◆ピュア


一、

「乱馬、御飯がすんだら後で私のところへ来なさいね。」

 それは、のどかの一言で始まった。

 うららかな初夏の休日。そよそよと吹く風に木陰も心地良く揺れている天道家の朝。
 巷はゴールデンウィーク。でも、取り立てて何処へ出かける用事も無く、普段とあまり変わらない。もし、少し変化があるとしたら、戦場のような慌しいいつもの朝とは違って、ゆっくりと時間が流れていることくらいだろう。

 何か小言でも言われるのかと思い、構えながらも、のどかの寝起きしている天道家の奥の間に行ってみる。

「はい、これ。」
 と言って渡されたのは、五千円札が一枚。
「これ?」
 お小遣いはこの前貰ったばかりだと、怪訝な顔をのどかへと返す。受け取るのを一瞬躊躇うと、のどかはにこにこと笑いながら続けた。

「今日はあかねちゃんのお誕生日なんですって。」

 その一言で、事の仔細は飲み込めた。
 どうやらのどかは、このお金で、何某かのプレゼントを買って来いとでも言いたいのだろう。
 だが乱馬は一瞬、どうリアクションを返せば良いのか、戸惑った表情を浮かべた。
 というより、あかねの誕生日のことなど、すっかり忘却の彼方に入っていた自分へカツを入れられたような気がする。

「あなたはあかねちゃんの許婚なんだから。ささやかでも、お祝いの気持ちを形にしてあげなさい、ね?」

 母はにっこりと息子に向かって微笑みかけた。


 清々しく晴れ渡った空。
 お天気は上々。
 世はゴールデンウイーク真っ只中。
 母から貰った五千円札を懐に、どうしたものだか考えてみる。
 高校生のお小遣いからしてみれば、結構な額である。勿論、金額の問題ではないが、どんなものをプレゼントすれば、あかねが喜ぶのか。皆目検討はつかない。
 そんな乱馬の様子を知ってか知らずか、脇を通る、天道家の人々はそれぞれがマイペースだ。
 さりげなく当人を誘って、街へ出ることも考えた。だが、この不器用な少年は、あかねを誘うまでの道のりが長すぎる。

「乱馬君…。今日はあかねの誕生日なの知ってる?」

 通り際になびきが早速ちょっかいを出してきた。
「それがどうしたんだよ!」
 むすっと返答をする。
「いいのかなあ…。許婚がぼんやりしちゃって。誘うんだったら、さっさとしないと…。」
 真後ろでむふふと止った。
 背後の茶の間では、早雲と玄馬が、かすみが運んできた渋茶を、ずずずっと啜っている。だが、全神経は乱馬の方へ手向けられていて、耳を澄まされているのがわかるのである。
 こうなると、どうにもいけなかった。ヘソを曲げたくなるのも、この少年の悪いところ。
「関係ねえよっ!」
 とついぶっきら棒に吐き出してしまう。
「あらそう?」
 なびきは意味深な笑みを浮かべると、向こうへと行ってしまった。その言葉に、後ろの親父たちも、一斉に溜息を吐き出したように思えた。

 何となく、居心地が悪くなって、茶の間から立ち去ろうと腰を上げた瞬間、向こう側の土塀がボロッと崩れて、一台のママチャリがチリリンと呼び鈴を鳴らしながら現われた。シャンプーである。

「ニーハオ!乱馬。お天気上々、デート行くよろしっ!」
 ピクニックバスケットを前籠に乗せて、上機嫌なお邪魔娘。
 
「こ、こらっ!シャンプー。あれほど、塀を壊さず、玄関から入って来いって言ってるのにてめえは…。」
 一応、諭すように彼女を見上げる。だが、シャンプーはそんなことにはお構い無しに、マイペースだ。
「乱馬っ!せっかくの休日。有意義に過ごすね。」
 そう言いながら、ぎゅうっと乱馬に抱きついて来る。詫びなんぞ入れる気もない。いや、塀を壊すことが悪いことだという倫理観すらないのだろう。
「わっ!こらっ!てめえ、何しやがるっ!!」
 仰向けに押し倒されるように、縁側へ転がった。それでも、お構い無しに、むぎゅうっと抱きついて来る、シャンプー。
 と、背後でズゴゴゴっと殺気を感じた。恐る恐る仰ぎ見ると、あかねが物凄い形相でこちらを睨みすえているのが見て取れた。

「あ、あかね…。あの…、その…、これはだな。」

 シャンプーにしがみつかれた身体を起こしながら、漏れる「言い訳」。
 浮気現場を目撃された亭主のようだ。

 勿論、あかねには通用しない。

 バシャッといきなり、かすみが縁側に置いていた、雑巾バケツを頭上から浴びせかけられた。

「わたっ!!冷てえっ!あかね、てめえ、何しやがんでいっ!」
 と、声をあげたところで、みるみる女変化する己の身体。いや、己だけではなく、ぎゅうっと抱きついていたシャンプーまでもが変化してしまったものだから溜まらない。
 シャンプーといえば、水を浴びると、猫に変化する。その猫が超苦手な乱馬。その結果がどうなるか、火を見るよりも明らかであろう。

「うぎゃああっ!」
 乱馬は最大の悲鳴を上げる。。
「みゃあうっ!」
 それでも背中の上からひしっとしがみついて離れようとしないシャンプー。
「ねこっ!ねこっ!ねごーっ!!!」
 絶唱しながら、猫娘を振り切ろうと、無意識に走り回る。
 その後はお決まりの自壊。
 縦横無尽に庭先を走り回った末に、ドゴンと土塀に突進して打ち付けてしまった。
 ホワイトアウトする耳元に、遠くで電話が鳴る音が聞こえて来た。




「て、てめえっ!あかねっ!ヤキモチを焼くのもいい加減に…。」
 何とか断って、シャンプーに帰って貰った後、乱馬はむすっと言葉を吐きつけた。
「だーれがあんたなんかにヤキモチなんて焼くものですかっ!!」

 フンと鼻息を飛ばされる。目の前で、勝気な少女は思いっきりソッポを向く。

「あれ?おめえ、どっか出かけるのか?」

 ズタボロになった衣服を払いながら、乱馬は言葉を切った。目の前の少女が、普段よりも少し、めかしこんでいたからだ。
「何よ…。」
「いや、別に…。」
 思わず口ごもった。
「あたしが何処へ出かけようと、あんたには関係ないでしょっ!」
 シャンプーが絡んだドタバタの後だけにあかねは愛想が悪い。
「たく、そんなだと、嫁の貰い手がねえぞ!」
 パンパンとズボンの裾を打ち払う。と、
「やかましいっ!!」
 クロスカウンターが顔面に炸裂した。

「とにかく、あたしがどこへ行こうと、あんたには関係ないんだからっ!!」

 そう言葉を吐きつけると、あかねはドスドスと廊下を渡って、行ってしまった。

「てて、いててて…。たくうっ!何だってんだよっ!あの凶暴女はあっ!!」
 腫れあがった頬を撫でながら、つい、そんな言葉が漏れて出た。

「あーらら、残念!あかねに逃げられちゃったんだ、乱馬君。」
 一部始終を見ていたのか、なびきがにやにやと近寄ってきた。
「ホント、先にブッキングしとかないからよ。あかねはさっき、友達から電話がかかってきて、今日の予定決めたところよ。」
 などと敗因を分析までしてくれる。
「う、うるせーよっ!!」
 殴られた頬がヒリヒリと痛いのを我慢しながら、つい口を尖らせてしまった。
「で、暇になったところで…。」
 なびきはついっと乱馬の襟ぐりを掴んだ。それから、にっこりと悪魔の微笑みを投げかけた。

「今日は一日、あたしにつきあってちょうだいな!」



二、


「おいっ!こらっ!」
 乱馬は思わずなびきに声を荒げた。

「あら、なあに?」
 乱馬の腕を引きながら、なびきがつっと振り返った。

「おめえな、一日付き合えって言って、こんな格好させて、どこまで俺を連れて行く気なんだ?」
 完全に困惑しきった乱馬の顔がそこにあった。
 当然であろう。
 男の姿ならまだしも、女に変化させられて、おまけに、ひらひらのワンピース。髪の毛はポニーテールまでさせられている。
 かすみさんがめかしこむのを手伝った成果が、露骨に表れているのだ。
「いいから、いいから。」
 嫌がる乱馬の手を引きながら、なびきはたったか歩いていた。
「ちっとも良くねえっ!!」
 すぐ傍で聞こえる乱馬の怒声など、知らぬ存ぜぬだ。
 ぐいぐいと引っ張られて、電車に揺られ、都心へと連れて来られた。

「ここよ。」
 なびきはにっこりと乱馬に微笑みかけた。
 ビューティフル化粧品ビル。そんな名前が目に飛び込む。化粧品会社の販売店兼営業所のようで、軒先には、ここぞとばかりに化粧品が並びまくっている。勿論、殆どが女性用だ。

「ちょっと待て!何だここはっ!!」
 思わず前で立ち止まる乱馬。
「今日一日、ここでアルバイトしてもらうからね。」
「アルバイトぉ?」
 怪訝な声を張り上げた乱馬に、なびきは更に追い討ちをかける。
「コスメティックモデルさんをやってもらうからね。」

「なっ、何いーっ?」

 青天の霹靂。
 それは、強引ななびきの押し付けアルバイト。

 ふふんと笑うなびきの先に、にこやかなオフィスレディーたちがずらりと並ぶ。

「なびきさん、いつもありがとう。今日はこの子ね。ばっちりよ!今日の講習会、成功できそうだわ。」
 チーフと思しき女性が、にこやかに乱馬に微笑みかける。

「ちょっと待て!その、アルバイトってもしかして…。」
 なびきのそばで耳打ち。
「ここのコギャルのコスメティック夏向け新製品の新作発表会を兼ねた公開講習会。それの、モデルのアルバイトよ。それが何か?」
「な、何かじゃねえだろっ!何かじゃっ!!」
 思わず胸倉へと掴みかかる。
「あら、あんたさあ、ウチの塀を壊しておいて、何の弁償もしないつもり?」
 唐突に今朝の騒動を持ちかけてきた。
「うぐ…。」
 そのみ言葉に、思わず返答に詰まる乱馬。握った拳もそのまま固まる。
「結構なバイト代になるわよ…。全額とまではいかないにしろ、何某かくらい払って貰わないと…。」
 なびきは勝ち誇った笑顔を手向ける。

「準備が整ったら、こっちへ来てね。そろそろお客さんたちが集りだしたから。」
 さっきの女性がにこやかに話しかけた。歳の頃合は二十代後半と言ったところか。化粧はあまり濃くないが、しっかりと顔に乗っている。清楚な感じの制服が似合っている。

「頑張ってね…。乱馬ちゃん。」
 にこやかになびきが手を振る。



「くそう、なびきの奴。」

 連れて来られた控え室。

「あなたは、黙ってお化粧をされて、にっこりと微笑んでくれたら良いですからね。取り立てて、何をするわけでもないわ。簡単でしょ?」
「は、はあ…。」
 鏡を覗き込みながら生返事。
「丁度良い具合に、ポニーテールにして、髪も整えておいてくれたから、後は前髪が垂れてこないように、バンダナでもしておけば良いわ。それに…。この肌の張り。」
 鏡の向こう側でチーフが乱馬の緊張をほぐすためか、柔らかく語りかけてくれる。
「あなた、あんまり化粧してないわね。」
「は、まあ…。」

 化粧など、けの字も知らないのは当たり前だ。これでも、健全な男児である。

「化粧ジミもないし、あれだけど…。まあ、あなたの年齢ならまだ気にすることもないんでしょうけど、肌手入れの基礎くらいはきっちりやっといた方が良いわよ。若い時代なんてあっという間なんだからね。あなたもしっかり、基礎テクニックだけでも覚えていきなさいな。」
「は、はあ…。」

 化粧になどには興味はないから、愛想笑いだけを浮かべる。
 化粧などして心まで女になりきる気などないから、当然といえば当然だろう。

 始まるからと、講習会場に呼ばれて驚いた。
 ずらりと並んだ、同世代の少女たち。その、視線が一斉にこちらへ釘付けになってる。中には、化粧する方がきついんじゃないかという女の子まで。
 皆がまんじりともせずに、こちらを向くか、乱馬を大きく映し出したモニター画面に熱心な眼差しを手向けている。

(げえ…。何なんだ?この異様な熱気…。)

 思わず、引きそうになるのをぐっと堪えた。
 というのも、かぶりつきで、なびきがじっとこちらを舐めるように見ているのと視線がかち合ったからだ。
 デジカメをこちらへ手向けている。

(何のつもりでい!)
 とガンを飛ばしたら、
(ちゃんと良い子にしてないと、写真を撮ってばら撒くわよ!)
 と脅しにかかっているように思えた。

「今日は、ビューティフル化粧品の新作発表兼講習会に、多数ご臨席くださいましてありがとうございます。」
 甲高い司会進行役の声。これまた慣れきったアナウンスが、臨席した少女たちの視線を集めている。

「本日は、皆さんの手元にもサンプルを置いてございますので、それぞれお二人一組で、実際に試されながら、最後までお楽しみください。では、モデルさんと共に、どうぞ!」

「まずは前後しますが、正しいクレンジングの仕方と基本的なマッサージをお教えします。」
 さっきのチーフがにこやかに前にしゃしゃり出て、乱馬の顔をぐいっと己のほうに手向ける。と、一斉に視線が集中する。
 手馴れたもので、チーフはクレンジングクリームを手に取ると、ベタベタと顔中に塗りだした。
 顔に好き好んで異物など塗ったことの無い乱馬は、思いっきり顔をしかめた。とにかく、気持ち悪いの一点張りだ。
 だが、乱馬のそんな感情などお構い無しに、講師はマイペースで講座を進めていく。

「クレンジングクリームはチェリー大を手にとって、こうやってTゾーンの五箇所のポイントにまんべんなく乗せます。それから、肌の流れに沿って、塗り広げてください。その時、中から外をイメージして。」
 一斉に、少女たちの手の動作が始まる。乱馬を食い入るようにじっと覗き込みながら、講師を真似して動き出すのだ。
(げえ…。何なんだ?この異様な雰囲気は…。)
 あまり気持ちの良い光景ではなかった。いや、むしろ不気味に思えたほどだ。
 学校の授業と違って、望んでこの場に居るという事実が、異様な熱気を生み出しているのだろう。
 少しでも綺麗にありたい、美しく魅せたい。女性のピュア本能が、少女たちを駆り立てているのだろう。

 いやはや、乱馬には拷問に近い、講習会の半日であった。



三、

「たく、何だったんだ?アレは…。」

 帰り道、乱馬は思いっきりなびきにブウ垂れた。
 散々、顔中をいたぶられた身としては、首謀者のなびきに文句の幾つかを並べてみたいもの。手には土産の化粧道具一式。

「あら、案外乱馬君も楽しんでるように見えたけど…。」
 にやにやとなびきはそれに対した。

「だ、誰が楽しんでなんかいたもんか!顔中撫で回されるし、女たちの視線は一斉に俺に集中するし…。」
「あんた、ナルだから、注目されるのは嫌いじゃないと思ったんだけど?」
「ば、馬鹿っ!時と場合によりけりでいっ!何が嬉しゅうて、女の顔で女に注目されて嬉しいもんか!オフクロに見られたら切腹もんだぞ!」
 つい荒い言葉が漏れる。
「そうかしらねえ…。でも、まあ、良かったんじゃないの?肌艶も俄然良くなったじゃん。」
 なびきはつっと乱馬を流し見る。
 確かに、なびきの言うように、肌艶だけは良くなった。肌は何よりすべすべしているし、顔の突っ張りもない。心なしか、顔に受ける初夏の風も心地良く感じるのも確かだ。

「で、俺のバイト代はどうなってんだ?」
 と話題をすっと変えた。
「あら、まだこれでバイト代をせしめる気?」
 と、なびきらしい返答が返って来た。
「てめえなあ…。あんだけ人寄せパンダ状態にしておいて、バイト代無しなんて、ぬかすんじゃねーだろな?」
 ジロッと視線を返す。
「バイト代なら、塀の修理を差っぴいたら、残るわけ無いじゃん。それでもまだ、修理費に足りないくらいなんだから。」
「な゛っ!!」
 あまりのなびきの狡猾な言葉に、思わず絶句しかかる。
「そりゃ、ねーだろ?」
 非難の一つも吐きつけたくなるものだ。
「いいじゃない!現金収入がなくったって、それだけ、収穫物があったら。」
 そう言いながら、手元で揺れている紙袋を流し見た。

「てめえっ!この中に入ってるのは、化粧品だろうがっ!!男の俺には二束三文にもならねえぞ!」

 思わず、荒げた声に、道行く人々が怪訝に振り返る。
 現在の乱馬は、どう見ても「少女」だからだ。
 それを見て、なびきが、ウウンと咳払いした。あんまり変なこと言うと、変態って思われるわよと言わんばかりだ。

「たく、わかってないんだから、乱馬君は…。」
 人の視線が一通り流れすぎてしまうと、なびきがふっと言葉をかけた。
「だってよ…。元々俺は男だから、化粧品なんか要らねーもん。」
 思わず俯き加減になった乱馬が、ぼそぼそっと口ごもるように言った。
「だからわかってないのよね…。良いこと、誰もあんたが使えなんて言ってないわよ。あんたが要らないなら、他の人に売ったってかまわないじゃない。」
「売る?」
「そうよ…。あんたが手にしてる、ビューティフル化粧品のコスモビューティーシリーズは、若い女の子には絶大な支持がある化粧品なのよ…。」
「へえ…、そんなもんか?」
「ま、知らなくても無理ないけどね。このコスモビューティーシリーズは、女子高生をターゲットに価格も安く設定してあるし、自然素材だって言うから、肌にも馴染むのよ。それに、いくら安いって言ったって、基礎化粧品セットとあと、口紅とか頬紅とか、アイメイクとか、一揃え入ったセット貰ってるんだから…。あんたが使わないなら、叩き売ったら良いじゃない。」

(まったく、この女は何つう、色気のねえことを、ずけずけと。)

 さすがの乱馬も溜息が漏れかけた。

「おめえ、もしかして、自分の分は売る気なのか?」
 もそっと尋ねた。
「ま、ご想像に任せるわ。…ふふふ、あかねに半額で売っても良いわね、元はタダなんだから。」
「な゛っ!」
 開いた口が塞がらないとはこのことだろう。
 あんぐりと口を開いた乱馬に、なびきは留めの一発。
「ホント、鈍いんだから…。売るのが嫌ならあげちゃってもいいんじゃないの?あの子の誕生日なんだし…。最後まで言わないとわかんないのね。相変わらず。」
 むふふんと笑うと、なびきは、天道家の門戸を潜った。

(そっか…。その手もあったか。)

 やっとこどっとこ、なびきの言おうとした真意が飲み込めた乱馬。

「乱馬…。あなた…。その格好…。」
 はっと殺気がしたので振り返ると、のどかが日本刀を持って、怒気を放ちながら立っていた。

「うへっ!違うんだ…。オフクロ…。これは…。」
「問答無用!!男らしくない子は切腹なさいっ!!」
 ビュンッと振り下ろされる、白刃。
「だ、だから違うんだってばーっ!!」
 軒先で始まったドタバタを、横目で眺めながら、なびきが呟いた。

「たく…。修行が足りないのよね…。乱馬君は。」


四、

 春の夕焼けは秋ほど真っ赤には萌え上がらない。
 でも、仄かだが、赤みが差す。
 
 待ち人がなかなか帰宅しないのに、業を煮やした乱馬は、迎えがてら家を出た。夕泥む街に、帰宅を急ぐ人たちが、足早に通り過ぎる。
 ズボンのポケットに手を突っ込んで、バランスを取りながら、じっと待つ、川縁のフェンスの上。長い影を落としながら、見慣れた人影が近づいてくる。

「遅いじゃねえか…。」
 喧嘩腰の言葉がふっと口から零れ落ちた。

「乱馬?」
 不思議そうに見上げてくる、円らな瞳。思わず目を反らしてしまう不器用な少年。
「もしかして、迎えに来てくれたの?」
 怪訝な少女の疑問。それには答えないで、百八十度方向転換し、またフェンスの上を家に向かって歩き出す。
 口はへの字に結ばれて、両手ともチャイナズボンのポケット。
 思わずあかねはふっと笑った。安堵の笑みだったかもしれないし、何も言って来ない許婚の思いやりに感謝したのかもしれない。
 そのまま、夕暮れ道を、二人、フェンスの上と下とだが、並行して歩いた。黙々と家路を急ぐ。
 何かあるのかな。あかねはそんな感じを乱馬に持ったが、相変わらず彼は、ずっと押し黙ったままだった。
 夕陽に晒された長い影だけが、仲良さげに肩を並べて動いている。

「ちょっと、こっち来い…。」
 天道家の門に来たときに、ふいっと乱馬があかねを誘った。
 ひょいひょいっと上がる道場の屋根の上。
「乱馬?」
 驚いて下から見上げてると、
「おめえも登って来い。」
 と瓦屋根から覗き込む。
「そんなこと言ったって…。あたし、今は道着じゃないんだよ。」
 とむくれた声を上げた。
「体裁なんか気取ってねえで、来い。おめえなら、簡単に登れるだろうが…。」
 と素っ気無い返事。
「もう、あたし、スカートなんだからね…。」
 だが、あかねもお転婆娘で鳴らした体。傍の梯子に足をかけると、ひょいひょいっと上がってしまった。
 真夏にはまだ遠い夕暮れの瓦屋根。まだ、どこかに太陽の温もりが残っていると思ったが、ひんやりと冷たい。
 登り切ってしまうと、乱馬がすいっと紙袋を出した。
 勿論、無言だ。
 照れ臭いのか、視線も合わせようとしない。
「何?」
 思わず聞き返したあかね。

「良いから受け取れ…。俺には用の無いもんだ。」
 怒ったような声が再び響く。
 心なしか顔が赤いのは、何も夕焼けの照り返しだけではないだろう。
 ふっと一つ微笑んで、あかねは差し出された紙袋を受け取った。ふううっと乱馬の口から、小さく溜息が吐き出されたように思う。
「これ…。化粧品?わあ…。これって、コスモビューティーじゃない。」
 ちらっと覗いている中身に、あかねが小さく歓声を上げた。
「知ってんのか?」
 思わず乱馬はあかねをちらりと一瞥した。
「ええ…。コスモビューティーシリーズって言ったら、女子高生の定番みたいな化粧品シリーズだもの…。」
 そう言いながら、袋の中身を丹念に確かめている。
「おめえも、そんなのに興味あるのか?」
 ちょっと意外だと言わんばかりに、乱馬が声をかけた。
「まね…。あたしも世間一般の女子高生だもの。」
 くすっとあかねは笑って見せた。
 何となく、乱馬が何故、こんな紙袋を持って来たのか、察したのだ。というのも、昨夜、姉のなびきが「化粧品モデルのアルバイトしない?」と誘いかけて来たのを、丁寧に断ったのを思い出したのだ。

(きっとなびきお姉ちゃんのターゲットにされちゃったのね…乱馬。)
 そう思いながらちらっと彼の横顔を見た。
 何となく、乱馬の肌が艶っぽい。そう思った。
 今は少年に戻っているけれど、きっと、昼間、顔をこねくり回されたのだと思った。
 眉毛だっていつもよりも際立っている。ちゃんと切りそろえられているような感じ。散髪屋で髭剃りしてもらったような男ぶり。
 思わず笑みが零れ落ちる。
「何だよ…。」
 その笑みが気になったのか、むすっと乱馬があかねを見返した。
 その様子に小悪魔のような乙女心がふって湧いた。
「ねえ、こんなにいっぱいどうしたの?まさか、わざわざ買ってくれただなんて…。」

「良いから、黙って貰っとけ。」

 むっとした答えが返ってきた。おそらく、想像したとおりだと思った。いくら、尋ねても、絶対に口を割らないだろう。男の面子にかけても。

「ホントに良いの?こんなに…。」
 あかねはわざと上目遣いで覗き込む。

「ああ、かまわねえ…。」
 紅潮しきった乱馬が素っ気無く答えた。
 こういう場に慣れて居ない少年は、心臓の鼓動と戦っているようだった。
「ありがとう。」
 あかねはにっこりと微笑むと、ガサッと袋から、一本のルージュを取り出した。淡いピンク色のスティックだ。
「可愛い色…。付けてみて良い?」
 悪戯な瞳が乱馬を捕らえた。
「あ、ああ…。おまえにやったんだからな。好きにしな。」
 硬くなりながら乱馬が言った。できるだけ動揺を出さないように言ったつもりだが、声はかすれていたと思う。
 
 対するあかねも、もうちょっと互いに大人なら、乱馬に「口紅、塗って頂戴よ。」などとねだれるかもしれないが、さすがにそこまで言うのははばかられた。
 おもむろにエチケットミラーを取り出して、すっと真横に紅を引いてみた。

 その仕草に思わず乱馬の心臓が一つ、ドクンと高鳴った。

(可愛い…。)

 思わずじっと、あかねの手元を眺めてしまっていた。
 淡いピンクが唇に付く。
 あかねが少しだけ大人っぽく見えた。

「似合ってるかな…」
 円らな瞳が乱馬を捉えた。
「ああ、似合ってる…。可愛いぜ」…。」

 それは、それは、自然に零れた言葉だった。
 そう言ってしまったすぐ後に、思わず、しまったと、口元を押さえた、うぶな少年。
 夕焼けよりも顔が赤い。

「乱馬…。ありがと…。」
 艶っぽい少女の唇がそう象ると、ふわっと少年の口元へと揺れた。


 風が止る。時も止る。


 再び時が動き始めた時、あかねはすっと乱馬から離れて行った。吹き抜けた一陣の風のように。

 後には、カチコチに固まったまま、身じろきもしない乱馬が、一人残される屋根の上。



「たく、乱馬ったら本当に、純情なんだから…。」
 下から、少女がにっこりと微笑んだ。



 互いの唇に、ルージュの仄かな香料が残る。
 ルージュを引いて少し大人っぽくなった少女と、まだまだ不器用な少年と。

 淡いピンクは、そんな二人の、ピュアな恋の色。





 完




一之瀬的戯言
 ラストは書きながら…とっても背中辺りがむず痒かった。

 で、この作品は、「小悪魔とクリスマス」の原型だったりもする。
 でも、掲載していたのかどうか…記憶があいまいなので、今回、こちらへ収監。

2004年5月作品


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