名残の桜



一、


 心地良い春風が吹き抜けてくる。
 陽だまりはもうすっかり初夏の装い。真新しい薄手のジャケットに身を包み、山道を行く。手には小さなボストンバッグ。そして、地図。

「いやあ、すっかりつき合わせてしまって申し訳ないね。乱馬君。」
 山高帽をかぶった中年紳士が傍らの少年に声をかけた。
「あ…。いえ、別に…。」
 汗を滴らせながら、一緒に肩を並べる少年。おさげが木々の木漏れ日に照らされてまだらに揺れる。
 耳元には小鳥のさえずり。草いきれする大地を踏みしめながら、凸凹のアスファルト道を登っていく。車が時折通るのだろう。轍(わだち)の形に舗装がえぐられている。所々ひび割れたところからは、逞しい雑草が真上に向かって伸び上がっている。だが、それも車の通るところは短い。

「まだまだ、山は春が浅いね…。東京に比べたら、気温が随分違うんだなあ。」
「はあ…。」
 問いかけられて、はにかみながら少年は答えた。

 中年紳士と少年のチグハグな道行。

「ほら、あそこに建ってる古い洋館が今夜の宿だよ。」
 そう言って紳士は道の先の高台に建つ、ひなびた建物を指差した。
 いかにも、という感じの古い洋館だ。三階立てのレンガ造り。こんな山の中にどうやって建てたものか。少し考えてしまうくらいに立派な建物だった。


「いらっしゃいませ。」
 
 そう言って迎え出たのは初老の紳士。ちゃんと黒いスーツに蝶ネクタイという執事スタイル。整えられた髪形にきりっとした応対。
 こちらの背筋まで、思わずピンと伸び上がってしまうような錯覚を少年は覚えた。

「お待ちしておりました。天道早雲様と…。早乙女玄馬様。」
 深々と頭を下げる。
「うむ。ありがとう。」
 早雲はそう言って受付へと進む。
「あの…。予約は天道早雲と早乙女玄馬だったのだが…。変更になった。早乙女玄馬君が来られなくなったから、代わりに息子を連れて来た。」
「えっと…。確かにブッキングカードには早乙女玄馬様とありますね…。それでは、ご変更になられた息子様のご芳名は…。」
「天道乱馬としておいていただこうか。」

 その言葉を脇で聞いていた乱馬が、へっという顔を手向けた。

「いいじゃないか。今日くらい、君とは親子っていうことで…。」
 早雲は軽く耳打ちした。
「で…でも…。俺は。」
 少年は困ったような顔を手向けた。
「良いから良いから…。今日は君とワシの二人きりなのだから…。」
 強引にごり押される形で、宿帳には「早乙女乱馬」ではなく「天道乱馬」と記入されてしまった。
 
(これって偽装になるんじゃねえのかなあ…。)

 そんなことをぼんやりと考えたが、傍らの早雲が余りにも上機嫌なので、つい、気弱なところが出てしまい、結局はなすがままになった。

「では、こちらへ…。」
 
 宿帳に記帳が終わると、執事は二人を宿泊する部屋へと導いて行った。
 螺旋状になっている大きな階段を上がり、上階へと進む。現在に於いて珍しいことにどうやら、エレベーターなどという気の利いた設備などはないようだ。当然自力で上がって行く。
 二階へ上がり、エンジ色の絨毯が敷き詰められたシャンデリアの廊下をいかほどか歩き、通されたのはこじんまりとした和室。畳の匂いがふっと漂ってきた。
 当然、洋館だから洋風なベッドでもある洋室と思っていたのがあてが外れた。
 前面に広がる窓からは、美しい裏富士の高峰が見える。

「ごゆっくりどうぞ。」
 そう言って執事は出て行った。

「さてと…。ここの風呂場は、これまた絶景なんだよ、乱馬君。」
 早雲はバッグを置くと、話しかけてきた。
「は、はあ…。」
 早雲と二人きりで部屋に放り込まれると、何をどう話して良いのやら、判らずに乱馬はもじもじとしていた。
「ワシはとりあえず、公衆電話から家に無事に着いたからと電話の一本もかけてくるから…。戻ったら風呂へ行こう!な?乱馬君。」
 早雲はそう言い残し部屋を出て行った。
 後姿が鼻歌交じりで。



 後に残された乱馬は、はああっと思いっきり大きな溜息を吐き出した。
 そして、ゴロンと仰向けに転がった。

「俺、こんなところで何やってんだろ…。何でおじさんに着いて来ちまったんだ?」




 思い起す乱馬。
 今朝の天道家へと記憶は巡っていく…。




 春休みが終わって、怒涛の新学期の「こそあど事」が終わってホッと一息入れる四月半ば過ぎ。世は春爛漫。目前に控えるゴールデンウィーク前の週末。
 
 本来ならば、今のこの場所には、己ではなく、親父の玄馬が居た筈なのだ。
 いつものように朝のロードワークから帰って見ると、茶の間で親父の玄馬が、真っ赤な顔をして早雲に謝っていた。腫れぼったい顔が、いつもに増して腫れぼったく見える。
「何だ?」
 と野次馬的に覗き込んでみると、
「仕方ないよ、早乙女君…。そんな様子じゃあ、向こうへ辿りつく事もままならないだろう?」
 天道早雲がそう言いながら苦笑していた。
 とりあえず、隣りに突っ立っていたあかねを突付いて、何事が起こったのか、こっそりと探りを入れてみる。

「早乙女のおじ様、風邪なんだって。」
 とあかねが的を得ない答えを返してきた。
「あん?…。親父が風邪ひいて、なんで、おめえの親父に謝ってんだ?」
 ことの核心が見えない乱馬はあかねへと再び疑問をぶつけた。
「お父さんと早乙女のおじ様、一泊旅行へ出る予定だったのよ。」
「旅行ねえ…。」
 そう言葉を吐きつけた乱馬を見て、玄馬がはっしと指を差した。

「おおそうじゃ!乱馬よ。貴様ワシの名代で天道君と一緒に行って来い!」
 熱で浮かされた顔が、鼻水をたらしながら、乱馬を指差す。
「あん?俺?」
 乱馬は思いっきり大きくそれに反応した。
「おお、それも趣があって良いかもしれんなあ!」
 早雲があっさりとその言を受け入れてしまったものだからたまらない。

「ちょ、ちょっと待ていっ!!何で俺が…。」
 完全に困惑した乱馬がそう答えると
「今回の一泊旅行は天道君が、前から計画して、とっても楽しみにしていたものなのじゃよ…。ワシのハプニングのせいで反古にしてしまうなんて…。勿体無い!!乱馬、後生だから、おまえが代わりに天道君と行って来いっ!!」
 と返ってきた。

「お、おいっ!そんなこと急に言われたって…。親父が駄目なら、あかねとかなびき、かすみさんが行けばすむ話しだろうが。何で俺へ白羽の矢を当てやがる!!」
 そう反論してみた。

「おまえが一番良い!!」
「だから、何でだよっ!!」
「この家族の中ではおまえが一番暇そうじゃっ!!」
「な゛っ!」
 開いた口が塞がらない乱馬へ、更に天道家の面々の追い討ちがかかる。

「私が居ないと、おじ様のお世話はできないわ。だから、天道家(うち)を空けるわけにはいかないでしょう?ねえ、乱馬君。」
「か、かすみさん。まあ、かすみさんは主婦だから…。」
 そう答えると今度はなびきが出張ってきた。
「履行日のキャンセル料って結構馬鹿高いのよね。お父さん。」
「じゃあ、てめえが行けよ!なびき。」
「あら、私だって暇だったら行くわよ。でも、生憎、明日は九能ちゃんに集(たか)る約束が出来てるの。」
「何だよそれ…。じゃあ、あかねは?」
「私も生憎、友達と先約があるの。あんたは別に、約束とかないでしょう?だから、乱馬、お父さんの相手お願いね。」
 とさっとあしらわれてしまった。

「ほれ見ろ、おまえしかおらんではないか。」
 玄馬がえっへんと乱馬へ視線を飛ばした。
「え、偉そうに言うなっ!元はといえば、てめえがらしくなく、風邪なんかひいちまうからだろうがっ!!それに、ほれ、結構宿題あるんだぜ…。高三になるだの言うんで、その、問題集とかあ…。」
 宿題を盾に反論を試みてみる。
「急に真面目なこと言わないでよ。どうせ、きちんとやる気なんかないくせに。」
 あかねがしらっと乱馬を見返してくる。
「いいわ、今回はあたしのノート写させてあげるから…。安心して行って来なさいよ。」
「おまえなあ、いつもは自分でやれって偉そうに言うくせに…。」
 食って掛かろうとすると、今度は、チンッ、と後ろ側で刀の音がした。

「乱馬っ!!ここは男らしく、男同士で早雲さんのお供をして来なさいっ!!」

 振り向くと、母親ののどかが、刀を持って凄んでいる。

「わ、わかったよ!俺が行きゃあいいんだろ?」
 その剣幕に気圧されて、渋々承諾した。
「あかね、帰ったら絶対、宿題付き合えよっ!!」
 そう告げるのも忘れなかった。

「決まりだな…。じゃあ、乱馬君、すぐに支度しておいで。出来次第出るから。」
 早雲が嬉しそうに笑った。







「たくう…。皆、いざとなると面倒ごとは俺に押し付けやがって…。」

 はああっとまた大きな溜息を一つ。


「やっぱり退屈かね?」
 音もなく扉が開いて、早雲が中へ入ってきた。

「あ…いや、別にそんなこと。」
 大慌てでがばっと起き上がると、乱馬は愛想笑いをした。
「なら良いんだ。さて浴衣に着替えて…。一風呂浴びよう。乱馬君。」
「あ、は、はい!」
 ぐいぐいと早雲の気迫に押されて、結局は抗えない優柔不断男、乱馬なのであった。





二、

 温泉場へと続く渡り廊下を歩きながら、早雲がにこやかに言った。
「ここの風呂は隠れた名湯なんだよ。」
 思わぬ問い掛けに乱馬は早雲を見上げた。
「名湯?」
「ああ、慢性疾患、傷、皮膚炎。効用も去ることながら、景観がね…。特にこの季節は。」
「はあ…。」

 がらっと入る脱衣所。
 まだ時間的に早いのか人影もまばらだ。

「さてと…。これを着用したまえ。」
 そう言ってすっと差し出したのは海水パンツ。水着だ。

「風呂に入るのに水着ですか?」
 思わず声を張り上げる。
「だって…。混浴だからね。」
 早雲はバッシバッシと乱馬の背中を叩いた。
「な゛っ!!」

 もしかして親父の奴…。これが目的で二つ返事でおじさんの同行を引き受けやがったのかあ?

 などという妄想が湧き上がってくる。
 混浴と言うことは、うら若き女性が居るかもしれないということだ。

「混浴だから、水着着用なんだ。今日日の混浴場は水着着用が主流だからねえ…。」
 早雲はそう言いながら、いそいそとデカパンツの水着に着替える。
「ほら、いつまでも前をぶらぶらさせてないで着替えて…。乱馬君。」
 まだ混浴と言う事実に、服を脱ぎながら動揺している乱馬に早雲は言った。
「なあに、この時期は学生さんも社会人も忙しいからね…。ゴールデンウイークになればともかく、そんなに若い娘さんは居ないって…。」
 半ば引き摺られるように、湯殿へ行く。

 引き戸の向こう側は天井が突き抜けていた。
 そう、露天風呂だったのだ。

 早雲の言ったとおり、若い女性は皆無。どちらかというと、くたびれ気味の中年や初老男女がゆったりとくつろいでいる、そんな感じだった。

 混浴とは言えども、眩いばかりのうら若き女性は居ない。
 ホッとしたが、内心少しがっかりした乱馬であった。いくら修行中の身とはいえ、元は健康な少年。湯気の中にほんのりと桜色に染めた、若い女性の柔らかな肌に興味がないとは言いきれない。

 だが、この浴場、若き女子は居なかったが、目を奪われる光景に出会えた。

「うわあ…。」
 目の前に広がる、裏富士の絶景はともかくも、風呂の両脇に植えられた、見事なソメイヨシノが、今を誇りに天へたわわな花枝を広げていたのだ。
 薄桃色の花が、薄青の空に栄えて、それは見事な景観を作り上げていた。
 露天風呂に身を浸す、誰もが、その美しさに見惚れながら、身体を湯に浸している。

「ね?見事なものだろう?」
 早雲が傍で笑いながら一緒に桜を見上げた。
「この時期にしか味わえない最高の贅沢な湯殿なんだよ、ここはね。」
 早雲は愛しげに桜を眺めた。
「親父には勿体ねえや…。」
 自然、そんな憎まれ口まで流れ出る。
「わっはっは。君らしい物言いだな。…どうだい?この景色だけでも、得した気分になるだろう?」
 早雲は笑った。


 何故に早雲がこんな穴場の宿を知っていたのか。そして、玄馬を誘ったのか。
 その真意がどこにあるかは、乱馬にはわからなかった。
 早雲がかなりの趣味人であることは、その感覚や生活スタイルからも窺い知ることができたが、その彼が何故、ここへ来たがったのか…。

「さてと、湯浴(ゆあ)みして、さっぱりしたら、今度はご馳走だよ。旅の醍醐味は味を楽しむことにもあるからね。」
 早雲は始終ご機嫌だった。
 いわゆる「旅館」とはちょっと違った趣の宿。ペンションに近いかもしれない。ただ、建物の雰囲気から、かなり昔からあったことだけは確かなようだ。
 旅館なら各部屋へと運ばれてくる食卓も、ここでは階下にある「食堂」へと足を運んだ。
 さすがに「浴衣」では不味かろうと、ネクタイとまではいかないが、衣服着用でだ。

(こんな、高級感溢れる場所は、親父には、不釣合いだな…。)
 乱馬はテーブルで燃えるロウソクを見ながらふっと思った。
 いつも、道着姿の手拭い眼鏡親父には、格式が違いすぎる。
 テーブルマナーもある程度必要な雰囲気が漂っている。周りに居る客も、どこか、上品に見えるのも、雰囲気が成せる業かもしれない。
 対して、早雲には、この雰囲気が馴染むのだから不思議だ。普段は、しがない場末の道場主の彼だが、根本的に「野性的」な玄馬とはどことなく格式が違う。決まった家を持たずに、放浪してきた早乙女家と、東京の閑静な住宅地に大きな道場を持つ天道家とでは、根本に持つものが違いすぎる。そう思った。
 第一、定職も持たずに、自由人に近い「道場経営」で普通の生活がまかり通っている天道家。毎年納める固定資産税だけでも物凄い額になると推定されるのに、娘三人と居候を抱えても倒れない資産力。
 お金にはあまり頓着がない乱馬でも、時々不思議に思うことがあった。
 守銭奴のなびきに言わせると、どうやら、天道家には相当の不動産があって、それを貸すことによって、かなりの利を得て生活しているというのが本当のところらしい。駐車場だとかビルの借地だとか。真意の程はわからないが、あれだけの邸宅を東京の二十三区内に構えているのだから、「さもありなん」と納得した乱馬であった。
 親父の玄馬が、乱馬を婿に差出し、天道家と縁を結びたがるのも、その財力にひかれたのではないかと穿った見方もできるのだが、あのスチャラカ親父に、天道家を乗っ取ろうとかそこまでの大袈裟な野望は不釣合いだ。せいぜい温かい屋根の下で悠々と人生を過ごしたいというのが「許婚の縁を結びたがるささやかな野望」なのだろう。

 にしても、早雲との二人旅は、かなり乱馬には神経をすり減らすものであった。
 とにかく、身の置き場がないのだ。
 早雲があかねの父だという、その事実にも影響されているように思った。
 変な言い方をすれば、嫁の親父と二人きりになったような。そんな感じを覚えていたのだ。
 勿論、あかねとは「夫婦」ではなかったが、「許婚」としての微妙な立場にあった。つまり、どう見ても、早雲は「許婚の父」なのである。
 未だ、父親たちに押し付けられた「天道家の許婚」という立場を、すんなりと肯定はしていないものの、あかねを愛し始めているという事実は、覆しようがなかった。それだけに、今回は複雑な少年の旅であった。

 
 洒落た雰囲気が漂う洋室の食堂。目の前のグラスに、小さなろうそくが美しく焔を揺れ動かしている。
 これまた、雰囲気のあるウエイターが皮表装されたメニューを持って現われる。早雲はさっと目を通し、自分にはワイン、乱馬にはジュースを頼んでくれた。まだ未成年なので酒と言うわけにはいかないからだ。
 ワイングラスに入れられて運ばれてきたのは葡萄ジュース。赤ワインと見紛うばかりの美しい色だった。口元に運ぶと、ふっと葡萄の風味が口の中に広がった。
 一つの食卓にひしめくように皆が揃う天道家と違って、ここは別天地。料理だってフルコースだ。
 時間がいつもに増してゆったりと流れていくような気がする。ただでさえ弾まない会話が、ふっつりと途切れてしまう。
 こういう場で、何を話せば良いのか。皆目見当が付かずに、黙々と使い慣れないナイフとフォークを動かしている乱馬であった。
 と、隣りのテーブルに就いていた老夫婦が乱馬たちに話しかけてきた。
 旅の醍醐味の一つには、見知らぬ人々とのふれあいというものもある。
 通路を挟んで反対側、そう遠くない位置に居た、品の良い老夫婦が人懐っこく話しかけてきたのだ。

「息子さんとご一緒に旅ですの?」
 老婦人がまず話しかけてきた。
「え、ええまあ。」
 はにかみながらも早雲は答えた。本当のところは息子ではない。だが、宿帳にはそう記してしまったので、渋々乱馬も同調した。
「いいですねえ…。立派に育て上げられた息子さんとご一緒で。」
 老紳士も一緒に加わってくる。
「奥様は?」
「あ、…家内は先立ちました。」
 早雲は聞かれるままに、お人よしの返事を重ねていく。
「あらまあ…。ごめんなさい。でも…。」
 老婦人は乱馬を長し見ながら言った。
「こんなに立派な息子さんに育たれたのだから、奥様もきっとお喜びでしょう…。」
「ええ、そうですな。」
 すっかり親子だと思い込んでいる老夫婦に、乱馬は愛想笑いを浮かべながら、食事をする。
 早雲はマイペースに、ワイングラス片手に、話に高じ、そんな老夫婦との会話を楽しんだ。
 と、だんだんに早雲の顔が赤らみ始めた。
 普段、天道家の晩酌では、ビールか発泡酒、または熱燗(あつかん)といった、一般家庭の飲み物が主流の彼にとって、ワインという洋酒は普段は飲用しないのだ。
 また、ワインと言うのは口当たり、喉越しが良い分、つい、度を越えてしまいやすい飲み物でもある。アルコール分が意外ときついのである。
 普段飲みつけないワインを、結構調子よく飲んでいたものだから、デザートが運ばれる頃には、すっかりと出来上がっていた。
 玄馬がここに居れば、二人で、ドンチャカやり出しそうな、分量である。
 だが、さすがに、早雲がそちらの方面で羽目(はめ)を外すことはなかった。
 早雲はどういうつもりか、すっかりと老夫婦に乱馬を息子として上機嫌に話しに応じていた。あまりにニコニコとしているものだから、乱馬もあえて否定もせずに、黙って早雲や老夫婦の会話に耳を傾けていた。
 最後に飲んだ、珈琲はほろ苦かった。





 食事の後、早雲は乱馬を誘ってホテルの外へ出た。
 少し酔いが回った足元がおぼつかない。
 
「おじさん、こんな暗い中、歩くなんて無謀じゃねえのか?」
 乱馬が心配げに忠告する。
「大丈夫だよ…。そんなに遠くには行かないから…。それに、息子が居るからね。乱馬君。」
 上機嫌に酔っ払った早雲が乱馬に言った。
「おっとっと…。」
「そら、言ってる先からすっ転んでたら世話ないぜ。おじさん!」
 乱馬は苦笑しながら、足元を夜露に濡れた落ち葉で滑らせた早雲を後ろから庇う。

「大丈夫、この先には小さな神社があって、そこへ続く小道には一応街灯だってあるんだから。君にどうしても見せたいものがあるんだよ…。乱馬君。」
 早雲は率先して歩き出す。
 確かに彼が言うとおり、軽車両が一台通れるかどうかの草木が覆い被さるように道の両脇から伸びてくる細い道にも関わらず、簡易舗装された道には、電信柱に沿ってポツポツと暗い蛍光灯が灯されている。
 それが道なりに点々と続いている。
 本当に神社でもあるのだろう。御神灯と掘られた石灯籠が思い出したようにある。
 何のためにこんな時間から、その神社へと誘うつもりなのだろうか。何かに取り憑かれたように、早雲は歩いていく。
 途中で神社の石段があったが、そこへは上がろうとしなかった。それどころか、神社とはまるで反対側に延びる、遊歩道へと足を踏み入れて行くではないか。
 さすがにこの先には街灯などない。暗闇が森の奥へと続いている。頼りになるのは、天上から照らしつける星明かりだけ。
「あれ?ここらあたりじゃなかったかなあ…。」
 さらに、早雲は心細いことを言い始める。
「おじさん、戻ろうぜ。夜風だって冷てえし…。こんなところで二人で遭難なんて洒落になんねえぞ。」
 乱馬は困惑げに問いかける。
「いや、私の記憶ではこっちだ!大丈夫だよ、乱馬君。」
 すっかり酔いどれた早雲には乱馬の忠告など耳に入らぬ様子だった。

「おじさんっ!!」

 たまらず乱馬がそう問いかけた時だった。

 辺り一面の木々の梢がざざざざざっと、一斉に風に煽られて揺れた。
 一陣の風が一気に吹きぬけて行ったのだ。
 と、ひらひらと、どこからともなく舞い降りてくる花びらを見つけた。暗い空間を風と共に煽られて落ちて来る、薄桃色の花びら。雪のように、舞い降りてくる。
 一瞬花びらの舞いに目を奪われた。

「おお、こっちだ!」

 その花びらを見て、早雲は嬉しそうに声をあげた。

「ちょっと、おじさんっ!!暗闇の中、そんなに急いだら駄目だって!!」

「何の、ワシとて無差別格闘天道流の免許皆伝。このくらい…。」

「おじさんっ!!」

 言うことをきかない中年親父に、思わず声を荒げた時、目の前の景色が急に明るくなった。
 いや、電灯がこんなところに灯っていたわけではない。それは、突然目の前に開け、乱馬の目を釘付けにしたのだ。


「す、すげえ…。」

 思わず声が漏れた。



三、

 先を行っていた早雲も、そこではたと歩みを止めた。
 どうやら彼の目的地はここだったようだ。

 それは、見事なヤマザクラの古木だった。

 息を飲むほどに美しく枝葉に花を咲き誇らせて、夜の闇に浮かんでいた。

「どうだい?綺麗だろう?」
 早雲は満足げに乱馬に語りかけた。
 恐らく、早雲はこの桜の木を見せたかったのだ。乱馬も瞬時に理解した。

「こんな見事な桜、なかなか見られるものじゃなかろう?」
 早雲は嬉しそうに乱馬を振り返った。
 乱馬のおさげがこくんと揺れた。
「誰が植えたのでもない、天然の桜の古木なんだろうな…。山の斜面いっぱいに枝葉を広げて、春を誇る。山の中の孤高な桜の古木だよ。」
 少し寂しげな微笑を浮かべると、早雲はゆっくりと語り始めた。


「ここはね…。乱馬君。家内、あかねたちの母との思い出が詰まってる場所なんだ。」

 早雲は愛しげに桜を見上げながら言った。

「あかねの母ちゃんの?」
 思わず乱馬は訊き返していた。

 早雲が未だに、亡くなった奥さん、あかねたちの母を愛していることは、乱馬にもわかっていた。茶の間にある仏壇には、花や線香が欠かされたことはないし、事あるごとに仏壇に飾られている遺影に話しかけている。

「もう二十年と少しも前のことになるかな…。ここに、家内と二人きり来たことがあるんだよ。」
 そう言って早雲ははにかみながら話し始めた。
「二十年くらい前って…もしかして…。新婚旅行…ですか?」
 思わずそう問いかけていた。
「新婚旅行。懐かしい響きの言葉だなあ…。」
 早雲は、今までに見たことがないほどに優しげな顔になった。
「いや、正確には結婚十ヶ月にして、やっと行けた新婚旅行だったんだがね。」
「へえ…。新婚旅行って、結婚してすぐ行くもんじゃ?」
「いや、本当はすぐにでも行きたかったのだが…。まあ、いろいろあってな。結局次の年の春へと持ち越しになったんだ。」
 早雲は懐かしそうに言った。
「海外旅行が主流になって久しい新婚旅行。当時としても二泊三日の近場の旅は質素な部類に入る新婚旅行だったんだがね、それでも、若い私たちにはたっ極上の旅だったんだよ。」
 揺れる枝先を見詰めながら、早雲は言った。
「やっぱり桜のこの季節にあのホテルに泊まりにきて、露天風呂で身体を癒し、ご馳走を食べ、そして夜風に吹かれながらふと佇んだ小道でこの桜を見つけたんだ…。」
 早雲は懐かしげに桜を見上げた。

「あれから二十年…。かすみが生まれ、なびき、あかねと続き、そして、短い生涯を散らして逝ってしまった母さん…。また来ようと約束したのに、結局は一度きりしか来られなかったんだ…。でも、確かに二十数年前、この桜の木を二人で見上げていたんだ。今、私たちが立っている、この場所からね…。
 もう二十年も前の話なのに、花の色は焦ることなく、今を盛りに春を謳歌して咲き乱れている…。不思議な気がするよ…。人は去り、変わって行くのにね…。」

 乱馬は黙ってしまった。
 何故だろう。切ない気持ちになってきたのだ。
 早雲の寂しげな姿に、らしくなくほろっときた。

「ねえ、乱馬君、かすみもなびきもあかねも、母さんがつけた名前なんだよ。…いずれも和歌でよく使われる言葉から取ったんだ。かすみは「春霞」、なびきは「棚引く」、そしてあかねは「あかねさす」。」
「あかねさす…。」
「ああ、「あかねには初めての二人きりの旅行で見た、ここのこの咲く夜桜のように、美しく、そして優しく光り輝く女性になって欲しい。」と、死ぬ間際までずっと言っておったからな。この桜のように逞しく美しく光り輝いて欲しいと思ってつけた名前なんだろうね…。」

 あかねの光り輝く笑顔が、桜の大木と重なった。
 明りもないのに、闇に浮き上がる美しい桜のように、己から光り輝いている少女。凛とした勝気さの中に、どこか儚さと弱さを持つ少女。
 
「母さんが君をここへ呼んだのかもしれない…。」
 
「え?」

「多分、そうなのだろうさ…。この景色を愛でるのは早乙女君じゃあ役不足だってな…。それで、早乙女君に風邪をひかせた…。」
 早雲は笑いながら言った。

「そうでしょうか…。」
 乱馬は視線を桜へ向けながら言った。
「あかねの母ちゃんは、この桜をあかねに一番見せたかったんじゃないのかなあ…。」

 暫く沈黙があった後、早雲は言った。

「勿論、あかねにも見せたいと思っていたろう…。でも、真っ先に、あかねを大切に守ってくれる男性に見せたかったのだと思うよ…。幼いときに死に別れた娘を、本当に慈しんで守ってくれる男性にね…。」

「おじさん…。」
 乱馬が言葉を継ごうとしたのを早雲は制して続けた。

「父親のエゴかもしれないが…。君があかねと結ばれることがあったら、いつか、あかねをこの場所へと連れて来てやってくれ。私にはわかるんだ。母さんはそうなることを一番に望んでいるってね…。」

 彼は潤んだ目を真っ直ぐに桜に向けながら、声を落として小さく言った。

「あかねたちの母は、もうこの世には居ない…。でもね、私の記憶の中ではには、まだしっかりと生きているんだよ…。彼女と過ごした日々の思い出、そして愛する娘たちと共にね…。」

 心なしか、彼の目に微かに涙が溢れているのを、乱馬は黙って見詰めていた。
 風がまた強く斜面を渡っていった。
 
 春が往くのを惜しむように、名残の花吹雪は舞い降りる。
 ひらひら、ひらひらと。


「さあ、夜風は冷える。風邪をひいたら大変だ…。宿に帰って一風呂浴びようか…。乱馬君。」
「あ、はい…。お父さん。」
 何故そう言う言葉が口を吐いて出たのか。自分でもわからなかったが、早雲を「父」と呼んだのだった。

 早雲はその声に一度、桜の木をいとおしげに見上げると、ゆっくりと頷いた。
 そして、二人、元来た道を辿って帰った。ずっと何も話さないままに。だが、少し心に暖かな光が灯ったような気がした。






「で、どうだったの?お父さんとの二人旅。」
 次の日の夕方、天道家に帰り着くと、興味津々な瞳が乱馬へと伸びてくる。
「ご馳走食べて、温泉入って来たって、上機嫌でお父さんは帰ってきたけど…。」
「フルコースだったんだって?風邪さえひいてなかったらワシがお相伴に預かったのに、残念じゃわい!!ごほごほ…。」
 かしましい、姉妹たちや父親の言を
「別に…。ごく普通の旅行だったよ。」
 と、あっさり流した。


「ねえ、本当に楽しかったの?窮屈じゃなかった?」
 あかねが誰も居ないところで訊いてきた。
「別に…。」
「どんな旅だったの?」
「ごく普通の旅さ。ご馳走食べて露天風呂入って。そうそう…混浴だっだぜ。」
 わざと目をあかねに手向ける。
「な、何ですってえ?」
 あかねの顔が一瞬険しくなった。
「あはは…。何目くじら立ててやがんでいっ!時期はずれだし若い子は居なかったよっと…。それとも、それがメインの旅だとでも思ったかあ?」
 と乱馬はげらげら笑った。
「お、思ってないわよっ、そんなこと!」
「あとそれから、ま、強いて言うなら、いい物見せてもらった…てところかな。」
「まさか、女の人の裸体とか見せてもらったなんて言うんじゃないでしょうねえ?」
 鼻息荒くあかねが吐き付けてくる。
「バーカ…。そんなもんより、もっと高尚で綺麗なもんだよ。」
「ねえ、何見てきたのよ!」
 気になったらしく、あかねが食いついてきた。
「教えてやんねっ!」
 乱馬はくすっと一人笑いながら言った。
「もおっ!何でよっ!邪な物じゃないんなら、教えてくれたって良いでしょうがっ!!」
 いつもの如く、顔がぷんぷん怒り出す。
「今は教えねえけど、いつか教えてやるよ。」
 明るく乱馬は突き放す。が、あかねはなかなか引き下がらない。
「いつかっていつよっ!!」
「んー、そだな…。新婚旅行の時にな…。」

「なっ!」

 乱馬の唐突な発言に思わずあかねの声が詰まった。
 案の定、縁側で固まっている。

「さてと…。明日までの宿題があったよな…。約束だから、ノート写させろよな!」
 乱馬はそう言うと、やおら立ち上がった。

「ちょっと…。今のどういう意味よ!」
 やっと正気に戻ったあかねが、顔を真っ赤にして乱馬を睨んだ。

「別に…。深い意味はねえよ。」
「あー。あんた、からかったのね?」
「もう、どうでも良いから宿題のノート貸せっ!俺は疲れてんだっ!」
「どうでも良くないっ!!」
「良い!」
「良くないっ!!」
「あんまりしつけーと、可愛くねえぞっ!」
「何ようっ!それっ!!」
「嫁に貰ってやんねーぞっ!!」
「あんたなんかに貰って欲しかないわよっ!!」

 その傍らを、早雲が将棋板を持ってとおった。
「早乙女君、久々に一局。」
「おっと、良いねえ…。」
「かすみーっ!夕飯には一本つけてくれよ!」
「あー、かすみさん、わしにも是非!」
「はーい。」

 その脇でずっと言いあっている、若いカップル。

「桜…。すっかり葉桜になったねえ…。」
 将棋のコマを指しながら早雲が言った。
「そうだね…。また、春が巡ってきたら満開だよ、天道君。」
「人は去り時は流れても、春は春。」
「花が咲いて散っても、また、更に新しい花が次の春に咲く…。」
「そうやって巡っていくんだね、早乙女君。」
「何か、旅先で悪い物でも食ったのかね?天道君…。わっはっは。」



 天道家の庭先の桜が、緑の葉を夕陽に照らしながら、風に揺れていた。
 その向こう側の夕空に瞬くのは、一番星。






2004年4月作品




 天道姉妹の名前の謂れについては一之瀬の考察からの創作です。
 「あかねさす」は「日」「昼」「君」「紫」にかかる枕詞。茜色に光り輝くという意味を持つ言葉です。
 あかねの名前は「茜色」ではなく「あかねさす」から付けた名前であるような気がします。
 厳密には乱あではないのですが、こういう作文もたまには…。




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