◇第十三話 阿雅衆

三十六、真神の里、炎上


「先を急ぐぞ!」
 地上へあがると、麻呂爺さんは乱馬を促した。
 乱馬と麻呂爺さんは浅人の案内のまま、一目散に道を駆け始める。
 道というよりは、獣道だ。幸い、まだ、春浅いため、さほど、緑の草木が覆い被さってはいないが、それでも、足元は悪い。人一人が通り抜けるのがやっとの、凸凹道が続く。そろそろ夕闇が辺りに迫って来ていた。明るい間に駆け抜けなければ、迷いそうな道が、くねくねと続いている。

「爺さん、大丈夫か?年寄りにはちっとばかり、きつかねーか?」
 乱馬は後ろに続いて来る、麻呂爺さんへと声をかけた。
「ふん!年寄り扱いすなっ!こういう道は日ごろから走り慣れとるるわい!屁とも思わん!おぬしこそ、もたもたしていると、置いていくぞ!」
 爺さんは吐き出した。
 はったりではなく、しっかりとした足取りで走る爺さんを見て、乱馬は舌を巻いた。
(けっ!もたついてたら、本当に置いてかれるかもしれねー。)
 必死で食らいつくように、浅人の案内する道を駆け抜ける。

 が、生憎、途中でとっぷりと陽が暮れてしまった。勿論、松明など持ち合わせていないし、火を起こすほどの時間もあるまい。
「…この辺りは、大伴氏の息のかかった土地じゃな。」
 と徐(おもむろ)に麻呂爺さんが言った。
「大伴氏の土地?」
「ああ…。この辺りは大伴氏のゆかりの地。しかもじゃ、鎌足殿の生誕の地と言われる場所に近い筈。」
「鎌足って藤原鎌足か?」
「お主でも名前は知っておったか。」
「まーな…。藤原氏の祖だったよな、確か。」
「ああ、そうじゃ。その功績により、葛城皇子さまから身罷る前に、特別に、藤原姓を拝した大尽じゃよ。」
「藤原鎌足の生誕地がどうしたって?」
「鎌足は大伴氏出自の母を持った御仁じゃったからのう…。大伴の産土神(うぶすな)が味方してくれるかもしれぬ…。」
「産土神(うぶすな)?」
「土地神様のことじゃよ。どら、まあ、ダメ元でやってみるかの…。浅人っ!ちょっと止まれっ!」
 そう言うと、麻呂爺さんはふと足を止めた。そして、何やら呪文めいた言葉を唱え始めた。
「おいおい…何やろうってんだ?」
 一刻を争う事態に、苛立っている乱馬を横に、爺さんは動ぜず、真剣に唱え始める。現代人の乱馬に、その言葉は理解不能だった。
 浅人も心配そうに爺さんを見つめていた。ものの数分だったろうが、焦っている乱馬にはとても長い時間に思えた。

「ふうう…。どうやら、協力してもらえそうじゃな…。」
 そう吐き出した麻呂爺さんの声に反応するかのように、辺りが青白く光り始めた。

「おい…な、何だ?」
 思わず乱馬は声をあげた。
 青白い光が、行こうとする先を、ほのかに照らしている。一筋の道が、暗がりに浮かび上がった。これなら、燈明がなくても、獣道を進んで行ける。
「この土地の産土神(うぶすな)のともした火じゃよ。この辺りに鎮守する大伴氏の産土神へと協力を申し入れたんじゃ。こたびのことは、大伴氏の血を引いた鎌足の嫡子、藤原不比等の三の媛、つまり、安宿媛の行く末にも深くかかわってくるからのう…。
 同族ではないにしろ、繋がりのある藤原氏の末裔の救難じゃ。大伴氏の産土神も力を貸してくれたわい。」
「安宿媛って…あの娘か…。」
 後に光明子と呼ばれる聡明な少女の顔を、乱馬は思い出していた。
「そら、先を急ぐぞ!」
 爺さんは乱馬を促した。

「すげえ…。電球で光り輝かせているみたいだぜ…。っと…。石っころだ!」
 思わず、つまずきかけた乱馬に、爺さんは忠告した。
「でも、足元が悪いのは変わらんから、転ぶなよっ!」
「わかってるよ!」

 浅人の道案内と、産土神の灯した明かりのおかげで、暗闇の中も、スムーズに進めるようになった。が、ある辺りでふっつりと明かり案内は消えた。

「大伴氏の産土神の力はこれ以上は及ばんか…。」
「どーすんだ?真っ暗になっちまったぜ。また、他の産土神に頼むのかよ?」
 乱馬が問いかけると、麻呂爺さんは、考え込みながら言った。

「ここから先は蘇我氏ゆかりの土地じゃ。蘇我氏の建てた法興寺のあった土地じゃからなあ…。ワシは物部の者じゃからのう…。快く通してくれるかどうか…。」
 その横で、任せとけと言わんばかりに、ワオンと浅人が吠えた。そして、勢い良く、吠えはじめた。
 と、浅人の吠える声に反応するかの如く、雲間が晴れ、天井から月明かりがあっと差しこめてきた。満月に近い歪な丸い月が、ほのかに道を照らし出す。
 街頭などない時代だ。目が慣れてくると、十分、月明かりでも先は進める。

「そうか、法興寺があった辺りは、元はといえば、真神原の一部じゃったな…。真神一族の救難に、真神原の産土神が手を貸してくれるのは当然か。」
 目指す甘樫丘の方向を眺めて、乱馬が声をあげた。
「あれは…。」
 甘樫の丘と思われる方向に、煙にくすぶる山影を見つけたからだ。

「義法め!バチ当たりなっ!甘樫丘を焦がしたのか?」
 麻呂爺さんの瞳が、みるみる険しくなった。
「火攻めって奴かよっ!」
 獣の鳴き声が甘樫丘の方向からしきりに聞こえてくる。それを聞きつけ、浅人も落ち付かない様子で、そこら中から響いてくる怒号のような獣声に、急(せ)きたてられるように声を張り上げる。
「落ち付けっ!浅人っ!落ち付けったら!」
 負け犬のように興奮して吠え盛る浅人を、なだめすかしながら、乱馬が声をかけた。
「爺さんっ!どうする?このままじゃあ、真神の里は…。」

「水の神に頼るしかないのう…。」
「水の神?」
「ああ…。水の神じゃ。」
「火を消すには水ってか?んなのどうやって調達するんだよっ!」
「幸い、ここは法興寺があった辺りじゃからのう…。」
「法興寺?」
「蘇我氏の寺の伽藍があった場所じゃ。ダメ元でやってみるから、邪魔立てするなよ!」
 そう言うと、麻呂爺さんは辺りを見回した。
「この辺りで良いかの…。」

 そう言うと、懐から巾着袋を取り出した。そこからこぼれ出す、白い粉。

「そいつは?」
「塩じゃよ。こういう大がかりな術を使う時に、必要な物じゃ。」
「術?」
「ワシは陰陽道の術師だぞ。まあ、黙って見ておれっ!」
 そう言うと、バラバラと地面に塩をまき散らした。それから、割りばしくらいの棒を同じく懐から出すと、四方を囲んだ。爺さんは坐禅を組むかの如く、地面へと座り込む。そして、おもむろに、呪文を唱え始める。日本語なのかそれとも、外国語なのか、わからない言葉を並べ出したのは、さっき、各産土神たちに捧げていたのと同じであるが、少し、口調が違っていた。祝詞(のりと)をあげる神主様のような声の張り上げ方だった。
 数分間、その状態は続いた。と、天上から照らしつけていた月は、湧き立ち始めた雲間へと隠れだす。風がにわかに、どこからともなく吹き抜ける。まるで、風が生きているかの如く、つうっと湧きあがり、甘樫丘目がけて吹き抜けた。

「あ…あれは?」

 何か長いひも状の物体が、甘樫丘の上空を駆けているように見えた。

「水の神様じゃよ…。法興寺の伽藍に残っている微かな聖なる力を手繰って、さる方と交信し、この土地の水神を呼び寄せて貰った。」
 背後で術を唱えていた麻呂爺さんが、真剣な面持ちで言った。
「水の神だって?」
「ああ、そうじゃ。火を消すには水が必要じゃろう?」

 乱馬は舌を巻いた。土地の神と自在に交信する力が、この爺さんにあるというのだろうか。

 水の神は、みるみる上空へ駆け上がり、雨雲を募らせたのだろうか。いってん俄かにかき曇り、容赦なく天から雨粒をまき散らし始めた。ポツポツと大粒の雨が天より落ちたてきたかと思うと、すぐさま、ざあざあと音を立てて激しく降り始めた。
 乱馬も麻呂も浅人も、全身、びしょ濡れになる。

 激しい雨に煽られて、やがて、甘樫丘を焦がしていた火は鎮静へと向かう。

「後は、真神の連中が無事かどうかじゃが…。」
 そう言うと、爺さんは、地面へとへたりこんだ。
「さすがに…老いぼれの身には、この交渉は…ちと、きつかったな…。」
 ハアハアと息があがっていた。
「おい、爺さん…大丈夫か?」
「ああ…。暫くすれば、戻るじゃろう…。それより、乱馬。甘樫丘へ急げ!火は消えたが、もしかすると、義法の手の者が里を襲っているやもしれん。やつらの狙いは…恐らく…。ワシは後から行くから、先に行けっ!」
「わかった。爺さん、悪いが、ここへ置いて行くぜっ!くたばるなよっ!浅人っ!甘樫丘への近道、案内頼むぜ!」
 乱馬はそう告げると、浅人と共に全速力で駆け出した。

「ま、産土神との交渉の代価はさすがに高くつくじゃろうて…。これで確実、数年は我が命、縮まったかのう…じゃが、まだ、ここでくたばるわけにはいかぬ…。ワシの役目はまだ終わってはおらぬ!」
 爺さんはぐっと全身に気合いを入れた。おいぼれて枯れかけた身体に鞭打って、立ちあがった。
「まだまだ、若いもんには負けん!っと…甘樫丘へ行く前に…もうひとつ、確かめねばならぬことがあったな…。」
 そう言いながら、再び二の足で、踏ん張る。荒く大きな息を吐きつけながら、力を振り絞る。そして、ゆっくりと暗がりの中を歩き始めた。




「たく…こういう時は女の体が、うとましくなるぜ。」
 そう言いながら全力で駆け抜ける乱馬だが、脚が短く瞬発力に欠ける分、女体では、時間がかかった。
 甘樫丘の東の端付近で、息せき切らせながら乱馬は煙る丘を見上げた。
 道路のような明快な区分こそなかったが、草や木の枝ぶりから、何となく甘樫丘との境界がうかがえた。

「くそっ!もっと早く走れねーか!あの丘の上まで一気に行かなきゃならねーのに!」

「ならば、とっとと男に戻れ!」
 そう吐き出した乱馬目がけて、タイミング良く、壺が飛んできた。そいつが傍に生えていた木にぶつかると割れて、中から湯が飛び出した。
「やっと戻って来たか!」
 壺と共に、聞き覚えがある声が響く。
「その声、おじじ様か?」
「ああ、ワシじゃ。」
 見据えていたかのように、真神の長の姿が現れた。
「おじじ様っ!あかねは?真神の連中は?」
 その姿を見るや否や、乱馬は息せききって、たたみかけた。

「大丈夫じゃよ。ちゃんと、抜け穴を使って丘から下ろした。」

「あ…。そっか…。抜け穴があったんだっけ…。」
 いつの間に、人間に戻ったか、浅人が声を出した。
「抜け穴?」
「ああ、丘の救難に備えて、抜け穴を作ってあるんだよ…。」
「でも、あかねの姿はねーぜ。」
 乱馬が見回すと、おじじ様は笑った。
「こちらは、いつ戦闘になってもおかしくないからのう…。敵衆の真っただ中じゃしな。」
 その言葉に、乱馬がきびすを返した。
「敵衆の真っただ中?」
「ほれ…。辺りの気配を窺ってみよ。」

 言われたとおり、気を探ってみると、爺さんの後ろ側に、たくさんの殺気を感じ取った。

「たく…。桃源墓の連中といい、何なんだ?こいつら!」
 乱馬が吐きつけると、真神の長、おじじ様は言った。

「こやつらは阿雅衆(あがしゅう)じゃよ。」
「阿雅衆(あがしゅう)?何だそいつは…。」
「陰陽術の中でも、陰の術に特化した術を得意とする、伊賀の隠密集団じゃよ。」
「陰の術だあ?」
「潜んだり、隠れたり、殺したり…。まあ、あらゆる陰の術じゃよ。奴ら阿雅衆は、陰の術を扱うのに慣れておるからのう…。そして、何よりも、忠誠心が篤い。一度、主と認めた者の命令は、一族揃って、最後まで貫き通すのじゃよ。」
「よくわかんねーが…。義法とかいう奴の従順な家来ってことは、敵と思って良いんだよな?」
 乱馬の問いかけに、おじじさまはコクンと頷きながら、続けた。
「ワシら、真神一族も、蘇我氏の阿雅衆みたいな存在じゃったからな…。蘇我氏への忠誠心は揺らぐことない。狼に姿をやつしたり、武器を手にしたりすることで、蘇我氏亡き後も守り続けた自負がある。」

「わかった…。どっちにしても、おとなしく、甘樫丘の上まで通してくれねーってことだよな…。」
 乱馬は、はああっと大きく息を吐き出し、丹田にため込み始めた。

「ワシはこやつらと戦うには年を取りすぎた…。乱馬よ、任せてよいかのう?」
 おじじ様は、深々とした眉から鋭い眼を覗かせて、乱馬を見やった。

「ああ…。年寄りを戦わせるのはしのびねえや…。」
 乱馬はおじじ様を見やった。
「だけど、一つだけ、言っとくぜ。俺は目の前の敵を倒すので精一杯だ。己の身に降りかかってくる火の粉は、自分で払ってくれよ!おじじ様。」
「ほっほっほ。もちろんじゃ。それから、我ら、真神の猛者たちもそなたの手助けをするぞ。」

「そうしてもらえるとありがたいな…。多勢に無勢じゃ、分が悪すぎるぜ。それからもう一つ頼みてえことがあるんだけどよー…。」
「何じゃ?」
「甘樫丘(ここ)が、荒らされても、文句言うなよっ!」

 そう吐き捨てると、乱馬は眼を閉じた。
 気を集中させて、辺りの気配をまさぐった。

(桃源墓で相手した連中と気配が似てる…。ってことは、あそこに居た奴らも、その「阿雅衆」って奴らだったってことか…。)

 乱馬は冷静に分析を始めていた。戦い相手を観察することは、勝負師としても重要な事柄だからだ。闘いを有利に進めるには、相手を見極める力も必要とされる。


(背後に一人…二人か…。あっちの茂みに五人か…。それから、木の上に四人…。っと、まだ後ろに数人居やがる。ざっと見積もって、二十人、いや、その倍くらい居るか…。ちぇっ!すんなりとはいきそうにないぜ。)
 そう仕切りなおすと、ふっと一つ、息を吐き出した。

「ま、そっちから仕掛けてくる気は無さそうだな…じゃ、遠慮なく、こっちから行くぜっ!」
 
 乱馬はためていた気合いを、一気に吐き出した。

 ドンと音がして、乱馬の周りの木が、木端微塵に砕け飛ぶ。
 それを合図に、阿雅衆たちとの戦いが始まった。
 


三十七、甘樫丘の攻防戦

 乱馬たちの出方を、背後からじっと見据えていた、阿雅衆たち。乱馬の放った、一発に反応して、動き始めた。

 いずれも、同じ黒っぽい衣服を着こみ、暗がりから攻撃を仕掛けてくる。眼で攻撃を追いかけていては、到底、追いつかないだろう。
 だが、待ち受ける側も、流石に、真神の猛者たちだ。嗅覚や聴覚も人並み外れていて、阿雅衆の攻撃に対処する。
 狼の子孫を名乗るだけの一族ではある。
「早いっ!」
 乱馬も真神の者の動きの俊敏さに、舌を巻いた。
 もちろん、彼も負けては居ない。
 乱馬は、物陰から、次々と襲い来る阿雅衆たちを、ひょいひょいっと避けながら、暗闇の中を自在に動き回る。
 最初の一発だけ打ち放って、最初は逃げに徹した。それも、敵の出方を探るためだ。
 阿雅衆と呼ばれる武装集団の正体を、少しでも探るべく、戦い方を観察することにしたのだ。

(さすがに、古代だけあって、武器に鉄砲とかの飛び道具は無いに等しいか…。でも、こいつら、少し厄介かもな…。)

 阿雅衆たちは、いずれもみんな、良く動いた。かなりの高等な訓練を受けている、まるで近代の軍隊のような戦隊だった。

 真神の猛者たちは、狼の一族だけあって、野性的なカンには一目置くべきところがあった。だが、一糸乱れず、攻撃を仕掛けてくる阿雅衆の連中を、攻めあぐねていた。

「乱馬よ!逃げているばかりでは、らちが明かんぞ!」
 おじじ様の声が響いてくる。

「うるせーよ!俺には俺のやり方があるんだ。黙ってろ!」
 と言い返す。
 その横を、阿雅衆の一人が放ったクナイのような武器がかすめ飛ぶ。

(桃源墓じゃあ、術を使って、俺たちの動きを封じてきたんだっけ…。)
 乱馬は、桃源墓での攻防を思い出しながら、襲い来る攻撃をかわしていく。
(前方と後方…その二手に分かれてやがるな…。)
 冷静な分析を続けながら、乱馬は気配を読んで行く。
 攻撃を直接仕掛けてくる連中の後ろ側に、何やら怪しげに蠢く連中が居ることを、見通していた。

(前方隊は動きは速いが、本気で倒そうと仕掛けている風でもないな…。こちらの動きをとらえて、仕掛けて来るが、倒すのが目的というより、かき回して疲れさそうとしているような…。いや…。というより、後方隊の動きを隠すために動き回ってるっっていう感じだぜ。
 まさか、奴ら…何かの術を施術しようとしてるんじゃ…。)
 横に跳んだり、後ろに跳ねたりしながら、乱馬は全体の動きを見極めて行く。
(多分、どっかのタイミングで、大きく仕掛けてくる気だな…。一番後ろに、奴らの親玉か…ひと際、大きな殺気が漂ってきやがる。)
 木々の奥の方にそいつはあった。不気味で一番大きな気配だ。
(訓練された軍隊の動きの賜物…か。そっちがその気なら…。こっちも、仕掛けを考えておかねーと、足元すくわれてやられるな。)

 乱馬は冷静に考えた。
 吐く息は、いつしか白く、闇へと溶け出していく。春とはいえ、夜はまだ冷える。ましてや、さっき、水神様に雨を降らせてもらったばかりだ。その蒸気が、戦う者たちの熱気を含んで来る。
(真神と阿雅衆の闘気か……。……よし、あの手でいくか。)
 何かを思いついた乱馬は、ふうっと大きくため息を吐き出した。それから、キッとアゴを上げ、ゆっくりと動き始めた。
 そんな乱馬の横を石がかすめ飛ぶ。
「おっと…。奴らの攻撃に当たらないように、気をつけなきゃな!」
 乱馬は襲い来る阿雅衆の攻撃をかわしながら、らせん状のステップを踏み始めた。そのらせん状の中に、周りで飛び交う「闘気」の渦が巻き込まれていく。
 そう、彼の最大奥儀「飛竜昇天破」を食らわせようと動き始めたのだ。

(まだまだ…。もっと、集まれ!闘気…。)
 注意を払いながら、ゆっくりとステップを踏む。
 彼のステップに合わせて、辺りから闘気が流れこんでくる。渦状に熱気を巻き込みながら。

 と、阿雅衆の後方部隊も、施術の準備が出来たようだ。
「我らの勝ちじゃ!そーりゃっ!」
 背後から、雄叫びのような大声が上がると同時に、地面がわなないた。
 恐らく、最後尾に居た、術者がここぞとばかり仕掛けてきたのだろう。

 ドンと音が弾けて、物凄い力が地面より湧き上がってきた。

「やっぱ、仕掛けて来やがったか…。」
 乱馬はひそかにほくそ笑む。もちろん、彼の足は阿雅衆たちの術にはまって、歩みが止まる。
 真神の猛者たちも、その場に釘づけられたように動かなくなった。

「何事だ?」
「う、動けねー!」
 あちこちから、怒声が響き渡る。

「ふふふ…。動けまい。」
 すうっと後ろに控えていた、阿雅衆たちが、ゆっくりと姿を現した。動けないでいる真神の猛者たち目がけて、弓や剣、槍といった武器で狙いを定めている。
「形勢逆転だな…。気の毒だが、ここで斃れてもらおう。」
 最後尾にいた、術を仕掛けた阿雅衆の大将らしき人物が、のっそりと現れた。

「くそっ!足が…。」
「地面にめり込んでいるようだ!」
 真神の猛者たちは焦ったが、動こうとすればするほど、足が地面に飲まれていくようだった。
 乱馬の足もめりこんでいたが、彼は落ち着いていた。こうなることを、どこかで予想していたのだ。冷徹なほど、冷静になっていた。氷の刃を解き放つタイミングを、じっと図りながら、辺りの様子を窺っていた。

 一人、また、一人。
 阿雅衆の連中が、暗闇から姿を現してきた。真神の猛者たちを取り囲むように、周りに集まってきたのだ。
「覚悟は良いな?」
 にやっと笑いながら、引導を渡そうとした阿雅衆の親玉に向かって、乱馬が声を張り上げた。

「けっ!かかったな!」
 そう言うと同時に、乱馬は上に向かって、拳を突き上げた。
「飛竜昇天破っ!」
 冷徹な鉄拳が、夜空に向かって突き上げられた。

 ゴオオーッと音がして、乱馬の足元から上に向かって、乱気流が龍の如く巻き上がった。

「なっ!何だ?」
「うわあああーっ!」
「と、飛ばされるーっ!」
 阿雅衆の連中の悲鳴が、あちこちで響き渡る。

 乱馬が放った冷気と共に、舞い上がる竜巻の風塵。真神の猛者たちの髪も上になびいたが、彼らの足元は、地面にめりこみ、すぐには飛ばされなかった。阿雅衆が放った術が、この場合、幸いしたのだ。真神の猛者たち、乱馬の味方は誰も飛ばされることなく、猛風をやり過ごした。

 一方で、阿雅衆たちは、容赦なく上空に吸い上げられ、竜巻の渦に翻弄されていく。
 やがて風は止み、バタバタと面白いほど上空から、弾き飛ばされた阿雅衆たちが、地面へと叩きつけられて来る。

「けっ!ざまあみやがれ!一網打尽だぜ!」
 乱馬は得意げに吐きつけた。
 阿雅衆たちは、大きく地面に叩きつけられ、すぐに動くこともままならなかった。

「ほう…。竜巻の術か…。おぬし、なかなかやるのう…。」
 おじじ様が乱馬の横に、にゅっと現れた。

「我らの完敗だ。真神の猛者よ…。」
 上空に投げ出されて落下してきた阿雅衆の大将らしき人間が、地面に這いつくばりながら、乱馬を見上げた。
「まさか、このような返しの術に遭うとは思わなんだ。…だが、我らの役目は果たせたぞ。」
「負け惜しみか?」
 乱馬がキッと睨み返すと、大将はニッと歯を見せて笑った。
「ふふふ…。何故、ワシらがここへ使わされたかわからぬか…。」
「俺たちを斃すためじゃねーのか?」
「それもある…。が、もうひとつ…ある。」
 大将はクククと笑った。

「もう一つだあ?」
 そう切り返した乱馬の横から、おじじ様が言い放った。
「まさか…。お主ら…。」
 おじじ様には、阿雅衆の大将が言った意味が、わかったようだった。

「ふふふ…さすがに、そこの爺さんはわかったようじゃのう…。そうじゃ。時間稼ぎじゃ。」

「時間稼ぎ…。ってことは、やはり…。」
 おじじ様の顔が険しくなった。
「あん?」
 乱馬はその脇から、首を傾げる。

「そうだ。今頃、豊浦宮は我らの手に…。」
 楽しそうに、阿雅衆の大将は笑った。

「豊浦宮だあ?」
 その言葉に、流石の乱馬もハッとなった。豊浦宮にはあかねが逃げて居るはずだ。
 どうやら、奴らの狙いは、あかねをかっさらうことにあったようだ。
「我らの勝ちじゃ!真神よっ!」
 そう言うと、大将は笑いながら、頭を垂れた。そして、満足げに意識を失っていった。

「奴らの狙いは…豊浦宮…。」
 おじじ様は悔しそうに吐きだした。
「おい…。豊浦宮にはあかねが…。」

 そう、吐き出しかけた乱馬の耳元に、狼の遠吠えが響き渡って来た。
 何かを経由するように、遠くからだんだんに、吠え継がれて来る。
 その遠吠えを聞きながら、爺さんは苦虫をつぶしたような顔を手向けた。
「乱馬よ…。悪い知らせじゃ。」
 そして、ゆっくりと吐き出すように言った。
「豊浦宮は奴らの手に落ちた。」
 と。




三十八、豊浦宮の危機

 阿雅衆の大将が言った通り、あかねたちが避難した豊浦宮には危機が訪れていた。
 甘樫丘を下りて、豊浦の残され宮の建物で、一息ついていたとき、不敵な笑みと共に、円が姿を現したのだ。
 その乾いた微笑みの中に、得も言えぬ不気味さを漂わせて、円はこちらを見ていた。

 ずずっと、真神の猛者たちは、間合いを取りながら、身構える。円を敵として認識したからに他ならない。 
「文忌寸円(ふみのいみきのつぶら)殿とか申しましたね…。文忌寸氏と言えば、渡来系の一族。その方がかような場所に何用ですか?」
 速人が円に対した。丁寧な言葉遣いの中にも、警戒が見え隠れしている。

「あら…。真神と言えば、筋骨隆々の猛者ばかりだと思っていたのに…意外ねえ。痩身の知的なオグナ(男)も居るのねえ。
 ちょっとご用があって来ましたのよ。」
 円がフッと笑った。

「そなたの主は、義法殿か?」
 そう問いかけた速人に、
「ええ、表向きはの主は義法様よ。」
 にっこりと円は微笑み返してきた。
 その言葉に、真神の猛者たちの上に、緊張が走る。

 円も速人もいずれ劣らぬ、痩身の美男子であった。
 共に、筋肉勝負するより頭脳戦が得意なように見えた。平均身長が恐らく、現代よりも十センチ以上低いのだろう。他の者たちと比べても頭一つ以上、身長が高い。
 片や、男を捨て去った宦官。片や、真神の長の嫡男。
 何とも言い難い、闘気が二人を取り巻きはじめていた。恐らく、このままではすむまい。

「大人しく、あかね郎女を渡しなさいと言っても、無駄そうねえ…。」
 円は、速人に対して、言葉をかけた。
 その問いかけに、速人は即答した。
「ええ…、当然、渡すつもりはありませんねえ…。」

「あかね郎女もこちらへ来る様子はなさげですし…。」
 円はじっとあかねを見据えた。まるで、獣が獲物を見るような冷たい輝きの瞳だった。その冷たさに、あかねは思わず視線をそむけた。背中にゾクッと冷たいものが通り抜ける。ぐっと身体中に力が入った。

「円殿とやら…。ここは、大人しくお引き取り願いましょうか?今なら、あなたを無傷で帰してさしあげられますが…。」
 速人が言った。

「それがねえ、引き下がるわけにもいかないのよねえ…。困ったことに…。」
 円が考え込みながら言った。
 一体、何をたくらんでいるのか、不気味な気配が、円をおおっていた。

「では、戦いますか?我らと。」
 速人がたたみかける。

 じりじりと両者の間に、目に見えぬ「闘気」が湧き上がってくるのを、あかねは傍で感じ取っていた。

「そうねえ…。力づくでお連れするしかないわね…。手っ取り早くいきましょう。かかっていらっしゃいな。」
 円が挑発するように、速人たち真神の猛者へと言い放った。
 真神の猛者たちは、単純明快だ。敵ならば戦って打つ。獣の血が流れ込んでいる彼らは、直情的になり易い。恐らく、円の狙いはそこにあったのだろう。

「俺たち真神を馬鹿にするなっ!」
 速人の脇から、真神の若い衆が、まず、円目がけて飛びかかった。

 ビュッと音が、円の傍で弾け飛んだ。石つぶてを円目がけて解き放ったのだ。
 それが合図となり、真神の猛者たちが、一斉に、円へと飛びかかって行く。

 が、円には、真神たちの攻撃が当たらなかった。俊敏に動き回る。もちろん、息切れひとつ、漏らしていない。

「早いっ!」
 そのスピードにあかねは目を見張った。

「へええ…。円殿とやら…。華奢で弱そうに見えますが、案外、おやりになるんですね。」
 速人も眼を細めた。一筋縄ではいかないと、判断したようだ。

「肉体を誇示して戦うのは、私の好みではないのよ…。あくまでも優雅に戦うのが私の流儀ですからね。」
 円はそう言いながら、フッと手に陰字を結んだ。

「皆さん気をつけて!術を仕掛けてきますわっ!」
 そう叫んだのは、桂だった。桂も麻呂に学んだ陰陽術師。円の手元を見ただけで、何かを仕掛けてくることを、咄嗟に感じたようだった。

「え?」
 驚く間もなく、あかねは桂に担ぎあげられて、後ろ側へと勢いよく飛んだ。
 それにつられて、速人も飛んだ。
 
 ズズズッと音がして、地面がえぐれている。辺りは暗闇だったので、良くは見えなかったが、土がごっそりとこそげるように剥ぎ取られているようだった。
 飛び損ねて、その場に、巻き込まれた何人かの真神の猛者が、もんどりうって、転がり込んだ。
「うわーっ!」
「ぐげっ!」
 銘々、悲鳴を上げながら、バタバタと倒れて行く。

「やってくれましたねっ!」
 仲間がやられるところを目の当たりにした速人が、きつい顔で円を見やった。
「今のって…もしかして気砲?」
 あかねも円を見返した。良牙の爆砕転結のような技に見えたのだ。
 
 その問いかけには答えないで、真正面で円が微笑んでいた。

「ここは豊浦。我ら真神一族の土地の一部。その土に真神の猛者を沈めるとは…。」
 速人が吐き出した。

「ほっほっほ、何を言ってるのかしらねえ…。この土地は元々、豊浦宮のあった場所。あんたたち真神の土地ではないわよ。」
 円は挑発するように語りかけた。

「もはや、許せません!覚悟なさいっ!円とやらっ!豊浦の産土神(うぶすな)、我は真神の速人。約に基づき、我ら真神に力をお貸しください!」
 そう言うと、速人が地面に手を着いた。彼もまた、何かを仕掛けようと、気を解き放ったように見受けられた。
 
 しばらく、沈黙が続いた。
 そう、何も起こらなかったのだ。

「え…?何故、発動しない?」
 何かを仕掛けようと思っていたのに、空振りしたようで、速人が焦って言った。
「豊浦の産土神様、我に力を!」
 再び、気を取り直して、仕切りなおそうとしたが、やはり、何事も起こらなかった。

「ふふふ…。産土神様に問いかけても無駄よ。反応なんてしないわ。」
 円が不敵に笑った。どうやら、速人が何をしかけようとしていたのか、彼にはわかったようだった。

「何故だ?何故、反応しない?」
 焦る速人に、追い打ちをかけるように、円が言い放った。

「知れたこと。私がこの地の産土神と新たに約したまでのこと…。そう、豊浦の産土神様はもはや、私との約を優先するのです。真神の呪言には反応しませんわ。」
 勝ち誇ったように、円が言った。

「ば、馬鹿な…。豊浦の産土神様が、我ら裏切ったとでも言うのか?」

「うふふ、もはや、あなたの呪言は受け付けないの。お気の毒ねえ…。」
 そう言い放つと同時に、円は再び、印を結んで見せた。
「真神たちよ、諦めて、我がもとにひれ伏しなさい。豊浦の産土神様、私に力を!それっ!緊縛術式っ!」
 円の非情な言葉によって、再び、地がわなないた。そして、第一陣で倒されなかった真神の猛者たちを、一網打尽に絡みつくして土へと転がしていく。

「何たること…。何故です?豊浦の産土神様…。」
 そう叫びながら、速人が倒れこんだ。

「速人さんっ!」
 血相を変えて叫んだあかねの後ろで、円が呟いた。
「豊浦の産土神は、あんたたち真神を裏切った訳ではないのよ…。私と約を結ぶ条件として、真神の者たちを深く傷つけないことを望んだの…。だから、誰一人、真神の者を殺しちゃいないわ。多少、傷を負った者はいるかもしれないけれどね…。そのくらいは戦いだもの…仕方がないわよねえ…。」
 クスッと円が笑った。
 
「円さんっ!あなた一体…。」
 あかねがキッと円をにらみ返した。かくなるうえは、己が戦うという意志を込めた瞳で。

「あら…。やめときなさい、あかね郎女。どうあがいてもあんたに勝ち目はないわよ。」
 円がにこやかに笑いながら、あかねに対した。

「やってみないとわかんないわよっ!それに、こっちには桂さんも居る。二人で力を合わせれば…。」
 そう言いかけたあかねに、円は冷徹に言い放った。

「おあいにく様…。桂郎女はそっち側じゃなくてよ。あかね郎女…。」

「え?」
 あかねがきびすを返そうとした時だった。桂郎女の鉄拳があかねのミゾオチを打ったのである。唐突な動きに、反撃する暇も与えられなかった。
「悪いわね。既に桂郎女は私のともがら。…あかねさん、あなたを傷つけずに捕縛することが、彼女の使命なのよ…。」
 正面から円があかねに言い放った…。
「どうして…桂さん…。」
 バサッという音と共に、あかねは桂の腕の中に吸い込まれ、そのまま意識を失ってしまった。

「ふふふ、うまくいったわね。桂郎女。さあ、その子を連れて、引き上げるわよ!」
 そう言うと、円はくるりと背を向け小走りに走り始めた。その後を追って、あかねを担ぎあげた桂が続く。桂の瞳は虚ろで、己の意志は介在しないかのようだった。まるで、円の操り人形の如く、あかねを担いで闇夜を駆け抜ける。

 その背後で、倒れた速人が悔しげに、円たちの後ろ姿を見送った。それから、張り裂けんばかりの大声で、吠え上げたのだ。真神の者だけが介することができる、狼の遠吠えに似た急難の雄叫びだ。それに反応して、次々に声が甘樫丘へと連携されて、伝えられていく。一種の伝令なのだろう。




 その声を耳にした、おじじ様が
「乱馬よ…。悪い知らせじゃ。豊浦宮は奴らの手に落ちた。」
 と吐き出した。

「今、何て言った?」
 乱馬がおじじ様へときびすを返した。

「あかね殿が奴らの手に落ちたんじゃよ…。今しがた、あかね殿と行動を共にしていた、速人から伝令が届いた。」
「あかねはどうなったんだ?」
「奴らによって、豊浦宮から小治田宮の方へと連れ去られたそうじゃ。」
「小治田宮…。奴ら、あかねをどうしようって言うんだ?」
「さあ…。そこまではわからん…。じゃが…。」


「あまり良い状況でないことだけは確かじゃな。」
 おじじ様の言葉を引き継ぐように、暗闇の向こう側から、石上麻呂の声が響いてきた。

「麻呂爺さん…。」
「やっと、追いつきよったか…麻呂よ。」
 乱馬とおじじ様は、声のした方を見やった。そこには、石上麻呂の姿が浮き上がった。各地の産土神と掛け合った疲れか、覇気に満ち足りているわけではなかった。やっとの思いで、ここまでたどり着いたという感じが漂っている。
「ふっ!年はとりたくないのう…。ここまで来るのに、思ったより時間がかかってしもうたわ。」
 と石上麻呂は言った。
「ワシはまだまだ、若い者には引けを取らんぞ。」
 おじじ様がそれを受けると、
「おまえさんとて、かなりやられたようではないか。乱馬が居なかったら、危なかったのではないか?」
 辺りの状況を眺めながら、麻呂爺さんが言った。

「爺さん!あかねがさらわれたんだったら、取り返しに行かねーと!」
 と走り出そうとした乱馬を、グイッと麻呂爺さんとおじじ様、双方の腕がそれを引きとめた。

「待て!闇雲に行っても助けられんぞ!」
 
「どーしてだ?俺が行かないとあかねは…。」

「あかね殿なら、まだ大丈夫じゃ。」
 麻呂爺さんが言った。

「大丈夫って、何を根拠に言ってるんだ?手遅れになったらどうするんだよっ!」
 焦る乱馬に、麻呂爺さんは言い含めた。
「まだ奴らにとって、時は満ちておらぬ!それに、ワシの結界は有効に働いとる。今夜は大丈夫じゃ!むしろ、明晩じゃ!危険なのはっ!」
「時?どんな時なんだよっ!」
 ムキになる乱馬におじじ様は一喝した。
「闇と光が同じになる日…つまり、明後日が勝負所となろうて。それに、おぬしも、かなり疲れておろう?そんな疲労困憊した身体では、勝てる勝負も負けてしまうぞ!」
「そのとおりじゃ。あかねちゃんが心配なのはわかるが、今夜は引けっ!態勢を立て直さんと、勝負にはならん!あかねちゃんを奪回したいのなら、余計にな!」
 麻呂爺さんは言った。
「本当の本当に、あかねは大丈夫なんだろうな?」
 と乱馬は二人に食ってかかった。

「ああ、ワシが保障してやる。ワシの結界が崩せぬ限りは、大丈夫じゃ。ワシの結界も、明日の陽が落ちるまでは誰にも崩せん。あの地の産土神との約があるんじゃよ。」
「産土神?」
「おぬしも、ここへ来るまでに何度か見たろう?大伴の産土神や蘇我の産土神が助けてくれる様を…。じゃから、暗がりを全速力で駆け抜けて来られたんじゃろうが…。」
 麻呂の言葉に、乱馬は、道行を思い返していた。道端が急に光に満ち足り、水神が雨を降らしたりという現象を、思い出したのだ。
「産土神…。あの小治田宮にも産土神は居るのか?」

「当り前じゃろ。はからずしも、飛鳥の宮地のひとつじゃぞ。国の存亡にもかかわる一大事じゃ。産土神が手を貸さん訳がなかろうが…。」

「信用して良いんだな?」

「ああ…。明日の陽が落ちるまでは、ワシが保障してやるぞ。」
 と得意げに麻呂爺さんは言い放った。

「おい…ってことは、裏返せば、明日の陽が落ちれば…危険が迫るってことになるんじゃねーのか?」

「そういうことになるな。」
「それって無責任だろーがっ!」
「じゃから、その頃までに、気力を回復させ、奪還方法を手ほどきしてやろうと言っておろうが、この、わからずやめ!」
 ポカンと持っていた杖で、麻呂爺さんは乱馬の脳天を叩いた。
「痛っ!何しやがる!」
「とにかく、今宵も真神の里で、暖を取るんじゃ。疲れを完全に取る。事はそれからじゃ。」
 麻呂爺さんは、乱馬をポカポカと杖で殴りつける。

「わかったよ!わかったから、人の頭を、殴るな!」
 たまったものではないという声で、乱馬は麻呂爺さんをけん制した。


 その横で、おじじ様は倒れている男たちを、松明で照らして見渡していた。
「この腕の文様…こやつらは…やはり、阿雅衆の手の者か…。」
 彼らの腕には、同じ文様が刻まれていた。それを、一人ひとり確かめるように見て行く。
「文様なんか腕に刻んでやがったのか。」
 乱馬がおじじ様の方向へと目を転じた。
「ああ。仲間意識とでもいおうかのう…。我ら真神も同じように身体に文様を刻んでおるだろう?」
 乱馬はハッと目を見やった。
「そうか…。顔の刺青…。」
 おじじ様も他の真神の猛者にも、一様に顔に青や朱色の刺青がある。
「真神も隼人(はやと)の氏族だからな。古くからの生業を守り、今も刺青を入れている。」
「隼人?何だそれは…。」
「西方の特殊な能力を持った氏族の総称じゃよ。鳥や獣の血を濃く受け継いで、様々な特殊能力に長けておるんじゃよ。」
「鳥や獣の血を濃く受け継ぐだあ?そんなことできるのか?」
 乱馬は二人の翁へと、質問を投げ返した。
「おいおい、呪泉の水を浴びている者の言葉とは思えんなあ…。ほれ、おぬしのように大陸へ渡って呪泉郷の水を利用すれば、たやすいわい。忘れたか?現に我ら真神は狼の血を引いておる。」
 おじじ様は言った。
「あ…。」
 乱馬は瞬時に悟った。傍に居る浅人のように、水を浴びると狼に変身する真神の者がいる。おじじ様も狼に変身できるという。
「お主は何故、女子に変化する泉に浸ったんじゃ?もしかして、そういう氏族の出身なのか?名も、早乙女と名乗っておったが、氏と関係あるのか?」
 おじじ様の問いかけに、乱馬は首を横に振って、否定した。
「俺の場合は、修業中の事故だ、事故!足場を崩して、娘溺泉(ニャンニーチュアン)へ落っこちたんだ!」
「ほう…選んでその娘溺泉へ入ったのではないのか?」
「違う!たまたまだ、たまたま。親父の野郎がろくに調べもしねーで、呪泉郷で修業なんかするから、こんな体になっちまっただけでいっ!」
「ほう…呪泉郷で修業をなあ…。」
 じろじろと二人の爺さんが乱馬を見やる。
「親父も熊猫溺泉に溺れて、パンダに変身しがやるし…。」
「パンダ?」
「白と黒のまだらの熊だよ。日本には棲息していないけどな。」
「白と黒のまだらな熊ねえ…。麻呂、お主知っておるか?」
「昔、小野妹子が大陸国へ行った返礼に、かの国の皇帝から白と黒の熊が贈られたと聞いたことがあるぞよ。じゃが、程なくして死んだそうじゃ。この国にある食べ物は、奴らには受け付けられんかったんじゃろうな…。」
 と麻呂爺さんが横から口を挟んだ。
「へええ…。はるか昔にも、パンダは日本へやってきたことがあったのか?ってことは横に置いておいて…。まさか、おじじ様の他にも、別の呪泉郷に落っこちた奴が氏族がゴロゴロいたとか言うんじゃねーだろーなあ?」
「ゴロゴロはおらんよ。我ら真神のような、ごく限られた氏族だけじゃ。」
「そこに転がってる、阿雅衆とかいうの連中はどうなんだ?こいつらも水をかけると変身するのか?」
「いや、阿雅衆の連中は、普通の卓越した訓練をしただけじゃよ。」
 麻呂爺さんが言った。
「卓越した訓練?何のために?」
「主(あるじ)を守るため…じゃな。じゃが、奴らが守るべき主は滅んだ…。」
 麻呂爺さんが言った。
「あん?」
 乱馬が問い返すと、麻呂爺さんは続けた。
「阿雅衆は…元々は伊賀皇子(=大友皇子)の子孫を守るために作られた集団じゃったからのう…。」
「伊賀皇子?えっと、誰だっけ…。」
「葛城皇子(=中大兄皇子)の嫡男の皇子じゃよ。」
「葛城皇子…。」
「大海人皇子様の兄王じゃよ。葛城皇子の死後、大海人皇子様と伊賀皇子様の二手、つまり、飛鳥と近江に分かれて、この国を二分する激しい戦(いくさ)が起こったんじゃ。」
「世に言う、壬申の乱じゃよ。伊賀皇子の母君は伊賀氏の出自じゃったからなあ…。その伊賀氏の手引きで、皇子を守るために、阿雅衆を作り上げたんじゃよ。じゃが、争乱の末、伊賀皇子は敗走…。その辺りのことは、そこの石上麻呂が詳しかろう…。」
 ちらりとおじじ様は麻呂を見やった。

「あー、そう言えば、麻呂爺さんって、その、葛城皇子の側近だったって…。壬申の乱の折、寝返ったって…。おじじ様が言ってたよなっ!思い出したぜ。」
 乱馬が手をポンと打った。
 それを見て、余計なことを言ったのか、という非難的な視線を、麻呂はおじじ様へ投げ返した。
「なあ、麻呂爺さん…。それって、本当なのか?」
 乱馬が問いかけた。
「ワシも聞きたいのう…。おぬし、その辺りの話は、決して話そうとはしないで、ワシも噂話でしか耳にしとらんわい。
 お主の口から聞いてみたいのう…。」

「そのことは、もう良いではないか…と言いたいが…そういうわけにもいくまいかのう…。おぬしら、しつこそうじゃしな…。」
 諦め顔で、麻呂爺さんは二人を見据えた。




三十九、麻呂爺さんの過去

「話せ、麻呂よ。」
 おじじ様に促され、麻呂爺さんは語り始めた。

 おじじ様が浅人に起こさせた火を囲みながら、乱馬もおじじ様も神妙な面持ちで、麻呂爺さんの話に耳を傾け始めた。

「蘇我氏の本宗家が滅んだ後も、我ら物部八十氏(もののべのやそし)は大王家へ仕えてきた。その忠誠心は、古(いにしえ)と変わらずな…。
 ワシの家は物部氏の中の祭祀を代々引き継いで来た。物部の中の物部とも言うべき存在じゃったからな。ワシも当然の如く、家に伝わる咒法はもとより、大陸系の道術や陰陽術を操る修業を重ねておった。
 近江に京があったころのワシは葛伊賀皇子様の近習としてお仕えしておった。まだまだ若蔵じゃったしのう…。」
「術師として仕えていたのか?」
「術もさることながら、武の腕を買われてのことじゃ。物部氏は元はもののふ(武士)の家系じゃ。
 それに、葛城皇子様の元には、渡来系の術者が多く侍っておられた。まだ駆け出しのワシなど、足元にも及ばぬ、術師が宮中にゴロゴロしておったしな…。
 近江に京があったころのワシは当然、肉体的にも若く、今より数倍、動けたし、気迫に満ちておった。何より、尊皇になられた葛城皇子様とその弟、大海人皇子様の軋轢が、国家を二分する大きな争乱になるなどとは、夢にも思わなんだわい。

 そもそも、あの壬申の乱の元凶は阿射加国(あざかのくに)の隠(なばり)なんじゃよ…。」

 意外な言葉を麻呂爺さんは口にした。

「阿射加の隠(なばり)…。」

「乱馬も阿射加国の伝説は、真人(まさと=おじじ様)から聞かされておるじゃろう?」
「ああ…。昔、阿射加国が、日向国とかいう国に侵略されて、シロヒコとかいう王様が禁呪を用いて白龍に変身して、隠(なばり)へと身を隠したとか言う件(くだり)だろ?」
「おぬし、思ったより、記憶力は好さそうじゃな…。あかねちゃんに無学を散々コケにされておった割にはのう…。」
 麻呂爺さんが笑った。
「あのなあ…。人を無能扱いするなっつーのっ!古代史の授業を聞いていなかっただけで、馬鹿じゃねーっつーのっ!で?その隠(なばり)がどうした?」

「近江朝の頃は、倭国は大いに乱れておったんじゃよ。親交のあった百済国を助けるべく派遣した兵はことごとく、唐や新羅の兵力に打ち砕かれて敗走し、百済の王家も滅びた。指揮をとっていた葛城皇子様は、いつ、唐国が倭国まで攻め入ってくるかと、恐怖にかられ、卜占に頼り、飛鳥を捨て、近江へと京を遷された。
 当然、飛鳥を捨て切れぬ民衆は反発した。兵士もたくさん百済国で命を落としておるし、多くの不平不満が一気に大王家に向かっておったんじゃ。葛城皇子様に不満を抱く連中は、対抗勢力だった、大海人皇子様に期待を寄せるのも、仕方のないことだったかもしれぬ。
 大海人皇子待望論…、葛城皇子様には、面白くない。臣下の信頼が篤い弟の大海人皇子様に懐疑を抱くようになる。唐が滅ぼしに来る前に、弟が己の寝首をかくのではなかろうかと…。いや、大海人皇子が唐国と手を結ぶのではないかと…。
 疑心暗鬼にかられた葛城皇子様がたどり着いたのが…隠(いなば)を開くという結論じゃったんじゃよ。」

「あのなあ、?どこでどういう風に、覇権争いが、隠(いなば)を開くことに結び付くってんだ?隠(いなば)を開けば、倭国が滅びるんじゃないのか?葛城皇子は自ら倭国を滅ぼそうとかかったのかよ。」
 乱馬が半ばあきれながら口を挟むと、麻呂爺さんは真面目に言った。
「いや、滅ぼそうとしたというより、不老不死を得ようとしたんじゃろうな…。」
「不老不死だあ?」
「おぬし、真人から、隠(いなば)と不老不死の関わりはきいとらんかの?」
「聞いてねーよ。んな話。どう、龍神が籠った穴と不老不死が関係するってんだよ?」
 乱馬は問いかけた。
「隠(いなば)を開き、巫祝(ふしゅく)の力でスサノオを支配すれば、不老不死の力を手に入れられる…。葛城皇子様にそう吹き込んだ奴がいたんじゃよ。」
「あん?」
「あの頃、葛城皇子様は既に病がちでな…。己が死期が近いことを、薄々感じておられたんじゃよ。
 己が死ねば、弟の大海人皇子が台頭してくる。そんな危機感を、募らせながら、病床におられた。
 そんな葛城皇子様に、不老不死が手に入ると聞かせたら、どうなると思う?」
「そりゃあ、その話に飛びつくだろうな…。」
 乱馬が答えた。
「葛城皇子様は隠(いなば)を開くための準備を始められた。
 大海人皇子様は、葛城皇子の様子に危惧し、隙を見てさっさと近江京を離れられたんじゃ。自ずから剃髪し、吉野に籠られると宣言なさってな。
 不老不死に魅せられていた葛城皇子様は、大海人皇子を、簡単に近江京から出してしまわれた。
 大海人皇子様は、出家すると偽って、急いで出立し、吉野へ隠棲されたんじゃよ。その逃げ方は、そりゃあ見事じゃったぞ。」
 
 バチバチッと焚火が弾けて火の粉が上空へと舞い上がった。枯れた葉に火が燃え移り、ハラハラと舞い落ちる。

「吉野に隠棲された大海人皇子様は、兵をかき集め、近江朝へと打って出てきた。
 時を同じくして、葛城皇子様は、隠(いなば)へと手を出そうとなされた。」

「なあ、ということは…葛城皇子様の近隣に、夜見媛が居たってことになるよな?その時代にも、隠(いなば)を開く力を持つという巫女媛が…居たんだな?」
「もちろんじゃ。日の蝕す日に生まれた日蝕えの姫君。葛城皇子様からみれば、孫にあたるかのう。五歳にも満たぬ童女…阿雅(あが)皇女様がな…。」
「阿雅皇女…。阿雅衆と似た名前だな。関係あんのか?」
「あるよ。阿雅皇女様を養育したのは、阿雅衆…つまり、阿雅氏じゃったからな。
 いや、阿雅衆自体が、伊賀皇子様の御子、阿雅皇子様と阿雅皇女様のお二人をお守りするために作られた組織じゃったからのう。
 当時のワシは隠(いなば)のことも夜見媛のことも、何ひとつ知らんかったわい。ただ、時折垣間見る、阿雅皇女様の巫女的な非凡な力には気がついておったよ…。
 その証拠に、阿雅皇女様の周りでは、常に死の気配が始終漂っておった。」
「死の気配?」
「不思議と、阿雅皇女様の周りでは、人が多く亡くなっておった。その母君も乳母も、侍女たちも、何の脈絡もなく、不可思議に、唐突に斃れ、死出の旅路へと旅立たれる御方が多かったんじゃよ。今にして思えば、誰かがツクヨミの力を覚醒させるために、仕組んだことだったのかもしれぬがな…。」
「まさか、檜隈女王が稚媛にさせていたようなことを…その阿雅皇女様もさせられていた…とか…いうことか?」
 乱馬は紀寺で見た光景を思い浮かべながら、麻呂爺さんへと問いかけた。
「ああ…。可能性はある…。」
「誰がそんな手引きを…。」
 乱馬は拳を握りしめた。
 稚媛は数多の邑々を荒らしまわり、生きたまま魂を抜き去る行動を繰り返していたという。あまり、気持のよい話ではなかった。
「背後に、恐るべき陰謀が渦巻いておったとみてよかろう…。稚媛様のように、ツクヨミの力の覚醒のために、阿雅皇女様にその手を汚させた者がおったとワシは睨んでおるがな…。」
「黒幕の存在…か。」
「ああ、じゃが、皮肉なことに、隠(いなば)扉を開く前に、夜見媛・阿雅皇女様は葛城皇子様に手を伸ばしたんじゃ。」
「え?」
「そう…。阿雅皇女様は…祖父の葛城皇子様の魂へと手を延ばされたんじゃよ。」
「葛城皇子様の魂だって?」
「ああ…。弟の大海人皇子様が吉野へ発たれたすぐ後のことじゃったよ…。宮中で唐突に葛城皇子様は卒された。それは、狂乱の如く響き渡った悲鳴と、阿雅皇女様の異様なまでの冷徹な瞳が物語っておった。」
「暴走した阿雅皇女様を抑えたのは誰だったんだ?麻呂爺さんか?」
「いや、当時のワシにそんな呪力は無かったよ。…阿雅皇女様の暴走を抑え込んだのは、額田王(ぬかたのおおきみ)様じゃった…。」
「額田王…。」
 乱馬も名前だけは聞いたことがあった。
「額田王様は非凡な力をもった巫(かむろみ)じゃった。後宮に入られてその力は半減していたとしても、素晴らしい輝きを放っておられた。額田王様がおられなかったら、その場に居合わせたワシらは、阿雅皇女様に魂を吸われて、全て死滅していたかもしれぬ…。
 その場は額田王様の力でおさまり、阿雅皇女様にはワシがやったような封印が施された。
 一件落着かと思われたが、葛城皇子様が卒されたという報は、野山を駆け巡り、もちろん、吉野にも伝わった。本当は伏せたかったのじゃが、宮中は混乱に混乱を重ね、大海人皇子様に反乱の機運を与えてしまったんじゃよ。
 大海人皇子様はすぐさま挙兵し、あの大乱が勃発したんじゃ。
 混乱を重ねた近江の勢力を立て直すのに、伊賀皇子様は若すぎた。優れた才をお持ちではあったが、対峙する大海人皇子様の比ではなかった。
 皆、近江を見限って、反乱を起こした大海人皇子様の方へと次々に寝返って行ったんじゃ。」

 ふうっと、そこまで一気に話すと、麻呂爺さんはため息を吐き出した。
 それから、両手を額に付けて、贖罪するように、付け加えた。

「ワシも…結果的には、近江方を裏切ったことになるんじゃがのう…。」

「その後、何があったというんじゃ?麻呂よ。話すのが辛いのはわかるが、はっきりさせておかねばならぬ。次に進むためにな。」
 おじじ様が麻呂へそう語りかけるように言った。

「もちろん、ワシには伊賀皇子様を裏切る気持など、微塵も持ち合わせておらんかったがのう…。言い訳する気もないが…。
 さて…どこから話そうかのう…。」
 麻呂爺さんは、ゆっくりと話し始めた。

「葛城皇子の魂を食らい、近江朝を混乱に陥れた阿雅皇女様は、混乱に乗じて姿を隠されてしまった。葛城皇子様を襲った直後は、確かに宮中奥の牢に幽閉されていたのじゃが、連れ出した奴がおった。
 ワシらは阿雅皇女様の行方がどうのとか、気を配る余裕などなかった。
 攻め入ってくるという吉野方の情報を収集し、迎え撃つ準備に忙しかったからのう。ワシは終始、伊賀皇子様の元に侍り、皇子様をお守りしておった。それが勤めと思っておったからのう…。当時のワシは、忠誠心が篤い従者じゃったから…。
 戦いは始めこそ近江方に有利に運んでおったが、重臣たちが次々に裏切り、あれよあれよと言う間に、劣勢へと転じていった。
 常に皇子様のもとにつき従っていたワシじゃったが、ある時、別行動を取るように皇子様に命じられたんじゃ。ひと山越えた鈴鹿の様子を見て来い、とな。
 渋々、ワシはその命に従った。皇子の命令は絶対じゃった。
 思えば、伊賀皇子様の元を、是が非でも離れるべきではなかったんじゃ。斥候など他の連中に任せておけばよかったんじゃよ。さすれば、あんな悲劇は起こらなかったかもしれぬ…。
 いや、そんな予感に見舞われていたからこそ、伊賀皇子様はワシを己の傍から離したのかもしれぬがな…。
 ワシが鈴鹿の様子を見て、近江へ戻った時には、既に、事が終っておったんじゃよ。」
「事が終る?何かあったのか?」
「ワシが戻った時には、辺りは一面、屍(しかばね)の山じゃったよ。皇子様もその近習の者も、誰一人、生存してはおらなんだ。」
 麻呂爺さんは思い出すのも辛いのだろう。吐き出すように言った。
「吉野方が攻め入ったのか?」
 おじじ様が尋ねたが、麻呂爺さんは首を横に振った。
「いや…。戦いの末、事切れておったのではないよ。皆、傷一つなく、倒れこむように事切れておったんじゃよ。」
「まさか、それって…。」
 乱馬もおじじ様も浅人も、息をのみこんだ。
「乱馬よ、おぬしならわかるな…。あの時の状況と全く同じじゃったんじゃ。」
「あの時…。紀氏の寺での出来事のようにか?」
 乱馬はあの夜のことを思い出しながら、麻呂爺さんに問いかけた。
「然り…。切られて血を流すでもなく、深手を負って沈むでもなく…。そう、皆、魂を吸い出されたかのように、死んでおった。皇子様も近習の者も、一様にな…。
 目の前に広がる異常な光景を目の当たりにしたワシは、事の仔細を知らねばならぬと思ったよ。誰が何故、伊賀皇子様を殺したのか…。それを確かめるのにさる秘術を使ったんじゃ…。」
「皆、おっ死んでたんだろ?秘術ってたって、どーやって確かめるってんだ?」
 不思議がる乱馬の脇で、おじじ様が頷いた。
「なるほど…。お主、物部の秘術を使ったのじゃな?」
 その言葉に、麻呂はコクンと頷いた。
「物部の秘術?何だ?それは…。」
 問い質す乱馬に、麻呂爺さんは答えた。
「反魂(はんごん)の術じゃよ。」
「反魂(はんごん)の術だあ?」
 きびすを返した乱馬に、麻呂爺さんは説明し始めた。
「古来より、我ら物部氏には「みたまふり(鎮魂)」という重要なお役目があった。」
「みたまふり?」
「ああ…。死んだ人間の魂を揺り動かし、蘇生を図る秘術じゃよ。」
「蘇生術だあ?おいっ!生き返らせるってことか?」
 乱馬が驚いて問い質すと、補足するように麻呂の横でおじじ様が説明を加えてくれた。
「死んだ者を生き返らせる術など存在せんよ。「みたまふり」の本来の目的は、遺体を揺り動かし、その魂の記憶を調べることにあるんじゃ。この世に悔恨を残せば、その死者の魂は荒魂となる。
 死者の悔恨、つまり、思い遺しを祓い、魂を健やかな死出の旅に向かわせるために行う秘術…といったところかのう。
 物部氏の中でも、限られた者だけが、その技を受け継いでおるんじゃよ。麻呂もその術を受け継いだ一人じゃったのう…。
 この術を応用すれば、死者の魂を傀儡(くぐつ)として使役することも可能じゃと言われておる。」
「傀儡…。あの、檜隈女王(ひのくまのひめみこ)様のようにか…。」
 乱馬の問いかけに、麻呂爺さんは頷いた。

「あの頃のワシも、物部氏の術者として、ほん少しだけじゃったが、死人の身体から魂の記憶を再生する能力を持っておった。そう、物部の血を受ける者として、反魂の術を使役できたんじゃよ。
 とにかく、何故、伊賀皇子様が非業の最期を遂げられたのか、解明するのがワシの使命じゃと咄嗟に思ったんじゃ。
 何が起こったのかを知らねば、戦うこともできぬ…。死ぬこともできぬ…。
 ワシは鎮魂(みたまふり)の咒法を用いて、伊賀皇子様の魂の記憶を呼び覚まし、何が起こったのかを、問い質してみたんじゃよ。」

「で?死人(しびと)の魂は答えてくれたのかのう?麻呂よ。」
 おじじ様は鋭い瞳をぎょろりと手向けて、麻呂へと問いかけた。

「ああ…。魂の語りによって、最期の一部が解けた。伊賀皇子様はやはり、奴らに殺されたんじゃ。」

「奴らって?」

「阿雅皇女様を連れ出し、隠(いなば)の扉を開こうと企んだ連中じゃよ。
 奴らはこともあろうに、葛城皇子が阿雅皇女に魂を食われたと知るや、今度は、その嫡子、我が主、伊賀皇子様へと近づいて来たらしい。ワシが鈴鹿へ行っている間に、阿雅皇女の力を使って隠(いなば)の扉を開き、不老不死を得られれば、大海人皇子に勝てる…とすすめてきたのじゃよ。」
「で?その伊賀皇子はどうしたんだ?」
「拒否されたそうじゃ。不老不死など必要無いと一蹴されてな。
 伊賀皇子様が拒絶すると、そ奴らは態度を一変し、一緒に居た阿雅皇女に一行を襲わせたそうじゃ。
 阿雅皇女様は、何迷うことなく、その辺りに居た兵士や皇子様の魂へと貪りついたそうじゃ。そして、一瞬で数多の命を奪ってしまった…。」
「ひでえ話だな…。で、黒幕はいったい誰だったんだ?」
 乱馬の問いかけに、麻呂爺さんは首を横に振った。
「檜隈女王の時と同じじゃったよ。術式で下手人の名は禁句とされていた。伊賀皇子様の魂はその名をワシに教えることはできなかったんじゃ。
 だが、その代り、伊賀皇子様の魂は反魂の術の中で、今際の瞬間を手短に語っただけではなく、ワシに、最後の望みを託されたんじゃ。」

「最後の望み?」

「ああ…。我が死体から首を刎(は)ね、それを持って大海人皇子の元へ馳せ、近習に侍らせてもらえと。」

「あん?伊賀皇子様自ら、己を裏切れって命令したのかよ?」
 乱馬が驚きの声を上げると、麻呂爺さんは頷きながら続けた。

「奴らは必ず、大海人皇子に近づき、同じように隠(いなば)の扉の件を口にし、不老不死の法を餌に、それを開かせようとすると。何がなんでも、それを阻止せねば、倭国は滅びる…。我が首を差し出し、大海人皇子に仕え、隠(いなば)に関わろうとする者の企みを滅せ…とな…。
 後は、巷で言われておるとおりじゃよ。心を鬼にしたワシは、その最期の命に従って、伊賀皇子様の首を刎ね、それを持って、大海人皇子の元へと馳せ参じた。
 大海人皇子様はワシにそれなりの地位と名声を与えて、手厚く迎えてくださったんじゃ。そう、ワシは裏切り者の汚名を着て、大海人皇子様に仕え、今の地位を得た。
 あえて、主殺しの汚名を着てな…。もちろん、半端なことではなかったぞ。己の保身のため、伊賀皇子を裏切ったと、誰しもが思っておろうな…。
 ワシは耐え忍びながら、伊賀皇子との約を果たすべく、孤軍奮闘し続けたんじゃ。今日までな…。」

「なるほど、そういう訳じゃったのか。」
 おじじ様が頷いた。
「麻呂よ、貴様が伊賀皇子様の首を持って大海人皇子に仕えた裏には、何か事情があると思っておったが…。そうか、世間に言われておるように、主(あるじ)を裏切った訳ではなかったのか。」
 おじじ様が、そう述べると、
「当り前じゃ…。ワシが主(あるじ)と呼べるのは、今も昔も…伊賀皇子様以外はおらぬわ!ワシはその命を、忠実に遂行してきたんじゃ。あれから、ずっと…な。」
 麻呂は吐き出した。


「その後、吉野の軍勢に下ったワシは、不老不死を得るために、隠(いなば)の扉を開けと甘い言葉で近寄って来る奴がおらぬか、大海人皇子様の傍で見張り続けた。
 じゃが、阿雅皇女様を操り、伊賀皇子を殺した連中は、一切姿を現さなかった。
 阿雅皇女様の姿も、伊賀皇子様の魂を食らって以降、忽然と消えてしまった。
 ワシも懸命に消息を尋ねたが、見い出すことはできなかった…。
 が、ある時、阿雅皇女の消息が、知れた…。」

「あん?」

「奴らが手引きしたようで、阿雅皇女の血をひく娘が、その素性を隠して采女(うねめ)として後宮へ入ったのじゃよ。」
「采女って何だ?」
「大王直結の女官のことじゃよ。顔貌の良い、地方豪族の娘や、首長の娘が、大王へと召し出される。彼女たちを「采女」と呼ぶんじゃ。」
「なるほど…、後宮女官のことか。で?」
「采女としての才もあり、珂瑠皇子様に愛されたのじゃ。そして、程なくして、稚媛様が生まれた。
 稚媛様を産んだ阿雅皇女の血縁の娘は、産後の肥立が悪く、呆気なく死んでしもうたがな…。ワシは珂瑠皇子に頼まれて、稚媛様を引き取ったんじゃよ。
 普通は、母親の里が預かって媛様を育てるべきなのに、珂瑠皇子様はそれをしなかった。ということは、珂瑠皇子様は稚媛様の母御の素性を、或いは、御存知だったのやもしれぬ。
 ワシは無論、阿雅皇女様の血縁を持つ姫君だということは、稚媛様の異能が際立つまで、知る由もなかったがな。」


 麻呂爺さんは、火をくべながら、古い話を終えると、ほうっと大きな溜め息を吐きだした。

『石上麻呂、今、語ったことに、嘘、偽りはなかろうな?』
 背後で男の声がした。

「誰だ?」
 乱馬が振りかえると、そこには、地面に這いつくばったまま、はっしとこちらを睨みつけている阿雅衆の男の姿があった。阿雅衆のリーダー的存在の男だった。後ろでずっと支持を出しながら、術を仕掛けて来た男だ。
 どうやら、息を吹き返し、黙って麻呂の話に耳を傾けていたらしい。

「ふん。もう眼が覚めよったか…。」
 麻呂爺さんは一瞥しながら、言い放った。
「嘘か真かは、己で判断すれば良かろう…。どんな理由があったにせよ、ワシが伊賀皇子様の御遺体から首を切り落とし、大海人皇子に寝返った事実は消せぬ。」
 麻呂爺さんは吐き出した。

「そうか…。伊賀皇子様は自らおまえに、そんな命を下していたのか…。」
 阿雅衆の男は、考えながら言った。

「一つ、おまえに教えてやろう。石上麻呂よ。」
 阿雅衆の男は、麻呂を見上げながら言った。
「あん?何をじゃ?」
「おまえが求めていた阿雅皇女様は、壬申の乱直後、伊賀国に逃れられた。」
 阿雅衆の男は答えた。
「そうか…。やはり、阿雅皇女様は伊賀国におられたか…。まあ、当然じゃろうな。伊賀国は伊賀皇子様を養育した国造の治める郡じゃ。そこへ匿われていて不思議ではない。で?伊賀に逃れた阿雅皇女様はどうなされた?」
「壬申の乱が終焉し、大海人皇子様が大王に立たれた頃、伊賀国からも忽然と姿を消されてしまわれた。」
「姿を消しただあ?」
 問いかけた乱馬に、隠(なばり)の男は頷いた。
「何者かによって、伊賀国から連れ去られたのだよ。どこへ行かれてしまったのか、阿雅衆の者たちが手分けして探したが、ついぞ、見つけられずに今日に至っている。」

「ふむ…。行方知れずになってしまわれたのか…。奴の言っていたとおりじゃな。」
 麻呂爺さんは、声を落とした。

「奴?誰だ?その奴ってーのは?」
 乱馬が横から茶々と入れると、麻呂爺さんは続けた。
「柿本佐留じゃよ。奴は所用があって伊賀へ出向いたことがあったようでな…。その折の土産話に、阿雅皇女様は伊賀に居た痕跡があったと話したことがあってのう…。ワシにとって、伊賀皇子様を養育した伊賀は近くて遠い。自ら仇敵(きゅうてき)の中へと身を投じるほど、無謀さは持ち合わせておらなんだからな。」
「柿本佐留…ねえ。また、こいつか…。」
 またこの名前に遭遇した。とてつもなく、不気味な存在に思えた。

「そういえば、それから程なくしてからじゃったな。ワシに隠(なばり)の話やら、稚媛様のことを詳細に語って、佐留が姿を消したのは…。」
 麻呂爺さんは、じっと火を見据えながら、ポツンと吐きだした。

「佐留は死んだと思うか?麻呂よ。」
 真人が口を挟んで来た。

「まさか!あやつがそう簡単にくたばるか!」
 麻呂爺さんが吐き出した。

「では、奴はどこに居ると思う?」
「さあ…わからんが、案外、ワシらの近く居いるやもしれぬぞ。」
「臭いも気配も、微塵も感じんぞ。」
「そのうち、ひょっこりと姿を現すんじゃないかのう…。あいつのことじゃ。
 ところで…今回の甘樫丘襲撃で、うっすらと見えてきたわい…。大王家の周りに蠢いていた、隠(いなば)を巡る陰謀と、その陰謀を影で操っていた奴らの意図と正体…がな…。」

「ってことは、その首謀者が誰か…わかったのか?」
 乱馬は麻呂爺さんに尋ねた。
「ああ…。」
「本当かよ?」
「見当はついたが…まだ、内緒じゃ。」
 ニヤリと麻呂爺さんは笑った。

「こらっ!てめー、この期に及んで、まだ、とぼけるつもりか?」
 乱馬は思わず、麻呂爺さんへとにじり寄っていた。

「まあまあ、麻呂にも何か、思うところがあるんじゃろうて…。阿雅衆の連中も居るしな…。」
 麻呂爺さんに突っかかりそうな乱馬を、牽制しながら、おじじ様が笑った。

「じゃあ、聞くが、これからどーすんでぇー?あかねはさらわれちまったし…。」
 すごむ乱馬に、麻呂は言った。
「とにかく、動くのは明日じゃ。」
 悪がきのように、麻呂はニッと笑った。
 明らかに楽しんでいるような感じだった。




つづく





一之瀬的戯言
断っときますが、一之瀬創作の壬申の乱ですので、絶対信じないでください。
ただ、石上麻呂が近江方を裏切って大海人皇子側へついたのは史実のようです。(日本書紀による)。
いろんな駆け引きがあったことは確かなようです。


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