◆飛鳥幻想
 第十一話 国見の丘


三十、真神の朝

 翌朝、目覚めてみると、隣の床は蛻(もぬけ)のからだった。
「あ…あかねっ?」
 ハッとして飛び起きる。そして、朝日が溢れて来る入口の布を、バサッと開いて、外へ出た。
 ぐっすり眠りこんでいたようで、あかねが抜け出たことに気がつかなかったのだ。
 恐らく、体力回復半ばで小治田宮から真神まで無心で駆けて来た無茶のせいで、あかねが抜け出たことを感じる間もなく、深い眠りに就いていたのだろう。

 
(俺…無意識にあかねを襲ったとか…。そういうんじゃねーよな?)
 ドキドキと心臓が走りはじめる。
(それとも、この期に及んで、勇人の奴、あかねをかっさらって行ったとか?)
 珍しく、マイナス思考ばかりが脳天に浮かび上がる。

 と、乱馬の起き上がった気配を察したのか、おじじ様がひょっこりと乱馬の寝床へと顔を出した。

「ぐっすり眠っておったようじゃのう…。」
 辺りを伺うように、おじじ様は寝屋を覗きこんだ。

「あかねを知らねーか、爺さん。」
「あかね殿なら、下を手伝っておるわい。なかなか、軽やかに働いてくれとるぞ。」
「そっか…。」
「お主ほどの達人が、あかね殿が寝どこを抜け出したことすらわからず、眠りこけておったとは…相当、無理してこの里まで駆け抜けて来よったのじゃな…。」
 乱馬はそれには答えなかった。稚媛に気を抜かれかけたせいで、体力的にきつかったことは確かだった。だが、あかねの危機とあっては、動かずにはいられなかった。気力だけで、真神の里まで追いかけてきたことは確かだったからだ。

「それより、あかねは、ちゃんと、この里の中に居るんだな?」
「ああ、居るぞ…。あかね殿はおぬしの許婚じゃ。誰も手出しなどせぬわい。それより…。朝餉までまだ暇がかかるようじゃし、ちょっと、ワシに付いて来い!」

「付いて来いって…どこへだ?」
「付いて来たらわかるわい。」
 そう告げると、おじじ様はひょいっと身をひるがえして外へ出た。
「おい、待てってっ!」
 慌てて、おじじ様の後を追う。すると、おじじ様は杖を片手に、集落を離れて、山の方へと斜面を登り始めた。

 甘樫丘は小さな丘だ。山というにはあまりにも低い。が、連綿と緑の草木が生えていて、緩やかとはいえども、散歩というよりは、山登りに近かった。勿論、整備された遊歩道などではない。人が通れるくらいの、細い獣道の斜面を登っていくのだ。
 おじじ様は、鬱蒼と草木が茂った道を、ひょいひょいっとっ身軽に、登り始めた。

「たく…麻呂のじじいといい、おじじ様といい、古代の老人は、何て身軽なんだ?」
 追従しながら、独り言が零れる。彼の時代にも八宝斎や可崘婆さんのような、化け物的体力を誇る老人が居るには居たが、彼らを凌駕するくらいの健脚ぶりだった。
「ほっほっほ。若いくせに、もうへばったかのう?」
「うるせー。いろいろあって、今の俺は、体力をかなり消耗してんだ!」
「しだらないのう…。」
 おじじ様は笑いながら、先を行く。


 そんなに時間はかからなかったと思う。ものの、十分ほどで、目的地へ着いた。
 丘の上は少しばかり平らになっていて、木が茂っていない場所へと辿り着く。切り株があるところを見ると、ちゃんと地ならしをしているようにも思えた。いぶかしげに、その平らな場所へ立つと、急に景観が開けた。

「こいつは…。」
 思わず、目を見張ったほどだ。
 平らな場所から垣間見えるのは、北へ広がる大和平野。畝傍山や耳成山、そして天の香具山は勿論、生駒山までが見渡せる展望台だった。

「ここは、国見の丘じゃ。」
「国見の丘?」
「古来より折に触れて、尊皇様(すめらみことさま)がこの場所から国中を望まれて、五穀豊穣や民の安全を祈られる聖地の一つじゃよ。先帝も、そのまた先帝も、皆、ここへ立って、国の安泰を祈られた。」
「この丘には、おまえたち真神が居座ってるのに、天皇たちを登らせたのか?」
「ワシらは別に尊皇様に仇成す気などないわい…。甘樫の丘は元々、大王家の聖地のひとつでもあるからのう…。それに、尊皇たちは蘇我の屋敷跡ではなく、別の道を登って来られるのを常としていたから、息を潜めて気配を断っておれば、ワシらの存在に気づかれることもない。何の衝突も生じぬ。」
 おじじ様は乱馬に話した。
「でもよー、何で歴代の天皇はこんなところまで足を運んだんだ?」
「ほっほっほ、昨夜も説明してやったとおり、大王家は元々、言祝ぎをする祭祀の王じゃったからのう…。土地に言祝ぎをし、国の安泰を祈られるのも大事な役目じゃったのじゃ…。ここは飛鳥古京も藤原京も見渡せよう?」
「ま…。祭祀のことは俺にはよくわからねーが…。この景観を見渡すと、土地に祝福を与えたくなる気持ちはわかるよーな気がするぜ…。」

 春の風がさあっと頬を撫でて行く。
 さわさわと揺れる木立ちの向こう側に、緑なす大地が連綿と広がっている。春霞がかかっていて、幽玄の世界を思わせた。

「あの辺りが、藤原京のあったところじゃ。」
 畝傍山の手前を指さしながら、おじじ様は言った。
「ほへー…。ほんと、建物がまばらにしか残ってねーや…。後は田畑…つーか空地っつーか…荒地だな…。現代(おれたちの時代)とそんなに差はねーや。」
 手をかざしながら、乱馬が答えた。
「建物は殆んど、新京へと移築されたからのう…。それでも、いくつかの建物は残っておろう?」
「ああ…そうだな…。でも、何で、藤原京を捨てたんだ?」
「先帝の珂瑠皇子様(文武天皇)の強い望みによって、遷都されたんじゃ。」
「珂瑠皇子ってのは、確か…首皇子の父ちゃんだったよな。」
「ああ、若くして亡くなられた。それも、たぶん、呪詛によって。」
「呪詛だあ?」
「呪いじゃよ…。珂瑠皇子の寿命はもっと長くあったはずじゃ。じゃが、短命じゃった。お父君の日並知皇子、諱を草壁皇子(天武天皇と持統天皇の一粒種)様のようにのように。」
「おい…。穏やかじゃねーな…。珂瑠皇子もその草壁皇子も呪いでおっ死んだってことかよ…。…で?誰が呪ったんだ?」
「恐らくは、近江方。近江方にも呪術に優れた者は多かったからのう…。」
「へええ…。」
「例えば、石上麻呂もその一人…。奴も近江方じゃった。」
 その言葉に、乱馬の表情が変わった。
「お…おい!ちょっと待て!」
 乱馬が言葉を挟んだ。
「それって矛盾してねーか?近江方ってーのは天智天皇系で、確か天武天皇に滅ぼされたんだよな…。ってことから考えると、麻呂爺さんが近江方ってーのは、おかしいんじゃねーのか?」
 首をかしげる乱馬に、おじじ様は平然と言った。
「元々、石上麻呂は葛城皇子(天智天皇)、つまり近江方の側近の一人じゃったんじゃよ。」
「な…何ィ?」
 当然の如く、乱馬には初耳だった。石川麻呂、もとい、物部麻呂が天智の側近であったことなど、知る由も無かった。

 近江方とは、天武側に滅ぼされた天智側のことを指す。白村江(はくすきのえ)の戦に際し天智帝は近江に都を遷したところからそう呼んでいるようだ。
 麻呂爺さんが滅ぼされた側に居たと聞いて、乱馬が驚くのは当然だろう。滅ぼされた側の人間が、滅ぼした側の重鎮に就くと言うこと自体、理解できなかった。

「ってことは…首皇子から見れば、麻呂爺さんは、バリバリの敵方になるんじゃねーのか?」
「…そういうことになろうな…。じゃが、奴は壬申の争乱の折、近江方を辞しておるんじゃ。」
「つまり…寝返ったってことか?」
「ああ…。これに関してもいろいろ言われておるが、葛城皇子の御子、大将の伊賀皇子(=大友皇子)の首を掻っ切って大海人皇子側へ持参して、大海人皇子(天武天皇)の信頼を得たと言われておる…。」
「自分の大将の首をちょん切って敵方へ持って行っただあ?」
 穏やかな話ではない。それが事実なら、衝撃的な話であった。
「麻呂に問い質しても、あの当時のことは語りたがらぬ。もし、伊賀皇子の首を持参して降伏したことが本当だとしても、何かやむを得ぬ事情があったからじゃとワシは思うが…。」
「…だろうな…。じゃねーと、右の大臣(おとど)だっけ?敵方の人間が、新政権の重鎮に居座ることなんて、普通はできねーよな…。」
「これはワシの憶測じゃが…。やっぱり、今回の一件に絡んでのことじゃと、ワシは思うておる…。」
「今回の一件ねえ…。俺には話が全然見えて来ねーや。」
「麻呂はワシよりもずっと、佐留に近しい男じゃったからのう…。」
「人麻呂じゃなくって佐留か…。なあ、そもそも、その佐留ってのは、何者なんだ?昨晩はあかねが居たから、あんまり詳しく聞けなかったからよー。もうちょっとちゃんと教えてくれねーか?」
 乱馬が問いかけると、爺さんは微動だにせず、答えた。
「ほっほっほ…やはり、あかね殿に幾許かの隠し事があると見えるのう…。」
「ああ…。あいつをこれ以上、危険な目に遭わせたくねーからな…。麻呂爺さんとのやりとりの一部を、あいつには隠してるんだ。」
 と乱馬は正直に答えた。
「惚れた者の弱み…か。」
「惚れた者の気遣いって言ってくれ!」
 乱馬は苦笑しながら言った。

「ま、佐留のことを少し教えておいてやろうかのう…。柿本佐留は…昨夜も言ったが、稀代(きだい)の言霊(ことだま)使いじゃ。」
「稀代の言霊使いねえ…。イマイチ、イメージできねーんだよなあ…。その、言霊使いってーのが…。魔法使いみてーなものなのかな…。」
「言霊を使い、様々な咒法をやってのける術師…とでもいうかのう…。病を治すこともできるし、人を呪うこともできる。」
「そもそも、その柿本氏ってのはどんな一族なんでい?古代からの言霊使いの家柄なのか?」
「柿本氏の出自は謎の一族じゃよ。大海人皇子様の母君、皇祖母尊様、つまりは宝皇女様の時代にフッと湧いて出てきた氏族じゃそうじゃ。柿本とは、柿の木がその館にあったところからつけられた氏名(うじな)とも言われておる。」
「何か、あんちょこすぎねーか?その命名は…。」
「ほっほっほ…。新興勢力の氏名(うじな)など、そんなもんじゃ。我ら真神も「狼」からきているのじゃしのう…。」
「狼、オオカミ、オカミ…真神…って変化かよ…。たく、語呂合わせか!」
 乱馬がそう吐きだしたにもかかわらず、おじじ様の顔が神妙になった。
「謎多き氏族でもあるんじゃよ…柿本氏は。柿本人麻呂も佐留も…。特に、柿本家の家督を継いだ人麻呂の方は、その言霊使いとしての優れたところを買われて、大海人皇子様に可愛がられた。以来、大海人皇子様(天武)、鵜野讃良皇女様(持統)、珂瑠皇子様(文武)の三代の尊皇に、仕えたんじゃ。」
「夫、嫁、そしてその子ってか…。」
「いや、子じゃなくて孫じゃがのう。」
 おじじさまは正した。大海人皇子と鵜野讃良皇女の一粒種、草壁皇子は帝位に就くことなく、早世している。故に、珂瑠皇子に帝位を継がせるべく、大海人皇子亡きあと、鵜野讃良皇女が奮闘したと記紀は伝えている。

「言霊使いねえ…。具体的に何やったんだ?俺たちの時代じゃ、殆どの奴が、佐留なんて、野郎は、名前も知らないぜ。人麻呂の方が有名だしな。まあ、人麻呂も代表的な奈良時代の萬葉歌人ってことくらいしか、俺は知らねーけど。」
 と乱馬は言った。
「萬葉そのものが言霊を集めたものじゃがのう…。」
「あん?」
「人々の営みの節目に謡われる歌を集めたものが萬葉じゃ。人の出会いや別れ、恋や農耕や狩などの日々の営み、神事、はたまた、野辺の送り…。抑揚をつけて謡い、舞ってきたのじゃよ。言葉には霊力が宿っておる。忌詞(いみことば)とか掛詞(かけことば)とかいう言葉が残っておらんかの?」
「忌詞は例えば勝負を前にして負けを印象付ける言葉は使わねーとか…勝ちに行く言葉を使うとか…そういうのだろ?それから、掛詞ってーのは、同じ音で違う意味の言葉を表す奴だろ?そんくらいは知ってるぜ。」
「ふむ、忌詞や掛詞は、おぬしらの時代にも残っておるみたいじゃのう…。」
「その、佐留ってのは、早い話、言葉を巧みに使った術師って奴なのか?」
「簡単に言えばそうなるのう…。霊力を言葉に込め、それを操る力に長けた術師。ま、そんなところかのう…。」

 春風がさわさわと、吹き抜けて、ザザザと木々の枝を揺らした。

「いずれにしても…藤原京から平城京への遷都は、先帝の珂瑠皇子様の意思が強く関わっておると言われておるんじゃよ。短命じゃったが、聡明だった珂瑠皇子様は、稚媛様の力のこと、それから阿射加国のことなど、悟っておられたのじゃろうな…。今となっては闇の中じゃが…。」
「おい…やっぱり、稚媛の父ちゃんって…。」
「珂瑠皇子様じゃよ。母親は…伊賀皇子の血に繋がる女王じゃ。誰かが引きあわせたのか…それとも、偶然出会ってしまったのか…。もっとも、これは、公にはなってはおらぬがな…。珂瑠皇子様の命により、早い時期から石上麻呂が稚媛様の養育に関わっておったのは確かなようじゃがのう…。」
「やっぱり、稚媛様って、珂瑠皇子様の娘で、でもって、あのじじいが育てたのか?」
「ああ、そうじゃ。奴が養育したも同然じゃ。」
 おじじ様が話した稚媛誕生には複雑な事情が隠されていることだけは確かなようだった。
「先帝の珂瑠皇子様は己の寿命がそう長くはないことを見抜かれておられたようでのう…。その臨終に際し、藤原京から新都への遷都のことと首皇子様の養育に関しては藤原不比等へ、そして、飛鳥古京と稚媛様のことは石上麻呂へと託されたそうじゃ。
 ゆえに石上麻呂は遷都後も新京へは赴かず、藤原京、いや、この飛鳥の地へ、稚媛様と共に残ったんじゃよ。」
「新都は藤原不比等、旧都は石上麻呂…その二本立てってことか…。」
「ほとんどの連中が新京へと移った中、石上麻呂だけは、藤原京へ居を構えておるのも、そういう事情なんじゃ。もっとも、口の悪い連中は、麻呂は左遷されて古宮へ残されたと言っておるがのう…。」
「でも、何で、先帝は飛鳥の地から平城へと都を遷したがったんだ?手狭になったからか?」
「事の仔細は、ワシにもわからぬよ…。ただ、湿地じゃったところに京(みやこ)を築いたんじゃ。藤原京の地の利が悪かったのも、少なからずは影響しとるじゃろうなあ…。」
「湿地に京(みやこ)を作ったのか?」
「ああ…藤原京は、元は、淵原とも言われるような池や沼地が広がる湿原じゃったからのう…。」
「都市計画もへったくれも、無えーな、それって…。そもそも、都ってどうやって決めるんだ?」
「勿論、占いによってじゃ。決まっとろーが。」
「占いで都を決めるだあ?…ふっ!やっぱ、古代人の考えは理解できねーや…。」

 都の造営などという大事業を、占いで決めるなどとは、乱馬には理解の範疇を越えていた。考えれば考えるほど、わからなくなるので、乱馬は一旦、思考を停止させた。

「大海人皇子様の遺志を継いだ鵜野讃良皇女様が造られたのが、あの藤原京じゃ。」
 おじじ様は眼下に広がる広大な荒地を指さしながら言った。
「大海人皇子様ともあろう御方が、何で湿地帯に都を作ろうだなんて、思い立ったんだ?」
「ここからはワシの憶測でしかないが…。藤原京の造営は…恐らく、阿射加国…いや、隠(なばり)の扉と深く関わっておろう…。」
「隠の扉ねえ…。」
 思わず、口が止まった乱馬に、爺さんはゆっくりと吐き出すように言った。
「大海人皇子様(=天武天皇)は男王には珍しく優れた祭祀能力を持った尊皇であってのう…幼き頃から、陰陽五行に明るかったんじゃ。その母、宝皇女様(=皇極・斉明女帝)の巫女的祭祀能力をそのまま引き継がれたような御方でのう…。
 遁甲(とんこう)の術を自在に操られた。壬申の乱の勝利を呼び込む祭祀もなされたし、伊勢の祭祀を復活されるなど、呪術的にも様々な事業をなされた御方なのじゃよ。大海人皇子様は、上手く仏神も取り込まれた。それまでの天神地祇の祭祀を刷新されたんじゃ。大陸伝来の蕃神(あたつかみ)の仏神と、この国古来の産土神、そして天つ神をうまく併合させたのじゃよ。
 それに、大海人皇子様は大陸の国々に負けぬくらいの条里が整った都を作ることを、切望されていたのだそうだ。
 その併合作業に、佐留が一枚絡んでおったとも言われておる。」
「柿本佐留…か。」
 さすがの乱馬も柿本佐留という名に、何か空寒い薄気味悪さを感じ始めていた。

「藤原京の実際の造営はその妻、鵜野讃良皇女様(=持統天皇)の時代になってからじゃがのう…。その折も、ちゃんと卜占され、地鎮祭も行われたぞ。鵜野讃良皇女様は夫の遺志を継ぎ、その孫、珂瑠皇子のために藤原京を造営されたそうじゃ。」
「孫のために作った新京か…。やっぱ、為政者はやることが違うよなあ…。で?己のために造営された新京を、何で珂瑠皇子様はそう時を経ずして、とっとと平城京へ遷したんだ?」
「夜見媛の誕生を受けて、厩戸皇子様が飛鳥から遠く離れて、斑鳩の地へ遷られた時と同じように、珂瑠様は、飛鳥から離れたところで、新たな宮城を作ろうと決意なされたのではないかと、ワシは思うておるがのう…。」
「あん?」
「夜見媛様の力は、瞬時に宮城を一つ、丸ごと崩壊させるほどの力を秘めている……現に、斑鳩の宮は一夜のうちに、火炎に消えた。」
「で?」
「土地にも力があってのう…。古くからの祭祀場や京地は力に満ち溢れておる。が、中には例外もあってのう…。未踏の地でも、それなりの力を持っている土地もある…。例えば、斑鳩の里のような土地じゃ。あの背後の信貴山には龍田という、強い産土神(うぶすな)が幅を利かせている土地でもある。
 厩戸皇子様が斑鳩に宮を作った大きな理由の一つに、斑鳩の地に宿る龍田の産土の力を借りたかったのではないかと、ワシは睨んでおる。」
「斑鳩…の土地の力…。」
「斑鳩は厩戸皇子様が自らの占いで、新たに見出された土地じゃった。厩戸皇子様は帰依なさっていた仏神を持って、そこを極上の地と定められ、斑鳩宮を開かれたのじゃよ…。」
「斑鳩宮は極上の土地ねえ…。」
「厩戸皇子様は、飛鳥という土地を愛し、傷つけたくないという思いが強かったと、豊浦大臣(蝦夷)様がおっしゃっておられたのを聞いたことがあるんじゃよ。前にも言ったが、ワシは豊浦大臣様に仕えておったからのう…。厩戸様は、隠(なばり)の扉が万が一、開きかけたらどうなるかを見越して、飛鳥の地以外に己の宮を建てて、夜見媛様と共に遷る決意をされたのじゃそうな…。
 それに対し、珂瑠皇子様は、稚媛様が夜見媛として覚醒する前に、藤原京から別の土地へ都城を遷せ…と、言い置いて、お隠れになったのじゃよ。」
「そして、作られたのが、平城京って訳か?」
「そうじゃ何か意図があって、平城京へと都を移し、藤原京をもぬけの殻にした…とも考えられる。藤原京は飛鳥の古京に近いからのう…。」
「そういうもんかねえ…。ますます、わかんねーや。折角作った都を捨て去って、続けざまに新しい都を作るなんて…。尋常じゃねーよな…確かに。」


 乱馬は足元の小石を一つ拾って、国見の丘から下へ向けて、投げ捨てた。
 コツンと音がして、石は谷へと転げ落ちて行く。

「何かしら、大きな理由があるのじゃろうな…。なりふり構わず、都を遷した理由が…。」
 そう言いながら、おじじ様は乱馬へとゆっくり振り返った。
「乱馬よ…おぬし…。この国を守る自信はあるか?」
 おじじ様は、ゆっくりと言葉を巡らせてきた。
「あん?」
「今朝早く、麻呂の奴が文を寄こした…。」
 そう言いながら、おじじ様は乱馬を見やった。
「じじいが文を寄こした…だあ?」
 おじじ様の表情が、次第に険しくなるのを、乱馬は見逃さなかった。

「もしかして…何かあったのか?」
 と突っ込んで聞いていた。

「ああ…ちょっと麻呂の奴から、願い出があってなあ。」
「あん?」
「おまえさんを寄こしてくれという催促状が来たんじゃよ。おぬし…麻呂と共に、稚媛と対峙したのであろう?」
 その問いかけに、乱馬の肩が、ビクンと揺れた。おじじ様はどこまで知っているのだろうか。迷ったが、隠す必要もないと思い、コクンと頷いた。
「ああ…。竈門郎女様…だっけかな…。その死に際して豹変した稚媛と闘った。」
「なるほど…のう…。やはり、ツクヨミの力が稚媛様を蝕み始めておるのか。」
 おじじ様は吐き出すように言った。
「水面下で動く魑魅魍魎…もう一つの闇の勢力も、何かを仕掛けてくるじゃろうから、お主の力を借りたいと言ってきたのじゃよ。」
 おじじ様は乱馬をチラリと一瞥しながら、言った。
「俺の力だあ?」
「ああ…。相当、おぬしの腕を買っておるようじゃのう…。麻呂の奴は…。」
「そりゃまあ…俺ほどの腕の持ち主は、そん所そこらにはいねーだろうがな。」
 自信ありげに乱馬は言った。

「どうする?麻呂に手を貸してやるか?」

 その問いかけに、乱馬は間髪入れずに言った。
「乗り掛かった船だ。おじじ様っだって、麻呂爺さんに手を貸してやれって、言いたいんだろ?」
 深々とした白眉の下に、ギラギラ光る瞳を傾けながら、おじじ様は言った。
「貸さねばならぬじゃろうな…。お主にこの国を守る意思があるのなら……。」
「具体的には、どうすればよいんだ?」
「麻呂と合流するだけでよい。」
「麻呂爺さんとねえ…。」
「朝餉が終われば、すぐにでも出かけられよ。道案内は真神の配下の者にさせるゆえ。」
 おじじ様は言った。

「問題は、あかねだ…。連れて行くわけにはいかねー…。どうやって、あいつを説得するかだな。」

 乱馬は黙った。乱馬の手が借りたいと、麻呂爺さんが言ってよこすということは、稚媛とやりあった夜のような、逼迫した事態が起こり得るということだ。
「何、あかね殿のことは心配要らぬよ。責任を持って、お主が戻って来るまで、ワシら真神の里で預かるわい。」
 おじじ様は言った。
「ああ、そうしてくれるとありがたいぜ…。」
 乱馬は大きく頷いた。

 おじじ様はおもむろに、乱馬に向かって、頭を手向けながら、再び問いかけた。

「もう一度聞く、そなた…。この国を守れるか?」

「んなの…。わかんねーよ。」
 乱馬は、吐き出した。
「ほう…守れると断言はせぬのか。できそうにない…か?」
 おじじ様の瞳が、一瞬、細くなった。
「国を守れるかどうかなんて、俺にはわかんねえ。が、」
 乱馬は、眉間一つ動かさずに、言葉を続けた。
「ひとつだけ確かなことがある。」
「何じゃ?」
 その問いかけに、乱馬はゆっくりと吐き出すように答えた。
「あかねは…あかねだけは絶対に守り抜く。」
 ギラギラと彼の瞳が、輝いたようにおじじ様には見えた。
「ほう。そいつが、お主の「決意の言霊」か…。」
「ああ…。正直、国の行く末なんか、俺にはわかんねー…。でも…あかねだけは、俺が守る。守り切ってやる。そのために、国を守れというのなら…。とことん、やりきってやるさ。」

 また風が、二人の頬を撫でながら、さああっと吹き抜けた。
 まるで乱馬の意思を、確認するかのように。




三十一、別行動


 甘樫丘を下りると、朝餉の準備は、すっかり整っていた。

「あ、乱馬の兄貴。丁度、朝餉の支度ができたところだよ。行こう、朝餉が始まっちまう。」
 山から下りてきた乱馬を見つけると、浅人がにっこりと大柄な手を挙げて、声をかけてきた。
「浅人か…。なあ、浅人、あかねを見なかったか?」
 きょろきょろと里中を見渡しながら、乱馬が問いかけた。
「あかねの姉御(あねご)なら、女衆と一緒に、朝早くから、あっちのカマドで朝餉の準備をしてたぜ。」
 浅人はそう返事を返した。
「なっ!あかねが、朝餉の準備だってえ?」
 その言葉に、乱馬の顔から、サアーッと血の気が引いていく。
「そいつは、大変だ!台所はどこだ?」
 と勇人に食ってかかった。
「あっちのあの煙が上がる辺り。あかねの姉御(あねご)なら多分あそこさ。」
 大慌ての乱馬を不思議そうに眺めながら、浅人は白い煙がもくもくと上がる辺りを指さした。当然のことながら、台所や食堂などという気の利いた建物はないだろう。大勢の多所帯で暮らしている場合、野外で煮炊きし、飲み食いする生活が基本だろう。
「あっちだな?」
 乱馬は振り向くと、ザッとそっちへ向かって走り出した。
「兄貴っ!そんなに急がなくても、料理ならたっくさんあるぜ。」
 慌てて、浅人も後を追った。

「あの馬鹿っ!何考えてやがる?朝餉の準備だとお?この集落一つ、食あたりで壊滅させる気か?」
 ザッザッと土を踏みしめながら、高い場所へ設えられた共同調理場へと急ぐ。

「何、そんなに焦ってんだよ。」
 後ろから、浅人が声を張り上げた。彼にとっては、あかねの不器用さなど知る由もない。

「あいつに料理させたら、ロクなことにならねーんだよっ!下手すると、死人(しびと)が出るぜっ!」
 乱馬はそんな言葉を吐きつけた。
「死人?何で?」
 浅人が不思議そうに問い返した。
「あいつの料理は殺人的に不味いんだ!いや、不味いだけならまだしも、本当に殺しちまいかねねー!誰だ?あいつに料理なんかさせたのはっ!」
「あかねの姉御、自ら腕を振るうって、朝早くから張り切ってたぜ?まあ、おじじ様が半分、たきつけたところもあるけどな。」
 浅人が言った。
「じじいがか?」
「俺たちの世界じゃあ、同じ竈で焚いた飯を共に食うってことは同じ共同体の一員となるのと同じ意味を成すなんて、おじじ様がそんな話をあかねの姉御にしたらさあ、じゃあ、あたしも一緒に作りますって言って…。」
 乱馬は思いっきり、顔を手で覆いながら、溜息を吐きだした。
「よりにもよって、何て言葉吐き出して、あかねをたきつけがやったんだ、あのクソじじい。あかねの料理の腕を知らないってーのは、恐ろしいことだぜ…。」
「そんなに、下手なのか?」
「下手…とか、不味いとかいう問題じゃねー。あれは、家畜の餌にもなんねーぞ。俺なんか、何度あいつの不味い飯に殺されそうになったか!」
 恐々とした表情で浅人に向き直った。
「とにかく、早く行って、止めなきゃ!」
 乱馬は一同が食をとるために集っているカマドへと急いだ。

 集落の一番上辺りに、カマドは設えられていた。風通しのよさそうな高台に位置している。煙が勢い良く上にあがっている。昨夜、夜通しのんだくれていた真神の連中が、朝飯を漁りに終結していた。
 手にはそれぞれ、自分の土器を持ち、その隊列の前にあかねが嬉しそうに、煮立った汁物を入れている。

「あかねっ!」
 乱馬の顔を見るや否や、あかねは顔をあげた。
「あら、やっとお目覚め?寝坊助なんだから。」
 と木製のお玉で各々の器へと汁を入れていく。何とも言えない不気味な色をした汁。いや色目だけではなく、匂いも独特だった。
「おめー、その汁物…。」
 恐る恐る指さす乱馬に、あかねは明るく答えた。
「これ?あたしが材料から味付けまで厳選した特製汁よ。たくさんあるから、召し上がれっ!」

「おめーが全部作った汁だってえ?おまえ…何てことっ!」
 乱馬が驚がくの声を上げると、あかねがそれを制しながら言った。

「結構、好評なのよっ!何杯もお変わりしてくれる人も居るんだから…。ねえ、勇人さん。」
 と傍らに立って、盛んに口を動かしている勇人に話しかけた。
「いっ!もう、食ってる奴が居るのか?」
 焦った乱馬に、勇人がニコニコしながら話した。
「いやあ、あかね媛の料理は個性的で旨いぞ!乱馬殿。」
 と真赤な顔を手向けている。
「俺もおかわりっ!」
「私もおかわりっ!」
 四方八方から、器が差し向けられている。

「ほら、ごらんなさいっ!バカにしないでよね!あたしの料理を喜んでくださってるんだから。」
 フフンとあかねの鼻が笑った。

「う…嘘っ!」
 信じられないという顔で、辺りを見回すと、確かに、あかねの作った汁物をしきりに口へ運ぶ真神の人々の姿が目を引いた。おじじ様も嬉しそうに、ズズズッと汁に口をつけている。
「じじいっ!大丈夫か?」
 と覗き込む。
「あかね殿の汁は最高にうまいぞ!」
 と爺さんが感嘆の声を張り上げている。

「な…何で?何で?あかねの料理を旨そうに、食ってんだ?」
 狐にでも化かされたような顔つきで辺りを見回す。

「ほらっ!あんたも食べてみなさいよっ!あたしの絶倫汁!」
 とあかねは勢い良く乱馬の目の前に、自分の作った汁がいっぱい入った器を差し向けた。土色の粗い目の土器仕様の器だ。箸として、適当に木の枝を削った二本の棒が添えられている。
 恐る恐る、器を覗き込む。と、イモやら木の芽やら野の草が素材そのままの形ででかでかと浮き上がっている、濁った汁が目に入った。
「繊細さの欠片もねーな…。」
 乱馬が感想を漏らすと、
「料理は見てくれよりも味よっ!特に、野外で食べる料理は豪快さが一番っ!」
 と得意げに言い切った。
「見た目も大事な要素だと俺は思うんだが…。」
 と箸で汁を掻きまわしながた言った。汁から何とも形容のし難い、薫りが浮き上がる。思わず、ウッとなりそうな匂いだ。
「これ…本当に旨いのか?」
 隣で機嫌よく口を動かしている勇人へと声をかけた。
「旨いっ!こんな味、始めてだっ!」
 もぐもぐとやりながら、勇人が答えた。

「男らしく、さっさと口へ放り込みなさいっ!そして、美味しいって言いなさいよっ!」
 あかねが乱馬を睨みながら言った。

「ははは…。まあ、皆、おかわりまでして食ってるから、今までのよりはマシなんだろな…。よし、わかった。食ってやるぜ。」
 乱馬は勢い良く箸を器に突っ込むと、口の中にあかねの絶倫汁を流し込んだ。

「う…ぐ…。」

「どお?おいしい?」
 にっこりとほほ笑むあかねに対して、口を流れ出た最初の言葉は
「何だこれ?」
 というマイナス方向の答え。
「はあ?」
 にこにこ笑いながらあかねが対すると、乱馬は口から器を遠ざけた。
「これのどこが美味しいってんだ…。素材は口の中でゴロゴロするし…汁だって、ハーブをごった煮したような変な味…。やっぱ、あかねの料理はあかねの料理だぜ…おもいっっきりマズイッ!」
 乱馬はまざまざと汁椀を見ながら、己の感想を吐き出した。
「真神の人には、これが美味しいってか?…うーん…恐るべし、真神族の味覚…。これが旨いなら、何でも食えるぜ…。それに、真神族の人たちには狼の血が混じってっから…の胃腸は普通の人間の数倍、頑強そうだし…。食当たりもしねーかな…。多分、大丈夫だな…。」
 独り言のように流れ始める乱馬の言葉。
「良かったな、あかねっ!おめーの不味い料理でも、真神族の人たちには受け入れてもらえて…。」
 そう言いながら、器をあかねへと戻した。
「うん…でも、やっぱ、俺の口にはあわねーや。」
 その引導を渡すような悪言に、あかねの堪忍袋の緒がブチッと音をたてて切れた。

「ら〜ん〜ま〜ぁ〜。」
 ゆらゆらと目の前で揺れ始める、鬼のような形相。
 ハッとして向きなおった乱馬だったが、時すでに遅し。
「いっぺん、死んでこいーっ!」
 どっかーんとあかねの鉄拳が、乱馬の肢体へと繰り出され、哀れ、そのまま、ぶっ飛ばされてしまった。

 ドサッと落下した草むら。その上から、浅人が気の毒そうに声をかけてきた。
「気弾を打てる兄貴も、あかね媛にはかなわねーんだな…。」
「ああ…。あいつの料理にはやられっぱなしだからな…。はは、ははははは…。」
 ひきつるように笑った乱馬に、浅人は、ハアッとため息を吐き出した。
「すっげーな…。あかね媛って…。」
「あはは、あかねの料理は最強だぜ…。」
 乱馬の頭上から空になった器が飛んできて、そのまま、脳天を直撃して割れた。乱馬はそのダメージと共に、ガクッとそのまま前につんのめった。
「ほっほっほ、好き嫌い無く、何でも食すのが真神族の良いところじゃからのう…。」
 おじじ様は満足げに腹をさすりながら、倒れた乱馬の横へと、すっと立った。

「なあ…。悪いこと言わねーから、おじじ様、あんまりあいつに料理させるな。」
 よろよろと立ちあがりながら、乱馬はおじじ様に言った。
「ほっほっほ、ワシに頼みたいことは、それだけかのう?」
 思わず笑いだした爺さんに、乱馬は真顔で吐き出した。
「笑い事っじゃあねぇっーつーのっ!食は力の根源だろ?あかねの得体の知れない料理ばっか、食わされたら、真神の人間といえど、絶対、ぜーったい、腹、崩すぜ。」

 そう言ったところで、後ろからポカッと一発殴られた。

「悪かったわねっ!得体の知れない料理しか作らなくって。」
 振り返ると、鬼の形相であかねが立っている。
「たく…。てめーは、力加減せずに、いつも思いっきり殴りやがって…。あたた…タンコブできたらどーしてくれるんだ?」
 ヒリヒリする後頭部を手でさすりながら、恨めしそうに振り返った。

「バカ言ってるからでしょっ!」
 仁王立ちしているあかねに、おじじ様が言った。
「さて…あかね殿…。すまぬが乱馬殿は出かけなければならなくなったんじゃ。その間、あかね殿はここに居られよ。よろしいかな?」
 どう切り出そうかと迷っていた乱馬の脇で、ズバッと言い切ったおじじ様。その言葉に、あかねは、えっと言う顔を乱馬に手向けた。
「多分、小治田宮で何かあったんだろうな…。俺の手を借りたいって、麻呂のじじいが書状寄こしてきやがったらしい…。そう言う訳だから…俺はすぐにここを発つ。悪いが、おまえは連れて行けねー。ここに居ろ!」
 と、間髪入れずに、命令口調であかねに言い切った。
「ちょっと、何?いきなり!あたしは留守番って、何で!あたしも一緒に…。」
 行くと強く言いかけたあかねの口を、ぐいっと人さし指を押しつけて、押し留めるようにしながら、乱馬は言った。
「駄目だ!おまえはここで留守番してろっ!」
「何でよっ!」
「麻呂爺さんが俺を呼ぶってことは、恐らく…この前みてーな妖怪絡みのことだろうからな。だとしたら、気技を使えないおまえは足手まといになるだけだ!」
 「あの修羅場」が再来する可能性があるので、あかねを連れて行くわけにはいかないと、必死で押し留めたのである。
 珍しく、きっぱりと言い放った乱馬に、あかねは戸惑った。「足手まとい」呼ばわりされようものなら、いつもの彼女なら、乱馬に対する対抗心がメラメラと燃えあがり、瞬間湯沸かし器のように、激情が駆け上がるのであろうが、この日は違っていた。古代という環境が、彼女を少しばかり、気弱にさせていたのかもしれない。
 あかねの瞳に、少しばかり、涙が滲んだ。

 それはそれとして、何よりも、女の涙に弱い乱馬だ。
 ビクつきながら、ゆっくりとあかねの方に向き直って、声をかけた。
「大丈夫…この前みたいに気を使い果たすようなヘマはやんねー。それに、おまえも、小治田宮に居るより、この里に居るのが一番安全だ…。だから…おまえはここに居ろ。いや、居てくれ…。頼むから…。」
 困ったような乱馬の表情に、何かを悟ったのか、あかねもゆっくりと声をかけた。
「ちゃんと…戻ってくる?怪我とかしない?この前みたいに、ボロボロにならないで帰って来る?」
「バカッ!あったりめーだろ?」
 ポンとあかねの肩を両手で叩いた。
「約束よ…。」
「ああ、約束だ。約束の印だ…。」
 そう言い放つと、くいっとあかねの肩を引きよせ、前髪をかき分けておでこに、唇を寄せた。

 奥手の彼からしてみれば、これが精一杯だった。
 ふわっと近寄って離れた唇の感触に、あかねも真っ赤な顔で頷く。


「何、やってんの?兄貴ぃっ!」
 傍で浅人の声が響いてきた。

「こらっ!浅人!何、覗いてやがるっ!」
 乱馬は真っ赤になって、睨みつけた。
「いや、覗いてたのは…俺だけじゃないけど…。」
 そう言った浅人の後ろ側に、ずらりと並ぶ、好奇の瞳の真神の人々。

「てめーらっ!」
「やだーっ!恥ずかしいっ!」
 そう言い放って、乱馬とあかねが赤く固まったことは言うまでも無い。

「ほっほっほ…若いのう…。」
 おじじ様が愉快そうに笑った。

 ひとしきり笑った後で、おじじ様は天を仰ぎながら言った。

「そうじゃな、すぐにでもここを出られよ。春先の太陽は、案外早く、光を失う。」
 乱馬は天空を見上げた。雲ひとつない快晴だ。
「光?」
 おじじ様は太陽を仰ぎながら言った。
「夕刻までには事を終わらせないと、厄介じゃろうからな…。」
 と吐き出した。
 
「乱馬殿とあかね殿とは、同じ釜の飯を食った仲じゃ。これで同族の契りを結んだも同然。喜んで我が一族、おぬしらの力になろう。あかね殿のことは我らに任せておけ!」
 去り際に、頼もしげな言葉を、勇人がかけてきた。
「同じ釜の飯ねえ…。任せて大丈夫なんだな?」
「任せておけ!」
 ドンと胸を叩いた。
「おい、…あかねに手ぇ出すなよ。」
 返事の代わりに、少しばかり、すごんで見せる。
「ほう…。やはり適妻(むかひめ)のことが気になると見える。」
「いや…。おめーが怪我しかねねーから忠告してやってるんだ。あかねは、手が早くて凶暴だからな…怪我しても知らねーぞ。それから…。まかり間違っても、あかねが作った料理は、あんまり食うなよ!」
「ほう…。適妻が作った料理を他の者に食べさせたくはないと?」
「違う、違う…。あいつの料理は殺人料理とも呼ばれてるんだ。これまで何人もの胃袋を打ち砕いてきたんだ…。腹壊すぜ…。」

「黙って聞いてたら、何、くっちゃべってるのよ!」
 乱馬の言にあかねが睨みを利かせてきた。
「あんた以外の真神の人たちは、皆、あたしの料理、美味しいって言ってくれたのよ。ねえ、勇人さんも美味しかったでしょ?」
「ああ、今まで食ったことがないくらいに、旨かったぞ。」
「ほら…。解る人にはわかるのよ、あたしの料理は。」
 乱馬をチラッと見やった瞳は自信に溢れている。
「俺にはわかんねーよ。」
 少しムッとした表情で、乱馬は吐き出した。
「たく…。頼むから、味見して、もうちょっとマシな料理作ってくれよ…。じゃねーと、俺の胃袋が可哀想過ぎるぜ…。」
「じゃあ、真神の人たちに胃袋を鍛えてもらえば?」

「とにかく…俺が戻って来るまで、大人しくしてろよ…。このじゃじゃ馬娘!」
「そんなに気になるなら、とっとと戻ってらっしゃいよっ!」

 いつもの如く、喧嘩腰になる。

「道先案内は…そうじゃな…。浅人っ!」
 おじじ様は浅人を指名した。
「おいらが案内して良いのか?」
 少年らしい瞳で、浅人は瞳を輝かせた。
「ああ。お主、乱馬殿と一緒に行けっ!そして、乱馬殿を助けよ。」
 とおじじ様は言った。
「おいおい、俺を助けるってったって…。浅人は子供だぜ…。」
「何、お主を助けるには、こやつが丁度よかろう…。浅人、できるな?」
「任せとけ!」
 ドンと浅人は胸を叩いた。
「浅人ならうってつけだな…。」
「ああ…。浅人は聖水を受けているからな…。」
 こそこそとあちこちから小声が響いてきたが、乱馬は気も留めなかった。不案内な古代の道行きだ。小さくても道先案内人がついてくれるなら、それに越したことはない。

「じゃ…行ってくらあっ!」
 そう吐き出すと、乱馬と浅人は、勢い良く、真神の里を後にした。



三十二、嶋の桃源墓


 乱馬は、真神の里を後にすると、浅人の案内で、甘樫丘を降りはじめた。

「甘樫丘か…。古(いにしえ)より、国見の丘として神聖視されてきた小山か…。それに、ここには蘇我一族の館があったって言ってたな…。」
 廃墟の痕跡を横目で流し見ながら、急ぎ足で甘樫丘を下りる。
「なあ、浅人。おめーら真神の一族って、蘇我氏に仕えてたそうだけど、本当か?」
 昨夜、おじじ様がそんなことを口走ったのを思い出しながら、乱馬は浅人に尋ねた。
「真神一族が蘇我の本宗家に仕えていたのは、俺が生まれる、ずーっと前の話だよ。蝦夷様の一族が滅んだ後も、蘇我氏を名乗る一族は居ることはいるが、ぱっとしねーから、今は仕えてねーんだ。」
 浅人は答えた。
「へえ…。いつ頃、真神の連中は、蘇我氏に仕えてたんだ?」
「百年以上前だよ。蘇我氏は真神原の傍らに、法興寺(ほうこうじ)とかいう寺を建てたんだと…。その頃から、真神一族と蘇我氏とは、関わりを持ったとか言ってたなあ…。」
「法興寺…。飛鳥寺のことだな…。」



 法興寺。通称、飛鳥寺。蘇我馬子が建立した、我が国はじめての私寺だ。記紀によると、大陸から伝来してきた新しい蕃神(仏)に帰依した馬子が私に建てた寺院だ。新しい文化に魅せられて、信仰よりも仏教と共に大陸から渡って来た新しい文化を取り込むために、積極的に仏を信仰しているように見せかけたとも、揶揄(やゆ)する見方もある。馬子がどこまでこの新しい蕃神(仏)を信仰していたかは不明であるが、この、真神原の地から、日本の仏教信仰は始まったと言っても良いだろう。
 法興寺の建造物は平城京遷都と同時に解体され、建物はそのまま平城京の端に遷された。現在のならまちにある元興寺(がんごうじ)の本堂がそれに当たるという。
 甘樫丘の東麓に蘇我蝦夷、入鹿親子が居を構えたのは、七世紀初め。天皇家の使用人を勝手に使役し、造らせた瓦葺きの屋敷を「宮」とまで呼ばせて、権勢を誇ったという記録が日本書紀に連なる。その、傲慢さが、後に大化の改新を呼び起したとも言われている。
 一方で、蘇我本宗家は、本当は大王家であったのではないかという説も存在するのである。



 乱馬が駆け下りてきた草叢(くさむら)の中に、所々、黒ずんだ土が見え隠れする。燃えた木炭のような木片や割れた瓦も転がっていた。確かに、ここに荘厳な瓦葺き屋根の建物があったことを示している。平成の御代になって、発見された「甘樫丘東麓遺跡」だったかどうかは知らないが、まだ、土に埋もれきれずに、その残骸たちはここに屋形があったことを、自己主張しているようだった。
 おまけに、背後の甘樫丘の斜面に沿って、石垣の石組まで築かれていた。それも、崩れかかってはいるが、ちょっとした城塞のようにも感じられた。

「この甘樫丘の建物って、全部、瓦葺きの屋根だったらしいぜ。」
 見え隠れする遺物を指さしながら、浅人が言った。
 飛鳥時代、瓦は、よほどの重要な建物でなければ使われない程の、高級品だった。天皇の居所さえも「板葺」であった時代に、私寺や私邸に、余すところなく瓦屋根を使ったのだ。蘇我氏の力がどのくらい強大であったか、想像できよう。
 ついでに言うと、藤原京から平城京へ遷都した折も、大極殿などに使われた瓦は、綺麗に外されて、柱などと共に、新京へ持って行って再利用したという。
 瓦や柱のように重いものをたくさん、どうやって運んだのか。藤原京から平城京には運河の遺構が出土していて、船にて運ばれたのではないかと推測されている。

「真神一族は蘇我氏の家来だったのか?」
「まあね…。だから、俺たち真神一族は、主(あるじ)だった蘇我氏の滅んだ後も、ここへ居を構えて、この土地を守ってるんだ。」
「土地を守ってる?」
「何でも、物凄い宝が、この焼けた屋敷跡に眠ってる…って、おじじ様が言ってた。」
「物凄い宝?」
「うん、どんな宝なのかは教えてくれないけど、この館跡のどこかに眠ってるんだって。」
「ふーん…宝ねえ…。掘り起こそうとか思った奴は居ないのかよ…。」
「そんな罰当たりな奴は、真神には居ないよ。それに、必要な時に宝自ら、必要な者の手に渡るって…そう言い伝えられてるからさあ…。」
「…たく、宝と謎の言い伝えかあ…。さて、ゆっくりもしてられねーや。」
「だね…。じゃあ、一気に行こうぜ、乱馬兄貴っ!」

 乱馬と浅人は、足早に道を辿り始めた。

「おい…。小治田宮はこっちじゃねーだろ?何か、方向違ってねーか?」
 先に立って小走りする浅人に向かって、乱馬が声をかけた。
「こっちで良いんだ。小治田宮の方向じゃなくって、嶋宮(しまのみや)へ向かえって、おじじ様から言われてっから…。」
 浅人はそう言いながら、先導するように駆け出す。
「嶋宮?」
「ああ…。蘇我の頭目、馬子様の邸宅があったところだよ。」
 浅人は言った。

 「嶋宮」と言われていたかはわからないが、島という土地に蘇我馬子時代の館があったと言われている。石舞台古墳がある辺りに地名が残っている。
 
「それより、こっから先が問題だな…。橋ひとつかかってねー川を渡んなきゃならねーし…。」
 飛鳥川のほとりへと差しかかった。今は橋のおかげで、悠々と行き来できる場所でも、小さな川一つで容易に遮断できた。堤防なども無い時代。川幅は現代のそれより広く、周りも草木に覆われたいた。
 川の水は怖い。野生児の乱馬にはその怖さは身をもって理解していた。
 浅い小さな川でも、川底が急に深く落ち込んでいたり、緩やかそうな流れでも、底はかなり速かったりする。川を侮ってはいけない。それだけに、浅人が一緒についてきてくれていることは、ありがたかった。まだ幼い浅人だから、あまり無茶もしない。

「こっちが浅いぜ。兄貴っ!」
 そう言いながら、率先して川へと入る。
 
 ザブンという水音と共に、浅人が川へ入って、乱馬は仰天した。
 人間の姿から一転、一匹の狼の子供へと浅人が変身したからだ。

「浅人…おめえ…。」
 絶句する乱馬に、アオンと目の前の狼が答えた。早く来いと言わんばかりに。
 水に濡れて変身するということは、即ち、呪泉に浸った経験があるということを如実に物語っている。ということは、浅人も呪泉に、狼溺泉に浸ったことがあるということに他ならない。

「質問は後だな…。川を渡るのが先か。」
 乱馬は苦笑いすると、己も水へと身を投じた。
 無論、乱馬は娘溺泉の犠牲者だ。みるみる女へと姿を変える。
 そして、目の前の水面に投げ出され、ゆっくりと流れる浅人の衣服を咄嗟に受け止めて、手に持った。これがなければ、人間に戻った時に浅人が困ると思ったからだ。
 狼の姿の浅人に衣服をくわえさせるのも、気が引けた。
 それに、呪泉郷で溺れた者が元の姿に立ち戻る場合、乱馬のように性別だけが入れ替わるなら、着ている服が脱げることはまずないが、獣から人間に戻る時、素っ裸になって戻ってしまうからだ。パンダ親父や黒豚良牙のザマが如実に物語っている。
 浅人は勝手知ったる川と言わんばかりに、草木の比較的緩やかなところを行く。
 整備されていないこんな小さな川でも、瀬を読み誤れば、大変だ。
 慣れたもので、浅人は、歩き易い浅瀬を選んで、バシャバシャと渡り始める。
「送り狼か…。送り狼は隙を見せて振り返ればガブリとかいう厄介者だって伝説があるけど…。ありがたいな、今の俺には。」
 浅人の衣服を左腕に抱えながら、乱馬は呟いた。
 狼は尾ッポを振りながら、張り切って、浅人は先導を務めた。


「っと、助かったぜ…。」
 渡り切ったところで、乱馬は浅人に礼を述べた。浅人は狼に変身してしまったので、返答はできない。代わりに、犬のように尾ッポを振って見せた。
「湯があれば良いんだが…。」
 そう言いかけたところで、声がした。

「湯ならここにあるぞ。」

「じじいっ!」
 聞き覚えのあるその声を聞いて、乱馬は声をあげた。

「女のおまえより、男のおまえの方が、ここから先は、良いだろうからな。」
 そう言いながら、湯を沸かしている焚き木の傍へと乱馬を誘った。乱馬は煮立った湯釜から湯を土器へと移すと、傍らにあった水瓶の水を注ぎ、適温にしてから頭からザブンとかぶった。そして、同じように狼に変化していた浅人の頭へも浴びせた。

 みるみる、男への姿へと戻る乱馬と浅人。
 乱馬は、まず、人間に戻った浅人に、抱えてきた彼の衣服を差し出した。
「ほれ、先に、服着ろっ!」
 乱馬はフリチンで突っ立っている浅人へと、話しかけた。
 浅人は頷くと、そそくさと衣服を着た。麻のカットソーのように首や腕のところだけ穴が開いた、黄なり色の簡単な衣だ。それから、同じように麻の筒状の短めのズボン。足首のところに紐があって、それをくくった。古代神話の神様たちの衣服に少し似ている。

「浅人…。おめーも、呪泉郷に行ったことがあるのか?」
 と変身するや否や、浅人へと語りかけた。
「いや、呪泉郷へ行ったことなんか無ぇよ。おいらはまだ、飛鳥から出たことはない。」
「呪泉郷に行かないのに、何で変身できるんだ?まさか…生まれつき…とか。」
「生まれつき、こんな変身能力が備わってる奴なんて居ねーよ。」
 浅人の答えに、乱馬はふうっと安堵のため息を漏らした。もし、生まれつき変身する能力を備えているならば、己の血を受けた子供が己と同じような体質を持っている可能性が高くなるからだ。
「じゃ、何で、おめーは狼に変身できるんだ?」
「大方、真神の長のおじじが呪泉の水をこやつに浴びせたのじゃろう。」
 そうたたみかけた乱馬に、麻呂爺さんが横から口を挟んだ。
「何でわざわざ、呪泉の水を浴びせたんだ?」
 驚いて問いかけると、平然と浅人が言った。
「真神の里の何人かは、呪泉の水を与えられる掟があるんだ。俺はそれに選ばれただけのことさ。」
 と浅人は簡単に言ってのける。
「おいおい、そんなさらっと言えるようなことか?何のためにそんなこと…。」
「決まってる、真神の里の狼を支配するためさ。」
「狼を支配するため?」
「ああ、狼っていうのは人にはなつかない。が、群れを作って集団で狩りをする性質がある。だから、狼を使役するには、一族のうちの何人かが実際に狼になって、奴らの頭となり、支配するのが一番手っとり早いんだ。」
「狼の調教のために変身能力を身につけさせられるってーのか?」
 驚く乱馬に、浅人は得意げに言った。
「誰かれもが呪泉の水を授けられるわけじゃねーよ。身体能力の高さも要求されるんだ。俺たち真神の里の者にとっちゃ、狼に変身できる体質を与えられることは、物凄え栄誉なんだぜ。」
「栄誉…ねえ…。俺はできれば、こんな能力、とっとと返上してぇがな…。」
 ふううっとため息を吐き出しながら、乱馬は言った。
 それぞれの種族によって、いろいろな考え方があって然りだとはいえ、変身能力を持つことが栄誉だと言い切る浅人に、少し複雑な心境になった。

「それより…。爺さん。俺をこんなところに呼び出したのは、どんな了見からなんだ?」
 と乱馬が問いかける。
「佐留の奴の遺した文献を辿った結果じゃよ…。」
 爺さんは答えた。
「また、柿本佐留…か。」
 ちょっとうんざりとした表情を浮かべながらも、乱馬は爺さんに問いただした。
「その、佐留が何だってんだ?」
「あれからワシは、書を漁りまくてのう…。佐留が寄こした紙やら書物やら木簡やらを、片っ端から調べ、隠(なばり)の扉を切り開くのに必要な物がわかったんじゃ。で、そいつを回収しに行くんじゃよ…。」
 麻呂爺さんは言った。
「隠(なばり)の扉を切り開くのに必要な物だあ?そんな物騒な物を回収するだあ?」
「ああ…。恐らく、隠(なばり)の扉を開こうと企む者は、そいつを探しておるじゃろうて…。じゃから、ワシらが先に手に入れ、そいつを壊す…。」
 そう言いながら、爺さんはニッと笑った。
「おい、その必要な道具が…こんなところにあるのか?」
 辺りを見回しながら、乱馬は言った。

 目の前に広がるのは、人家一つない、ただの小山だ。いや、盛り土と言った方が良いかもしれない。何かの痕跡が確かにあるが、建物の建っていた様子はない。礎石も建造物の遺物もない。
 前方には、少しばかり高い山へと連なる、小高い場所。傍を川が曲がりくねりながら、流れている。川幅は数メートルと小さいが、水量は多い。結構な水音をたてながら、下流へと流れている。
「第一、ここは、いったい何なんだ?嶋宮とか言ってたけど、宮の建物なんて、どこにも見当たらねーぜ。」
 乱馬は麻呂爺さんに向かってたたみかけた。

「馬子(うまこ)様の桃源墓(とうげんぼ)じゃよ。」
 麻呂は眉毛一つ動かさずに言った。
「馬子って、蘇我馬子(そがのうまこ)か?」
「ああそうだよ…。馬子様の邸宅があった場所のすぐ傍に営まれた、馬子様の墳墓じゃ。」
「墳墓…。なるほど、それで、土が微妙に盛り上がってるのか…。」
 乱馬は辺りを眺めた。どうも、目の前に広がる山の稜線に見覚えがあるような、無いような。
「で?馬子の墓に何の用があるんだ?」
「さっき言ったろう?隠(なばり)の扉を開くために必要な物を取りに来たと。」
 そう言いながら、爺さんは目の前の盛り土に向かって足を踏み入れた。

「おいっ!こらっ!まさか…。てめえ…。この墓を暴こうだなんて、思ってねーだろうな?」
「そのまさかじゃよ。」
 ぎょろりと巡らせた瞳で、爺さんは即答した。
「あの剣璽(けんじ)は、馬子が墓へと持って入ったと伝えられておるからのう…。」
 爺さんは小高い丘の上の方を眺めながら、吐き出した。
「けんじ?」
「ああ…。我ら物部一族が古(いにしえ)より所持していた、霊験あらたかな御神剣じゃよ。布都叢雲御剣(ふつのむらくものみつるぎ)という名のな…。」
 爺さんは言った。
「おい…。物部氏の剣を、何で蘇我馬子が後生大事に墓へ持って入ったんだ?矛盾してねーか?普通、物部氏の剣なら物部氏の首長が墓まで持っていくだろうが!」
 思わず、乱馬は矛盾点を突いていた。

「語れば長くなるのじゃがのう…。その昔、厩戸皇子様がまだ若かりし頃、蘇我氏と物部氏は大喧嘩をしたのじゃよ…。双方の一族を巻き込んだ大争乱になってしまったのじゃ。」
「大喧嘩?」
「ああ…。物部守屋と蘇我馬子。この双方の族長二人。年頃も能力も考え方も結構似通っておってのう…。似た者同士、ドングリの背比べとでもいうのかのう…。事あるごとに、共に互いを意識し、仲良くしながらも、切磋琢磨しておったんじゃよ…。その関係がその騒動で崩れた。」
「所謂、ライバルってやつかよ…。俺と良牙みてーな…。」
「仲良き者が仲たがいすることもある。ま、そういう争いじゃ。」
「喧嘩するぼど仲が良いってか?」
「そうじゃ。守屋と馬子。両者の仲違いは起こるべくして起こったことなのかもしれぬ…。」
「何で大喧嘩したんだ?」
「海の向こうの大国から当時、伝わりたての蕃神(あたつかみ)、仏の扱いをめぐっての喧嘩じゃよ。神の国の倭国に仏を持ち込んで信仰してもよいのかという大騒動に広がったんじゃ。大陸から数多(あまた)の宝物と共にもたらされた、蕃神(あたつかみ)仏の扱いについて、両者は激しく対立してしまったんじゃよ。物部守屋は廃仏派、蘇我馬子は崇仏派へと傾倒し言い争った。いずれも、言いだしたら引かない御仁。
 とうとう、争いは国を引きさくほどの争乱へと燃え広がってしまったんじゃ…。
 守屋は昨今、疫病が流行るのは、蕃神の仏を信仰するからだと尊皇へ讒言し、馬子の建てた寺を燃やしたし、馬子も負けずに挙兵した。」
「ああ…。日本史の授業でかじったような気がするな…。その崇仏廃仏騒動…。えっと、蘇我氏が勝ったんだろ?」
「別に物部氏は負けとらんわいっ!」
 物部の末裔だけあって、石上麻呂は少しばかり、不機嫌な顔つきになった。
「いろいろ紆余曲折があって、蘇我馬子は物部守屋を殺してしまったんじゃよ。まあ、裏には大王家の覇権争いもあったから、事はもっと複雑になってしまったがのう…。
 守屋を誅された物部氏は当然、蘇我氏憎しと炎上しかかったが、聡明な厩戸皇子様のとりなしで、事は、一旦、線引きをされたんじゃ。
 守屋の同母妹、つまり実の妹の鎌姫郎女(かまひめのいらつめ)が、蘇我馬子へ輿入れしておったからのう…。それ以上争うのも良しとしないと言うか…。」
「妹の輿入れ?」
「じゃから、言ったろう?元々、物部氏と蘇我氏は、犬猿の仲ではなかったのじゃから…。でなければ、守屋が妹を馬子の元へ嫁がせると思うか?」
「あん?」
「守屋は同母の妹を馬子へと嫁がせとるんじゃよ。しかもじゃ、その鎌姫郎女は、蘇我馬子の嫡子、蝦夷を生んだ。」
「つまり、守屋と馬子ってのは、めちゃくちゃ濃い親戚ってことじゃねーか!」
「そうじゃ。その鎌姫郎女は、我が物部一族の中でも一番と謡われたほどの巫(かむろみ)だった御方でのう…。それを見染めた馬子が婚姻を申し込んだのじゃよ。物部の一族の中でも、どうするか論争になったが、亀甲の占いによって、馬子へ嫁がせることを決めたんじゃ。物部氏と蘇我氏、双方、仲良くするのは倭国の繁栄をもたらすと、占いには出たからのう…。」
「占いが全てって奴か…。」
「ああ。神聖なる占いの言霊は、何よりも優先する。それが我ら物部の考え方でもあったからのう…。守屋は馬子の手腕を買っておったとも言われておるしのう…。蘇我氏と縁を結ぶことに積極的じゃったと言われておる。」
「へええ…。そうだったのか…。」
「そして、鎌姫郎女の婚姻の際に「百取の机代物」として、布都御霊が入った剣璽を蘇我氏へ貢がれた。」
「百取の机代物?何だそれ…。」
「婚姻に際して、女方から男方、つまり婚家へと捧げられる、宝物のことじゃよ。勿論、男方から女方へも宝ものは与えられるが、その返礼みたいなものじゃな…。」
「つまり…結納(ゆいのう)ってことか…。」
「不幸な戦いの後も、馬子は鎌姫郎女を物部へ帰すことなく、最後まで添い遂げた。物部の布都御霊の宿る剣璽も返されることなく、そのまま、蘇我馬子とともにあり、その死に際して、墓へと埋葬されたと言われておる。」
「もしかして…その宝剣がこの墓にあるってーいうのかよ?」
 訝しげに乱馬は尋ねた。
「ま、そういうことになろうかのう…。」
「で、そいつを、見つけに行くのかよ?」
「然り!」

「な…なん何だ?その、訳のわかんねー複雑な話!」
 乱馬でなくても、物部氏と蘇我氏のいきさつは、頭を抱えそうになる、複雑な話であった。


 
 事実、記紀によれば、物部守屋の実妹、鎌姫郎女は蘇我馬子へ嫁ぎ、蘇我馬子の嫡子、蝦夷を生んでいる。また、他にも刀自古郎女(とじこのいらつめ)という娘も産んでいて、彼女は後に、厩戸皇子に嫁いでいる。そう、まさに、物部氏と蘇我氏、そして皇族は、それぞれ「一族の娘の輿入れ」という方法で、親密な関係を結んでいたのである。
 守屋と馬子の争乱時に、まだ若輩だった厩戸皇子は崇仏派の馬子の勝利を祈り、四天王を祀ったという逸話が有名である。後に彼は摂津国に四天王寺を開いたのは、その勝利によるところが大きいという。
 蘇我と物部の争乱の背後には、天皇家のお家騒動があることも否めない。争乱の前、用明天皇(聖徳太子の父)が亡くなり、守屋が擁立しようとした穴穂部皇子(あなほべのおうじ、聖徳太子母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の兄)を馬子が殺した事件が引き金になったという見方もあるのだ。つまり、皇位争いが後ろに見え隠れしていた。
 その後、皇位は用明天皇から崇峻天皇(馬子が擁立した泊瀬部(はつせべ)皇子)、さらには彼も馬子に誅殺され、推古天皇(炊屋姫皇女)へと流れていくのである。
 ただ、この崇仏争乱には不明瞭な点がいくつか残っているとも言われている。守屋の家自体が物部氏の宗家ではなく傍流に過ぎないという説もある。守屋と馬子の争乱は、「日本書紀」のねつ造であるという説も今だに根強いのも確かなのである。



 それはさておき、乱馬は、墓泥棒に駆り出された格好になってしまった。

 石舞台古墳。
 この古墳がいつの頃から、墳丘からむき出しになっていたのか判明できないが、相当、初期の段階から盗掘はされていたらしい。第二次世界大戦前、末永博士が本格的に発掘を行った頃には、何の副葬品も見当たらなかったということが如実に物語っているだろう。
 実際、乱馬が麻呂に促されて、登った墳丘は、石室部がどこにあるか容易に判別できた。

「これって…。もしかして、石舞台古墳か…。」
 乱馬が知る石舞台の石組みに似ていると直感した。
「石舞台?」
「ああ…。俺たちの時代では、石室がそのまんま地面の上にさらされていて、狐狸や人がその上で踊りそうだとか言う感じからか、石舞台と呼ばれるようになったんだとさ…。辺りも、こんなに木に覆われてないし…。鬱蒼(うっそう)とは茂ってやがらねえ…。」
「ほう…。玄室がそのままむき出しになるまで、荒らされておるのか…。桃源郷へと至るとさえうたわれた墓なのにのう…。」
「石棺すら、残ってねーぜ…。埋蔵物も何もなく、誰でも自由に中を覗くことができるんだ…。馬子の墓だという記録さえ曖昧になっていて、誰の墓かもわかんねー状態だよ。」
「ほう…墓誌すら残されておらぬとは…。」

「で?この石室へ、入って、宝剣を漁るってか?」
 乱馬は頭だけ覗かせている石の塊を見ながら、麻呂へと声をかけた。

「そんなことはしないぞ。したって無駄じゃ。玄室へ入っただけで手にできる剣璽なら、とっくに、墓泥棒たちが持っていっとるわい。」
 麻呂は吐き出すように言った。
「おい…。簡単に持ち去られないように、大事に埋葬してあるのか?まさか…どこに埋まってるか、わかんねーとか言わないよな…。」
「お主、誰に向かって物を言っておる!埋まっている場所なぞ、だいたい見当がつくわい!」
「得意な占いで、見当つけたってか?」
「ワシを馬鹿にしておるのか?」
 麻呂爺さんは乱馬をジロリと見上げた。
「馬子は蘇我氏の長ぞ。それに、布都叢雲御剣(ふつのむらくものみつるぎ)は物部の宝。何の咒法もかけずに、埋葬するなど考えられまい?」
「何、言ってやがる…?」

 怪訝な顔を手向けた乱馬の目の前で、麻呂爺さんは、何やら怪しげな落書きを地面に描き始めた。持っていた杖を地面につけ、魔法陣のような幾何学模様を描き出す。

「おい…何のまじないのつもりだ?」
「黙って見ておれ!集中できぬわいっ!」
 覗き込む乱馬に、爺さんは一喝する。そして、真剣な顔で土に丸い円陣のようなものを書き込んでいく。そして、最後に大きく外側に丸い円を描き終わると、持っていた杖を円陣の中央目がけて、一気に突き刺した。

「これで完了じゃ!」
 そう吐き出した爺さんの声。

「完了って…?」
 そう問いかけたときだった。

 ゴゴゴゴゴと地面が下から唸り声を挙げた。

「おい…。何だ…?地震か?」
 揺れが己たちの足元に近づいて来るような感覚。すぐに、それが尋常な物ではないことを、乱馬は察していた。
 いや、そればかりではない。薄雲の上にぼんやりと照っていた太陽が、急に陰った。暗闇とまではいかないが、目の前が薄暗くなる。

「来るぞっ!」
 爺さんは真剣な瞳で、乱馬へと言葉を投げつけた。
「来るって…何が?」
 そう、聞き返した乱馬の前に、そいつらは唐突に現れた。目の前の土塊が、いきなり盛り上がったかと思うと、みるみる、身長五メートル程の巨人が現れた。鎧を身にまとい兜を頭にかぶり、手には棍棒のような金属棒を持った武人埴輪のような巨体が現れた。上から睨みつけてくる瞳はギラギラと不気味に輝いて見えた。その大きさから、人間ではないことは、一目瞭然だった。しかも、二体一緒に姿を現した。

「おいっ、こいつら何なんだ?」
 驚きながら、問いかける乱馬に、麻呂爺さんは言った。
「決まっとる、墓守(はかもり)じゃ!」
「墓守だあ?」

『馬子様の墓を暴こうとする不届き者は、誰ぞ!』
 仁王立ちする巨人の片方が、声を張り上げた。
『我らが眠りを脅かすは、誰ぞ!』

 腹の底から響いてくる、不気味な声だった。

「おい…。こいつら…。何だ?」
 身構える乱馬に、爺さんは言った。
「見てわからぬか?」
「わかるかっ!」
「こいつらは、ここに眠る宝を守っておる。本気でやらねば、殺されるぞ。」
「殺されるだあ?」

 そう言いあう、麻呂と乱馬を、巨人はやぶにらみする。
「馬子様の墓を荒らすは、おまえたちか!」
 言いながら、振り下ろされた棍棒は、ドスンと鈍い音をたてて、地面へと突き刺さる。乱馬は身軽にそれを避けた。避けなければ、棍棒に押しつぶされていたかもしれない。

「おいっ!冗談じゃねーぞっ!」
「冗談なんかじゃないぞよ。くっちゃべってる暇があったら、戦えっ!ここはお主に任せたぞっ!」
 そう言うと、爺さんは、くるりと背を向けた。そして、巨人たちの足元をするりとすり抜けて、反対側へと走り出す。
「あ、こらっ!じじいっ!逃げるのか?」
 追いすがろうとした乱馬の前を、二体の巨人が立ちはだかる。

『まずは、おまえから、藻屑となれっ!』
 二体の巨人たちは、同時に乱馬目がけて襲いかかった。

 訳がわからぬうちに、唐突に現れた巨人たちとやりあう羽目に陥ってしまった乱馬。

 巨人たちは巨漢に似合わぬくらいに俊敏だった。
 振りが大きくなるのは仕方がないとはいえ、ドスン、ドスンと持っている棍棒を乱馬目がけて振り下ろしてくる。
「なっ!何なんだ?こいつら?」
 巨人たちの足元を逃げ惑いながら、戦う隙を窺う乱馬だったが、相手の正体がわからなければ、下手に気弾も打てない。
「兄貴っ!大丈夫か?」
「浅人っ!居たのか?」
 ギョッとして振り向くと、浅人も一緒に逃げ惑っていた。
「一体…なん何だ?こいつら…。」
「墓守だろ?爺さんがそう言ってたじゃねーか。こいつら…人間じゃねーよな…。何でこんなのが墓守してんだ?」
 容赦なく振り下ろされる棍棒を避けながら、二人でディスカッションをおっぱじめる。
「多分、傀儡(くぐつ)の術を使って動かしてるんだろうな…。」
「傀儡の術だあ?」
「ああ…。人形に息を吹き込んで、使役させる術のことだよ。恐らく、ここの墓主は優秀な術師を雇って、墓荒らし対策を万全に施したんだろうな…。」
「人形…。」
「ああ…。こいつら、たぶん、土で作った人形に魂を乗せて動かしてるんだぜ…。」
「人形?」
「話に聞いたことがあるけど、お偉い人たちは、死んでも生きていた頃と同じように魂が生活できるようにって、古くから土塊で色んな人形を作って、墓に埋めたんだってよー。その土人形に魂が乗って動いてるんじゃねーかな…。こいつらからは、土の匂いしかしねーし…。」
 一緒に逃げ惑いながら、そんなことを吐き出す、浅人の言葉に、乱馬はハッとした。

(そういえば…。あの時、紀氏の館で…。)
 稚媛様とやりあったとき、麻呂爺さんの腕で息絶えた檜隈女王のことを思い出したのだ。潰えた彼女は人形を象った「紙人形」だった。

「なあ、こいつら、土の匂いがするって言ってたよな?」
 そう浅人に話しかけた。
「ああ。こいつら、二体とも、カビた土の匂いを全身にまとってやがる。」
 狼に変身できるだけあって、浅人は鼻がきくらしい。

「土人形か…じゃあ、もしかして…。」
 そう言うと、乱馬はピタッと動きを止めた。

「兄貴?」
 唐突に逃げることをやめ、身がまえた乱馬に、浅人が瞳を差し向ける。

「一か八か…。」
 はっと手短に口から息を吐き出すと、ぐっと突き出した右の人差し指に気を込める。そして、くわっと目を見開くと、迷うことなく、襲いかかってくる巨人目がけて、ダンと足を蹴った。

「爆砕点穴!」
 そう言いながら、土人形の足元目がけて、人差し指を、目にもとまらぬ速さで、前に繰り出した。

 ドオンッという鈍い音と共に、足元から巨体がみるみる崩れ落ちた。
 巨人を象っていた塊が、一気に土となり、弾け飛ぶ。

「それっ!もういっちょ、爆砕点穴っ!」
 返す勢いで、もう一体目がけて、乱馬は人差し指を繰り出した。

 ゴオオッという音と共に、巨体が弾け飛び、もうもうと土煙りが辺りに舞い上がった。
 バラバラと土が落ちる音が辺りに響き、みるみる巨体は居なくなった。
「へっ!やっぱり、埴輪だったか。」
 ジャリッという音と共に、足元に散らばった埴輪。その破片を踏みつけながら乱馬が吐き出した。

「すげー!すげーなっ!兄貴っ!爆砕点穴…その技、すげーよ。」
 目を丸くしながら、浅人は乱馬へと歩み寄って来た。

「ああ、この技か…。これは俺のライバル、良牙の技を拝借したんだけどな…。」
「ふーん…。よくわかんねーけど、凄いや。」
 浅人がそう言いかけたところで、再び、目の前の土が、不気味に蠢いた。
 再び、別の埴輪武人が、土下からせり上がって来たのだ。


 今度は二体どころではない。何体もの巨人が次々に土が盛り上がってきた。

『墓を荒らす奴は誰だ?』
『灰塵と化してやろうぞ。』
 一つ盛り上がると、その後側で、別の人形が盛り上がるという始末。
 ゴオッと不気味な音をたてて、再び襲い来る、巨人軍団。

「なっ!こいつら、不死身か?」
 巨人たちの攻撃を交わしながら、乱馬が吐き出すと、
「多分、たくさんの埴輪がこの下に埋まってるんだろうな…。」
「そいつを全部、叩き壊せってか?」
 苦笑いしながら、乱馬は立ちつくした。
「恐らく…な。」
「冗談じゃねーぞ!」
「じゃ、兄貴、そういうことで、後は任せた!」
 とても、まともに相手していられないと悟ったのか、浅人はどこから持ち込んだのか、水を頭からひっかぶり、狼に化けた。その方が、動きが俊敏になると睨んだのであろう。

「こらっ!浅人!逃げるのか!」
 その問いかけに、オンと一吠え、狼は鳴いた。そして、くるりと背を向けて、巨人の足元を潜り抜け、爺さんの入った方へと、駆けだして行ってしまった。

「たく…浅人の奴…。」
 去ってしまった者を気にしても、始まらない。
 巨人たちは大挙して、己を睨みつけてくる。ゴクンとツバキを飲み込むと、乱馬は一つ、息を吐き出した。
「しゃあねー。一人でやるしか、無ぇか…。」
 
『墓荒らしには死を!』
 巨人の中の一体が、そう声をかけたところで、一斉に、乱馬目がけて、襲いかかって来た。

「こんな訳のわかんねーところで、死ぬわけには、いかねーんだ!」
 乱馬は両手の人さし指を突き立てると、くわっと眼を見開いて、巨人たちへと立ち向かって行った。

「新早乙女流奥儀!爆砕火中甘栗点穴!」
 そう言いながら、襲い来る巨人たちの攻撃をかわしながら、爆砕点穴を猛スピードで打ち込んで行った。そう、火中天津甘栗拳と爆砕点穴を合体させた技を瞬時に編み出したのだ。
 だが、生憎、乱馬の打ち込んだ拳先は、巨人だけではなく、地下水脈まで達したようだった。指先から勢いよく、地下水があふれ出てきたのである。
 当然、乱馬はみるみる女に変化する。

「ちぇっ!女に変身しちまった。」
 呟くように、乱馬は吐き出した。
 その目の前に巨人が立ちはだかるように睨み据えていた。



つづく







 
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