◇格闘家は歯が命



 この時期、六月初頭。四日は語呂合わせから「虫歯の日」。いや、正確には「虫歯予防デー」。そのせいもあろうかと思うが、やたら、歯磨き粉の宣伝が耳や目に入る。
 家族揃って歯磨きするタレント一家や歯周病を予防しましょうといったコマーシャルが、心なしか増えるような。

 芸能人は歯が命。

 いつのことだったか、そんなキャッチフレーズがCMで流行ったことがあったっけ。
 歯磨き粉か何かの宣伝文句だったと思うが、確かに、テレビを見渡してみると、歯の黄色いタレントは居ないように思う。
 いや、本当は、スポーツ選手こそ、歯が命かもしれない。
 野球選手は、ぎゅっと奥歯を噛みしめて球を打つから、磨り減って大変だという話を聞いたことがある。相撲取りも奥歯を噛みしめて踏ん張るのだそうだ。
 大リーガーがガムを噛むのも、アゴの力を強くするためだという説もある。あたしは野球には詳しくないから、真偽の程は知らないけれど、何となくわかるような気がする。
 というのも、かく言う、あたしたち格闘家も歯が命。
 奥歯を噛みしめられないと、力が出ない。
 何の競技にしても、奥歯をぎゅっと噛みしめることは、大切なことだと思う。
 



 閑話休題。

 そろそろ徴雨が言われるある日のこと。その日は朝から乱馬の様子が変だった。

 普段なら、遅刻しようが何しようが、朝ご飯をパスすることは、ない。朝修行で早くから身体を動かすことが日課になっている彼。朝ご飯が炊き上がる頃は、お腹と背中がくっつくほどに腹ペコのはずで、毎朝、二杯、三杯、おかわり。傍で見ていて、こっちの胃がもたれるくらいよく食べる。

 でも。
 その日は、いつもの半分、いや、四分の一も食べていない。
 おかわりどころか、途中で「ごちそうさま。」と箸を置いた。
「どうしたの?具合でも悪い?」
 思わずあたしは彼を見詰める。
「いや…。ちょっと、食欲が無くって。」
 彼は覇気の無い真顔を差し向けてきた。
「熱でもある?」
 額に手を当ててみたが、そう高いとも思わなかった。
「そういや、おまえ、今朝の修行はさぼったな。」
 様子を見ていた早乙女のおじさまが厳しい顔を差し向ける。
「大方、意地汚く、変なものを食いつけて、腹でも壊したかあ?たく、しょうの無いやつめ。あれほど、拾い食いはしてはならぬと、口をすっぱく言い含めておるのに…。こやつは…。わっはっは。」
 豪快におじさまは笑い飛ばした。
「てめえと一緒にすんじゃねえっ!!」
 乱馬は持っていたコップをおじさまにぶつける。
「ぱふぉー!!」
 水が滴ると、おじさまはいつもの如くパンダに。
「ぱふぉふぉふぉふぉーっ!!」
 両手を広げて怒ってる。「何をする!」とでも叫んでいるのだろう。

「とにかく…。今朝はもういい。」
 乱馬はそう言うと、しずしずと立ち上がった。

 変だ。明らかに変だ。
 本当に、トイレに立ち上がるでもなく、かといって、風邪っぽい雰囲気でもない。
 でも…。心なしか、顔が蒼じんで見えたような気がする。脂汗が浮き上がっているような。

 学校へ行く時間になっても、なかなか玄関まで降りて来ない。

「乱馬ぁっ!遅刻しちゃうわよっ!!」
「お、おう…。」
 気の抜けた返事を返すと、とぼとぼと階段を降りてきた。
「ほらっ!!さっさと靴はいてっ!」
「お、おう。」
「行くわよっ!!」
 半ば引きずるように、一緒に玄関を出た。

 そろそろ梅雨の足音。外は曇り空だったけれど、まだ雨の気配はない。
 気まぐれ天気は、いつ変わるかはわからないから、あたしは傘を持つと、一気に外へ出た。
「ほらっ!!早くしなさいよっ!遅刻するわよっ!」
「先行け…。」
 ぼそっと声。
「へ?」
「いいから、おめえは先行けっ!」
 明らかに何かを躊躇している。
「もう!ほらっ!!、さっさと行くの!!」
 いつもに増して、あたしは大胆な行為に出た。乱馬の手をくいっと引っ張ると、そのまんま、走り出してみた。

 ずずずずず…。

 いつもなら、
「何しやんでーっ!!」とか「やめろっ!恥ずかしいっ!!」と怒声が飛んでくるだろうに、どうしたことか、あたしに繋がれたまんま、引き摺られて行く。
「ちょっと、乱馬っ!!ふざけるのはいい加減にしてよっ!!」
「ああ…。」
「乱馬ったらっ!!」
 このままじゃ遅れるから、あたしは学校までの道を、乱馬の手を引いて、ぐんぐん歩いた。

「よっ!ご両人っ!」
「朝からラブラブね!」
「手を繋いだまんま、登校ですかあ?」

 校門付近で友人たちにからかわれる。

「早乙女えーっ!!これみよがしに!!あかねくんとお手て繋いで仲良く登校しよってえっ!天誅っ!!」

 ほら来た。横から、九能先輩の竹刀。

「え?」
 いつもの乱馬なら、即座に反応して、臨戦態勢に入るのに、今日は視線定まらず、ぼっとしてる。
 このままじゃ、九能先輩の竹刀がまともに入る。
「でやーっ!!」
 焦ったあたしは、乱馬の手を離すと、九能先輩の前に仁王立ちになって、思いっきり先輩に蹴りをお見舞いしていた。
「早乙女の卑怯者ぉーっ!!女の尻の後ろに隠れよってーっ!!」
 そう言いながら、九能先輩は空へと真っ直ぐ飛んでいく。
 あたしが、苦労しているというのに、乱馬ったら、目が定まってない。
「もう、乱馬っ!乱馬ったら!!」
 真っ赤な顔を彼に差し向けたが、ぼおっとしてる。
 やだ、熱でも出てるんじゃないの?
 そこでまた、額に手を当てたが、平熱。
「変ねえ…。」

「あかねーっ!予鈴鳴ってるわよ。」
 前方からなびきお姉ちゃんの声。

 はっと我に返って、慌てて、校舎へと駆け込んだ。



 乱馬は、授業中もぼおっとしている。寝るでもなく、かといって、真剣に聞いてるでもなく。

 もう、一体全体、どうしちゃったのよ…。

 思わず漏れる溜息。

「こらっ!天道!!許婚のことがそんなに気になるのかあ?」
 横に立った先生が苦笑いしていた。
「あ、いえ、別に、そんなわけじゃあ…。」
 口ごもるあたしに、クラス中の視線が集中する。勿論、あたしの顔は真っ赤に染まる。

 あんたのせいでからかわれちゃったじゃないのぉ!!

 恨めしそうに見返したが、とうの乱馬はそれどころじゃないみたい。くすりとも笑わないんだもの。ずっとしかめっ面。

 唯一、彼が大きな目を開く体育の時間だって、やっぱり変だった。
 男子はソフトボールだった。ちらっと観察していたけど、てんでさえない。いつもなら、グラウンドを越えて飛んでいく球もポテンヒットかピッチャーゴロ。それも、即座にアウト。ゲッツーなんかも食らってしまって、いつもの精悍さが微塵も感じられない。

「乱馬君どうしちゃったの?何か不調よねえ…。」
 一緒に眺めて居たクラスメイトも目を見開く。
「朝からずっとあの調子なのよ…。」
 あたしもそれに合わせて溜息。

 お昼休みも、いつもなら、かすみお姉ちゃんの作るお弁当も足りなくて、競うように買いに走る、購買部へも行かない。いや、お弁当にも殆ど箸をつけてない。

「乱馬よ…。その弁当…。あかねが作ったのか?」
「あかねにしては綺麗におかずも並んでるぜ。」
 恐る恐る大介君とひろし君が覗き込む。

 何よ、それ。あたしの弁当だから食べないとでも言いたいの?

 その言葉に気分を害したあたし。でも、ここでクラスメイトをすっ飛ばすのは、大人気ないから、ぐっと堪える。乱馬だったら、蹴り上げるのだけれど、さすがに他の男子にはね…。

「あ…いや、食欲ないんだ。俺。」
 ぼそぼそっと歯切れの悪い返答。

 殆ど箸をつけずに閉じられる。

「また、右京にお好み焼きでも持ってきてもらって、休み時間に隠れて食ってたか?」
「たく、おめえは…。いいよな。あかねだけじゃなくって…。あの、中国娘のシャンプーちゃんとかいう可愛い子ちゃんだって、肉まん持って来てくれたりするもんなあ…。」

 そんな会話も漏れなく聞く。
 確かに、右京の焼くお好み焼きは彼の至上の好物だけれど、今日は隠れて食べてたふうは見えない。青海苔だって歯にくっついてない。


 放課後を待って、あたしは乱馬に詰め寄った。
 こういうことは、はっきりさせないと気がすまない性分。

「乱馬、あんた、本当に今日はどうしちゃったのよ!!」
「別に、何でもない。」
 ほら、予想通りの無愛想な返答。
「何でもないわけないでしょう…。それとも、何、あたしには言えないことなの?」
「ああ、言いたかねー。」
 彼はさも面倒臭そうに、それも、憮然と言い放つ。
「心配してあげてるのに…。」
「それが余計だっつーのっ!!」
 思いっきり吐き捨てられた。それどころか、睨みつけてくる。
「乱馬のバカーッ!!」
 特にいつも以上にナーバスになっていたわけじゃないのだけれど、あたしの頬にボロボロっと涙が零れ落ちた。

「お、おい…。あかね?」
 
 驚いたような乱馬の顔。

「もう、知らないっ!!あんたなんか、心配なんかしてあげないんだからーっ!!」

 涙を流したことに動揺したのと、恥ずかしかったのと、乱馬への想いとが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、変な気分。自分自身に居た堪れなくなってその場を立ち去ろうと駆け出した。

「あ、あかねったら、あかねっ!」
 さすがの乱馬も、あたしの豹変に驚いたのか、後を追って来た。
 街中で追いかけっこ。
「あかねっ!!」
 ぐいっと手をつかまれた。
 彼の手が汗でじわっと濡れている。

「たく…。何だってんだよっ!急に怒りだしたり泣きだしたり…。」
 どうあたしに対処したら良いのかわからないのか、困ってる表情。
「訳わかんないのは乱馬よ!!たく、今朝から一体どうしたってのよっ!!」
 すっかりパニックった頭でしどろもどろ言い返す。
 変なところで涙なんか見せた、後悔と自責の念が、一気にあたしに押し寄せてくる。

「あかね…。実は俺…。」
 真摯な瞳が追いすがる。
 もそもそっと耳元で囁かれた。
「歯が痛え…。」

「は?」
 ぱちくりと見開く目。
「だから、その…。歯が痛むんでいっ!!」
 と、言い放つ。
「歯が痛い…。」
 反芻するように言うと、あたしは、乱馬の耳の下あたりをくいっと両手で包み込んだ。

「いてっ!いててててっ!!こらっ!痛いっつーってるだろがあっ!!」
 涙目。

「虫歯?」
「わかんねえけど、ずきずきする。おまけにぐらぐら…。」

 そのまま回れ右して、辿ってきた道を引き返す。

「わたっ!おめえ、どこへ…。」
 あたしにぐいっと手を引かれて乱馬が焦った。
「どこへって、決まってるじゃない!!歯医者よ、歯医者っ!!」
「やだっ!!歯医者はやだっ!!」
 それを聞くなり、乱馬はがっしと電信柱にしがみついた。
「痛むほど腫れてるんだったら、ほっとけないでしょっ!!」
「やだっ!歯医者だけは行きたくねえっ!!」
 抵抗する乱馬。
「もおっ!子供みたいなこと、言うんじゃないのっ!!」
「やだあああっ!!」
 
 道行く人たちが、こそこそと指差しながら、通り抜ける。それくらい、彼の抵抗は激しかったけれど、あたしは、ぐいぐいと彼を引っ張った。
 痛くて奥歯を噛みしめられない乱馬など、あたしの敵ではない。

 あたしは子供の頃にかかりつけだった、歯科医へと乱馬を連れ込んだ。東風先生の接骨院ほどではないが、それでも先生とは顔見知り。だから、保険証を持ち合わせていなくても、観てくれる。そこら辺は、町内の馴染み。
 「HALFMOON歯科」という古い看板がかかってる。
 歯科は丁度、午後診が始まったばかりのようで、まだ、患者の影がない。

「あら、あかねちゃんじゃない。」
 きっぷしの良い中年の看護婦さんが話しかける。
「こんにちは…。あの、急患なんですけど…良いですか?」
 まだ嫌がってる乱馬をぐいっと引っ張り込む。
「良いわよ。どうしたの?怪我?虫歯?」
「虫歯らしいんですけど…。」
 あたしは、隙を見て逃げようと足掻く乱馬のおさげを引っ張って、看護婦さんの前に押し出した。
「あら、いらっしゃい。もしかして…。あなた乱馬君?」
 看護婦さんは笑った。
「え?知ってるんですか?」
 あたしの方が驚いたほどだ。
「あら、あかねちゃんの許婚って、結構この辺じゃあ有名な少年よ。なかなか、イケメンだってね。ちょっと待っててね、今、先生呼んで来るから。」
「イケメン…。」
 思わず噴出しそうになるのをぐっと堪えた。じゃないと、繋いだ手を振り切られて、逃げられてしまう。ほら、彼が隙に乗じて動いた。
「こらっ!!逃がさないわよ!」
「お願いだ!見逃してくれえっ!!」
「乱馬。いい加減に腹くくりなさい。」
 あたしは、彼の首根っこをぐいっと掴んだ。
「やだっ!俺、歯医者は苦手なんだようっ!」
「そんなこと言ってたら、ずっと治らないわよ。奥歯っ!!」
「勘弁してくれえっ!!」

 もう、大の男がなんてザマ。

「さ、準備できたようだから、いらっしゃい。」
 看護婦さんが奥から出てきて、嫌がる乱馬を診察室へと導く。
 あたしが手を放した隙に逃げようとしたが、さすがに、看護婦の一之瀬さんはこなれている。
 ぐぐっと彼を引っ張ると、治療台へと座らせてしまった。
 それから、背中へ回り、肩を押さえつける。診察エプロンを装着するためだが、彼女にぐっと力をこめられては、乱馬だって動けないだろう。
 この、一之瀬さん、結構、強力の看護婦さんなのだ。それに、逃げ惑う小さな子を何人も扱っているから、乱馬よりも一枚も二枚も上手。

「ほーら、俎上の鯉よ。諦めなさい。」

「鬼っ!!」
「何とでも言って。」

 あたしも一之瀬さんと一緒に乱馬を抑えにかかる。

「やあ、お待たせしたっす。」
 癖のある喋り方をする先生が現れた。東風先生のように、とぼけた眼鏡の若先生だ。治療手袋をさっとつけ、乱馬の前に立ちはだかる。
「ほら、口を開けて。」

 最後の抵抗を試みる乱馬。

「先生の言うとおりにね、乱馬君。」
 一之瀬さんは心得ていて、話しかける。
「やだっ!!」
 彼がそう吐き出した途端、若先生が口の中に丸い鏡のついた器具を差し込む。
「あが…。」
 若先生はすかさず、電灯を乱馬に差し向けて、口の中を覗きこむ。

「こりが痛むっすね…。抜くっす!」
 キランと先生の眼鏡が光った。
 それを訊いた途端、乱馬は激しく抵抗する。
「あが…あがあが…。やだーっ!!」
 最後に絶唱した。
 逃げ出さないように、二人がかりで押さえつける。

「うーん、どうしても最後まで抵抗するのねえ…。仕方が無い。あれを使いましょうか、先生。」
 一之瀬さんが流すと、先生は、こくこくと頭をうな垂れた。
「もしかして、あれですか?」
 あたしは言い返す。
「ええ、使いましょう。」
 看護婦の一之瀬さん、あたしの方を向いてにやっと笑った。
 ううん、何だか嫌な予感。
 すると、先生がすっと乱馬の真後ろに立って、がばっと動きを押さえつけた。
 その間に、看護婦の一之瀬さん、手をこまねいて、あたしに耳打ち。

「ええええっ!!」
 あたしは思わず吐き出してしまった。
「ま、まじでそんなこと…。」
 躊躇するあたしに、一之瀬さんはたたみかける。
「このままだと、治療させてくれないわねえ…。小さな子に使うカードだけど…。この際。」
「で、でも…。」
「ほっておくと、歯肉に傷が付いて、それが膿んで、それこそ大掛かりななんてこともありえるって先生の目が言ってるわよ。」
 まことしやかに、一之瀬さんはあたしを脅しにかかる。
「スポーツ選手って歯が命なんでしょう?武道家だって同じですよ。」
「う…。」
 そこまで言われてしまっては、立つ瀬が無い。
「さあ、あなたの決断で、乱馬君の格闘家としての将来が。」
 びっと一之瀬さんは人さし指を天井へ向けて差し上げた。
「わ、わかりました…。」
 仕方なく承諾したあたしに、一之瀬さんは、おずおずと一枚の名刺大のカードを、サインペンと一緒に差し出した。

 実はこの歯医者さん。ぐずる小さい子を納得させて治療するのに、ハートムーンカードというのを使っている。文字通り、ハートと月の絵の入ったカードで、これにお母さんが子どもが上手く治療をさせてくれたら、何々してあげるというお約束を一つ書き込むのだ。
 怖がって泣き叫ぶ、子どもの大好きな食べ物を作るだの、好きなお菓子を買ってあげるだの、ミニカーを買ってあげるだの。千差万別のお約束を書き込んで渡すのである。それを握り締めて、子どもには我慢して治療するという、そんな手を使っている。

「この際し方がないか…。」

 あたしは、諦めムードで、さささっとカードに文字を書き入れた。

「じゃ、あとは私と先生に任せて。彼にも男の沽券があるでしょうから、待合室で待っててね。」
 一之瀬さんはカードを受け取ると、にっと笑った。
 あ、カードに書いてあること、読んだな…。
 と一瞬思ったけれど、ぐっと堪えた。

「じゃ、お願いします。」

 若先生に押さえ込まれている彼を尻目に、あたしは診察室を出た。
 パタンと閉まる診察室のドア。

「やだーっ!絶対にやだーっ!!来るなっ!!」
 
 乱馬の雄叫びが、相変わらず、診察室の中から、響き渡ってくる。
 今しがた入ってきた、小さな子どもがお母さんにしがみ付いて、震えている。

「僕、大丈夫よ…。何も怖いことされるわけじゃないんだから。」
 あたしは思わず苦笑い。あんな声をドア越しに聞かされたら、大人だって、引いてしまうだろう。

 程なくして、乱馬の声がピタリと止んだ。

「うぎゃあああっ!!」
 だが、数分後、再び怒声が響き渡っていった。






「で、歯医者さんで抜いてもらったってわけ。」
 なびきお姉ちゃんが、箸で煮豆をつまみながら、話しかけてきた。
 あたしの傍には、むすっとした乱馬が、黙々と豆腐を食べている。

「もう、ホント、大変だったんだから。」
 あたしは、ちらっと乱馬を見た。

「しっかし…。乱馬君に猫以外にも怖いものがあったなんてねえ…。」
 くくくとお姉ちゃんが笑う。

「うるせーっ!!歯医者嫌いにしたのも、元々親父のせいだかんなっ!!」
 乱馬はむすっと答えた。
「親父が、金がねえって、長い間、俺の虫歯をほってくれたおかげで、膿み出して、凄い目にあったことがあったからな。あんときの医者はヤブで、力尽くで俺の歯、引っこ抜きやがってっ!!」
 もしゃもしゃと今度は柔らかめに炊かれた御飯を噛んでいる。
「はははは…。おまえ、まだあの時の恐怖体験から抜け切らんのか。情けの無いやつめ。」
 おじさまがからからと笑っている。
 まあ、幼い頃の体験で、怖いものが出来るなんてことはざらだから、そう珍しいことでもないんだろうけれど。
「しかし…。一本、虫歯で奥歯をやられたってことは、やっぱり相当大変だったんじゃないのかね?」
 お父さんが心配げに覗き込む。
「それなら大丈夫よねえ…乱馬。」
 あたしはくすくす笑いながら答えた。
「ごっそさん!後で部屋へ来いよ!あかね!!」
 乱馬はあたしの言葉を振り切って、さっさとご馳走様をして、その場を立ち上がった。

「あ…逃げた。」
 なびきお姉ちゃんも笑い出す。

「で?乱馬君の歯は大丈夫なの?」
 かすみお姉ちゃんが、お父さんの質問を繰り返した。
「平気、平気。大丈夫よ。」
「でも、奥歯って言ったら、力を入れて踏ん張る時に噛みしめる大切な歯だよ。一本欠けたってことは…。大きな打撃にならんかね?」
 お父さんも続けた。

「だから、欠けてないのよ。」
 あたしはそう答えた。

「は?」
 一同、クレッションマークを点灯させて、あたしの方をじっと見る。だから、ゆっくり説明し始めた。

「だから…。彼の虫歯って乳歯だったんだもん!」

『にゅうしぃっ?』
 みんなの声が一度に重なる。

「そ…。抜けずにしがみ付いてた乳歯が一本あって、それが虫歯になったんですって…。もう、大笑いだったわよ。だから、根も深くないし、消毒で通わなくっても大丈夫ですってさ。」

「ぶわっはっはっは!そ、そうか!乱馬の奴。」
「ぷっ!乳歯って普通、十代の始めに抜け落ちるんじゃなかったっけ?」
「あらまあまあ…。」

「中には、大人になるまで抜け損ねちゃう人も居るんですってさ。」

「乱馬君って、奥手なのね…。彼らしいわ。」




「たく、根も浅い残り乳歯を抜くのに、あの騒ぎは何だったんだろう…。」
 食後に階段下で、思わずはあっと溜息吐いたあたしに、なびきお姉ちゃんが声をかけてきた。

「ねえ、もしかして、ハートムーンカード使ってもらったとか?」

 ぎくっ!!

「そ、そんなことあるわけないじゃない。」
 鋭い突っ込みに、あたしはたじっとなる。
「そっか、使ったか。」
 にやにやと笑うなびきお姉ちゃん。
「な、何で…。わかるのよ…。」
「あら、あんたの顔に書いてあるわよ。ふふふ、察するに、宿題手伝ってあげるわ、とでも調子良いこと書いたんでしょう?」
「え、ええ。よくわかるわねえ。」
 冷や汗だらだら。顔もひきつってたと思う。
「ま、そういうことにしておいてあげる。」
 そう言いながらお姉ちゃんは、トントンと階段を先に上がっていった。

 その背中が、自室へと吸い込まれるのを確認してから、あたしは乱馬の部屋へ足を踏み入れた。
「乱馬…。」
 部屋へ入ると、返事もなく、ただ、すっと、ハートムーンカードを差し出してきた乱馬。
「ちょ、ちょっと乱馬…。あんた…。」

 一瞬戸惑ったあたしの腕を、彼はすいっと引いてきた。

「そ、その…約束…なんだろ?」
 視線は完全にあたしから外れて、上を彷徨ってる。まともに顔が見られないのだろう。
「良いの?」
 思わずそんなことを問いかけていた。
「良いも悪いも…。ご褒美くれるんだろ。」
 掴んだままの手が、小さく震えている。
「本当に良いのね?」
 念を押すあたしに、
「ああ、ここでいいぜ…。」
 右の頬へ人差し指を指し示す。

 そう。あたしはあのカードに「キスしてあげる!」って小さく書いていたのだ。
 ほっぺにキス…って彼は言おうとしてるのだ。

 横っちょを向いて、目を閉じた乱馬。
 あたしは一瞬、躊躇したが、思い切って踏み込んだ。
 乱馬のほっぺ…。そこに軽く右手を添えると、下に回りこみ、唇を奪う。
 一瞬、彼の心音がドッと高鳴ったような感じがした。いや、高鳴ったのは自分の心音だったのかもしれない。
 暫く、時のたつのを忘れて、そのまま畳の上に二人佇む。

「良く出来ましたのご褒美…。」

 小さく耳元で囁くと、あたしは、だっと部屋を出た。
 後ろ手にトンと襖を閉める。
 はあっと脱力すると共に、きゅんと胸が熱くなる。
「ほっぺだなんて…。本当に奥手なんだから。」
 そう吐き出しながら、笑みが零れ落ちた。


 襖の向こう側では、固まっているだろう。
 十七歳になって、やっと乳歯が抜けた、奥手な彼が。





 完

















一之瀬的戯言

 これを書いていた当時、歯が大変だと大騒ぎした家族が約一名。(息子、当時高校生)
 大慌てで歯医者さんに予約入れて、連れて行ってみれば…乳歯の根っこが残っていたのでした。勿論、看護婦さんも受付の方も先生も、大笑い。
 人生、いろいろあります。


 


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