運命の人


 爽やかな初夏のある日。
 ふと微笑みながらあかねが郵便受けから葉書を持って茶の間に来た。

「なんだよ。随分ご機嫌じゃねえか。」
 乱馬が雑誌を広げながらそんな妻を見て話し掛ける。結婚してそろそろ三年目。二人ともすっかり大人になっている。傍らのベビー布団には二人の子供たちが気持ちよさそうに初夏の昼寝をしていた。子供たちの添い寝をしながら、平和な午後のひとときを楽しんでいた。

「あのね、ほら、結婚式のご招待状…。」
「なんでい…。別に珍しいものでもなんでもねえじゃねーか。」
 友人たちの中では早くに結婚した二人。二十代半ばに差し掛かったこの頃、時々こうやって旧友たちの慶び事が舞い込んでくる。
「そうね…。でも、この二人、結婚するなんて思わなかったから…。」
 あかねから招待状を譲り受けると、乱馬はしげしげと眺める。彼の目の光りが少し変わった。だが、あかねはそんなことには一向に気がつかずに彼の傍らに腰掛けた。
 やっと一歳になるかならないかの豆台風たちが、気持ちよさそうに眠っている。双子だ。ただでさえ忙しい子育てが、一度に二人分。あかねが落ち着けるのは、彼等が眠りについている間だけかもしれない。
「市岡瑠璃子か…。」
「中学時代の友達よ。この子、風林館高校じゃなくて別の私学に進学したからね。それに、語学が堪能だったから、あたしたちが結婚した頃は海外に留学してたの。だから、結婚式に来てもらえなかったのよ。ああ、でも、そっか…。運命の人と結婚できたんだ。」
「運命の人?」
 乱馬が訝しげにあかねを見上げた。
「うん…。話せば長いことになるんだけど…。」
「へえ…。面白そうじゃん、聴かせてみ…。」
 乱馬は肘に頭を乗せてごろんと横になった。
「あれは、中学の修学旅行で信州へ行ったときのこと…。」
 あかねはとうとうと話し始めた。


「ねえ、今度は明日のこと占ってみてよ。」
 修学旅行の宿の一室。女の子たちが畳の部屋で戯れる。みんなでお泊りの楽しい夜は、カードゲームが主流と相場が決まっている。
 大富豪やブラックジャック、七並べにセブンブリッチ、ポーカー、果てはババ抜きと一通り楽しんでみる。その後では決まって恋の噂や悩み事など、わいわいと気の合うもの同士夜が更けるのを忘れて熱中する。
 あかねたちの同室には、「ミオ」が居た。後に彼女は占い師になる道を選び、その筋では人気の美人占い師として最近はマスコミなどにも登場する存在になった。その彼女が同室だったのだ。
 当時から彼女の占いは良く当ると同級生達の間でも評判になっていた。まだ修行中の身だからと、ミオはいろんな友人たちの言われるがままに占いをしてくれた。こういう夜にはうってつけのルームメイトになる。
「ミオの占いって本当に良く当るから…。」
「そうそう、この前占ってもらったこと当ったんだよ。あたし、彼に告白されちゃった。」
「えー?ホントぉ?凄いじゃん。」
 思春期の少女達はこの手の占いに執心する。
「ミオってすごいんだーっ。」
「まだ修行中の身だから、命中率は80パーセントくらいだと思うけど。」
 ミオは占いに選んだトランプカードを切りながら答えた。
「じゃあ、明日のこと、占ってみるわね。んと…。一人一人順番にカードを好きな数だけ切ってみてくれる。こっちから回すから。」
 ミオはカードを隣にいた級友に渡しながら言った。あかねもその輪の中に入っていたが、気があるようなないような。まだ彼女はミオに占いをして貰ったことがなかった。
 あかねとて普通の女子中学生。占いに興味がなかったわけではないが、苦しい恋をしている身の上。全面的にミオから今の片想いを否定されるのが怖くて、占ってもらえなかった。
 中学三年生にもなると、当然、みんな、一人や二人、気になる男の子がいるものだ。奥手の子でも、初恋の真っ最中だろう。例に漏れず、あかねも片想いをしていた。相手は十歳ほど年上の男性。子供の頃から怪我をする度に通っていた接骨院の若先生。憧れだった想いが、だんだんと恋に成長していったという黄金パターン。
 だが、それは、多分、叶わぬ淡い恋。
 身の程は自分が一番良く弁えていた。何故なら、相手にはちゃんと好きな女性が居た。彼が想いを寄せるのは、あかねの一番上の姉、かすみ。それがわかっているだけに、ミオには何も聴けなかった。ずばずばと「諦めなさい。」と宣言されるのが今更ながら怖いのだった。
「ほら、あかね、ぼんやりしないで、カード切りなさいよ。」
 あかねの前でカードが止まっていた。
「ごめんね…。切るわ。」
 あかねの不器用はこの頃も健在で、切りながら零れる数枚のカード。おたおたちあながらもなんとか切り終えてミオに渡す。
「じゃあ、明日への扉を開くわよ…。」
 ミオがカードを上から順番に並べ始めた。
 慣れた手つきでカードを開きながら畳の上に置いてゆく。一同は神妙にミオの動きを追っていた。

「いくわよ…。明日は雨ね。途中から降ってくるみたい…。」
「えーっ?そんなあ…。」「やだ…。あたし傘持ってこなかったわよ。」「誰か雨女がいるのね…。」
 かしましい級友たちに目もくれず、ミオは淡々と占いの結果を口に出す。
「えっとこのカードは…瑠璃子とあかねね…。ふーん。あなたたち、明日、「運命的な出会い」があるってカードが示したわ。」
「えー?何にそれ?」
「運命の人と巡り合うって?」
「誰々?」
 一斉に色めき立つ周囲。

「偶然ね…。こういうカードってあんまり複数の人に、こんな暗示を見せないんだけど…。二人とも強い絆で結ばれた人とめぐり合うって出てるのよ…。うーん、あかね。」
 ミオは判然としない表情で考え込んでいるあかねに声を掛けた。
「あんたの場合、過去から未来へ続く、大事な絆だってカードが示してるわ。その人、いずれあんたを支える太い柱になるって…。その前にいろんな出来事が立ち塞がるみたいだけど…。
 で、瑠璃子の場合は、純愛を貫ける相手って出てるわ。」
「すごーい、ロマンチックね。」
「いいな…。どんな人に巡りあうのかな?」

 あかねはカードの前で困惑していた。急にそんなことを言われても、何がなんだかわからない。こんな、たかだか修学旅行の旅先で、素敵なめぐり合いがあるなんて、バカバカしい。

「ねえねえ…。瑠璃子とあかねに明日起こることみんでしっかりチェックしよう!」
「そうね。」
「賛成賛成!」
 無責任な級友たちは口々に好き勝手並べて囃子立てる。

「ほらほら、消灯時間はとっくに過ぎてるぞっ!明日が辛くなるからさっさと寝ろっ!」
 巡回の先生がひょっこり現れて、容赦なく電気を消しに来た。
 蜘蛛の子を散らすように、みんなは蒲団に潜り込む。先生が居なくなるとまた、暗がりでお喋りが続けられるのであろうが…。

(そんな都合のいい出会いなんて、ある訳ないじゃない。)
 あかねは急に広がった暗闇に溜息を静かに吐き出した。


「そんで?運命の人とはめぐり合ったのか?」
 乱馬が大きな目を光らせながらあかねに尋ねた。
「そんな上手い具合に「出会い」がころころ転がっているわけないじゃない。」
 あかねは夫に笑いかけた。
「でもね、瑠璃子は本当に出会ったみたいね。」
 あかねは招待状を見ながら嬉しそうに話を続けた。


 翌日は少し空が曇っていた。ミオが言うように「雨模様」になる直前の湿った空気が漂っていた。
 信州の山並みが雲の向こうにぼんやりと見えた。
 善光寺を観光した辺りはまだ良かった。が、昼を過ぎたころから天気が怪しくなる。次の宿のある志賀高原に辿り着いた頃はすっかり雨が降り始めていた。

「あーあ、ミオの占い当っちゃったね。」
 瑠璃子があかねに話し掛けた。
「そうね…。雨降ってきちゃったわ。」
 野猿公園や高天原のミズバショウを回る頃には雨は容赦なく落ちてきていた。
 早めに宿へ入って落ち着く。信州といえば温泉が至る所に湧き上がる。その分の楽しみ方もあるからまだいいとして、折角の絶景も雨となっては霞んでしまう。
 同室の友人達は、昨日の占いのことなど忘れてしまっている様子だった。まあ、端的に言えば「他人事」の部類。当の本人達だけはなんだか心が晴れない。お互い心の端っこに釈然としないものが引っかかっていないといえば嘘になる。
 夕方の自由時間はお土産を買い漁る。修学旅行の使命みたいなものだ。少ないお小遣いをいかに有効に使うかは、それぞれの手腕にかかっている。それはさておき、お土産を物色する行為そのものが結構楽しいものだ。
 集合時間は夕食前。

 雨の中をあかねは瑠璃子と歩いていた。
「あかねはお土産たくさん買うの?」
 隣の傘から話し掛けられて
「うん…。お姉ちゃん二人とお父さん、それからご近所に少しばかりね。瑠璃子は?」
「そうね…弟にね…。」
「瑠璃子の弟さん、まだ入院しているの?」
 あかねはこそっと聴いてみた。
「そう。当分ダメだわ。」
「もう長いわよね…。」
「仕方ないわ…。遊びたい盛りだけど。重い病に捕らえられて。でも、生きる希望を捨てたわけじゃないからね。」
 あかねは言葉を継いで沈んだ。聴いてはいけないことを聴いてしまったのかもしれない。ちょっとした罪悪感に囚われた。彼女の年端もいかない弟は重い心臓の病気にかかってしまい入院が長くなっていた。
「出掛けに、お守りくれたのよ…。お姉ちゃん楽しんできてねって。」
 力なく瑠璃子は笑った。自分の運命を見据えるような幼い目を思い出したのだろう。
 家族の絆は病人が出ると途端に崩れるか強固になるかどちらかかもしれない。母親の居ないあかねにはなんとなく瑠璃子の気持ちがわかるような気がした。
「瑠璃子は嬉しそうに弟が渡してくれたというお守りをあかねに見せた。」
「交通安全」と青い小さなお守りには書かれていた。
「これね…。弟のランドセルにくっついてた奴なの。もう久しく小学校には通ってないから、手元に置いていたのね。お姉ちゃんが持ってて…なんていじましいこと言うのよ。」
 ふと零れる瑠璃子の笑顔。
「ふうん…弟さん、優しいのね…。」
「あの子に、何買っていこうかなあ…。」
 ふっと瑠璃子が顔をあげた。

 前から黒ずくめの集団が走ってくる。この季節修学旅行生が多いのだろうか?良く見ると男子学生服の襲来だった。
「こらっ!待てっ!勝手に行くと迷子になるだろうがっ!!」
「方向音痴なんだから、おめえは、前を行くなよっ!」
 大きな声が響いてくる。五人くらいの固まりだった。この年齢の男子は大人びた奴からガキ臭いのまで多種多様だ。この集団はどうやら後者で元気を持て余しているのだろうか?
 とにかく賑やかに駆けて来た。
 怒涛のように集団が駆け抜けたとき、瑠璃子に一人の少年がぶつかった。
「あっ!」
 それは一瞬だった。
 瑠璃子の手からお守りが弾け飛んだ。空を舞いながら、道路脇の茂みに落ちていった。
 男子の集団はあかねたちに目もくれずに通り過ぎようとしたとき、あかねががなった。
「ちょっと待ちなさいっ!あんたたちっ!」
 きっと見据える目はさっき瑠璃子とぶつかった男の子を呼び止める。が、止まる様相がなかったので、一番後ろを走っていた長髪の男の子を捉えた。
「あんだよ?」
 いきなりあかねに手を引かれた男の子とぶつかった子が振り返った。
 他の男子たち数名は知らぬ顔でさっさと通り抜けて行ってしまった。
 取り残された二人の制服の男の子。
「あのねっ!人にぶつかっておいて、謝りもしないで通り抜けるなんて、失礼でしょ?」
 元来の勝気さがあかねをしてこう発言させた。
「悪かったよ…。ごめんね。大丈夫だった?」
 咎められてぶつかった男の子が瑠璃子を見た。と、瑠璃子が困ったといわんばかりの表情をあかねたちに向けて来た。
「あんだ?怪我でもしたか?」
 無関係にも関わらず、あかねに手を引かれた男の子が覗き込む。
「怪我はなかったけど…困ったわ。お守り、弾みで落しちゃった…。」
 そう言いながら半べそをかいている。
「お守りってさっきの?」
「ええ…。どうしよう…。」

「どこら辺に落とした?」
 あかねに捉まれた長髪の男の子が尋ねた。
「あの茂みの中かな…。」
「俺、探すよ…。責任あるし…。」
 短い髪の方の男の子が答えた。そして、道路脇の茂みへと足を入れる。
「いいわ…。濡れちゃうわよ…。」
 瑠璃子が止めるのを制して
「いいよ…。ぶつかった拍子に落としたんだろ?」
 がさがさ草を掻き分けて短髪の男の子が探し始めた。
「ほらほら、あんたもぼっと突っ立ってないで…一緒に探すの手伝ってよね…。」
 あかねは長髪の方へと目を向けた。
「なんで俺まで…。」
 一瞬いやな顔をしたそいつをあかねは駆り立てた。
「男がつべこべ言わないの。ほらっ!」
 そう言うとあかねはガードレールをひょいっと乗り越えた。武道を嗜む彼女は身が軽い。
「ちぇっ!探せばいいんだろ?」
 それに続いた長髪の男の子。彼もまた身軽だった。
「瑠璃子はいいよ…。あんたはこういうの手慣れてないだろうから…。そこから見てて。」
 あかねは後ろに投げかけた。
 そぼ降る雨の中の大捜索。濡れるのも忘れてあかねは探し回る。大事なお守り。なんとしても見つけなければ。

「あったぞ…。」
 短髪の男の子が叫んだ。
「どこどこ?」
 あかねが覗き込む。
「ほらあそこ…。」
 ちょっと行き辛そうなところに引っかかっていた。
「よおっし…。」
 取ろうと思って身を前に乗り出したとき、足が滑った。雨に濡れた草に足を取られた。
「きゃっ!」
 この体制では受身が取れない。落ちると思ったとき、そいつはあかねを支えてくれていた。
「たく…。無理すんなよ…。女のくせに。」
 『女のくせに』という言葉が引っかかったあかねは、
「なによっ!」
 と怒った顔を彼に向けた。
「かわいくねえなあ…。おめえはどん臭そうだから、俺が取ってくるよ。」
 そう言って身を翻すと、ざざっと草を掻き分けて下へ下りた。ややあって、お守りを持って上がってくる。慣れているのだろうか?彼は草むらや茂みなど、なんともないという風だった。
 悔しかったが負けたなとあかねは思った。武道をやっている自分は、確かに身のこなしは軽い。が、野生児ではなかった。あかねを支えたこの男の子の精悍さには叶わないだろう。彼の瞳の奥には鷹のような野性を感じ取ることができる。支えられてわかった筋肉質な身体の線。不覚にも少しだけ意識して心臓がうなった。
「ほら…。おまえから渡してやれよ。」
 そいつは短髪の相棒の方へそれを手渡した。
「サンキュー。先に上がるぜ。」
 短髪の少年は上で心配そうに眺めていた瑠璃子の方へと取って返す。
 しばし動けなかったあかねは、はっとして上へあがろうとした。
「痛っ!」
 右腕に少し痛みが走った。
「ほれみろ。女だてらにこんなところまで下りて来るから…。」
 いつの間にか後ろに立っていた長髪の彼があかねを覗きこんだ。
「擦り傷か…。たいしたことはねえみたいだけど…。宿へ帰ったら消毒してもらうんだな…。」
 彼は制服のポケットからハンカチを出して、さっとあかねの腕に巻いた。そこから赤い血潮が少しずつ垂れてきていて、彼女のセラー服を汚しそうなのが気になったから。
「いいよ…。こんなことしてくれなくても…。」
「人の好意は素直に受け取るもんだぜ…。あ、別に返してくれなんて言わねえから…。もう随分使い込んだハンカチだし…。」
「ありがとう…。」
 あかねは少しだけ微笑んだ。男の子の顔も少しだけ赤らんだような気がした。


「で、そいつとはそれっきりだったのか?」
 乱馬はあかねに尋ねた。
「うん…。あたしの方はね…。だって、名前を聞きもしなかったし…。でも、瑠璃子の方は違ったみたい。瑠璃子もその場ではそれきりだったみたいなんだけど…。あ、名前だけは聞いてたんだって。それから入った高校で偶然にも彼と出会ったんだってさ。そこからロマンスが始まったのね、きっと…。」
「ふうん…。」
「瑠璃子の弟さん、結局、その後に亡くなったって聴いたわ。それから彼女も留学したりして…。キャリアウーマンになるって自負してたけど。そっか…結婚するのか…。その彼と。」
「おまえの方はどうなんだよ…。」
「もう、忘れたわ。顔も名前も聴かなかったし…。」
「随分、白状なんだな…。運命の人だってミオに言われたんじゃなかったっけ?」
「バカ…。その子が運命の人だったなら、ここであんたとこうしてないわよっ!」
 あかねの顔が一瞬強張る。乱馬はからかうようにあかねに言った。
「んなことわからないぜ…。」
 乱馬はやけににやにやしてあかねを見詰めていた。その視線が何となく気になるもののあかねはからかうのは止しなさいというような表情を向けた。
「で、そのハンカチはどうしたんだ?」
 好奇心がおさまらないのか、乱馬がまた疑問を投げかけた。
「どうしたって…。えっと…待って…。」
 あかねは立ち上がると、茶の間の引き出しを開けた。
「あったあった…。なんか捨てちゃうのも気が引けて、もし、彼に出会うことがあるなら返してもいいかもって、洗濯してしまってたの。そのままあったわ。」
 あかねは嬉しそうにそれを取り出してきた。たまにはヤキモチのひとつでも夫に妬かせてやろうかなどと考えた。
 乱馬は起き上がってきて、何の気なしに、それをあかねから取り上げた。じっとそれを見て軽く微笑んだ。そして言った。
「やっぱ、内心、運命を信じてたんじゃあねえの?おめえさあ…。女ってそういうの好きなんだろ?」
 見上げた目は少しばかり意地悪な笑いを浮かべていた。
「何よ…。乱馬妬いてんの?」
 手の内にひっかかったとでも言いたげにあかねが見返した。
「バーカ…。んなんじゃねえよ…。それより、そのハンカチの隅っこ見てみな。」
 そう言いながらあかねにハンカチを返した。
「え?」
「だから…。消えかけててわかんなかったかな…。その分だと気がついてなかったんだな…。」
 楽しそうに乱馬は笑った。
 あかねは言われるままに目を転じてハンカチをまざまざと見た。そこには薄っすらと消えかかったマジックの文字が見えた。
『早乙女 乱馬』と…。確かにそう読めた。
「これ…。」
「たく…鈍感だな。その相手、俺だったんだよ…。」
「嘘・・・。」
 あかねはへたっと座り込んだ。あの長髪の男の子が乱馬だったなんて。偶然とはいえ、出来すぎている。神様はなんてことするんだろう。そう思った。乱馬はそんなあかねを楽しげに眺めて言った。
「俺も修学旅行の宿先であんな可愛げのねえ女と出会ったことなんてすっかり忘れちまってたけどな…。亮輔の奴、上手いことやりやがって、あの可愛い方の子、自分の物にしたってわけか…。ちぇっ!」
「ちょっと、聞き捨てならないわね…。その台詞…。可愛い子の方って…。」
 あかねは少しふくれた。
「しかし…おめえも白状だなあ…。すっかり忘れてたのかよ…。」
「名前も聴かなかったし、顔なんて忘れちゃってたわよ…。おさげ髪じゃなかったし…。あの時は雨が降ってたし…。それにあんた男だったじゃない。」
「失礼なこと言うなよ…。あんときゃ、まだ呪泉郷で溺れてなかったから、年中無休で男やってたんでいっ!」
「何よ…あんただって、私を見て思い出せなかったんでしょ?同罪じゃないの…。」
「まあな…。修行中の身の上には女なんて不必要だったし…。でも、おめえにここで会ったときに、修学旅行で出会った変な女とどっちが気が強いか一瞬思い出したことはあったけどよ…。同一人物だとは思わなかったな…。」
「酷い…。」
 喧嘩腰になってきた。父と母のやり取りに反応して子供たちが少し煩そうに寝返りを打つ。はっとして顔を見合わせる二人。目を覚まさなかったのを確認すると、乱馬が小さな声で言った。
「俺は占いなんて信じたくねえけど…ミオはさすがだな…。それとそれ…。そのハンカチ。返してもらうぜ・・・。」
「返すったって…。いいの?こんなに汚れちゃってるけど…。」
「いいよ…。でも。」
 そう言いながら乱馬が柔らかく笑った。
「利子はちゃんと頂くぜ…。」

 ふわっと乱馬の顔が近くに触れた。あかねの肩を引き寄せると、そっと口づけた。
 とろけるような柔らかな時間への誘い。
 二人の思い出が改めて一つに重なる。

 子供たちが起きてしまったらまた戦争のような時間が始まるけれど、もう少しだけこうしていたい…。

 穏やかな午後。乱馬の広い腕の中に身を沈めながら、あかねはそっと目を閉じた。
 

修学旅行への妄想ネタがなぜかこういう風に変化する…
この先は二人だけの秘密の時間です…多分…


(c)2003 Ichinose Keiko