■ならまち紀行  改定前原稿■
 数年前、無料配布用同人誌の呪泉洞通信に書き下ろした作品です。
 が…掲載したものとは弱冠違います。頁数に合わせて、掲載作品は弱冠削ったり書き換えたりしていたのですが、その改定前の原文です。
 少し同人誌掲載用のものよりくどくて長いかも(笑


ならまち夏紀行


 アスファルトでコーディングされた東京砂漠。
 また今日も熱帯夜か、とため息を吐きながら、エアコンのスイッチをひねる。子供の頃は陽が落ちると、どこからともなく涼やかな風が吹き始め、もうちょっと凌ぎやすかったように思う。
 地球の温暖化が思った以上に加速しているのか、それとも一定温度に保たれる「都会的生活」に身体が慣れ過ぎたせいか、エアコンなしでは夜もぐっすり眠れなくなた気がする。
 風呂上り、エアコンの風にあたり、涼をとっていると、いきなり携帯が鳴った。
「この着信音は乱馬ね…。」
 ベッドから起き上がって親指で電源を入れる。
「あ、はい、あかねです。」
 ちょっと可愛らしく声を出す。よそ行きの声だ。
『よっ!あかねっ、元気か?』
 勢い良く耳元に響く、懐かしき声。
「うん。暑いけどね…。で、何?あんたがわざわざ携帯で電話かけてくるなんて、珍しい。」
 と投げかける。
『あのさ、明日、朝一番に佐助さんを迎えにやるから、出て来いよ。』
 乱馬からの呼び出しは、いつも「唐突」だ。
 また、どこかへ私を呼び出すつもりらしい。
「出て来いって、今、どこよ…。」
 恐る恐る尋ねる。
『奈良だ。』
 案の定、遠隔地を語った。
「また、奈良ぁ?」
 はああっと、あかねの口からため息が漏れた。
「あんたさあ…。また、わざわざあたしに、奈良まで出て来いって言うの?」
『良いじゃんかよう!もう、決めたんだし。ダメか?』
 こっちの都合もちったあ聞いてよ!と叫びたくなったが、ぐっと堪える。
「別に、ダメじゃないけど…。」
『じゃあ、決まり!この前と同じく、近鉄奈良駅で待ってっから。あ、できれば、この前買ってやった洋服、着て来いよ!それから、歩くから、あんま高いヒールの靴履くなよ!』
 と、言いたいことだけを言い切ると、切ってしまう愛想のなさ。

「…ったく。この、わがまま太郎め!もう、んっとに、己の都合で散々、回りを振り回してくれてさ。」

 切れた後の携帯に、そんな言葉をはきつける。それでも、どこか愉しげなのは、久しぶりのデートの誘いだからだろう。

 婚約してから、そろそろ一年が経過する。本当なら、この春に結婚していた筈だが、紆余曲折、いろいろあって、半年延期と相成った。とどのつまり、乱馬の突然の世界大会エントリーで結婚延期。
 ただでさえ「お節介」なマスコミは「すわ、破局か!?」と煽りに煽りまくってくれたおかげで、マスコミに追い回された半年。
 人の噂も七十五日。その諺が言うとおり、やっと、最近になって、マスコミから自分たちの記事が消えた。ようやく、静かな生活が、戻ってきたあかねであった。


 翌日、七時きっかりに、佐助があかねを迎えに来た。相変わらず、乱馬専属のマネージャーっぷり。
「ごめんね、佐助さん。こんなに朝早くに迎えに来てもらっちゃって。」
 恐縮しながらあかねが言うと、
「いいでござる。これも仕事のうちでござるよ。時間外労働でお給金だって弾んでもらえるから、気にしないでくだされ。あかね殿。」
 佐助に見送られて、新幹線。
 
 奈良という観光地は、とても不便な場所にある。
 東海道新幹線の路線から、外れてしまっているからだ。新幹線が走る前に走っていた夜行電車や寝台車は、名古屋から関西線へ入って奈良経由で天王寺までの路線の方がメジャーだったそうだが、新幹線が通って以来、そちらは閑古鳥。鈴鹿山系の山深い路線は、ますます、敬遠されたようだ。
 東京から行くには、奈良は遠い。
 奈良に行くには、まずは東海道新幹線に乗らねばならない。今は夏休みの真っ只中。日本の大動脈のこの高速鉄道列車は、そこら中で、子供たちの歓声が響き渡る。子供を大人しくさせるのは大変なのはわかるが、もう少し、周りの空気に溶け込むように親たちに躾て欲しいと苦笑いしつつ、家族連れでいっぱいの昼間の新幹線に揺られて一路、京都へ。
 奈良は京都を経由しないと、行けないのだ。羽田から関空へ飛んだとしても、瀬戸内に浮かぶ関西空港からも、兵庫県にある伊丹空港からも、いずれからも延々と陸路を行かねばならない。奈良の都は地理的には引っ込んだ「古都」なのである。
 京都駅から出るJRのローカル線もあるにはあるが、電化が遅れた単線だったため、並行して走る「近鉄」に乗客を完全に食われている。最近でこそ、JR線は学研都市線だの言われ出し、電化も進み、単線から複線路線が延長されてきているが、それでも、近鉄の輸送量には敵わないでいる。

 昨秋に来た時は、雨に祟られたが、一転、どこを向いても、薄く蒼い空。入道雲一つ、浮かんでこない。車窓の向こう側は、容赦なく照らしつける「灼熱の太陽」。
 京都駅に降りて、その、熱気に驚いた。じっとっとした湿っぽい重い空気。東京よりも関西は太陽に近いような気がした。
 そういえば、京都市内出身の学生時代の友人が言っていた。空っ風が吹く関東平野と違い、盆地気候は冬寒くて夏激暑いと。京都に住めれば、世界中、どこでも住めると。それも、妄言ではないと思ったほどだ。
 今回も京都はただの通過点。
 改札を出て、そのまま、まっすぐ、近鉄線へ。
 むっと熱気がこもるコンコースを通り抜け、近鉄特急へ乗り込む。
 ここから三重県の伊勢・志摩という関西の夏リゾート地へ向かう客人は多いが、奈良へ行く客は殆ど特急は利用しない。特急料金を取られるからだろう。後付の急行に乗り込んでも、二、三十分しか到着時間は変わらないからだ。
 が、あかねと待ち合わせる時間を少しでも短縮したいのか、何にも考えていないのか、勿論、今回も特急券が添えられていた。
 新幹線よりも数段ゆっくり感じる車窓。青々と田んぼが広がる風景は、どこか懐かしい思いにさせられる。久しぶりに乱馬と会えるワクワク感が、心をウキウキさせるのだ。
 相変わらず、格闘家タレントとして、引っ張りだこの英姿。今春マスコミに、結婚延期を煽りたてられたのも、彼の人気が衰えを知らないせいでもある。それだけの男衆を伴侶とするのだから、それだけの覚悟も必要なのだと、修羅場に喘いで居たとき、父、早雲があかねをなだめたものだ。

 終点の「近鉄奈良」。
 彼は、改札口で待っていた。
 あれだけ、素顔を晒すなと、なびきに注意されているにも関わらず、サングラスもかけない、帽子も被らない。案の定、おばさんたちに取り囲まれて、乞われるままに、サインに勤しんでいる。

「よっ!来たか。あかねっ!」
 あかねを見つけると、マジックを置いて、顧みる。
 人垣がさあっとあかねに注目する。取り囲みの女性陣の瞳が、一瞬、きつくなったようにも思う。
 『こいつ、誰や?』という、辛辣な瞳が、そこここから集中した。
 
「乱馬さんの恋人?」
 サインをねだっていたおばちゃんが、乱馬に気さくに話しかける。
「恋人っつうか、もっと突っ込んだ関係だよ。」
 サインをすらすら書きながら、乱馬が笑った。
「もっと、突っ込んだって、これなん?」
 小指を立てて見せる。
「俺の愛情を独占できる、世界で唯一の女性だよ。」
「な…。」
 あかねの顔が真っ赤に焦がれるような、台詞が、乱馬からこぼれた。

「いやああ、なかなか言うやんか!あんたっ!」
 バシバシとおばさんは、容赦なく乱馬の背中を叩いた。
 これが、関西のおばちゃんの背中叩き。関西のおばちゃんは、面白いと思うと、人を選ばず、パシパシと背中を叩くのだと、どこぞの誰かがテレビ番組で言っていたが、それを目の当たりにした。
「そーか。あんたが、噂の婚約者かいな!」
 あかねまで、バンバンと背中を叩かれる。
「え、ええ…。まあ…。」
 苦笑いがこぼれた。
「ええなあ!青春やなあっ!うちも、もうちょっと若かったら、乱馬はんの婚約者になれたやろうに…。」
「無理無理。ほら、おばちゃん、サイン書けたで。」
 と、乱馬が色紙を渡した。
「ちっちっち!付け焼刃の関西弁、全然イントネーションちゃうで、あんたっ!」
 また、パシッと乱馬の背中に、平手打ちが入る。
 あかねまで、笑いがこぼれそうになりながら、けたたましい、関西のおばちゃん軍団と別れた。
「せいぜい、仲ようしぃーやあ!」
「今日は暑いで!溶けそうや!ほどほどにしたりぃやあっ!」
 そう口々に言いながら、おばちゃん軍団は乱馬のサインを嬉しそうにカバンへしまいながら、手を振ってくれた。

「いやはや、参ったぜ…。おめえを待つ間中、あんなおばさんたち、何人にサインねだられたことか。」
「どのくらい待ってたの?」
「うーん…。小一時間くらい。」
「待ちすぎよっ!列車の時間は決まってるんだから、間際に来れば良いのに…。」
 呆れ顔で乱馬を覗く。
「だってよ、久しぶりじゃん!ちょっとでも早く会いたいじゃん!」
 ごろにゃん状態で乱馬が笑う。つられてあかねも笑ってしまった。
「ま、おばさんは人生経験がある分だけ、若い女子高生なんかよりは、御しやすいぜ。おばさんを敵に回すことなかれってな、昔から言うだろ?」
「誰がそんなこと、言ったのよ。」
 他愛の無い会話が流れ出す。
 暫く、会って居なかったことなど、吹き飛んでしまうくらい、会話が弾んだ。

「で?今日はどこへ連れてってくれるの?東大寺?春日大社?若草山?」
「んー、残念!今日はそっちには行かねーよ。」
「また、奈良出身のご友人さんにいろいろ、コースを選定してもらったの?」
「さあね。つべこべ言わずに、行くぜ!」
 すっと先に立ってリードしだした。
 
 階段を上がって、地上へ出る。噴水がキラキラと灼熱の太陽の下で輝いている。その脇のアーケード街を左手へ入った。
 東向商店街。そんな、名前がついている。
 整備された商店街ではなく、どちらかというと、未整理のまま、古道がアーケード街になったような、そんな感じ。店も木造が多い。町屋にアーケード。地方都市特有の雰囲気が漂う。居並ぶ店も、溢れる観光客向けのものから、映画館、ファーストフードまで、ごちゃ混ぜに軒を連ねる。行き交う人々も、国内外の観光客と地元の人たちと、ごちゃ混ぜだ。この、混沌さが何とも雰囲気をかもし出している。
「こっちには鹿は居ないわねえ…。」
 あかねがぽそっと吐き出した。前に来た時は、雨にも関わらず、観光客に混じって鹿が奈良公園内を我が者顔で闊歩していたのに。
「真昼間の商店街に鹿が買い物に来るわけねーだろが。」
「誰が鹿が買い物に来るなんて言った?もう…。」
 東向商店街は少し坂道がかっている。進行方向に向かってなだらかに下っているのだ。
「わあ、これ、キリスト教会だって。漢字で基督って書いてあるわ。へええ…。これでキリストって読ませるんだ。」
 あかねが指をさした。
「教会っつうより、寺だな…。こいつは…。いや、道場って言っても通用するぜ。」
 木造瓦屋根葺きの古い建物が教会として商店街に面していた。
「奈良漬屋さんだ。へええ…。奈良って奈良漬の生産地なんだ。」
「何、的外れなこと言ってんだよ!奈良漬けって言うんだから、奈良の特産物に決まってるじゃねえか!」
 乱馬がケラケラと笑い出す。
「後で買って帰るからな…。」
 と、酒好きの乱馬がにっと笑う。
「お父さんたちと晩酌するの?奈良漬をあてに。」
「まあな!酒粕は捨てずに魚とか漬け込むとおいしいんだぜえ!」
 商店街は短かった。ドンつきに突き当たると、今度は左に折れる。
 そして、再び、アーケードへと潜り込む。
「もちいどの商店街だって…。変な名前。」
 とあかねが言う。
「餅飯殿だろ?何か、食い物の名前だな。」
「でもさあ…。何だろ、この閑散と寂れた雰囲気は…。」
 平日に来たせいもあるのか、アーケード街のそこここでシャッターが下ろされている。さっき通った東向商店街の賑わいの半分もない。場末のひなびた商店街だ。ここも、緩やかな下り坂が続いている。そして、唐突にアーケード街は終了した。

 アーケードを抜けると、今度は左に曲がる。車が一台すれすれに通れるくらいの細い街道が続く。観光客用に、真新しい道先案内が辻ごとに建てられている。ごく最近に整備されたような、そんな感じも受けた。

 ここから先は、炎天下。ムッとした空気が、アスファルトで固められた地面から伝わってくる。汗もどっと噴き出した。
「暑いなあ…。」
「乱馬ったら帽子被ってこなかったのね。」
「何か、柄に合わなくてよ。帽子は苦手だな。」
 おさげ髪がゆらゆらと揺れる。
「おめーは?ちゃんと日除けしとかねーと、真っ黒な肌が白い花嫁衣裳に馴染まねえぞ!」
 と白い歯を見せて笑う。
「余計なお世話よ!ちゃんと、日傘を持って来てます!」
 あかねは手提げカバンから、折り畳みの日傘を取り出して見せる。
「何か、ババ臭いなあ…。日傘かよう…。」
「いーの!そんなこと言うんだったら、入れてあげないんだから。」
「おっ!日傘で相合傘かあ?なかなか面白い発想するじゃん!」
 そう言いながらも愉しげに、乱馬はあかねの日傘の柄を持った。
「まんざらでもねーな。日傘って日除けにもちゃんとなってるんだ。」
 と変な感想を漏らす。
「当たり前でしょうが!日傘って言うんだから。」
 あかねが笑った。
 二人は照りつける真夏の太陽の下、どんどんと道を進んで行く。
「何だか京都の東山辺りに雰囲気が似ているわねえ。」
「そうか?どっちかっつうと、奈良の方が古いから、そいつを真似たかあ?」
「んなわけ、ないでしょう!天平時代からある建物なんて、寺社仏閣くらいしか残ってないでしょうし…。それだって木造だから。
 で?どこへ連れて行ってくれるのかしら?」
「散策だよ、ならまちの。」
「ならまち?」
「ああ、この辺りは「ならまち」って呼ばれてるそうなんだ。」
「奈良のならまち?」
「そうだよ。ほれ。」
 乱馬は傍らにあったコンクリートの塊の建物を指差す。
「あいつは「ならまちセンター」って建物らしいぜ。」
「あ、本当だ。地図にはそう書いてある。」
 あかねも変に感心して見せた。
「地元民に言わせると、東大寺や春日大社のある山の手より、ならまち界隈の方が、古き良き奈良を発見できるらしいぜ。この辺りは、最近、観光地としてやっと整備されてきたとか言ってたなあ。」
「奈良のお友達ね?…男よね!」
「ばっ!男に決まってるだろ!」
「即答するところが妖しいわあ!」
「うるせー!ったく、やきもち焼きは相変わらずだなあ。」
「焼き餅焼かせるのは、誰なんでしょうねえ?」
 まばらな観光客が、不思議そうに乱馬とあかねを見比べて通っていく。日傘が影になっていても、乱馬の放つ、オーラは周りの人々を惹きつけるのかもしれない。

 乱馬とあかねが辿った道は「上街道」と呼ばれる街道筋だった。古代、明日香へと奈良盆地を北から南へ行き交う「上ツ道」と呼ばれた古街道だ。

「風情があるわねえ…。格子戸とか格子窓とか…。」
「そうだな…。太平洋戦争で焼けなかった街らしい、古い風情がそのまんま、残ってるな。」

「おっ!何か人がうじゃうじゃ溜まってる場所に出て来たぜ!」
 乱馬が目を輝かせた。それまでは、まばらだった人影が、一気に溜まっている、そんな感じだ。
「元興寺、お寺よ。ほら、中へ入る前に、ちょっとは気を遣いなさい。こんなところで、あんたってばれたら、大事になるかもしれないわよ。」
 そう言いながら、あかねはカバンから野球帽とサングラスを取り出した。
「おまえ…。そんなもの用意してきたのか?しかも、今頃出すか?」
「良いじゃない!つべこべ言わないの!ついでに、おさげもほどきなさいよ。」
「えええ?」
「子供みたいなこと言わないの、言うとおりになさいっ!」
「ヘイヘイ、あかね様がおっしゃるがままに…。」
 渋々、おさげをほどいた。
 とりあえず、そうやって、軽く変装してから、敷地をまたいで中へ入ると、いきなり、賑やかな屋台が出現する。「受付」と書かれたテントのおじさんに、何事かと尋ねてみる。

「地蔵盆を兼ねたお祭ですわ。腕を選りすぐった職人さんが作る美味しい料理の屋台が並んでいますから、楽しんでいきなはれ。」
 人の良いおじさんが笑いながら招いてくれた。で、いきなり箸とお盆を渡される。
「屋台の食べ物は境内から持ち出しは禁止なんでご協力お願いいたします。」

「丁度、小腹も空いてきたし…。覗いて行こうぜ!」
 と食いしん坊の目がランランと輝いた。

 地蔵盆。京都や奈良といった古都の古い街は、とりわけ、八月終わりの地蔵さんの縁日を町内くるめて守り継いでいるところが多いという。お地蔵さんの縁日の主役は「子供たち」だ。お昼時を過ぎていたが、境内には人がたくさん居た。
「わああ、すっげえ、見事な伽藍だぜ。ほら。」
 乱馬が古い建物を見上げて、感嘆の声をあげた。食べ物の臭いに混じって、東大寺の大仏殿に似た雰囲気の瓦屋根の稜線が美しい建物だった。

 彼らが見上げたのは「元興寺極楽坊」。屋根は「行基葺」と言われる葺き方で葺かれている。元興寺は南都七大寺に数えられる寺で、元はならまち一体がここの境内だったそうだ。五重塔も配した大寺だったそうだが、昔日の面影を残すのは、この極楽坊だけであ。元々、この建物は蘇我氏の飛鳥寺(法興寺)が平城遷都に合わせて建物ごと引越しさせてきたものだという。その後、鎌倉時代に改修され、現在に至る。

 人の波に紛れ込んで、二人、いろいろな屋台を覗いた。和風から洋風、エスニック風などなど本格的かつバラエティーに富んだ屋台が並ぶ。高くても五百円まででお惣菜や飲み物、デザートが売られている。
 変装が功を奏したのか、それとも、食べる事に夢中になっているのか、誰も乱馬のことに気付く者はいなかった。
「ね?変装もしてみるものでしょう?」
「まあな…。」
 口いっぱいに頬張りながら、ニコニコ笑う乱馬がそこに居た。
 あかねがクスッと笑ったほどだ。
 乱馬は呆れるほどに良く食べた。
「意地汚いわよ!」
 とあかねが苦笑いに転じるほどにだ。

「食ったところで、また、歩くか!」
 乱馬は悦に入っていた。腹も満たされる、隣にあかねが居る。その、幸せを彼なりに噛みしめている様子だった。
「今度はどこへ行くの?」
「さあな…。適当だ、適当!」
 そう言いながら、元興寺の山門を出る。
「こんなイベントやってるだなんて、儲け物だったよな。」
 などと、上機嫌だ。

 ならまちと呼ばれる界隈は、狭い路地を中心に、古い町並みが続き、観光客目当ての洒落た店や資料館などが点在している。
 元興寺の喧騒がウソのように、路地はひっそりと静まり返っている。
 真夏の照り返しが強い、真昼間。観光客すら、まばらだ。
「うわっ!」
 唐突に乱馬があかねにしがみつく。
「どうしたの?」
 と乱馬を振り返る。
「ね、猫。猫だ!猫!」
 乱馬があかねの影に隠れながら、傍らを指差した。そこには、黒い猫が肘を着いて気持ちよさげに瞑想していた。
「あらまあ…。ここは風が通るのね。」
 乱馬は、猫から遠ざかるように、あかねの背後へと回りこむ。
「たく…。大の格闘家が猫を怖がるなんて…。」
 クスクスっと笑ってしまった。
「うっせえ!苦手なもんは苦手なんだ!てめーが泳げねえのと一緒だろうが!」
「何よ、それ。」
「いいから、さっさと先を行くぞっ!」
 乱馬は猫を振り切ると、ずんずんと歩き出した。
「にゃあご!」
 あかねが声色を真似ると
「やめれ!」
 と苦言を呈する。
 相変わらず、猫が苦手な乱馬であった。

 真夏の太陽。翳ることなく照りつける。蝉たちが、短い夏の恋歌を啼き茂る。
 誰に示唆されることなく、ならまちを北上し始めた。デコボコのアスファルト道は、陽炎が揺らめく。その合間を、郵便屋の赤バイクが背後から通り抜けて行く。かすかに漂うガソリンの臭いと共に、エンジン音が遠ざかる。
「暑いよなあ…。こう暑いとへばってくるよなあ。」
「しみじみと言わないでよ。暑いのはあんただけじゃないんだから。」
 傘下で肌をつき合わせていると、互いの汗が伝ってくるようだ。暑さに慣れっこの格闘家さえ、悲鳴を上げそうな西日の照り返し。翳りは一切ない。

 ならまちにポツン、ポツンと点在する観光スポットは、ありがたい事に「無料」と銘打たれるところが多かった。
 暑さを凌ぎがてらに、入っては一休みする。これぞ散策の醍醐味だろう。

 「ならまち格子の家」は特に、乱馬のお気に召したようだ。
 古い伝統的な町屋を、そっくり再現して公開してくれている格子の家。エアコンがない施設だったが、引き戸をくぐると、自然の涼風が吹きぬける。
 日本の家は本来、夏の暑さを凌げるように作られているということを、思い出させてくれる造りだった。
「へええ、なかなか、風情があるじゃねーか。」
 土間から座敷に上がって、乱馬が感嘆の声をあげた。
「そーお?こういう古い畳とか引き戸とか、我が家でも同じようなものだと思うけど。」
「ま、天道家もそこそこって感じだけど、ちょっと雰囲気が違うよな。…間口がこんなに狭いし。でも、奥行きが深いなあ。」
「とても、再現だとは思えない出来栄えよねえ。」
「え?再現なのか?」
「ええ、パンフレットにはそんなこと書いてあるわよ。でも、多分、材料なんかは、元々、町屋で使われていたものの再利用なんでしょうねえ。ほら、畳だって、こんなにデコボコしているし、張りや柱も渋い色してるわ。」
 とあかねが細部を観察する。
「でもよ、こう、京都のウナギの寝床みてえに、縦長い住宅だな。」
「昔の税金は間口の広さでかけられていたから、京都も奈良も残っている町屋は、こんなウナギの寝床型になってるらしいわよ。」
「へええ、間口で税金が高くなるんだったら、天道家なんか大変だぜ?」
「確かにね…。門構えだけは、立派だし。」
「ああ、武家屋敷の面影ある門扉だもんな。」
 ウンウン、と乱馬が頷く。
 畳の間は三つ、仲良く奥へと並んでいた。
「お、押入れがあるぜ。」
「こらこら、何勝手に開けてるのよ。もう!」
 乱馬はちょっとしたいたずらっ子のように目を輝かせて、邸内探検を決め込んでいる。
「中庭があるぜ。ほら、渡り廊下もある。」
 ちょっとした風情をかもし出す中庭が、ホッと和ませる雰囲気をかもし出していた。
「ねえ、こっちにあるの、お風呂よ。」
 あかねが真ん中にある窓から中を覗きこんでいる。
「どらどら…うへっ、狭っ!身体洗うだけで息が詰まりそうな空間だな。」
 後ろから覗き込んだ乱馬が言った。
「狭くても内風呂があるだけ、良いわよ。これ、五右衛門風呂なんだろうなあ。変身体質が改善されてなかったら、風呂をたくのも一苦労よねえ…。今みたいに、シャワーも給湯器もないし…。ねえ。」
「嫌なこと、思い出させるな!」

「あ、雪隠(せっちん)だ。木箱が置いてあるわ。これは男子用ね。」
 風呂の並びには便所が設えてある。「使用出来ません」と断りの看板つきでだ。
「結構、都会的暮らししてたんだな…。こういう町屋って。」
 乱馬が雪隠の中を覗きこみながら言った。

「おっ、この奥には離れがあるぜ。」
 中庭の渡り廊下を進むと、別棟の離れになる。ここには二間が設えてある。畳ではなく、板の間として再現されていた。
「離れかあ…。さしずめ、ご隠居と化した早雲さんやうちの親父たちが、賑やかしく過ごしそうな雰囲気だな。ここで、あの二人が、ヘボ将棋さしてそうな感だぜ。」
 裏庭に面した縁に立って、乱馬が言った。庭の先には立派な蔵が建っている。離れから降りて行く造りになっている。
「蔵かあ…。細かいところまで再現されてるんだあ…。」
 あかねが感心したくらいだ。
「天道家(うち)には蔵は無いよな。」
 と乱馬が笑った。
「その代わり、道場があるわ。っていうか、昔は蔵が建っていたらしいわよ。」
「へえ、そいつは初耳だな。どこに建ってたんだ?」
「今は風呂場とか台所とかになってる、道場と母屋の間よ。だから、勝手口の辺りには、瓦がゴロゴロ転がってるでしょう?蔵を倒したときの瓦だって訊いたことがあるわ。」
「おまえが、良く裏で割ってる瓦か?どっからあんな瓦を大量に持ってきたのかって不思議に思ってたけど…。そーか。蔵の残骸なんだ。」
 乱馬が変に納得した。
「貧乏道場だったから、入れる物もないって、先々代くらいが倒しちゃったって、お父さんが言ってたっけかなあ…。あたしが物心ついた頃には、蔵なんてなかったから、詳しい事は知らないけどね。」
「まあ、おめえんち位の敷地がある家なら、蔵の一つや二つ、建ってても不思議じゃねえしな。」
 乱馬は納得したようだ。
 暫し、蔵を見て、離れで佇む。

「ねえねえ、二階にも上がれるみたいだわ。ほら。」
 先に母屋に戻ったあかねが乱馬を手招きした。
「階段は箱階段よ。」
 あかねが上を覗き込みながら言った。
 さりげに壁際に置いて、調度品となっている箱階段。引き出しがついていて、収納できる細工が施してあった。
 あかねは、早速、上に昇っていく。
 手すりがないので、恐る恐る、足を踏みしめ上がって行く。床の穴から顔を突き出すように、二階が開けた。
「ちょっとした隠れ家みたいよねえ…。」
 板の間で統一された、落ち着いた空間がそこに現れた。
「ちょっとしたロフトって感じだなあ。子供部屋に丁度良い感じだな…。悪ガキどもがここで暴れていそうな感じだぜ。」
「何、勝手に空想して楽しんでるのよ!ったく、あんたさあ、去年から志賀直哉亭とかさあ、こういうお邸に興味あるわけ?」
「だからあ、おめーとの生活を、夢見てだなあ、いろいろ考えてるのがわかんねーの?」
 大真面目で乱馬があかねを見詰め返した。
「まだ、結婚すらしてないのにねえ。…先送りにした張本人が。」
 乱馬の本気の瞳に、くらっときかけたあかねが、それを交わしにかかった。
「あー、おめー、まだ、この前の事、根に持ってるな?」
「持つわよ、あれだけ周り巻き込んで大騒ぎしたんだから。だいたい、いきなり世界大会にエントリーして、結婚延期にして出かけるんだもん!残されたあたしたちって、マスコミに好き勝手書かれるわ何やらで、大変だったんだからあっ!もう!」
「あはは、格闘技は俺の天職だからなあ…。仕方ねーだろ?その代わり、賞金がっぽりと稼いだんだし…。」
「そういう問題じゃないのっ!…たく。」
 ふううっとあかねがため息を吐き出した。この格闘馬鹿を良人に持つことになる己にとって、格闘絡みのトラブルはついてまわるもの。それを実感させられた出来事でもあったからだ。
「一生頭上がんねーかなあ…あかねちゃんに…。」
「カカア殿下で通してやろうかしら?」
 二人見合ってクスッとと笑い声が漏れた。
「やっぱ、西洋式の家より、こういう和風の家の方が、俺は良いよな…。こう、家全体が生きているっていうのかな…。」
 乱馬は格子窓から外を覗きながら、ふっとそんな言葉を吐いた。
「そうね…。天道家(うち)も純和風なら負けないけどね…。まさか、天道家をこんな町屋に改造しようなんて、思ってないわよね?」
「天道家は天道家で充分さ。あの家も、常に息しているさ。居心地が良いから、親父だってまだ、居候決め込んでるし…。
 俺は根無し草みたいなもんだったからなあ…。ガキの頃から流浪しててよう…。持ち家ってものに、憧れを持ってたのも事実だな…。」
 ふっと乱馬は遠くを見る。
「天道家(おまえんち)は、初めて足を踏み入れた時から、暖かかったしな…。こんな、根無し草の俺にでも。」
「そのまんま、結婚しても同じ敷地内に住むことで落ち着いたしね…。」
「天道家も道場も、俺がしっかりと守ってやるよ。で、生れた子供が二人以上なら、誰かに天道姓を名乗らせれば、家も続くわけだしな…。」
「相続争いが起こらないことを祈るわ…。」
「なびきが九能んちへ入ったら、すんなりいくんじゃねえの?」
「さあね…。あのお姉ちゃんの性格だからねえ…。もらえるものはがっぽりと…って欲張るかもね。道場や天道家の敷地の切り売りも辞さないかもよ。」
 あかねが笑い混じりに言った。
「そんときゃあ、家を切り売りなんかしないように、相続分、金をポンと積めるくらいに、稼いでやらあ!」
 ポンと乱馬が胸を叩く。
「せいぜい、お気張りやす、乱馬はん。」
「あーっ、俺の稼ぎに全然期待してねえのかあ?」
「してます、してます。大いに期待しておりますわ。」
 笑い声を張り上げる二人の間に、涼風がすうっと、通り抜ける。この建物は息している。そんな感じだった。
 二階にも風は吹きぬける。調度品も何もない、ガランとした板の間だから、余計に風が通り抜けるのかもしれない。
「わあ、ほらほら、本当にロフトみたい。吹き抜けになってるわ。」
 あかねが目を輝かせて、壁際に来た。そこから、下の台所を見渡せる。天上は高い吹きうけになっていて、窓も滑車つきで縄を下から引っ張ると、上下に開閉できる細工がされていた。高い窓は明り取りにもなっているようだ。
「いろんな工夫がなされてるわねえ…。竃だって、もう、なかなか見る機会ないし。」
「勿論、おめーんちも竃だったんだろ?」
「大昔は多分ね。土間だってあったらしいけど、農作業とかしなくなったしね。いつの間にか、土間は消えて、竃もガス火にとってかわられたんでしょうね。」
「井戸なんかも、ありそーだもんな。天道家。」
「ええ、勿論、あったらしいわよ。埋めちゃったみたいだけど。」
 あかねがさらっと流した。
「もっとも、天道家が近代住宅に生まれ変わって、かなり経つみたいだからねえ。竃も土間も、天道家じゃあじかに見たことないわよ。記憶の片鱗もないもの。」
 とあかねが言った。
「うへ、ここに立てかけてあるのって、何だ?この、すす払いのお化けみたいなの。」
 乱馬が、そいつを見上げていた。先っぽに焦げ目がついている、長くて丈夫そうな棒が、土間に立てかけてあった。
「お水取りの火を焚く棒だってさあ。」
 あかねが説明書を読みながら、見上げた。
「お水取りって?」
「春を告げる都行事よ。有名だから、名前くらい訊いたこと無いの?」
「無い!」
「もう、偉そうに…。へえ、二月堂で今年実際に使われた、松明の棒みたいね。案外、大きくて長いんだあ。これに火をつけて担ぐって、かなり危険よね。」
 あかねが言った。
 
 古都、奈良。悠久の時を過ごしてきたこの街には、歴史の重みが空気の中に漂っている。

 その後、格子の家から、奈良町資料館、あしびの郷などを渡り歩いた。
途中、庚申堂で手を合わせ、「身代わり猿」のお守りを買う。
「何か、これ、おまえみたいにまん丸でいい味出してるぜ。」
「どういう意味?何だか失礼な感じがするわ。」
夕暮れ。少し東に振って、ならまちセンター沿いから、興福寺猿沢の池だ。の五重塔を見上げる坂道を登って行くと、美しき水場が開けた。
「わああ…きれい…。」
 思わず声が上がる。
「猿沢池だな…。」
 水面には水鳥たちが、ささやかな夕暮れの涼を楽しんでいる。その水際に、スケッチブックを抱えた、熟年の人たちが写生をして楽しんでいる。のどかな風情だった。

 やがて、二人の散策は終焉を迎える。
 乱馬の携帯が鳴ったのだ。
 相槌を打ちながら、だんだんに乱馬のトーンが上がっていく。
「何だってえ?夜行バスで明日の朝までに東京へ帰れだあっ?」
 散々悪態を吐いた後で、大きくため息を漏らしながら、電源を切ってみせる。どうやら、なびきが相手だったようだ。
「はああ…。今夜はこの辺りの旅館で、あかねと一緒にお泊り…って思ってたのによ。 朝一番で東京で仕事だと!もうちっと気を遣えつーのっ!」
「仕方ないじゃない。まだ、あたしたち、籍を入れてないんだから、お泊りは次の機会に…。また、連れて来てね。乱馬。」
 そうさらっと言ったあかねの口からも、無念のため息が小さく漏れたことに、乱馬は気づいたろうか。
 そんな、二人の漏らした溜息を知ってか知らずか、鹿が二頭、悠々と通り過ぎて行った。

 古の都は、疲れきった現代人を癒す力を持っている。
 そこここに暮らしたり訪れたりする人々の、エネルギーと落ち着いた風情が見事に融和する古都、奈良。
 
 青丹よし 寧良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり

 桜の花舞う季節とは違うが、そんな和歌が浮かんで、焦がれる夕焼け空へと消えていった。





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