◇飛鳥幻想
第十二話 桃源墓の攻防

三十三、桃源墓の宝、争奪戦


 乱馬の指先が地下水脈でも突き刺したのだろう。辺りには飛鳥川の支流も流れている。
 急に水が乱馬目がけて噴き出した。みるみる乱馬の身体は女体へと変身を遂げる。
 
 しまったと思ったが、後の祭りだ。
 巨人たちは乱馬の姿が女に変化しても、かまわず、攻撃を仕掛けてくる。

「おっと!」
 巨人たちは攻撃の手を緩めることなく、女化した乱馬を目がけて、コン棒を振り下ろしてきたのだ。
「たく、女でも容赦しねーってか?んな奴は、もてねーぜっと!」
 乱馬は爆砕点穴をそいつに打ち込んだ。と、巨体が足元からはじけ飛んだ。みしっと音をたてて、巨体が崩れ込んだ。
 が、ホッとしたのも束の間、すぐ後ろから、別の巨人が襲い掛かってくる。
「たく、男なら、女には優しくしやがれっつーのっ!」
 そう口に出しながら、爆砕点穴を仕掛けていく。

「へっ!女になって、こっちはかえって都合良くなったかもな…。体重が軽くなった分、動きも早くなったぜ!」
 男のときより腕力は落ちるが、女になり、体重が軽くなった分だけ、動きは確実に速くなる。次々と襲い来る巨体相手に、身軽に逃げながら、爆砕点穴を打ち続けた。

「たく、何体居るんだ?」

 ざっと、四、五十体は倒したろうか。息があがって、スタミナ的にもやばくなった頃、やっと、辺りが静かになった。
 巨人が土中から這い上がらなくなったのだ。

「ふうう…。」
 汗をぬぐいながら、あがった息を整えていると、少し向こう側から、爺さんの呼び声が響いてきた。

『やっと、終わったようじゃな…。』

 その声の方向へ眼を手向けて、ハッとした。いつ開いたのか、大きな穴が下方へと開いていたのだ。
 どうやら、麻呂爺さんは、その下に居るらしい。
 苔臭い臭気が鼻をついた。暗がりが地中深くへと続いている。勿論、明かりは無い。夜目に慣れていても、手探りで進まねばならぬだろう。さすがの乱馬も少しばかり躊躇した。

『早く、来いっ!』
 爺さんの呼び声がまた響いてきた。

「来いって簡単に言うがなあ!足元、暗過ぎて進めねーっつのっ!」
 乱馬はその問いかけに答えた。

『たく、情けないのう!』
 そう声が響いて来たかと思うと、下から光が溢れて来た。道筋がついたように、こちら向かって光が渡って来たのだ。
 土の下に続く石畳が手に取るように見えた。
『これで見えるようになったろう?早く来い!』
 そう下から声が響いてきた。

 乱馬は眼を見張った。勿論、電気など無い古代社会だ。いったい、何で光を取っているのだろうか。
 不思議に思いながら、歩き出す。数歩ほどいって、そのカラクリが理解できた。
 羨道の至る所に、光る物が吊り下げられている。それ自体が光源になっているのではなかった。前を通ると、己の顔が歪みながらではあるが映し出された。
「鏡じゃねーか!」
 古代人の知恵とでもいうのだろうか。天上から照らしつけてくる太陽を光源に、反射させて足元を照らしているのだった。
 思った以上に明るい。
 恐らく、古代の人々はこうやって、鏡で太陽の光を取り入れながら、暗がりで作業したのだろう。鏡にこういう使い方もあったのかと、乱馬は舌を巻いた。

「やっと、来たか。」
 爺さんはにっと笑った。その傍で、狼に変化した浅人も尻尾を振っていた。

「たく…。面倒事は全部、俺に押し付けやがって。」
 そう小言も言いたくなる。
「まあ、そう言うな。あまり時間をかけても居られなかったでな…。陽が落ちてしまえば、明かりは無くなる。暗がりでの作業はやっかいになるでな。」
 爺さんは言った。
「で?首尾は?」
「上々じゃ。あれを見よ。」
 そう言いながら、爺さんは奥の方を指さした。
 その先には、朱色を帯びた長い石の箱が置かれていた。その大きさから、剣璽であろうことは予測できた。
「もしかして、その箱…。」
「ああ、ここに「布都御剣(ふつのみつるぎ)」と書かれておるわい。」
 爺さんはそう言いながら、指さした。そこには確かに、「布都御剣」という文字がたどたどしく彫られていた。
「へええ…。布都(ふつ)って布の都(ぬののみやこ)、そう書くのか…。」
 乱馬はその字を辿った。
「ほう…。お主、字が読めるのか。」
 爺さんが問いかけてきた。
「あったりめーだ!」
「そんなに頭がよさげには見えぬがのう…。」
「余計な御世話だ!」
 乱馬はぷんすかと言葉を投げ返した。
「俺たちの時代は誰でも読み書きできるっつーの!」
「ほう…。女、子供でもか?」
「ああ。」
「この文字が読めるということは、唐国の文字が倭国で定着したということか…。」
「唐国って中国のことだよな…。ああ、漢字って俺たちは呼んでるがな。」
「そうか…。」
 爺さんは少し考え込んだ様子で頷いた。
「さてと…。さっさとその箱を開いて、宝を持ち帰ろうぜ…。ぐずぐずしていたら、陽が暮れちまう。」
 乱馬は爺さんを促した。

 と、背後で気配が立った。


「その必要はないぞ!」

「誰だ?」
 乱馬は声の方向へと目を転じ、ぎょっとした。
 そこに、人が、それも複数、立ち並んでいたからだ。いずれも、顔を忍者の如く、白布で覆っていた。一人だけ、色目が違い。真白ではなく、少し紫がかっている者がいたが、どうやら、そいつが声の主らしかった。

 いつの間に、羨道を入ってきたのだろう。声がするまで、乱馬にすら気配が読めなかった。いや、乱馬だけではない、麻呂爺さんや狼に化した浅人も読めなかったようだ。

「ほう…。これはこれは…。義法辺りの手の者かのう…。」
 爺さんは眼を細めて笑った。気配は読めなかったものの、どうやら、現れた相手の正体は見通している様子だった。

「ほう…。我らが義法様の手の者と、おわかりか…。さすがは、麻呂様。」
 そう言いながら、紫覆面の目元が笑った。

「義法って誰だっけ?」
「今の陰陽寮を牛耳っている奴じゃよ。このワシを小治田宮から遠ざけた張本人じゃ。…そして、恐らく、この前の竈門郎女の件も、奴が裏で糸を引いておるんじゃろうよ。」
 麻呂爺さんは乱馬の問いかけに答えた。
「もしかして、蘇我の宝を横取りに来やがったのか?」
「恐らくそうじゃろうな。先にワシらに獲物を取りに行かせ、それを体よくかっさらっていくつもりじゃろうな。」

「そこまでわかっているのなら、話は早い。その剣璽、こちらへ渡していただきましょう。」
 紫覆面は配下の者たちで、乱馬たちを囲みこみながら、命じた。

「嫌だって云っても、引き下がるつもりはなさそうだな。」
 乱馬は吐きだす。
「全く、年寄りと女子供を襲うとは…。無粋な連中じゃよ。」
 麻呂爺さんは、そう言いながら身構えた。
「ああ、本当にそうだな…。最低の野郎たちだぜ。」
 乱馬も同意した。
 ここに居るのは七十を過ぎた老人と、女化した乱馬、それからま小ぶりの狼と化した浅人。その三人である。
「とりあえず、どうする?爺さん?大人しく渡すか?」
「まさかっ!」
 爺さんは吐き捨てるように言った。

「わかりました。力ずくで奪いましょう。無論、御老人だろうが、女だろうが…獣の子だろうが、容赦はしませぬ!覚悟ください!」
 そう言いながら、紫覆面は合図の口笛を吹いた。と、周りをぐるりと囲んでいた他の覆面たちが、一斉に、乱馬たちに襲いかかって来た。

「やれやれ…。仕方が無いのう…。乱馬っ!そこの狼少年っ!身を伏せいっ!」
 麻呂爺さんの怒声が飛んだ。何かを仕掛ける気が、ありありと読めた。

「浅人っ!身をかがめろっ!」
 乱馬は浅人の首根っこを掴むと、そのまま一緒に身を低く投げ出した。

「爆流砕陣っ!」
 爺さんは持っていた杖を、思いっきり地面へと突き刺した。

 と、バリッと音がして、周りの地面からえぐられるように、石や土塊が飛び散った。そして、乱馬たちに襲いかかろうとしていた敵たちをことごとく粉砕しにかかる。まるでダイナマイトが爆発したような勢いで、石や土が飛び散った。そんなものがバラバラと一斉に頭上から襲ってくるのだ。襲われた者はたまったものではない。
 ドスドスドスと鈍い音がして、囲んだ暴漢たちを粉砕した。

「ふっ!味な真似を。」
 首謀格の覆面男は、爺さんの攻撃をすんででかわした。いや、そればかりではない。予め、爺さんの動きを読んでいたのだろう。
「そちらがそう出るなら…。こちらもっ!布陣、返しっ!」
 そう言いながら、持っていた長刀で麻呂爺さんが突き刺した杖を上から、思い切り切り裂いた。

「しまった!」
 爺さんはそう小さく叫んだが、後の祭りだった。
「なっ!何だ?足が動かねーっ!」
 足がめり込んだように、地面にすっぽりと入り込み、動きを封じられてしまった。

「ふふふ…。動けまい!」
 勝ち誇ったように覆面男は麻呂爺さんと乱馬の前に立ちはだかる。唯一、呪縛を逃れた浅人が、覆面男目がけて、噛み付こうとしたが、覆面男はそいつも片手で払いのけた。

 キャイン!
 負け狼の声と共に、浅人も地面へと沈んだ。

「さて…。動きを封じたところで…。その剣璽。こちらへ寄こしていただきましょうか。」
 そう言いながら、覆面男は、麻呂爺さんの腰元に刺さっていた、「布都御剣」へと手を伸ばした。
「ほう…。名剣らしく、ずっしりと重いですね。」
 動きを封じられて身動きが取れない爺さんへ、不敵な笑いを浮かべながら、覆面男は勝ち誇った顔を手向けた。
「目的を達すれば、あなたたちにはもう用はありませぬ。私は先に参りますから…おまえたちっ!」
 そう言いながら、麻呂爺さんの術を受けて倒れたダメージをようやくぬぐって、立ちあがり始めた手下たちに向かって、覆面男は命令を下した。
「後の始末はよろしくお願いいたしますよ。私は一足先に、義法様の元へと戻りますから。」
 「布都御剣」を爺さんから奪うと、覆面男はその場を離れた。身軽に、結界の外へと走り去る。

「たく…。仕事を手下に押し付けて、己はさっさと立ち去るとは。本当に根の腐った奴じゃな。」
 爺さんは恨めしげに、覆面男の後ろ姿を見送る。
「畜生!油断したぜ。」
 乱馬も歯ぎしりしながら吐き出した。
 そんな、麻呂爺さんと乱馬の周りを、今度こそは仕留めてやると言わんばかりに、動けるようになった覆面男の手下たちが十名ほど、じりじりと刀を手に取り捲いた。
「ここで血祭りに上げる気かのう…。」
「みたいだな…。」
 麻呂爺さんと乱馬は互いに瞳を見合わせた。
「どうする?乱馬っ!おとなしくやられるか?」
 そう問いかける麻呂爺さんに、乱馬はけっと語気を吐き出した。
「まさかっ!んな気はさらさら無えよっ!」
「まだ、戦えるか?」
「誰に物言ってやがる。」
 乱馬はそう言いながら拳を握り締めた。

 その言葉を聞きながら、手下たちがふっと鼻先で笑った。
「武器もなく、動けぬおまえらに、どう反撃できるというのだ?」
 一人がそう言葉をかけた。

「反撃するのに武器なんて、要らねーよっ!なあ?爺さんっ!」
「ああ、そうじゃなっ!足を封じられても、まだ、手が残っておるわいっ!」

 互いに頷き合うと、二人は、それぞれの方法で反撃に出た。
 爺さんは陰陽術で、乱馬は気弾でだ。
 陰を結んだ手を鼻先に構えると、爺さんの気合が弾けた。と同時に、乱馬の気弾も掌から弾け飛ぶ。二人は、いきつく間も無く、互いの攻撃を仕掛けて行った。

「なっ?」
「うわーっ!」
 そこら中で覆面男たちの悲鳴が上がった。
 追いつめた筈の老人と女の思わぬ反撃に、面白いようにバタバタとなぎ倒されて行く。
 そこに居た、全員を斃すまで、数分もかからなかった。


「ワシらを斃すなど、百年早いわっ!」
 手下たちを倒したところで、爺さんは、術式を発動させて、動きを縛っていた覆面男の術を破った。
「たく…。姑息な術式を張りよるわいっ!義法の手の者らしいのう…。」
 衣服についた土を払いながら、爺さんは倒れ込んだ手下たちを恨めしそうに見やった。
「おい…。紫覆面を負わなくて良いのか?」
 動けるようになった乱馬は、麻呂爺さんに促す。
「下手に追うと、返り討ちにあうやもしれん。今は追うのは辞めておいた方が賢明じゃな。」
 そう言いながら、爺さんは傍らに横たわっていた、浅人の背中をさすってやる。と、気を失っていた浅人が息を吹き返した。
「で?これから、どうするんだ?」
「そじゃな…。いったん、真神の里へ戻り、態勢を立て直すかのう。」

 そう呟いた麻呂爺さんを見上げながら、倒れた手下の一人が、ふふっと嘲るように笑った。

「ふふふ、お主らが戻るまで真神の里が存在しておればよいがな。」
 起き上がる気力は残されていないのだろう。地面に這いつくばったまま、そいつは言った。

「おいっ!どういう意味だ?そいつは…。」
 乱馬がはっしと睨み据えながら、その男へと視線を流した。
「義法様が真神の里をそのままにしておくとでも、思ったか?」
「ま、まさかっ!」
 ぐいっと乱馬は男の胸倉を掴んだ。 
 

「へへへ、そのまかさだぜ、今頃、俺たちの仲間が真神の里を襲っている頃合いだ。」

 男の投げつけた言葉に、乱馬の顔つきが鋭くなった。

「おいっ!爺さんっ!真神の里が危ないっ!戻ろうぜっ!」
 真神の里にはあかねを残して来ている。そう思うと居ても立っても居られない。
 乱馬が叫ぶと同時に、上の方で大きな音が炸裂した。
 
 ズズズと地鳴りがしたかと思うと、すっと辺りが真っ暗になった。
「用意周到な奴じゃな。念のために、玄室の扉をふさいで行きよったか。」
 爺さんが吐き出した。

「ふふふ、石上麻呂を相手するんだ。頭目でなくとも、そのくらいの注意は払うわ。どうだ?これで、俺たち諸共、おまえらはこの地の底の暗闇の中で息絶える…。」

「まったく…。このワシも見くびられたものじゃのう…。」
 爺さんの声が響くと同時に、ポッと辺りが明るくなった。爺さんは掌を上に掲げて、気玉を浮き上がらせていた。ほのかな明かりが、その場を射す。

「ほう…。己の気で燈火を出すとは…。だが、この後はどうする?玄室の入口は塞(ふさ)がれたぞ。」
 手下は爺さんを見上げながら、笑った。

「乱馬…。おぬし、玄室を塞いである岩や土を取っ払う術(すべ)を持っておるよのう?」
「誰に物言ってやがる!持ってるに決まってるだろ?」
「なら、急ぐか…。」
「こいつらはどうするんだ?」
 倒れこんでいる手下たちを見ながら乱馬が問いかけると、爺さんは笑った。
「何、生き延びる気があるなら、勝手に後から這い出てくるじゃろうて。」
「だな…、いちいち助けてたら、時間が勿体ねーよな。活路は開いてやるから、自分たちで何とかしてもらうか。」
 乱馬はキッと石の塊を見上げた。

「ふん、どうやって、土くれや岩を退けるというのだ?」
 そう声をかけた、手下に向かって、乱馬は叫んだ。

「こうやるんだよっと!爆砕点穴っ!」

 爆砕点穴は響良牙の技だが、乱馬も見よう見まねで打ち込めるようになっていた。良牙ほどの破壊力はないが、天井の土くらいは打ち砕く破壊力は、十分に出せた。

「ほう…。おぬし、なかなか面白い技を知っておるのう…。」
 爺さんは眼を細めた。
「ダチの技だよ。俺の技じゃねー。っと、そんなことより、急ぐぜ!真神の里が心配だ!」
「真神ではなく、あかねちゃんの間違いではないのか?」
「うるせー!さっさと行くぜっ!」

 乱馬は爺さんと浅人を伴い、爆砕点穴で玄室に大穴を開けた。石舞台の石組が破壊されずに綺麗に残ったのは、奇跡に近かったかもしれない。

「早くっ!」
 駈け出そうとした乱馬の袖を、浅人の狼口が引っ張った。
「あん?どうした?浅人っ?」
「浅人は、近道を知っておるのじゃないか?」
 爺さんの言葉に浅人の首が揺れた。真神原を自由奔放に駆け巡る狼だ。恐らく彼は、来た道より早い道を知っているに違いない。
「わかった。浅人っ!おめーに付いて行くぜ!」
 そう乱馬が言うと、浅人は真っ先に真神原目指し、駆け出した。



三十四、甘樫の井戸

 乱馬たちが真神の里を出て行った後、あかねは、せせこましく動き回っていた。
こんな時は、身体を動かすのが一番だと、彼女なりに考えたのだ。
 古代社会へ放り出されてしまったことはともかく、乱馬と別行動を取ることへの不安感が、ややもすればあかねに襲いかかってくる。それを払拭するように、真神の里の者たちを手伝っていた。
 文明の利器など無縁に近い古代社会だ。煮炊きひとつでも、時間を要する。
 機織りしている女も居たが、器用な方ではなかったから、水仕事を引き受けることにした。

「あかね、一人で、大丈夫?」
 大きな水がめを手にヨイショと水を運ぶあかねに、真神の若い女たちが目を丸くしながら、声をかけた。女たちはそれぞれ、幾つかのグループに分かれて、農作や機織り、飯炊き、洗濯などの仕事をしていた。
 様々な年頃の女たちが数人で水場へ向かった。いずれも、浅黒い肌をしていて、たくましそうな女性たちばかりだった。
「平気よ。これくらい、へっちゃらよ。」
 あかねは、踏ん張りながら、甕を持ち上げて見せた。
「へっちゃら、へっちゃら。」とあかねの口調を真似して、子供たちが周りを走り回る。
「こらこら、甕の周りをうろついちゃ危ないわよ!あっち行ってな!」
 女たちは、子供らをけん制する。

 真神の里の者たちは、飲用水として、蘇我の館跡の井戸をそのまま利用している。井戸を掘るにも、相当な技術を要したに違いない古代社会だ。蘇我氏の遺した井戸は、上質の水調達にはもってこいだ。利用しないのは勿体ない。
 あかねは数人の女たちと一緒に、廃墟へと辺りへと降りて行く。

「へええ…。ここが蝦夷様の邸宅だったのね。」
 廃墟を見渡しながら、改めて目を見張った。
 建物の痕跡は殆どなかった。家をかたどっていた木材や土壁は、とっくに朽ち果てて、跡形もない。が、目を凝らすと、草木がこぼれる平らな土地に、柱を建てていた礎石が見え隠れする。焼けなかった瓦や土器の破片が、辺りに散らばっていた。
 井戸端は、比較的、きれいに残っていた。井形の板組みも傷んではいたが、ちゃんと手入れしてあった。水汲みだけではなく、洗濯もここでするのだろう。洗い場のような場所が井戸周りにある。
 後ろ側には井戸の神を祀ってあるのだろう。注連縄が巻きつけられた大きな岩がドンと構えていた。その脇には、土師器(かわらけ)が置いてあって、穀物や塩などの、お供え物がしてあった。
 ちょろちょろと岩の割れ目から水がしみ出している、この屋敷の主は、この下にある水脈を利用して井戸を掘ったのだろう。

 女たちは、布切れを持ち寄ってきて、岩を背に、さっそく、どっかりと腰をおろし、洗濯を始める。
 真神の人たちは、毛皮を着ていたから、洗うものはそう多くなかったが、それでも、折に触れて、天気の良い日は、様々なものを洗っているようだった。
 洗濯板よろしく、板や石にこすりつけて、器用に汚れを落としていく。石鹸などない時代だ。春とはいえど、まだ、水は冷たい。それでも、真神の女たちは気にすることもなく、ゴシゴシとやりはじめる。
 手を動かしながら、真神の女たちは、興味津津、あかねに色々なことを尋ねてくる。洗濯場は古くから女の社交場と呼ばれているのも頷けた。

 洗濯をしながらの、他愛のない「おしゃべり」が始まった。
 
「あかねの世界にも井戸はあるの?」
「ええ、井戸はあるわ。でも、殆ど使われなくなってるわね。」
「井戸を使わないで、どうやって水を汲んでるの?」
「川や池から汲んでくるの?」
「まさか…。あたしたちの時代は、上水道…っていってもわかんないかもしれないけど、蛇口をこうひねれば、いつでもどこでもきれいな水を引く施設が整ってるのよ。」
「陰陽師や巫女が呪術で水を引いてくるの?」
「うーん…。呪術じゃないわね…。ポンプを使って汲み上げて、上水管を使って浄水場から直接、送られてくるっていうか…。」
 どう説明したらよいものやら、あかねは迷った。ポンプとか水道管と言っても、彼女たちには、ピンと来ないだろう。
「あかねさんの屋敷には井戸はあるの?」
「井戸はあるわよ。うちってそこそこ古い家だからねー。使ってないけど。」
「井戸があるのに使わないの?」
「ええ。でも、井戸ってそう簡単に壊しちゃいけないらしくって…。使ってないけど、遺してるのよ。」

 旧家の天道家。むろん、都内にあるゆえ、水道を使っていたが、あかねの生まれるずっと前から井戸は存在していた。落ちると危ないというので、今は鉄板で蓋をしてあるが、そのまま裏庭に残っている。

「ねえ。あかねは乱馬とまだ、契ってないって聞いたけど、本当なの?」
「何で契ってないの?」
 井戸の話に始まって、だんだんと、プライバシーへ踏み込んでくる。

「誰にきいたんです?そんな話…。」
 思わず真っ赤になりながら、切り返す。

「勇人が言ってた。」
「うん。だから、勇人の奴、未練がましく、まだ、あかねを手に入れることもできるかもしれない…なんてぼやいてたわよ。」
「昨日だって、何もしてないんでしょ?」
「うんうん。外で見張り番をしていたうちの人も、そんな気配はみじんもなくて静かだったって言ってたから。」

「なっ!」
 思わず真っ赤になる。
 耳を傍だてて、寝床の近くに誰か居たことになる。

「ねえ、何で、まだ契ってないの?」
 口々に質問を浴びせかけてくる。
「いろいろと、あたしたちにも事情があるのよ。」
 困っ表情で言い返しても、しつこく食い下がってくる。
「事情って?」
「とりあえず、自分たちの世界へ帰ってからって、約束したから。」
 真っ赤になりながら、やり過ごそうとする。
「っていうことは、いずれは夫婦になるのね?」
「ええ、まあ、そういうことになるわね。」
「あかねは、乱馬のどこに惚れたのさ。」
「…難しいわ質問だわね…それって。」
「乱馬ってどんな男?腕っ節は強い?」
「ええ。強いわよ。」
「勇人とどっちが強い?」
「比べたことがないからわかんないけど、乱馬は強いわ。」
 あかねは胸を張った。
「そんなに強いなら、他の女たちに言い寄られることもあるんじゃないの?」
「うんうん。好い男の絶対条件は、腕っ節が強いことだもの。」
「まあ、ああいう性格の男だから…。言い寄ってくる女の子は多いけれど…。」
 シャンプーや右京、小太刀の顔が次々に浮かんだ。
「他の女を嫁にはもらっていないの?」
「そうよね。そんなに好い男なら、他の女と契っていて当然ね。」
「ねえ、ねえ、その辺はどうなの?」
「あかね以外に妻はいるの?」
「貰ってないわよ。…っていうか、私たちの国は一夫一妻制なのよ。一人の男に一人の女しか結婚できないことになってるの。」
 そう切り返したあかねの言葉に、真神の女たちは、驚きの表情を手向けた。
「一人の男に一人の妻しか居ないの?」
「うそっ!信じられない!」
「奇怪すぎるわ!」
               
「奇怪ねえ…。」    
 思わず、苦笑していた。
 現代日本では、一夫一妻が当り前になっている。浮気はあるが、法律的に一人としか結婚できないことになっている。それが、この時代の狼族の女たちには奇怪に思えるのだろう。
「あかねも、乱馬以外の男と交わったことはないの?」

「あ、あるわけないじゃないの。」
 と言い返す。

「へええ…。ってことは、あかねは、まだ処女なんだ。」
「その年なら、一人や二人、男と枕を並べていても不思議じゃないのに…。」
「言いよってきた男がたくさん居そうなのに。」
「ねえねえ、何人か居るんでしょ?求愛してきた男。」
 あかねの脳裏にパッと、九能先輩の顔が浮かんだ。乱馬が現れるまで、いや、現れて以後も、しつこく求愛してくる変な先輩だ。そう、乱馬が来るまでは、毎朝が地獄だったことを、ふと思い出した。交際しようと大群で迫りくる男連中。一体あの騒動は何だったのか。
「まあ、全然居なかったって訳じゃないけど…。」
 と小さく答えた。

「勇人はどう?乱馬と比べたら、やっぱり見劣りする?」
 寄ってたかって、質問攻めだ。

 真神の女たちにとって、他の種族の女の話など、そう、滅多に聞けることはないだろう。根掘り葉掘り、思いついたことを、遠慮なしにきいてくる。中には答えに窮する質問も飛んできたが、適当に受け答えしながら、あかねは手を動かし、働き続けた。

 洗濯が一通り終わると、今度は天日に干しにかかる部隊と、水汲み上げの部隊に分かれた。
 あかねは、水汲みの方に加わり、並べられた甕に次々と、井戸から汲み上げ始めた。
 なみなみと甕に水を注ぎ込み、それを、上の真神の邑へと運び上げるのだ。
「男は手伝ってくれないの?水って結構、重いでしょ?」
「水汲みは女の仕事だよ。」
 洗濯と違って、そこそこの力仕事になるが、水汲みは女の仕事だと真神の女たちが言った。
「何で、女の仕事なの?」
 あかねが逆に問いかけると、女たちは口々に言った。
「さあ…。深く考えたことなんてないわ…。」
「水汲みは女の仕事って、だいたい、どこの氏族でも決まってるし。」
「水の神様は女が水汲みをしなければ、怒るとか…。おじじ様からきいたことがあるわ。」
「そうね…。水の神を斎くのは、古来、女巫の仕事だし…。」
「うん、現に今でも、天の香具山にきれいな女巫(かむろみ)が居て、飛鳥の水神を祀っているわ。」

「香具山のきれいな巫女さん?」
 あかねが問いかける。
「天の香具山のすぐ傍に湧き立つ、泣沢の森の泉を祀る巫女様よ。」
「泣沢…。」
 あかねは、首をかしげた。泣沢という名に、どことなく聞き覚えがあるような気がしたからだ。
「泣沢の森の泉の傍にある泣沢宮に居られて、水の神を斎いていらっしゃるわ。」
「泣沢宮…。」
 ハッとあかねは眼を見開いた。乱馬が麻呂爺さんと共に出かけた夜、現れた巫女が口にしたことを思い出したのだ。「魂だけ泣沢宮から飛び越えて来た…。」そんなことを言っていた。
 もしかして、女たちが言っている巫女様が、あの時、あかねの前に現れた女性なのではないかと、直感した。
「ねえ、その泣沢宮の巫女様って、どんな人なの?」
 思わず、問い質していた。
「泣沢宮の巫女の名前は…確か…。」
「宮子様じゃ!」
 女たちは答えた。
「宮子様ってどんな人なの?」
 矢継ぎ早にあかねは問いかけた。

「前皇の妃でもあられた御方だよ。」
「そうそう、首様の母君。」
「首様の母君…。」
 あかねは考え込んだ。彼女が首皇子の母親だとしたら、魂だけで泣沢宮から飛んできたと発した言葉に納得できる。が、何故、離れて暮らしているのだろうか。
「どうして、首様の母上が、泣沢宮にいらっしゃるの?」
 あかねの問いかけに、女たちは口々に話し始める。

「さあ…。詳しいことは知らないねえ。」
「ほら、前皇様の遺言で泣沢宮に入られたとか言ってなかったっけ。」
「いやいや、元々泣沢宮を斎く巫女じゃった方が、一夜巫女として召されたんじゃなかったっけ?」
「そうそう…。宮子様は大嘗(おおなめ)の祀りに差し出された、一夜巫女だったわ。役目を終えて、また、泣沢宮へ戻られたのよ。」

「一夜巫女?」
 あかねが問い質すと
「即位に際して行われる、精霊との交わりの儀で、一夜だけ床を一緒にされる巫女様のことを一夜巫女って呼ぶんだよ。」
「即位して始めて交わる聖なる役目で、皇族ではなく、卜占で選ばれた豪族の娘たちの中から厳選して選ばれる。」
「前皇様が一目ぼれなさって、一夜巫女に羨望なさったんじゃなかったっけ?」
「うんうん、でも、宮子様は、卜占で先に決まっていらした藤原の姫様を差し置いて、入内されたんだよね。」
「そうそう、他の女は嫌だと、いたく宮子様に、前皇様がご執心だったらしいわよ。」

 古代の女たちもゴシップは大好きだったとみえて、様々な見解が積み上げられる。

「不比等も渋々、藤原氏の養女として中臣氏から預かるという形で、前皇様の宮子様を一夜巫女にという申し入れを受けなさったんだっけねえ…。」

「宮子様って中臣氏の女性だったんですか?」
 あかねが問いかけると、女たちは、また、口々に話題を広げていく。

「ああ、宮子様は中臣氏が古代から祀っていた「水の神様の斎王様」だったからねえ。」
「宮子様ほどの力のある巫女様を斎王から下がらせるのは嫌だと、中臣氏はお召し上げには猛反対したんだっけ…。」
「でも、最終的には、一夜巫女としてのお役目が終わったら、再び、水の祭祀につけるという約束で、一夜巫女として召されることに決まったんだよね。」
「そうそう。お役目が終わったら、再び、泣沢の斎王に戻るという条件で入内されたんだよねえ…。」
「斎王様は本来は未婚じゃないといけないけど、宮子様は特別扱いだったねえ…。」
「一夜巫女の場合、尊皇様は神の御子だし、儀式での交わりだったから、男子と交わっても、実質、神様と交わったのと同じと解釈されるんだってね。」
「そうしたら、なんと、めでたく、ご懐妊なさったんだよねえ…。」
「それが、珂瑠皇子様。」
「凄いわよねえ…。一夜でご懐妊させられた前皇様の執念も…。」
「一夜のうちに、前皇様は宮子様を何度もお召しになったって噂だよ…。」
「うんうん、きいた、きいた。一夜巫女とは一夜限りしか契れないからと、一晩中、何度も和合されたとか…。」
「一晩中、巫女様の嬌声が辺りに響いていたって、守の者が言ってたそうだよ。」
「巫女様でも乱れられるんだねえ…。」
「そんなに、尊皇様のアレは良かったのかねえ…。」
「翌朝、寝屋を覗かれた従者が、おどろいたそうだよ。激しく夫婦交わりなされた痕が散らばっていたとか…。」
「そりゃあ、皇子様もご誕生になられるよねえ…。」

 女たちは、あかねの質問に、容赦なく、互いに知りうるかなり濃厚な情報を、重ねるように答えて行く。黙って耳をそばだてるあかね自身が、顔を赤く染めそうな話題を、平気で口にしていくのだ。

 つまり、真神の女たちの話をまとめるとこういうことになろう。
 宮子という泣沢の巫女は、中臣氏の出自であり、「一夜巫女」として前皇に差し出され、首皇子の母となった。そして、中臣氏から藤原不比等の養女となり、一族の事情で、再び、泣沢宮へと戻り、水神の祭祀をしている…と。

(あの女性が、宮子様なら、忍んで小治田宮の様子を見に来たのも、頷ける話だわ。)
 あかねはそう思った。

「一晩に、尊皇様は何度くらいお召しになったんだろ。」
「噂だと七回らしいよ。」
「うへー、凄い!七度も?」
「うちの人なんか三度が限界だからねえ…。」
「って、受けるあんたもそのくらいが限度なんだろ?」
「絶頂期のおじじ様は八回くらいはいけたそうだよ。」
「さすが、おじじ様!」
「乱馬だったらどのくらいいけそうかね?」
「さ…さあ…。」
 急に振られても困るとあかねは口ごもった。
「あかねもそこそこ強そうだから、一晩に五回くらいは平気でいけそうじゃないかね?」
「そうだね、あかねのあそこも、一晩に五回くらいは、平気で受け入れられそうだねえ…。」
 一同、含み笑いを浮かべながら、あかねの身体を舐めるように上から下へと見やった。

「好い尻しているよ、この子は。」
 パシンと一人の女が、あかねの尻を叩いた。
「そうだね…。五回といわないで、もっといける口かもね。」
「あかね、せいぜい、初夜を迎えるまでに、足腰を鍛えときなよー。」
「乱馬が他の女に手を出せないくらい、何度でも受け入れてやれるようにね。」
「後ろからでも前からでも、どこからでも受け入れられるようにするには、やっぱり足腰は鍛えこんでおかないとねえ。」
「大丈夫、あかねは足腰強そうだよ。」
「乱馬も強そうだねえ。あれは、底なしに打てる男と見たよ。」
「他の女と交わろうとしても一滴も白い雫を流せないくらいに、毎晩交わって、絞りとってやんなよ。」

「は…はあ…。」
 だんだんエスカレートしていく、女たちの会話に、どう答えてよいやら、困惑気味に苦笑いを浮かべる。
 古代の人たちは、性に関して、おおらかであけっぴろげのようだ。

「さて、上の連中が水を待っておろう。そろそろ、上がろうか。」
 女たちは、腰を上げる。
 汲みあがった甕を持って、女たちは何往復もするらしい。あかねもそれを嬉々として手伝った。
 一等、大きな甕を持ち上げると、周りの女たちが、目を見張った。
「あかね、そんな大きな甕を持たなくても…。」
 止めに入った娘を制しながら、
「良いから、良いから。ちょっと、古代へ来て、身体がなまってるのよ。このくらい持たなきゃ、修業にならないし…。」
 と言った。
「修業?」
「ええ。あたし、腕っ節を鍛えてるの。力だけは人に負けないわ。」
 と平然と、甕を持ち上げて見せる。
「凄い。力持ちねえ。」
「ますます、真神の一族の嫁として欲しくなったわ。」
「どう?乱馬殿をやめて、勇人殿に腰入れしては。」

「いえ、そんな気はありませんから…。」
 きゃっきゃと、真神の女たちに囲まれて、それなり、気分を紛らわせることができた。

(乱馬、今頃、麻呂爺さんたちと、首尾よくやってるのかな…。)
 ふと、甘樫丘の東へと目を遣る。緑が延々と続いていて、人家もない。畑もなければ田んぼもない。本当に、何もない野山が存在しているだけだ。あかねたちが日ごろ目に触れている緑が、いかに、人の手が入っているかを、思い知らされる。田園風景も、本来の自然の姿ではない。人が開墾し、生活の糧を得るために作り上げた風景なのだ。
 異変が起こったのは、何度目かの水汲み作業で、井戸から水を集落まで引き上げようとした時だった。

 あかねたち女を守るように、一緒についてきていた狼たちが、一斉に、耳を立てた。ピンと耳を尖らせ、ウウウーッと唸り声を上げる。何かに警戒しているようだ。

「どうしたの?」
 あかねは、険しい顔つきになった女たちに声をかけた。

「誰じゃ?そこにいるのは!出てきやれっ!」
 少し年長の女が、吐きつけるように言った。

 と、そこに現れたのは、一人の女だった。

「桂さん?」
 見覚えのある顔に、あかねは驚いた。
 あかねの顔を見た途端、ホッとしたのか、崩れるように、桂はその場へと崩れ落ちた。

「ちょっと、桂さんっ!桂さんってばっ!」

 あかねの声が、辺りに響き渡った。それを取り巻くように、真神の里の者たちが、一斉に集まって来た。




三十五、豊浦宮

「で?この子が倒れたのですか?」
 真神の速人が、あかねに問いかけて来た。

「ええ。あたしの顔を見るなり、ふっつりと意識が途切れてしまったみたいで…。」
 困惑げにあかねが答えた。

「兄者、この女、あっちこっち怪我しているみたいだぜ…。」
 勇人が覗き込みながら言った。
「確かに…。」
 桂の衣服はあちこち擦り切れていて、何かと戦った様子が窺い知れる。
「小治田宮で何かあったのかしら…。桂さんって、相当な手練なのに…。」
「へええ…。そんなに手練なのですか?」
 速人が問いかけると、隣から覗き込んでいる勇人が首を縦に振った。
「ああ、俺もこいつと対峙したけど、咒法も使いこなせるようだったぜ。」
 あかねをさらった時に、勇人は桂と顔合わせしていた。その時のことを思い出しながら、勇人は答えたようだ。
「この女、一体、何者なんです?」
「えっと…。麻呂爺さんの家来というか…。あたしたちの面倒を見てくれてた女性なんです。」
 傍であかねが即答した。

「桂郎女か…。」
 おじじ様がひょいっと、顔を出した。
「おじじ様、この人をご存じなんですか?」
 速人が首を傾げながら、問いかけた。
「まーな…。確かに、麻呂のところの若い衆じゃ。」
 おじじ様は答えた。
「ということは、朝廷側の術者ですか。」

 あかねたちの話声が気付けになったのだろう。ハッと桂の瞳が見開いた。

「ここは…。」
 一瞬、目を大きく見開いて、真神の者たちの顔が見えると、桂はガバッと起き上った。桂の顔が、みるみる、強張った。そして、身構える。
 周りに群れてきた、真神の男たちを見て、本能的に身構えたようだ。

「桂さん…。落ち着いて。今は戦っちゃだめよ!」
 傍からあかねが慌てて声をかけた。

「あ…あかねさん。」
 桂は、見知ったあかねの顔を見つけると、ふううっと殺気をおさめた。
「あかねさんが居るっていうことは…ここは…。真神の里ですよね?」
「ええ…。そうよ。」
「良かった…。抜け出せたんだわ。」
 桂は、少しばかり安堵の表情を浮かべた。

「一体、何があったんです?こんな風に、ここまで乗り込んでくるなんて…。」
 今度はあかねが桂へと問いかけた。

「それで?何故、ここまで来られた?その様子じゃと…何か異変でも起こったかのう?」
 おじじ様が改めて、桂を問い質した。

「ええ、お察しの通り、小治田宮が大変なんです…。」
 そう、吐きだした。

「小治田宮が?」

「ええ…。義法様が、我らを裏切ったんです。」
 桂の表情が、一層険しくなった。

「義法って…。あの、平城京(みやこ)から来て、麻呂爺さんを追い出した、陰陽寮のお偉いさんよね?…で、裏切ったって…どういうこと?」
 あかねの問いかけに、緊張の糸が切れたのか、桂は何があったのかを、一気に話し始めた。

「首皇子様を呪っていた張本人が、義法様だったんですよ。」
 そう吐きだした。
「麻呂様を追い出した途端、牙をむいたんですよ…。義法様は。」
「じゃあ、首皇子様は?無事なの?」
「麻呂様の張られた結界は有効に働いていますから、大事には至っていません…。義法様も結界の中へまで入ることは、まだできていません。…でも、結界が崩壊するのも時間の問題でしょう。
 一刻を争います!あかねさん、乱馬さんと麻呂様は?」
「それが…。」
 あかねは困惑げな表情を浮かべた。
「乱馬ともども、ちょっと、出払ってて…。」
「どこへ行かれたんです?」
「さあ…。あたしには皆目…。」
 と首を振って見せる。
「とにかく、少しでも早く、麻呂様に救難を知らせなければ…。」

 桂がそう言いかけたところで、おじじ様の表情が硬くなった。

「何か、取り込んどるところ、悪いのじゃが…。桂郎女とやら…。そなた、どうやら、厄介な連中を一緒に連れて来てしまったようじゃのう…。」
 と桂へ向かってため息交じりに、声をかけた。

「厄介な連中?」
「敵襲じゃよ。」
 おじじ様の言葉に、一緒に居た、速人や勇人、それに他の里の人たちの表情が、一斉に険しくなった。狼たちに至っては、ピンと聞き耳を立て、そわそわし始める。

「それも…たくさん…な。」

 俄かに、周辺が騒がしくなった。
 男たちは武器を手に、方々へと散り始める。

「確かに、おじじ様がおっしゃるとおり、不快な臭いの連中が、甘樫丘に集まってきていますね…。」
「不快な臭いって?」
「朝廷の連中の臭いですよ。そこの桂とかいう女と同じ臭い…です。」
「朝廷の臭い?」
「基本、大王家と我ら真神の一族は、敵対関係にありますからねえ…。蘇我蝦夷様の一件以来、我々真神の一族は、朝廷側の人間たちとは一線を画しています。」
 速人が言った。
「蘇我蝦夷様の一件って…大化の改新?」
「ええ…。今の大王家は、あの時、蝦夷様を葬り去った連中と結託していますからねえ…。それに、今の大王は飛鳥の宮地を捨てた…。」
 大化の改新は六四五年だから、もう、かれこれ、七十年近く経つというのに、まだ、確執が続いているようだった。

「敵は北側から侵入しようとしているみたいですね。」
「北側…か。」
 速人の言葉におじじ様は考え込んだ。

「この真神に喧嘩を売るつもりかよ!」
 すぐ傍で、勇人が吐き出した。
「どうします?おじじ様?」
「当然、蹴散らすよな。」
 と血気はやる速人と勇人に、おじじ様は言った。

「奴らの狙いはあかね殿…かもしれぬな。」

「え?あたし?」
 あかねは眼を丸くした。
「あかね殿を迎えに来たのではあるまいかな?」
「あたしを迎えに…ですか?」
「正確には、乱馬殿とあかね殿じゃろうがな…。」

「ええ、多分、そうでしょうね。」
 桂が頷いた。
「乱馬さんとあかねさんは体調を崩して伏せっていると、義法に報告してあったんですが…。その嘘を見破られてしまったんです。客人をどこへ隠したかと…詰め寄られて。
 で、すったもんだの末、宮を飛び出して来たんです。
 恐らく、義法たちの企みには、あかねさんたちの力が必要なんでしょうね…。」

「おぬし、それで、満身創痍で甘樫丘までやってきたのかの?」
 おじじ様は桂へと問い質した。
「ええ。あかねさんと乱馬さん…それから麻呂様を探しに来たんです。宮を出るとき、何人かの義法の手の者とやりあいました。傷はそのときに受けたものです。」
「で、飛び出せたと…。」
「ええ。自力で振り切りました。」
 
「おまえさん、ずっと、義法の手の者に、後をつけられておったんじゃろうな…。気付かなかったか?」

「後をつけられる?そんな気配は感じませんでしたけど…。」
 桂は答えた。
「何も感じなかったんですか?」
 桂ほどの、武の才の持ち主が、気配を感じなかったと言うのだ。あかねは不思議そうに問いかけた。
「ええ、何も…。私も手負いになっていましたから、とにかく必死でここまで駆け抜けて来ました。正直、周りの気配を探る余裕は持ち合わせていませんでしたが…。」
 傷だらけの腕や足を見ながら、
「そうね…。その様子だと、宮を抜け出てくるのに、相当、苦労したみたいだしね…。」
 あかねは気の毒そうに頷いた。

「恐らく、桂殿の後を追ってきたのは、阿雅衆(あがしゅう)の連中じゃろうて。」
 おじじさまが言った。
「阿雅衆?何です、それって…。」
 あかねがきびすを返した。

「伊賀国の武装集団の名前です。」
 知っているのか、桂が即答した。
「伊賀国に「阿雅の里」と呼ばれる邑があるという噂を耳にしたことがあります。そこの者は妖術を巧みに操るとか…。もしかして、阿雅衆が義法様に手を貸している…とか。」
 
「恐らく…な。」
 おじじ様は頷いた。
「阿雅衆はどんな武装集団なんです?」
 あかねが問いかけると、おじじ様は答えた。
「飛鳥より少しばかり東に、伊賀国がある。葛城皇子様が近江で倭国を治めていた頃、伊賀国造(いがのくにのみやつこ)は、阿雅衆という武装集団を作ったんじゃ。一族から特に武や智に優れた者をえりすぐってな…。外敵から伊賀国を守るための武装集団…その連中を阿雅衆と呼ぶんじゃよ。」
「何で、阿雅衆は義法側についたんです?」
「伊賀皇子様の母君は、伊賀氏が葛城皇子様に差し出した、采女(うねめ)という美しい娘じゃったからのう…。」
「采女?」
「采女とは、大王や皇族たちの傍に仕えて世話をする、名うての美女たちのことです。地方豪族の長の娘の中から、みめ麗しい娘が采女として宮中へ上がるんですよ。」
 あかねの疑問に答えるように、桂が言った。
「今の大和朝廷は、伊賀皇子を斃して成った。伊賀国からみれば、珂瑠皇子は伊賀皇子を斃した憎い仇敵の子孫となる。じゃから、阿雅衆が大王家に仇なそうとしている義法に手を貸しても、何ら不思議な事ではないんじゃよ。いや、案外、義法の奴めが、今の朝廷を倒し、伊賀系の皇族を率いた朝廷を再生する…と阿雅衆の連中を言い含めたんじゃろうな…。」
 とおじじ様は頷いた。
「義法様なら、簡単に言い含めるでしょうね…。口が達者で権力者に取りいるのが得意なお方ですからね。帰朝するや否や、尊皇様に取り入り、陰陽寮の実権を握るだけでは、物足りなかったのですね…。伊賀側に取りいって、今度は朝廷を倒そうと画策するなんて…。」
 桂が皮肉っぽく言った。
「阿雅衆の連中を相手するのは、一筋縄ではいかんぞ。相当訓練された連中じゃからな。それ相応の覚悟が必要じゃ。」
 おじじ様は、真神の猛者たちを引き締めるかの如く、言った。
「そんなに強い集団なんですか?その…阿雅衆って。」
 あかねが問いかけると、おじじ様は答えた。
「阿雅衆には、高い身体能力を持っていて、剣や槍といった武器に優れているだけではなく、怪しげな術を操る奴も多いと聞く。」
「怪しげな術って?」
「己の気配を消したり、火遁術や水遁術、風遁の術も難なくこなす奴もいる…。敵に回すと、ちょいと、厄介な連中じゃよ。」
「火遁の術とか水遁の術とか…まるで、忍者みたいね。あ、そっか…伊賀って忍者の里だっけ…。」
 あかねは吐きだした。
 伊賀は甲賀と並ぶ、忍者を多く輩出した土地である。今でも、伊賀上野市辺りには、その史跡が残っていて、忍者の町として、町おこしをしている。もっとも、一般に知られる、忍者が世に跋扈(ばっこ)したのは、戦国時代以降の話である。

 緊張の糸が、真神の里に張り巡らされ始めた。非戦闘員の女子供は、不安そうに、あかねたちを見つめてくる。

「阿雅衆の狙いは…恐らく、あかね殿と乱馬殿。二人を連れに来たとみて、良かろう。」
 おじじ様は言った。

「じゃあ、どうする?おじじ様。連中。このままじゃ、ここまで攻め入ってくる気だぜ。」
 勇人が吐き出した。

「奴らから見れば、甘樫丘をねぐらにしているワシらは、目の上のタンコブじゃろうからな。この甘樫丘は、国見の丘として、藤原京や飛鳥京の祭祀上、重要視されてきた丘でもあるからのう…。」
「で?どうするつもりだ?おじじ様?」
 勇人は長としての速やかな判断を、おじじ様に迫った。逃げるにしても、反撃するにしても、態勢を整えなければならないからだろう。
「売られたケンカは買わねばならんでしょうねえ…。」
 速人が脇から口を挟んだ。
 周りの者たちも、ここは戦うべきだと、口々にはやしたてる。

「ふむ、皆が言うように、ここは戦うべきなのじゃろうな…。じゃが、その前にやらねばならぬこともあるぞ。」
「何をやらねーといけないんだ?」
 勇人の問いかけに、おじじ様は一同を見まわしながら言った。
「あかね殿を守るのが先決じゃ。乱馬殿との約束は、きっちりと果たさねばならぬ。」
 おじじ様の言葉に、勇人が頷いた。
「そうだな…。あかね殿を守るのが最優先だな…。うん、じゃあ、二手に分かれるか?」
「そうですね…。勇人は反撃に、私はあかねさんをこの丘から下ろしましょう。それでどうです?おじじ様。」
 速人が言った。

「あの…丘から下りるって言っても…どこへ向かうんです?」
 あかねの問いかけに、おじじ様が言った。

「そうじゃな…。豊浦宮へ下りるのが一番じゃろうな…。あそこなら、宮の霊力もまだ強かろう…。」

「宮の霊力?」
 あかねがきびすを返すと、おじじ様は言った。
「宮があった土地は聖なる力を持っておるのじゃよ。それに、豊浦宮は炊屋姫様がおられた宮じゃ。炊屋姫様は蘇我氏との結びつきがとてもお強い方じゃった故、蘇我の産土神(うぶすな)も手を貸してくれるじゃろうからな…。」

「そうですね…。豊浦宮へ行くのが一番でしょうね。幸い、こんな時のために作った抜け道もありますし…。」
 と、速人が言った。
「そうと決まれば、あかね殿、すぐに豊浦宮へ下りられよ。」
 おじじ様が声を発した。

「え、ええ…。おじじ様がそうおっしゃるなら、言うとおりにしますけど…。」
 と、何か詰まるような物の言い方で、返答を返した。
「乱馬殿が戻って来られたら、すぐにでも、豊浦宮へ案内するから、心配しなさるな。」
 見透かしたように、おじじ様が言った。

「わかりました。ここにいても、足手まといになりそうだから、あたし、その…豊浦宮へ下ります。」
 ここで駄々をこねても仕方がないので、あかねは、おじじ様の言うとおりにすることに決した。
「桂さんも一緒に下りても良いですか?」
 と、手負いの桂を見ながら、問いかけた。

「そうじゃな…。桂殿はあかね殿と一緒の方が良いだろうな…。」
 勇人も頷いた。
「そうですね…。よろしいですか?桂殿とやら?」
 速人が桂へと声を投げかけた。

「ええ…。もともとそのつもりでしたから…。」
 桂は承知した。


 豊浦宮。まだ、どこにあったのか、つまびらかになっていない宮ではあるが、出土物から、甘樫丘の西麓の飛鳥川沿いにあったのではないかと言われている。推古女帝が即位した宮でもある。この宮の名前を取って、豊浦大臣と蘇我の蝦夷は称されることがあるほど、蘇我氏との関わりが深い宮とも言われているのだ。

 何が起こっているのか、誰が攻め込んで来ているのか。本当に、義法一味の仕業なのか。
 訳の分らぬうちに、あかねは、桂と共に、甘樫丘を抜け出した。

 速人の部隊が十人ほど並走して、一緒に、豊浦宮まで案内してくれる。
 岩陰の細道を、細心の注意を払いながら下方へと向かう。一種の抜け道のような、木々や岩に囲まれた、うっそうとした道だった。

「なんか、隠れ道みたいね。」
 静かに、足を進ませながら、あかねが吐き出した。岩がゴロゴロしていて、隠れながら進むのにはうってつけの道だった。
「このような、隠れ道があったんですか…。」
 桂もきょろきょろと見回しながら、感心しているようだ。手負いとはいえ、さすがに凄腕の持ち主。桂は遅れることなく、一緒に山道を進む。

「しっ!人が来ます。」
 速人は身を伏せるように、あかねに合図を送った。
 あかねはひょいっと頭を下げた。岩陰に身を隠すと、じっと息を殺した。

 ザザザザザッと音がして、いく人かの武人が、甘樫丘へと駆け上がっていくのが見えた。甲冑を身にまとい、手に、何かを持っている。遠巻きに見ると、何か燃える物を手にしている。そう、松明だった。数十人の人数が、散らばるように丘のすそ野を駆け抜けて行く。
 やがて、人影は失せ、辺りは再び、静けさに包まれた森にかえった。

「何?今の人たち…。松明なんか手にしてたけど…。」
 いぶかるように、あかねが吐き出すと、じっと速人は考え込んでいた。
「もうすぐ、暗くなります。穂明かりとして持っていたのでは?」
 桂は言った。
「松明…。まさか、あいつら…。」
 何か、結論じみたことが浮かんだのか、速人はパンとひとつ。柏手を打った。
 と、ガサガサと音がして、狼が顔を出した。速人は持っていた木の葉に、傍にあった小石で象形文字のような図絵を記すと、狼の体へと持っていた布切れで結びつけた。どうやら、伝令にでもするのだろう。
「行けっ!おじじ様のところだぞ!」
 そう言うと、軽く、狼の尻を叩いた。と、狼は一目散に、おじじ様が指揮を取る、集落の方へと駆け出して行った。

「恐らく、奴ら…。火を使って、我ら一族を丘から追いやるつもりでしょう。」
 淡々と、速人は言った。
「こんな乾燥した山に火なんて放ったら…。」
「獣は火や煙を嫌います。松明を持っていれば、狼たちも下手に近づけません。もっとも…奴らに、聖なる国見の丘を焼く、根性があればの話ですけどね…。」
 と憎々しげに、敵が走り去った方向へと目を転じた。
「それより、急ぎましょう。もうすぐ日が暮れます。日が暮れてしまうと、闇に包まれて、山を下りるのが難しくなります。」
「そうね…。私たちは私たちの目的地があるものね。」
 あかねは、再び、足を動かし始めた。
 

 やがて、丘を下りきると、少し広い場所へとたどり着いた。
 甘樫丘の蘇我氏の邸宅跡よりは、少しこましな空き地が広がる場所だ。良く見ると、やはり、礎石が残されていて、何かしらの建物があったことを窺わせる。
 速人は、少し奥まった場所へとあかねたちを導いた。荒れ果てた土地の少し先に、建物が一棟、ポツンと建っていた。しかも、瓦屋根の建物だった。
「ここは?」
「豊浦寺があった場所です。」
「豊浦寺?」
「ええ。炊屋姫様が京遷りなさった後、建てられた寺です。宮地のあった場所には、こうやって残され寺が建てられていることが多いんですよ。」
「何のために?」
「さあ…。朝廷の連中の考えるとことは、我らにはあまり理解できませんが、宮地のあった場所を守るためとも言われていますねえ。」
「宮地のあった場所に寺を建てて、土地を守るんですか?」
 良く意味が呑み込めず、あかねは、次々ときびすを返していく。と、横から桂が説明してくれた。
「宮地のあった場所というのは、土地の力がとても強い場所でもあるんです。勢いのない場所に宮を建てると、国の存続にもかかわりますから。古より、巫たちが宮地と定められると、ありとあらゆるまじないごとをして、土地を祭祀するんです。
 つまり、宮地が遷っても、そのまま放置するわけにもいかず、寺や社を作って、土地を鎮めておくんですよ。
 留守の司として麻呂様が新京に遷られなかったのも、一番の理由は、飛鳥や藤原京の土地を鎮めておくためなんです。」
「へええ…。そうなの…。」
「豊浦宮は、遷宮後は、蘇我氏が土地鎮めをしていたんですよ。ですが、蝦夷様が斃れられた後は、このとおり、荒れ地となって久しいですけれどね。」
 速人が言った。
「とにかく、野営するわけにもいきませんからね。古くなったとはいえ、ここなら雨露も凌げますよ。」
「そうね…。春の夜は冷えるものね…。屋根があるだけでもありがたいわね。」
 桂も頷いた。

 そう言っている矢先、空から雨粒が落ち始めた。

「この季節に通り雨?はて…さっきまで晴れていたのに…。」
 速人が不思議そうに空を見上げた。
 言っている矢先、雨脚が激しくなる。このままだとずぶ濡れだ。
 あかねたちは慌てて、寺の軒先へと駆け込む。さすがに、誰も住していないようで、ミシミシときしむ音がする。が、作りは案外、しっかりしているようで、特に床が抜けるとか、壁が落ちるとかいう事態には陥らなかった。
 修繕もされなくなって久しいのだろう。雨水が天井から伝って落ちてくる。それでも、ずぶ濡れにならないだけでも、ありがたかった。
 中に入ると、伽藍があったが、その上に仏像の姿はなかった。

「誰も居ないの?」
 あかねが不安げに問いかけると、速人がコクンと頷いた。
「仏像も取り払われているでしょう?」
「ええ…。伽藍だけが残ってるわね。」

「そう言えば、この寺の脇にあった集落。あそこは、神隠しにあったのですよね?」
 桂は、速人へと問いかけた。
「ええ、この寺の近くにも、遷都後も人が住む集落はあったんですが、神隠しにあって忽然と人影が消えたんですよ。」
 と速人が言った。
「神隠し…。」
 あかねは、先日、麻呂爺さんが言っていたことを思い出していた。小治田宮の近くで、一晩のうちに集落から人影が忽然と消えてしまったと。稚媛の行状だと知らされていないあかねは、空寒さを感じていた。
「いつ、神隠しにあったんです?」
「半年ほど前の話ですかねえ…。おじじ様と一緒に、その集落へ行ってみたんですが…。嫌な臭気がプンプンと漂っていましたよ。」
「嫌な臭い?」
「ええ…。こういうことを、あかね殿や桂殿も前で言って良いかわからないのですが…。」
 そう前置きして、速人は言った。
「あの臭いと同じ類の臭いが、この前、初めてあかね殿とお会いした時に一緒に居た少女からも、プンプンと漂っていましたねえ…。」
「少女って…稚媛様と安宿媛様のことよね?」
 あかねは問いかけた。
「ええ…。特に、あの稚媛という娘からは、強い死臭が漂っていましたよ。」
「稚媛様は、魂送りをする御方ですからね…。死臭が漂うのも仕方がないですわ。」
 速人の言を受けて、桂が不快そうに言った。
「いいえ、あの媛様は一人、二人ではない、死人(しびと)の臭いを身体中にまとっていましたねえ。まるで死へ誘う黄泉の神のように…。」
「黄泉の神…。」

 そう吐きだしたと同時に、狼の遠吠えが響き渡ってくる。雨の音に消えそうになるような遠吠えにもかかわらず、速人たち真神の猛者は耳を手向けた。 
「さっきの連中、やはり、やってくれたようですね…。」
 遠吠えを聞きながら、速人が険しい顔つきになった。

「狼の声で、何かわかるんですか?」
 あかねが問い返すと、速人が教えてくれた。

「ええ…。あれは、畏怖の遠吠え。狼は野生動物ですからねえ…。いくら、人に慣れていても、火や煙は得意ではありません。ましてや、木々が燃えてくすぶると、恐怖心を抱いても、仕方がありますまい…。かなり、いつもの理性を忘れて、山中を駆け巡っている狼も居るようです。
 多分、あの連中の狙いはそこにあったと思います。狼を敵に回さず、有利に戦う方法。いえ、我ら一族をあの丘から遠ざけたかっただけなのでしょうけれど…。」
「まんまとやられたってことです?」
 桂の、少しばかり剣を含む問いかけにも、速人は表情一つ変えず、淡々と受け答える。
「油断しました。まあ、こっちはこっちで、あなたを豊浦宮までお連れしたから、奴らを出し抜いたことには違いありませんけれどね…。」

 雨は思ったよりも、強く降り続いていた。

「この雨脚だったら、火はすぐにでも消えるでしょう…。もしかすると、甘樫丘の産土神(うぶすな)が、真神一族の危機に手を貸してくださったのかもしれませんがね…。」
 速人は言った。
「他の女の人たちは、どうしてるかしら…。」
「真神の女も子供らも、勇猛に戦えますよ。何、心配は要りません。」
 と速人が言った。
「でも…。」
「我ら真神の一族は狼の力も、地の中に受け継いでいます。鼻もきけば、耳もきく。夜目も普通の人間よりはききます。甘樫丘を一晩中駆け巡っても、大丈夫ですよ。それより、空腹は身体にさわります。」
 そう言いながら、速人は持って来た巾着袋の中から、木の皮に包まれた物をあかねに差し出した。
「これって…。」
「糒(ほしいい)です。」
 目の前に差し出されたのは、平たいおせんべいのような食べ物だった。
「ほしいい?」
「米を干した食べ物です。けっこう、お腹が膨れますよ。」

 恐る恐る、口へ含む。パリッと口の中で乾いた音と共に、米の香ばしさが口に広がった。軽く塩味がつけられている。
「おいしいけど…固い。」
 あかねが感想を口にすると、速人が水の入った入れ物を手にしながら言った。
「固ければ、こうやって、水に浸してふやかしてから食べれば良いんですよ。」
「ああ、なるほど。」
 あかねも納得した。水に浸すと、幾分か柔らかくなって食べやすい。ふやかしたオカキのような感覚だった。いや、固いお茶漬けのような気もする。
「こういうのあったわよね…。おこげスープとか言うんだっけ。」
 いかんせん、温かくないのが少しばかり残念だったが、この際、贅沢は言っていられない。それに、「米の加工物」ということははっきりしているので、下手に何かわからない肉や草を食するよりは、口に持って行き易かった。

 他の猛者たちも、あかねが口へ含んだことを確認すると、我も我もと懐から干飯を取りだし、食べ始めた。
 ゆらゆらと、目の前で、速人たちがたきこめた穂明かりが頼りなげに揺れる。
 お腹いっぱいとまではいかないものの、食べ物も口に含んだ。つい、ホッとした空気に和んで、あかねは、うとうとと舟を漕ぎ始めていた。この世界へ来て、緊張の連続ゆえに、あまり眠れていないという事情があった。
 昨夜も乱馬のぬくもりを感じながら、隣に眠ったが、熟睡したとは思えなかった。朝方早くに目が開き、以降は寝付けず、結局、乱馬より先に寝床を抜け出して、真神の女たちに混じって、朝餉を支度していたのだ。
 その疲れが出てしまったようで、つい、うとうとと眠りこんでしまった。

 雨はいつしか止んで、寒さが下りて来た。まだ春先だ。夕闇に包まれると、途端に、冷え始める。桂も一緒に、うたた寝を始めた。桂が共に居るという安心感が、あかねを眠りの淵へと誘ったのかもしれない。
 真神の猛者たちも、その場へ寝転がって、休眠を取る。もちろん、見張りも置いていた。

 と、速人の瞳が険しくなった。
 ぱっと傍らに置いた、刀剣を手に持つと、板の間を蹴って身構えた。速人の豹変を見て、同じく、他の真神の猛者たちも、咄嗟に起き上って、次々に身構える。

「速人さん?」
 あかねが、驚いて声をかけると、返答の代わりに、速人は外へ向かって、叫んでいた。
「誰です?そこに居るのは…。」

 シーンと辺りは静まり返っている。あかねには、人の気配は読めなかった。

「え?誰か居るんですか?」
 そう問いかけたあかねに、速人はコクンと大きく頷いた。

「そこに居るのはわかっています。それとも、こちらからご挨拶さしあげましょうか?」
 速人は、刀剣を身構えて、いつでも飛びだせる態勢を整える。間合いを測っているようだ。他の猛者たちも、一斉にそれに追随する。
 じっと、外の気配を窺いながら、速人は大きく息を吸い込んだ。

「さすがに真神の武士(もののふ)たちねえ…。気配を消していたのに、気付かれちゃったわ。」

 聞き覚えのある声が暗闇の向こう側から響いてくる。
「おまえは…。」

「文忌寸円よ、よろしくね、みなさん。」
 不敵な笑みと共に、円が姿を現した。



つづく




一之瀬的戯言

阿雅衆
 一之瀬の創作的解釈で武装集団として書いています。古代の忍者とでもイメージしてくださいませ。彼らの本拠地は、伊賀国を考えています。
 伊賀国は今の三重県の伊賀上野市辺りにあった国です。山を挟んだ滋賀県の甲賀とこの三重県の伊賀は、忍者を輩出した地でもあります。松尾芭蕉が伊賀の出身で、彼も忍者で隠密のために歩き回って「奥の細道」を書いたんじゃないかという説まで飛び交っています。伊賀は忍者で町おこししていますし、忍者列車という怪しげな車両の列車も走っています。
 伊賀上野市の隣には名張市という市が今でもあります。
 古語には「なばり」という「かくれること」を意味する言葉があり、「隠(なば)り」と表記します。
 実は、事代比古が龍神と化して籠った場所を「隠(なばり)」と呼ばせているのも、そこから引っ張って来ました。
 万葉集にはこの字を使って「名張」という地名にかけた歌も存在しますが、地名とこの「隠」という字がどう結びつくかは調べきれていません。(すいません)
 いや、別に、「隠の王」という作品から取った訳じゃなく…。(ちらりと浮かんだことは浮かびましたけど…。)

 また、伊賀国は「猿田彦」の治める国でもあったそうです。
 猿田彦の奥さんは天之宇受売(アメノウズメ)で、須佐之男が暴れたとき、天照が天の岩戸に隠れた際、それを引き出そうと、岩戸の前で踊った踊り女でもあります。「火の鳥」の黎明編で手塚治虫さんはこの二人を重要な位置につけてストーリーを組んでいらっしゃいます。「火の鳥」の登場人物の名付けを眺めるに、手塚さんは相当、古代史に詳しかったと思われます。「黎明編」や「古代編」にはかなりマニアックな記紀神話の神様の名前が、登場人物になって、諸所に見え隠れしていますので…。
 伊勢神宮の近所に猿田彦神社が存在するのも、何となく、古代の勢力争いのきな臭さが漂ってくると思うのは私だけでしょうか…。
 


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