◇飛鳥幻想 
第十四話 佐留


四十、真布都の剣璽

「で?今夜はさっさと寝ちまうってーのか?」
 乱馬は燃え盛る火を見ながら、ジロリと麻呂爺さんを見やった。
「こうしている間にも、あかねに危険が及んでるのかもしれねーんだぞ。俺は、すぐにでも、助けに行きてえ…。」
 乱馬は、チラリと麻呂爺さんを見やった。
 辺りでは、真神の者たちが、せせこましく動き回っている。食べ物を運んで来る者、火をくべる者、怪我人を看る者…。里の者たちが、昨夜よりも忙しそうにしていた。
 ここで暴れまわった阿雅衆の者たちは、今ではすっかり真神の一族たちと打ち解けて、飲食を共にしているほどだ。
 この時代、同じ窯で煮炊きした食べ物を共に食するということは、同じ共同体の一員となったとみなされる。つまり、仲間になることを意味しているのだ。夕刻までの敵は今宵の友…というあんばいで、すっかり和んでいた。
 そんな様子を遠巻きで見つめながら、乱馬は一人、苛立ちを募らせていたのだ。

「今夜は大丈夫じゃ…。あかね殿に危険が及ぶのは明日の日没以降じゃよ。」
「何で、平然とそう言い切れるんだ?何か、根拠でもあるのかよ。」
 いら立った声で、乱馬がヒステリックに麻呂爺さんへと詰め寄る。
「じゃから、言っておろう?ワシの結界は、明日までは強固に働く…。」
「結界が崩れたらどうなるんだよ!」
「明日の日没までは崩れん!」
 さっきから、そういう不毛なやり取りが続いていた。
「たく…相手してられっか!俺は一人でもあかねを助けに行くぜ!」

 そう吐きだした乱馬を、おじじ様がグッと止めた。

「これこれ、若い者はせっかちでいかんのう…。乱馬殿、落ち着きなされ!」
「落ち着いてられっかってーの!」
「おぬしが、焦る気持ちもわからんでないが、急いては事を仕損じるぞ。それに…、あかね殿を助けるための武器も手に入らぬぞ。」
 おじじ様が言った。
 その言葉に、乱馬はピクンと聞き耳を立てた。そして、
「武器だあ?」
 と、きびすを返していた。

「お主に、蝦夷様がワシに託した蘇我の至宝を預けようかと思っておる。」
 おじじ様は平然と言って退けた。
「蘇我の至宝?そいつは、武器になるのか?」
「もちろんじゃ!」
「どこにあるんだ?そのお宝はよう?」
「決まっておろう?蘇我の館のあった場所の上、つまりこの丘じゃ。」
「甘樫丘のどこかにあるってーのか?」
「多分…な。」
「多分だあ?…また、不確定な話じゃねーか!」
 思わず乱馬の声が上ずった。

「やはりな…。布都御霊(ふつのみたま)の剣璽(けんじ)は、この甘樫丘にも眠っておったのか。」
 横から麻呂爺さんが、ひょいっと顔を出して、話に割り込んできた。

「おい…今、何て言った?布都御霊の宿る剣璽…とか言わなかったか?」
 乱馬の顔つきが、少し険しくなった。
「ああ、言ったよ…。蘇我の宝、それは即ち、物部の宝でもあった宝剣、布都御霊の剣璽ことじゃよ。のう、真人よ。」
 麻呂爺さんがおじじ様に視線をやると、おじじ様はコクンと頷いた。
「聞き捨てならねーな…。その、布都御霊の宿る剣璽ってのは、蘇我馬子の墓に収められていたんじゃねーのか?で、あの剣は、敵に持って行かれたじゃねーのか!あん?」
 そう言いながら、乱馬は麻呂へとにじり寄った。

 馬子の墓を暴いた時、麻呂は布都御霊の剣璽を取りに行くとはっきりと言っていた。蘇我の宝が布都御霊の剣璽で、それがこの甘樫丘にあるのであれば、桃源墓に眠っていたあの剣璽は一体何なのか。
 訳のわからない話だ。

「おい…どういうことだ?きっちりと説明しやがれ、じじい!ややこしすぎるじゃねーか!」
 乱馬は麻呂を睨みつけた。

「じゃから、物部の宝剣、布都御霊は複数あるんじゃよ。」
 にべもなく、麻呂爺さんは言い返した。

「初耳だぜ!だいたい、同じ名前の宝剣が何本も存在するもんなのかよ!」
 乱馬は吐き捨てた。

「乱馬よ、そもそも、古き御世に熱き鉄で打ちつけた剣璽は全てが宝の剣じゃ。」
 麻呂爺さんは、あっさりと言い捨てた。
「あん?」
「おぬしらの時代はどうなっておるのかは知らんが、布都御霊の剣が作られた頃は、どの剣璽も全てが宝物じゃったと言っておる。」
「おい…ってことは、布都御霊っていう銘の剣璽は、たくさん存在してるっていうことかよ?」
 当然の疑問を、乱馬は麻呂爺さんへとぶつけた。
「ああ…。物部の八十氏(やそし)と共に生きた布都御霊の宝剣は、倭国に数多(あまた)存在しておる。」
「じゃあ、何で、わざわざ、墓を暴いて取りに行ったんでいっ!そこらへんにゴロゴロ転がっているような銘の剣なら、特別な力なんか持ってないんじゃねーのか?」
 だんだん苛立ちを露わに、乱馬は麻呂爺さんににじり寄った。
「布都御霊は数多あれど、名剣ばかりとは言えぬ。」
「あん?」
「布都御霊の中でも、特に優れた剣璽を「真布都(まふつ)の剣」と呼ぶんじゃよ。ワシは真布都の剣を探しておったんじゃ。多分、奴らもな…。」
 麻呂爺さんは言った。
「ってことは何か?布都御霊の剣の中でも、特に優れた真布都の剣を探してたって?何か、舌を咬みそうだな…。」
「そういうことじゃ。」
「何のために?」
「普通の剣では切れぬ物を切らねばならぬからじゃよ。」
「普通の剣では切れぬ物?」
「ああ…。そうじゃ。例えば、結界とかな…。」
「結界ねえ…。どこぞの漫画じゃあるめーし、結界なんか切る剣が存在するのかよ…。」
 困惑げに乱馬が言うと、麻呂爺さんは得意げに説明し始めた。
「真布都の剣璽は切れぬ物が無いと言わしめる名剣なんじゃ。」
「じゃあ、聞くが、何で、それを蘇我氏が持ってるんだ?布都御霊の剣ってーのは、物部氏の剣璽じゃねーのか?何で、物部氏じゃなくて蘇我氏が持ってるんだよ!」

「じゃから、守屋様の妹の嫁入りの際に蘇我氏へ持ち込まれた剣璽が、真布都の剣じゃったんじゃよ。」
「あん?」
「守屋様の妹、鎌媛様は、蘇我馬子へ嫁いで蝦夷様をお産みになった御方じゃぞ。当時の蘇我氏は飛ぶ鳥を落とす勢いの大豪族じゃったからな…。嫁入りに収められる宝物も半端なものでは物部の恥となってしまう。じゃから、「真布都の剣璽」を二振り持たせたとしても、不思議ではあるまい?」
「二つだあ?きいてねーぞ。」
「ああ、言っとらんから知らんであたりまえじゃ。それに、大抵の者は真布都の剣が一振りしか存在しとらんと思っておるじゃろうて。わっはっは!」
「笑い事かよ!二本存在するってのは、確かなのかよ?」
 乱馬は怒鳴った。
 ここは怒鳴りたくもなる。真布都の剣を手に入れるために、嶋の桃源墓で巨人相手に奮闘し、挙句の果て、敵に持って行かれてしまったのだ。二本存在しているのなら、あの徒労は一体何だったのか。

「確かに、…蘇我氏に持ち込まれた物部の宝剣は二振りあったらしいのう…。蝦夷様より伺い聞いたことがある。」
 おじじ様が、険しい表情を浮かべた乱馬の横から口を挟んだ。

「やはり、二振り、存在しておったか。」
 確かめるように、麻呂爺さんがおじじ様へと問い質した。
「ああ…。そのうちの一つは馬子様が身罷られた時、墓へ一緒に埋められた。そして、もう一振りは蝦夷様が密かに所持しておられたんじゃよ。二振り存在していることを知っていた者は、蝦夷様とワシしかおらん。
 そして…あの乙巳の変の折、ワシに剣璽のことを託して、蝦夷様は逝かれたんじゃ。屋敷へと火を放ち、そのまま、御自害なされた。…我ら真神がここに根城を築いたのも、蘇我の宝を守れという蝦夷様の遺言を履行するためでもあったのじゃからな…。」
「遺言ねえ…。」
「いずれ、その刀剣を必要とする者が現れたら、惜しまず、剣璽の在り処へ案内せよ…と…蝦夷様は申された。じゃから、お主にその剣璽を預けようかと思っておる。乱馬殿よ。」
 おじじ様はまっすぐに乱馬を見やった。
「おぬし、その宝剣を手にする覚悟はあるか?」
 と問い質した。
「その宝剣は、あかねを助けるために役に立つんだろーな?」
「ほっほっほ、物部氏より蘇我へ伝わった至宝の剣璽じゃ。必ず役にたつじゃろう…。」
 おじじ様は得意げに笑った。
「じゃあ、遠慮なく、もらい受けるぜ。」
 乱馬は頷いた。

「では、お主に預けてみようか…。」

「で?その宝剣はどこにあるんだ?」
 乱馬はおじじ様を見やった。

「案内してやるから、ついて来い。阿雅衆の者よ、悪いがこの先は、乱馬殿とワシと麻呂の三人にしてもらうぞ。はからずしも、蘇我の宝じゃ。他の者を通す訳にわいかんからな…。麻呂は剣璽の元の持ち主である、物部の氏の代表として、付き合ってもらうかのう…。」
「わかった…。ワシらは、ここで待たせてもらおう…。」
 阿雅衆のリーダーはコクンと頷いた。

「じゃあ、乱馬殿、麻呂、こっちじゃ。ワシについて来い!」
 そう言いながら、おじじ様は乱馬と麻呂爺さんを促すと、焚火の中から一本、適当な松明を取りだした。そして、それで闇を照らしながら、集落がある場所から離れた場所へ向かって歩き始めた。

「こっちじゃ。」
「どこへ行くんだ?」
 問いかけた乱馬に、おじじ様は言った。
「決まっとる。蘇我の屋敷のあった場所じゃよ。蘇我の至宝は蘇我の屋敷のあった跡に眠っておる。当り前じゃろう?」
 と爺さんは慣れた足で歩きだす。
 乱馬も一度、足を踏み入れたことがある、蘇我の屋敷の跡だ。
 暗がりの中では、良く見えなかったが、何かの建造物があった場所へと誘われた。そのど真ん中へ突き進むのかと思うと、おじじ様は少し脇へと入った。

「こ…ここは…。」
 木で組み上げた井形が見えた。水落遺跡の廃校跡にあった、井戸の遺跡とそっくりな井戸が、そこに現れたのだ。
「井戸じゃよ。ここの水は我ら真神でも重宝しておってのう…。蝦夷様の館が無くなっても、まだ、コンコンと枯れることなく、水をたたえておる。」
「現役の井戸か。」
「ああ、我らが真神の里の者は、ここの水を汲み上げてるんじゃよ。」
 おもむろに、井戸の少し後ろ側へと、おじじ様は持っていた松明を照らし出す。
 穂明かりの向こう側に、注連縄でくくられた岩が出現した。キラキラと炎に輝いているところをみると、この岩の周辺からも水が浸み出しているようだった。

「こっちじゃ、こっち…ここじゃ。」
 岩の後ろ側へとおじじ様は乱馬を誘った。

 岩の後ろ側は、ポツンと、数メートルほどの空き地になっていた。草木も生えず、苔むした地面が見える。何かの祭祀跡と見れる、土師器(かわらけ)が割れ散らばっていた。
「ここは蘇我の屋敷を作る前に、地鎮して産土神を祀った場所じゃそうじゃ。」
 おじじ様は地面を照らしながら言った。
「もしかして…その蘇我の剣璽は、ここに埋められているのかよ?」
「まあ、そのようなものじゃな。」
 おじじ様は松明を照らしながら言った。
「俺に、ここを掘れとか言うのかよ…。」
 乱馬は地面をじっと眺めながら言った。掘ると言っても、スコップなどの道具は辺りには無い。が、いざとなれば、爆砕点穴で掘り進めば良いだろう。
「そんな、無粋なことは言わんよ…。それより、その地面が盛り上がった辺り…そうそう、そこへ立て。」
 おじじ様はそんなことを乱馬へと命じた。
「立てってか?ここに?」
 乱馬はおじじ様に言われたとおりに、苔むした地面へと立った。ぬるぬると土はぬめる。湿気を多様に含んだ地面なのだろう。

「ってことで、始めるかな…。」
 おじじ様はふっと、小さく息を吐きだした。

「始めるって…何を?」

「おぬしが、剣璽に選ばれるか否か…。」

「あん?」
 言っている意味が良く飲み込めず、乱馬はおじじ様を見つめ返した。

「乱馬よ…覚悟は良いか?」
 おじじ様は続けざまに言った。

「覚悟?何のだ?」

「蘇我の精霊と戦う覚悟じゃよ。」
「蘇我の精霊?」
「ほれ、馬子様の墓守をしていたような連中じゃ。」
 にっとおじじ様が笑った。
「馬子様の墓守って…ひょっとして、あの巨人?お…おい、まさか…あの時みてーに…。」
 そう問い返そうとした乱馬に返答をくれてやらず、おじじ様は真っ暗な天へ向かって、松明をたくし上げた。

「我、真神真人。蘇我の蝦夷様の御名を借り、蘇我の精霊に問う。この乱馬と申す武人、剣璽を賜るに値するや否や…。我、請う、精霊の試練を乱馬に与えんことを!いざ、いざ!彼を戦いへと誘えっ!」

 その文言と共に、地面が激しく唸り声をあげたように思えた。

 乱馬の足元が揺らぎ、一気に、何かが突き上げて来た。何体も、何体も…。埴輪の巨人の如き土塊色の人形が盛り上がって来た。

「な…。おい…まさか、こいつらと戦えってか?」
 見上げる乱馬に、どこからともなく、麻呂爺さんの声が響いてきた。

『何、桃源墓で、巨人を倒したおまえなら、容易(たやす)かろう。あの時と同じように戦え。ただし、本気でやらぬと、死ぬぞ!じゃあ、健闘を祈る!』

「何が、健闘を祈るだ!簡単に言うなーっ!」
 そう怒鳴りそうになった乱馬目がけて、土塊人形が、何の前触れもなく、攻撃を仕掛けて来た。
 ドオッという破壊音がすると、目の前で石が弾け砕ける。それを避けながら、乱馬ははっしと土人形たちを睨みあげた。

「おっと!いきなり攻撃してくるかよ!けっ!おもしれー!蘇我の精霊だか何だか知らねーが、そっちがその気なら、俺だって…。まとめて木端微塵に打ち砕いてやるぜ!」
 拳に力を込めると、逃げることなく、果敢に、土人形目がけて、飛び出して行った。





 どのくらい、土人形相手に戦っていただろうか。
 何分、いや何時間。
 気を抜けばやられる。そう思うと、寸分も気を緩めることはできなかった。

 ゆうに百体は倒したろう。
「たく、馬子の墓といい、蝦夷の館といい…。何のつもりだ?蘇我氏の奴らはっ!」
 汗と共に、愚痴がこぼれおちる。
 と、ひと際大きな土塊の巨人が、乱馬の前に、にゅっと現れ、立ちはだかった。

「でけー…。」
 そいつを睨みあげながら、思わず吐き出した。

 グオーッ。
 と、雄叫びのような唸り声をあげながら、そいつは、乱馬目がけて、大きな土の拳を振りおろして来た。

「おっと!」
 すんでで避けた乱馬だが、着地で、足元がぐらついてしまった。
「しまった!」
 すっ転びそうになった時、乱馬目がけて、土巨人の拳が、乱馬の肉体目がけて急襲してくる。
「避けられねーっ!」
 繰り出そうとした、爆砕点穴用の人差指も爆砕の壺へ突き立てるには間に合わないだろう。このまま、土巨人の拳に沈むのか。少しでも、衝撃を和らげようと、咄嗟に、受け身の態勢に入った時だった。
 ぶわっと、胸元がわなないたように思えた。

「え?」
 あかねと交換した勾玉が、一瞬、茜色の光を解き放ったように見えた。

『ぐおおおおーっ!』
 真正面で構えていた、土巨人が、その光に、一瞬、怯んだように見えた。

「しめたっ!今だっ!」
 乱馬は途中で止めかけていた拳を、巨人へと繰り出していた。乱馬から発せられた気柱が、土巨人のヘソ辺りを強襲する。

 どおおんっ!

 気柱が土人形のどてっ腹を貫き通す。
「風穴爆砕っ!」
 乱馬は無我夢中で、右掌を左右に揺らし、気柱を操る。その動きに合わせて、土巨人は、どてっ腹の真中から粉砕されていく。
 良牙の爆砕転結から派生させた自己流の技だ。
『ぐわあああーっ!』
 土巨人の断末魔の叫びが、響き渡る。そして、粉々に砕け散った土塊が、バラバラと乱馬の上に降り注ぐ。

「ふう…。助かった…。」
 そう言いながら、あかねと交換した赤い勾玉へと視線を落とす。何事もなかったかのように、その勾玉は乱馬の胸元で紐にゆわえられて揺れている。
「あかね…。」

 そうつぶやきかけた時、斃れた巨人の土塊の向こう側から、その声が響いて来た。しゃがれた老人の声だった。

「なるほど…。その勾玉がおまえを守ったのか…。」

 もうもうと上がる土煙の向こう側から、人影が現れる。
 
 乱馬の瞳は驚がくに揺れ動いていく。誰も居ない筈の、亜空間の中に、一人の老人が立ち現れたからだ。

「おめーは…。」

「最後の土塊人形は、その勾玉の力がおまえさんを守っての粉砕してくれたのか…。ま、紅玉がおまえさんを守ったのも、この先、おまえの力が不可欠だということの証じゃろうからな…。」
 そう言いながら、老人は満面の笑みを浮かべながら、親しげに、乱馬の方へと歩みよって来た。




四十一、佐留との遭遇

 老人は、なれなれしい笑みを浮かべながら、乱馬を見据えて立っていた。
 
「誰だ?おまえは…。」
 乱馬は、険しい瞳を、巡らせながら、問いかける。
 現代風の洋服ではなく、白い狩衣を着た、老人だった。
「蘇我氏の血縁者か?」
 乱馬の問いかけに、老人は首を横に振った。

「いいや、蘇我の関係者ではないぞよ。」

「蘇我の関係者じゃなけりゃあ、こんなところで何やってんだ?」
 乱馬の問いかけに、爺さんは答えた。

「まあ、ワシにもいろいろ事情があってのう…。この亜空間へ誰ぞが入って来るのを、じっと待っておったんじゃよ。たく…待ちくたびれたぞ。」
 と、爺さんはどっかりと腰を下ろした。

「どのくらい待ってたんだ?」
 乱馬が問い質すと、
「さあのう…。ここは時空が歪んでおるからのう。ほんの数年かもしれぬし、千年かもしれん。」

「茶化すな!ちゃんと答えやがれっ!」

「そうすごむな…。そんなに身構えんでも大丈夫じゃわい。おぬしに危害を加えるつもりはないわい。わしゃ、この亜空間へ生きたまま閉じ込められたんじゃ。」
 爺さんは乱馬の心を見透かしたように、声をかける。

「あん?こんな訳わかんねえ空間に、誰が閉じ込めるってんだ?」

「まあ、落ち着け。」
 爺さんは、はやる乱馬をたしなめながら言った。
「これが落ち着いてられっかーっ!」
「ほっほっほ、血気盛んというか、思惟に欠けとるというか。」
「バカにするなっ!」
 振りあげられた拳を、爺さんはパッと身軽に交わした。
「まあ、まずは、ワシの話を聞け。お若いの。でなければ、蘇我の宝剣を手にできぬぞ。」
 爺さんは、そう言いながらニッと笑った。
「わかったよ。」
 乱馬は、ぐっと盛る闘気を抑え込み、戦闘態勢を解いた。
 ここへ来た目的は、蘇我の宝剣を得ることだ。その目的を達せられるなら、無駄な争いは避けた方が良い…と判断したのだ。 

「たく…乱暴じゃのう…。そんなに乱暴じゃと、女にもてぬぞ。早乙女乱馬よ。」
「てめー、何で俺の名前を知ってやがる…。」
「そりゃあ、知っておるよ。お主が、一千三百年の時を超えて、飛鳥時代へ来たこともな。」
 爺さんはニヤリと笑った。
「てめーか?俺たちを、この時代へ連れ込んだ奴は!」
 乱馬は殴りかかった。
「たく、今から説明してやると言っておろうが。」
 爺さんは身軽に乱馬の攻撃を避ける。避けたところで、乱馬が攻撃の矛先を収めた。そして、爺さんを睨みながら、問いかけた。

「本当に、ちゃんと、説明してくれるんだろうな?何で、俺たちがこの世界へ召喚されたのか。それから、俺たちを取り巻いている世界のあらましを。」
 
「ああ。そのつもりじゃ。洗いざらい話してやろうぞ。」
 パンパンと埃を払い落しながら、爺さんは乱馬へと言葉を手向け始めた。

「まずは、名乗っておくかのう…。我が名は、柿本佐留(かきものとのさる)。」
 爺さんの言葉に、乱馬の表情はみるみる変わった。
「柿本佐留…。てめーが、佐留か…。」

「ほほう…。その驚きぶり…ということは、ワシのことを耳にしたことがあるとみえる。」
 そう笑いかえした爺さんを、まざまざ見つめながら乱馬が答えた。
「耳にしないでか!麻呂爺さんやおじじ様の会話の中で、散々に訊かされたぜ。
 てめーが、佐留なら、何でこんなところに居るんだ?ここは蘇我氏の屋敷の焼け跡だろ?それとも、俺たちをこの世界へ呼んだのは、てめーか?」
 矢継ぎ早に問いかける乱馬。その表情は決して穏やかではなかった。
「話せば長い事ながら、さっきも言ったが、ワシはこの世界へ閉じ込められた身の上なんじゃよ。」
 佐留爺さんは自嘲気味に笑った。
「何で閉じ込められたんだ?」
「順を追って話してやるから、黙って聞け。」
「何か、偉そうでむかつくな…。」
 乱馬はムッとした表情を浮かべたが、このままでは埒が明かないので、黙って耳を傾けることにした。

「ワシがここに閉じ込められたのも、そもそもは、今より数百年前…漢の皇帝が不老不死を求めたことに端を発しておるんじゃよ。」

「あん?漢だあ?」

「漢は、この八十島の倭国より遥か西海の大陸国じゃ。漢の皇帝は、己の死期が近いことを悟ると、臣下に命じて、不老不死を求めさせた。
 この世の権勢をほしいままにした者が、最後に行きつく傲慢な望み…それは、不老不死の身体じゃよ。漢の皇帝も、例外ではなかった。
 東の果てに浮かぶ蓬莱嶋へ渡り、伝説の不老不死の力を探って参れ…とな。
 倭国は漢の京から遥か東方にあった しかもじゃ、この嶋国は、龍の形をしておる…。」
「ああ、前に、おじじ様も同じような事を言ってたな。地図の無い時代の奴らが、に、どうして地形を知ってるかはわかんねーが、北海道を頭と考えると、九州は尻尾…。で、関東は前足で、関西はお腹…日本列島は、確かにそんな感じになるな。」
「おぬし、青竜という言葉を知っておるか?」
「えっと…四神のひとつだっけ。」
「然りじゃ。東の青竜、南の朱雀、西の白虎、そして北の玄武。
 倭国と称された八十島の国は、古来より、大陸方面の人々から、東の青竜の居る蓬莱の島として認識されておったんじゃよ。辺境の国に違いないけれど、古来より龍が棲む国と信じられていた。
 その龍を制する者は不老不死の力を手に入れられる。漢の皇帝も、そう信じておられた一人じゃ。
 強大な権力を握る皇帝とて、死から逃れることはできぬ。権力者が最後に行きあたった強欲は、永遠の命を得ることじゃった。
 
 大陸から来た渡来人たちは、龍の痕跡をたどりながら、いくつもの国邑(くにむら)を見て回った。
 やがて、阿射加(あざか)と呼ばれる豊かな国邑へ辿りついたのじゃ。」

「阿射加国か…。おじじ様が言ってた、飛鳥にあった国。」
 乱馬が頷いた。
「ほう…。真人の奴が、阿射加国の話をしたのか?」
 佐留は乱馬に尋ねた。
「ああ…。その国の興亡の話をしてくれた…。シロヒコとカヤヒメの時代に、他国に攻め入られて滅んだってな。」

「阿射加国の滅亡に、漢から来た渡来人が関係しておるんじゃよ。そこまで奴らは話したかのう?」
「あん?漢から来た渡来人が関係しただあ?初耳だぜ。」
「じゃろうなあ…。渡来人の話も含めて、話してやろうか。黙って聞けよ。」

 そう言いながら佐留は乱馬へと話し始めた。

「今から数百年前、漢王に命じられ、不老不死の法を求めて、八十島へ渡って来た渡来人たちは、阿射加国へ辿りついた。
 人懐(ひとなつ)こい阿射加国の民は外国(そとくに)から来た渡来人たちを、快くもてなした。阿射加の民は、争いごとから遠い、温和な性格の人々ばかりじゃったからのう…。
 彼らの目を引いたのは、男王と女巫が合同で祭祀をする姿だった。
 やがて、渡来人たちは、阿射加国の地下に、壮大な力の塊が眠っていることに気がついた。それは、阿射加の女巫に斎(いつ)かれる対象じゃった。」
「斎(いつ)く?」
「簡単に言えば祀ることじゃよ。そう、阿射加の巫はその力の塊を龍神スサノオと呼んで祀っていたんじゃ。祠は、隠(いなば)と呼ばれておった。」
「隠(いなば)…。」
 聞き飽きるほど聞いた「隠(いなば)」というキーワードが、佐留の口からも飛び出て来た。
「祠は厳重に封印の結界で守られておったそうじゃ。そして、その封印は決して解いてはならぬと言い伝えられておった。
 阿射加の男王と女巫の二人が、互いに協力しあいながら、隠(いなば)の力を崇め、その力を阿射加の繁栄へと使っておったんじゃよ。
 その有様を見た、渡来人たちは、確信した。この隠(いなば)の向こう側にこそ、求めていた不老不死の力の源があるとな。
 渡来人たちは、何とかして、隠(いなば)を開こうと試みた。
 じゃが、隠(いなば)は、そう易々と開ける代物ではなかった。
 男王と女巫が強固に結界を守っていたからのう。

 やがて西に興った日向国の王と、渡来人は密かに手を結んだのじゃよ。
 豊かな阿射加国を、支配下におきたいと思っていた日向の王に、渡来人たちの甘い囁きは、魅惑的じゃったのじゃろう。
 日食を利用して、国を盗ろう…言いだしたのは、日向の王か、それとも渡来人たちじゃったのか、ワシにはわからぬが、妙案に違いなかった。」

「日食ねえ…。何か、天の岩戸の神話みたいだな…。」

「お主らの世界では、日食は神の技ではなく、太陽と月の関係で起こることは、広く知れ渡っておろううが、ワシらの世界では、そのカラクリは誰しもが知っていることではないからのう…。
 渡来人たちには、日食を計算して予測できる高度な術を知っておったんじゃよ。

 渡来人たちは日食の日時を、暦にて綿密に計算し、計画を練った。
 阿射加国へ入りこんでいた渡来人たちは、阿射加の民を扇動し、日食を引き起こしたと、巫女(かむろみ)カヤヒメを地へと引きずりおろした。カヤヒメのあり様を見て、阿射加国の王シロヒコは錯乱した。王は自らの手で、陰(いなば)を開いたばかりか、そこに眠っていた龍神と同化してしまったのじゃよ。
 いや、正しくは、龍神の発する力の渦に飲み込まれた…と言った方がしっくりくるのかもしれん。隠(いなば)に存在していたのは、人間の喜怒哀楽はもちろん、生命も精神も全て飲みこむ、強大な力の渦。
 渡来人たちの思惑を超えていたんじゃ。錯乱した王を飲み込んだ龍神は悪龍と化し、暴れ回った。
 阿射加の国の人々は恐怖に身を凍らせ、巫女カヤヒメ様を葬ろうとした浅はかさを呪った。国衙共に龍に飲み込まれんと、だれしもが思った時、蝕していた太陽が再び、光を取り戻したんじゃ。カヤヒメ様が最後の力を振り絞り、兄王を飲み込んだ龍神スサノオの前に立ちはだかったのじゃ。」
「おい、カヤヒメ様ってのは、死んだんじゃなかったのか?その死に衝撃を受けて、兄王のシロヒコが隠(いなば)を開いたって。」
「カヤヒメは死んでなどおらぬよ。」
「でも、おじじ様はカヤヒメの血まみれの躯を見て、シロヒコが自制心を失ったようなこと言ってたぜ。」
「そういう伝承も確かにある…が、正しくは、カヤヒメは死んでなどおらんよ。」
「あん?」
「カヤヒメ様は、己に遺されたわずかな力で、隠(いなば)へと兄王が身を投じた刹那、扉を封印したのじゃよ。その力が、再び、現世へと浮かび上がってこぬように、強靭な結界でな…。」
「何だって?」
「そう、隠(いなば)は再び閉じられたのじゃよ。カヤヒメという名の、一人の巫女の力でな。」

「ふーん…。同じ話も、語る人によって、少しずつ変化するんだな。」
 乱馬は、おじじ様から聞き及んだ話に、更に、別の解釈が加わったような気がした。が、根本は同じである。阿射加という国の滅亡の物語だ。

「で?その後、渡来人たちはどうしたんだ?大陸へ、帰ったのか?」
 
「いや…。そのまま、八十島に住みつき、日向の王、そう、今の大王家の祖先に仕えたのじゃよ。」
「大王家の祖先ねえ…。」
「渡来人たちは、その豊富な知識を買われ、新しい国造りに力を貸した。日向国は勢力を伸ばし、今の王権を作り上げて行った。
 その間、渡来人たちの家系も変遷し混血もすすんだ。阿射加国や龍神のことは、伝説の一つとして、忘れ去られていったんじゃ。
 そして、世は遷り、たまたま大王家に生まれた、一人の天才によって、再び、隠(いなば)の存在が、表舞台へと出ることになってしまった…。」
「一人の天才?」
「その名は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)。お主たちには、聖徳太子という諡号(おくりな)の方がわかりやすいかのう。」
「厩戸皇子ねえ…。おじじ様に、厩戸家の悲劇も話してもらったけど…。もう一回、佐留爺さんの見解ってのを聞かせてくれよ。」
 乱馬は言った。
 頭の中に駆け巡る、古代史的情報を、己なりに再認識しておく必要を感じたからだ。あまりにも、話が煩雑すぎて、乱馬の理解を越えていたからだ。

「厩戸皇子の一族、上宮王家の悲劇は…皇子の娘の一人が日食の日に生を受けたことに端を発するのじゃよ。」

「日食の日に生を受けた娘…。もしかして、ツクヨミの力を持つ娘のことか…。」

「ああ。良く知っておるのう。」
「そこら辺は、おじじ様に聞いた。その、厩戸皇子の血縁にも夜見媛が居たと。」

「そうじゃ。たまたまなのか、それとも渡来人の陰謀が後ろに隠れているのか、今となってはわからぬが、確かに、「日蝕えの比売」が厩戸皇子の娘として生まれてしまったんじゃよ。
 彼女は幼少のころから、鎮魂(たまふり)の力を発揮していたという。
 その頃、厩戸皇子は猫を飼っておられてなあ…。」
「猫…。」
 その言葉に、猫嫌いの乱馬が、ピクンと反応した。
「その頃、宮中では、ネズミを追い払うために、猫を好んで飼っておったんじゃ。ある日、日蝕え比売の元でじゃれついていた猫が急に動かなくなってしまった。たまたま居合わせた厩戸皇子は、比売は猫の身体から光る玉を抜きとり、喜々としながら戯れていたのを目の当たりにされたんじゃ。
 つまり、それが、日蝕え比売の能力じゃった。生きた者の魂を抜き去り、もてあそぶ。それは、太陽を斎する大王家にはあってはならない忌みの存在。
 その異能ぶりを目の当たりにした厩戸皇子は、その力の源が何なのかを、調べられたんじゃ。
 そして厩戸皇子は、その比売の持っていた力を「夜見(ヨミ)の力」と名付けられた。

 厩戸皇子の腹心だった蘇我蝦夷は、そんな比売の力に、不穏な物を感じ取っていた。蝦夷の母は鎮魂の咒法を受け継ぐ、物部氏の出自だったからのう…。蘇我蝦夷は比売の力は脅威になると直感したようじゃ。厩戸皇子がその力に関わろうとしていることに危機感を抱いておられた。当然、皇子に、日蝕えの比売に関わることをやめるように進言したそうじゃ。
 じゃが、皇子は聞き入れず、あろうことか、斑鳩へと隠遁までしてしまわれた。
 その頃、台頭し始めていた新しい仏の教えに、吸い寄せられるように惹きつけられていた厩戸皇子様は、太陽に疎まれた娘を、己の傍から手放すことを良しとされなかったのじゃよ。
 そして、悲劇は起こった。
 日蝕えの比売は、厩戸皇子の魂へと、手を延ばされたんじゃよ。魂を奪われ、皇子は斃れられた。
 その辺りも、真人の奴は語ったかのう?」

「ああ、ひととおり、話には聞いた。」
「では、日蝕え比売が忽然と姿を消したことも…。」
「確か、おじじ様は、厩戸皇子の死のドサクサに紛れて、行方不明になったってってたよな。」

「厩戸皇子の死の陰に、阿射加国の滅亡に関わった渡来系の一族が居たことも、奴は語ったか?」

「いや…。おじじ様は日蝕え比売を利用した奴らの正体はわからずじまいだったと言ってたぜ…。」

「真人は知らんようじゃな…。」
「あん?佐留爺さんは、日蝕えの比売を連れ去った奴を知ってるのか?」
「当然じゃ。」
「誰なんだよ?」
「渡来系の氏族じゃよ。」
「あん?」
「不老不死の法を手に入れることを、奴らは諦めてはおらんかったのじゃよ。つまり、漢帝から派遣された渡来人こそ、その黒幕じゃったんじゃ。
 倭国の人々との混血がすすみ、純血は薄まったとはいえ、渡来人たちは独自の伝承を保持し続けておった。当然、「隠(なばり)」についての秘伝書も存在していた。
 阿射加国が滅んだ後、渡来人たちは、「和邇(わに)氏」「文忌寸(ふみのいみき)氏」「葛城(かつらぎ)氏」などといった氏族へと分化し、この倭国に根付いておったんじゃよ。
 その中でも、文忌寸氏は比較的、純潔を守っていた一族じゃった。故に、伝書の類も他の氏族の比ではない。その名に、文とを冠するのも、恐らくは、その辺りに由来したものなのじゃろうて。」
「文忌寸氏…って、円(つぶら)の一族か?」
「そうじゃ。円の一族じゃ。
 文氏は和邇氏から別れた一族で、呪術のレベルも高く、優秀な術師をたくさん輩出しておった。奴らの中に、隠(いなば)や阿射加国の衰退に詳しい者が居ても、何ら、不思議はなかろう?
 厩戸皇子が卒した時、日蝕えの比売を斑鳩の里から連れ去ったのは、文氏の者じゃ。」
「断言できるってーのか?」
「ああ。断言できる。何故なら、本をただせば、柿本氏は文氏と同族じゃからな。ちゃんと、秘伝書は伝わっておるよ。我が一族にもな。」
 にんまりと佐留は笑った。

「何だってえ?」
 文氏と同族と聞いて、乱馬の声が、荒らいだのは、言うまでもあるまい。
「じゃあ、佐留爺さんも、隠(いなば)の解放を狙ってんじゃねーのか?文氏と同族なのなら。」
 と身構えた。

「これこれ、勝手に決め付けるでないわ。
 先にも言ったとおり、渡来系の家系は、長い年月の末、倭国や阿射加の民と混血を続けておるんじゃぞ。ワシの代の柿本氏の血の殆どは、倭国製じゃよ。
 それに、ワシも、大海人皇子様、鵜野讃良皇女様、珂瑠皇子様…この三方の尊皇にお仕えした身の上。
 この国の歴史を洗いざらい無に帰してしまうような混乱を望むほど、腐りきっとらんわいっ!」
 爺さんは乱馬を睨みかえした、

「わかったよ…。もう一度聞くが、本当に、この国を滅ぼす気はねーんだな?」

「無いわっ!」
 爺さんは吐き出した。

「さて、話を元へ戻すぞ…。
 日蝕えの比売の出現と、厩戸皇子の斑鳩隠遁。その話を受けて、文氏の中の一人が、大胆にも、ある試みを思いついたのじゃ。日蝕えの比売の力は夜見に通じる。ならば、その比売の持つ神秘の力を利用すれば、隠(いなば)の封印を解き、扉を開くことができるのではないかとな。
 隠(いなば)とは、すなわち、不の力の溜まる場所。ならば、太陽神から疎まれる、日蝕えの比売なら、扉を開くことができるのではないかと…。
 彼は、日蝕えの比売を上宮王家から誘拐し、己が元へと連れ去った。


 聖徳太子の亡き後、上宮王家も滅び、更に、蘇我一族も失脚した。そして、時代は遷り、百済を介して、唐国との関係が著しく悪化した。
 巫としての能力が高かった斉明女帝がこの世を去ると、文氏は葛城皇子、大海人皇子、両兄弟へと分かれて仕えた。
 そして、覇権争いの争乱につけこんで、隠を開く時期を、虎視眈々と狙い定めていたのじゃよ。
 葛城皇子は、大海人皇子の天賦の才覚を恐れた。
 文氏の連中は、皇位に固執し続けた葛城皇子の心の弱さにつけこんで、息子の伊賀皇子(=大友皇子)の子としてたまたま生まれた…というより、多分、そそのかして産み落とさせた…日蝕えの皇女を使い、隠(いなば)を開かせようと謀ったのじゃよ。
 理性を失いかけていた葛城皇子は、歯止めを失ってしまっていた。この国の未来より、己の欲望を優先させた。隠(いなば)を開けば、命を長らえ、大海人皇子に対抗できると、信じ込まされたのかもしれないのう。
 大海人皇子は、颯爽と挙兵し、近江京へと盾付いた。そして、またしても、文氏の連中は、隠(いなば)を開くことに失敗してしまった。
 是が非でも隠(いなば)を開けたかった、その時の文忌寸氏の手の者は、今度は、伊賀皇子へと魔の手を伸ばした。日蝕えの皇女を餌に、隠(いなば)を開かせようと試みたけれど、伊賀皇子はそれを拒絶してしまった。父王と違い、私欲が殆どなかった、この坊ちゃま皇太子には、隠(いなば)は己の手に余ると気遅れしたのかもしれない。
 文氏は、隠(いなば)の存在を隠すために、拒否した伊賀皇子を殺してしまった…。そして、日蝕えの皇女を引き連れて、伊賀へと隠れようとしたけれど、即位した大海人皇子も、伊賀国とは懇意で、いつまでも隠れ通すことはできぬと判断し、日蝕えの皇女と共に、伊賀国からも姿を消してしまった…。
 隙があれば、大海人皇子にも付け込んで、隠(いなば)を開かせようと、文氏は大海人皇子に近づいたが、かなわなかった。独自の世界を築き上げていた大海人皇子は、隠(いなば)の伝説など、相手にはしなかった。それどころか、ツクヨミの力と相対する力を、大海人皇子様は崇め、祀った。」

「ツクヨミの力と相対する力?」

「ツクヨミと対極にある、太陽の祭祀を強めたんじゃ。ツクヨミは闇の力、それに対抗できるのは、太陽の祭祀のみ…。」

「太陽の祭祀?」

「おまえさんがたの世にも存在する、伊勢神宮。あそこに太陽神を遷して、仰々しく奉ったのじゃ。元々、伊勢は阿射加国の中央祭祀の場所でもあったから、ここを抑えられてしまっては、ツクヨミの力も弱まっていったのじゃよ。」
「お、おい…。伊勢が阿射加国の祭祀場だったのか?」
「ああ、そうだ…。皇祖神を祀る前に祭祀されていた産土を、大海人皇子は見事に融合させてしまわれた。
 そして、つつがなく太陽神を祭祀するために、血族の皇女や王女の中から卜占で選び出した斎王まで立てられた。」
「斎王制度って天武天皇が元祖なのかよ。」
「いや、正確には、もっと昔から斎王はいたようじゃが、争乱などで一時、中断していたのを、天武が再興したのじゃ。ま、いわゆる、中興の祖ってところじゃな。」
「で?どうなったんだ?」

「面白くないのは、隠(いなば)を開きたがっていた連中じゃろう。
 連中は、連れ去った日蝕媛…つまり、阿雅皇女に子を産ませてしまったのじゃ。太陽を祀っていた大海人皇子の息女、大伯皇女の力は強靭で、日蝕媛・阿雅皇女がつけ入る隙もなかった。とはいえ、文氏が略奪した阿雅皇女を、大王家に戻す訳にもいかなかった。
 阿雅皇女は文忌寸氏の誰かと契りを結び、夜見媛と文忌寸氏の血を分けた子孫を遺すことになってしまったというわけじゃ。
 そうして、何故か文忌寸氏は、いったん、隠(いなば)の件から手を引いたのじゃよ。
 隠(いなば)の存在も、忘れ去られ、千年以上の年月が流れた。」

「おいおい、その、壬申の乱から、この奈良時代まで、そう長い年月が過ぎた筈じゃねえだろ?大化の改新ってやつから、平城遷都まで、せいぜい百年くらいじゃなかったっけ?」
 と乱馬は問いかけた。

「いや、千年以上じゃよ。おぬしらの時代まで、隠(いなば)のことに触れずに、時は流れた。隠(いなば)のことも忘れ去られ、何事も起こらず…な。」

「あん?」
 佐留爺さんの話が呑み込めずに、乱馬が問い質した。

「おまえさんたちが存在する時代まで、隠(いなば)のことは忘れ去られていた…。そう、おまえさんたちが連れて来られた、ワシらの時代、つまり寧良に都があった時代は、一度、何事も無く通り過ぎておるんじゃよ。
 でなければ、おぬしらの時代まで、時が継続することが無かろう?」

「まあ、そりゃあそうだけど…。」

「何故、文忌寸氏が隠(いなば)に触れようとすらしなかったのか…残念ながら、そこまでは知るよしも無いわ。単に忘れていたのか、それとも、意識的に触れなかったのか…。
 しかしじゃ。おぬしらの御世になり、隠(いなば)を開こうとした者が文忌寸氏の末裔に現れたのじゃよ。恐らく、伝わった秘伝書を見つけたのじゃろうな。」
 そう言った、佐留爺さんを、乱馬はきつい瞳で睨みかえす。
「おい、爺さん。何で、文忌寸氏の末裔が、俺たちの生きる平成の御世になって、隠(いなば)を開こうとしたことがわかるんだ?第一、隠(いなば)を開くなら、俺たちの時代でもできるんじゃねーのか?」
 当然、溢れて来る疑問を、佐留へとぶつける。

「おぬしらの時代では、隠(いなば)は開かん。」
 と佐留爺さんは、言い切った。

「あん?どうして、開かないんだ?」
「おぬしらの世界には、扉が無いからじゃよ。」
「扉が無いだあ?ますますもって、言ってる意味がわかんねーよ!」
 いら立つ乱馬に、爺さんは言った。
「隠(いなば)の入り口が、お主らの時代には、存在しないからじゃよ。」
「存在しないだあ?」
「ああ…。地形が変遷し、扉もきれいさっぱり、消えてなくなっとるわい。」
「何で、爺さんがそんなことわかるんだ?まるで俺たちの時代に生きていたみたいに…。」

「ワシは生きてはおらぬが、我が術は、千有余年の時を経てもなお、お主らの世界で息吹いておったからのう。」
「あん?」
「その術を通して、時の番人が教えてくれた。」
「時の番人だあ?また、わけのわかんねーこと、言い出しやがって。」
 いい加減にしやがれと言わんばかりに、乱馬は爺さんを睨んだ。
「おぬしら人間だけが、地上に生きている訳ではないでな…。木や草、動物…ありとあらゆる生き物がいて、彼らから伝えられることもたくさんあるんじゃよ。」
「へっ!他の生き物に教えてもらったってか?」
「ああ、例えば、樹木じゃ。地に根を生やし、数百年を生きる奴もおるでな。」

「なあ、じゃあ、俺たちは何故、召喚されたんだ?」

「おぬし、亀石を動かしたのではないか?」
 佐留が問いかけた。
「亀石?亀石って、確か…あの飛鳥の、土産物屋の隣にドンと佇んでた、あの、眠そうな亀の形の石のことか?」
「亀石…あれは、時空の扉の一つなんじゃ。あの石を西向きに動かし、呪具に咒法をかけると、時空の扉が開き、過去へ飛ぶことができるんじゃよ。
 おぬし、亀石を動かしたのではないかのう?」

「そんなこと…。」
 と言いかけて、思い当った。
 良牙との小競り合いのせいで、亀石が動いたことを思い出したのだ。
「そういえば…。良牙の奴が飛び出て来た時…。亀石は動いたが、動かしたのは俺じゃねーぞ。いや…俺だったかもしれねー。」
 と言い返した。

「やっぱり、亀石を動かしたのは、おぬしか…。」
 佐留爺さんがにやりと笑った。そして、静かに乱馬へとたたみかけた。

「でも、咒法なんて知らねーぞ。呪具なんて物も…。」

「呪具なら、そこにあろう…?ほら、その胸元…。」
 人麻呂に促されて、ハッとした。胸元に、麻ひもでつらさがっているもんがある。そう、あかねと交換した勾玉のストラップだった。

「まさか…こいつが…。」

「その呪具が通行証みたいなものなんじゃよ。それはお主の持ち物じゃろう?」

 その言葉に、乱馬は、首を振った。

「いや、これは…この赤い勾玉は俺のじゃねえ!」
 そう告げた。

「おまえの物ではないのか?」
 佐留爺さんは怪訝な顔を乱馬へと手向けた。
「ああ、俺んじゃねえ…。これは、あかねの物だ。」
「あかね?」
「一緒に、古代へ紛れこんじまった、俺の許婚だよ。」
「ほう…許婚とな?契ったのかの?」
「まだ、契っちゃいねーよ。」
「それは良かった。」
「あん?」
「あ…いや、こっちのことじゃよ…。それより、その勾玉の真の持ち主がおぬしでないなら…この剣璽はおぬしに渡してもムダじゃな…。」
「あん?」
「印が違えば、この剣璽の本当の力は示せん。…紅い勾玉がお主の物ではないとすると…他にも勾玉を持っておるのか?」
 爺さんは瞳を巡らせて乱馬へ問いかけた。
「んー…俺の黒い勾玉は、あかねが持ってるんだよ。」
 乱馬は考えながら言った。
「ほう…。勾玉を交換でもしたのかのう?」
「まーな…。」
 別れ際に、あかねと勾玉を交換した。そのことを思い出しながら、乱馬は頭を縦に振って頷いた。
「もしかして…勾玉を元どおりに交換したら、この剣璽は使いこなせるって訳か?」
「まあ、そういうことになるのう…。」
「じゃあ、この場からこの剣璽は持って帰れないのか?」
 乱馬は問いかけた。
「真神へ持って帰ることはできるぞ。」
 爺さんは答えた。
「なら、俺が預かってても良いか?」
「ま、おぬしが現世へ持ちかえるのを、蘇我蝦夷は承知しておると思うぞ。傀儡人形たちを真正面から倒したのじゃしな…。
 それより、お主、悪いが、ワシも外の世界へ連れ帰ってはくれぬか?」
 爺さんは正面から乱馬を見据えて言った。
「あん?」
「ワシの肉体は、とうに尽き果てた。したがって、ここから出る術は殆ど無い。じゃが、この剣璽に魂を遷して憑依すれば、外へ出られるのじゃよ。
 じゃから、ここで、誰かが、物部の剣璽を取りに来るのを、じっと待っておったんじゃ。」
「外へ出て、どうするつもりだ?肉体が無いんだろ?ってことは、死んだも同然じゃねーのか?」
「ワシには、やらねばならぬことがあるのじゃよ。それをせぬうちは、死んでも死に切れぬわ!ワシを閉じ込めた連中と、決着をつけぬうちはな…。」
 佐留爺さんの瞳が、険しく輝いた。
「決着ねえ…。祟りとか言うんじゃねーだろうなあ…。あんまり、そういうのに手を貸したくねーんだが…。」
 苦笑いする乱馬に、佐留爺さんは言った。
「心配には及ばんよ。おぬしに迷惑はかけんよ。ちょいと、剣璽の中に潜りこむだけじゃ。こういう風にな。」

 爺さんは煙と共に姿を消した。

「まるで、手品だな…。」
 乱馬は苦笑いした。
「で?剣璽と一緒に連れて帰ったら良いんだな?」

『ああ、頼むぞ。』
 剣璽の傍から、そう声がした。

 乱馬は、剣璽を置いてあった祭壇から掴みあげると、まざまざと見入った。
 くすんだ色にはなっているが、確かに、この時代の名刀だというばかりはある。何より目を引いたのは、龍を象った装飾が施してある鞘であった。


「帰ったら、あかねと勾玉を交換しねーとなんねーな…。」
 フッと乱馬はそんなことを吐きつけた。

「しかし…。帰ると言っても、どっから帰れば良いんだ?」
 辺りを見回して、呆然とする。
 
 どこを見渡しても、ただの白んだ空間。

『何、この剣璽を、鞘のままでもよいから、上へ突き上げて見よ。』
 剣璽の中に入った、佐留爺さんの声が響いた。

「剣璽を上に突き上げる?こうか?」
 乱馬が剣璽を突き上げた途端、得もいえぬ衝撃が、足元から走った。

「うわーっ!」
 そして、急にジェットコースターに乗ったように、空間の中を、猛スピードで駆けずり回り始めた。
 身体は上下左右、不規則に動きまくる。まるで、剣璽が何かに引っ張られているようだ。

『剣璽を離すなよ。折角、蘇我の精霊から預かったのに、離したら、もう一回、最初からやり直せばならぬぞよ。』

「たくっ!気楽に言うなっ!気楽にーっ!」
 亜空間の中を、自在に振り回されながら、乱馬は必死で、剣璽を握りしめていた。







 気がつくと、ハアハアと荒い息を上げて、乱馬はどっかりと、地面へ倒れこんでいた。
 精も根も尽き果てかけていて、立ち上がるのも、億劫だと思った。全まだ春浅いとはいえ、全身、汗まみれ、泥まみれになって転がっていた。
 手には一メートルあまりの棒きれを握りしめ、胡坐をかく。棒きれの切っ先は、地面へと突き立てられていた。
 そろそろ夜明け。東の空がぼんやりと明るくなり始めていた。
 朝夕の気温の寒暖差があるのだろう。朝もやが下りてきて、周りはあまりはっきりとは見渡せなかった。

「どら、何とか真布都の剣璽を、持ち帰れたようじゃのう…。」
 ひょいっと、おじじ様が顔を出した。

「誰に向かって…言って…やがる…。」
 途切れ途切れになりながらも、虚勢を張ってそれに答えた。

「何体ほど、倒した?」
 麻呂爺さんも脇から顔を出した。

「いちいち、数えてられっか!ゆうに百体近く居たんじゃねーか?」
 乱馬はたたきつけるように吐きだした。

「ずいぶん、派手に暴れまわったようじゃが…。そうか、剣璽を手に入れたか。」

「当り前だ!…たく、こいつを手に入れるのに、体力の殆どを使っちまったぜ!もう、ヘトヘトだ!」
 乱馬は天を仰いだまま、答えた。

「もっとも、まだ結界が壊れるまでは時間がある。体力を回復させるために、真神の里で少し横になれ。」
 そう言いながら、おじじ様はピィーッと口笛を吹いた。
 と、真神の勇人がすっとおじじ様の元へ寄って来た。
「呼んだか?おじじ様。」

「乱馬殿を休ませてやれ。」
 そう命じると、勇人は、ガッシと乱馬をつかんで、引き起こす。もう、立ち上がる力も残っていないのだろう。乱馬はなされるがままに、勇人の背中に乗っかった。 
 勇人の背中に揺られながら、真神の里へと登って行く。

「乱馬、おぬし、蘇我の宝を手に入れたのか…。大した奴だな。」
 勇人は感心しながら乱馬に話しかけた。

「本当に、これが、蘇我の宝の剣璽なのかよ…。俺が手にしていた奴と違うぜ…。」
 乱馬は、右手に握りしめた金属棒を見やりながら、首を傾げた。
 どこからどうみても、ただの金属棒だ。何の装飾もなく、錆びた棒きれにしか見えなかった。佐留と対面していた空間では、確かに、剣璽の格好をしていたにも関わらずだ。
 しかも、剣璽に憑依して一緒に連れ帰って来た佐留は、表に出て来ない。そればかりか、気配も無い。
「俺、これを握りしめてたよな…。」 
 亜空間のジェットコースターを思い出しながら、乱馬は、傍らを行くおじじ様へと問いかけた。

「ああ、結界を破って出て来た時は、それを握りしめておったぞ。のう、麻呂よ。」
 おじじ様は麻呂爺さんへと問いかけた。
「その剣璽を持っておったぞ。」
 麻呂爺さんも、おじじ様へと同調した。

「あの空間で、俺が手にした時は、ちゃんとした剣璽だったぜ。」
 と乱馬は怪訝な顔で吐き出した。

「まあ、それは仕方なかろう…。特別な剣璽とはいえ、蘇我蝦夷様と共に滅んで、七十年は経過しとるからのう。」
 おじじ様が言った。

「こんなんじゃ、錆ついて、抜けねーんじゃねーのか?」
 乱馬は刀剣を眺めながら、思ったことを吐き出す。
「長い間、焦土の中に埋まっておったからのう…。まあ、必要な時が来たら、剣璽は自ずから目覚めるよ。」
 と、慰めのような言葉を、おじじ様は吐き出した。

「目覚める?武器としちゃあ、こんなに錆ついていたら、お手上げだぜ。ただ、振りまわすしか、使いようが無いんじゃねーのか?」

「ほっほっほ、思い悩むな。優れた剣璽は使い時をちゃんと心得ておるわい。それに、その剣璽がおまえさんの手に平穏にあるということは、剣璽がおまえさんを使い手として認めた証じゃ。大船に乗った気で、持っておかれよ。」
 とおじじ様が笑った。
「うちなおすとか、砥ぐとかしなくて大丈夫なのか?抜いた途端、刃が折れそうだぜ…。っていうか、抜けるのか?この剣…。」
 鞘と剣は錆ついて、びったりとくっついたままだ。さっきから、抜こうと試みているが、一向に抜ける気配はない。鉄錆が茶色くボロボロとこぼれおちるような状態だった。明らかに、桃源墓にあった剣璽より、痛みが激しかった。どこかに銘が刻まれているのだろうが、それも、見えないくらいに、錆び上がってしまっている。
「その剣璽はそれで良いんじゃよ。人間や獣を切るための剣ではないしな…。」
 麻呂爺さんが気休めともとれる言葉を放った。
「本当に、大丈夫なんだろうな?」
 乱馬が念を押して尋ねると、
「疑うと、剣璽が抜けなくなるぞ。」
 と麻呂爺さんは笑った。
「ってか…本当に、抜けるのかどうか。抜けたところで、使い物になるのか、疑わしいぜ…。」
 と吐き出して、ハッとした。

 亜空間の中で、佐留が言った言葉を思い出したのだ。

『その紅い勾玉の真の持ち主がおぬしでないなら…この剣璽はおぬしに渡してもムダじゃな…。印が違えば、この剣璽の本当の力は示せん。』
 そんな言葉を、真顔で乱馬へと吐き出したことを。

(もしかして…勾玉が違うから、剣璽が本当の姿を現していねーんじゃ?)

 己の勾玉はあかねが持っている。

(いずれにしても、奴らからあかねを取り戻さねーと…この剣璽も使えねーってことか…。)
 あかねを助けるために取りに行った剣璽なのに、今のままでは使えない…。少しばかり、がっかりした。

 と同時に、強烈な倦怠感が、乱馬を襲って来た。落胆は疲れを大きくする。そんなところだろうか。
 土塊人形を立て続けに、百体ほど相手にしたのだ。正直、しゃべるのも億劫になっていた。とにかく、ずっと闘い続けていたので、だるくて眠い。
 ふわああっと大きなあくびが、顔いっぱいに広がった。

「後は、闘えるだけの体力を回復せねばならんのう…。」
 麻呂爺さんは、眠そうな乱馬を見ながら言った。
「ワシらはあれからゆっくりと休んだし、どら、おぬしの体力回復に少し役に立ってやろうかのう…。」
「てめーらは、ぬくぬくと休んでやがったのか?」
 麻呂爺さんの言葉に、乱馬は思わず睨みつけた。こっちは散々な目にあいながら、闘い続けていた中、爺さんたちは休んでいたというのが、納得できなかったのだ。
「ワシらが起きていたところで、おぬしの闘いには、手を出せんからのう…。だから、先に休ませてもらったわ。」
 おじじ様も麻呂爺さんも笑った。
「たく…、俺ばっか、こき使いやがって!」
 乱馬の疲労は、ピークに達しつつあった。疲れ切った身体には、小難しい話を受け付け難くなってきていた。人間、疲れがたまりすぎると、思考力、特に理解力が著しく低下する。
 気を抜くと、意識が飛び、眠りの中に引きずり込まれそうになる。

「詳しい話は、身体を休めた後にしようかのう…。最後の戦いに出向く前に、体力の回復は不可避じゃからのう。
 何もかも忘れて、今はゆっくりと休め。ワシが回復の術をかけてやる。」
 遠い意識の上で、麻呂爺さんの声が響いて来たような気がした。





一之瀬的戯言
 葛城皇子(=中大兄皇子)の亡きあと、皇位を巡って、葛城皇子の嫡子・伊賀皇子(=大友皇子)と同母弟・大海人皇子で争った国家を二分する古代の政争…それを壬申の乱と呼びます。
 通説では、葛城皇子と大海人皇子は共に斉明女帝の皇子、つまり同母兄弟ということになっているが、様々な巷説も数多あります。
 いろいろな巷説の中で、狩に誘い出された葛城皇子は、宇治辺りで家来に射殺されたという「葛城皇子暗殺説」はなかなか面白いです。その説を匂わせる地名が宇治周辺に残っている辺りも、妄想をかきたててくれます。
 大友皇子についても、通説では即位していなかったことになっていますが、即位していた説も根強くあります。
 敗者側からの資料は殆ど残らないのが常なので、本当のところは、どんなだったのか…興味が尽きません。

 葛城皇子と大海人皇子のことは、拙作「不知火」で別角度から書きつくしてみようと思っています。こっちも止まったままですが、プロットはほぼ出来上がっていますので、書きだしたら案外早く仕上げられるかも…


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