◇飛鳥幻想
第十話 真神の夜


二十七、おじじ様の昔語り

「この国は、青龍の国じゃ。」
 おじじさまはゆっくりと二人を見比べながら言った。

「あん?青龍の国だあ?」
 乱馬は不思議そうに爺さんを見詰めた。
「青龍って、四神の…ですか?」


「そう、かの大陸国の人々は、古(いにしえ)より、この八十島(やそしま)の国を「青龍の棲む蓬莱嶋」そう言いならわしてきた。青龍が暴れると、山は火を噴き、地は震う。
 この八十島の国は、龍の形をしておろう?違うか?」

「おい…。この時代って、日本地図、完成してたか?」
 乱馬はおじじ様の言葉を受けて、あかねへと尋ねた。
「あのねえ、日本地図を完成させたのは、江戸時代後期の伊能忠敬でしょ?そのくらい常識でしょうが。」
「でも、爺さんは、この島国は龍の形をしてるって、指摘してるぜ。」
「日本列島が?龍の形?」
「ほら…。」
 そう言いながら、乱馬は、簡単な日本列島の図を地面へと書いた。
「北海道が頭で、能登半島辺りが背中で、房総半島辺りが手かな…。四国が腹で、九州が尻尾…ってな具合によう。」
「んー、確かに、龍の形に見えなくはないけど…。」
「だろ?」
「でもさあ、北海道を頭にしないで、九州を頭に考えるってのはどう?これでも、龍に見えるわよ。」
「そーだな。爺さんはどっちだと思う?龍の頭。」

「どっちでもよいわ…。それより。重要なのは飛鳥の場所じゃな。飛鳥はどのあたりになるかのう?」

「えっと飛鳥の場所はこの辺りかな…。」
 乱馬は飛鳥の場所に丸印を入れた。

「なるほどのう…。上と下、どっちを頭と考えても、だいたいこの飛鳥は龍のヘソ辺りか。」

「奈良県ってこの辺りだから…確かに、ヘソ周辺と言えなくはねーよな。」
「そうね、九州が頭でも北海道が頭でも、たいして変わらないわね。」
 乱馬とあかねは、それぞれ、略地図を見ながら、納得した。妙に説得力があるのだ。
 奈良時代に日本の地形が知れていたようには思えなかったが、黙って二人ともおじじ様の話に耳を傾けた。

「そう、その昔、この龍の形をした島国のヘソ辺り、この飛鳥の地には、阿射加(あざか)の国という名前の邑国が栄えておったんじゃ。」

「阿射加(あざか)の国?」
 耳慣れぬ国の名に乱馬がきびすを返した。
「お主ら、阿射加国のことは、聞いたことはないのかのう?」
 逆に、おじじ様の方から尋ねて来る。
「んな国の名前、知ってるか?」
「さあ…。聞いたことないわ。」
 乱馬に尋ねられて、あかねも考え込む。

「そうか…。お主らの時代には、既にその名すら、伝わっておらぬか…。」
 おじじ様は静かに話し始めた。


「いくつもあった邑国の中でも、阿射加国は豊かで、領土も広い方じゃったと言われておる。ここから数日歩いたところにある東の度会(わたらい)辺りから西の難波津辺りまでの国々をひき従え、もっと遠くの国々とも交易し、栄えておったんじゃよ。
 阿射加国の統治者は、男の王と女の巫女。その二人が、龍神を神とあがめ、祭祀と統治をおこなうという形で、国を栄えさせてきた。阿射加国は龍神を神と据え、それを拝しながら栄えた国じゃった。
 王だけが統治と祭祀を同時に行う国、女王が統治と祭祀を行う国、祭祀など無いに等しい国…国の風土や思想によって、その形は様々じゃ。実際、秋津島の中にも、様々な統治や祭祀を行う邑国が存在しておった。その中で、阿射加国では、男王とそれに仕える巫女の二人が一対で国を治めておったんじゃ。
 しかも、阿射加国の場合は、少し特殊でな…。王と巫女は同母兄妹…必ず、この形態で治めるのが基本じゃった。
 いつの頃からそういう形になったのかは、細かいことまでは、ワシにはわからんがな。」
「祭祀と統治の連携ねえ。イマイチ、ピンとこねーな。」
 と乱馬が首を傾げると、おじじ様は言った。
「ま、それは置いておいて…。栄華を極めた阿射加国が、滅んだのは、シロヒコ(師呂比古)とカヤヒメ(賀夜比売)という兄王と妹巫女が治めていた事のことじゃ。」

「シロヒコとカヤヒメねえ…、乱馬、知ってる?」
「知らねーよ!きいたこともねえ!」
 と乱馬は一蹴した。

「妹のカヤヒメ様の呪力は歴代の阿射加国の巫女の中でも、群を抜いておったそうじゃ。
 カヤヒメは暗い夜も天の太陽の光を照らす如くに聡明な比売様じゃったから、別名、「カガヤクヨルヒメ」とも称された。
 「カガヤクヨル」「カグヨル」「カグヨ」「カグヤ」「カヤ」と呼び名が縮まったとも云われておる。 兄のシロヒコも、頭脳明晰。情にも篤く、武にも優れており、完全無欠の統治を敷いていたということじゃ。」

「そんな、優れた王と巫女が居たのに、何でそいつらの統治していた時に、阿射加国は滅んだんだ?矛盾してねーか?」
 乱馬が問いかける。

「国が栄えすぎた…それが悲劇を呼びこんだんじゃよ。」
「あん?」
「栄華を誇った国だっただけに、その国土を欲しがった国が出てきてしまった…と言ったらわかり易いかのう。それは、阿射加より見て、西海に興り、瞬く間に東征してきた日向(ひむか)の国じゃ。
 しかも、悪いことに、日向国が侵略してきた時期と大陸国の皇帝が、不老不死の法を求めて、「青龍の棲む蓬莱嶋」へ臣下を派遣してきた時期とも重なってしもうた。」
「あん?中国の皇帝が不老不死の咒法を求めて、家来を派遣してきただあ?」
 乱馬がきびすを返すと、おじじ様は頷いた。
「この世の権勢を欲しいままにした王が次に目指すことは、老いとの戦いじゃ。人間は誰しも死から逃れることはでぬからこそ、不老不死へと恋焦がれるものじゃ。
 高宗とか言う名前の皇帝じゃったかのう。彼はわざわざ臣下の者を蓬莱嶋へと寄こしたのじゃよ。阿射加国には不老不死の法が存在するという言い伝えを信じてな…。
 大陸国の皇帝は、日向国の大王と結託した。日向国が阿射加を支配した後は、不老不死の法を解き明かし、大陸国へと与えるという盟約と引き換えにな。」

「おいおい、その、カヤヒメ様っつーのは、優れた巫女さんだったんだろ?巫女だったら、侵略者たちを、咒法で阻止できなかったのか?」

「何、簡単な事じゃよ。大陸国と日向の連合軍は、阿射加国のカヤヒメ様の施す咒法よりも優れた咒法を持っていた…それだけのことじゃ。」
「だから、どうやって乗っ取ったんだ?まさか、知らねーなんて…。」
「知らぬなどとは云わんよ…日向(ひむか)の大王(おおきみ)は、太陽の咒法を利用したんじゃよ。巧みにな…。」
「太陽の咒法?」
「日蝕(ひは)えを利用したんじゃ。」
「日食を利用したってーのか?」
「そうじゃ。日向の大王は、最先端の暦を大陸国の連中から教わっておった。…つまり、太陽が蝕(は)える日をあらかじめ想定して、動いたんじゃよ。」
 そう答えたおじじ様の横から、今度はあかねが乱馬に向かって口を開いた。
「日蝕えが日食のことだって、乱馬、何であんた、わかったのよ?あたしは、日蝕えなんて言葉、耳にしたことなんてないわよ。」

「あ…。えっと…そのー。」
 乱馬は答えに詰まった。紀氏の館で稚媛とやりあった時に石上麻呂に聞いたのだ。が、あの事件の真相を知らないあかねに、どう答えてよいやら、詰まったのである。
 日蝕えの皇女の稚媛様と檜隈女王に関わり、魂を抜かれそうになった乱馬は、できるだけ、その話題からあかねを遠ざけたかったのだ。下手に話すと、あかねを危険にさらすことになりかねない。そんな危惧があったからだ。
 答えに窮している乱馬を横に見て、おじじ様が助け舟を出した。
「大方、乱馬殿は、留守の司(つかさ)の石上麻呂の奴辺りから、聞いたのではないか?」
「あ、ああ、麻呂爺さんから聞いた。」
 乱馬は答えた。
「いつ、聞いたのよ?」
「ほら、俺だけ爺さんと一緒に行動してたときがあったろ?その時に教えてもらったんだ。」
 不機嫌そうに乱馬が言った。乱馬がこんな顔をするときは何かある。鈍いあかねも、乱馬のこととなると、多少鼻が利いた。
「何で、日食のことなんか、麻呂爺さんと話してたのよ…。」
 根ほり葉ほり、少しばかりしつこくあかねは問いかけてきた。
「おいおい、俺の話より、ここは、おじじ様の話を聞かなきゃだめだろーが。」
 乱馬はおじじ様を見た。
「そうじゃのう…。話が進まぬと、いつまでも寝屋へ入れぬぞ。」
 とおじじ様が笑った。
「とにかく、日向の大王には、既に暦を読み解く咒法があった。勝機は優れた咒法を持っていた方に上がったんじゃ。」
 と続けた。

「日本への暦の伝来って…そんなに昔のことだっけ?」
「俺が知るかよ!でも、この時代には既に、日食とかの天体異変は、計算できるようになってるみたいだぜ。」
「え?この時代…奈良時代って、すでに日食の計算ができるようになってるの?」
「ああ…。麻呂爺さんが言ってた。暦を計算するために陰陽寮があるんだってよー。」
 乱馬は既に、陰陽師の役目は、麻呂に話してもらっているから、少しは理解していた。


「今の倭国の陰陽寮では、隋国や新羅国、百済国の陰陽師によってもたらされた暦をさかんに研究しておるわい。」
「へええ…。ってことは、おじじ様も日食がお月さんに関係していることも知ってるの?」
「おいおい、古代人を馬鹿にすんなよ。あかね。」
 乱馬が苦笑いした。
「日食や月食のカラクリは、陰陽術師ならば、皆、知っておるよ。この大地から見て、太陽の傍を月が横切る時に、日が蝕すことはな…。そして、陰陽寮が計算して導き出した日食や月食の天体現象について、尊皇へと進言するのじゃ。」
「どうして、天皇に、日食や月食を進言するの?」
 あかねが不思議そうに問いかけると、おじじ様は言った。
「陰陽師からあらかじめ、天体現象を教えてもらえば、民に向かって、予言できるじゃろう?ワシはこれから太陽を隠す、と民に進言して、実際に太陽が隠れれば、どうなると思う?暦など知る由もない民は尊皇の予言能力を畏怖し、抗えなくなる。優れた尊皇として、あがめたてまつるじゃろうが。」
 とおじじ様は言った。
「それって、詐欺みたい…。」
 と感想を漏らすあかねに、おじじ様は続けた。
「太陽や月の正確な軌道を読み、暦を読み解く…。それを民に知らしめ、支配力を高める。これも、古からの王たる統治者の大切な役目じゃよ。
 太陽の神は、多くの国がそうであるように、阿射加国においても最高神じゃったからな。その太陽が急に翳ったのじゃ。カヤヒメ様が崇めて祀っておられた太陽が、急に蝕(は)えて光を失ったのじゃ。
 陰陽道のような暦の咒法を持たなかった阿射加国が、日蝕えに直面して、混乱に陥ったのは言うまでもなかろう。」
「阿射加のカヤヒメ様は、日食を知らなかったのかしら…。」
「さあのう…。知っておったとしても、突然の日蝕えに、恐怖のあまり、暴徒と化した自国の民を抑えることはかなわんかったろう。
 カヤヒメ様は、押し寄せた民衆に吊るしあげられ、命を落とされた。赤い血が神殿を染め、神殿は穢されたとも言われておる…。」
「そして、阿射加国は滅んだってことか?」
「ああ…。阿射加国はあっさりと、終焉を迎えてしまったんじゃ。支配者を自らの手で滅ぼした後は、あっさりと日向国へと、融合されてしまったのじゃ。…。じゃが、それだけで、事が終わった訳ではなかったんじゃ。」
 おじじ様は、目を見開いた。
「あん?」
「いや、むしろ、始まりじゃったのかもしれぬ…。」
 おじじ様はゆっくりと話し続ける。

「兄王のシロヒコは、聡明で美しい妹、カヤヒメを深く愛しておられた…。彼女導き出す神託を忠実に守り、賢帝とうたわれた王じゃった。民を愛し、国を愛し、そして妹を愛しておられた。それが仇となったんじゃよ。
 血まみれになった妹巫女のカヤヒメ様の屍(しかばね)を見て、シロヒコの心は壊れた。阿射加の王家に古くから伝わる、禁忌(きんき)の咒法、禁呪をかけたそうじゃ。」
「禁呪?」
「ああ。禁呪じゃ。それこそ、咒法を用いた人間が身を荒(すさ)ぶる御霊(みたま)を持つ白龍へと化身させる咒法。」
「白龍だあ?」
「そう、白龍神鬼じゃよ。龍神を崇める国じゃったからこそ存在した忌むべき咒法。
 そして、龍と化した兄王のシロヒコは、そのまま、隠(なばり)へと身を投じられたそうじゃ。」
「隠(なばり)?」
「ああ。阿射加の神殿がそびえていた地の底から深く広がる混沌とした闇の繭(まゆ)じゃ。その世界で、シロヒコは白龍となり、闇の力を蓄えておられるそうじゃ。時を凍らせたまま…な。混沌の眠りは怒気を増幅させる。阿射加の血を色濃く持つ者が隠の扉を開けば、闇を幾重にもその龍鱗へと纏わりつかせた龍神が飛び上がり、この八十島は、跡形も無く海に沈んで滅ぶ…。
 そう伝わっておる。」

 ふうっとおじじ様はそこまで話すと、溜め息を吐きだした。

「シロヒコだから白龍ってか?…なんか、アンチョコな名前の付け方だぜ。」
「こんなところで、不謹慎なこと、言わないのっ!」

「兄王シロヒコが姿をやつした白龍は、荒神(あらがみ)スサノオとの融合体じゃと言われておる。」
「荒神(あらがみ)スサノオ?」
「荒(すさ)ぶる神…そこからスサノオと名付けられたと言われておる。」
「この期に及んで、また、語呂合わせか?」
「…まあ、呼び名はともかく、スサノオは阿射加の神名の一つじゃ。
 スサノオは、数多の禍をも引き起こす神性じゃったが、転じて福と成すと、大地は栄え繁栄する。そう信じて、阿射加の巫は古代より龍神スサノオを祀っておった。
 阿射加国は滅んでも、その神は滅んではいない。今も、この倭国の下の隠(なばり)で、虎視眈々とこの国の抹消を狙っておるんじゃよ。」


「阿射加国なんて国の名前は知らないし…。スサノオだって、三貴神の一人として、信仰が篤いわよ。なんだか、あたしたちが知ってるスサノオと、違うわね…。」
 おじじ様の話を聞き終えると、あかねが、口を吐いた。
「おい、三貴神って何だ?」
「アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神よ。イザナミ尊が黄泉から帰ってきて、禊しながら生まれた貴い神で、神道の中心に祀られている神様たちよ。知らないの?乱馬。」
「んー、アマテラスくらいは知ってるぜ。確か、太陽の女神様だな…。」
 乱馬が頷くと、おじじ様は首を横に振った。
「これこれ、アマテラス神は太陽神ではあるが、決して女神などではないぞ。」
「あん?何でだ?太陽神は女性が相場じゃねーのか?」
「ええ?太陽の女神様って認識してますけど…。」
「確かに、アマテラス神は光り輝く太陽の神ではあるが、女性神ではないぞ…。」
「あん?」
「アマテラス神のことを、おぬしらが女神と思っておるのなら、それはどこかで捻じ曲げて伝わった幻影にしかすぎん。そもそも、太陽は荒々しく激しく照らしつける。女性的というよりは、男性的な性質を持っておる。それに、神は本来は性別を超えた存在じゃ。性別などない。」
「そういうものなのか?」
「何か、イメージがいま一つ湧かないわ…。アマテラスが男性的な神様だなんて…。」
「だな…、母神的な太陽神のイメージが強いぜ…。」
 乱馬とあかねが首をかしげた。
「でも、おじじ様がアマテラス神を知ってるってことは、この時代には、既に、祀られてるってことよね?」
「アマテラス神は日向の神じゃ。対する、ツクヨミ、スサノオはいずれも阿射加の神々じゃよ。それをうまく融合させて、大王家はこの倭国をうまい具合に統治してきたんじゃよ。」
 おじじ様は言った。
「え?」
「この国には、八百万の産土神(うぶすなのかみ)がいらっしゃる。土地には様々な産土神がいて、それを代々、連綿と祀ってきた。産土神は土地の神であると同時に、種族の先祖神にも等しい。
 阿射加国の人々は、龍神スサノオの他に、月神(げっしん)、つまり、月の神を祭祀しておったのじゃよ。
 月の満ち欠けにより、暦を読み解く…。それが阿射加国の暦法じゃった。総じて、ツクヨミと呼ぶんじゃよ。
 対する、日向は太陽神を祭祀の中心に据えておった。神名はアマテラス。煌々と空に輝く太陽の神じゃよ。」
「日向の中央神が太陽神なのは頷けるわ。でも、何故、ツクヨミやスサノオが、記紀神話に併記されているの?」
 あかねは問いかけた。

「何、日向国が阿射加国を併合したおりに、その信仰を併合し、支配に利用したんじゃよ。」
「あん?」
「日向国は隷属させた国を支配した時、アマテラス神を中央に祀らせる代わりに、その国独自に発展してきた神を並行して祀ることを許したんじゃよ。
 土着の神に寛容になり、信仰を許すことは、人民を従属させやすかったのじゃろうな。阿射加国の龍神も月神も、ちゃんと祀られることを許されておったんじゃよ。じゃから、スサノオもツクヨミも、アマテラスと共に、お主らの時代にまで、伝えられたんじゃろうな。」

「そんな話、きいたことあるか?」
「無いわね…。」

「日向の首長であった大王家は、巧みに太陽神アマテラスを己が統治の中心に据え、それを祭祀することで、この倭国を栄えさせてきたんじゃ。一方、阿射加国の祭祀制度を巧みに発展させたんじゃ。女巫を大いに活用したんじゃよ。
 大王家は、阿射加に根付いていた「斎王制度」、つまり、王の親族を巫に仕立て上げ、神を祀ることをうまい具合に取りこんだんじゃ。そして、国家安泰や豊作祈願などの祈祷を、代々、連綿と行ってきた。
 大王家は優れた祭祀の一族じゃったんじゃよ。」
「大王家って…天皇家…のことよね。」
「ああ…。多分…な。」
「元々、大王家は並はずれた呪力を持っていた一族。その祭祀の力を弱めぬために、純血を重んじ、同族同士の婚姻を繰り返したが、世は移り、同族婚のしきたりも薄れるに至り、結果「大王家」の咒法の力も弱まり、祭祀の能力も失われていったのじゃ。時の流れと共に大王家に流れ込んだ他家の血が、祭祀の王としての大王家の血が薄めてしまったのじゃろうな…。
 やがて、祭祀者として呪力が弱まり始めた大王は、「祭祀能力」の優れた者を近習に置いて、利用せざるを得なくなった。彼らは陰陽寮などの祭祀集団を形成し、それぞれ得意とした呪術を用いて、大王家を助けた。」
「大王家を助けるねえ…。陰陽師が…。」
「陰陽師によってはじき出された、天文の動き、例えば、日食や月食をさも、大王が占い導いたかのように予言して見せるとどうなる?民は大王の大いなる先見の力に平伏し、畏怖するじゃろう。さすれば、大王の支配力は否が応でも高まろうが…。」
「それって、何か、騙してるみたいじゃねーか…。」
「ほっほっほ、暦を最大限に利用し活用しているんじゃよ。陰陽寮の根本は、そもそも、大王家のために創設された役どころじゃからな。今の形に、きちんと整備されたのは、壬申の乱後、大海人皇子様じゃったがな。
 無論、太古より、様々な咒法を用いて、代々、大王家の祭祀を助けていた氏族もいた。」
「例えば?」
「師魂(ふつのみたま)を預かる物部氏、これは石上麻呂の氏族じゃな。水の神を祀る中臣氏、山の神を祀る紀氏、などの氏族がそうじゃ。小角(おづぬ)に代表される葛城系の巫(かむろぎ)の役(えだち)も利用された…。他にも当世の柿本佐留のような言霊を操る者も居る。」

「柿本氏…?…柿本人麻呂なら知ってるけど…。」
 あかねが怪訝な顔をすると、乱馬がさらりと言った。
「柿本人麻呂の別名が柿本佐留っていうんだってよー。同一人物のことらしいぜ。」
「嘘…。」
「嘘じゃねーっつのっ!」
「何であんたがそんなこと知ってんのよ。」
「麻呂爺さんに教えてもらった。人麻呂が公的な晴の場での名で、佐留ってのが通称だったらしい。…でもって、佐留は麻呂爺さんの知り合いでもあるらしいぜ。」
 乱馬が横から茶々を入れた。
「そーなの?」
 あかねが驚いた表情を乱馬へと手向けた。
「ああ、嘘言っても仕方ねーだろ?」

「柿本佐留なら、ワシも良く知っておるよ。面白い奴でなあ…。有能な言霊使いじゃった。」
「言霊使い?」
 と問いかけたあかねに、脇から乱馬が答えた。
「言葉に宿る霊力を駆使して、いろんな術を施した呪術師のことらしいぜ…。」
「何で、あんたがそんなこと知ってるのよ?」
「だから、麻呂爺さんに聞いたんだってば!」

「そういえば、佐留は、「夜見媛(ヨミヒメ)」のことを熱心に探究しておったのう…。」
 ふと思い出したように、おじじ様が言った。

「夜見媛?」
「夜見媛…すなわち、太陽神を葬る力を秘めた日蝕媛(ひはえひめ)のことじゃ…。」
「日蝕え媛?やっぱり日食と関係あるの?」
 あかねが問いかけた。
「太陽を忌む日、つまり日蝕の時に産声を上げた大王家の娘…。この日に生まれた大王の娘の皇女や、孫の王女は、押し並べて、魂依り、魂振りに代表される、人の魂を黄泉へ誘い、正確に物事を読む占いの力に秀でた黄泉の力を持った闇の巫女(ふじょ)の力を持つと言われておるんじゃ。」
「稚媛…のことか…。」
 乱馬はあかねが聞こえないくらい小声でポツンと吐きだした。
「乱馬?今何て?」
 聞き取れなかったあかねが、問い返してきた。
「いや…。何でもねえ…。爺さん、話を続けてくれ…。」
 乱馬はぐっと言葉を飲み込んだ。稚媛のことだと、瞬時に察したが、あかねはその事実を知らない。知らせてよいのか、現時点ではわからなかったので、言葉を飲み込んだのである。

「佐留の奴は優れた言霊使いの術者でなあ、言霊の術を極める中で読み耽った、奴の祖先が残した古い書物の中で、阿射加国や荒神スサノオの事を知ったらしいわい。そして、夜見媛の能力こそ、隠(なばり)への扉を開けてしまうかもしれない…と若いころから言っておった。」

「なあ、爺さん。隠(なばり)への扉…そいつが開くとどうなるんでい?」
「当然、封印されていたシロヒコの咒法が解き放たれる。この八十島を構成する龍神が暴れ、地は震え、火の山は吹き出し、そして大海の波が倭国へと押し寄せ、倭国は跡かたもな地の底へと消え去る…と言われておる…。」
「つまり、隠(なばり)の扉が開いて、龍が飛び出すと、天変地異がそこここで沸き起こる…ということだな。」
「そういうことじゃな…。」
「何か、ピンと来ねーな…。」
「んー、確かに、非科学的すぎる話だしね…。」
 あかねと乱馬は口々に感想を述べたてる。
「第一、俺たちはこの時代から千三百年後の世界に生きてるんだぜ…。ってことは、少なくても千三百年は倭国が安泰できたってことになるじゃねーか…。」
 と疑問を並べたてそうになった乱馬を、おじじ様は制しながら言った。
「スサノオの力は時空を超えるとも言われておる…。」
「時空を超える?」
「ああ、奴が本気を出せば、過去、現在、未来…全ての時空で崩壊が始まり、全てが灰塵と化すと言われておる…。」
「つまり、俺たちの時代も崩壊するってか?」
「そういうことじゃ…。龍穴が開きスサノオが解き放たれれば、この八十島の国の歴史は過去から未来にわたって、全て消え去るとまで言われておるんじゃ。」

 乱馬とあかねは互いの顔を見合わせた。
「本当かよ…。」
「信じられないわ。」
 二人、良くわからないという顔を、おじじ様へと転じる。



二十八、百年前の悲劇


「実は、今から百年ほど前、日蝕えの女王(ひめみこ)によって、一度、隠(なばり)への扉が開きかけたことがあったのじゃよ。」
 おじじ様は、乱馬とあかねを見比べながら言った。

「あん?」
「この時代から百年ってことは…えっと、七一三年として、百年前の六一〇年頃…っていうと…。」
 指を折る乱馬を横目に、おじじ様は遠い眼をしながら、淡々と話し始めた。
「六一〇年ってぇーと?」
「あれは確か、炊屋姫皇女(かしやきひめのみこと)様の御代じゃったな…。女帝を男巫(おとこかむろみ)の、厩戸皇子がその政を助けておった時代じゃ。」
「炊屋姫皇女って?」
「うーん、厩戸皇子は聖徳太子のことだから、多分、推古天皇のことね。」
 あかねは答えた。
「聖徳太子って、厩戸皇子っていうんだっけ?」
「忘れたの?そのくらい、一般常識だけど…。」
「知らんぞ、んな常識。」
「あんたに常識がないだけでしょ?」

 そうコソコソ話をする二人を、おじじ様はわざと大きな咳ばらいをしてチラリと見やった。静かにしろという意思表示だ。乱馬もあかねも首をすぼめて、再び、おじじ様の話に耳を傾け始めた。

「厩戸皇子様は聡明な御方でな、大王様が女だったゆえ、本来ならば女がする斎王のお立場を、彼が担っておられたんじゃ。つまり巫王(かむろみのおう)…じゃな。」
「あん?」
「倭国の祭祀は、男王と女斎王の二人で陰陽の釣り合いをとり、なされてきたんじゃよ。大王様が女帝だったゆえ、斎王は立てられず、その役目を、厩戸皇子様がはたしておられたんじゃよ。
 というのも、厩戸皇子様は有能な言霊使いじゃったからのう。男としては珍しい程に、壮大なる巫(かむろみ)の力を持たれていたのじゃよ。稀に見る、呪力を持ち合わせておられた…。
 厩戸皇子様は若いころよりあらゆる言祝ぎを行い、当時の大王だった炊屋姫尊様の信用も絶大じゃったのじゃ。まあ、いわば、古来からの王権保持の姿の男女逆転型というかのう。女の炊屋姫皇女様が大王に、そして、男の厩戸皇子様が宮廷の巫という形で政が進められておったんじゃ。」
「聖徳太子が巫ねえ…。」
「んー。あんまりイメージできないわ。」
「それはさておき…厩戸皇子様の家系に、偶然、生まれたんじゃよ。ツクヨミの力を宿した娘が…。
 厩戸皇子様の父君は大王だった御方だった。つまり、その娘は確実に大王の血を引いている女王(ひめみこ)じゃった。」
「っていうことは、ツクヨミの力を内包しているってことになるのか…。」
「そういうことじゃ。すぐさまその、尋常ならぬその子の能力に気がついた厩戸皇子様は、その子の力の源について調べて回られた。元々、探求心のお強い方じゃったから、様々な書物や伝承を片っ端から紐解かれたそうじゃ。
 そして、その娘の力が「日蝕の日」に生まれた大王家の血筋の娘に宿るツクヨミの力と突き止められた。
 一緒に調べられた皇子の側近の方々は、その娘の忌まわしい力を知ると、口をそろえて、闇の力が目覚める前に、その子を殺すように進言なされた。」
「子殺しか?あんまり気持のよい話じゃねーよな…。」
「そうね…。倫理的にどうかしらねー…。」
「厩戸皇子様は悩み抜いた末、その子の能力を抑えながら育てるという選択をなされた。
 天神地祇のみならず、み仏の教えにも感応されるほど慈悲深かった厩戸皇子様には、その子を殺せなかったんじゃよ。巫としての己の能力を、その子に注ぎ、ツクヨミの力を抑える。そう決意されたんじゃ。
 炊屋姫様の次の皇位にも望まれていたにもかかわらず、厩戸皇子様は飛鳥京からも離れ、寺までお建てになって夜見媛様と共に斑鳩の地へ隠棲されてしまった。飛鳥のことは、豊浦大臣(とゆらのおとど=蘇我蝦夷)に任せてな。
 じゃが、それでも悲劇は防ぎきれんかった…。」
「悲劇?」 
 おじじ様はゆっくりと言葉を巡らせながら、話を続けた。
「厩戸皇子様は、四六時中、一緒にいれば、夜見媛の力は覚醒しないと、信じておられた。
 そう、厩戸皇子様は夜見媛の力を見くびっておったのじゃよ。皇子自らが優れた巫だったゆえ、夜見媛の力を制御し封じることができると過信してしまわれたのかもしれぬ……。
 いや、実際、厩戸皇子様が生きていらした頃は、その呪力で夜見媛の力は抑えられていた。が、ある日、唐突に、厩戸皇子様は卒されてしまったんじゃ。」
「卒すって?」
「お亡くなりになられたんじゃよ。俄かに病が起こり、あっという間にな…。」
「俄か病ねえ…。脳卒中か心筋梗塞の類かな…。」
「或いは、夜見媛様が厩戸皇子様の魂を抜き去ったのかもしれぬ。」
「どういうことです?」
「夜見媛の恐ろしさは、生きた人間から魂を抜き去る力にある。」

「魂を抜き去る…。」
 乱馬は、「あの夜」の感覚を思い出していた。稚媛の鏡に吸い寄せられ、魂が激しく慟哭し戦慄したあの刹那を…。

「どうしたの?」
 乱馬の様子が変わったのに気付いたあかねは、声をかけてきた。
「いや…。別に…何でもねー。」
 乱馬は振り切るように声を絞った。

「厩戸皇子様が身罷られてすぐ、後を追うように、その妃の一人も身罷られている。じゃから、或いは、夜見媛様が皇子の死に大きく関わっていると思っても、良いのかもしれん。
 が、夜見媛様は、厩戸皇子が卒されたドサクサに紛れ、行方不明になられてしまった。」
「行方をくらませたっていうのか?」
「ああ…。誰かが夜見媛様をさらったのか、それとも己の意志で斑鳩を出ていかれたのか…。
 その後、暫くは、夜見媛様は姿を見せなかった…。そのまま、数年の年月が流れたんじゃ。
 そして、炊屋姫尊様が亡くなられ、次の皇位継承争いが勃発しそうな、そんな不穏な空気が飛鳥に流れていた頃…。唐突に夜見媛様はその姿を現したそうじゃ。」
「あん?」
「夜見媛様は鬼神の如く斑鳩の里に現れ、山背皇子様をはじめとした上宮王家の者たちの魂を、矢継ぎ早に抜き始められたそうじゃ。
 斑鳩の里はそれは、ひどい有様じゃったそうじゃよ。夜見媛様は兄の山背皇子様を初めとして、厩戸皇子様の一族郎党、家人に至るまで、生きたまま、魂を抜きまくられたそうじゃ。」
「何のために、そんなに魂を抜いたんだ?」
「夜見媛様を擁(よう)して、隠(なばり)を開こうとした者がおったそうじゃ。」
「あん?夜見媛様を擁しただって?」
「隠(なばり)への扉を開くためには、それ相応の力が必要じゃと言われておる。人の魂はその力の格好な源になる。
 夜見媛様を使い、一度にたくさんの人々の魂を抜き去り負の力に変換し、それで、隠への扉を開こうとした者が居たんじゃよ。
 その日、斑鳩の里の天は闇色に染まり雷鳴がとどろき、地は震え始めた。そう、龍穴が時空の中で、不気味に蠢き始めたんじゃ。
 豊浦大臣、蘇我蝦夷様は、いち早くその異変に気付かれた一人じゃった。
 たまたま斑鳩を訪れていた蝦夷様は、夜見媛の狂気を目の当たりにされた。一か八か、蝦夷様は、自分に仕えていた倭国きっての術者と共に、蘇我の宝剣を手に、夜見媛様を滅されたんじゃよ。」
「滅されたっていうことは、夜見媛は不死身ではないのよね?」
 あかねが尋ねた。

「無論、夜見媛も血の通った人じゃからな。
 蝦夷様の活躍で、何とか、倭国は守られた…。じゃが、悲劇はそこで止まることはなかったんじゃ。」
 おじじ様はふうっと、一つ、溜め息を吐きだした。
「夜見媛の存在など、市井の人々には伝わっていなかったゆえ、斑鳩の里の惨状を目の当たりにした人々は、蘇我氏が山背皇子様の一族を滅ぼしたように見えたのじゃな。
 人の口は戸が立てられぬからな。山背皇子一族の滅亡は、蘇我氏の仕業として、国内を駆け抜けて行ったんじゃ。否定しようにも術が無かったからのう…。」
 おじじさまは、乱馬とあかねを見比べながら、ゆっくりと語り続けた。

「上宮王家の悲劇は、蘇我と対抗する勢力に、蘇我氏を滅ぼす絶好の口実を与えてしまったんじゃ。
 その後、葛城皇子と藤原鎌足が結託し、入鹿様は謀殺され、その父、蝦夷様も自刃して果てられた。
 そう、厩戸皇子様の上宮王家も蘇我本宗家も、この倭国から消えてしまったのじゃよ。…まさに、皮肉な話じゃな…。これも、夜見媛の引き起こした災厄だったのかもしれぬ…。」

「もしかして…それが、大化の改新の全容…。なあ、日本史の授業で、今、聞いた風に習ったか?」
「まさか!推古天皇の死後、皇位を巡って対立した、蝦夷入鹿親子が山背大兄皇子を誅殺したって伝わっているわ。そして、それが、蘇我一族を滅ぼす源になったって…。蘇我氏のやり口に我慢ならなくなった、中大兄皇子と中臣鎌足が結託して、入鹿を宮廷内でだまし討ちしたって…そして、大化の改新を行ったって…。そう習ったわ。
 第一、そんな、根も葉もない話を、史学界が認める訳、ないじゃないの…。」
 あかねが言った。
 当然、ツクヨミの力のことも、夜見媛のことも伝わってはいない。ただ、聖徳太子亡きあと、政争があり、上宮王家は蘇我氏に滅ぼされてしまったことと、目に余る蘇我氏のそういった横柄な態度に、中大兄皇子と中臣鎌足が結託して、宮中の皇極天皇の目前で、蘇我入鹿を惨殺したのが、乙巳の変、つまり、大化の改新と伝わるのみである。蝦夷は息子の死を知り、自宅に火を放って自刃して果てたそうだ。そのあたりも、記紀ではぼかされていて、本当のところは闇の中であると言っても良い。

「どっちにしたって、嫌な話だよな…。」
「そうよね…。」
 暫しの沈黙の後、乱馬とあかねは、互いの顔を見合せながら、吐き出すように言った。
「で?誰なんだ?聖徳太子の時代に、隠(なばり)の扉を開こうとした奴ってーのは…?」

「結局、わからずじまいじゃった。そう、上宮王家の滅亡の背後に、隠(なばり)開こうとした不穏な勢力があったことを、知る者は皆無と言っても良かろうて…。」

「黒幕の存在…ってか。もしかして、そいつらが、俺たちのタイムスリップと絡んでいるのかもしれねー。爺さんはそう思ってるんだよな?」
 乱馬はおじじ様を見つめ返した。

「お主らがこの時代に現れたのも、隠(なばり)に絡んでおる…とワシも石上麻呂同様、そう思っておるよ…。ツクヨミの力を持った媛も出てきてしまわれたしのう…。」
 おじじ様は言った。
「ツクヨミの力を持った媛…ねえ、それって、稚媛様のことなのよね。乱馬。麻呂爺さんはそう思っているんでしょ?」
 あかねの瞳は真摯に乱馬を捕えた。誤魔化させないわよという、強い光を伴っていたのだ。
「ああ…多分…な。」
 乱馬はボソッと答えた。

「そなたたちをこの世界へ導いたのは…柿本佐留の仕業じゃと、ワシは睨んでおる。」
 おじじ様は言いきった。
「柿本佐留…。」
「当世で、召喚咒法を使える術者は、柿本佐留くらいのものじゃ。」
「でも、その佐留って奴は、死んだんじゃねーのか?」
「確かに、ここ数年、奴の姿を見ておらぬ…。最後に公の前に現れたのは、言祝ぎの歌を謡いに平城京へ遷都した時じゃな…。それ以降、ふっつりと奴の消息は途切れておる。死んだという話もささやかれておるが、その確たる証拠もない。まだ、どこかで生きておるかもしれぬ。」
「まーた、希望を持たせるようなことぬかしやがって。」
「考えてもみられよ。死んだ人間が、おぬしらをこの時代へ召喚することなどできぬぞ。」
「!」
 乱馬はハッとおじじ様を見た。
「もし、おぬしらを召喚したのが佐留なのであれば、奴は生きておると考えた方が妥当じゃ。」
「じゃあ、何で、姿を現さねー?」
「現したくとも出来ぬ事情があるのではないかのう…。」
「事情ねえ…。誰かに拉致されたとか…。」
「いずれにしても、この国を救うかそれとも滅びへ導くかは…お前さんがた次第じゃ。
 夜見媛様の強大な力を利用し、誰かが隠(なばり)を開けば、荒神スサノオが跋扈する。
 下手をすれば倭国は崩壊。おまえさんたちの帰るべき国も場所も、この世から消えて無くなるじゃろう。」
「脅かすなっ!」
「脅かしてなどはおらぬ。既に、ツクヨミの力を持つ、稚媛様と出会ってしまったおまえさんたちじゃ。いずれ遠からず、「隠(なばり)」と関わりを持つのは自明の理。これも宿命…。」
「責任、重すぎるぜ。そんな言い方されちゃ。」
 乱馬が苦笑いしながら、おじじ様を見返した。
「どうやら、隠(なばり)の扉を開きたがっている奴は、とんでもない陰謀をたくらんでおるのかもしれぬ…。麻呂の奴も、そんなことを言っておったわい…。」
「どんな陰謀だ?」

「わかっておれば、苦労はせんじゃろうて…。」

 おじじ様は、そこまで話すと、再び、酒へと手を伸ばし、ぐいぐいと飲み始めた。

 その様子を見ながら、あかねが問いかけた。
「ねえ…おじじ様って、麻呂爺さんとどういう知り合いなんですか?」
「ほっほっほ、石上麻呂とは、若いころから、柿本佐留ともども、いろいろ腐れ縁が続いておるんじゃ…。」
「お友達…ですか?」
「そんなところかのう…。共に切磋琢磨した友でもあり敵でもあったからのう…。」
「あの…おじじ様っておん年、おいくつくらいなんですか?」
 あかねが脈絡を切って、唐突に訪ねた。

「百歳は越えとるよ…。」
「ひゃ、百歳ですか…。」
「ワシは上宮王家と蘇我氏の滅亡も、近くで見ておったからのう…。」
「あん?」
「おうさ…。あの騒動が起こったその頃、ワシは蘇我蝦夷様にお仕えしておったのじゃ…。」
「っていうことは、さっきの聖徳太子や蘇我氏滅亡の話は、嘘じゃねえってことだよな?」
「嘘など一つも言ってはおらん。」
「なるほどねえ…。だから、蘇我氏の館のあった、この甘樫の丘に暮らしてるのか…。」
「蘇我氏の館?」
 あかねが驚いて乱馬を見た。
「ああ…ここへ来る途中、浅人がそう言ってた…。この甘樫丘の東の麓にある廃墟は蘇我氏の館だったらしいぜ…。」
「そうじゃ、この甘樫丘の東麓は蘇我蝦夷様の建てた屋敷があった。この蘇我の屋敷があった地を無下に荒らされぬように…ワシらは見護っておる。真神一族一同でな…。それが蝦夷様の最後の望みだったゆえ…。」
「最後の望み?」
「ああ、葛城皇子と藤原鎌足が仕掛けてきた兵士たちに、蘇我氏が斃された時、覚悟を決めた蝦夷様に遺言されたんじゃよ…。この甘樫の地を護ってくれ…とな…。」

 何か得体のしれない陰謀が、背後で跋扈している。
 乱馬は軽い戦慄を覚えた。その陰謀が、自分やあかねをこの時代へと引き寄せた…恐らく、それは間違いがないだろう。

「まあ、いずれにしても、おぬしら男女二人が、鍵を握っておることは確かじゃな。」
「でもよー。未来から召喚されたのは、俺たちだけじゃねーぜ…。」
 乱馬が腕を組みながら言った。
「なっ、何?他にもおるのか?」
 おじじ様は驚きの声を張り上げた。
「ああ…もう一人…。同じ時代からこいつの姉、なびきが召喚されてる。」
 と言った。
「もう一人…か。それは、面妖じゃな…。陰陽、それぞれ一人が召喚されたと思っておったが…。召喚されたのが三人…か。解せぬな…」
 おじじ様は考え込んだ。
 と思わず、乱馬は問いかけていた。
「やはり、一筋縄ではいかんか…。」
 と吐き出した。

「なあ、爺さん。今一度尋ねるが、俺たちを召喚したのは、柿本佐留だと思って良いんだな…。」
 乱馬はジロリとおじじ様を見た。
「ああ。奴の生死はわからんが、奴の意志が強く働いておると思うぞ。時空を開く術をこなせるのは、柿本人佐留くらいしかおらんじゃろう。役小角(えんのおづぬ)から直伝されたその術を扱えるのは、佐留のみじゃ。」
「役小角…役行者のことよね…。」
 あかねが頷いた。奈良時代初めごろに活躍した修験道の創始者だ。
「佐留は役行者に時の操作を教わったと、言っておったことがあった…。」
「その…何とかの行者ってのが俺たちを召喚したとかいうことはねーのか?」
「それはなかろう…。役行者は死に際し、佐留に術を伝えたと言われておる。大がかりな術は、口伝であり、同じ術を扱える人間は一人しか存在せぬ。つまり、同時に存在できんのだよ…。役小角は佐留に術を口伝した後、間もなくして入滅したそうじゃ。」
「へええ…。そうなんだ…。役小角がそんな術を知っていたんだ…。」
「ってか、あかね、おめー、その小角とか言う奴のこと知ってるのかよ?」
「まあね…。修験道の創始者とも言われる人よ。陰陽師の安陪清明のように、様々な創作物の中で超能力者として語られることが多い、伝説的な人物よ。歴史の時間に、余談で先生が話してくれたわ。乱馬は、夢の中だったんでしょうけどねえ。」
 とあかねは笑った。

「それから、もう一つ…。おぬしらの召喚は、佐留だけが関わったのではないかもしれぬぞ。」
「あん?」
「奴の背後に、他の者の意志も、強く働いておると見た方が、理にかなう…。」
 目の前で、パチンと焚き木が割れた。押し出された火の粉が上に上って行く。それを目で追いながら、おじじ様は静かに言った。

「他の者の意志…。」
「味方か敵かはわからんがのう…、或いは、上宮王家の滅亡に関わった、影の存在…つまり、隠(なばり)を開こうとしている者の意志もかかわっておるかもしれんわい。」
「それって、どんな奴なのか、何のためにわざわざ隠(なばり)を開こうとしているのか、おじじ様には見当がついてねーか?」
「さあのう…。そこまではわからん。じゃが、今、懸命に、麻呂の奴が探っておるじゃろう。そろそろ、その正体が明るみに出てくるころではないかのう。」
「麻呂爺さんか…。」
 乱馬は黙り込んだ。麻呂爺さんは現在、行方をくらませてしまっている。
「お主らがここ、甘樫丘へ居るのは、陰陽寮の連中も知っておろうから、何、そのうち、麻呂の奴がひょっこり、ここに現れるじゃろうて。そう焦りなさるな。まあ、なるようにしかならんのじゃからな。」
「何だそりゃ…。無責任だな。」
「思い悩んでも仕方あるまい。今夜は、暖を取って、しっかりと眠り、体力を温存することじゃな。体を壊しては何もならん。戦士たるもの、いつでも戦えるように、万全を期すものじゃ。」
 おじじ様はふわあっと背伸びしながら宣言した。
 傍で聞き言っていた浅人は眠気に勝てなかったようで、すやすやと眠り呆けている。
「そろそろ夜も更けて来た。この話はここまでじゃな。」
 そう言うと、おじじ様は乱馬とあかねを交互に眺めながら、にんまりと笑った。

「おぬしら…。童貞と処女じゃろ?」

「なっ!」
「はっ?」
 二人、何を言い出すかと、目を吊り上げた。それを制しながら、おじじ様は笑った。
「はっはっは。図星か!将来を誓った仲というのに、何と、晩熟(おくて)な事じゃ。それに、互いに、他の女も、他の男も知らぬとのう…。珍しや…。」
 目の前でにこやかに笑いだした。

「ほっとけっ!」
「やめてくださいっ!からかうのはっ!」
 互いに、顔を火照らせながら、抗議する。

「別にからかっておるわけではないぞ。良い機会じゃ…。この際、どうじゃ?ここで初夜を迎えるというのは?あの中に寝床を用意してあるぞ。」
 からかい口調で二人を誘ったのは、片隅にある小さな竪穴式住居。作りたての感じがする。恐らく、速人の婚姻のために作られた新居だろう。
 乱馬もあかねも、顔を真っ赤にしたまま、固まってしまい、二の句がつげない。
「ま、今宵、深く契って夫婦となるか、それとも、契りをせずに一夜を過ごすか…。まずは自分たちで良く考えて選びなされ。未来は自分たちで決める…それしかなかろうで…。ほっほっほ。今、ワシに進言できるのはそれだけじゃ。では、ワシは眠るとしよう…。」 
おじじ様は高らかに笑うと、右手を後ろに振り、そのまま、己の住居へと消えて行く。
 そして、おじじ様は乱馬とあかねに聞こえないように吐き出した。

 住居の中に入ったおじじ様は、奥の方へ向かって、そう声をかけた。
「これで良いのじゃな?…麻呂よ…。未来はあの子たち自身が決めること…。」
 それに反応して、声が聞こえた。
「ああ…。これで良い。」
 すっとそこに人影が立ち、石上麻呂が現れた。
「でも良いのか?あの二人が契るということは、隠(なばり)の扉が開かれてしまった場合、それを閉じる術(すべ)を失うことになるやもしれぬぞ…。」
 おじじ様は麻呂に向かって言った。
「おいおい、まだ、隠(なばり)が開くと決まった訳でもないぞ…。」
「しかし、こじ開けられたらどうする?隠(なばり)を閉じる術を失うということは、倭国の滅亡を意味するのじゃぞ。」
「それもわかっておる…。じゃが…。あの子たちの未来はあの子たちのものじゃ。選択肢が無いのはどうかと思うてのう。」
「おぬし、相変わらず、優しいのう…。麻呂…。隠を開かれては、あの子たちの未来も無くなるのではないのかのう?
 おじじ様の言葉に、麻呂は眉を動かさずに答えた。
「いや…。優柔不断なだけじゃよ。まだ、迷っておる…。」
「その迷いを断ち切るために、あの子たちに選ばせるとでもいうのかのう…。」
「否定はせんよ…。」
 麻呂は小さく言った。

「で?佐留の残した痕跡をたどって、何かわかったのか?」
 おじじ様は麻呂を見やった。
「ああ…。後ろに蠢く魑魅魍魎たちの正体と目的が少しばかりわかった…。が、まだ、全部、わかったわけではない。もう少し、詰めて調べなければならぬことがある…。 
 伝説の裏に巧みに隠された陰謀が、もう少しで解明できそうなんじゃよ。
 佐留がワシらに伝えようとしていることも、やっと見えてきた…。」
「そうか…。」
「あの子たちがどのような未来を選ぼうとも…。ワシがこの国を守る歩みはやめんよ…。あの方との約束もあるからのう…。」
「約束か…。」
「では、後は任せたぞ…。真神の長、真人よ。」
 そういうと、麻呂の気配は夜陰へと消えて行った。

「たく…。厄介事しか持ち込まんのう…。佐留も麻呂(おまえ)も…。」
 おじじ様は人気がなくなった壁に向かって、そう、呟いていた。

 
 辺りからは、いつの間にか、真神の里の人々の姿も消えていた。狼たちもねぐらに入ったようで、眠りに包まれている。真ん中の焚き火だけが、細々と炎を揺らせているが、消え去るのも時間の問題だろう。
 里の人々は、深い眠りに入っている様子だった。後片付けはお天道様が昇ってからする、そんな感じで打ち捨てられた残飯や食器類だけが残されていた。




二十九、真神の夜


「で…。これが寝床な訳ね…。」
「みてーだな…。」

 入口に垂らされていた真新しい布地を上に引き上げると、チロチロと小さなが炎が燃えている。上に組まれた柱から鉄製の灯篭が掛けられている。
 ならされた土の上に設えられた、床を発見した。藁を積み上げ、その上から布をすっぽり被せ、さながら、柔らかい野生ベッドの仕様になっている。二人一緒に横たわるのには少し小さめのダブルベッドだった。すっぽりと抱き合い、眠るのにちょうど良いくらいの大きさ。シーツのように、何やら幾何模様がある布が、藁の上に敷かれていた。見ようによっては、何かの式陣にも見える。
 他には、何も無かった。こんな小屋にありそうな、竈(かまど)や炉端(ろばた)すらなかった。
 当然、他に調度品もなく、ベッドの他は土間だけ。そう、身体を横たえられる空間は、中央のベッドしか見当たらない。二人、頭を突き合わせて、一緒に眠るしかない、心細い空間であった。

「あのよー…。」
「あのさー…。」
 二人、共に口を開いたが、それ以上、言葉に繋がらない。
 心音が口を飛び出して聞こえてきそうなくらい緊張している。

「朝まで起きるのも何だから…横になるか…。」
「そうねー。風邪をひいたら洒落にならないものね…。」
 そう言いながら、一緒にベッドへと上がり込む。
 ベッドといっても、藁あつらえだ。横たわった途端、身体が沈み込み、上体がピッタリと触れ合った。
「わ、わわわ。」
「いやん!」
 放り出されそうになった互いの身体を、グイッと掴み取る。
 乱馬はあかねを、あかねは乱馬を、抱きとめるように触れ合った。汗臭い互いの体臭。風呂に入っていないから、互いの匂いが鼻に飛び込む。いや、かえって、それが艶めかしい。

 どっくん、どっくん。
 自然、心音が響き出す。

 このまま、あかねの身体へ貪りつきたくなるような欲望を、グッと抑え込むのは、思った以上に大変だった。今は、女に変身していない自分が、疎ましいくらいだった。
 固く膨らんだ男の印。それをなだめるのが、大変だった。

 一方のあかねの心音も異様なくらいに高鳴っていた。男に戻った乱馬の、想像以上の逞しい肉体に蕩けそうになっている己を発見したからだ。息も近い。汗ばんだ身体に貪られたい、そんな欲望を、抑えこむのは、彼女とて容易ではなかった。

 無言の時が、二人の上を流れて行く。

 鼻先に、触れてくるあかねの細くて短い髪。
 近過ぎる、熱い吐息。そして、潤んだ瞳。
 望めば、熱い互いの肉体が、手に入るだろう。理性を取っ払ってしまえば、欲望で火照った身体を満足させられるだろう。
 手を伸ばせば、すぐそこにある愛しい女の肌。

 狂おしい程の、誘惑に、必死で抗う乱馬が、そこに居た。

『契ってしまえ。そうすれば、楽になる…。』

 どこからともなく、誰かの声が、理性を振り絞り本能と抗う乱馬の耳元に囁いてきた。
 男なのか女なのか、正体はわからない。
 或いは、乱馬の本能の呻き声だったかもしれない。
(楽になる…どういう意味だ?)
 ハッとして、響いた方へ問い質した。が、返答は無い。
(幻の声?)
 そう思った瞬間、真神の爺さんが言った言葉が、脳裏に浮かんだのだ。
『今宵、深く契って夫婦となるか、それとも、契りをせずに過ごすか…。まずは自分たちで良く考えて選びなされ。未来は自分たちで決める…それしかなかろうで…。』
 何げに意味深な言葉だった。

(まさか…じじいの奴…。)
 そう思いながら、我に返った。
 思いとは裏腹に、乱馬の手はあかねの腕を掴んでいた。
「ご…ごめん。」
 慌てて、手を放す。が、身体の密着度が緩和されたわけではない。
「あ…うん。」
 あかねの小さな返事が耳元で揺れた。

(このまま、あかねを抱きたい…。)
 押し寄せてくる欲望。と、今度は別の誰かが乱馬の脳裏に囁いた。
『契ったが最後、この世界から抜け出られぬが、それでも良いのか?』
 脅すような言葉だった。
 その声に我に返った乱馬は、あかねから背を向けた。くるりんと寝返ったのだ。

「乱馬?」
 急な彼の反応に、驚いて小さく名を呼んだ。

「ごめん…。俺、このままだと、おまえを壊しちまいそうだ…。」
 乱馬は後ろから静かに言葉を紡ぎ出す。
「え?」
「俺…。その…何だ…。ここでおまえに手を出ちしまうと、止めようが無え…つーか…その…。」
 戸惑いながら、吐露する心情。
「どうして?」
「だからさっきから言ってるだろう?…俺はおめーを壊したくねーんだ!」
 語気を荒げて乱馬は吐き出した。
 その語気にあかねがビクッとなったのを背中越し感じた。

「ごめん…。」
 思わず謝ってしまう。
 気不味い沈黙が暫く続いた後、乱馬は静かに口火を切った。
「…その…ちょっと気になることがあるんだ。だから、意気地なしって思うなよ…。これから話すこと、言い訳として聞くんじゃねーぞ。」
 とまず釘を刺しにかかった。
「何よ、藪から棒に…。」
 戸惑うあかねに、乱馬はゆっくりと話し始めた。
「おまえを抱きたいという想いは、想像以上にでかくってよー、今にでも飛びかかりたいくらいの心情になってんだ…が…。」
「が?」
「そ、その…何だ…真神の爺さんが言った言葉が、どーも、引っかかってよう…。素直におまえを抱き寄せることができねーんだ。」
「真神のお爺さんの言葉?」
 あかねは問い返した。一体、乱馬が何を言おうとしているのか、理解できなかったからだ。
「ああ…。おめーさあ、爺さんが言った言葉覚えてるか?」
「どんな言葉よ?」
「宴会がはける直前に、「今宵、深く契って夫婦となるか、それとも、契りをせずに過ごすか…。まずは自分たちで良く考えて選びなされ。未来は自分たちで決める…それしかなかろうで…」…なんて言葉を言いやがったんだが…。」
「そんなこと、言ってたけ?」
 あかねは記憶を辿った。そんな言葉を言っていたような、言っていなかったような。意識していなかったからはっきりと記憶に刻まれていない。
「ああ、俺は覚えてんだ。察するに、恐らく、爺さんなりに何かの暗示を表した言葉だったんだろうな…。」
「暗示?」
「ああ…。どーも俺には、あの言葉、俺たちにこの世界へ留まるか、それとも、元の世界へ戻るか…選べっつー選択肢だったような気がするんだ…。」
 乱馬は背中を向けたまま、己の考えをつらつらと話した。
「どうしてそう思ったの?」
 疑問に満ちたあかねの問いかけに、乱馬はゆっくりと言葉を選びながら返していく。
「これは俺の勝手な解釈なんだが…。世界と世界を繋ぐ道は、清い身体じゃなきゃ、通れないんじゃねーかって…。」
「はあ?」
「つ、つまり、この場合、童貞と処女だよ…。ほら、神を斎く立場の女って、殆どが処女じゃねーか…。その、伊勢の斎宮だって、処女じゃねーと解任されたり殺されたりしたんだろ?疑いをかけられただけで自害した斎宮も居るって、桂さんが説明してたの、雁首並べて、四方山話の折に聞いたろ?」
「あ…。そういえば、そんな話、してたっけ…。」
 何かのついでに、伊勢の斎宮について、桂郎女が解り易く説明してくれたのを、二人、並んで聞いたのである。日本書記のヤマトタケルの冒険話の折に、彼を助けた倭媛命が最初の斎宮になったとか、実際の斎宮になった姫君の生活とか、斎宮になった故に訪れた悲恋や悲哀の話など、知識として知っていることを話してくれたのである。
「それが、お爺さんの言った事と、どう関係があるっていうのよ?」
 飲み込めないという声であかねが問いかけてきた。
「じゃ、率直に聞くが、今のおめーに、俺を受け入れて結ばれる覚悟があるか?」
 背中越しに乱馬はあかねへと問いかけた。まっすぐ向き合っていたら恐らく口にできぬ言葉を、背中あわせになることにより、ようやく口にしている。卑怯な手であることは百も承知だ。
「ええ…覚悟なら、とっくにできているわ。」
 あかねは即答した。乱馬を誘惑するつもりはなかったが、正直な心情を述べた。乱馬が己を求めてきたら、今、この場でなくても受け入れる心づもりは、呪泉洞の戦いから帰還して以来、当の昔に決心がついていた。
「そういう乱馬はどうなのよっ。覚悟ができていないの?」
 手厳しい言葉を乱馬にそのまま返して来る。
「バカ野郎!俺だって…んなの、とっくにできてる。」
 乱馬も怒鳴り気味に答えた。
「なら、何故、あたしと結ぶことを戸惑うの?変な言い訳みたいなのを口に出して…。」
 そう問いかけたあかねに、乱馬はゆっくりと言葉を選びながら、再度問いかけた。
「じゃあ、もう一つ、訊く…。さっきも言ったように、世界を繋ぐ道は、清い身体じゃねーと通れない…としたら、元の世界へは帰らない覚悟もしなきゃならねー。今ここでおめーに、その覚悟ができるのか?元の世界へ帰れなかったら、親父たちにも会えないし、かすみさんや他の連中にも会えなくなるんだぜ…。何でも満ち足りた文明生活を捨て、自然界と共に生きる古代での生活を強いられる…。それでも、大丈夫なのか?正直に答えてみろ…。」
「そ…それは…。」
 あかねは戸惑った。
「ほらみろ…。おまえにも覚悟は出来ねーだろ?…俺も正直、元の世界へ帰りたい…。勿論、おまえも一緒にだ…。だから、今は契ることは出来ねー…。いや、したくねー…。まだ、完全に元の世界へ戻れる術が断たれた訳じゃねーしな。
 この世界じゃなくて…元の世界でおまえと結ばれてえ。」
 乱馬はくるりとあかねの方へ向きなおった。まっすぐに彼女の瞳を見つめながら言わなければ、気持ち全てを伝えきれないと、彼なりに悟っていたからだ。
「乱馬、あんた…。」
「これは俺の感だが…ここで契ったら、おそらく現代へは帰れねー。だから…。」

「あんたの言いたいことは、わかったわ…。その代り、あたしとひとつ、約束して。」
 あかねも真摯に乱馬を見つめた。暗がりに浮かぶ、ダークアイは眩いばかりに乱馬を捉えてくる。
「約束?」
「ええ。どんなことがあっても、必ず二人で一緒に帰るって…。あたしたちが、本来居るべき世界へ。」
「そんなの…当たり前だろ?」
「当り前だから、約束してよ。」
 あかねの瞳が真摯に語りかけてきた。その顔を見て、自然に乱馬の頬が緩んだ。
「わかった…。何が何でも、元の世界へ帰る方法を見つけようぜ…。そして、必ず、二人で帰るんだ。」
「うん…。二人で帰ろう…。絶対に…。」

 頭と頭を突き合わせて、小指と小指を絡めた。
 それから、乱馬はあかねを、自分の腕の中に抱きよせた。勿論、その先へ行為は及ばない。あかねも、すっぽりと乱馬へ身を任せた。
 温かく柔らかい互いの肌が触れ合う。
「このまま、朝までこうしてて良いか?」
 乱馬は眼を閉じながら、話しかけた。
「…いいわよ…。」
 あかねの温もりに触れて、緊張感が解けていく。ほっこりとそのまま眠りへと誘われた。
 限りなく自然に溢れた環境。アスファルトなど、土の遮蔽物も無い世界。冬程の厳しさはないとはいえ、寒さが二人の上に降りてくる。自然、引き寄せあう、温かい身体。契ることはなくても、自然に身体を引き寄せて、共に柔らかい眠りへと誘われる。
 緊張は心地よい安堵へと移り変わった。「二人で一緒に帰る」と決意したことから、深い絆を互いに感じ取っていた。
 欲望に流されない確かな愛情がここにある。
 安堵感は心地よい深い眠りへと二人を誘い込む。
 繋がらなくても感じる互いの熱い想い。それを胸に眠りへ落ちる。

 古代の夜は更けてゆく。
 



 ふううっとおじじ様は大きなため息を吐き出した。

「そうか…。こちらの世界では、契らぬ決意をしたか…。それも、良かろう…。
 …なあ…佐留よ……おぬしが選んだあの二人に、…ワシは蝦夷様からお預かりした蘇我の宝を託せばよいのじゃな?」
 返答の代わりに、どこからともなく一陣の風が吹き抜けて行った。



つづく




一之瀬的戯言
 プロットをニ方向、どちらへでも流せるように前半部を作っていたのですが。ちょっと辻褄があわないところが露呈してきたため、今回のアップでその部分を修正していじりました。
 いじったのは、本筋ではなく、桂郎女のキャラの設定です。桂のキャラ設定をツーパターン迷っていたために、生じていた矛盾を修正しました。
 初期に設定していた桂郎女の「男アレルギー」という設定も消し忘れていたところがあったし(汗
 花音子というオリジナルキャラからなびきへ登場キャラを変更したときに消し忘れた記述もあったし…。(実は、なびき姉さんは本筋に絡んでいませんでした。オリジナルキャラで話を転がしていました。)

 すいません。



天照大神の性別について
 書を通じて知り合いになった某大社の古老にお話を伺ったところ、伊勢神宮や宮内庁の公式見解の中に、天照大神の性別に言及したものはないそうです。諸説紛々ありますが、記紀神話が編まれた頃、女帝が台頭していたので、アマテラスに女性的イメージが定着したのではないかと言われています。
 また、古老によると、記紀神話とは全く別に伝わる「ホツマツタヘ」には、実際、「天照大神」は男神として描かれており、「須勢理比売命(すせりびめのみこと)」が妃として記されているそうです。須勢理比売は記紀神話では別の神の妃として描かれています。
 「ホツマツタヘ」は未読ゆえ、これ以上は言及できませんが…。



シロヒコとカヤヒメ
 八重事代主(ヤエノコトシロヌシ)と賀夜奈留美(カヤナルミ)からの創作です。
 いずれも飛鳥坐神社の主祭神です。つまり、飛鳥京以前から恐らく飛鳥に祀られていた神…です。
 八重事代主は葛城山系、賀夜奈留美は吉備系、須佐之男は出雲系の神名だそうです。八重事代主は、事代主命と呼ばれることが多いです。また、彼はスサノオ命の子孫、大国主命の子です。
 最初は、事代主ではなく大穴牟遅(オオアナムジ=大国主命の別名)を設定して書いていたのですが、いろいろ考え抜いた末、事代主に変更し、ついでに、名前を少しアレンジしました。

 くれぐれも言っておきますが、この作品は創作ですので…。歴史的人物に対する言及も、かなり妄想的創作で書いております。
 聖徳太子のくだりも、大化の改新のくだりも、妄想からの創作ですので…。
 まかり間違っても、信じないように…。
 阿射加国の記述も無論創作ですが、伊勢国や伊賀国辺りに、大和朝廷に対立した国があったのではないかと思っています。案外、飛鳥坐神社の御祭神からも、飛鳥の地にも大和朝廷に対抗して併合された邑国があったことを伺わせるような…。



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