◇第十五話 危機一髪
 
四十二、式神



 乱馬が真神の井戸で真布都の剣璽を廻ってすったもんだしていた頃、あかねは息を吹き返した。



 夜明けまで、まだ時間があるらしく、薄暗い部屋の中に、か細い蝋明かりが灯されている。

「ん…。こ…ここは…?」

 ひんやりとした、冷たい床の上。蒲団はあるが、それでも肌寒い。その寒さに目覚めたようなものだ。
 見覚えのある、白木造りの木造の建物だった。
 微かに、嗅ぎ覚えのあるお香の香りが漂っている。
 ガバッと起き上ると、あかねは辺りを見回した。

「やっぱり、小治田宮だわ。」
 中庭や奥の宮殿の建物を見て、確信した。ここは、最初に連れて来られた、小治田宮に間違いなかった。桂郎女にミゾオチを打たれて、ここまで運ばれたようだった。
 辺りは水を打ったように静まり返っている。深夜とはいえ、いつもは、もっと、人の気配が漂ってくるのに、まるで、誰も居ないかのように、人の躍動が全く感じられなかった。

「あかね…。目を覚ましたのね?」
 聞き覚えのある声が、あかねを呼んだ。
「なびきお姉ちゃん?」
 あかねは声のする方に、向き直った。そこには、マスクをかけたなびきが板壁を背に、座り込んでいた。
「やっほー。あかね。」
 なびきのピースサインに、あかねは安堵のため息を吐きだした。
「なびきお姉ちゃん。無事だったんだ。」
 あかねはなびきに尋ねた。
「まーね。体調が悪くて、ずっとこの部屋で伏せってたからね。」
 相変わらず、体調が悪いのか、なびきは青ざめた顔をしていた。
「大丈夫?お姉ちゃん。まだ熱っぽい?」
「あ…。余り近づいたら、うつるかもよ。」
 にっとなびきは笑った。
「やっぱり、風邪?」
「まあ、そんなところかしらね。」
 なびきが溜め息を吐きだすと、
「乱馬君は?」
 と逆にあかねが問いかけた。
「ちょっとね…。」
 自分と乱馬の身の上に起こったことを、どう話せば良いか、迷いながらも、あかねはかいつまんで、二人の身の上に起こった出来事を、なびきへと説明した。

 なびきは相槌を打ちながら、あかねの話に耳を澄ませる。

「なるほど…。真神の邑里へさらわれて行って、そこへ乱馬君が助けに来て…。で、一晩過ごしたら、乱馬君は、麻呂爺さんに呼ばれて、どこか行ってしまったというのね…。」
「ええ。何しに出かけたのかは、わかんないのよ。小治田宮が大変だって、麻呂爺さんに呼びだされたみたいなんだけどね。」
「生憎、こっちには来てないわよ。」
 なびきが言った。
「そう…来てないんだ。」
 少しがっかりした表情で、あかねは吐き出した。

「で…乱馬君が甘樫丘を出て行ったら、今度は、訳のわからない連中が、真神を襲ったのね。」
「うん…。真神の里は混乱して、それに乗じて、あたしは、甘樫丘へ駆けこんできた桂さんと合流して、甘樫の混乱から逃げ出して、丘を下りたんだけど…。そうしたら、いきなり円が現れて…。気が付いたら、ここに戻って来ていたのよ。」
「なるほど、そういうことか…。」
「お姉ちゃんはずっとここに居たの?」
 あかねが問いかけた。
「まーね…。あたしは、調子もなかなか戻らなかったし、食欲も無かったから、ずっとこの煎餅布団の中で、うつらうつらしてたって訳。
 で、ゆうべ、遅く、誰かがあんたを担いで、この部屋へ寝かせに来たのよね…。
 何だか様子が変だとは思ってたんだけど…。」
「じゃあ、お姉ちゃんはずっと、この部屋に居たの?」
「ええ。小水へ立つ以外は、ずっと、ここで寝てたわ。おかげで、体調は戻ってきたけどね。」
 なびきはポツンと吐き出した。
「ここにいて、平気だったの?この宮の中は?ずっと平穏だった?」
 あかねは矢継ぎ早に、姉へと問いかけた。
 あかねが乱暴にここへ連れて来られたのだ。なびきが平穏だったとは、どうしても思えなかった。

「夕べ、あんたが、ここへ運ばれてくる前に、ちょっとね…。」
 なびきはそう言って、言葉を区切った。
「ちょっと…何?」
 あかねの問いかけに、
「バタバタと激しい物音や女性の悲鳴は多々、聞こえてきたのよね。」
「悲鳴や物音?」
「ええ。あたしも、まだ、熱っぽかったから、蒲団を頭の上からすっぽりかぶって、耳を澄ませていただけなんだけどね。それに…。」
「それに?」
「あまりにも外が騒がしいから、一度、様子を見に行こうと思って、そこの板戸を開けて、外へ出ようとしたんだけど…。」
「出ようとして?」
「それがさあ、変なんだよね…。戸がピクリとも動かないの。」
「戸が動かないの?」
「何なら、あんた、試してみる?」
 なびきの言葉に、あかねはすっくと立ち上がると、すぐ傍の板戸へと手を伸ばした。あかねの馬鹿力なら、造作なく壊せる類(たぐい)の板戸である。
 
 板戸の前に立つと、ぐっと、丹田(たんでん)に力を入れた。そして、ハアッと気炎を吐き、拳を戸へと突き出した。
 大抵の板戸ならば、この一撃で、破壊出来る筈だ。破壊にまで至らずとも、それなりの物理的力は、板へと伝わるはずである。

「え…?」
 突き出した拳の力は、空振りに終わった。いや、それどころか、板戸に、傷一つ、つけられなかった。ブンと低い無味乾燥の音が弾け出しただけであった。

「そんな…バカな…。」
 あかねはもう一度、丹田へと力を込めると、再び、気炎を吐きだし、拳を突き出してみた。

 あかねの拳は、どうしても、板戸へと突き立てることはできなかった。何かの力に飲み込まれるように、気合いをこめた拳は遮られている。

「ね?無駄でしょ?」
 と心細げに、なびきがあかねに問いかけていた。

「何故、ビクともしないの?」
 あかねは納得がいかないという顔を手向けると、今度は別の壁へと、足を突き出してみた。天道道場の板壁よりも貧相な板の壁だ。これも、あかねの足なら簡単にドカ穴をあけられるだろう。が、あかねの足は、何かの力に払拭されるかの如く、振り払われる。いや、板壁そのものに、触れることすらかなわないのだ。

「何よ、これ!」
 
 マジックルームに閉じ込められたかの如く、何ともできない。

「これは、誰かがあたしたちを閉じ込めるために、仕組んだことなんじゃないかしらね。」
 なびきは吐き出していた。
「仕組んだこと?」
「例えば、結界の呪文か何かで、閉じ込めた…みたいな…。」
「お姉ちゃん、そこまで分析していて、何も行動を起こさなかったの?」
「うん、体調もあんまり良くなかったしね…。下手に動き回って、災いに巻き込まれるのも勘弁…だったからね。ずっと、ここで一人、じっとしてたんだけど…。そしたら、さっき、円さんがあんたをこの部屋へ寝かせに来たって訳…。」
「その時、外へ出ようとは思わなかったの?」
「んー、何か、様子が変だったから、円さんに声もかけ辛くてさあ、寝たふりしてたのよ。タヌキ寝入りって奴をね。」
 なびきは舌をちょろっと出した。

 そこまで言いかけて、なびきは言葉を止めた。ビクともしなかった戸板が、すうっと開いて、円が中へと入ってきたのだ。

「あら…。ぼそぼそ話声がするから、来てみたら…。もう、目が覚めたの?みぞおちに一発、深く入れた筈なのに…。頑丈ねえ、あなた。」
 円が不気味に、口元だけで笑いながら、入って来たのだ。

 あかねは、はっしと円を睨みつけながら、問い質した。

「一体、何なんです?あたしとお姉ちゃんをこんなところに閉じ込めて…。」

「あら、ここにいてもらう必要があるからよ…決まってるでしょ?」
 円はにっこりとほほ笑みながら、答えた。
 
「何の用があるってーのよ?」
 あかねがすごむと、円はふっと笑いながら言った。

「それは、明日のお楽しみよ…。」

「じらさないで言いなさいよ!」
 あかねがきつい言葉を手向けると、
「勝ち気な子ねえ…。愉しみは後に取っておくのが私の流儀なの。」
 と円は突き放しながら続ける。

「たく…。こんな子のどこが良いってーのかしら…。乱馬ちゃんってば…。」
 と円がさげすむように言った。
「乱馬は関係ないでしょ!」
「そうねえ…。乱馬ちゃん、どこへ行ったのかしらねえ…。甘樫丘には居なかったわねえ…。どこへ行ったかご存じ?」
 円があかねに問いかけて来た。
「さあね。」
「とぼける気?」
「当り前よ。知ってても言う訳ないじゃない。」
 あかねは勝ち気に返した。
「まあ、好戦的な娘っ子だこと…。まあ良いわ…。ここで待っていたら、現れるでしょうしね…。」

 
「それより、円。あなたなんでしょ?首皇子様を呪っているのは?」
 あかねははっしと円を睨みつけると、そう問い質した。

「ん、まー、いきなり呼び捨て?」
 円らはジロリとあかねを見た。
「あんたにつける、敬称なんて無いわ!」
 あかねは吐き捨てるように言った。

「失礼な娘っ子ねえ…。まあ、良いわ。…ふふふ、別に、首皇子様を呪ってなんかいないわよ。」
 円はさらっと答えた。

「じゃあ、あたしとお姉ちゃんをここへ閉じ込めているのは何故?」

「全ては、隠(いなば)の扉を開けるためだ。」
 円の背後で別の男性の声がした。野太い中年男の声だった。

「誰?あんたは?」
 あかねがキッと睨みかえすと、坊主頭の脂ぎった中年男がそこに立っていた。古代人には似つかわしくないぽっちゃりとした男だった。栄養状態が、かなり良い男と見えた。恐らく、身分が高いのだろう。


「これは、これは、義法様…。わざわざお越しに?」
 円は一歩、後ろに下がりながら、男を招き入れる。

「義法って…誰?」
 小声でなびきへと耳打ちすると、
「確か、陰陽寮を仕切っている人じゃなかったっけ?」
 なぎきが答えた。

「ふふふ、いかにも、ワシは今の陰陽寮を、石上麻呂に代わって預かっておるわい。」

「その陰陽寮のお頭が、あたしたちにこの仕打ちって何なのよ?」
 あかねは鼻息が荒い。己の身の危険を顧みず、思ったことを口にして問いかけた。


「そんなこと、決まっておるわ。ワシは隠(いなば)の扉を開き、不老不死の力を手に入れ、この倭の国の、新しき大王(おおきみ)となるためじゃ。ふはははははは!」
 そう言いながら、義法は高笑いし始める。

「不老不死ですって?隠(いなば)には、亡国の龍神が封じられているんでしょう?不老不死と、どう関係あるのよ?」
 あかねが吐きつける。
 それに、義法ではなく、横から円が答えた。

「あら、あんた知らないの?隠(いなば)の主、スサノオは、不老不死を司る神でもあるのよ。永遠の若さと衰えない命。それを手にいれたくない人間はいないわ。ねえ。」
 円が笑った。

「永遠の若さと衰えない命?己の欲望のためだけに、隠(いなば)の扉を開けるですって?あんたたち、バッカじゃないの?」
 思い切り軽蔑した言葉を、あかねは義法と円に向かって吐き出した。


「ふん!そのような軽口をたたけるのも、今夜までじゃ。娘。」
 義法はあかねへと、言葉を吐きつける。

「それより、円よ。準備は進んでおるか?」
 と偉そうに、義法は円へと言葉を吐きつけた。

「着々と進んでいますわ。後は、明日の日没を待つのみですわ。義法様。」
 円は後ろにお辞儀をしながら、その問いかけに答える。

「そうか。準備は上々か。明日の日没が楽しみじゃ。明日、この国は新しく生まれ変わる。不老不死を手に入れ、その王に君臨するのは、このワシじゃ。どら、明日に備えて、ワシは後ろで休ませてもらうぞ。円、後は宜しく頼んだぞ。」
 ふんぞり返りながら、義法は部屋から出て行く。その後ろ姿を見送りながら、円はじっと、頭を下げ続ける。

「何なの?あれ…。」
 あかねは義法の姿が見えなくなると、侮蔑を含んだ言葉を吐きだした。
「あんた、本当に、あんな奴の言いなりになって、隠(いなば)を開く気なの?」
 と返す言葉で円に問いかけた。

「ほほほ、あたりまえよ。」
「この国が滅んでも良いっていうの?」
「無論…。」
 冷たく、円は言葉を投げ返す。
 その時だ。円の後ろから、もっと冷たい瞳が、あかねとなびきを見据えているのに、ふと気がついた。思わず、ゾクッと背中がに冷や汗が浮かんだ。
 稚媛だった。
 口数少ない少女だったが、円の着物の袖を引きながら、口元で、何かを繰り返している。

「欲しい…。魂が欲しい…。」
 稚媛の言葉が耳に届くと、更に、不気味さが増した。

「あら…魂なら、夕方、あれだけたくさん、抜き出させてあげたじゃないの。まだ、欲しいの?」
 と円が不機嫌そうに稚媛を振り返る。
「もっと、欲しい…。足らぬ…足らぬのじゃ…。」
 稚媛が円の言葉に答えた。

「魂を抜き出す…どういうこと?」
 ギョッとして、あかねが問いかけた。

「あら、あんた、石上麻呂に、何も聞いてないの?」
 面倒くさそうに円が問い返してきた。

「何?何の話?」
 あかねは即座に問い返した。

「そう…。この子の魔性を聞いてないの…。なら、教えてあげましょうか。」
 くすっと円が笑った。
「稚媛様の魔性って…ツクヨミの力?」
「あら、少しは、聞きかじってるじゃないの。そうよ、ツクヨミの本能が魂を欲しがっているのよ…。」
 円は不気味な笑みを浮かべながら言った。

「ツクヨミの本能ですって?何よそれ。」
 問い返したあかねに、円らは言った。

「ツクヨミの本能…すなわち、生きた肉体から、魂を抜き去ること。」

「生きた肉体から、魂を抜き去る…ですって?」
 あかねの声が、上ずった。

「ええ…。そうよ。生きた肉体から魂を抜き去る…それがツクヨミの力を宿した者の本能。」

「そんなことがその子に出来ると言うの?」
 そう言いかけて、ハッとした。
「そういえば、さっき、夕方、たくさん抜き出したって言ってたわよね…。」
 と確かめるように、円へ問い質した。

「ええ、言ったわよ。」
 円はニッと笑った。
「なびきお姉ちゃんも言ってたわよね。夕方、激し音が屋敷内あちこちから聞こえてきたって…。」
「ええ…。バタバタと騒々しかったわ。」
 なびきが頷いた。
「まさか…。今…この屋敷内に、殆ど、人の気配が感じられないのは…。」

 ゴクンとその後の言葉を飲み込んだあかねに、円はゆっくりと答えた。

「ええ…。この邸内に居た人間の魂は、全て、この子が抜き去ったわ。だから、静かなのよ…。」
 と、稚媛の背中をさすりながら、円が言った。

「なっ…何てこと…。」
 あかねはぎゅっと拳を握る。
「安宿媛様の魂も抜いたの?」
 と震える声で聞いた。

「安宿媛なら、大丈夫よ…。あの子は別の役目があるから、まだ、生かしてあげているわ。この子(稚媛)も、仲良しの安宿媛からは抜きたがらなかったし…。もっとも、安宿媛は、奥の部屋で、ぐっすりとお眠りになっているけれどね。」
 と円が答えた。

「欲しい…。魂…。この娘の魂が欲しい…。」
 まるで、歯止めの利かぬからくり人形のように、稚媛はじっと、あかねを見つめながら、繰り返す。その瞳は、魔性の光に満たされ始めた。
「寄こせ、おまえの魂を、我に寄こせっ!」
 そう言いながら、稚媛はあかねへと襲いかかろうとした。

 パアン!

 音がして、稚媛の背中へと、円の手からムチが振り下ろされた。革製ではなく、縄製のムチだ。
 ひっと声がして、稚媛が前のめりに、倒れこむ。

「何度言ったらわかるのかしら!無節操な子は嫌いよっ!」
 稚媛に向かって、ヒステリックに円が叫んだ。
「この娘には他に役目があるの。だから、あんたに魂を抜かせる訳にはいかないの。」
 円は続けざまに縄ムチを振り下ろす。ピシッ、パシッと縄ムチが稚媛の背中を打つたびに、稚媛は畏怖の表情を円へと手向けた。

「ちょっと!あんた!小さな子に何てことっ!」
 思わず、あかねが叫ぶ。と、円は言った。
「あら。感謝されこそすれ、責められる言われなんてないわよ。私が助けなければ、あなたは稚媛様に魂を抜かれていたわ…。わかる?魂を抜かれると、死ぬしかないのよ。」
 と円は言い放った。
「良いこと、稚媛。この娘は柱の礎石にするんだから、魂を抜いちゃダメよ…。」
 厳しさから一転、言い聞かせるように、稚媛の耳元に囁いた。

「でも、魂が…足らぬ…。もう少しで、夜見の桜が花開く…。じゃから、魂が欲しい。」
 背中を打たれても、這い上がりながら、稚媛は恨めしげに、円を見上げながら、繰り返す。

「しょうがないわねえ…。」
 円はくるりと後ろを振り返った。
「ならば、こっちの娘の魂にしなさい。」
 と、なびきへと視線を投げかける。

「良いのか?」
 稚媛の瞳に、嬉々とした生気が灯る。
「ええ…。仕方ないでしょ?足りないのなら…。」

「ちょっと、さらっと、何、怖いこと言ってるのよ!」
 あかねが身構えた。なびきを守らねばならぬという、武道家としての本能に立ち返る。
 だが、あかねが身構えるのと、稚媛がなびきへと襲いかかるのは、殆ど、同時だった。いや、正確には、稚媛が襲いかかる方が、一瞬だけ早かった。その一瞬が、生死を分ける。
 稚媛が襲いかかる刹那、なびきの動きが止まっていたかのように見えた。何かに気を取られて、逃げるのが遅れたのかもしれない。いや、一撃目をかわしたとしても、武道に心得が無いなびきにとって、稚媛の強襲は避けられなかったろう。

「なびきお姉ちゃんーっ!」
 悲鳴にも似た怒号が、あかねの口から飛び出した。
 まるで、スローモーションを見ているように、稚媛はなびきへとダイビングしていく。なびきの身体が、突き倒されて、床に倒れこむ刹那だった。

 パアン!

 巨大な風船でも割れたかのような音が、響き渡った。

「え?」
 あかねは我が目を疑った。
 今しがた、床に突き倒された、なびきの身体が、風船が割れる如くに吹き飛んだのだ。跡形もなく。その勢いに煽られて、あかねも床へと尻もちをついた。
「かっ、なびきお姉ちゃん?…き、消えた?」

 何が起こったかわからず、あかねはなびきが消えた辺りを見つめていた。
 と、上から、何か、ハガキ大くらいの紙切れが舞い降りてくる。何かの呪文でも書いてあるのだろうか。文字のような図形のようなものが、朱墨で書かれているのが目に入った。
 空振りされたのは、稚媛も同じで、目をキョトンとさせながら、なびきの姿を探していた。

「やっぱりね…。」
 と、円が腕組みしながら、しかめっ面をして吐き出した。

「やっぱりって何よ!なびきお姉ちゃんをどこへやったの?あんたたちっ!」
 キッとした表情で、あかねは円へ声を荒げた。

「おかしいと思ってたのよ…。あの、なびきって娘は…。あんまりあたしたちと関わろうとしなかったし…。そう、式神だったのね。」
 円は忌々しげに、吐き出した。

「式神?」
 あかねが問い質すと、円は、足をバタつかせている稚媛の首根っこを右手で抑えつけながら言った。放っておくと、あかねに襲いかかりそうな勢いだったからだ。

「ええ、これは式符。なびきって子は、この式符によって作られた式神だったのよ。」
「お姉ちゃんが式神?稚媛が、襲ったから消えたんじゃないの?」
 事態が呑み込めず、あかねは円へと食ってかかった。
「あんたの姉に扮した式神よ。生身の人間が、弾け飛ぶように消えさる訳、無いじゃないの…。たく。こんな手の込んだことをして…。」
 円は、ひらひらと舞い降りて来た紙切れを、稚媛を抑えつけていない左手で握りしめた。
「多分…佐留の仕業ね…。ご苦労なことねえ…。きっと、あんたたちをこの世界へ引きこんだ刹那に、隙をみて、思金に頼んで式神を仕込んで貰ったんだんだわ…。」
 手に取った紙切れには呪文の他に「天道なびき」と赤文字で記されていた。

 ふうっと円は溜め息を吐きだした。

「思金(オモイカネ)?」
 その言葉をあかねが反すうすると、円が言った。
「ええ…。思惟(しい)の神の名前よ。聞いたことがない?記紀神話にも出てくる神の名前よ。「通訳」のために、遣わしたのかもしれないけど…。」
 円が言った。
「通訳?」
 あかねが怪訝な顔を手向けた。
「ええ…。本来、言葉は時代と共に変遷をするもの。じゃないと、平成の人間と奈良時代に人間の言葉が通じるわけ、ないじゃない。きっと、どこかに、思惟の神を模した式神を潜ませていると思っていたけど…こんなに傍にあからさまに侍らせるだなんて…。やるじゃないの。
 相当な力の持ち主ね…佐留は。」

「今…平成って…言ったわよね。」
 あかねは、円の言葉を聞き逃さなかった。
「何で…あんたに、あたしたちの時代が、平成ってわかるのよ?」
 と問い質す。

「うふふ、残念だけど、今夜のおしゃべりはここまでよ。続きはまた、明日…。天道あかねさん。」
「何で…あたしの名前を…知って…」
 そう巡らせかけたあかねの口に、濡れた布切れを嗅がせた。
「う…。」
 あかねは思い切り、布についた液体を吸ってしまった。

「うふふ、ちゃんと、明日、教えてあげるわ。」
 円の顔が傍で揺れた。

「これって…化学薬品の臭い…。」

 あかねは遠ざかる意識の下で、凡そ、奈良時代とは無縁の薬品の香りを嗅いだ。恐らくこれは、現代社会から持ち込まれた睡眠誘導の薬剤。例えば、クロロホルムのような。

 バサッとあかねの手が、力無く抜け落ちる。


 円は、何を思ったか、倒れたあかねを支えると、懐を、ごそっとまさぐった。
 そして、首にかかった勾玉を取り出す。
「やっぱり…入れ違っているみたいね…。この黒い勾玉は元々乱馬ちゃんの物の筈…。」
 そう言いながら考え込んだ。
「もう一細工しないといけないわねえ…。面倒くさいけれども。」
 にっと笑った円の後ろをじっと見つめる黒い瞳。
「何、しみったれた目で見てるのよ。仕方ないでしょ?あのなびきって子が式神だって、私もあんたも見抜けなかったんだから…。 
 稚媛。あんたも、おやすみなさい。明日は忙しくなるわ。力を温存してもらわないと…。」
「まだ、魂が足らぬ…。足らぬなら、この娘から抜いても良いか?」
 稚媛は、あかねを指差した。
「だから、だめだって言ってるでしょう?…。しつこいわね。しつこい子にはこうよ!」
 そう言いながら、円は稚媛の鼻先へと、薬品の浸みこんだ布を嗅がせた。稚媛の瞳が一度、大きく揺れると、そのまま、床へと倒れこんだ。

「ほっといたら、私の魂を抜きにかかるかもしれないし…。ここはおとなしく眠っといていただくわ。稚媛様。」
 円は沈み込んだ稚媛を覗きこみながら言った。
「ふふふ…。夜も更けて来たし、夜更かしは美容の敵だもの…。私も休まなくちゃね…。いよいよ明晩は、念願の龍穴を開くんだから…。」
 あかねを床の寝床へ寝かせ、蒲団をかぶせると、稚媛を抱き上げて、円は部屋を出て行った。





四十三、来襲


 太陽が頭上高く南中した頃、乱馬はようやく、目を覚ました。時間も、正午ごろだろう。
 明け方、まどろんだので、時間にして、八時間余り、眠りこけていたことになろうか。普段の睡眠時間より長めではあったが、古代へ来て、緊張の連続だった乱馬にとっては、八時間の睡眠でも、物足りない気がした。
 だが、あかねの危機を目の前にして、そう、ゆっくりと眠りこけている訳にもいかない。

 ふぁああっと大きな背伸びをして、寝かされていた藁の寝床から這い上がる。
 
 外へ出ると、見覚えのある竪穴式住居が並んでいた。
 甘樫丘にある、真神一族の邑だった。
 蘇我の宝を手に入れた後、勇人によって、ここへ運び込まれたようだ。彼らの使っている、藁のベッドへ横たわっていたのだ。

「ほう…目覚めたかの?」
 おじじ様が入口からひょいっと顔を出した。

「ああ…。まだ寝足りねーがな…。」
 大きく背伸びしながら、乱馬はそれに応じた。
「そうかの?麻呂の奴が、気合いを入れる咒法を施していたから、ある程度、回復しているのではないのか?」
「ま、確かに、身体は軽くなったな。」
 と、パタパタと飛んで見せる。

「あとは、腹を満たせばよかろう…。朝餉…いや、もう昼餉じゃな…お主の分も作ってあるから、食べて来い。」
 そう言って、おじじ様は笑った。
「ありがてー、食事にありつけるんだな…。」
 にっこりと乱馬は微笑み返した。

 確かに、寝足りない時や、体力回復が鈍い時は、滋養のある物を食べることは肝心である。それが、戦いの前となると、なおさら食べておかねばなるまい。

「そら、真神の女連中が、たんと作ってくれておるわい。」
 竈の近くへ行くと、野の物、山の物、川の物が、葉っぱや素焼き皿にどっかりと盛られてあった。
「口に合わんかもしれぬが、気付け薬となる薬草なんかで味付けしておるこの汁物は、必ず一杯は飲まれよ。…他は、好き勝手、まんべんなく食べるがよいじゃろうて。」
 おじじ様が言った。
「薬草汁…みてーなものか?」
「まあ、そんな感じじゃな。」

 おじじ様にすすめられて、汁物へ口をつけて、うっと一瞬、顔が曇った。確かに、薬草を混ぜているようで、漢方臭い感じで鼻につく。見た目も、どろっとした灰色の汁で、得体が知れない。
「何か…これ…あかねの作ったものと、変わりねーな…。見た目も臭いも…。」
 正直飲む気になれず、じっと碗を見つめていると、麻呂爺さんが横から声をかけてきた。

「これ、ちゃんと飲まぬか。これは、あかね媛が作ったものじゃ。」
「あかねが…作った…。」
 その一言で、乱馬の手が固まった。
 道理で、不揃いの訳のわからない物体が汁の中に浮き沈みしている。しかも、独創的な臭いが漂っている。飲むのをためらったのも仕方がない。
「これはただの汁ではないぞ。なんと、あかね媛の作った汁に、ワシが調合した薬草がたっぷり入っておるんじゃぞ。」
 ときた。
「薬草ねえ…。見た感じ、元気になるというより、力を根こそぎ奪われそうな感じだぜ…。しかも、ベースはあかねの作った汁だし…。」
 たらりと汗が背中を流れた。
 あかねの汁と爺さんの調合した薬草のコラボ。ある意味、奇跡のコラボだ。
「つべこべ言うな。良い薬ほど苦いのが常じゃろうが。それに愛する者が作った汁じゃ。これで力も満杯になる筈じゃ!」
 真顔で、麻呂爺さんが迫って来る。
「あかねの汁は力を根こそぎ奪いそうなんだけど…。」
 ジト汗を流しながら、思わず苦笑が漏れる。

「おぬし、この世界へきて、ずっと突っ走りっぱなしじゃったろう?相当、疲れも蓄積しとろうて…。
 これを飲めば、たちどころに疲れなど消えるわい。
 ほれ、あかねちゃんを助けに行かねばならんのじゃろう?さっさと飲めっ!男らしくっ!」
 麻呂爺さんは、湯呑み茶碗をがっしと掴むと、目の前の乱馬の口元に、無理やり押し付けた。

「うっぷ…。」

 口の中に、一瞬で広がる、強烈な味。そして、臭い…。

「何だ?これは…。やっぱ、あかねの汁がベースなだけあって…思いっきり不味い…。」
 と苦言を呈する。

「薬湯は不味いものじゃ。ほれ、一気にいけ!ちびちびだと、飲めぬぞ!」
 爺さんは、にんまりと乱馬の前で笑っている。

(一気飲み…するしかねーか。)

 どろどろの液体を、口の中へと含みながら、乱馬は、腹をくくった。
 吐き出しても、また、次が注がれることは、火を見るより明らかだ。何故なら、乱馬のすぐ傍で、それと同じ臭いがする大きな壺が、火にくべられて、ぐつぐつ湯だって煙を上げていたからだ。
 じっと、茶褐色の液体を眺め、意を決すると、湯呑みを口につけ、舌先で味を捕えないうちに、ゴクゴクと喉を鳴らして、無理やり胃へと流し込む。
 胃がキュンと唸りをあげると、じわじわと成分が蠢き始めるような感覚。湯を飲んだわけではないのに、カッカと燃え始めたようだ。
 飲んだ後の不快感が、口の中を駆け巡る。何をのませやがったと言わんばかりに、ゲップが胃袋から湧きだしてくるのをじっとこらえた。そうしなければ、飲みこんだ液体が逆流してくるのではないかと思えたからだ。

「どうじゃ?」

「…ったく。本当に効くんだろうな?」
 と爺さんを流し見た。

「ほっほっほ。滋養精力剤じゃぞ。何せ、様々な動植物が入っておるからのう…。例えば…。」

「いい!教えてくれなくてもいい!聞いたら、確実に胃から逆流するぜ…。」
 と、麻呂爺さんの能書きを、寸でで止めた。



 ゴオオッと春風が、乱馬たちの傍を吹き抜けて行く。
 

 真神の里の者たちが、一瞬、ピクンとなった。
 そこここで、思い思いに己の作業をしていた手が止まる。女たちも、男たちも、そして、狼たちも。
 乱馬と麻呂爺さんのやりとりを傍で笑いながら眺めていたおじじ様の表情も、一瞬強張った。

「どうした?」

 皆の反応が気になった乱馬は、おじじ様に問いかけてみた。

「たく…無粋な連中じゃ。まだ、しつこく、真神とやりあうつもりらしいのう…。」
 と座りながら言った。

「あん?」
 何を言っているか、わからない乱馬が、困惑していると、そこら中から真神の猛者連中が、おじじ様の元へと集まって来た。

「おじじ様っ!この臭いは…。」
 隼人が開口一番、おじじ様に対した。
「ああ…。小治田宮の連中…いや、小治田宮を牛耳っとる連中の臭いじゃな…。」
 おじじ様はそれに答えた。

「小治田宮を牛耳ってる連中がどうしたって?」

 乱馬が問いかけると、浅人が言った。

「そうか…、乱馬の兄貴の鼻や耳は、俺たちほど、利かねーんだっけ。じゃあ、わかんねーか。昨日、この里を襲った奴らと同じ臭いをした連中が、また、甘樫丘を登ってきてるんだよ。」

「何だって?」
 乱馬は驚いた。

「まあ、奴らにとって、真神は目の上のタンコブみたいな存在じゃからな。どら、受けて立たねば、子供らが納得しないじゃろうし…。」
 おじじ様は立ちあがった。
「じゃあ、俺も…。」
 と言いかけた乱馬を、おじじ様は止めた。
「おまえさんは、体力を温存しておけ。」
「温存って…。」

 と言いかけた、乱馬の上から、おじじ様は水を浴びせかけた。
 みるみる、女の身体へと変化する。

「なっ!何しやがる?」
 急に水をぶっかけられて、乱馬は怒鳴った。

「おまえさんには、別に使命があろう?…こんなところで時間を食うのは忍びない…。女の格好じゃと、連中も油断して見逃すじゃろうから…麻呂と行け!」
 とおじじ様は言い放つ。

「でも…。」
 と食い下がる乱馬に、麻呂爺さんが横から言葉をかけた。

「真人の言うとおりじゃ。乱馬よ、おまえには、あかねちゃんを助けるという、もっとも大切な使命があろう?ここで無駄に体力を消耗するのは、どうかと思うぞ。
 それに…真神の連中とて無能ではないわい。」
 ぐっと、乱馬の肩を掴んで、引き戻した。

「わかったよ。」
 乱馬は渋々納得した。
「でも、何で女にわざわざ変身させたんだ?」
 と苦言を言うのを忘れない。男の方が、戦闘力は高いからだ。
「女だと敵も油断するじゃろうしな…。それに、途中、飛鳥川を渡らねばならん。どの道、女に変身しなければ、小治田宮には辿りつけんじゃろうが。」
 と麻呂爺さんが、もっともらしい答えをした。

「浅人!二人を案内しながら、小治田宮へ行け!」
 おじじ様は傍に居た、浅人へ命じた。

「わかった!兄貴、俺に着いて来な!」
 そう言って、浅人は先に立って、二人を促す。

「行くぞ!乱馬。」
 麻呂爺さんの声を合図に、浅人を追って、走り始めた。

 急な斜面を一気に駆け下りる。

「こっちなら、人の気配が無いぜ。」
 浅人は人の気配を読みながら、駆けた。
 狼に変身できる彼にとって、人の気配を読むのは訳も無いことのようだ。
反対側の方向には、大勢の人の殺気が立ちこめている。その間を縫って、浅人はどんどん、先を急ぐ。
「さすがじゃな…。目をつぶっていても、走れるくらい、浅人の案内は正確じゃな。」
 麻呂爺さんは、感嘆して見せた。
「油断すんなよ!爺さん!」
「わかっとるわいっ!誰に物を言っておる。」
 ときどき立ち止まっては、浅人は人の気配を読む。
「やべっ!人が来る!隠れてっ!」
 という合図で、爺さんも乱馬も、茂みへと身を隠す。そして、みじろぎもせず、気配を断つ。

 来るわ、来るわ。ぞろぞろと、槍や弓やの鉄の武器を片手に、甘樫丘を登って行く、軍勢。

 じっと、息をひそめて、そいつらをやり過ごした。


「あいつら…最新鋭の武器を持っておったな。」
 と、麻呂爺さんはぼやく。
「鉄の武器が最新鋭ねえ…。この時代には、爆弾や鉄砲は存在してねーか…。」
 乱馬は呟く。

「ほら、ぐすぐすしてねーで、この先で、飛鳥川を渡るぜ。」
 浅人が、こっちへ来いと言わんばかりに、右手を振った。

 今では、そう、急流ではない飛鳥川だが、当時は整備すらされていない。春先とはいえ、草木が伸び放題に、一行の行く手を阻む。野性児とはいえ、乱馬には少しきつい道程だった。が、このような状況に慣れている、爺さんと浅人には、お茶の子さいさいのようだった。
 木枝をバキッと折ると、それを露払いに、覆いかぶさって来る、草木を払う。
(たく…、この俺が遅れを取る訳にはいかねーな。)

「この先を渡れば、小治田宮だ。」
 浅人に促されて、飛鳥川を渡る。雨による増水も無く、水はゆっくりと流れている。が、川は水深が急に深くなる。
 浅人はザブンと水に入ると、狼になって、乱馬と爺さんを先導する。
「たく…春先の水はまだ、冷てーや…。」
 と、文句を一つ吐き出すと、乱馬も浅人に従って水に飛び込んだ。川の流れは緩やかだが、それでも、幾分か下流の方へと身体を持って行かれそうになる。それを、ぐっと堪えながら、向こう岸へと渡りきるのに数分。
「橋が無いと不便だぜ…。」
 と思わず吐き出した。
「橋を渡すには高度な技が要るでなあ…。そう、易々とはかけられんよ。」
 麻呂爺さんが笑った。
「それでも、橋は存在してるのかよ?」
 乱馬が問い返すと、爺さんは頷く。
「当り前じゃ。この辺りにも昔は橋がかかっとったが、蘇我一族が滅んで以降、いつの間にか潰えてしまって久しいわい。」
「潰える…か。まあ、仕方ねえか、コンクリの橋じゃなくて、木の橋だったら、長い間水に浸かってると、腐るよな…。」

「さてと…。小治田宮は目と鼻の先じゃが…。」
 そう言いながら、先を見つめる麻呂爺さんの瞳が険しくなった。
「!」
 乱馬にも、その様子が手に取るようにわかった。すぐ目と鼻の先で、複数の人の気配が立ったからだ。しかも、そいつは、殺気を含んでいた。

「簡単に、この先へ入れて貰えそうにもないかのう…。」
 麻呂爺さんはすっと身構えた。
「ああ…。そうみてーだな。」
 乱馬も息を整えると、身構えた。

 彼らの視線の先には、数人の男に混じって、一人の女性が立っていた。見覚えのある顔。

「桂さん…。」
 乱馬の口がそう象った。

「危ないっ!」
 脇から、麻呂爺さんが飛び込んで来て、乱馬を跳ねのけた。

 シュッ!

 と、乱馬の脇を、クナイのような小さな剣がかすめ飛ぶ。スパンと勢いよく、乱馬の着ていた白い衣服の袖が裂けた。

「油断するな!今の桂ちゃんは、ワシらを敵としか認識しとらんぞ!」
 乱馬を跳ねのけた麻呂爺さんが、脇から怒鳴った。

「敵だって?」

 ハッとして、見据えると、第二弾が飛んでくる。

「くっ!」

 乱馬は横に飛びながら、クナイを避けた。

「傀儡の術にはまっておるな…。いや、元々、ワシには敵愾心を持っておっても不思議ではないようじゃが…。」
 麻呂爺さんは、無表情で攻撃を仕掛けて来る桂を見ながら、そう吐き出した。

「あん?爺さんに敵愾心だあ?」
 乱馬が問いかけると、麻呂爺さんは小さく頷いた。

「桂ちゃんは伊賀の出身みたいじゃからのう…。」
「伊賀の出身だったら、何で敵なんだ?」
「そりゃあ、伊賀皇子の母君は伊賀の国司(くにのみやつこ)の娘じゃったしのう…。それに、ワシが伊賀皇子の首を切り落として、大海人皇子様に寝返っておるし…。」
 爺さんは鋭い視線を巡らせながら答えた。

「でも、そいつは、爺さんじゃなくて、伊賀皇子の意志だったんだろ?」

「伊賀皇子の意志だろうとなかろうと…伊賀の里の者には関係ないよ。ワシが寝返った事実しか、伝わっておらんだろうしな。それが証拠に、物凄い殺気がたっとろう?傀儡の術にかかっただけで、ここまで激しい殺意など抱けんよ…。
 これは、元々、桂ちゃんがワシに、時々、思い出したように手向けてくる冷たい殺気と同じ気じゃ。
 まあ、桂ちゃんを預けた奴は、一部記憶を操作されてワシに預けたようじゃが…。」
 爺さんはポツンと吐き出した。
「あん?記憶操作?」
「ああ…、何か不都合な事でもあったんじゃろうな…一種の暗示みたいなのをかけられておったようじゃが…。それが外れたと見える。いや、外すというより、憎悪の念を強く彼女を操ってる奴が後ろに居るとみて良かろう…。」


 乱馬が声を張り上げると同時に、コンコンコンと、桂が投げ込んでくるクナイが、すぐ傍の木に突き刺さる。

「気を抜くなよ!乱馬っ!」
 爺さんは怒鳴った。
「わかってらー!」
 桂の標的にならないように、始終、身体を動かしている。

「なあ、桂さんを預けた友人って…もしかして…。」
 逃げまどいながら、乱馬は爺さんへと尋ねた。
「ああ、柿本佐留じゃよ…。あやつが伊賀国へ出向いた時に、連れ帰ったようじゃった。」
「佐留ねえ…。」
 乱馬は己の腰元に収まる、錆びかけの名剣「真布都の剣璽」を見ながら吐き出した。この剣璽を手に入れる時に入った不可思議な空間に、柿本佐留は存在していたのを思い出していた。

「ワシに預けるにあたって、奴め、桂ちゃんから記憶を一部改正でもしたんじゃないかのう…。」
「何のために…そんなこと。」
「無論、ワシに必要以上の殺意を持たせぬためじゃろうな。」
「そもそも、何で桂さんは麻呂爺さんに預けられたんだ?」
「さあな…。佐留は肝心なところはぼかして、ただ、桂ちゃんをワシに預けるや、さっさとどこかへ行ってしまったんじゃよ。…そして、それっきり、ワシの元には顔をださなんだ…。」
 麻呂爺さんは言った。
「それって何か…キナ臭いな…。」

 そう吐き出した乱馬の傍を、クナイがかすめて飛んでいく。
 
「これっ!考え込んで、動きを止めるな!」
 爺さんは怒鳴った。

「けっ!こんなの、当たるもんか!」
 乱馬は強気ではき返した。


「ま、今の桂ちゃんには、ワシは、伊賀皇子の仇…そうとしか、認識しとらんということだけは、確かじゃやな。」

 そんな会話を大声でかわしながら、麻呂爺さんと乱馬は、攻撃を仕掛けて来る桂の強肩から、紙一重で逃げ惑う。
 味方ならば、心強いが、一旦敵に回すと、なかなか手強い。また、なまじ、仲間意識があるので、こちらから攻撃を仕掛けるのは、ためらわれた。
「うーむ、やっぱり、桂ちゃんは伊賀皇子ゆかりの一族の出自か…。」
 爺さんは独り言のように吐き出した。

「おい、今、何て言った?」
「じゃから、桂ちゃんはワシが首を切り落とした伊賀皇子ゆかりの者なんじゃろうて…。」
「はん?」
「恐らく、ワシが首を切り落とした伊賀皇子の養育に関わった一族じゃよ…。この憎しみの情念は、ちょっとやそっとの暗示操作術だけで引き出せるものではないわい。」

 シュッ、シュッと、桂は持ち駒のクナイを手裏剣のように、巧みに投げて来た。

「何か、なまじ、味方だっただけに、攻撃もし辛いぜ…。」

 桂を傷つけることをためらう分、乱馬たちの分が悪かった。

「このままじゃ、らちがあかんな…。よしっ!こうしよう!」
 爺さんは意を決するように乱馬へと、命じた。

「乱馬!構わん、お主は先に行けっ!」
 麻呂爺さんが怒鳴った。

「おい…。爺さん一人で、桂さんに対処できるのかよ?」
 と乱馬は怒鳴った。

「おまえさんの目的は、あかねちゃんを助けることじゃろ?こんなところで時間を食っておったら、不味いのではないか?」

「けっ!太陽が落ちるまでは、爺さんの貼った結界は有効なんだろ?」
 と乱馬はそれに応じた。

「いや、どうもさっきから悪い予感がするんじゃ…。」
 麻呂は続けた。

「悪い予感だあ?」
 ぎょっとして麻呂を見返した。

「ああ…。空気の流れが変わった…。ワシの貼った結界が崩れるよりも早く、あかねちゃんに危機が迫っているかもしれん…。」

「何だとー?」
 爺さんの言葉に、乱馬は過剰反応してしまった。一瞬、気が乱れたことで、防御が甘くなった。
 武に腕がある桂は、その一瞬の隙を見逃さなかった。

 わっしと両手を広げると、更に持っていたクナイを、一斉に乱馬目掛けて弾き飛ばした。

「うわっ!やべーっ!」
 逃げ遅れたと思った。投げられたうちの一本が己に刺さる…。そう思った瞬間だった。


 ピカーッ!

 腰元の錆剣が、黄褐色に光った。

「え?」

 柄の方から流れ出る、不思議なきらめき。そいつは、乱馬目掛けて飛んできた、クナイを弾き落とした。
 カランと音がして、乱馬の足元に、クナイは弾け散った。
 いや、そればかりではない。
 剣が鞘から抜け出るように、柄の元から、強い黄金の光が、桂目掛けて、飛んだ。

 まばゆいほどの一瞬の輝き。突き刺すように、桂の険しい顔を目掛けて、真っ直ぐに飛んだ光。
 その眩しさに耐えかねたのか、桂の攻撃が緩んだ。

「剣璽から光が…。」
 その光を見て、麻呂爺さんの頬が緩んだ。
「なるほど…。おまえが乱馬を呼んだのか。佐留…。」

 佐留が剣璽に宿っていることを、今の光の攻撃で麻呂爺さんは悟ったようだった。
 そして、何が何だかわからずに、戸惑っている乱馬へと一喝した。

「行けっ!乱馬!その剣璽があかねちゃんのところへ導いてくれるじゃろう!迷わず行け!」
 と叫んだ。
 その合間にも、桂は態勢を立て直し、攻撃を仕掛けてくる。
「でも、この状況じゃあ、俺が抜けると爺さんに不利なんじゃあ?」
 桂の攻撃を避けながら、乱馬が怒鳴った。
「かまわん!ワシとて無能ではないわいっ!自分の身は自分で守る!
 迷うな!行け!あかねちゃんを守れ!それがおまえの使命じゃ!何より優先されるな!」

 麻呂爺さんの叫びに、乱馬は意を決した。
 この場を離れ、あかねを助けに行く。

 倭国を守ることよりも、小治田宮を奪取することよりも、何より優先させねばならぬこと。それは、己の許婚を守り切ることだ。彼女を奪回すること…今の乱馬の最優先的事案だった。

「わかった!爺さん!死ぬなよ!」
 乱馬はそう言葉を投げると、戦線を離脱しにかかった。
 
「行けー!乱馬よ!あかねちゃんを奪い返せ!しくじるなよ!」
 麻呂爺さんはそう叫ぶと、攻撃を続ける桂へ向かって、突っ込んで行った。



 乱馬は戦線を離脱すると、一目散に小治田宮へ向けて頭を向けようとした。
 と、グッとそれを押しとどめようとする力が腰元に入った。
 左足を出そうとするのを押し留められたのだ。何かの力に。
 
 負荷が働いたので、ハッとして左足を見た。
 と、左腰に結わえていた剣璽が鈍く光を放っているではないか。
「なっ?真布都の剣が光ってる?…。」

 と、剣璽から気配を断っていた佐留の声が響いて来た。

『須弥山(しゅみせん)の池へ行け!乱馬!』
 と叫んだ。

「しゅみせん?」
 思わずきびすを返していた。聞き慣れない言葉だ。
『須弥山だ!』
「知らねーぞ…そんな池!」
 咄嗟に答えを返した。古代人ではない乱馬はこの辺りの地理は皆無に等しい。
『ワシが案内してやる!とにかく急げ!じゃないと、お主の許婚が危ない!』

「あかねが危ないだあ?」
 思わず怒鳴り返していた。

『ああ…。急げ!須弥山はこっちじゃ!』
 剣璽は勝手に乱馬の腰元から、浮き上がって一方向目掛けて道案内を始めた。

「でえっ!足元が悪いんだ!急に動くな!」
 転びそうになるのを堪えて乱馬が叫んだ。その合間を縫って、敵の矢じりも飛んでくる。が、剣璽はそんなことはお構いなしで突き進み始めた。
『矢ぐらい避けられよう?それより、急げっ!』
「簡単に言うな!」
 怒鳴りながらも、乱馬は器用に弓矢を避けながら、剣璽の指す方向へと走り始めた。




四十四、デリート


 じめじめした嫌な空気が、鼻先をかすめる。生ぬるい風がどこからともなく渡って来る。
 
「こ…ここは…。」
 あかねは、ふっと意識を取り戻した。


「そうだ…あたし、円に変な薬品をかがされて、意識を失ったんだわ。」
 
 動こうとして、すぐに、それが出来ないことに気がつく。
 手と足、ともに広げる形で、何かに仰向けに固定されていた。幾重にも縄が張り巡らされ、動くことはできない。大の字で身体を固定されている。そう、股が大きく開いた状態なのだ。
 しかも、前開きの着物のような衣服に着替えさせられていた。滑らかな生地で、絹で織られたことがわかる。色も白一色。それも、裳ははいておらず、ひざ上くらいまで、長く垂れ下がった上衣一枚きりだ。
 帯は無く、縫いつけられた短い紐で、わき腹と胸辺りを蝶結びで結んである。
 頭には、鉢巻を巻き、耳後ろ辺りに、玉串のような広葉樹の葉っぱがついた枝をさしている。
 腰元は、スースーするところをみると、明らかに、下着を身につけていない。つまり、ノーパンツ、ノーブラジャーだ。
 みだらな格好をした巫女…そんな形容がぴったりくるような、あられもない格好だった。

「な…何よ、これ。」
 思わず、赤面しながら吐き出した。

「ふふふ、なかなか好い眺めだこと…。」
 真正面から声がした。円の声だ。

「あんた、何のつもりで、こんなところにあたしを縛りつけてんのよ。」
 キッとした表情で、声の主に吐きつける。

「良いでしょう…ご説明してさしあげましょうか…。あなたの行く末を…。」
 クククと円らが笑った。

「クク、これから私は、隠(いなば)の扉を開きます。が…その前に、是が非でもやっておきたいことがあるのですよ…。」
「隠(いなば)の扉ですって?あんた、その封印を解こうというの?」
 あかねは、己の前に歩んで来て、立ち止った円を睨みつけながら言った。
「まあ、そういうことですね。」
 ふふっと円は小さく笑った。
「そんなことすれば、この国が混乱に陥るんじゃないの?」
 きつめに、言葉を投げつけた。
「混乱など生じさせませんよ…。そのためにあなたがここに居るんですもの。」
「何それ…どういう事?」
 わからないという表情であかねは円を見上げた。

「不老不死の力を手に入れて、新しい歴史を作りたいの。私はね…。でも、歴史はそう簡単には変わらないわ。一度、平成の御世まで流れてしまった歴史はね…。
 この国の未来を確実に塗り替えるためには、既に存在する未来を消さなければならない…。だから、そのための術をこれから施すの…。
 そして、その術を施術するには、未来から召喚された人間が必要になってくる…。そう、あなたのような未来人がね…。」

 冷たい微笑みを浮かべた円に、思わずゾクッとする。人というよりも、何かもっと陰湿なモノが彼に憑依しているような、感覚。

「あんた…。一体何者なの?」
「ふふ、何者なのでしょうねえ…。」
「円っていうのは、本当の姿じゃないんじゃないの?平成って言葉も知っているようだし。」
 あかねはたたみかけた。
「ふふふ、なかなか、鋭いんですね…。私も、平成の御世に居た者ですからね。」
「な…何ですって?」
 あかねははっしと円を見やった。
「あたしたちと同じように、時を飛び越えて、この時代へ飛ばされたっていうの?」
「もっとも、私の場合は、自発的にこの時代へ来た…のですけれどもね…。」
「もしかして…あんたが、あたしと乱馬をこの世界へ呼んだとか…。」
 円は、あかねの方へと瞳を流した。
「まあ、そうなりますね。でも、私が呼んだのは乱馬ちゃんだけなんですけどねえ…。」
「どういう意味よ…それ。」 
 はっしとあかねが円を睨んだ。円は笑いながらあかねを見下ろしている。
「どう言う意味も何も…あなたは招かれざる客人(まろうど)なんですよ…天道あかねさん。」
 ぐっとあかねのアゴへ手を伸ばし、円はすかし見た。
「本来、ここへ縛りつけるのは乱馬ちゃんの筈だったんですけど…いろいろありましてねえ…プランを練り直さねばならなかったんです…。で…プランを練り直して修正した結果、最初は乱馬ちゃんに担って貰う筈だったこの役割を、あなたに担って貰う事になったのよ…天道あかねさん。」
 そう言って、円はあかねのアゴから手を離した。

「何よそれ!訳わかんないわ!あたしの役割って何よ!」
 あかねは円へと怒鳴りかかった。

「未来をデリートするための礎石となって貰います。」
「未来をデリート…消去…ですって?」
「ええ…私もあなたも乱馬ちゃんも未来から来ました…。つまり、一度時は千三百年を流れて行ってしまったわけです…。それをデリートするためには、それ用に術が必要となりますからね…。」
「未来をデリートする?…どうして?」
「ごっそり平成まで流れた歴史を消し去り、改めて、この奈良時代からやり直すのよ…。」
「何ですって…。」
 呆気にとられているあかねを前に、円は続けて弁舌をふるった。

「ここは時空の入口です。ほら、すぐ傍に、亀石が居るでしょう。亀石は時空の門番。」

「亀石…門番…。」
 あかねは記憶を巡らせた。

「亀石を動かせば奈良盆地は水に沈む…あの時、お爺さんが言っていたでしょう?忘れましたか?」
 ニヤリと円が笑った。
「あなた…まさか…。」
 じっとあかねは円を睨んだ。
「ええ…一部始終、目の前で見ていましたよ…。」
「でも、あの時、一緒に居たのは若いカップルだったわ。そうよ、若い女の子も居たわ…。」
 ハッとあかねは円を見上げた。もし、円があの時の男だったとしたら、女の子はどうしたのか…。そう問いかける前に、円が口を動かした。

「ええ…。あなた方一行が亀石を動かしてしまった…。僕たちより先に…。だからプランが変わってしまった。」

 円は恨めしそうにあかねを見下ろした。一瞬、表情思い切り沈んだ。

「あの女の子はどうしたの?」
 恐る恐る問いかけたあかねから円は目を反らせた。

「それにお答えする義理はありませんよ…。最初は乱馬ちゃんだけを招こうと思ったのですけれどねえ…。でも、何故か、あなたも乱馬ちゃんと共にこの世界へ召喚されてしまった…。だから、プランを変えました…。
 あの男も、礎石にするのは、乱馬ちゃんよりあなたの方が良いと、言っていましたから。」

「あの男?」
 あかねは怪訝な顔を円へと手向けた。
「ええ…。もう一人…未来から召喚し、ずっとここに待機させていた男が居るのよ…。」
 そう言いながら、円はパチンと指を鳴らした。

 ゴゴゴゴゴ…。

 指鳴りと共に、空間がをたて始めた。亀の口の前の空間が歪み、そこから吐き出されるように、一人の男が現れた。頭に黄色いバンダナを巻き、黒っぽい個性的な衣服を着ていた若い男。
 吐き出されると、意識を失っているのか、パタンと前のめりへと崩れるように倒れた。

「り、良牙君ッ!」
 その姿を認めて、思わずあかねは叫んでいた。

「やはりお知り合いでしたか…。それは良かった。」
「良かったってどういうこと?何で、良牙君までここに居るのよ!」
 あかねは咬みつかんばかりに、円を睨みあげた。
「デリートに必要な駒ですからね…この少年も。それに、君も知らない男より知っている男に抱かれたいでしょう?」
「抱かれたい…?」
「ええ…。未来を消去する術には、男女の交わりが必要なんです。」
 するっと円が言って退けた。
「なっ!男女の交わりですって?」
「そう…つまり、平たく言えば…セックスです…。」
「まさか、あんた…。あたしと良牙君とを…。」
 あかねはそう言って絶句した。
「ふふ、そのとおりよ…。そのための陣をここへ描いてあるのよ。そして、あなたはその術の要。あなたには未来を閉じるための杭柱の礎石になってもらいます…。」
「礎石ですって?」
「ええ…礎石よ。杭となる柱を支えるためのね。寺や塔を建てるとき、柱の下には石があるでしょう?つまり、良牙って子の男性器が杭柱なら、あなたの女性器は礎石。で、この下に描いたのは術式の布陣よ。」
「何ですって?」
 冗談ではないと、あかねは声を荒げた。
「礎石に柱が穿たれた瞬間、平成の御世までの歴史は全てデリートされるののよ。素敵な術でしょう?」
「ちっとも素敵じゃないわよ!そんな術!」

「ふふ、拒んでも無駄よ。」
 そう言いながら、円はあかねへとにじり寄った。
 そして、ガサガサと胸元へと手を伸ばし、あかねの懐から黄色い丸石を取り出した。良牙がお土産だと言ってあかねに手渡した、あの黄色い丸石だ。
「あったわ…。良牙ちゃんがあんたに贈った印の石。」
 それを手に取ると、ニヤリと厭らしく笑ってみせた。
「印の石?」
「ええ…印の石よ。これで良牙ちゃんを操れるわ…。」

 愉しそうに円が笑った。そして、くるりと背を向けると、意識を失ったまま倒れている良牙の髪の毛を掴んで、顔を起こした。そして、あかねから奪い取った黄色い丸い石を良牙の額へと宛がった。
 と、鈍い光を発しながら、黄色い玉は良牙の額で光り始めた。
 それに反応するかのように、良牙の瞳に光が灯った。黄色い光と同じ色調の光が良牙の目に宿る。
「待たせたわね…良牙ちゃん。この空間では歳は取らないから、あの時のままだけれどね…。さあ、起きなさい…。良牙ちゃん…。」
 ゆっくりと良牙は上体を起こす。まるで黄色い玉に操られているかのように、眼は虚ろだった。無論、無言だ。だが、息使いだけは荒く、ハアハアという音が聞こえて来た。

「さあ…良牙ちゃん…あんたの女神様はあそこに居るわよ…。」
 円が良牙の耳元でこそっと囁いた。

「俺の女神様…。」
 虚ろげな瞳をあかねの方へと良牙は落とした。

「ええ、あなたの女神様はあの娘よ。さあ、女神様を貫きなさい…その逞しい柱で。」

「俺の柱で…女神様を貫く…。」
 無表情のまま、良牙はあかねを見据えた。そして、ゆっくりと良牙はあかねの方へと歩き始めた。

「ちょっと!良牙君!冗談はやめてっ!」
 あかねは焦って声を荒げた。

「叫んでも無駄よ…。最早、良牙ちゃんにあなたの声は届かないわ。あなたを抱くことだけに意識が集中しているのよ…。」
 クスッと円が笑った。
 近づいて来た良牙は、あかねの真上に来ると、その歩みを止めた。そして上からあかねをじっと覗きこむ。

「良牙君!お願い、正気に戻って!」
 あかねは懇願するように見上げたが、良牙の瞳は虚ろにあかねを見下ろすだけだった。フウッと息を大きく吐き出すと、あかねの下半身へと右手を伸ばしてきた。
 無論、下着など身につけていない。そこへとスッと人差指を宛がう。まるで、礎石の位置を確かめているような動きだった。
 と、徐に、ズボンへと両手を伸ばし、ズルッと下げた。
 思わず目を背けたあかね。

「へえ…案外、せっかちなのねえ…。この子ったら…。前戯もなしに…いきなり…貫こうというの…。まあ、それも良いかもしれないわねえ…。一思いに一気に…。」
 円は少し離れた位置に立って、笑っていた。悪趣味なことに、良牙とあかねの濡れ場を見学しようと思っているらしい。

 あかねは必死で良牙に訴えかけた。
 良牙の様子から、彼が正気の沙汰ではないことは一目瞭然だった。
「良牙君っ!ダメよっ!」
 近づいてくる良牙に向かって、声を荒らげた。

「諦めなさい。あかねさん。あなたが良牙ちゃんの太い柱に貫かれた時、未来は跡形も無く消える…。そして、新しい時が始まるのよ。ふふふ、あはは…。」
 円が笑い始めた。
「さあ、良牙ちゃん…一気に女神様を貫きなさい!」

 良牙はあかねのに馬乗りになると、あかねの腰へ両手を滑らせ入れた。そして、フウッと一息吐き出すと、グッと引き寄せる両腕に力を入れた。

「やめてぇーっ!良牙君ーッ!」

 嗄れんばかりに張り上げたあかねの絶叫が、暗く広がる空間へと響き渡っていった。



つづく



一之瀬的戯言
 邪悪な切り方だなあ…。
 ま、このままじゃ終わらないんだろうけど…。
 
 というか…妄想が変な方向へ走っているのは…多分、別天地作品に力入れているせいだと思います(滝汗


(c)Copyright 2013 Ichinose Keiko All rights reserved.