◆飛鳥幻想
第一話 古の都にて


一、嶋の桃源墓

「はああ、やっと着いたぜ。」
 急な坂道の峠にさしかかり、目の前に下界が開けた途端、乱馬はそんな言葉を吐き出した。
 定番のチャイナ服ではなく、珍しく、黒系のカジュアルなシャツと薄青のデニムという軽いいでたち。おさげがゆらゆらと背中に揺れている。

 連綿と続く棚田の中に、大きな石の塊が置かれた四角い区画。
「地図によると、石舞台はあの交差点の傍にあるらしいわよー。」
 傍らであかねが目を輝かせた。彼女も珍しく薄青のデニムをはいて、薄桃色のパーカーを羽織っている。
 ぜいぜいと息を切らせながら、自転車にはきつい坂道を必死でここまで漕いで来た。眼下にその苦労も吹っ飛びそうな景色が広がっている。

 ここは、奈良県明日香村。
 うららかな陽の光が、天上から降り注ぐ、三月末の昼下がり。
 学生たちは、新年度前の春休み。
 三泊四日の予定で東京から出てきたのは、天道早雲とかすみ、なびき、あかねの三姉妹、天道家居候の早乙女玄馬と乱馬の父子、そして、何故か一緒にくっついてきた珊璞と久遠寺右京の総勢八名。
 早雲の旧知の友人が飛鳥に居て、そこを訪ねて来たのであった。早雲の旧友の実家は飛鳥の古い農家で、今度、その母屋を利用して民宿を開業するので来ないか、という案内状が天道家に届いたのだ。
 本格的に開業稼働する前に、お試し客、つまりモニターとして招かれた訳だ。
 珍し物好きの天道家の面々。二つ返事でそのご招待を受けた。交通費だけで、古代の里、飛鳥を観光できるのは、魅力的だったからだ。
 

「飛鳥をのんびりと観光するなら、自転車がええやろうね。観光バスなんか走ってへんからね。」
 という女将(おかみ)さんの勧めもあり、レンタサイクルを借りて、観光スポットを回り始めたのであった。

 飛鳥はレンタサイクルで駆け巡る観光客が多い。定期観光バスは走っていないし、路線バスの運行も便利だとは言い切れない。また、徒歩だと時間がかかりすぎる。レンタサイクルが手軽なのだ。
 明らかに観光客然とした自転車が、我が物顔で道路やあぜ道を、チリンチリンと通り過ぎてゆく。
 遺跡がなければ、ただの田舎。どこにでもありそうな、のどかな田園風景の中に、古代史上の重要な遺跡がさり気なく点在する。それが飛鳥であった。
 その代表格、石舞台古墳。
 なだらかな棚田の中に、石の玄室が露出した形で存在している。本来は土中に埋まっている筈の玄室がむき出しになり、その姿から「石舞台」と称されている勇壮な古墳だ。
 度重なる調査から、方墳と推測され、墳丘も復元整備されている。が、その被葬者は未だ詳(つまび)らかでない。周辺は「国立飛鳥歴史公園」の一つとして、整備され、観光客がまばらに行きかう。

「ねえ、お父さんたちには、やっぱり、こっちの道はきつかったんじゃないの?」
 坂を駆け下りたあかねが乱馬に話しかけた。
「しゃーねーだろ?かすみさんやなびきたちと一緒に、平坦な下の道行けっつっても、大丈夫だからとか言ってよう、きつい方選らんだの、親父たちだぜ。」
 乱馬は自転車を古墳の向かい側にある駐輪場に止めながら言った。ここにはトイレ休憩所とちょっとしたお土産屋の軒先がある。自販機も置いてあった。
 山を切り開いた道路を、えっちらほっちら自転車を漕いで来た。カーブが多い、典型的な山を切り開いた道路だった。それを自転車で辿るのは、かなりきつい。体力に自信がある乱馬たちですら、最後は下りて、自転車を押して登った坂道。おかげで、春先なのに汗が浮かんでいる。
「おっちゃんたち、ここまで来るのに、相当、時間がかかるんやろーなあ…。」
 右京がミネラルウォーター入りのペットボトル片手に言った。彼女もまた、薄青のデニムをはいていた。乱馬がデニムをはくという情報をなびきから買い、慌てて調達したものだ。ちょっとボーイッシュな感じの水色の綿シャツを着て、リュックを背負っている。
「ま、一休みして待ってれば、そのうち来るんじゃねーか?」
「にしても…。あれ、何あるか?」
 珊璞が、道路越しの垣根越しにチラリと見え隠れする、石の塊を珍しそうに眺めた。中国からやってきた彼女は、陶然のことながら、日本の歴史的知識は皆無だ。珊璞もデニムかと思いきや、薄桃色の光沢生地のズボン調のチャイナ服姿。掌ほどの小さな白いフワフワのポシェットを肩からかけていた。
「古墳よ。」
 とあかねが珊璞の疑問に答えた。
「こふん?何ある?それ。」
「お墓のことや。」
 右京が横から突っ込んだ。
「お墓あるか。ずいぶん、大っきい、墓石あるなあ。」
「別に、あの石は墓石やないで。」
「墓石じゃなければ、何あるか?」
「玄室(げんしつ)が露出したもんや。」
「玄室?」
「ま、簡単に言えば、棺が置かれていた部屋やな。」
「これ、誰のお墓あるか?」
「んー、誰のお墓やったっけ?あかねちゃん。」
「確か、お墓の主は、わからないんじゃなかったかしら…。」
 珊璞の問いかけに、右京とあかねが窮していると、背後から声がした。
「石舞台の被葬者には諸説あるけど、蘇我馬子(そがのうまこ)の墓という説が、結構有力だわよ。」
「なびきお姉ちゃん!」
 あかねの後には黒のタートルネックにオレンジの鮮やかなスカーフを巻いたなびきが自転車にまたがっていた。その後には、白基調の花柄カットソーを着て、長めの薄水色のフレアスカートをはいたかすみがにこにこと笑っている。
 二人は共に、比較的楽な別の道を辿って来たのだ

「あーあ…親父たちより先に、かすみさんとなびきの方が早く着いちまったぜ。」
 二人の姿をみとめた乱馬が、大きくため息を吐き出した。
「蘇我馬子?誰あるか?それ…。」
「西暦六百年前後の豪族の首長の名前よ。ま、今からざっと千四百年ほど前の日本の実力者ってところかしらねー。」
 博識のなびきが、間髪入れずに答えた。
「へええ…。蘇我馬子のお墓って説があるの?この石舞台って。」
 あかねが目を丸くしながら、姉に尋ねた。石舞台が蘇我馬子の墓というは、全くの初耳だった。
「蘇我馬子の邸宅は「嶋」にあって、馬子は「嶋の大臣(おとど)」と呼ばれていたらしいわ。で、この辺りは島之庄って言うのよねー。つまり、蘇我氏は嶋という土地に邸宅を営んで、権力を掌握していたみたいだから…その嶋の地に「桃源墓」を築いたって日本書紀に記述があるし、それが石舞台古墳だって説があるの。ついでに言うと、馬子の墓だから玄室が露出するまで破壊されてあばかれたって説もあるらしいわよ。
 他にも馬子の父の蘇我稲目の墓って説もあるし、いずれにしても、蘇我氏の首長の墓なんじゃない?まあ、被葬者が誰だって、あたしたちにはどうだって良い話だけど…。」
「へえー、なびき姉ちゃんは、えらい博識やなあ…。」
 右京が感心しながら、なびきのウンチクに耳を傾ける。
「なあ…その蘇我馬子って誰だ?」
 乱馬がきょとんと問いかけた。
「あんた、蘇我馬子も知らないの?」
 少しばかり馬鹿にした表情をなびきが乱馬に手向けた。
「知らねー。誰だ?そいつ。何をやった人だ?」
「推古(すいこ)天皇時代の大臣(おおおみ)よ。蘇我蝦夷(そがのえみし)の父親でもあるわね。天皇家に娘をたくさん嫁がせて、実権握ってたタヌキおやじってところかしら。」
 なびきがさらっと説明した。
「推古天皇?…蘇我蝦夷?」
 また疑問符がたくさんついた瞳をめぐらせて、乱馬はなびきへと問いかけを投げかける。
「あんた、推古天皇も覚えてないの?習ったでしょう?日本史で…。小学生でも知ってるんじゃないの?」
 あかねが馬鹿にしたような瞳を乱馬に傾けた。
「知らねーな…。推古天皇って、どんな奴だ?なびき。」
 腕組みしながら、首をひねる。
「史上に存在が確認されている最初の女の天皇よ。神話時代の天皇は置いておいて、実在が確認されている天皇の中で、推古天皇の在位は昭和天皇、明治天皇の次に長いのよ。同時代に聖徳太子(しょうとくたいし)が居たけど…。聖徳太子くらいは知ってるわよね?」
 なびきが問いかけると、
「一昔前の一万円札の肖像画のおっさんだよな?」
 ポンと手を打ちながら、乱馬が言った。
「五千円札にも肖像画が使われていたわよ。」
 なびきが間髪入れずに答える。
「その程度の認識しかないの?乱馬はっ!」
「じゃ、おめーは知ってるのか?聖徳太子について、説明してみろよ。」
「偉そうに言わないでよね!…えっと、推古天皇の摂政で、冠位十二階を定め十七条の憲法を制定した人だとか、中国の隋へ遣隋使を初めて送った人だとか…。四天王寺や法隆寺を建立した人とか…いろいろ…やった人よ。」
「へええ…。そーなのか。」
「あんた、本当に、覚えてないの?日本史の授業で習ったわよ。あんたも同じ日本史の授業受けてたでしょうが。」
「自慢じゃねーが、まーったく覚えてねえーな。」
 乱馬は言い切った。
「まっ、しゃーないわな。乱ちゃんゆーたら、日本史の授業はずっと夢の中やったし…。」
 右京が笑った。
「ほんと、情けないっ!」
 あかねは、はああっと溜息を吐きだした。

 実のところ、石舞台古墳の被葬者は明かされていない。が、古代この地に馬子の邸宅があったと「日本書紀」に記されている。度重なる発掘調査の結果、この石舞台古墳の墳丘には、前時代の古墳を潰して作られた痕跡が残っているという。藤原京や平城京を造るとき、辺りにあった古墳を別へ改葬し、きれいに整地した痕跡もあるというが、墓を造るのに墓を破壊すると言う行為は、相当な実力者でなければ許されるものではなかったろう。
 何より摩訶不思議なのは、葬られた玄室がむき出しになっていることだ。
 江戸時代には既に、墳丘が剥ぎ取られてしまったようで、むき出しになった、玄室の上で演舞が行われていたから、石舞台という名前がついたとか、狐狸が石の上で踊っていたから、石舞台と呼ばれるようになったとか、様々に言われている。
 意図的に荒らされたのか、それとも偶然なのかはわからないが、むき出しの石室墓は七世紀初頭、日本国史に残る最初の女帝、推古朝の頃のものであることはぼぼ間違いない。石舞台古墳の被葬者は蘇我馬子であったのではないかと言う説が有力だ。
 この石舞台古墳が蘇我氏の首領の墓所ならばむき出しになった石組は、権勢をほしいままに振る舞った一族の、栄華必衰を物語っているようだ。


 父親たちが到着するまでの間、乱馬とあかね、珊璞と右京、それからなびきとかすみは、休憩所で一服ついた。
 なびきは持ってきていたMPプレイヤーで、しきりに何か聞いている。
「おめー、熱心に、何聞いてんだ?」
 乱馬が興味深げに尋ねると、なびきは笑いながら言った。
「ラジオよラジオ。」
「ラジオ?」
「情報はこまめにチェックしないとね…。株式情報とか、世界情報とか…。」
「株式情報だあ?んなものに手を出してんのか?てめーは…。」
 あきれ顔で乱馬がなびきに吐きだした。
「当り前よ。このご時世、てっとりばやく大金を稼ぐには、株とか先物取引とか…常識よ。そんなの。」
「おめー、まだ、高校生だろーが…。」
「あら。高校生だろうが、何だろうが、株式投資はできるわよ。」
「株式を運用する資金なんか、持ってるのかよ?てめーは…。」
「この前、あんたの写真やグッズで、しこたま稼がせてもらったし…。資金ならあるわ。」
「まだ、そんなことやってるのか?てめーは…。んなのに騙されて金出すのは、九能先輩くらいしか居ねーんじゃねーの?」
「あら…。ネット通販を舐めないでよね。美少女グッズって結構引っ張りだこなのよ。」
「美少女グッズっておめー…。」
 思い切り嫌な顔をした乱馬を横目に、なびきはシッと口に手をやった。静かにしろというサインだ。
 それから、真剣に流れてくる情報に耳を澄ませた。

「なんか、面白いニュースでも流れてたんか?」
 右京が、興味津津になびきへと問いかけた。

「まあ、面白いっちゃあ、面白いゴシップだったけど…。」
「ゴシップねえ…。女性週刊誌じゃあるめーし…。」
 乱馬が苦言を呈すると、
「あら、ゴシップもバカにできないわよ。有名タレントの起こすゴシップは、株価を上下させることだってあるんだから。」
「あん?」
「例えば、人気タレントが犯罪なんか犯すと、それのスポンサーになってる企業なんかの株がドーンと下がることだってあるのよ。」
「そんなので株価が変動するなんて、日本もおしまいだな…。」
 乱馬が吐き出す。
「で?どんなゴシップが流れたんや?」
 興味津津、右京が横から尋ねた。
「人気占い師のルナさんが突然、姿をくらませたんだってさ。」
 なびきが言った。
「ルナさんって、予言に定評があるわよね?この前、テレビの占い特集番組で取りあげられてたわ。謎のベールに包まれた美少女占い師って有名なんでしょ?」
 あかねが口を挟んだ。
「美少女なあ…。そういうのに男ってーのは、ホンマ、弱いんやから。」
 右京が吐き出した。
「ええ。素顔は決してさらさないけど、占って、いろんな事を見事に命中させる、凄腕の占い師よ。ま、本業は巫女さんらしいんだけどね。」
 なびきがイヤホンを外しながら言った。
「巫女で占い師ねえ…。で?何で、株式ニュースで取り上げられてるんだ?」
 怪訝な顔で乱馬が問いかけると、なびきが真顔で言った。
「彼女の株価予想って、この「ネットラジオ株式情報」っていう番組の目玉だったのよねえ…。」
「あん?」
「一週間に一回、金曜日の午後に、巫女ルナの株価予想っていう帯番組があってさあ、これが、結構、的を射るというか…。当たるのよねえ。彼女が買い時だって言えば、その企業はどういうわけか、業績がすこぶる上昇して、あっという間に株価が上がるのよ。」
「株価予想に占い師ねえ…。おい…まさか。その占い師の株価予想を真に受けて、株式投資してるんじゃねーよな?」
 乱馬が侮蔑したような顔を手向けると、なびきはふうっと溜め息を吐きだした。
「まーね…。あたしもルナさんの携帯サイトにも登録してさあ、情報収集しながら、株価の投資をして、儲けさせてもらっている身の上なのよねえ…。」
「で?そのルナさん、何で、姿をくらませたんや?何かの事件にでも巻き込まれたんか?」
 右京がなびきに尋ねた。
「事件性はないみたいよ…。何か、体調を崩したから、暫く、本業の巫女の修業に専念すべく、マスメディアへの出演は全てお休みしますって、関係者各位にファックスが送付されたんだってさ…。で、お目当てのラジオ番組の人気コーナーは、無期限で休止するんだって…。うーん…。最近手にした臨時収入で、面白い株があったら、投資しようと思ってたんだけど、残念だわ。」
 なびきは、溜め息と共に、MPプレイヤーの電源を切った。
「へええ…。占い師なのに、自分の体調の変化は占えなかったんかいな?」
 右京の言葉に、なびきがさらっと答えた。
「自分の身に何か起こるって占えたから、そういうふうにコメント残して、さっさと身をくらませたのかもよ。」
 現実主義らしいなびきの言い方だった。
「株価を巫女が占って相場を当てるのが人気だなんて…なんか…世も末だな…。」
 乱馬は、ふうっとそんな言葉を吐きだした。


「はああ…やっと着いたよ早乙女君。」
「ううう、長い道のりであった。」
 待つこと半時間余り。やっと、早雲と玄馬が一行に追いついた。早雲は茶色系の作務衣、玄馬は道着。乱馬たちと同じく、きつい坂の道を選んで、岡寺の方から自転車を漕いできたのである。勿論、借り物自転車は、電動ではなくただのママチャリだ。若い乱馬たちとて登ってくるのが大変だった道だ。無謀を通り越して、馬鹿だろう。

「たく…だから無理すんなって言ったんだ!時間がもったいないじゃねーか!」
 乱馬が、散々に文句を投げつける。
「罰として、お父さんたちに、見学料を払ってもらいましょうね。」
 となびきが笑いながら言った。

 石舞台古墳は有料だった。入口で入場料を払ってもらって、中へ。
 古墳は四角く形どられ、土手になっている周辺部には桜の木が、古墳を囲うようにぐるりと植えられている。

「桜、かなり膨らんできたわねー。」
 たわわに花のつぼみを付けている枝先を眺めながら、あかねが言った。
「もう、二、三日後なら、桜、咲いていたかもしれないねー、天道君。」
 玄馬がつられて言った。
「うーん…。このツボミ具合、咲き始めるまで、一週間から十日くらいと見たねえ…。早乙女君。」
 早雲も少しばかり残念そうに吐き出した。
「案外、明日、明後日には開花するかもよー。あったかいし…。」
 なびきが答えた。
「桜って、でも、何で咲く時は、一斉に、たわたに咲き乱れるんだろう…。いつも不思議に思うんだけど…。だいたい、地域一緒の日取りで、咲き初めて、散り染めるでしょ?」
 あかねがそんなことを口走った。
「それぞれの木が交信しあって、今日から咲きましょうって申し合わせていたら、面白いわねー。」
 にこにことかすみが笑いながら言った。
「古代では、春の花は桜より梅の方がイメージが濃いみたいなんだけどなー。」
 なびきが笑った。

「おお、こいつは、見事な石造物だねえ…。これが有名な石舞台かい。」
 はしゃぎながら、玄馬が石室を見た。
 周溝部から簡易階段を上って、方墳の中央部へ。そして、むき出しになった石室へ近寄る。
 きれいに掘り起こされた石組が大迫力で迫ってくる外観とは違い、南側にぽっかりと開いた穴へ入ると、中は何の変哲も無い石の部屋。石棺があった場所には何もなく、ただの石の空洞だった。

「中はがらんとしているあるなあ…。」
 珊璞が石室を覗き込みながら言った。石室は自由に出入りできるようになっている。入ると、ひんやりしていた。石組の隙間から、太陽の光がわずかに降り注ぐだけ。じめっとしている。声も石に当たって、軽く響く。
「天井、高い!」
「すっげー、どうやって組み上げたんだ?この石…。」
「わざわざ上へ積んだんじゃなくって、引きずってきて、置いてから土を盛ったんじゃないの?」
 なびきが答える。
「なるほどね…。上に積み上げるより置いてから土を盛る方が簡単だものね…。」
 あかねも納得した。
「見事に土が取り除かれて、禿げあがってますなあ…早乙女君。」
「それ、ワシに対する皮肉かね?天道君!」

 まさに、黄泉の入口に立ったような、そんな感じにさせられる。
 石は黙して語らない。ここに葬られた人物のことも、何故、むき出しになってしまったかということも。今となっては辿りようがない。
 ただ、誰かの墓だったという事実だけが、そこにある。

「蘇我馬子の墓…かもしれないってかあ…。」
 あかねは長いため息と共に、吐き出した。


 石舞台古墳周辺は公園に整備されている。古墳は少しだけ高台になっていて、そこから明日香村が見渡せた。東側は山の斜面に向かって続く見事な棚田。棚田は山裾に広がる、明日香周辺の農業形態の一つだ。
 まだ、春も浅いため、花も草も言うほど萌え上がってはおらず、まだ、枯れた色合いの景色だった。
 石舞台を出て、一行は平らな道を自転車でひた走る。
 チリンチリンと、観光客のレンタサイクルとすれ違いながら、川原寺跡へ向けて、自動車が行きかう道を走って行く。

「昔、若かった時、母さんと一度だけ明日香村に来たことがあるが…。こんなに綺麗に整備されていなかったなあ…。」
 自転車をこぎながら、早雲がポツンとそんなことを吐き出した。
「そーなの?お父さん。」
 あかねがその言を聞きつけて、父親にきびすを返した。
「石舞台だって、棚田の中にポツンとむき出していただけだし、周辺の遊歩道や公園もあそこまで整備されていなかったよ。人の姿なんて殆どみかけなかったよ。」
 早雲は思い出にふけりながら、そんなことを吐き出した。
「今でも、人影はまばらじゃねーか?」
 乱馬がそれに応じた。
 時折、春休みの親子連れや、カップルのレンタサイクルとすれ違うが、ひしめいている感じは全くなかった。
「いやいや、あの当時は、本当に平日は観光客なんて、居ないに等しかったよ。売店だって、観光シーズンにしか開いてないんじゃないかと思うほどひなびていてねえ。」
 早雲は答えた。

 石舞台から明日香村役場を通り過ぎ、川原寺跡の前から橘寺を巡る。橘寺はかの聖徳太子の生誕の地と言われている場所でもある。そして、近くの酒船石を見学し、飛鳥寺へと自転車を走らせる。


 飛鳥寺。飛鳥大仏と言われる飛鳥時代の仏像がある。
 蘇我馬子が私財をつぎ込んで建立したと言われる、日本最初の仏教寺院だ。

「飛鳥寺…。うーん、思っていたよりこじんまりしてるわね。」
 あかねが自転車を脇に止めながら言った。
「何か、普通のお寺さんやなあ…。」
 右京がそれに同調した。
「言っとくけど、今の飛鳥寺の敷地は創建当時の十分の一にも満たないらしいわよ。」
 なびきが言った。
「ここら辺りに天武天皇の都、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)があったと言われているんだ。」
 早雲が解説してくれる。
「ねえ、さっき、伝飛鳥板蓋宮(でんあすかいたぶきのみや)って看板があったけど…。宮っていくつも存在していたものなのか?」 
 乱馬が問いかけた。
「あんたさあ、本当に何も覚えてないんだ…。古代の日本は天皇が代替わりする度ごとに、宮が立て替えられたって先生が言ってたじゃないの。」
 あかねが軽蔑的な眼差しを乱馬に手向けた。
「そうだっけ?ウっちゃん?」
「習(なろう)たで…。飛鳥時代くらいまでは、天皇が変わるたんびに宮を建て替えたとか…先生、説明しとったわ。」
「うーん…。」
 乱馬は考え込んだ。
「そのとおり、宮は天皇ごとにあったと言ってもいいほど、飛鳥の周りに点在しているのよ。」
 なびきが言った。
「何で天皇の代替わりごと、宮を建て替えるなんてそんな面倒なことしてたんだ?」
「ま、いろいろ説はあるんだけど、日本人は昔から死人が出ると、とかく世間と隔絶したがる民族でしょう?例えば、喪中という習慣が今でもあるじゃない。」
「喪中って、身内に死んだ人が出たから今年は年賀状は出しませんっていうアレか?」
 乱馬が問いかけた。
「ええ…。古代日本社会では死の穢(けが)れを忌み嫌う思想がすごく強かったみたいで、天皇が亡くなって代が変わると、宮もごそっと建て替えるのはあたりまえだったのよ。」
「確かに、なびきが言うとおり、本格的な計画性を基盤に条里制を敷いた都は、飛鳥からちょっと南へ行った、「藤原京」が最初なんだよ。それまでは、天皇が代替わりするたびに、宮を点々と変遷していたんだそうだ。
 小治田宮(おはりだのみや)、磐余宮(いわれのみや)、双槻宮(ふたつきのみや)、板葺宮(いたぶきのみや)、浄御原宮(きよみがはらのみや)、豊原宮(とよはらのみや)、岡本宮(おかもとのみや)…。あげたら枚挙がないほど、飛鳥の周りに、宮跡地が存在しているんだよ。
 天皇が死んでも宮を建て替えなくなったのは藤原京以降なんだよ。以後、平城京、恭仁京、長岡京と遷り、七九四年に桓武天皇が京都に平安京を都へと定めて以降、千年間都は遷らなかった。そして、明治維新を経て、今の東京へと変遷したんだ。」
 早雲が補足説明を加えた。
「天道君、博識ぶっちゃって…。いやみだねえ!」
 玄馬が笑いながらポンと早雲の肩を叩いた。
「一般常識だよ!早乙女君!」
「ワシ、知らないよー。」
「それは、君に一般常識が無いだけの話じゃないかー、はっはっは。」
「そこ、笑うところかい?」
 玄馬はむすっとした顔を早雲に手向けた。

 飛鳥寺は、こじんまりとした敷地だった。昔はもっと壮大な土地だったようだが、大仏様を祀る拝殿も小さい。だが、黒光りする飛鳥大仏像は、迫力があったし、慈愛に満ちた気品があった。
「この仏像のニヒルな微笑みは、アルカイックスマイルって感じでしょ?」
 そう評したなびきに、
「なるほど…おめーも常にアルカイックスマイルを浮かべて、俺たちにたかってくるもんなー。」
 乱馬がポツンと吐き出した。
「この大仏さんは、鞍作止利(くらつくりのとり)っていう仏師の作と伝えられているのよ…。ついでに言うと、法隆寺の釈迦三尊も同じく、止利(とり)の作品らしいわ。」
 なびきがさらっと言った。
「なびき…おめーって、時々、メチャクチャ、物知りだよなー…。」
 乱馬が言った。
「じゃ、これまでのガイド料、払ってくれる?」
 にんまりと右手を差し出しながらなびきが笑った。
 えっと一同が固まりかけると。
「冗談よ、冗談!ガイド料なんていらないわよ。うふふ。」
 となびきが笑った。
「ほら、その笑み!そいつがアルカイックスマイル…だっつーのっ!」
「お姉ちゃんが言うと、冗談には聞こえないわ…。」
 あかねもドキドキしながら乱馬に同調した。

 外に出て、寺の庭園を歩くと、西門の傍に観光客が物珍しそうにたかっているのが目に入った。

「あれ、何だ?」
 五輪の塔のように積まれた石がある。古い墓石のような朽ちかけた石積みだ。
「蘇我いりしかの首塚…だってよ…。何か、生々しいぜ。」
 脇に立てかけられた看板を読みながら、乱馬が言った。
「あんた、馬鹿じゃないの?それ、「いりしか」じゃなくって「いるか」って読むんでしょうが!」
 あかねが侮蔑的視線を乱馬に対して投げかける。
「ああ…あれって、「いるか」って読むのか。」
 乱馬は脱力しながら、だはははと笑った。
「何か、乱ちゃん、ボロボロやな…。」
 右京が笑った。
「で?入鹿って誰だ?」
 乱馬の問いかけに、ガクッとあかねと右京が揃ってこけた。
「大化の改新の当事者の名前くらい覚えときなさいよっ!」
 とあかねが強く吐き出した。
「タイカノカイシン?大火事でも起こったのか?」
「もー、乱ちゃん…。大化の改新って言ったら、古代日本の代表的政争やがな…。ええか、西暦六四五年、中臣鎌足と中大兄皇子がつるんで、天皇の前で実力者やった蘇我入鹿を殺して大改革をやったっちゅう政争や。今日日(きょうび)小学生でも知っとるで…。」
 右京が笑った。
「うーん…悪い、全然、知らねー。」
 乱馬が腕組みすると、ポカンと玄馬が頭を叩いた。
「このバカ息子っ!もうちょっと勉強せんかーっ!傍できいているこっちが恥ずかしくなるいわいっ!」
 玄馬が顔を真っ赤にして、息子に言った。
「はははは、乱馬君、もうちょっと勉学にも励みたまえ!天道家の婿として、その教養じゃあまりにも不甲斐ないぞ。」
 早雲も苦笑いをしたほどだ。
「じゃあ、入鹿ってどんな奴だったんだ?なびき。説明してくれよ。」
 乱馬の問いかけに、なびきが答えた。
「蘇我入鹿…。聖徳太子の息子、山背大兄皇子をはじめとする、上宮王家一族を滅びに追いやり、自ずからの子供たちを皇子と近従者に呼ばせるなど、目に余る傍若無人なふるまいで権勢を振るっていたのを、中臣鎌足、後の藤原鎌足、と中大兄皇子、後の天智天皇が共謀して、異国からの使者を迎える式典と偽り、入鹿を宮に呼び出して、皇極女帝、重祚(ちょうそ)して後の斉明女帝、の前で誅殺した「乙巳(いっし)の変」。そのクーデタに端を発する改革を俗に「大化の改新」と呼ぶ…。」
 なびきはさらっと答えた。
「凄いわ、まさに模範解答やなあ…。」
 右京が感心すると、
「そうか?」
 と乱馬が首を傾げた。見事な、なびきの解説を聞いても、イマイチ、ピンときていないようだ。
「ま、入鹿が大悪人と言われているのも、あくまで、勝者側の見解に基づく歴史観…。死人に口なしっていうか、入鹿暗殺は蘇我氏を滅ぼすための謀殺的なイメージはぬぐいきれないわね…。本当のところは、今だ、謎に包まれているってね…。
 大化の改新も、蘇我一族の滅亡も、乱馬君には全く興味なしみたいだしねえ…。」
「ああ、全然、興味なんてねえ!」
 即座に応えた乱馬に向かって、
「偉そうに言わないでよ!偉そうに!」
 あかねが、じと目で見やった。
「うるせー!」

「まあ、大概の人は興味ないわよねえ…。あたしたちの暮らしに、直接かかわってるってことでもないし…。」
 なびきが言うと、
「じゃあ、なびき、おまえはどうなんだよ…。まさか、古代史に興味があるなんてこと…。」
「そうよ。やたらに詳しいじゃない、お姉ちゃん。」
「ふふふ、この前、古代史検定ってのがあってさー、ちょっと友達と点数競って勝負したのよねえ…。で、古代史をピンポイントで勉強したばかりなのよねえ…。」
「検定の結果は?」
「勿論、楽勝よ。」
「誰と勝負したんだ?」
「九能ちゃん!」
 平然と言ってのけたなびきに、あかねと乱馬は眼を見合わせた。
「何で、九能先輩と、古代史検定で勝負しようだなんて思ったの?お姉ちゃん。」
「ま、ちょっとした成り行きというのかしら…。『天道なびき、古代史検定で貴様が勝ったら、おさげの女と天道あかね・きゃあ可愛い写真集、高額払って買ってやろう。但し、貴様が負けたら、タダで寄こせ!』…ってね。」
 なびきは九能の物まねをしながら、言った。
「てめー。まーだ、性懲りもなく、俺たちの写真、九能先輩に売りつけてやがんのか?」
「あら、だって、売れるんですものぉ。」
 瞳をキラキラさせながら、なびきが答えた。
「まあ、競争相手が九能先輩だったら、なびきお姉ちゃんなら、そんなに勉強しなくても勝てたでしょう?何でわざわざ勉強なんかしたの?」
 あかねが不思議そうに問いかけた。
「だって、九能ちゃんたら、点数差に応じて買い取り額を上げてやるだなんて…言うもんだから、張り切っちゃった。」
 となびきは舌を出した。
「っていうか、言わせたんじゃねーのか?アコギな真似しやがって…。」
「もしかして、さっき、言ってた投資しようと思ってた臨時収入って、九能先輩にあたしたちの写真を売りつけたお金じゃないでしょうねえ?」
 あかねがきつい顔でなびきを流し見ると、
「ピンポン!」
 と颯爽と答えが返って来た。

「古代史の勉強を賭け事に使うなんて…。ほんま、欲どおしい奴やなあ…。」
「っていうか、妹の写真を勝手に売りつけないでよ!」

「ほほほほほ…何とでも言いなさい!世の中は金次第。儲けた者の勝ちよ。」
 九能から、かなりの額を巻き上げたのだろう。なびきが愉しそうに笑った。




二、須弥山と亀石

 サイクリングの楽しみは、自然と一体になりながら、駆け抜けることにある。
 地図片手に、さまざまなポイントを巡るのも一興だ。

 飛鳥には、飛鳥寺、橘寺、岡寺、川原寺といった歴史的建造物の建物や建物跡の他に、石舞台や高松塚、キトラなどの古墳も数多く存在する。そして、忘れてならないのは、不可思議な巨石の存在だろう。
 その代表格に「石舞台」もあるが、こちらは古墳の玄室部分がむき出しになったものだから、まだ、その存在理由は理解できる。が、一体、何のために誰がこんなものを造ってそこに置いたのかわからない石造物が、飛鳥にはあまた存在する。

 酒船石(さかふねいし)、猿石、亀石、須弥山(しゅみせん)、二面石、鬼の俎(まないた)、鬼の雪隠(せっちん)、と枚挙にいとまがない。
 
 「鬼の俎」と「鬼の雪隠」は、地震に揺られ、同じ古墳の玄室が上と下に分かれて崩れたものだという。上に残ったのが俎で、下に転がり落ちたのが雪隠という訳だ。古墳を造形していた変わった形の石を、昔の人は鬼の利用物と驚き恐れ、「鬼の俎」「鬼の雪隠」という名前をつけたのだという。(雪隠はトイレのこと。)
 謎石の代表格とも言われる有名なのが「酒船石」だ。奇妙な筋が思わせぶりに彫られた一枚岩だ。酒を造る施設だの、謎めいた薬を調合する施設だの、いろいろな仮説が唱えられたが、近くで発掘された亀形石造物と共に、斉明天皇の庭園施設の一部だろうという説が、最近では有力なようだ。石に彫られた穴に水を流して祭祀に利用されたのではないかというのだ。斉明天皇は水の天皇と異名があるくらい、大がかりな苑池施設や治水施設の造営を手掛けている。「酒船石」もその一部ではないかと、言われ始めている。
 「猿石」は欽明天皇陵の傍にある吉備姫王墓を護るようにひっそりとたたずんでいて、墓守の様子を呈している。誰がいつ墓の傍に置いたのか、謎のままだ。
 橘寺の傍にある人間が向き合った「二面石」も一体何の為にそこに作られ置かれたのか、定かではない。「猿石」や「二面石」は、やはり斉明女帝が外国人使節を和ませるために作らせた説、京の守護のために置かれた魔除け説、様々あるが、その造営目的は謎に包まれている。
 様々な石造物や飛鳥の発掘史を知るのに、飛鳥資料館は絶好の場所だろう。休憩も兼ねて、一同はこの資料館にも立ち寄った。

 飛鳥資料館の館内には山田廃寺の火災跡の残る遺跡の復元や天智天皇の作った漏刻の模型などもあり、古代史マニアにはたまらない展示物があるが、興味がなければただの陳列物。

「この資料館はキトラ古墳の四神獣壁画の特別展なんかを催す場所なんだよ。今は特別展をやってなかったけど…。」
 と早雲が残念そうにこぼした。
「へええ…ここでキトラ展が催されてるのかあ…。」
 それに反応するのはなびきくらいだ。
 乱馬など、キトラ古墳と言われても、一向にピンと来ない。ましてや、四神獣などという言葉も縁が無かった。
「シシンジュウって何だ?」
「四神獣は東西南北に配された壁画でね、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。言葉くらいは知ってるでしょ?」
 となびきが問いかけても、乱馬には意味不明な言葉の羅列だった。
「四神獣の考え方は、中国にもあるね。」
 珊璞が言った。
「そりゃ、そーでしょ。中国から輸入された思想だもの。」
 なびきが流す。
「でもよー、何か、古代っつっても、俺にはピンと来ねーんだよ。そもそも歴史とか何のために勉強するんだ?面倒臭いだけじゃんか。」
 乱馬がぽつんと本音を吐き出した。
「温故知新。古きを尋ねて新しきを知る。そのためにも歴史も、もう少し、勉学にも勤(いそ)しまないとねえ、早乙女君。」
「うーん…。ワシも歴史学にはトンと疎(うと)いからのう…。」
 乱馬の父、早乙女玄馬は早雲の問いかけに、首をひねった。
「この親にしてこの子あり…だわね。おじさまも歴史はほとんど知識がないみたいね。」
 なびきがクスッと笑った。
「あんまり深く考えたこともなかったしのー。っていうか、飛鳥に来たのワシ、はじめてだし。がはははは。」
「ほら、そーやって、すぐ笑って誤魔化す。」
 なびきが笑った先で、乱馬がとある石造物を指さして言った。

「なー、あの石造物の形…何か、卑猥(ひわい)だと思わねーか?」
 彼の指し示す先には、尖がった石造物がドンと置かれていた。
「何言い出すのよっ!いやらしいっ!」
 あかねがそれを受けて、即答した。
「いやらしいとか…あんたら、何考えてるのよ?…ま、だいたい予想はつくけど…。」
 なびきが笑った。
「まさかと思うが、乱馬君、あかね…。あの石造物の形を見て連想したものって…。」
 早雲が顔をひきつらせていた。
「わはははは、天道君、アレだよアレ、ダンコンーなんちゃって!」
 玄馬の声に乱馬が後ろから頭を張った。
「バカッ!デリカシーのねーこと、大声で言うなっつーの!俺でも遠慮してんのに。」

「おじさま、乱馬君、あれは須弥山(しゅみせん)のレプリカよ。決して卑猥な物じゃないわよ。」
 なびきが笑いをこらえながら言った。
「シュミセン?何だそりゃ?三味線の仲間か?」
 また、聞き慣れぬ言葉に乱馬が目をパチクリさせた。
「古代の宇宙観を現したものとでもいうのかしらねー。これは須弥山という山をかたどって噴水にして庭先に置かれていたって説があるのよ…。」
 そう言いながら、なびきは須弥山を指差した。
「そうだよ、乱馬君。決して卑猥な石造物じゃないよ。れっきとした思想に基づく石造物だよ。」
 早雲がキリリッと言った。
「あれのどこが宇宙を表すんだ?てっぺんから水も噴き出てくるんだったら、まんま、男のブツじゃねーか。」
「もーやめなさいよっ!そういうデリカシーのない言葉を使うのはっ!」
 あかねが顔を真赤にして、乱馬に吐きつける。
 そのやりとりを聞いていた、他の観光客に、クスクス笑いをされる事態に業を煮やしたのだ。
「おめーだって、そう思ったんじゃねーのか?いやらしいとか言ってたよな?」
 乱馬が肘であかねを突きながら問い詰めた。
「うるっさいわねー!そんなこと思ってないわよ!」
「嘘つけっ!絶対、思ってた。」
「思ってないっ!」
 腹が立ったあかねは、庭先にあった池に、乱馬を蹴り落とした。

 バシャン!

「わたっ!こら、あかねー!てめー何しやがるっ!」
 たまらないのは乱馬の方だろう。
 春だとて、まだ水は冷たい。その上、水を浴びれば変身してしまう変態体質。
 案の定、すぐさま、女体へと変化を遂げた。
「てめーっ!冷たいじゃねーか!この野郎っ!風邪ひいたら、どーしてくれるんだ?」
 とあかねに対して、喧々ガクガク、文句を吐きつける。
「一回、高熱出して、生まれ変わってきたらどう?この、変態っ!」
 声高に、罵声を浴びせかける。
「んだと?この寸胴女!」
「言ったわね!」

 館内はすいてはいたが、唐突に、男が女に変化したのを、驚きの瞳で、他の見学者たちが一斉に、乱馬を見やった。中には好奇心の瞳を輝かせて、指をさしているカップルなども居る。
「ほら、今、あの子、男の子だったのに女の子に変身したわよね?」
「どーなってんだ?手品か?」
「どっかのテレビ局のどっきりじゃない?」
 そんな他人のひそひそ声など、耳に入らず、おかまいなしに、いつもどおりに言いあいをおっ始める、乱馬とあかね。

「たく、寸胴女!そんなんじゃ、男にもてねーぞ!」
「あんたみたいな変態に言われたかないわよ!」
「俺のは変態じゃなくて、体質だって言ってるだろーが!」
「はっ!どーだかっ!男のくせに、自分のデカ乳の自慢をする奴なんて、サイテー!」
「言ったな?このすっとこどっこいっ!」
 互いに袖を巻くしあげる。

「あーあ…。また、喧嘩がおっ始まったで…。」
 右京が苦笑いを浮かべながら吐き出した。
「二人とも、馬鹿ね…。」
 珊璞もため息混じりに言った。
「ホント、進歩が無いっていうか、相変わらずっていうか…。」
「何だかねえ…天道君…。」
「本当に、乱馬くんとあかねちゃんって、仲良しさんなのねえ…。」
 かすみだけ、にこにこと微笑みながら、二人のやり取りを眺めていた。
「ほらほら、そろそろ次へ行くわよ。」

 なびきが一行を促して、出口へと歩き出す。それに先導されて、一行は飛鳥資料館を後にした。




「たく…。風邪ひいたらどーしてくれるんだよ!」
 ブツブツと女化したままの乱馬が、自転車を漕ぎながら、並走するあかねに文句を吐きつける。
「馬鹿は風邪ひかないから、大丈夫でしょ?」
「何だとお?」

 自転車をきままに走らせて、様々な飛鳥の遺構や珍しい石などを見て回る。謎めいた石造物の一つ、「亀石」が、一行の行く手に待ち受けていた。
 ずんぐりむっくりの亀のような顔を持つこの石は、幹線道路の上にある小径(こみち)に何事もないように佇んでいる。すぐ傍に、茶店があるが、観光客目当てのその店が無かった頃は、本当に、田んぼの真ん中に存在していた感じであった。辺りに陵墓があるわけでもなければ、宮殿を思わせる建造物も確認されていない。
 高さ二メートルほどの亀形石だが、誰が何のためにそこに置いたのか、全く、見当もつかないのだ。
 飛鳥資料館を後にした乱馬たちも、高松塚の方向へ向かう途中、この不可思議な石に遭遇したのである。

「あやー、何か…この石…。亀さんの形してるね…。」
 シャンプーが真っ先に自転車を止めながら、指さした。

「これは亀石と呼ばれてるんだってさ。」
 石のすぐ脇の茶店で休んでいた若者が、一同に声をかけてきた。
 その脇には、ちょっと見たところ、乱馬たちより少しばかり年上の青年と、その彼女とおぼしき女性が休憩していた。共に、明日香村の随所に置かれている地図を手にしていた。喋っている言葉も標準語だったので、一目瞭然で観光客だとわかる。

「亀石…まんまやん!」
 右京が声をあげると、若者は笑いながら言った。
「確かに、まんまですねえ…。でも、この亀石、少しばかり不気味な言い伝えもあるそうですよ。今、その言い伝えについて、ご老人に伺っていたところなんです。」
 若者が言った。彼のすぐわきに、一人の老人が立っていて、いろいろ解説をしているようだった。
「そうじゃよ。この亀石が西を向けば、大変なことが起こると言い伝えられておるんや。」
「せやったら、おじいはん、今はどっちを向いているんや?」
 右京の問いかけに、老人は即答した。
「南西じゃよ。」
 老人は答えた。
「南西ねえ…。ってことは、西はあっちよね。」
 なびきは顔を西と思われる方へ顔を手向けた。
「大変なことが起こるって…。爺ちゃん、誰かが、この石を動かしたことでもあるんか?」
 右京が尋ねる。
「まさか!動かしなどしておったら、今現在、ワシらはここでこうしてはおらんよ。」
 お爺さんは、カラカラと笑い声をあげながら答えた。

 とその時だった。
 足元の地面が、ぐらっと揺れたように思った。

「じ…地震か?」
 そう乱馬が声をかけようとしたときだった。

 地面がひび割れて中から、叫び声が聞こえてきた。

「いったいここは、どこなんだーっ?」
 聞き覚のある少年の声だった。

「おい…この声、まさか…。」
 乱馬の声に、一同、固唾をのんで、地面を見守ること数秒。

「爆砕点穴!」
 そう叫ぶ声と共に、亀石の下の地面が、ばっくりと割れた。

「りょ…良牙君…。」
 あかねが声をかけると、土まみれのバックパックを背負った少年が、きょろきょろと辺りを見回しているのが見えた。
「あ…あかねさん。それに、乱馬に右京、それから珊璞まで…。ってことは、東京に戻って来れたのか?」

 さんざん、迷っていたのだろう。ガッツポーズする良牙の目が、うるうるとしている。

「おい、良牙…ここは東京じゃねーぜ。」
 この、方向音痴めと言わんばかりに、乱馬が良牙を見返した。

「からかうな!乱馬っ!東京だろ?かすみさんやなびきさんも居るし、おじさんも…天道家、全員、揃ってるじゃないか…。」
「天道家の面々がそろってたって、ここは東京じゃねーっつーのっ!」
 そう吐きだした乱馬など、相手にせず、己の思うがまま、行動する良牙。
「あかねさん、少ないがこれお土産。」
 そう言いながら、背負っていたリュックサックから土産物を取り出しにかかった。
 それを見て、乱馬は不機嫌に吐き飛ばす。
「俺のことは無視かよ…。」
「いつもありがとう、良牙君。」
 ニコニコしながら受け取るあかね。その笑顔に翻弄されつつ、良牙はポケットをまさぐる。
「あっ、そうそう、今回はあかねさんに特別な土産もあるんだ。」
「特別なお土産?」
「ああ…。えっと…どこへしまったかな…。っと…あったあった、これだ。」
 そう言いながら、良牙は、あかねの掌へと、黄色みがかったきれいな丸い石をあかねに差し出した。
「これ?」
「旅の途中で渡った川の川原で見つけた中の一つだよ。きれいだったから、ペンダントトップに加工してもらったんだ。」
「わあ、ほんと、きれいな石ね。」
 あかねは受け取りながら声を張り上げた。
「まだ、鎖はつけていないんだが…。貰ってくれますか?あかねさん。」
 キラキラとした瞳をあかねに差し向ける良牙を見て、乱馬が不機嫌そうに声をかけた。良牙とあかねの間に、顔を差し出して割り込みながら言葉をかける。
「ほう…。Pちゃんに似合いそうな石だな。」
「東京へ帰ったらPちゃんの首にかけてあげようかしら。」
 乱馬の言葉を真に受けて、あかねがそんなボケを言う。
「いや、Pちゃんじゃなくて、是非、あかねさんの首にかけて欲しいのだが…。」
 苦笑いしながら、突っ込む良牙を押しのけて、乱馬が口を挟んだ。
「P介も良く、迷子になるから、名前書いて、迷子札にしてやったら良いじゃん。うん、そうしなよ。」
 と乱馬があかねをそそのかす。この心の狭い男は、良牙のプレゼントに対し、ヤキモチしているようだ。たまりかねて、良牙が言った。
「乱馬!これはPちゃんへのお土産じゃなくて、あかねさんへの土産だ!わかるか?」
「あかねの手に渡った以上は、どう始末しようが、あかねの自由じゃねーか。別に、P介の迷子札にしたってよー。」
 乱馬と良牙の雲行きが怪しくなる。

「乱馬っ!からかうのもいい加減にしろよっ!」
 遂に、プッツンときた良牙が、乱馬に襲いかかった。
「へっ!からかってなんぞいねーよっと!」
 良牙が仕掛けて来た攻撃を軽くかわす。
 ムキになった良牙は、得意の「爆砕点穴」を連打し始めた。まわりからしてみれば、迷惑な技だ。ギャラリーたちは、すっと、横に避けて、苦笑いしながら二人の争いを見守る。

「爆砕点穴、乱れ打ちっ!」
 遊歩道脇の土塊が、弾け飛ぶ。
「わたっ!なにしやがるーっ!」
 飛んできた石つぶてを避けながら、乱馬がどなり散らす。
「爆砕点穴!爆砕点穴!」
 良牙はお構いなしに、爆砕点穴を連打し続ける。
「いい加減にしやがれっ!」
 頭に血が上った乱馬も、すっかり我を忘れて、戦いモードへと突入していく。
 良牙に対抗して、乱馬も爆砕点穴を打ちにかかる。
 二人して、爆砕点穴の打ち合いになてしまった。


「たく…二人とも、ホントに馬鹿なんだから…。」
 あかねは、はああっと大きな溜め息を吐きだす。二人のいさかいの主たる原因が己であるとは、彼女は気付いていないのだ。

 と、その時だった。

「あ――――っ!」
 傍で、老人の思い切り叫ぶ声が響いてきた。
 何事かと、一斉にそちらを向けば、老人が亀石をしきりに指さしながら、パクパクとやっていた。
「どうかしましたか?」
 そう言いながら早雲が老人に話しかけると、老人は血相を変えて叫んだ。
「亀石…亀石が…西を向いとるっ!」

「そういえば、さっきはこっちの方向を向いてたわねえ…。」
 なびきがそう言いながら、傍にあった棒きれで、さっき亀石が向いていた方向に線を引いた。
「こっちが南西とか言ってたなら…確かに、今、亀石が向いているのは…西ね。」
「あらまあ、それは大変ねえ…。」
 あっさりと言って退けたなびきに続いて、かすみがまったりと驚いてみせた。
「こりゃ、あれやなあ…良牙の爆砕点穴乱れ打ちのせいで、亀石の鎮座する地面が荒らされて、向きが変わったんやな…。」
 右京が冷静に分析する。
「ねえねえ…さっき、西に向いたら、大変なことが起こるとか、言ってなかった?」
 なびきの言葉に、
「あ、そういえば、そんなことを言っておられたな…。もし、御老人、亀石が西を向けば、どうなるというのです?」
 早雲が言葉をかけると、
「な…何てことじゃーっ!亀石が西を向けば…大和国(やまとのくに)は終わりじゃ…。奈良盆地が水に沈むんじゃ!」
 老人はへなへなと、その場へ崩れ落ちた。

「奈良盆地が水に沈むだって?」
 玄馬がきびすを返すと、老人は頷いた。

「そうじゃ。昔からの言い伝えによると、亀石が西を向けば、飛鳥は…いや、大和の国が水に沈むと言われておるんじゃ!お前さんがた、何てことをしなすったーっ!」
 と乱馬と良牙、二人に詰め寄った。
「別に何事も、起こらないぜ?」
 きょとんとした乱馬は辺りの様子を見渡しながら言った。
「沈むったら沈むと言われておるんじゃーっ!あー、もう駄目じゃ!この大和の国はおしまいじゃー!」
 老人は叫んだ。
「誰かーっ!こやつらが、亀石の向きを変えよった。こともあろうに、西に変えよった!」
 そう言いながら、老人は他の人を呼びに、走り去っていく。

「ねえ、乱馬君…。このままじゃ、不味いんじゃないの?勝手に方向を変えちゃったのって…。亀石って一応、歴史的建造物なんでしょ?罪に問われるかもよ…。」
 こそっとなびきが耳打ちした。
「うーん…。確かにな…。」
 腕組みしながら乱馬が頷く。
「しゃーねーなあ…おい、良牙。」
「あん?」
「この亀石の向きをこっちに直せ!」
「何だ?」

 きょとんとする良牙に、乱馬は言った。
「いいから…。直せと言ってるんだ!」

「嫌だ!何でおまえの頼みをきかにゃ、ならんのだ?」
 良牙は、己の行動が、亀石の向きを変えたことを、まだ理解していない様子だった。
 膨れっ面の良牙を見て、乱馬はあかねを振り返り、耳打ちした。
「あかね、ほら、おめーからも頼め!このままじゃ、俺たち、歴史的建造物破壊の罪でしょっぴかれっぞ。」
 その言葉に、あかねは頷いた。
「良牙くん、お願い。爆砕点穴を打って、あの亀さんの向きをこの方向にしてあげて!」
 そして、そう言いながら、媚びるように良牙を見やった。

「あかねさんの頼みなら…。この石をこっちへ向ければ良いんですね…。」
 良牙は、にへらーっと笑うと、。
「爆砕点穴!フォー、あかねさん!」
 そう言いながら、亀石の横を再び爆砕した。

 ズズーンと土煙りが上がって、亀石は再び、元の位置へと収まった。

「流石ね!良牙クン!ばっちりだわ。」
 そう声をあげたあかねに、良牙は頭をバリバリと掻きながら、言った。

「何、このくらい、何て事無いですよ。俺に任せてもらえれば、亀の向きなんて一発で変わります。何なら、もう一度、こっちへ向けましょうか?」
「いえ…。良牙クン、これ以上、向きを変えなくて良いわ。」

「たく…良牙、てめー、毎度毎度、訳のわかんねーことで突っかかってきやがって!」
「うるさいっ!訳のわからんことをグチャグチャ言ってるのは、おまえの方だろっ、乱馬っ!」
「たく!歴史的建造物を壊すところだったんだぜ!」
 一発触発の乱馬と良牙。それを止めに入るあかね。これもいつものパターンだ。
「あんたたち、やめなさいって!」
「止めないでください、あかねさん!今日こそ、こいつと決着をつけなくちゃならないんです!」
「けっ!いつでもきやがれ!このいかれ豚!」
「誰が豚だ、誰が!」
「もう、乱馬もいい加減にしなさいよ!また、亀石が変な方向を向いたらどうするのよ!」

 もめ始めた三人のところに、さっき、叫びながらどこかへ行った老人が、再び戻ってきた。

「お巡りさん!こっちです。この子たちが亀石の向きを…。」
 どうやら、駐在さんを呼びに行っていたようで、お巡りさんの手を引きながら、慌てふためいて戻ってきたようだった。
「亀石の向きがどうしましたかな?」
 お巡りさんが問いただすと、老人は言った。
「この子たちが、バチ当たりなことに、亀石の方向を西向きに…。」

「別に、いつもの向きですぞ。変わったところはないようですが…。」
 困惑しながら、お巡りさんは老人を円らな瞳で見やった。良牙の爆砕点穴によって、再び、亀石は元の方向へと向きを戻していたのだ。お巡りさんが首を傾げるのも、もっともな話だった。
「そんな筈はないでしょう?確かに亀石は西の方向を…。」
 そう言いながら、老人は亀石の方を指さした。が、さしたまま、老人は固まってしまった。亀石が見慣れた方向に向きを戻していたからだ。
「あれ…?戻っとる…?」
 
「爺さん、あんた、本官をからかってるんですか?」
「いや、確かに、亀石の方向をこの子たちが、あっちに…。」

「別に、俺たちは何もしてねーぜ。」
 老人の傍で、わざとらしく乱馬がうそぶいた。
「なあー、別に、何もしてねーよな?亀石も西なんて向いて無かったよな?」
 乱馬は確かめるように、あかねや他の天道家の面々、珊璞や右京に同意を求めた。わざわざ「西」という言葉を付ける辺り、取ってつけたような言い方だったが、一同は、コクンと一斉に頷いた。
 ここは穏便に済ませるためにも、すっとぼけるに限る。
 誰しも、そんなことはわかりきっていた。
 目を丸くしながら、固まっているカップルも、それに同調した。変な輩と関わりあいにならない方が得策だと、考えたのかもしれない。

「何、言ってんだ?乱馬…。」
 亀石の向きを変えてしまった良牙一人が、解せない顔で乱馬を見やる。
「良牙、いいから、おめーは黙ってろ!」
 と乱馬が睨むと、再び不穏な空気が二人の上を流れ始めた。が、あかねが「良牙クン、お願い!黙ってて!」と言わんばかりに両掌を合わせにかかると、良牙はそれ以上、乱馬に食ってかかるのは止めた。
 
「もう、ボケんとってくださいね。本官はそんなに暇やないんですよ。」
 駐在さんは、はああっと大きなため息をつくと、乗っていた自転車にまたがり去って行く。

「あれ…。確かに亀石は…西を向いていたのに…。」
 老人は、納得がいかないとぐるぐると亀石の周りをまわった。
「うーむ…。なあ、そこのお若いの、確かに亀石は向きを変えておったよな?」
 爺さんは、居合わせた若いカップルへと問いかける。カップルの男の方は、手を横に振りながら答えた。
「いえ…。僕らは何も見ていません。何も知りません…ねえ。」
 男は隣の連れの女へと声をかける。
 女も黙ったまま、コクコクと首を縦に振った。この二人も確かに、見ていた筈だ。乱馬と良牙の戦いっぷりを。が、厄介事に巻き込まれたくないという、旅人の本能が彼らをそういう言動へと駆り立てたのかもしれない。亀石が方向を変えたのがばれると、共々、面倒なことになるのは嫌だったに違いない。

「じゃ、あたしたちは、これで。そろそろ宿に帰らなきゃならないから。ほら、あんたたちも行くわよ!」
 そう言いながら、すっと、なびきが自転車を漕ぎ始めた。この場は、さっさと立ち去るに限る。
「そうだな…。もうじき日も暮れそうだからね。行こうか。」
 早雲が真っ先になびきに従った。
「ほな、さいなら。」
「再見!」
「ごきげんよう。」
 右京、珊璞、かすみの順番で、車輪は動きだす。

「ほら、早く行こうぜ…。」
「う…うん。」
 乱馬もあかねを促した。
 お巡りさんにボケ扱いされたおじいさんに対して、若干の罪悪感があったが、亀石の向きは一応、元通りに収まっている。あかねは、皆に引っ張られるように、自転車を漕ぎ始めた。

 天道家御一行様は、そそくさと亀石から立ち去った。撤収は実に見事であった。

「本官も失礼しますよ。特に、何も異常が無いですからね。」
 念を押すと、乱馬たちとは反対側の方向へと、お巡りさんも自転車を漕ぎだしていた。
 釈然としないのは、後に遺された老人だ。

「はて…確かに、亀石は動きよったが…。」
「まあ、良いではありませんか。ほら、亀石は、西を向いていませんし…ねえ。」
 若者が、そう声をかけた。
「そうじゃな…。一瞬、西を向いたとて、今はちゃんと南西を向いておるわい。それで良しとするかのう…。」

 その時、誰も、気がつかなかった。
 亀石を動かしたことで生じた、ある異変には。
 日本の、いや、古くは倭(やまと)と呼ばれた国の存在に関わる、異変に…。


 天道一行の後ろ姿をが見えなくなると、カップルの男の方がふううっと溜め息を吐きだした。

「驚いたねえ…。まさか、飛鳥入りして、早々に亀石を動かされちまうだなんて…。参ったな…。」
 そう言いながら、傍らの女へと声をかけた。
「先を越されちゃったわね…。」
 男の言葉を受けて、女が答えた。まだ、どことなく幼さが残る声だった。
 二人の目と鼻の先には、目を見開いたまま、動作を止めている良牙が居た。まるで、蝋人形にでもなったように、微動だにしない。
「仕方ないさ…。元々、僕らの占いでは、誰かに先を越されるという、卦(け)が出てたんだろ?」
 男の問いかけに、コクンと 女は頷きながら言った。
「まーそうだけど…。飛鳥の産土(うぶすな)たちに邪魔されたのかもね。」
 少し危惧した声が答えた。
「そりゃあ、そうだろう。この国の存在そのものを変えようとしているんだから…。ま、いいさ…。謀(はか)りごとは…多少の難点があった方が、愉しいじゃないか。」
 女の危惧など、気にしていないようで、男は気楽にそれに答えた。
「で?これから、どうするの?」
「ま、先を越されたら越されたで、仕方がないさ。でも…僕らの手で、この日の本の国を造り変える…その計画に変更は無いよ…。そうだろ?」
「そうね…。ここで諦めるだなんて、あたしたちらしくないわね。」
「ま、扉を開く手順が少し変わるだけさ…。」

 そう言いながら笑う男。その瞳が怪しげに光った。

「もちろん、亀石を動かした君にも、責任を持って…手伝ってもらうよ…。」
 そうつぶやくと、男は傍で気を失って倒れている良牙へと手をかけた。
「あら、女の子の方は、さっさと立ち去ったわよ。」
「何、そっちも抜かりはないさ。」
「ということは?」
「既に術を発動させたよ。式を放った。」
「抜け目ないわね。」
「当然!」
 男は笑った。

「賽は投げられた…。もう、後戻りはできない…。突き進むだけさ…。」

 そう呟くと、男は、左手で女の手を引き、右手で良牙を引きずりながら、亀石へと手をかけた。
 と、雷鳴のようなおどろおどろしい音が鳴り響き、辺りの景色が一瞬にして歪んだ。傍にあった茶店も、畔道も用水路も消えた。目の前に存在する亀石の背中が、一度大きくわなないた。
 ゆっくりと、亀石の目が見開いてゆく。そして、ぎょろりとした紅い瞳が、女と良牙を抱えた男を見据えた。
『汝、この結界を越えて時空を遡ろうとする者か?』
「ああ、そうだよ。」
『それは自然の摂理に逆らう行為と汲みしてなお、往こうとするか?』
 少し厳しい言が飛んだ。

「ああ…僕らは往かなければならないんだよ…。それが僕らの勤めだ。」
『勤めとは如何に?』
「おまえを作ったのは僕らの祖先だからだよ。時の狭間の番人。」

『御印は?』
「ここにある…。」
 男は、女の胸元を開き、衣服の下から覗く、大きな鏡を指し示した。
『まさしく、それは御印の宝物(ほうもつ)。良かろう…。…この扉を通るが良い…。ただし、どの時代へ辿るかはわからぬぞ…この時代へ戻れる保証もない…それでも良いか?』
「ああ、百も承知さ…。」
『ならば、存分に、通るが良い…。』

 ゴゴゴゴと大きく唸る音がし、石の亀が大きく口を開いて、男と女、そして良牙の三人を、勢いよく、飲み込んだ。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 辺りに人影はなく、誰も、その不可思議な光景を目撃することはなかった。
 三者を飲み込むと、亀石は何事も無かったかのように、静かに道端へと佇みかけている。

 そう、これが、この大いなる冒険譚の始まりであった。








ちょこっと解説 その1

 冒頭をどうるすか、かなり悩みました。
 長期休眠に入る前、「日々戯言」にて初稿を読まれた方は、あれっと思われた部分がかなりあったかと思います。プロットはもちろん、登場人物に関しても、かなり練り直しましたので…。
 平城京から始めるか、それとも藤原京から始めるか。実は、三通りの書き出しを書いたのですが、悩んだ末、石舞台から始めることを採択しました。蘇我氏滅亡とプロットは絡めないつもりだったのですが、もう一歩練り固めて、己の解釈で歪曲して…蘇我氏にも絡めて書きました。
 なお、斉明女帝についても、「不知火」で己の解釈で書いています。
 
石舞台古墳
 本文にあるとおり、蘇我馬子の墓説が昔から囁かれています。
 石舞台のある辺りは「島之庄」と呼ばれ、斉明女帝時代の嶋の宮があった場所とされています。飛鳥川沿いの「稲淵」にてその時代と思われる建物の痕跡が発掘されています。また、日本書紀の推古朝紀には、蘇我馬子が嶋に邸宅を持っていたという記載もあります。
 石舞台古墳を造営するため、その前にあった古墳がいくつか破壊された痕跡も発掘されています。昔は石舞台の陪塚(ばいちょう・死した家来や副葬品を埋めるための付属施設)と思われていたそうですが、今は別の古墳の名残だという説が通説になっています。また、度重なる調査の結果、石舞台古墳は「方墳」だったと推測されています。現在はその説を元に、墳丘が復元整備されています。
←クリオネ氏撮影「石舞台」

蘇我氏
 謎に包まれた古代豪族。蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿、この四名が燦然と古代史上に輝いています。
大悪人のように言われている蝦夷、入鹿父子ですが、なびきがぼやいているように、記紀は彼らと敵対した勝者によって記された歴史書ということを忘れてはいけません。大化の改新によって、蘇我の本宗家が焼かれ、記紀以前に編まれた主要な文献は焼かれてしまったとも言われています。
 なお、蘇我氏は武人として名高い「武内宿称」の子孫とされています。同じく古代豪族として一大勢力をはびこっていた葛城氏も武内宿称を祖ということになります。この他にも大陸から来た帰化人の一族だったとも言う説もありますが、はっきりとはわかっていません。

飛鳥寺
 蘇我馬子が発願して建立した我が国最初の仏教寺院。正式名称は法興寺。
 通説では、仏教の伝来は「五三八年」ということになっています。
 蘇我氏は中国大陸との造詣が深いと言われ、革新的技術を背景に持つ仏教を進んで取り込もうとしました。勿論、日本は「八百万の神」の国ですから、神道系の神との対立はあったわけで…。それが、物部守屋(廃仏派)と蘇我馬子(崇仏派)の争いとなります。結果、物部氏は蘇我氏の前に倒れました。
 蘇我氏の場合も、どこまで純粋に仏教に帰依していたのか不明な部分もあります。仏教と共に伝来した文化に惹かれての崇仏だったと理解した方が適切かもしれません。
 物部氏についての私見は、そのうち妄想と化してこの作品内に登場すると思いますのでここでは割愛します。
 なお、蘇我蝦夷の母は、つまり、馬子の妻は蘇我氏と敵対していた物部守屋の妹でした。もちろん、それも作品のソースとしてしっかり活用させていただきましたが…。


亀石
 川原寺跡近くの道に佇む、石造です。亀の形をした巨石で、この石が西の方向へ向くと、奈良盆地は水に沈んでしまうという言い伝えが古くからあるようです。


飛鳥資料館
 ここのところ、毎年のように開催される「キトラ古墳の壁画展」はこの資料館で五月頃に行われます。
 特別展だけではなく、多彩な常設展示物があります。例えば、山田廃寺の焼け焦げた発掘物が再現された部屋はなかなか見ごたえがあります。他にも、須弥山や人面石など、明日香の石造のレプリカが庭に並んでいます。
 古代史関係の資料も充実していますので、飛鳥の歴史が知りたければ、是非に訪れてください。


古代史検定

 適当に作りましたが、飛鳥検定というのが存在します。




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