恋人たちの緩やかな休日〜神戸紀行


 春うららかなある日、あかねの携帯が軽快に鳴った。
「なびきお姉ちゃんからだわ。」
 そう呟きながら、携帯をスライドさせる。

『もしもし、あかね?あのさ、突然だけど、これからすぐ、こっちへ出てこない?』
 携帯の向こう側からなびきの誘いかける声が響く。
「こっちって?…ねえ、そこって、神戸でしょ?」
 と問いかける。
『そうよ。神戸よ。』
 携帯からは軽快ななびきの声。
「簡単に言うけど…。」
 戸惑いがちに返事を投げかけるあかねを押さえ込んで、なびきは一人、機関銃のようにたたみかける。
『あんたも知っての通り、乱馬君、明日は香港へ向けて旅立っちゃうんだから…。良い?しばらく会えなくなるのよ。何としてでも都合付けて、こっちへ来なさいよ。あ…佐助さんをそっちへやるから…。詳しいことは彼にききなさいね。』
 そう伝えると、電話は慌ただしく切られた。
「ちょっと、お姉ちゃん!お姉ちゃんってばあっ!」
 慌てて、返答を投げかけたが、既に電話は切られていた。かけなおしてみるも、
『この電話を留守番電話に転送します…。』
 という機械音声だけ。

「もうっ!何なのよ!あたしの都合もきかないで!」
 さんざん文句を投げつけるが、相手は出ない。

 天道あかね、大学四回生目前の春休み。暇かと言えば、実はそうでもない。というのも、来春へ向けての就職活動が既に始まっているからだ。自由応募のエントリーシートの書類審査が通過した会社から、OG立ち会いの見学会やら説明会が始まっていた。早い企業は四月早々に面接があるという。
 ざっと、スケジュール帳を確認して、昼から予定していたエントリーの中止をネット経由で申し立てる。いや、この分だと、今日だけではなく、明日の説明会への出席も難しいだろう。
 ただでさえ、就職難のこの時期に…。二本もキャンセル。正直痛い。
 とはいえ、乱馬のことが絡んでいるから、仕方がないかとも、諦めモードだった。
「ま、縁が無かったと思うしかないわね…。」
 溜息が洩れる。

 早乙女乱馬。現在、新進気鋭のプロ格闘家として、偉才を放っている。武道勧誘で進学した大学を中退し、プロの道をまい進していた。
 実力は大学時代からお墨付き。人気も急上昇中で、そろそろ主婦層向けのワイドショーのスポーツコーナーでも、ぼちぼち取り上げられ始めている。
 早雲は我が息子の活躍よろしく、彼の記事が掲載されると、嬉しそうに、はさみ片手にスクラップに励んでいる。
 
 さんざん紆余曲折があった末、プロ転向を決めて以降、乱馬がなんだか急に遠くに行ってしまったような感じを受け始めていた。
 乱馬のマネージメントは、九能先輩となびきが共同で立ち上げた「九能企画」という芸能会社が行っている。金の匂いが大好きな姉の最初の餌食にされたような、そんなところだろうか。
『乱馬くんのマネージメントをあたしがやってあげるのは、あんたのためでもあるんだから!』というのが、なびきの言い分である。が、実際のところ、人に使われる身の上よりも、己で自由気ままに仕事して稼いだ方がなびきの性分に合っている。だから、通り一偏等の就職はしないで、九能の資金で会社を興したのだった。
 で、肝心な乱馬だが、この前から神戸で催されている「世界無差別格闘選手権日本予選」へ出場し、つい昨日、国内予選を優勝で突破したと、今朝、早雲が嬉しそうにスポーツ紙をあかねに手渡してきた。
 両手を挙げて、勝利を喜ぶ彼の顔が、誇らしげに紙面に躍っている。
「今夜はお祝いの御馳走を作らなきゃ。」
 とかすみが嬉しそうに言ったところに来た、誘いの電話だった。

「あら、あかねちゃん、お出かけ?」
 とボストンバックに着替えを詰め込むあかねを、姉は不思議そうに見つめている。昨日は会社説明会へ出掛けると言っていたから、姉のクレッションマーク顔も当然だろう。
「あ…うん。なびきお姉ちゃんから連絡があって、今から神戸へ行くのよ。」
 と返事をする。
「そう…じゃあ、乱馬君によろしくね。」
 なびきの考えが読めたらしく、かすみはにっこりと微笑みかえす。
 神戸へ行くという一言から、何故、乱馬君によろしくとなるのか、苦笑いしつつも、あかねは「うん。」と頷いた。
 
 佐助が、社用車のライトバンであかねを迎えに来た。
「ごめんね、佐助さん、わざわざ…。」
 と詫びつつも、車に乗り込む。
「良いでござるよ。これもみどもの仕事でござるから。」
 と愛想良く佐助が答える。九能家の御庭番業から九能企画の社員、その実、なびきの小間使い。それが現在の佐助である。
「東京駅までかっ飛ばすでござるよ!」
 という掛声と共に、疾走するライトバン。思わず、後部座席のシートベルトを慌てて引いた。
 首都高の渋滞を横目に、佐助は国道、都道の裏道を滑走する。タクシードライバーやカーナビよりも東京中の道を網羅しているのではないかと思うほど、細やかな道を走り抜ける。この辺り、さすがに、元御庭番、諜報の腕が成せる業かと、あかねならずも目を見張る。
 彼の手腕で、あっという間に練馬から東京駅へと到着した。
「では、お気をつけて…。なびき殿と乱馬殿によろしくお伝えくだされ。」
 佐助がハンカチを振りながら、あかねを見送る。

 東京駅。来るたびに、少しずつ駅構内が変わっている。地下街が綺麗に改装されたり、新たなスポットができたり。その、成長についていけず、迷いそうになるのだ。
「銀の鈴も、前と場所が変わっちゃったもんね…。」
 そんなことを考えながら、一台でも早い列車へと急ぐ。
 平日の昼間とはいえ、さすがに、日本有数のターミナル駅。山手線や京浜東北線などの在来列車が到着する度に、吐き出されてくる人波に揉まれながら、東海道新幹線のコンコースへと急ぐ。
 新幹線の先頭車両の顔つきも、大分変わったと、ホームへ上がる度に思う。五百系は引退し、七百系のぞみが主流になっている昨今。N七百系に至っては、ノートパソコンや携帯電話の充電用に電源も付いているという。いや、それだけ、サラリーマンやサラリーウーマンの利用が多い日本の大動脈だ。そのひっきりなしの運行に、余所の国の人々は眼を丸くするというのも頷ける。勤勉な国の勤勉な人々のための均衡な運行の列車。そんな形容がぴったりとくるのだ。
 現在時間は、午前十時を少し回ったところ。混雑は緩和されていた。
 
 のぞみに乗り込むと、三時間ほどで新神戸だ。

 乱馬に会うのは、久しぶりだ。この正月は大会のための調整とかで、父母が居候している天道家にも帰省してこなかった。あかねのことは、相変わらず、ほったらかし。携帯も扱うのが面倒臭いと、最近は、メール一本も寄こして来ない。
 たまに、あかねから打ってみるが、返事もほどんど返ってこない。
「本当に、あんたたち付き合ってるの?」
 友人達には、好奇の瞳で見られている。
 仕方がないと言えばそれまでだが、もう少し許婚としての配慮も欲しいと切に思う、今日この頃。

 いや、本当に、久しぶりに会うことになる乱馬。心ははやり、躍っている。就活よりも乱馬を取ったのが、その証拠。乱馬第一主義を貫いた。
 ホームのキオスクに置いてある、今朝のスポーツ紙の一誌だけが取り上げた乱馬の一面記事に、自然、視線は吸い寄せられていく。テレビ放映がなかったので、彼の勇士を見るのは紙上が初めてだった。番組改編期のこの時期は、特番が多いから、マイナースポーツの番組は組み難いのだろう。人気はじわじわ上がってきているとはいえ、まだ、無差別格闘技は専門チャンネルがある野球やサッカーに比べて、扱いは低い。
 思わず、キオスクの新聞に手を伸ばしてしまった。こういったスポーツ紙を女性が買うのは割と恥ずかしいが、一大決心、小銭をキオスクのおばさんに渡して、受け取る。
「良い表情してるな…。」
 格闘技から少し距離を置き始めたあかねは、第一線で輝き始めた乱馬が少し羨ましく思えた。
 女流格闘家として活躍する場は当然あったが、所詮、頑張っても「女子」は「女子」。乱馬との力の差は歴然だと、悟った時、彼女の選手生命は終わったと言って良かった。
 乱馬はついて来いと言ったが、断った。石にかじりついても、女流は女流。これ以上の躍進は望めない。
 己が出した結論は、バックヤードから彼を支えられるようになること。大学ではスポーツマネージメントを専攻している。そして、それを生かして、取りあえず、スポーツ用品メーカーかスポーツ施設、その辺りに的を絞って、就活しはじめたところであった。
 いずれ近い将来、乱馬を支える力となりたい。そういう思いが、日を重ねるごとに強くなっていく。

 春霞にかすむ富士の山、水を湛える浜名湖、平野部に広がる畑地や工場街。飛んでいく景色に、乱馬に少しずつ近づいている。そう思った。時間にして三時間ほどの行程だが、それはそれで遠いのだ。
 何より、自分の顔を見て、乱馬は果たして、渋い顔をしないか。それとも、頬を染めるのか。
(なびきお姉ちゃん、ちゃんと乱馬にあたしが行くって言ってくれてるわよね…。)
 近づくにつれ、不安になっていく。
 乱馬が天道家になかなか顔を出さないのは、格闘技への集中力を削がないためでもあろう。マスコミが面白おかしく、競技選手を引退したあかねとプロへ進んだ乱馬のことを書きたてたことがある。ネットを駆使するような時代だ。ある程度は仕方のないこととはいえ、気不味い雰囲気になった時期があったことも確かだ。
 正確に言うと、それ以後、まともに二人の時間を過ごしていない。
 お互い「遠慮」しあったのだ。


 ☆ ☆ ☆

「新神戸、新神戸。」
 という到着案内によって、新幹線の中から吐き出されるようにホームへ降り立つ。六甲トンネルと神戸トンネルの合間にある小さな駅。新幹線用に設えられた駅なのだそうだ。
 そういえば、何故か新幹線には「新何がし」という名前の駅が多い。「新横浜」「新富士」「新大阪」「新神戸」「新倉敷」「新尾道」「新岩国」「新下関」などなど。
 在来線のメインターミナルとは違った場所に設えられると「新」という言葉がつくのだろうか。
 そんなことをつらつら考えるのは鉄道オタク染みている。そう思いながら、昼なのに暗めのホームへと降り立った。

 「神戸の中心地は三宮。だから、三宮神社で待つ。」
 実はそんなメモを佐助から渡されていた。一応、地図は貰っていたものの、探す手間はある。携帯電話のネット機能という便利道具はあるものの、初めて来る街だ。
「たく…。いくら忙しい身の上だからって、もうちょっと気の利いた場所で待ち合わせなさいよね!良牙君みたいに方向音痴だったら辿り着けないかもしれないじゃない!」
 一駅とはいえ、馴染みの無い町。迷うのもバカらしいので、地下鉄に乗り換え三宮へ。

「三宮神社って三宮と元町の間にあるんだ。」
 知らない街だけに、地図だけでは距離感が今ひとつわからない。東京ほどではないが、三宮は一応ターミナル駅。観光地でもあるから、それなりに人で賑わっている。その最中を、地図片手に、きょりきょろと歩き回る。

「あ…。もしかして、あれ?」
 それなり広い道沿いに、突然現れる、コンクリートの鳥居。もっと大きい神社だと思ったが、こじんまりとした佇まいの小さな神社が出現した。「三宮神社」そう石碑に刻まれている。
「よっ!遅かったじゃねーか。」
 鳥居の内側から悪戯な瞳がこちらを向いていた。
「乱馬…。あんた…。」
 そのまま絶句してしまった。
 というのも、赤いチャイナ服という昔からよく見慣れた格好で、しかも、女に変身して待っていたからだ。
「ああ…。この格好か?」
 乱馬は苦笑いしながら、あかねに話しかける。
「街中(まちなか)を歩くときは、女化しろって、なびきがうるさくてよー。」
 ぼそぼそっとバツが悪そうに説明し始める。
 そう、二十二歳目前の彼はまだ、女の身体を引きずっていた。つまり、呪泉郷へなど、行く機会が無く、依然そのまま、お湯と水で男と女の身体を行ったり来たり。
「まあ、だいたい予想はつくわ…。最近、顔と名前が一致するくらいメジャーになってきて、男の格好だと、あちこちで囲まれて鬱陶(うっとお)しいんでしょ?」
 とあかねは畳み掛けた。
「まー、そういうことだ。」
 ウンウンと乱馬は頷いて見せた。
 女の格好でエスケープさせるなど、なびきお姉ちゃんが指図しそうなことだと思いながら、乱馬の言い訳に耳を傾ける。
「神戸に半月以上も滞在してたろう?その間、試合をだんだん勝ち進んで、何か、気づいたら、結構有名になっちまってよー…。神戸に来たての頃は、全然人だかりもできなかったのに、準決勝戦辺りから、急に、人に囲まれるようになっちまってよー…。」
「若い子にちやほやされて、鼻の下伸ばしてんじゃないの?」
 チラッと彼の顔を盗み見ると、ブンブンと顔を横に振る。
「おめーな…。神戸って、関西なんだぜ。わかってるか?」
「ええ、関西地方よ。それがどーしたの?」
「関西って土地を甘く見てたら、火傷するぞ!」
「はあ?」
「その、良く言うじゃん。関西人って、人懐っこいっていうか、物怖じしないってか…。握手やサイン攻めはまだマシだよ…。関西のおばちゃんは、俺の姿見るや否や、いきなり、バシッバシッとボディーアタックしてよ、『あーら、あんた、どっかで見たことあるわ。ほらほら、無差別格闘技の、なんとか乱馬とか言う…。えー身体してるやないのん!御利益にあやかりたいから、触らせてっ!』だぜ…。俺は相撲取りじゃねーっつーのっ!
 いや、おばちゃんだけじゃねー…。おっさんも相当だが、女子高生も容赦なしだからな…。
 男のまま居たら、恰好の餌食だな…。なんつーか、俺の都合なんて、関係ねーもんな。試合に遅れそうになったこともあるくらいなんだから…。」
 ふううっと長いため息が、女乱馬の口から漏れる。
「そんなに凄いの?」
 尋ねると
「ああ…。東京じゃ、マジ、考えられねー…。」
 と頷いてみせる。
「ま、こんなところでずっと立ち話もなんだから…。俺、腹減ってんだ。まずは腹ごなしだ。」
 と促して歩き出した。
 昼はとっくに過ぎている。もう、三時前だ。
「もしかして…あんた、昼ごはん、まだなの?」
「ああ…。夕べは、祝勝会とかいろいろあったからな…。胃が重たくて、朝も食えなかったしよー。」
 と返答が返ってきた。
「身体壊すわよ、ちゃんと三食、きちんと食べないと…。」
「仕方ねーだろ?試合中はずっと、身体絞ってたんだからよー…。」
「身体絞る必要なんてあったっけ?無差別格闘技は無差別階級しか存在しないじゃない。ウエイトコントロールだって別にしなくても良い格闘技よ。」
「アホッ!だからって、相撲取りみたいに、ガツガツ食ってたら、動けねーっつーのっ!標準体重より、やや絞り気味の方が良く動けるんだ。おめーだって、素人じゃないから、わかるだろ?」
「まあ、そうなんだろーけど…。」
「格闘家はストイックじゃねーと駄目なんだ。多少、腹が減り気味の方が闘争心も上がる。満腹で狩ができないのと同じ理屈だよ。」
「へええ…。しばらく会わないうちに、随分、理屈っぽいこと言うようなったじゃん。」
「るせー!」

 半月以上も滞在すると、それなり土地勘というものも出来てくるのだろう。初めての神戸の町に、キョロキョロする間もなく、元町センター街のアーケードを横切る。
「関西の街ってーのは、こういうアーケードの商店街が主流みたいだぜ。」
 と軽やかな足取りで、アーケード街には入らないで、さっさと通り過ぎる。
「あれ?商店街には入らないの?」
「ああ…。それよりこっち。」
 誘(いざな)われたのは、元町中華街。
 赤い門を吸い寄せられるように潜り抜けると、そこは、異国の情緒が漂う町。
「しゃちほこばって飯食うのは、苦手なんでな…。ま、こういうところで食べ歩きってのも悪くないだろ?気にせず歩きたいから、女になったんだ。」
 相当、お腹も減っているのだろう。
 何処から見ても、真っ赤なチャイナ服の背の低い市井の少女。かの、早乙女乱馬と誰が信じようか。誰も気を留めることなく、すれ違って行く。
(男の格好だと、自由に歩き回れないのね…。人に囲まれたら、食べ歩きどころじゃないものね…。)
 少し気の毒に思いながら、人垣を掻き分けて進む。
 食べ物の暖かい煙と、香ばしい匂いが、そこここから流れて来る。否が応でも空腹を刺激する。実はあかねも昼食抜きだった。新幹線に飛び乗ったので、お弁当を買いこむのも忘れていた。

「横浜の中華街に比べると、ずいぶん小振りな通りね…。」
 あかねはキョロキョロと辺りを見回しながら、乱馬を見返した。
「ああ…。横浜の中華街は、もっとでっけーよな…。横浜のミニチュアって表現がしっくりくるかもしんねーな…。元町中華街は。」
 元町は横浜中華街ほど奥行きが無い。それだけに、人がひと塊りに密集しているという感じだった。昼食時は過ぎ去っているが、代わりに、おやつ時。春休み中なので、若者が多かった。
 人気のある店には、長蛇の列。だが、乱馬はそんな列には並ぶ気がないらしく、横目で通り抜ける。
「並ばないの?」
 と問いかけると、
「どこのを食ったって、さほど変わんねーぜ。この列待つほどお腹に余裕なんてねーし…。それより、行きつけの店があるんだ。」
 と先を行く。
 メインストリートから少し横へ入った小さな軒先へと、あかねを誘った。
「肉まん、弐百円」。
 手書きで書かれた看板。
「おじさーん、肉まん、くださーい。」
 と乱馬は甲高い声で話しかけた。
「あいやー、乱子ちゃん。今日もきたな。」
 愛想の良いこの店の主人らしき小太りの中年男性が、なまった日本語で話しかける。
「ここの肉まん食うのが最近、日課みてーになってんだ、俺。」
 と後ろのあかねに話しかけた。
「あれれえ、今日はお連れが居るあるか?」
 おじさんはあかねを見つけて、声をかけた。
「こんにちは。」
 あかねはおばさんにペコンと頭を下げた。
「あれれえ、これまた乱子ちゃんに負けんくらいの、ベッピンさんやね。」
 おじさんはにっこりと微笑んだ。
「これは、おまけしないといけないあるな…。」
 そう言いながら、肉まんを取り分ける。
「じゃあ、一個分で二個。今日は特別あるよ。」
 と二個ずつ肉まんを乱馬とあかねに差し出した。
「おっと、ラッキー。」
 乱馬が微笑んだ。
「良いんですか?」
 あかねが戸惑い気味に語りかけると、
「ああ、良いあるよ。乱子ちゃんは毎日のように通ってくれたあるからな。今日が最後なんだろ?」
 と少しさみしげな顔を乱馬に手向けた。
「残念だけどな…。大会終わっちまったしな。」
 ふっと乱馬はため息を吐き出した。
「せん別も兼ねて、おまけ…ね。その代わり、神戸に来たら、必ずここへ立ち寄るよろし。」
 うんうんとおじさんは頷きながら乱馬を見た。
「ああ…そうだな。ここの肉まんとチマキにはずいぶん、世話になったしな…。」
 乱馬はガブッと肉まんを頬張った。
「ほら、おまえも食えよ。あったかいうちにさ。」
「あ…うん。」
 乱馬に促されて、あかねも肉まんを口いっぱいに頬張った。口の中へ一気に広がるジューシーな肉汁。
「おいしい!」
「だろ?裏通りにあるけど、雑誌に載ってるのより、ここのが一番だ。」
「他の肉まんも食べたの?」
「いんや…。匂いでわかるんだよ、俺くらいの肉まんツウになると。」
「何よ、それ!」
 くすっとあかねが笑った。

「乱子ちゃん、大会は楽しかったあるか?」
 おじさんが奥から問いかけてきた。
「ああ、楽しかった。良い形で終われたしな…。」
「それはよかったある。今度は世界チャンピオンになって来るよろし!」
「ああ、その時はまた、おまけしれくれよな。」
「そっちのお嬢さんも、また一緒にくるあるよ。再見!」
 おじさんは去っていく二人に向かって、手を振ってくれた。

「ねえ、あのおじさん…。」
「多分、俺の正体、わかってると思うぜ。」
 乱馬は二つ目の肉まんにかぶりつきながら言った。
「ほんとに?」
「だって…呪泉郷のことも知ってたしな。ってか、ここの肉まんが旨いって教えてくれたの、呪泉郷ガイドさんだし。」
「ガイドさん?」
「ああ。偶然、大会初日に中華街の入口でぱったりと会ってよー…。で、友人が店開いてるからって、無理やり、引っ張って来られたのがあの店だったんだ…。えっと、なんつったっけ…娘の…。」
「プラムちゃん。」
「そーそー、プラムと一緒に来てたんだ。」
「へえ…。」
「何か、気に入られてよー。何だかんだとおまけしてくれてさー。」
「おまけに吸い寄せられて通ってたの?」
「まーな…。あの店だけじゃなくってさー、こういう食いもんは女の姿で食べ歩くに限るぜ。」
「何でよ?」
「自分で言うのも何だが、俺って可愛いじゃん。だから、どこの店でも、おまけしてくれるんだ。」
「勝手に言ってなさいっ!」

 そんな、とりとめもない会話を楽しみながら、肉まんグルメを楽しむ。飲み物もマンゴージュースを立ち飲み。

「さてと…。ちょっと腹も満たされたし…。今度は買い物かな。」
 そう言いながらあかねの手を引っ張った。
「ちょっと、乱馬。」
「いーから、いーから。」
 手を繋ぐと言っても、女同士だ。あかねの方が少し戸惑った。が、彼は一向構わず、中華街をすいすいとすり抜けて、さっき素通りしたアーケードの元町センター街へ。

「ここて、ルミナリエでは、物凄い人波に埋もれるんだってさ。」
「ルミナリエって、阪神大震災鎮魂の?」
「ああ、年末の恒例行事になってるみたいだな…。」
「そっか…あの地震って神戸の被害、半端じゃなかったものね。」
 テレビの中で見た、倒壊したビルや高速道路の光景が印象に残っている。復興の街でもある。

「それより…ほら、この店なんかどうだ?」
「ちょっと…。ここって。」
「良いから良いから。」
 乱馬とは縁遠そうな、宝飾店。
「いらっしゃいませ。」
 上品そうな店員さんがにこやかに迎える。芦屋マダムなどが行きつけにしそうな店構えだった。乱馬はお構いなしに、ぐんぐんと進む。
「ちょっと…。」
 あかねの方が焦ってしまった。
「女ってのは、こういうのが好きなんじゃねーのか?」
 女の身のまま、乱馬に言われるので、少しアンバランスな感じがする。
「嫌いじゃないけど…でも…。」
 ガラスケースの中に陳列されているのは、安いものでも、ン十万。
「指輪でもネックレスでも…。好きなの選べよ。これくらいなら、キャッシュで払えるぜ。」
 少しはにかみながら、乱馬があかねに話しかける。
 こういうセリフは、できれば、男の時に言って欲しい。そう言いたい気持ちをぐっと抑えた。シャイな彼のことだ。女になっているから大胆になっているのかもしれない。いや、男の乱馬がここに居たら、それこそ、周りが大騒ぎになるだろう。
 気もそぞろに迷っていると、
「遠慮するなよ…。今夜には再び、機上の人になって、数カ月は日本には戻れそうもねーし…。」
「そっか…。今度の遠征は長いんだっけ。」
「アジア大会経由、世界大会だからな…。半年はかかるだろーぜ。」
「半年…。」
 同じ屋根の下に住んでいたことが信じられないくらい、遠くなってしまった二人だった。
「ま、今だって、数カ月ぶりだから…あんまり変化はしないんだろーけど…。」
「ん…じゃ、これにしようかな…。」
「おい、これって…。」
 あかねはペアネックレスを指さした。小さなダイヤがあしらわれたハートの形。
「乙女チックで悪いんだけど…。離れるなら、同じ物を持っていたいな…なんて、思ったの。」
 ぼそっと零れ落ちたあかねの「本音」だった。
「指輪はまだ、時期尚早だし…。あんたが指輪している最中に女に変化して、指が千切れそうになったらちょっと気の毒だし…。指輪はもう少し大人になってからで良いわ。」
 とにこやかに笑った。
「そーだな…。指輪はもうちょっと待ってもらうかな…。じゃ、これください。」
 二人の会話に耳を傾けながら、小首を傾げ気味の店員さんに、ショーケースを開けてもらった。店員さんにしてみれば、ちぐはぐな会話を繰り広げているに違いないからだ。女同士の愛の語らい。一歩間違えれば、危ない世界。しかも、相手は二十代前半のうら若き乙女たち。

 包んでもらわずに、そのまま、互いの首元へとかけた。

「あんたさあ、いつも、そんな大金持ち歩いてるの?」
「まさかっ!今日は特別だよ。昨日貰った賞金の一部。なびきに頼み込んで、先払いしてもらったんだ。」
 少し頬を染めながら、乱馬が答えた。
「さてと…。今度は、おやつだな。」
「まだ、食べる気?」
「ケーキは別腹…ってのは、おまえも同じなんじゃねーの?」
 再び、先導して乱馬は歩き始めた。
 今度は山手へ向かって、ひたすら歩く。
「ねえ、どこ行くの?何か、大通りから外れていくみたいだけど…。」
 戸惑いながらついていくあかねに、「いいから、いいから。」とタッタカ、タッタカ歩く。
「最終的にはあそこへ行くから。」
 と、少し先の高台の上にある歩道橋のようなグリーンの人造物を指さしながら、笑った。
「え?何?あれ…。」
「それは、行ってのお楽しみ…。それより、先、ケーキな。」
 甘い物が好きな乱馬。その辺りは、高校時代と変わっていない。

 山肌に沿って建つ、住宅地。邸宅もちらほらとたたずむ、街中。商業地とそう離れていないのに、こんな邸宅が立ち並ぶ一等地があるのが、少しばかり不思議だった。
 その中に出現した、コンフェクショナリー。
 女の子が好みそうな店だった。

「有名なチョコレート菓子屋さんの喫茶店だってよ。」
 乱馬が説明してくれた。
「生チョコレートが有名な、ふーけじゃないの。ここって。」
「流石に、良く知ってるな。」
 菓子店の奥にある落ち付いた感じの喫茶店。写真付きのメニューを広げながら、注文する乱馬。
 
「あんたさー、食べ歩きを楽しむために、毎度、こうやって、女に変身したんじゃないでしょうね?」
「へっへっへ。当たらずしも遠からじだな…。」
「図星か!そう言えば、昔からそーよね、あんたって。チョコパフェ食べに行く時は、決まって女になってたわよね…。」
「男が甘い物ってあんまり流行らないじゃん。だから、甘いものを食べるときは女の格好に限るんだよ。」
「でもないわよ…。最近は草食男子増えてるし…。」
「俺って草食系?」
「うーん…。草食系っていうより、甘味系ね…。」
「砂糖かけたみたいに、甘いってか?」
「分析するのも馬鹿らしくなってきたわ…。」
 
 あかねにしてみれば、不思議なデートだった。友達ではない、恋人でもない。何か物足りない逢瀬。
 そろそろ夕方にさしかかっていた。

「もうあと一か所…行きたいところがあるから…。そろそろ行くか。っとその前にトイレ。」
 そう言って立ち上がる。

 トイレから出てきた乱馬は、一転、男へと変化を遂げていた。頭とチャイナ服が少し濡れていたので、湯をかぶったことは火を見るより明らかだった。
 久しく見なかった、赤いチャイナ服の乱馬がそこに居た。

「乱馬?」
 突然出現した、男乱馬に、あかねの方がどぎまぎしてしまった。

「俺だって、何も考えてねーわけじゃねーんだよ…。そろそろ黄昏時だし…。じっくり見られなけりゃ、顔もわかんねーしな…。」
 とうそぶく。
「何か考えてるわけ?」
「まーな…。」
「まさか、スケベなことじゃないでしょうね?」
「だったらどうする?逃げて帰るか?」
 悪戯な瞳が問いかけてくる。
「こんな住宅地の真ん中に置いてったら、一生文句言い続けてやるんだから。」
「おいおい、そいつは、かなわねーな。」

 レジのお姉さんは、目をパチクリしながら二人を見送る。入って来た時は若い女性の二人連れだったのに、今ここに居るのはカップルだ。首を傾げながら、お勘定をすませる。その間際、あかねは、焼き菓子をいくつか、東京へのお土産用に買った。
「生チョコが買いたいところなんだけど…。持って帰るのに溶けちゃいそうだから、今回は諦めるわ。」
 などとため息交じりで言ったあかねに、
「ま、良いんじゃねー?さっき、たらふく食べたし。」
「あたしはね…。でも、お父さんたちにも食べさせてあげたいじゃない。」
「ま、提携店で買えるだろ?」
「それを言っちゃあ、焼き菓子だって提携店で買えるわよ。」
「違(ちげぇ)ーねーや。」
 他愛のない会話を楽しみながら、店を出た。


 ☆ ☆ ☆

 さっきよりもあかねの表情が生き生きしていたのは、きっと、乱馬が男に戻ったせいだろう。女の時と二十センチ以上変わる視点に、少しばかり心を躍らせていた。
 
「で?どこに行くの?」
「あの上。」
 そう言いながら、乱馬は指さした。
「あそこ?」
 そう遠くないところに、ジャングルジムのような鉄の塊が見え隠れしている。
「何?あれ…。」
 あかねが見上げながら、キョトンと乱馬を見返した。
「あれ?おまえでも知らないか?」
「知らないわよ…。何よあれ…。」
「あそこからの、神戸の眺めは最高なんだぜ。ほら、行くぜ。あんまり時間もないんだから。」
 そう言いながら、先導に立って、乱馬は歩き始めた。

「ちょっと待ちなさいよ!そんな、歩幅だと、追い付けないでしょう?」
 慌てて、あかねが後を追った。男に戻ったせいで、乱馬の歩幅は大きくなっている。その分、普通に歩いていても速度が上がるのは自明の理だ。
「おっと、ごめんごめん。今のおまえは、俺よりずっと足が短かかったんだっけ。」
「失礼なっ!男に戻って、あんたの歩幅が伸びただけよっ!」
 あかねは鼻息荒くまくしたてた。

 結構急な坂道だった。そこに見えている筈なのに、なかなか行きつけない。道路を渡って、再び坂を一気に上って行く。ちょっとした登山者気分…。でも、辺りは閑静な住宅地。そこに夕闇と共に山が迫って来ているような感じだった。
 そろそろ日没が近い。

「これって…歩道橋だったの?」
 あかねは、鉄の塊の正体を知って、目を丸くした。ジャングルジムのように見えていた創造物は、山手へとさらに上がって行く「歩道橋」だったのだ。くるくるとカーブを描き、さらに上へと二人を誘う。
「ちょっとした恋人たちのスポットが、この上にあるんだぜ。」
 そう言いながら乱馬が笑った。
「恋人たちのスポット?」
 良くわからなかったが、歩道橋を上に上がると、そこに拓けたのは、神戸の夕景だった。
 まだ僅かに、陽の光が残っていて、暮れなずむ独特の空と、チカチカと灯り始めた街の灯りが、宝石のように輝き始めていた。

「わああっ!きれい…。」
 思わずあかねが声をあげたほど、美しい景色が目の前一杯に広がった。
 神戸の街の宝石の上に、瀬戸内海を行きかう船が、残照に輝いてきれいだった。
 天候も良く、遠く、大阪湾を超えて、和歌山辺りまで見えている。

 上は平らな公園になっていて、レストランも建っていた。実際はドライブがてらここまで車で上がってくるカップルが多そうな、そんな雰囲気が漂っている。だが、今日は週半ばの平日。物見遊山のカップルも目に入らなかった。もう少し遅い時間になると、カップルたちも上がってくるのかもしれないが、幸い、閑古鳥が鳴いていた。
 言わば、「貸切」だった。
 
「ここって、ビーナスラインって結構有名なスポットなんだってよ。」
「ビーナスライン?」
「ああ、直訳して金星の道。金星は美の女神、ビーナスって名前がついてるだろ?だから、ビーナスライン。」
「あ…確かに、聞いたことがあるわ。ビーナスラインってスポットが神戸にあるって。」
「ホントか?」
 少し疑り深い瞳をあかねに差し向けながら乱馬が問いかけた。
「うん…。あかりちゃんに教えて貰った。」
「あかりちゃんに?」
「ええ、良牙クンの彼女の…。良牙クンってこの前の大会、例によって遅刻して不戦敗だったんでしょ?」
「ああ…あの馬鹿、また道に迷ってたらしいな…。」
「その時、あかりちゃんが心配して神戸まで行ったらしいのよね。結局、大会は出られなかったけど、それなり神戸で楽しんで来たって、ついこの前、話をしてくれて…。」
 そう言いながら、あかねはキョロキョロと辺りを見回した。
 彼女の視線に入ったのは、丸い鉄の塊。まるで、公園の遊具のように、輪状に作られたモニュメント。
「あ…。あった。」
 そう言いながら、その丸い鉄に向かって歩き出した。
「あん?」
 その背中を追いかけた乱馬に、あかねが指さしたのは、丸い鉄の塊に、おもむろにかけられている、錠前。
「元々は、ビーナスラインの鉄橋にかけられはじめたのがきっかけらしいんだけど…。こうやって、錠前をここへかけると、その二人は結ばれるんですって。」
 かけられた錠前を手にしながら、あかねは乱馬に言った。
「へええ…。」
「あれ?乱馬ったら、知らなかったの?」
「なるほどなあ…。だから、あいつ、錠前持ってけよーって言ってやがったのかよ。」
 とポソッと乱馬の口から漏れた。
「あいつって?」
 乱馬の一言一句を聞き逃すまいと、あかねが、隣から突っ込みを入れた。
「あ…。何だ、良牙だよ。ビーナスラインからの夜景はそれは見事だから、神戸滞在中にあかねさんを連れて行ってやれって、ハッパかけられた。」
「へええ…。良牙クンに教えてもらったんだ…このスポット。」
「ま、まあな…。」
「だろうなあ…。乱馬が調べて知ってたら、何か、怪しんじゃうもんねー。他の女性と来たんじゃないかって。」
「ば、ばかっ!そんな浮気者じゃねーっつーのっ!…より、ほら、これ…。」
 そう言いながら、一つの錠前を指さした。
 最近、かけ直されたばかりの鉄橋から、一旦、山のようにかけられた錠前は全部、外されて整理されてしまったらしい。無作為に鉄橋一面にびっしりとはりついていた錠前は、お世辞にもきれいとは言い難かったせいもあるという。つくりかえた時、だったらいっそう、ちゃんとかけられる施設を作っちゃえということで、錠前をかけるのを前提としたモニュメントが一緒に作られたのだそうだ。
 ゆえに、まだ、そうびっしりと錠前が掛けられている訳ではなかった。どちらかといえば、ポツンポツンとまばらだ。まだ、これから…といった感じで引っ掛けられている。

「ほら…これ…。」
 そう言いながら、乱馬が指さした、一個の錠前。あかねは促されてそいつを覗き込む。
「ああー、これって…。」
 指さされた錠前には「響良牙&雲竜あかり 永遠の愛を誓う!!」とマジックでハートと共に書き込まれていた。
「永遠の愛を誓う…だってよー。」
 うぷぷっと笑いをこらえながら、乱馬が言った。
「他人の愛の告白を、茶化すんじゃないの!」
 ポカッとやったところで、人の気配が複数、二人の後ろに立った。

(殺気?)
 ハッとして振り返ると、ぞろぞろと少年の姿が七人。にやにやとしながら、こちらをうかがっていた。

「お兄ちゃんたち、楽しそうやんけ。俺らにも、わけて欲しいわ。その楽しいところ。」
 クチャクチャとガムを噛みながら、先頭の青年が話しかけてきた。どこをどう見ても、立派な不良少年だ。髪は、似合う似合わないはともかく、びっしりと金髪や銀髪に染め上げている。中にはトサカのように上にピンと立った赤毛の兄ちゃんも居る。それぞれ、だらしなく着崩した服装で、一様にポケットに手を突っ込んで、肩で風を切って近づいてくる。
 普通のカップルなら、委縮してしまうところだが、ここに居るのは、東西きっての腕っ節の格闘家カップル。
「嫌だねー。おめーらに分けてやる楽しみなんて、これっぽっちもねー。」
 乱馬がタンカを切った。
「そう、固いこと言わずに。何なら、そっちのお姉ちゃん、置いていったら見逃してやるぜ。」
 ペッと唾を吐きだしながら、先頭の不良が言った。
「俺に喧嘩売るのはやめといた方が良いと思うぜ…。てめーらとは、渡り合った修羅場のでかさが違うんでなー。」
 乱馬はペロリと舌を出した。
 その鬼気とした様子に、少したじろいだ不良も居たが、若さというのはある意味、無謀さを伴う。集団となれば、尚更、
「へっ!多勢に無勢や。さっさと言うこと聞いた方がええんとちゃうけ?」
 と脅しにかかる。
「せやで。俺ら、神戸の町をぶいぶいいわしてるチームやど。神戸一のならず者や。命、散らしてもかまへんっちゅうのんか?」

「たく…野暮な連中だぜ。」
 ふううっと乱馬はため息を吐き出した。

「乱馬、素人が相手よ。」
 あかねが脇で心配げに見つめる。
「わかってるよ。だから、面倒なんだよ。ったく…。」

「何、こそこそ言うてるねん。諦めの悪い奴ちゃ、お仕置きやでっ!行けっ!」
 先頭の青年のかけ声を合図に、一斉に、不良たちが乱馬へと襲いかかった。

 乱馬は拳を自ら挙げることなく、ひょいひょいっと難なく、攻撃をかわす。その攻防が数分間、続いた。
 不良たちは、全然、己の拳が乱馬に当たらないことに、苛立ちを感じ始めた。スタミナの持久力も、素人の彼らと乱馬とでは、桁が違い過ぎる。息が上がり始めた不良たちを前に、標的の乱馬は一糸乱れず、涼しい顔だ。
 不良が束になってかかっても、敵う相手ではなかった。

「けっ!なかなかやるやんけっ!せやったら、これでどないや?」
 ビュッと刃物をポケットから取り出すと、そいつはあかねの手をグイッと手に取った。
「きゃっ!」
 突然の出来事に、反撃を加える暇もなく、あかねはそいつの前に、絡め取られた。ナイフを突き付けながら、乱馬に向かって勝ち誇った顔を手向けた。

「人質を取るってか…。」
 やれやれと言わんばかりに、乱馬は一旦、臨戦態勢を解いた。

「どや?この娘っ子に傷をつけたくなかったら、大人しく、金を置いていけや!」
 と勝ち誇った顔で不良の一人は乱馬へと声を荒げた。

「おいおい…。せっかく、手加減してやったのに…。よりにもよって、あかねを人質にとるだなんて…。」
 乱馬はふううっと息を吐き出した。
「おい、あかね。先に言っとくが、手加減してやれよ…。」
 と声をかけた。

 と、その時だった。

「ハアアーッ!デヤーッ!」
 あかねの気炎が、乱馬たちの目の前で弾け飛んだ。
「あっ!こらっ!」
 乱馬は慌てて仲裁に入ろうとしたが、間に合わなかった。
 電光石火、あかねは左右両方の腕で肘鉄をナイフを持って凄んでいた兄ちゃんの脇っ腹へと、連続で喰らわせる。
「うわ―っ!」
 予想外だったあかねのきつい反撃に、ナイフごと兄ちゃんは、前につんのめって、崩れるように倒れ伏した。
 あかねは、己へナイフを突きつけた不埒者が倒れたのを確認すると、ふううっと息を前に吐き出し、気を整え直す。そして、はっしと不良たちを鋭い眼光で睨みつけた。
「あたしを人質にしようだなんて、百年早いわよっ!」
 とドスをきかせた。

「な…何だ?このアマ…。」
 回りに居た、不良たちの動きも、一斉に止まった。
 

「だから、言わんこっちゃねー…。」
 あちゃーっと言わんばかりに、額に手を当てながら、乱馬はため息を吐き出した。
「あかねはある意味、俺より凶暴なんだせ。手加減ってーのを一切しないしな…。」
 そう言いながら、再び、鋭い眼光で、立ちはだかる他の不良たちの前に、すっくと立ちはだかった。
「どーする?俺を本気にさせたら、そこに転がった奴の比じゃねーぜ。あばらの二、三本は折れるのを覚悟してもらわなきゃならねーが…。それを承知で、まだやりあうか?」
 乱馬はそう言って、拳を作った。
 野獣の眼光が、鋭く、不良たちを見据える。
 乱馬が並の相手ではないことは、さっきの身のこなしを見ていても明らかだった。そんな尋常ではない相手へ手を出してしまったことに後悔がこみ上げてくる。このまま続ければ、骨の髄まで残さずズタボロにされるかもしれない。得も言えぬ恐怖が不良たちを支配し始めた。

「す…すんまへん。」
「今日は、この辺にしときやすぅー。」
「しっつれいしやしたー!」
 不良たちは、揃って一礼すると、あかねに打ちのめされて気絶している奴を、ずるずると引きずるように抱えながら、一目散にその場を立ち去った。


「ふうう…。たく…。興ざめだぜ。せっかくの二人の時間が台無しだ。」
 そう言いながら、乱馬はあかねを見やった。
 そのあかねは、険しい瞳を、乱馬へと手向けていた。
「な…何だ?どーした?」
 きょとんと振り返る乱馬に、あかねは拳を一発喰らわせた。
「乱馬のバカーッ!」
 いつもの名ゼリフを拳に乗せて。
「うごっ!何しやがるっ!」
 唐突のあかねの洗礼に、乱馬が額を押さえながら、声を発した。
「あんた、今、不良たちに何言ったの?誰が、あんたより凶暴ですってえ?」
 乱馬は手で額を押さえながら、はき出した。
「凶暴じゃねーか。こんなことまでしやがってよー。痛いぞ。」
 と不服を申し立てった。
「たく…相手が大人しく引き下がってくれたから良いけどよー。俺はライセンスがあるから、素人相手できないから、避けてばっかだったの、だてに横から見てた訳じゃねーだろ?もうちょっと手加減してやんねーと、いくらおめーが素人でも…。」

「乱馬君に確実、火の粉が降りかかってくるわよーってね。」

 別の声が背後からした。


 ☆ ☆ ☆

「な…なびきお姉ちゃん?」
 あかねが驚いて振り返った。
 そこには、白い外車の窓から、なびきがこちらをうかがっているのが見えたからだ。
「ちぇっ…。もう、時間切れかー。」
 ふううっとうなだれながら、乱馬が吐き出した。
「そういうこと…。今夜の便で発つんだから…。そろそろ神戸空港まで行かないとねー。」
「あれ?関空じゃなかったの?」
「神戸にも国際空港はあるわよ。数飛んでないけどね…。ほら、前に見えてるでしょ?」
 となびきは海の方を指さした。確かに、空港があるようで、空から飛行機が降りてくるのが目に入った。
「はああ…。何か、楽しい時間ってすぐ過ぎるんだな…。」
 乱馬が言った。
「ふふふ、仕方がないわ。それとも、後部座席で逢引の続き、やってくれてもかまわないけど?」
 とハンドルを握りながら、なびきがバックミラーを見つめた。

「頼まれてもするかっ!てめーの前で。」
 ぷいっと乱馬が横を見た。
 少しばかり、不服そうな顔で、流れて行く神戸の街並みを眺めている。あかねも少し、複雑だった。また、微妙なまま長い間別れ別れになるのか…。

 神戸空港は海を埋め立てたところにある。神戸に程近く、実は関空よりもアクセスには便利かもしれない。全世界へ飛んでいるわけではなかったが、アジア便は相応に飛んでいた。近頃は、空港周辺に立ち並ぶ医療機関と提携した人間ドックツアーなるものが盛況になっていて、中国や韓国方面から旅客が集まっているときく。
 
「出国手続きをしておいてあげるから、ちょっとだけ時間あげるわ。って言っても、三十分も無いけど…。」
 となびきが乱馬を促した。
「ホントか?」
 少しばかり浮足立つ乱馬。
「ええ。可愛い妹のためだもの。まだ、話し足りないことがあるなら、とっとと済ませて、すっきりしてから旅立って頂戴。」
 そう言って、なびきはにやっと笑った。

「だな…。じゃ、ちょっとだけ…。来い!あかねっ。」
 そう促されて、あかねは乱馬と共にデッキへ出た。
 飛行機や夜景を見るために、まばらに人影はあったが、この際、贅沢は言っていられないだろう。
 別れを惜しむには短い時間だが、それでも、彼らには宝玉の時間であった。

「ホントは、あのビーナスラインに錠前でもかけたかったの?」
 あかねはそんな言葉を乱馬へと紡ぎ出していた。良牙にビーナスラインのことを聞いていたのなら、錠前を用意して、一緒に書き込んで…という流れへと持っていきたかったのではないかと、思ったからだ。
「いいやー、第一、錠前なんて、持って来てねーし、そんなことするつもりもなかったぜ。」
 乱馬は無愛想に言い切った。
「ふーん…。」
「おまえは、その…錠前をあそこにかけたかったのか?乱馬 はあと あかね とか連名でマジックで記入して…。そういう、通り一辺倒の恋人たちの儀式をやってみたかったのかよ?」
 意地悪そうに言葉を紡ぐ。この期に及んで、まだ、喧嘩を売ろうというのであろうか。
 少しムッとしたあかねが、反撃に出た。
「そーね。浪漫の欠片も無いあんたに、そういう、イベントを期待する方が間違ってるわよね…。」
 ツッケンドンに言い返す。
「たく…。おまえは、相変わらず、可愛くねーなあ…。」
 ふっと乱馬の口から本音的な言葉が漏れた。
「えーえ。どうせ、あたしは世界一可愛くない女ですよ。凶暴だし…。」
「そうやって、おまえはいつも、悪態を吐いて来る…。本当に、可愛くねー奴だぜ。」
 ふっと乱馬の表情が変わったような気がした。
 隣に並ぶように立っていた彼は、あかねの方へと向きなおったのだ。真正面から向き合う形。乱馬のおさげが風に揺れる。

「これだけは言っておく…。俺はわざわざ、錠前なんかかけなくても良いって思ってるんだ。ビーナスラインで錠前なんかかけなくても…いつだって俺たちは繋がってる…。」
「乱馬…。」
 いつもなら、キザな言葉の連続に、ここらで噴き出しそうになるのだが、あまりに真剣な瞳で語りかけてくる乱馬の姿勢に、笑うことすら忘れてしまっていた。
「さっき、本当にやりたかったこと…それは…。」

 そう言って、しなやかな右手があかねの左頬に触れた。
 卑怯なほど柔らかで熱い唇に、感情の起伏ごと心を持っていかれたような気がした。

 彼の唇が離れても、暫く、金縛りにあったように動くことすらできなかった。勿論、雑言も口をつかなかった。空港のテールランプが赤く灯る。
「あかねの心、餞(はなむけ)に貰ってくぜ…。」
 唇に残る余韻を楽しむように、耳元にそう呟いた。

 いつの間に、恋愛に積極的になったのだろう。臆病な彼は、どこにも居なかった。離れている時間が、彼を成長させたのだろうか。

「乱馬のバカーッ!」
 溜まらず、いつもの調子で、あかねは一発、乱馬に向けて拳を払った。
「おっと!」
 乱馬は、その一発を、難無くかわして見せた。いつもなら、乱馬の身体を貫く拳は、見事に空振りに終わった。
 一発入るどころか、ギュッとわしづかみに拳を握られた。
「返せって言われても、返さないぜ…。おまえは俺の許婚だから…。そして、俺はおまえの許婚だから。」
 悪戯な唇が、再びあかねへと重ねられる。抵抗と言う言葉は、既に虚しく、あかねの脳裏から剥がれ落ちる。
「乱馬のバカ…。」
 小さく呟くと共に、観念したかのように、静かに瞳を閉じた。


 ☆ ☆ ☆


「ずいぶん、すっきりした顔してるじゃん。」
 なびきはあかねに声をかけた。
 乱馬を乗せた飛行機が滑るように滑走路を走りだし、轟音を響かせながら、一気に飛び上がるのが見えた。その機影を瞳で追いながら、あかねはふうっと一つ溜息を吐きだした。
「すっきりしているように見える?」
 デッキに背中を向けながら、あかねは笑って姉を見返した。
「何があったかは野暮だから聴かないわ…。まあ、だいたい想像はつくものね…。」
 そう言いながら、なびきはおもむろにタバコへと火を灯す。その煙をくゆらせながら、ほおっとため息と共に煙草の煙を吐き出した。
「あと半年の荒稼ぎかあ…。」
 と呟きが漏れてくる。
「どういう意味?」
 きょとんと訊き返すあかねに、姉は笑って答えた。
「所帯持ちになったら、今より稼ぎは減るじゃない。実力は落ちないかもしれないけど…確実、若いミーハー的ファンは減るしなあ…。」
「べ…別に、結婚するなんてこと、一言も乱馬は…。」
「言ってないだろうけど、そのつもりなんでしょうね…。これ。」
 そう言いながら、ドサッと何かを投げてきた。
「適当に半年かけて選らんどけってさ…。行きがけにあたしに預けていったわよ。預ける相手が違うっつーの!」
 とにんまりと笑う。
 何が入っているのかと、慌てて袋をあけると、中からは、ウエディング用のパンフレットがどっさりと出てきた。
「これって…。」
「渡す暇がなかったから、私に渡しとけってさー。自分でやれって感じよねえ。まあ、デートに持って行くのも邪魔になるだろうから、仕方がないんだろーけどさあ。」
 なびきは笑い転げている。
「確かに…いっぱい詰まってて、分厚いもんね…。」
「彼なりの決意ってのがあるんでしょうね…。ま、そうとわかれば、あたしも、今後の彼のマネージメントをどう展開するか、考え甲斐もあるし…。所帯を持っても売れる手法を考えるわ。」
 とウインクして見せた。
「もう…。勝負に挑む時に、何てものを預けて行くのよ…。」
 そんな姉の気遣いに、照れ隠しをしつつ、ザッと荒く袋へパンフレットを仕舞いながら、そんな言葉を吐き出すあかね。
「そんなヤワな男じゃないことは、百も承知でしょう?ったく。そういう覚悟で臨むからには結果を出して帰国する自信はあるんじゃないの?そうそう…これも一緒に渡しとけってさ。」
 と、なびきは、また、別の茶封筒をあかねに投げた。
「何これ…。」
 中を取り出して見ると、「ガンバレよ!」というマジック書きのメモと共に、料理教室のパンフレットがどっさりと入っていた。
「…んっとに、あの男は…人のこと、何だと思ってるのよ…。おちょくって…。」
 思わず、眉がつり上がりそうになった。
「ま、乱馬君も真剣に闘うんだから、あんたも、がんばんなさいよ。」
 と、トンとあかねの背中を叩いた。
「わ、わかったわよ。料理の腕あげて、ぎゃふんと言わせてやるんだから。」
「腕あげてぎゃふんよ。じゃないと、可哀そうだからね…乱馬君が。」
「もーうるさいっ!」
「はああ…御馳走様。ってことで、帰るわよ…。明日は東京で朝一番、九能ちゃんが御執心のアイドルユニットのデビュー会見の準備をしないといけないし…。」
「え?あたしも?」
「ホテルなんて泊まる金は無いの。ほれ、さっさと来ないと、置いて帰るわよ。」
「わ、わかったわよ!」
 慌てて追いすがる姉。タバコは既に灰皿へと入れられていた。
 
 乱馬の搭乗した飛行機は、既に視界から消え、最終案内の電光掲示板も消えていた。
 

 その後の乱馬の活躍やあかねの奮闘ぶりは、また別の機会にお話しすることがあるかもしれない。
 その前に、ひとつだけ。笑激的事実を一つ。
 乱馬とあかねのこれ見よがしのくちづけシーンのフォトグラフィーが、どういう経路を辿ってか、数日後の週刊誌のゴシップ記事として注目を集めることになった。題して、「早乙女乱馬、許婚のあかね嬢といよいよゴールインか?」。
 再び、あかねは、ゴシップ記者たちに追いかけられたことは言うまでもなく…。
「良いじゃない。そのうち、ばれるんだし…。乱馬君が凱旋帰国する頃には、噂も下火になってて、あんたたちもいろいろ動き易いでしょう?」
 となびきの言。
「他人事だと思って…。」
 雑誌を片手に、わなわなと震えるあかね。
 その傍らで、なびきが万札を懸命に数えていたことは言うまでもなく。そう、写真と情報を売ったのは、恐らく、この姉。
「こういうゴシップが報道されるのは、平和な証拠よ。せいぜい、儲けさせてもらわなきゃねー。」と、うそぶくなびきに、「やられた!」と、あかねは心底、思った。

 桜が散り始める頃には、あかねが料理教室の門戸を叩いたことも言うまでもなく。

 それはそれで…天下太平の春。
 実りの秋には、まだ、少しばかり遠い。





 完

(2010年3月31日書下ろし    2010年6月9日加筆修正)



 この作品の二人は、スローラブの二人の後日譚になるかと…。

 ちょこっと軽やかな会話中心の創作を楽しもうと手がけた作品。
 こういう世界もありじゃないかなあ。

 神戸そごうのるみ展に乗じて、ガス抜きに一日、神戸遊山につき合ってくださいました、同世代の乱あファン、H様に捧げます。多謝!
 そう、自分の足で歩いた神戸の街が創作の起点になっている作品。

 多分、休眠前の呪泉洞には、正式には掲載していなかったように思います。掲載していたか否か、記憶にない(苦笑
 掲載していても、掲示板投げか閑話戯言投げだったのではないかと…。
 「飛鳥幻想」のプロトタイプは閑話戯言投げしてたのがログに残っているんですが…。この作品はログも見当たらなくて…。



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