夢現


「たく、何だって俺だけこんな宿題。」
 乱馬はぶつくさ言いながらあかねを振り返った。
「仕方ないでしょう。あんたが、全然、授業も聞かないし、ましてや家庭学習に勤しまなかった結果よ。」
 軽く、それをいなしながらあかねが乱馬を振り返った。
 水温む季節の柔らかな日差しが二人を包み込む。

 春の到来。
 この季節、唯一つだけ憂慮したいことがある。
 それは「進学」、「進級」のこと。
 人の世に区切りがある限り、それはついて回る概念。
 こと、ギリギリの状況でそれに臨む者にとっては結構、真剣な懸念材料にもなる。現に乱馬もそうであった。普段は何も気に懸けず動ぜずで気ままにやっているものだから、最後に焦ることになるのは、一般学生の多くの姿だろう。


「仕方がないじゃないの。あんた、この前の学年末考査、追試も含めて、尽く(ことごと)玉砕してしまったんだから。」
 と苦笑いしながらあかねは振り返った。
「んなこと言ったってよう…。」
 ぼりぼりと頭を掻きながら彼はぶすっと口を尖らせる。
「はいはい…。言い訳はいいの。他の教科はなんとか追試でクリアできたんでしょうけど、英語だけはねえ…。ひな子先生厳しいから。」
「俺にだけ特別厳しいような気もするけどな…。」
「本来なら落第したって仕方がないところ、補習講座と期末課題だけで何とか進級を許してくれるんだから、文句言わないの。」
「ちぇっ!だから何で俺だけ。」
「だから、それはあんたの成績が悪すぎるからじゃない。」
「はあ…。どこのどいつが「英語」を必須科目になんかしたんだろうな…。別に英語なんか読めずとも、日本(このくに)じゃあ充分生活できるってーのにっ!!」
「その国語だって散々だったんだから…。偉そうに言わない!あたしのおかげで古文も現文もなんとか規定点すれすれで追試、合格(クリア)できたんでしょうがっ!!あんまり文句ばっか垂れてたら、手伝ってあげないんだから!」
「おっ!手伝ってくれるんだ…。あかねちゃん。」

「擦り寄ってこないの。あんただって…。あたしが先に進級して取り残されたくないでしょうが。風林館高校の二年生、もう一回やりたい?」

 そう言われてぐっとなった。
 
 確かに。
 許婚のあかねと進級できなかったら、同級生や下級生たちの嘲笑を買うことになるだろう。先に卒業を決めた九能辺りに何を言われるかもわかったものじゃない。馬鹿に馬鹿と言われることくらい頭に来ることはない。


 天道家(うち)に帰り着いて、あかねの部屋へ直行。そして、ばさっと本を鞄から取り出した。
 英語科の二ノ宮ひな子から貰った課題は英語の本。
 「Greek myths」の一挿話 「Perseus and Andeomeda」。 「ギリシャ神話・ペルセウスとアンドロメダ」、直訳すればそうなる。
 「高校生のための長文読解シリーズ」と銘打たれている表紙を見ながら、はあっと溜息を吐く。

「まあ、ひな子先生、あんたのために、結構楽しそうな本、選んでくれたじゃない。」
 とあかねが笑う。勿論乱馬は不機嫌そのもの。
「何が楽しいもんかい!はあ…。英文読解なんて!」
「辞書片手にやるしかないじゃないの。」
「おめえ、訳してくれるんじゃねえのか?」
「あのねえ、これはあんたの課題でしょうが。アドバイスはしてあげるけど、自分でやんないと意味がないの、ほら。」
 そう言いながら和英辞典を乱馬に差し出した。
「ちぇっ!結局は自分でやれってか。冷たいなあ…。」
「冷たいとか言う問題じゃないでしょ。これは乱馬の課題なの。それとも、進級諦める?」
 ぶんぶんぶんと首を横に振った。
「まあ、はみ出したところに、特殊単語や用例はきちんと引っ張ってくれてるから、何とかあんたでも読めるでしょうよ…。で、最後に添付してあるこの用紙の問題を解いて春休みに入る前に提出するの。わかった?」
「はあ…。まるでおめえまで、先公の顔つきに見えてきやがんの!」
「つべこべ言わずにやんなさい!わからなかったら一緒に解説してあげるから!」

 とかく、勉強は苦手である。いや、長い間机に向かうこと自体、身体が抵抗をするようであった。
「何で武道家が英語相手に奮闘しなきゃならねーんだよっ!」
「武道家も国際化の時代なの!外国の試合に出かけたら困るでしょうが!ほら、今度はこのTAHT構文!」
 あかねは鉛筆片手に、辛抱強く乱馬に付き合った。
 乱馬当人は気付いていないが、付き合って貰える家庭教師が居るほどありがたいものはない。あかね教師に横から文句を差し込まれながらも、辞書を片手に繰りながら、読み進めた。

「へえ…。英雄譚かあ。」
「乱馬知らなかったんだ。ペルセウス神話。」
「知らねえよ、んなの。」
「いくつかあるギリシャ神話の中でも、結構有名な話よ。ペルセウスがアンドロメダを助けた話は。」
「よく似た話は、記紀神話にもなかったっけ?ほれ、何て言ったかな、ヤマタノオロチとか…。行きがけの駄賃でお姫様助ける話。」
「まあ、こういう神話は伝説は一つの類型があるからね。よく似た話はどこの国でも古くから語り継がれているもんなんでしょうけど。…御託(ごたく)は良いから、さっさと訳しちゃってしまいなさいな。」
「ハア…。辞書引くのも面倒くせえなあ…。」

 勉学に関しては、元来、飽き性と来ている。武道一般のことなら、まだしも、ただでさえ得意ではない英文字が並んでいるのだ。だんだんと効率は落ちていく。
 だが、それを見越したように一緒に並ぶあかね。一人きりならとうに投げ出していたかもしれない。

「へえ、乱馬君やる気になってるじゃない。」
 次姉のなびきが夕食時ににんまりと笑みを投げかけてきたほどだ。
「良いなあ…。乱馬は。可愛い家庭教師に恵まれて。わっはっは。」
 ご飯を勢い良くかっ込みながら、玄馬が笑う。
「あかねさん、乱馬をよろしく頼むよ。こいつが進級できるか否かは、この宿題にかかっておるのだろう?」
「うっせえよっ!たく、人事だと思いやがって。」
「勉学宜しい!仲良く頭を並べて進める、なお宜しい!乱馬君、あかねをよろしく頼むよ。」
「あのねえ、お父さん、宜しくされてるのはあたしの方なの。」
 あかねがむすっと父親を見返した。
「後片付けはこっちでやるから、あかね、乱馬君、頑張りなさいね。」
 かすみがにこにこと食べ終わった食器を片付けに入る。


「ちぇっ!皆人事だと思って。」
 乱馬はあかねの部屋の机に向かうと、鉛筆を取りながら、ほおおっと長い溜息を吐き出した。
「文句たれないで、さくさくやる!ほら、続き。」
 あかねは辞書を取り出して、どさっと乱馬の前に置いた。
 机を照らす蛍光灯が光り、再び、英文との格闘が始まる。

「えっと…。ペルセウスはアンドロメダを見つけて、近寄りかけたっと…。で、アンドロメダは大岩に縛り付けられていた。っと。」

 佳境に入りだした頃、急に庭先が賑やかになった。
 それも、乱馬の大嫌いな奴らの声だ。

 ニャー!ニャオーン!
 ミャアミャア…。

 そう、猫たちの声だ。
 それもどうやら集会かさかりでもついたようで、にゃあにゃあと耳に付いた。

 猫嫌いな乱馬はぎゅっと耳へと手を持っていく。
「ちょっと…。乱馬?」
 その動作にあかねは思わず彼を見返した。
「たく…。何なんだよ、あの猫(連中)。」
「そっか…乱馬は猫が苦手だったものね。」
 思わずくすっと笑ってしまった。
「誰だって一つや二つ、苦手はあるってんだ!」

 ニャアニャア、ミャン!

「でえっ!何かこっちへ近づいてないか?」
「あんたねえ…。猫は屋根の上も自由気ままに歩いてるんだから…。それに、窓は閉まってるから大丈夫よ。」
 神経質になりすぎよと言わんばかりにあかねは乱馬を振り返った。
 と、カリカリカリと窓ガラスを擦る音が響いてきた。
「あら?」
 その音に気が付いたあかねが立ち上がる。
「お、おい…。」
 乱馬ははっとしてあかねを見た。
「Pちゃんかもね…。いっつも、窓をああやって叩いて開けてくれって言うもの。もしかしたら、Pちゃん。猫たちに追いかけられてここまで逃げて来たのかも。」
 そう言ってあかねは部屋の窓をがらっと開いた。

「きゃ!」

 途端、飛び込んできた小動物一匹。次の瞬間、そいつは乱馬へと一目散、飛びついた。

「ぎ、ぎゃあーっ!!」

 ふわっと己にのしかかってきた小さなピンク色の塊。

「ね…。ね゛ごお〜…!」
 白目をむいて、そのまま固まった乱馬。

「シャ、シャンプー…。」
 あかねは猫に吐き出していた。
 そう、猫娘、シャンプーが乱入したのであった。
 シャンプー猫は乱馬を見つけると、真っ先に飛び込んで、ぺろぺろと顔中を舐めた。いや、彼女は、別にも客人を連れて来たようであった。
「ちょっと。シャンプー!!」
 いくら猫でも、乱馬に抱きつかれては面白くないあかね。そこへ飛び込んできた虎じまの立派な猫は、どうやらシャンプーに恋の季節の高ぶった気持ちをぶつけようと追い回していたようだ。それに続いて、数匹の雄猫が一緒に入ってきたから溜まらない。
 あかねの部屋が猫たちに占領されるまで、時間はかからなかった。

「猫が一匹…。猫が二匹…。」
 シャンプーに飛び掛られただけでもパニックになっていた乱馬は、案の定、そのまま、気が遠のいていく。










「もし…。」
「ん…。」
「もうし…。」


 白みあがった意識の向こう側で女性の声が響いてくる。

 はっとして目が開いた。
 辺りは薄ら暗い闇に覆われている。鼻先に磯の香。耳元に波の砕ける音が聞こえてくる。

「海辺…?」
 はっとして乱馬は辺りを見回した。
 飛び込んできた物を見て、暫くそこへ立ち尽くす。
 目の前に大きな岩があり、その岩陰に、彼女は後ろ手に縛り付けられていた。ふくよかな身体は、透き通るほど白く、愁いを帯びた瞳がじっとこちらを見据えていた。
「あかね?」
 乱馬は思わず彼女の名前を口に出していた。そうだ。顔はまさにあかねとそっくりであったからだ。
「おまえ、どうしたんだ?こんなところで…。」
 思わず無用心に彼女へと近寄ろうとした。

「待って!そこには結界がはってあります。」
 彼女の厳しい声が乱馬を制した。

「結界?」
 思わずその声に足がすくんだ。目を凝らすと、岩場に薄らぼんやり、赤い何かが不気味に浮かび上がっているのが見えた。
「結界って…。この赤い岩のことか?」
 乱馬は思わず彼女へと問い質していた。
 こくんと彼女の頭は揺れた。
「一体、何だってこんな…。」
 己の置かれた状況が理解できないまま、乱馬は岩に繋がれたあかねを見た。
「全ては私を生贄として怪物鯨へと捧げるために仕組まれたことですわ。」
 瞳は諦めの色を浮かべながら乱馬を見返した。
「怪物鯨?」
「ええ…。海王ポセイドンの眷属です。」

「怪物鯨にポセイドン…。岩に縛られた女性…。どっかで読んだようなシチュエーションだな…。」
 乱馬は考えを巡らせながら、はっと自分の姿を見て驚いた。
「な、何だ?この俺の格好!」
 思わず、手を持ち上げてきょろきょろと自分の装束に目を奪われた。
 いつものチャイナ服ではなく、どこから見てもギリシャ神話に出てくる西洋人のような格好である。
「趣味の悪いコスプレやってるみたいなだ…。」
 己の普段の装束のことなどそっちのけで、つい魅入ってしまった。着物とも洋服とも言いがたい、あの独特な白い衣装と皮のベルト。そして、足元はサンダル風な靴。腰にはそれらしい刀剣。まんま神話世界から飛び出したような格好であった。

「どうかなされました?」
 岩場のあかねが乱馬を不思議そうに見上げた。

「あのよう…。付かぬこと尋ねるが、おめえ、名前は何て言う?」
 
「ケフェウス王とカシオペア王妃の娘、アンドロメダです。」

「やっぱり…。」

「は?」

「あ、いや、こっちの事だ。」
 乱馬は思わず苦笑いした。
 どうやら夢の世界にでも居るのだろう。
 さてどうしたものか…。考えあぐねている乱馬に、あかねの顔をしたアンドロメダが言った。

「あのう…。あなた様は…。」

「多分、ペルセウスとかいう名前になるんだろうな…。この世界じゃあ。」

「ペルセウス様…とおっしゃいますと…。あの、ゼウス様とアクリシオス王ダナエ様との間に生まれたという…。」

「さあ、詳しいことは俺もわからねえけどな…。」
 深いところまでギリシャ神話を知らない乱馬だったから、自分が扮しているペルセウスという男が、どういう生い立ちでここに居るのか知らないでも当たり前だったろう。


「ま、そんなことより、おまえ、このままだったら、怪物鯨の餌食になちまうんだろ?」
 ついさっき訳していた英文から、問いかけた。
 彼の話しかけにアンドロメダは深く頭を垂れた。
「こうなる運命ですから、仕方がありませんわ。」

「おめえらしくねえ言葉だな…。あかね。」

「あかね?」

「あ、いや、今はアンドロメダか。まどろっこしくっていけねえや。それはさておき、たく…。ポセイドンの野郎も心が狭いよなあ…。ちょっとおめえの母親のカシオペアがてめえの娘の美しさを自慢しただけでよう…。」
 さっき訳した文章を思い出しながら乱馬はじっとアンドロメダを見た。知りうる限りの情報を駆使して、アンドロメダと対峙したのである。
「あの…。そんなことわかるのですか?あなたと私は今が初対面ですが…。」
「ま、夢の中だからな。」
「夢?」
「そんなことはどうでもいいや…。それより、助けてやるよ。」
「助けるってどうやって…。」
 アンドロメダは驚いて乱馬を眺めた。
「この鎖を解こうにも、ポセイドン王はこちらへ入れないように結界を張っていますし…。無闇に結界を越えると、あなたの身体は砕けてしまいますわ。この鎖は怪物鯨を倒さないと解けないように術まで施されています。」

「たく…。陰湿なやり方だよなあ…。まあ、何とかなるんじゃねえか?俺がペルセウスだったら。」

 乱馬はそう言うと、力づけるように彼女を見返してにっと笑った。

「でも…。」

「たく…。人の好意を素直に受け入れないところは、やっぱ、おまえ、あかねそのまんまだな。」
「え?」
「だから、俺が助けるっつったら絶対助ける。それに…。もうやっこさん、近くまで来てるみてえだしな…。」
 乱馬はきっと絶壁の上から荒れ狂う夜の海を睨み付けた。
 吹き付けてくる強い風の中に、そいつの、化物の気配を微かだが嗅ぎ取ったのである。
 じっと闇に目を凝らすと、確かに、もっと黒い闇がこちら目掛けて襲い来る。そんな感じだった。

「へっ!夢ってえのはこっちにも都合がいいみてえだな…。」

 闇の到来と共に、立ち込めた暗雲から、風雨が激しく打ち付け始める。それを全身に浴びながらも、彼は女へと変身を遂げないで居た。そう、どうやら夢の世界では、呪泉の水は無効になるらしかった。
 女に変身しないでよいのなら、乱馬にとっては好都合だった。変身しないで良いならば、腕力や瞬発力が落ちない。女になる身を庇わなくても済む。それだけ戦いに集中もしやすいだろう。

「へへ…。夢ん中でも格闘家の血がぞわぞわと戦慄しやがるぜ。」

 不思議と怖さもない。それはあかねの姿を借りたアンドロメダが後ろで心配そうに見詰めているからかもしれない。男は愛する女の前では最強になれるものだ。これが己の夢の世界であるならば、やはり、後ろに居るのはあかね自身だろう。彼女を護りたい。それはどんな世界に居ても不変の己の心情だった。
 


「我が生贄の前に立ち塞がるは、どこのどいつだ!!」

 黒天からいきなり轟き渡る怒声。

「我が名はペルセウス。ゆえあってアンドロメダ王女を化物からお護りする!」

 空を藪にらみして吐き出していた。

「ふん!猪口才(ちょこざい)な!男を喰らう趣味はないが、邪魔立てするなら容赦はせぬっ!」

 そいつは乱馬の前で戦慄いて見せた。計り切れないほど大きな塊が、乱馬の目の前でバシャッと跳ね上がった。黒い海の中からそいつは迫り出し、大きく裂けた口を乱馬の前に開いて見せた。
 どおおっと音がして水飛沫が上がる。海面を揺るがすように再び水へと落ちていく。尋常な様ではなかった。

「もうし!ペルセウスさまとやら、どうか、このままお逃げください。私のために命を落とすなどというそんな馬鹿な真似は…。」

 アンドロメダが叫んだ。

「だから、任せておけっ!俺はどんな場合でもおまえを助ける!そういう運命を有しているんだ!あかねっ!いや、アンドロメダっ!」

 乱馬はそれだけを言い切ると、腰に結わえていた刀剣を抜いた。光の白刃が闇の中に浮かび上がる。そして、そのまま、崖から振りかぶって下へと飛び出した。
 大鯨はそれを待ち受けていたかのように、海面から競りあがってくる。
「させるかっ!!」
 大きく開いた目を目掛けて刀剣を振り下ろす。がっと鈍い音がして、鯨の眦(まなじり)が裂けた。

「ぐえええっ!!」

 顔を引き裂かれて、鯨が呻いた。そのまま鯨は海へと沈み込む。
 

「畜生!!小僧!!」
 憎々しげに鯨は海面から声を絞り出す。

 乱馬は、海面へとずり落ちることなく、空へと浮き上がっていた。
(考えたとおりだ。この靴、空を自在に飛べる。)
 己がペルセウスへと転生しているのなら、飛んでここまでやってきた筈。だから、一か八かの賭けに出て、崖上から跳んだのである。駄目だったら夢から覚めるだけ。そう高をくくった。
 乱馬は何度も浮き上がってくる、鯨向けて、持っていた剣を振りかざした。その度に、鯨は傷を作りながら沈んで行く。乱馬の強さは、アンドロメダも思わず見惚れた程だ。
 乱馬は何度目か剣を繰り出した後、そのままゆっくりとアンドロメダが縛られている絶壁辺りまで上昇していた。

「ペルセウス様っ!後ろっ!!」

 と、唐突にアンドロメダの怒声が響き渡った。

「な、何?」

 崖を切り崩すように、下から大きな塊が乱馬目掛けて動いた。バリバリと音がして岩が砕け散る音。そして、乱馬の傍を大きな鯨の尻尾が通り抜けた。
 今までのパターンから浮き上がってくる場所を背後へと転じた、鯨の苦肉の攻撃だった。だが、これが思わぬ功を奏した。

「くっ!!」
 思わず腕を十字にしてそれを避けた。
 と、その拍子だった、持っていた刀剣がするりと手から剥がれ落ちたのだ。
「しまった!」
 光る刃が、吸い込まれるように海面へと落ちていく。

「へっへっへ…。あの物騒な剣は俺様が剥ぎ取った。」
 鯨は憎々しげにそう言い放つと、再び海面へと沈んでいく。
「小僧!良くも、俺様に傷を付けてくれたな。…このお礼はこれからタップリとしてやるから覚悟しろ!」
 海の底から不気味な声が響きだす。

 バランスを失った乱馬は、それでもすぐに体を起こし、すぐに次に来る攻撃をかわせるように身構える。

「大丈夫ですか?」
 アンドロメダが心配そうな声を張り上げた。

「勿論、大丈夫だ。」
 乱馬ははあっと丹田へと息を溜め込んだ。
 体中の気を一点に集めた。そう、気を浮き上がってくる鯨へとぶちかまそうと思ったのだ。
 思ったとおり、鯨は今度は真下から乱馬を飲み込もうと競りあがってきた。

「剣を持っていないおまえなど、恐るるに足らず。この口中に飲み込んでやるっ!!」
 そう言いながら大鯨は乱馬を真下から一口で飲み込んだ。

「ペルセウス様あっ!!」
 岩に縛り付けられた手を、アンドロメダは懸命に揺り動かして、乱馬の名前を呼んだ。だが、水飛沫の音は、そんな怒声をもかき消して、しまった。
 乱馬は鯨の口に吸い込まれるように飲み込まれてしまった。
「ペルセウス様あっ!!」
 アンドロメダは頭を横に振り続けながら、その名を呼んだ。
 だが、彼の声は最早どこからも響いては来ない。
 やがて、鯨は、岩へとお腹から迫り出し、アンドロメダが縛られている岩間へと顔を手向けた。真っ黒でおどろおどろしい身体のそこら中に、海草や藻がこびりついている。ぬるぬるした皮が、水を滴らせながらあかねへと延び上がる。

「ふっふっふ…。カシオペアが自慢するだけあって、美しい娘よ…。私の生贄は。」

 そう言いながらにっと笑いかけた。

「ああ、ペルセウス様…。」
 絶望感がアンドロメダを覆っていた。つうっと涙が一筋、俯いた顔から滴り落ちる。

「泣け、わめけ。そして己の運命を呪うんだな…。その方が肉が引き締まり、極上の旨味を出す。そうだな…。頭からがぶりもいいが、やはり泣き喚く声も聴きたいから足からでも良かろう…。美女の血肉は寿命を百年は先へと伸ばしてくれるからな…。おまえの断末魔を聴きながら極上の美女を我が腹に…。腹の中ではきっとさっきの小僧も屍となって待ち受けていることだろうよ…。すぐにあわせてやるさ。アンドロメダ。」
 大鯨はそう言うと、天に向かって水飛沫を上げた。と、それを合図に、アンドロメダの繋がれた岩場を覆っていた結界がすっと消えた。赤い岩は、ごくありぶれた普通の岩へと取って代わる。

「さあ…。どこから喰らい付こうか。」

 そう言いながら大鯨があかねへと迫り出したその時だった。
 ぱあっと光が鯨の腹の辺りから差し込めてくる。

「な、何っ?」

 驚いたのは大鯨。次の瞬間、鯨の潮吹き穴へと強い光が貫いて、潮と共に乱馬が飛び出したからだ。


「ペルセウス様…。」
 アンドロメダははっとしてその勇姿を見上げた。


「小僧!貴様、しぶとく生きていやがったかっ!」
 はっしと睨みつけてくる鯨の大きな瞳。それに気後れすることなく、乱馬が言った。

「へへ、俺はそう簡単にはくたばらねえぞ、鯨の化物!」
 乱馬は結界の解けた岩場へと立ち塞がり、アンドロメダの目の前で見構えて見せた。それから、溜め込んでいた気をもう一発、鯨のどてっぱらへと打ち込んだ。

「痛ってえっ!!」
 鯨はもんどりうちながら、崖から滑り落ちた。そして、再び海中へとザブン。ぶくぶくと大きな身体が沈む音がする。勿論、このまま終わったわけではあるまい。

「アンドロメダ、俺が合図したら、目を閉じろ。」
 乱馬は己の持っていた荷物を解きながら、アンドロメダに言い放った。
「は、はい…。」
「事が終わるまで決して目を開けるな。いいなっ!」
 念を押すように言い放つ。

「勝負だっ!怪物鯨っ!!今度でケリをつけてやるっ!!」
 それから崖へと立ち上がると、海面に向かってがなりたてた。

「小僧!今度こそ、骨まで噛み砕いてやる!!そこで待ってろ!!」
 水面から大きな声が鳴り響いた。海が怒ったようにうねりをあげた。海面で唸っていた渦が、一瞬だが、静かになった。不気味な静寂がほんのひと時だが、岩場を覆う。
 それから、ゴゴゴと海面が唸り始めた。何かとてつもない怒りがこみ上げてくる。そんな前兆だった。

「アンドロメダっ!目を閉じろっ!しっかりとだ。絶対こっちを見るなっ!!」
 乱馬はそれだけと言い放つと、持っていた布袋を天井に翳し、はらりと解いた。
 そこに掲げられていたものは「メデューサ」の生首。まだ生きている蛇が髪の毛のように蠢く、そのおどろおどろしさは、語りつくす言葉がない。乱馬は翳した生首を海面に向かって差し向けた。鋭いメデューサの眼光が海面から這い上がってきた大鯨を捉えた。
 メデューサの冷たい氷の視線は、釘付けた者を岩に変える。
 そう、メデューサと不幸にも視線を合わせてしまった大鯨は、頭先からバリバリと岩へと変化を始めた。 上半身を海面から迫り出したまま、辺りの海水と共に岩へと瞬時に変化していく。大きく見開いた目も、裂けた口も、全てが堅い岩へと変貌を遂げてしまう。
 やがて荒れ狂っていた海は、その躍動をピタリと止めたように静まり返る。

「終わったか…。」
 乱馬は気配を止めた荒海へそう言葉を吐きかけると、持っていた生首を見ないように再び布切れの中へと大事そうに納めた。

「へへへ…。殆ど最後まで真面目に自分で訳しておいてよかったぜ。ペルセウスはアルゴスの王、アクリシオスにメデューサの首を取ってくるように命令されて、その帰り道にアンドロメダと出会ったんだよ…。寸でのところで思い出したよ。もしやと思って懐をまさぐったら、やっぱりメデューサの生首持ってたんだ。」

 乱馬はそう一人ごちた後、アンドロメダを振り返った。

「いいぜ…。アンドロメダ。全ては終わった。」
 
 その言葉に堰き止められていた想いが一気に流れたのだろう。アンドロメダがいきなり、乱馬へと抱きついてきた。
 彼女を縛っていた鎖は解けて、手も足も自由になっていたのだ。

「お、おい…。」
 突然抱きつかれて、いつものように石化しかかる。
「怖かった…。私、物凄く、怖かったの。」
 震える肩へそっと手を置いてみた。
 ドクンっと己の心臓が一つ跳ね上がって、そこで緊張が一気にほぐれた。

(良い匂いだ…。あかねと同じ。)

 身体が自然に彼女を己の方へと抱き寄せていた。
 たまらなく愛しい女性。たとえ、今しがた出会っただけでも、引き寄せあう運命は変わらない。
 どんな世界へ転生しても、あかねはあかねだ。
 心からそう思った。

「なあ、俺と一緒に来ないか?」
 抱き寄せながら甘く耳元で囁いてみる。
 コクンと小さな頭が揺れた。
「私で良いのなら…。」
 その返事にさらにぎゅっと力が入る。頭を沈めこむように抱きかかえると、そっと顔を近づけていった。
 

 夢の中でも愛しい人。


 短く切りそろえられた髪の毛に軽く手を添えると、ふっと目を閉じた。
 そっと触れる桜色の甘い唇。


「あかね…。」

 唇の下で、この世で一番愛しい名を呼ぶ。










 パアン!!


 脳天がかち割られるかと思うようなくらいきつい衝撃が突き抜ける。


「ほへ?」
 気がつくとそこは柔らかいベッドの上。見慣れた風景が逆になっている。頭を下に、肩で身体を支えているではないか。手足は壁際に大の字に張り付いている。
 目の前には物凄い形相をしたあかね。殴りつけたままの格好で肩で息を切らせている。頬は真っ赤に染まっている。

「あかね…?」

 そのままバランスを崩してベッドの上にどさっと身を投げ出した。

「あーらら、折角良いところだったのに…。」
 ぎいっと戸が開いて、覗き込むのは天道家の面々。なびきなどはハンディビデオを回している。それと目が合った。

「なっ、何だ?何だ?何なんだ?」

 一体自分の身の上に何が起こったのか、理解できずに乱馬はきょとんと、怒るあかねと天道家の好奇の面々を交互に見返した。

「もう、知らないっ!!」
 天道家の人々が自室に雪崩れ込んだことにショックを受けたのか、あかねは真っ赤なに顔を熟れさせたまま、駆け出して行ってしまった。

「あ、あかね?」

 どぎまぎする乱馬に、なびきがつつっと近寄って来て言った。

「あんたもやるわねえ…。」
「何がだよ!」
 訳の分からない乱馬はなびきをきっと睨み返す。
「あかねにディープキスしちゃうなんて、ホント、猫になったら大胆極まりないんだから。」

「あん?猫?」

「あら、あんたさ、シャンプーがたくさんの野良猫引き連れてこの部屋に乱入してから、いつものようにプッツン逝っちゃったのよ。」
 とくすくすなびきが笑い転げた。
「な、何いっ?じゃ何か?今の今まで俺は猫化していたのかようっ!!」

 だらだらと汗が流れてきた。
「じゃあ、今までのは一体全体何だって言うんだ?ペルセウスは?アンドロメダは?」
「それって乱馬君があかねと訳していたこの本のことかしら?」
 ぴらぴらとなびきは目の前に英本をひらつかせた。
「まさかと思うけど、あんたさあ…。ペルセウスになってたとか…。あかねはアンドロメダで…。」
 じろっとなびきが視線を投げかけてきた。

 ぎくっ!!

 乱馬の肩が少しだけ動いた。

「そっか…。猫化してペルセウスになって暴れてたんだ。」
「暴れてた?」
「いつもの如くよ…。」
 その反応を受けて、なびきは開ききった窓の外を指差した。

「げっ!」

 窓の下には、えぐられた木肌やこそげ落ちた石灯籠などが、散乱している。

「おじさまなんか、あんたに蹴られるわ殴られるわで、ほうら…。」
 早乙女玄馬がパンダのなりのまま、傷だらけでじっとこちらを見据えている。その脇で笑う早雲の腕や足にも真っ白い包帯が痛々しい。

 あかねにご登場願ったら、あんたったら、そんまんま、あかねを抱いちゃってさ、嬉しそうにこの部屋へ帰って来たってわけ。で、こう、あかねをぎゅううっと抱きしめて…。」
 なびきは空でキスの真似をしてみせる。

 もしかして、猫化したまんま、あの夢見てたのか?俺…。

 汗はだらだら流れてくる。

「ま、こっそりビデオに納めてたんだけど…詳細はあとでこのビデオ検証してみたらわかるから…。あ、御代は三千円でいいわ。あんたもいろいろと大変でしょうからね。」


 やられたというよりは、やっちまったという気持ちの方が大きかったかもしれない。







「もう、あんたったら、猫化したら本当に、手が付けられないんだからっ!!」
 皆が部屋から退散した後、戻ってきたあかねは、まだプリプリと怒っている。
 乱馬は黙々と散乱した庭とあかねの部屋を片していた。
「ご…ごめん。」
 一応謝った。
「もういいわよ…。覚えてないんでしょう?猫化したときのことは。」

「ああ…。責任のある記憶はねえ…。でも…。」
 ちらっとあかねの横顔を見上げた。
「夢ん中で必死でおまえ護ろうと闘ってた。でっかい鯨と…。」
「もしかしておじさま鯨に見立てて挑んでたの?」
「ああ…多分な。ペルセウスになってアンドロメダのおまえを護ってた…。」
「ペルセウスとアンドロメダねえ…。」
 あかねは床に落ちていた英本をつまみ上げた。
「でも…。たとえ猫化してても夢の中でも…。その…。おまえが一番だということだけは変わらねえさ…。」
 静寂が二人の上を流れていく。
「なあ、ペルセウスとアンドロメダってその後どうなったんだ?俺、まだ、メデューサの首を抱えるところまでしか訳してねえから。」
 その問い掛けにあかねはふっと頬を緩めた。
「アンドロメダを助けた後、結婚したわ、二人はね…。いろいろゴタゴタがあったみたいだけど、結婚して子供も儲けたって。それから二人は死後、天に上げられて星になって今も輝いてるわ。秋の夜空にアンドロメダ座とペルセウス座としてね…。」
「そっか…。良かった。」
 その結末を聴いて、自然に言葉が漏れた。何故か安堵したのだ。
「良かったって、何が?」
 いたずらっぽい瞳が乱馬を追いかけて来た。
「って…。いいだろ…。別に。」
 
 真っ赤に熟れた顔を背けながら、乱馬はそっとあかねの肩を引き寄せた。
「乱馬?」
 はっとして見上げるあかねの小さな頭をトンっと胸に抱き沈めると、たおやかに囁いた。
「やっぱ、ハッピーエンドが良いよな…。どんな話も。」
 そう言いながら目を閉じる。
「今度はアンドロメダじゃなくって、あかねに甘いキスを…。」
「馬鹿…。」





 合わせる唇は春の息吹を運んでくる。
 春の夢と現の物語を言の葉の代わりに紡ぎ出す。
 永久に色褪せ甘い恋の輝きをその瞳の中に瞬かせながら。


 


 完




 





 
 




 




 で、宿題課題はどうなったの?乱馬君。(それを言っちゃあお終いか?)
 妄想暴走。
 まさにその通りの突発的一本。猫化している乱馬ってこんな妄想してるのかも…。

 この作品から妄想を修正し、仕切りなおしたのが「制多迦と金加羅3」になりました。。
 ペルセウスとアンドロメダを記紀でたとえると、須佐之男と櫛稲田姫になるかなあ…。なもので、制多迦と金加羅では出雲伝説を劇中劇に採用しました。
 やっぱり、ギリシャ神話より、一之瀬創作は記紀神話の方がすんなりと馴染む。
 いつかは、記紀を底本に英雄譚書いてみたいです。

ずっと、パソコンの底に眠ったままいたのを発掘…これってアップしていたのかなあ…。(一切の記憶なし)

(2004年6月作品)

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