◇猫乱馬へのオマージュ


 ふう…。

 あかねは大きな溜息を吐きだした。

「悪いけど、暫くそのまま居てくれるかしら…。」
 ごみ袋を片手に、破けた障子紙を拾いながら、かすみがおっとりと声をかけてきた。
「そーね…。下手に動かしたら、また暴れかねないから…。」
 箒で畳の上を掃きながら、なびきも頷いた。
「それが良いね。これ以上、我が家を荒らされたら、たまらないからね。あかね、暫くそこでじっとしていなさい。」
「だね…。後片付けはワシらでやるから、あかね君は、乱馬の面倒をみてくれんかね。」
 早雲と玄馬が、二人、頷きながら言った。

「でも…。」
 困惑げに顔をあげたあかねに、早雲は慌てて命じた。
「と…とにかく、片付けはワシらに任せて、あかねはそこで乱馬君の相手をしていなさい。」
 父親の命には従わざるを得ない。

 あかねの瞳の先に、荒れ果てた光景が広がっている。
 早雲と玄馬の服はボロボロに破け、身体の随所に痛々しい引っかき傷と青痰が見え隠れする。玄馬に至っては、眼鏡のヒモが取れかかっている。
 いや、彼らだけではない。家の中も庭先も、嵐が吹き抜けたように荒れている。庭木はバキバキに折れているし、襖も障子にも大穴が開き、外れている。柱に至っては、鰹節を削ったように木目が剥がされていた。
 
 この所業の主は、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、ちょこんとあかねの膝の上に乗っかっている。
 それは、猫化した乱馬だった。




 帰宅した時、天道家の門戸から、猫が数匹、死に物狂いで走り去って行くのに遭遇した。
 近所の野良猫たちだが、その逃げっぷりが尋常では無かった。
 もしやと思い、玄関では無く庭先へ回ると、案の定、猫化した乱馬が、縦横無尽に暴れ回っていたのだ。
 乱馬は猫が大の苦手だ。ただの猫嫌いでは無く、異常なまでに猫を怖がる。それは、幼い頃、父親が化した「猫拳」の修行の負の成果であった。
 姿形はおろか、鳴き声一つで狼狽する。
 猫への恐怖心が一定以上に達すると、唐突に理性の糸がプツンと音をたてて切れるという、おまけまでついている。理性が崩壊すると、猫化し、猫拳の使い手へと変化するのだ。
 そうなると、収拾がつかなくなる。
 彼は猫化すると、猫だけではなく、目に映る人間も尽く猫に見えてしまうらしいのだ。

 こうなった乱馬を、唯一、なだめられるのは、あかねしか居ない。




「あかねちゃん。丁度良いところに帰って来てくれたわ。」
 あかねを見つけると、かすみがホッとした表情を浮かべた。
「乱馬君が暴れて困っていたの。お願い、乱馬君を落ちつかせてくれるかしら…。」
 普段、どんな光景にも動じないかすみが、焦っているようだった。
「あかね、あんたの出番よ。」
 なびきがその後ろから、声をかけてきた。

「何よ…それ…。」
 ポソッと口から漏れた。
「だから、こんなときくらい、天道家の役に立ちなさいって言ってるのっ!ほらっ!」
 なびきにポンと背中を押された。

「もう…しょうがないんだから…。」
 フーッと息を一つ吐き出す。それから、暴れん坊に向かって声をかける。

「こっちへいらっしゃい…乱馬…。」
 右手を差し出して、招き寄せる。

 散々に暴れ回っていた乱馬だが、あかねを見つけると、ころっと態度を豹変させた。

「にゃーおぅー!」
 雄叫びを張り上げると、まっしぐらに駆けて来る。
 そして、ぴょんとあかねの膝の上に、飛び乗る。
 『ここは俺の場所だ!近寄るんじゃねーっ!』
 縄張り風を吹かせて、身を沈める。
「よしよし、いい子だから、これ以上暴れちゃダメよ…。」
 あかねが頭を撫でながら声をかけると、
「にー…。」
 と一声啼いた。それから、嬉しそうに頭を膝の上にピタリとくっつける。
 動作だけではなく、顔つきまで猫になっているから不思議だ。
 あかねが背中を撫でてやると、満足げに甘えた声をゴロゴロと喉奥でたてている。


「やれやれ…。助かったよ…。」
 作務衣(さむえ)をよれよれにしながら、ホッと早雲が安堵のため息を漏らす。
「あは…あはは…。何やかんや言っていても、乱馬はあかね君に懐(なつ)いているからねぇ…。」
 斜めにずれた眼鏡越しに、玄馬が力なく笑う。
 二人とも、ボロボロだ。
 当然、これ以上、傷だらけになりたくないから、乱馬から距離を取って、及び腰になる。


 あかねの膝にちゃっかりと乗っかった乱馬は、ご満悦の表情を浮かべていた。
 自分が暴れていたことすら、忘れているようだ。
 気持ちよさげに、目を細める。
 ゴロゴロ、ゴロゴロ…喉笛を鳴らしていた。
 縁側の陽だまりの中で、大好きなあかねの匂いに包まれて、柔らかく目を閉じる。


「あらら、眠っちゃったか…ったく乱馬君ってば、この上なく幸せそうな顔しちゃって…。」
 後ろからなびきが、そっと覗きこむ。
「厳禁な奴じゃな…。普段はあかね君に散々暴言を吐きつけているクセに…。ったく…蹴飛ばしちゃろか…。」
 玄馬が近寄ろうとすると、気配を感じたのか、パッと飛び起き、フ―ッと毛を逆立てて牽制する。
「こらこら…暴れないでっ、乱馬。」
 あかねが慌てて、それを制する。
 と、大好きなあかねに注意されて、乱馬は高ぶりかけた気を収める。
 そして、また、ぴとっとあかねの身体に身を寄せる。




「ダメだよ…早乙女君。乱馬君を刺激しちゃあ…。これ以上暴れられたら困るからね…。」
 早雲が横から忠告を発した。
「なびきちゃんも、おじさまも、乱馬君をそっとしておいてあげてね。家が片付かないわ。」
 かすみも声をかけた。
 二人とも真顔である。

「あは…あはは、そんな真面目な顔にならなくても、天道君…かすみさん。わかってますよ。これ以上刺激しませんから…。」
 玄馬がそう言いながら、あかねと乱馬から離れる。
「ま、触らぬ神に祟りなしってね…。」
 なびきも二人から離れた。

「まあ、そういうことだから…。あかねは暫く、そのまま乱馬君を膝の上に抱きかかえてなさい。後生だから…。」
 早雲はそう告げると、さっさとその場から去った。

 バタバタと後片付けが始まっても、あかねは縁側に座したままだ。
 下手に動くなと父親にも言われた以上、従うしかなかった。
 乱馬はというと、時折、耳をそばだてるが、それ以上のリアクションはせず、じっとあかねの膝の上を堪能していた。
 やがて、乱馬が好き放題暴れた居間も庭先も、こざっぱりと片付き、父親たちも姉たちも居間から立ち去った。
 後に残されたのはあかねと乱馬。

「たく…いい気なものね。」
 ふっと誰に傾けたでもなく、愚痴っぽい言の葉があかねの口から零れ落ちた。
 乱馬はというと、あかねの膝の上で、ちゃっかり惰眠を貪り始めた。
「そんなにあたしの膝は居心地が良いの?」
 そう小さく呟くように問いかけると、
「ふにー。」
 と、意味不明な声を投げかけて、コロコロと仰向けに寝返った。膝の上に背中を器用に丸め乗せて、あかねを見上げる満足げな顔。
 乱馬だが乱馬では無い。猫の面影が彼の表情の中に見え隠れする。ややもすると、猫のヒゲが頬っぺたから生えて居そうな錯覚まで覚える。
「この場合、あたしはあんたの飼い主なの?」
 苦笑いを浮かべながら、問いかける。
 と、乱馬の吐息が近くで漏れた。

 チュッと軽い音がしたように思う。

 あかねの唇に乱馬の柔らかい唇が触れた。

 見事な不意打ちのキス。真っ赤に熟れたあかねの顔を見詰めながら、にっこりとほほ笑んだ。それから、「みゃあ」と一声啼いた。 
『わかりきってること、きくんじゃねーよ…。』
 まるで、そう告げているようだ。
 それから乱馬は何事も無かったかのように、再びあかねの膝へと頭を沈めた。
『おまえは俺の許婚だよ!それ以上でも以下でもねえ…それで良いじゃねーか。』
 口の悪い乱馬の囁きが聞こえて来たようにも思う。
 やがて、乱馬の口から、寝息が漏れ聞こえて来た。暴れて疲れ切ったのか、それとも、あかねの膝の上が余程気持ちが良かったのか…。幸せそうに微笑んで、眠りに落ちた。

 このとうへんぼく。次に目覚めた時は、きっと、己が猫化していたことも、あかねに甘えていたことも、全て、記憶の彼方へと消し去っているだろう。
 己の失態を誤魔化さんばかりに、口の悪さを全開させるだろう。

 でも…。

 猫乱馬は嫌いじゃない…。
 自分に素直に甘えて来る乱馬が、嫌いであろうはずがない。
 別に称賛したい訳でもないけど…。
 目が覚めたら、また、天邪鬼に戻るのね…。

 猫乱馬が消えるのは、少し、残念な気もする。

「もうちょっとだけ、猫のまま居させてあげるわ…。」
 あかねはそう囁きながら、極上の笑顔を、眠ってしまった乱馬へと手向けた。



 完
(2014年2月22日)



2月22日はにゃんにゃんにゃんの猫の日だそうです。

猫乱馬を描写するのは好きです。
あかねに激惚れしている態度が全面に出て来るから…かな。
あかねとキスしたのも、猫になった時だけですからね…。
また猫乱馬を長編で書きたいなあと思っています。(まだ思っているだけですが…。)




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