷を知ってやがるのか?」
乱馬は円を睨みかえした。
「ええ…。ただの噂話だとずっと思っていたけれど…。あの良牙って子もそうだったじゃない。」
クスッと円は笑った。
「やっぱり、てめーは俺が男だと知ってて…。」
「まーね…。でも、そんなことはどうだっていいわ。あんたが本当は男だろうと女だろうと、そんなことは関係ない。美しい女体を保ってさえいてくれればね…。
むしろ、変わり種は歓迎されるわ。ってことで…ちょっと失敬…。」
そう言いながら、開いた乱馬の胸元をごそごそと漁った。
「あった、あった。」
そう言いながら、黒い勾玉を取り出した。
「こらっ!それは俺の…。」
乱馬は焦った。あかねと交換した大切な勾玉だ。
「そう…あんたのだから必要なのよ…。それに、これは元々、私があんたたちに差し向けた勾玉よ。」
「何だって?」
「これをあなたに売ったのは、私たちが放った式神なんですもの。」
「式神…。」
「ええ。そう、式神よ。こういう人形(ひとがた)を使って使役したね。」
「もしかして、やっぱり、俺たちをこの世界へ導いたのは…てめーだたのか?」
コクリと円の頭が盾に揺れた。
「だから、否定していないじゃないの…。この勾玉も元々は、私たちのものだったのだから…。」
そう言うと円はふっと自重気味に笑った。
乱馬はえっと思った。一瞬、本当に一瞬だったのだが、円の顔に「切なげな憂い」の表情が浮かんだからだ。
思わず、円の顔をじっと見つめてしまった。
(な…何だ?この違和感は…。)
乱馬の視線にハッとした円は、スッと目を反らし、言葉を叩きつけた。
「だから、この玉は返して貰うわね…。と言っても、ちゃんと使い道があるのよ。」
そう言いながら、円はキョロキョロと夜見の桜を見渡した。何かを探しているような感じに見えた。
「…そうね…この辺りが良いわね。」
円はそう吐き出すと、乱馬から奪った黒い勾玉を、手に掴んだ。曲がったて穴が開いた部分を上に、そして穴を人差指と親指で塞ぐように持ちかえる。
と、そのまま、勾玉の背から押しこむように、夜見の桜の太い幹の真中の高さの辺りへと、そのまま差し込んだ。
ドックン!
夜見の桜が一瞬、躍動したように見えた。
えっと思う間もなく、桜の幹が、いきなり膨らんだ。すると、幹に人一人がすっぽりと入れるくらいの穴が一つ、ばっくりと開いた。
「このくらいで良いわね…。」
そう言うと、円は手をすっと前へと差し出した。と、その動きに合わせて、ゆっくりと乱馬を掴んでいた触手がその穴へと動き出した。
「な…何だ?」
躊躇する間もなく、触手たちは乱馬を掲げたまま、その穴へと乱馬を宛がった。
勾玉で開けられた穴は、乱馬の身体を収納するのに丁度良い大きさに開いていた。
生温かい人肌に触れたような、そんな感覚に、乱馬は思わず身がすくんだ。と、ほどなくして、ギュッと桜の幹へと身体ごと触手に押し付けられた。
シュルシュルシュル…。
触手が乱馬の身体から離れた。
えっと思って手を動かそうとした瞬間、ままならぬことに気がつく。目の前を引いて行くのは、下の式陣からせり上がった触手だけで、また新たな触手が、今度は樹の中から一斉に伸びあがり、乱馬の身体を捕えているではないか。
つまり、桜の樹の幹の中から湧きだした、数多の触手に、瞬時に絡みつかれてしまったのだ。
そいつらは、シャワシャワと不気味な音をたてながら、乱馬の肢体を完全に捕えた。そして、ゆっくりと、樹の中へと誘導を始めた。
そう、開けられた穴の中へ乱馬を取り込もうと動き始めたのだ。
「くそっ!この野郎っ!」
声を絞りながら、必死で抜けようと足掻いたが、無駄だった。
乱馬を捕えた触手たちは、容赦なく乱馬を樹へと誘う。
母親のお腹の中に眠る胎児のように、両膝を折り曲げさせ、お尻から引きずりこむように引っ張られる。両手に絡みついた触手はそのまま膝を抱えさようと蠢く。
必死で逃れようと足掻いたが、自分の意と反して、触手たちは思うがままに乱馬を取り込んで行った。
「やめろーっ!やめてくれーっ!」
乱馬の叫び声が響き渡る。
顔だけは埋め込まれず、樹の幹からせり出したような形になって触手の動きは止まった。
と、バラバラだった触手はみるみる透明な一つの塊へと合わさって行った。
ゼリー状に乱馬をそのまま樹の中へと埋めて行く。
当然、身動きは全くできない。
「畜生っ!」
歯を食いしばって、それでも抵抗を試みようと身体をよじらせたとき、その声は聞こえてきた。
『抗わないで…乱馬…。』
どこからともなく女の声が聞こえてきた。聞き覚えのないか細い声だった。
(誰だ?俺に語りかけて来るのは…?)
全ての動きを奪われている乱馬は、声を出さずに、心の中でその声に向かって問いかけていた。
『大丈夫…私はあなたの味方よ…。乱馬…。』
(味方?)
『ええ…。まだ、彼らに反撃する機会一つだけ残されている…。だから、そこで無駄な力は使わないで…。じっとしていて…。』
(反撃だって?この状態でか?)
『ええ…。私の声が聞こえると言う事は、即ち、あなたには力が残されているということ…。幸い、その力が残っていることは…あの円ですら気がついていないみたいだから…。』
(なら、具体的に俺はどうすれば良い?)
『あなたは抗わず、この中でじっと力を蓄えておきなさい。』
(力を蓄える?)
『感じない?少しずつあなたの周りに、僅かな光が集まり始めていることを…。』
(光?)
『ええ…。この樹の中に眠るのは、生きながらその魂を盗られた人たち…。全霊を研ぎ澄ませて感じて御覧なさい…。』
乱馬は、己を捕えている樹の中へと意識を集中させてみた。敵の気配を探るように、心の中を空っぽにして。
と、僅かだが蠢く何かを感じた。
砂粒よりも小さな何かが、惹き合うように乱馬の方を目指して近づいて来る。
(一つ…じゃねえ…。二つ…いや違う…。そんな数じゃねえ…。数え切れねえくらいの気流が俺に向かって集まって来やがる…)
『さすがね…。目にも見えないくらいの気の流れを捕えられるなんて…。』
声はさらに乱馬へと語りかけた。
『この小さな気の塊は、きっとあなたに力を与えてくれるでしょう。だから、時が満ちるまで、じっとそこで息を潜めて…この気の塊を少しでもたくさん、集めなさい…良いですね…。』
女性の声はそれだけ告げると、ふっと聞こえなくなってしまった。
(時が満ちるまで、気を集める…わかった…。できるだけ、集めてやる…。これが最後のチャンスだというのなら…。)
乱馬は樹の中に身体を埋めたまま、桜の樹の中に漂う気を集め始めた。
そんな乱馬を少し離れた場所から、円はじっと見つめていた。
円の目から見て、乱馬は勾玉の形に合わせて、埋め込まれたような感じになっていた。瞳は閉じられ、眠っているように見えていた。
樹に全ての抵抗を抑えつけられ、吸収されてしまった。円の目にはそう映っていた。
勿論、円には、取り込まれた乱馬の中で起きようとしていた異変には、全く、気がつかなかった。
「これで、御供物は完成したわ…。後は、門戸が開いたら…この夜見の桜を龍神へと差しあげるだけ…。もうすぐ花が咲く…。」
そう言いながら、ゆっくりと夜見の桜の樹枝へと、触手から飛び移った。そして、いっとう、蕾が集まっている場所へと立ちあがった。
と、光が俄かに、樹枝からせり上がってきた。
ざわざわと桜の枝葉が不気味に揺れ始めた。
目の前に霧に包まれていた扉がわなないた。と同時に、霧が瞬時に晴れて行く。
「さあ…扉が開くわ。」
彼の背後で、夜見の桜が、一斉にその蕾を開き始めた。
ゆっくりと、一つ、また一つ…。
つづく
一之瀬的戯言
つじつま合わせしながら書いていくことの苦しみってば…。桂ちゃんをどう扱うか、幾つか案があったのでどれを取るのか…実はまだ迷いつつ、18話を書いています…。後少しだ!がんばっ!
蛇足
宮子が放った呪文は、祝詞(のりと)の一つから借用しました…。
祝詞とは神社や神棚で唱えるもので、仏教でいう御経みたいなものです。(厳密には違いますが)。
借用したのは石上神宮系の祝詞…つまり、物部氏系流れを汲む、祝詞です。宮子は中臣系ですが、何で物部系?…とか言わんでくださいませ。創作です、創作っ!(逃避)
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