◇十五夜の客人
後編



三、

 月の女神様の使者としてやって来たという白いウサギ。祭で着るような紺色のハッピに身を包み、天道家の庭先で、帰宅した乱馬とはち合わせた。

「で?具体的に、どんな風におめーをその享受とかいうのをしたら良いんでい?」
 乱馬は困惑げにウサギに話かけた。
「ま、簡単に言うと、今宵、ワシを接待してくれたら良いんや。」
「接待?」
 乱馬は顔をしかめた。
「何、楽しませて貰うたら、それでええ。そんな、難しいに考えんでもええで。」
 カカカとウサギは笑った。

 本当に、こいつが月の女神様の使者なのか、眉つばではあったが、実際に、人語を喋っている時点で、只者ではないことだけは頷けた。接待を断ったら、天道家に禍が降りかかると脅されてもいる。
 天道家に禍が起こると、乱馬とて他人行儀では居られなくなるだろう。あかねにその禍が降りかかるのもごめんこうむりたかった。
 故に、渋々とこのウサギの相手をすることを承諾したのだが…、本当に招き入れてしまっても良いかと、まだ迷っていた。
 お人よしの主、天道早雲が居たら、恐らく、快諾してくれたろうが、生憎、誰も居ない。天道家の面々は、観月会へと繰り出した後で、家の中は真っ暗だ。完全なる留守宅だった。


「結構広い敷地の旧家やんけ…。」
 ウサギはキョロキョロと辺りを見渡しながら、そんなことを言った。
「ここの主は企業の重役か何なんか?」
「いや…道場主だよ…。ほら、そっちに道場があるだろう?」
 そう言いながら、乱馬は別棟の道場を指差した。
「ふーん…。でも、結構裕福みたいやな。居候を置けるくらいやし…。」
「っていうか、ただのお人よしなだけな気もするが…。」
 ボソッとその言葉を受けて、乱馬は吐き出した。

 実際、天道家は不可思議な家であった。家主の早雲もサラリーマンではないし、道場を経営しているとはいえ、決して繁盛している訳ではない。弟子も皆無に近かった。
 汗水流して身体を張って仕事をしている訳でもないので、主だった固定収入は無い。
 にもかかわらず、娘が三人と、居候が三人。それをドンと養っている上、乱馬の学費まで面倒を見てくれているようだ。
 次女のなびきによると、祖先から受け継いだ幾許かの資産や不動産があるから、それを貸してある程度の収入にはなっているという。にしても、これだけの敷地の家だ。固定資産税も馬鹿にはなるまい。
 メチャクチャ裕福とは言い難かったが、食べるに困らない様子だった。

「ま、収入源の話はええか…。それより…。」
 ふとウサギは縁側へと視線を投じた。
「まずは屋敷に上がらせて貰わんと…。」

「って、おいっ!無断侵入する気か?」
 乱馬は慌てて、ウサギを引きとめようとした。

「人聞きの悪いことを言うなっ!一応、おまえに許可はもろてるで?それとも何か?気が変わって、享受しとうなくなったとか…。」
 じろっとウサギは乱馬を見返す。
「いや…別にそう言う訳じゃねーが…。今は誰も居ねえんだぞっ!居候の俺っきゃいねえっ!勝手に家の中にあげる訳にはいかねーよ!」
 当然である。
 人の気配は完全にない、真っ暗闇の天道家だ。縁側も鍵がかかっている。家に入ろうと思ったら、裏にある二階のバルコニーへよじ登るしかない。


「ったく…月夜のお供えは、ちゃんと月明かりが届くようにしてやらんと…、風情も半減やで。」
 ウサギは乱馬の言葉など、てんで気にも留めていない様子だった。勝手につかつかと縁側へと歩み寄る。

「こらっ!だから、そっちは鍵がかかって…。」

 ウサギはパチンと一つ、指を鳴らした。
 と、自動ドアみたいに、縁側の引き戸がガラガラっと開いた。

「え?」
 思わず、目が釘付けられた乱馬。

 開いた引き戸の向こう側の縁側に、きれいに並べられている、お月見飾りが目に入ったのだ。

「ほほう…ワシの目に狂いは無かったな…。いまどき珍しく、きっちり飾ってあるやないか…。お月見のお供え。」
 ニッとウサギは笑った。
 
 縁側には、一輪ざしでススキと桔梗と小菊が生けてあった。勿論、それだけでは無い。
 その横には、団子が三宝に乗せて備えてあった。十五夜にちなんで、十五個のまん丸いお団子が三宝の上をピラミッドのように綺麗に重ねてある。
 その脇にはもう一つ三宝があり、南瓜、栗、柿や里芋といった秋に収穫を迎える果物や野菜が小奇麗に盛りつけてある。

「この家はこういう行事をきっちり節目で守ってるみたいやなあ…。いやあ、結構、結構。」
 ウサギはひょいっと縁側へと乗った。

「おい、こらっ!だから勝手に上がるなって。」
 焦りながら、乱馬はウサギの後を追う。

 天道家は、こういう節目の行事を比較的、大切にしていることは、乱馬も知っていた。一年以上この家に居候してみて、そのことは、彼なりに良く理解していた。
 あかねたちの亡き母は、こういう季節折々の行事を大切にしていたと、あかねからも聞かされていた。
 お正月の鏡餅に始まり、春の七草、それから小正月、節分の豆まき、桃の節句、お花見、端午の節句、夏越の祓い、七夕、お盆、秋の七草、お月見、師走の大掃除や餅つきなど、古き良き時代の日本の標準家庭がこなしてきた節目の行事はきちんとそれなりにこなしている。
 それからバレンタインやハロウィンやクリスマスといった洋風行事も欠かさない。

「ほんま…。こうやって、十五夜にお供えする家は、最近、めっきりと減ってきとるからなあ…。」
 ウサギは感慨深く、縁側に設えてある月見飾りを見て、呟いた。

「確かにそうだな…。」
 ふっと乱馬もウサギの言葉に同調した。
 
「っと…。こっちには…作り損ねた月見団子もあるみたいやが…。」
 ウサギは縁側の隅っこに目をやりながら言った。
「作り損ね…?」
 乱馬がひょいっと視線を落とすと、確かに、まん丸からはほど遠い、いびつな形のお団子が数個、別の小さな三宝に供えられてあった。
 縁側にある丸いお団子とは違い、あまりにも不揃い過ぎて、ちゃんと盛りつけることもできず、あからさまに崩れかけて、お世辞にも「月見のお供え」には見えない。グチャグチャの団子の塊であった。
 それを見て、思わず苦笑いが込みあげて来る。
 この不揃いな団子はあかねの所業に違いないと思ったからだ。
「そういえば夕べ、おふくろやかすみさんたちと、ごそごそ台所でやってたけど…。これを作ってたのか…。たく…どうやったら、こんな不細工な団子になるんだ?」

「ほう…それはおまえが作ったのか?えげつないくらい、前衛的な形の団子やが…。」
 とウサギがニッと笑った。

「ち、違うわいっ!こんなぶっ細工な団子、俺が作るかーっ!」
 真っ赤な顔をして、ウサギを振り返った。

「ぶっ細工な団子で悪かったわねーっ!」
 明後日の方向で怒声が響いて、バコンと一発、後頭部を殴られた。
 ハッとして振り返って、驚いた。
 
「え?あかね?」

 居る筈もない、彼女が、物凄い形相でこちらを睨みつけている。

「あれ?おめー…観月会に行ってなかったのか?」
 と返す言葉で問いかけた。

「たく…。下で物音がするから、降りて来たら…。あんたこそ、こんなところで一人、何やってるの?」
「一人じゃねえけど…。」
 と振り返る。そこには白いウサギがニッと乱馬を見て笑っていた。ピースサインまで出している。
「他に誰が居るっていうのよ…。誰も居ないじゃない。」
 そのウサギの真ん前で、あかねが首を傾げていた。
「へ?」
 あかねの様子に、キョトンとした乱馬の耳元へピョンと跳んで来ると、ウサギは囁いた。

「言ったやろ?ワシの姿は普通の人間には見えへんって…。」
「ってことは…あかねにはおめーが見えてねえっとことか?」
 こそっと耳打ちする。
「そういうことや。」

「何、一人でぼそぼそ呟いてるの?気色悪いわねえ…。」
 あかねがボソッと吐き出した。

「べ…別に、何でもねえよ…。こっちの話だ…。で?何でおめーが家に居るんだ?」
 
「あら…あたしが留守番してたら悪い?」

「いや…そういう訳じゃねーが、俺はてっきり…先に行ってるって思ってたし…。だって、玄関は鍵がかかってたろ?それに門灯もついてねえし、家ん中も真っ暗だし…。」

「電気、つけてあげようか?」
 と立ち上がって、和風電灯のヒモを引っ張ろうとしたあかねを、ひょいっとウサギが阻止にかかった。引っ張っても、電灯はつかない。パチンパチンと音はすれども、一向に灯りは灯らなかった。

「おい…貴様、何してんだ?」
 乱馬はウサギへと瞳を転じる。
「せやかて、灯りなんかつけるんは無粋やで。月明かりが栄えへんようになるわ。おまえは早う、この娘に灯りをつけるのは諦めさせいっ!」
 ウサギは乱馬の後頭部を蹴った。
「いてっ!」
 大声を挙げるわけにもいかず、乱馬はグッと蹴りに耐える。

「あれ?手元でつかないなら、壁際にある電源スイッチが入ってないかな…。」
 部屋の入口にあるスイッチをつけようと、身を翻したあかねを、慌てて乱馬が引きとめた。
「別に灯りなんて要らねえんじゃねえか?」
「何でよ…。」
「だって…見な…。」
 乱馬は縁側へと目を転じた。
 さあっと月明かりが射しこめてきて、庭先が明るい。それに、月の光に映えて、月見飾りが一層栄えて見えた。
「うわあ…。きれい…。」
 電灯のヒモから手を離し、あかねは瞳を輝かせた。
「だろ?人工の光なんか灯したら、風情も半減しちまうぜ…。」
「確かにそうねえ…。お月見の晩には灯りなんて要らないか…。」
 そう言ってあかねは、ペタンと畳みに座った。電灯をつけるのを諦めたようだ。

「で?何で観月会へ行かなかったんだ?家も真っ暗だったしよー…。」
 ふと瞳を転じて、乱馬はあかねへと問いかけた。
 電灯をともしていないから、細かい表情までは伺えない。
「ちょっとね…。」
 あかねはそう言ったまま、その問いかけには応えなかった。
「それより乱馬は?あんたこそ観月会へ行かなかったの?」
 とそのまま問いを返して来た。
「ああ…それどころじゃなかったしな…。」
「何かあったの?」
「シャンプーやうっちゃん、それから小太刀の三人に、さっきまで追っかけられてた…。」
 ボソッと吐き出した。
「そう…。」
 あかねは一言、言葉を投げると、沈黙した。
 怒ってしまったのか、それともすねてしまったのか…。それとも、どうでも良いと思われたのか。
 いつもは何かしら、三人娘が絡むと、ムッとした表情を手向けるあかねだが、無反応だった。それが返って不気味だった。
 月明かりしか無いので、暗くて表情も良く伺えない。恐る恐る、縁側からあかねの表情を確認しようと月明かりを背に覗きこもうとした。

「この姉ちゃん、おまえの恋人なんけ?」
 ぼそっと乱馬の耳元でウサギの声がした。
「急に出て来るな…びっくりするじゃねーか…。」
 ドキドキと胸を抑えながら、乱馬はムッとしてその問いかけに答える。

 あかねはふうっと月を見上げて、大きな溜息を吐き出した。どうやら、乱馬とウサギのやりとりには気がついていないらしい。
 ぼんやりと足を投げ出して座ったまま、大きな月を眺めていた。

「せやから…あの娘、おまえの恋人かって尋ねとるやろーが…。」
「そ…そんなこと、てめーに答える義務なんてねえっーつーのっ!」
 ムッとしながら、ウサギを見た。
「ほー、顔を真っ赤にしとるやんけ…。居候の分際でちゃっかりこの家の娘に手を出しとんのか…。なかなか積極的やないけ…。」
「ばっ!馬鹿っ!そんなんじゃねえーっ!」
「何なら、ワシが恋の後押しをしたろーか?」
「すんなっ!おめーは何もすんなっ!」

 だが、あかねに興味を持ったのか、ウサギは乱馬から離れると、ピョンとあかねの方へと近寄った。
 姿が見えないことを良いことに、あかねの周りを飛び跳ねながら、じっと彼女を観察する。
「おいっ!こらっ!あかねに近寄るなっ!」
 乱馬は気が気で無く、ウサギへと声をかけたが、そんなことはお構いなしだ。

「ふーん…。なるほどねえ…。」
 何が「なるほど」なのかは良く分からないが、ウサギは一通りあかねの周りをぐるっと回ると、ニッと笑った。
 いや、それだけではない。あかねから見えていないことをいいことに、ちょっかいをかけだしたのだ。まるで、乱馬に見せつけるように、ちょろちょろとあかねの周りを動き回った。
 わざとぺしぺしと、胸やらお尻やらにも手を差し伸べる。
 あかねにはウサギの姿が見えていないから、なすがまま…に見える。

 当然、黙って見ていた乱馬にも、我慢の限界が来る。

「この野郎っ!見えねーことを良いことに、好き勝手しやがってっ!」
 
 あかねのことが絡むと、この男、どうも冷静に判断できなくなることが多々あった。
 グッと拳を握りしめると、じりじりとあかねの方へにじり寄った。
 あかねに気付かれてはならないから、大胆な行動はとれないが、あかねの死角となる背後に回ると、
「この野郎っ!」「「やめやがれっ!」「こなくそっ!」
 とピョンピョン飛び跳ねるウサギを捕まえようと躍起になった。
 彼とて格闘家だ。このままウサギに翻弄され続けるのはそのプライドが許さなかった。しかも相手はあかねの頭や肩に乗って見せながら、わざと煽って動き回っている。
 挑発されればムキになる…乱馬の欠点でもある。

「馬鹿にしやがって…。」

 乱馬は一瞬、己の動きを止めた。こういう小さくてすばしっこい手合いは目だけで動きを追っても無駄だ…格闘家として、日々、修行している乱馬には、経験的に理解していることだった。
 目で追うのが不利となると…相手の気を追う…正確に相手を捕えるには、これが一番だと、咄嗟に考えたのである。
 研ぎ澄ます、己の感覚。

「ふふ…諦めたんけ?」
 乱馬が一向に動かないことについ油断したのだろうか。ウサギはふっと己の気を緩めた。
 その刹那を乱馬が逃す訳がない。

 電光石火、身を翻す。

 バシッ!
 
 その乱馬の動きをウサギはかわすことが出来なかった。哀れウサギは、乱馬に捕われる。



四、
 
「へへっ!捕まえた…。」
 乱馬はウサギの耳をギュッと手で握りしめた。
 野兎を捕まえる時、両耳の付け根をグッと握りしめるのが良いと、知っていたからだ。
「これで、ウロチョロとできまい…。たく…散々からかいやがって…。」
 得意げに乱馬はウサギを見た。

「さーて、それはどうやろなあ…。」
 ウサギは乱馬の手の中にありながら、ニッと不敵な笑いを浮かべた。
「おのれは隙だらけやんけっ!」
 そう吐きつけると、空に浮いていた二の足を、思い切り乱馬目掛けて蹴りあげる。

 乱馬の敗因は、このウサギが月の女神の使者だということを気にしていなかったことにあろう。普通の野兎ならまだしも、仮にしも神様の使用人だ。乱馬の手に負える相手ではなかった。

「え?あっ!」
 ウサギから手を離したばかりか、あかねの方へ向けて身体ごと倒れて行く。

「これで、どや?」
 ウサギは振り向きざまに、乱馬目掛けて、更に追い打ちの蹴りを放った。

「うわったっ!」
 バランスを失った乱馬は、後ろから覆いかぶさるようにあかねへと倒れ込んだ。
「きゃっ!」
 いきなり、乱馬が背中から負ぶさってきたのだ。あかねも悲鳴をあげた。武道のたしなみのある彼女すら、乱馬の急襲は避けられなかった。

 ドサッ!

 二人、覆いかぶさったまま、もつれ合うように畳へと投げ出されてしまった。

 ウサギはさっとその場を離れた。縁側の方へと、ピョンピョンと逃げ去った。そして、柱の影から様子を覗きこんでいる。

 乱馬とあかねは、互いの身体を密着させたまま、暫く畳の上でじっとしていた。
「あかね…おめえ…。」
 こそっとその場を離れたウサギなどには目もくれず、乱馬は左手で、グッとあかねの右手首を握りしめた。
「ちょっと、何するのよ…。」
 乱馬の大胆な行動に、あかねは戸惑いの声を張り上げた。
「おいっ!おめえ、熱があるんじゃねーのか?」
 そう言いながら、ガバッと起きあがった。
 それから、あかねの手をグイッと引っ張って、己の身体へと引き寄せる。それから、自分のおデコをあかねのおデコにくっつけた。

「熱い…。やっぱ、熱があるじゃねーか。コラッ!」
 何故か怒ったような口調になる。
 いつものあかねなら、乱馬の横柄な語り口に、カッとなって突っかかってきそうだが、この日はそれすら無かった。
「いつからだ?いつから調子が悪かったんだ?」
 胸にあかねを抱いたまま、乱馬は矢継ぎ早に問いかける。
「午後の授業が始まった頃辺りかな…。熱っぽいって思ったのは…。」
 ポソッとあかねが吐き出した。
「医者は?」
「今日は午後診が無い日だから行って無い…。」
「じゃ、常備薬は?」
「飲んで無い…。一晩寝たら治るかなって…。」
「…たく…。それで、家で留守番してやがったのか…。しょうがねえなあ…。」
 笑みと共に、フウッと息が零れ落ちた。


「やっぱり…そういう関係やったんやんけ…。」
 ひょいっとウサギが乱馬の耳元で囁きかけてきた。
「うっせー。」
 乱馬は思わず声を張り上げた。

「乱馬…?何?いきなり大声張り上げて。」
 あかねがキョトンと乱馬を見詰めていた。

…そうだ、あかねにはウサギが見えねーんだっけ…

「あ…別に…何でもねえ…。それより、ちゃんと布団で寝た方が良いんじゃねーのか?」
 と誤魔化しモードに入る。話題を逸らせるという試みだ。

「だから、寝てたんだけど…下が騒がしくって目が覚めたの…。そしたら、あんたがここに居て…。ねえ…何やってたの?」
 と問いかけて来る。

「月見だよ…。何か、あの月見飾りを見ていたら、ここで十五夜を眺めるもの悪くねえってよー…。」
 と必死で誤魔化しにかかる。あかねにウサギが見えない以上は、こうやって誤魔化すしかない。
「ほら、見ろよ…。きれいじゃねえか…。縁側から眺める月もよー…。」
 ぽっかりと浮かんだ月は、冴え冴えと二人を照らしてくる。
「確かに…きれいね…。」
「だろ?風邪で観月会へ行けねえんだったら…ここで眺めるのも良いんじゃねーか?お…俺もつきあうからよー。」
 真っ赤になりながらあかねへと畳みかける。普段の乱馬なら、到底、そのような気の利いた言葉は口を吐かないだろうが、月明かりの魔力か、よどみなくあかねへと言葉をかけられた。
 自分で言った言葉に、ドキドキと心臓が高鳴り始める。多分、暗がりで良く表情が見えないから口にできるのだろう。
「ありがと…乱馬。」
 あかねもポッと頬を染めながら、少しだけ乱馬の方へと身体を傾けた。
 
 ぎしっ!

 と音をたてて、身体が固まったような気がした。

「下手な誤魔化し方やのー…。」
 後ろでお邪魔ウサギが茶々を入れに来た。
「うるせーっ!他にどうしようもねーだろーが…。」
 と小声でそれに対する。響の中に、いい雰囲気のところを邪魔するなという気持ちも少し籠められていた。
「ま…男のおまえだけに享受されるより…この娘っ子に加わって貰うのもありやなあ…。」
 とウサギはニッと笑った。
「あん?」
 どう言う意味だと、目でウサギに問いかけると、餅つきの杵を取り出して、フワッと空で一回振った。
 すると、餅がそこへ現れた。ご丁寧に懐紙に包まれている。

「これは何だ?」
 あかねに悟られぬように、こそっとウサギに問いかける。

「これをこの娘っ子に食べさせたらええ。」
 そう乱馬の耳元で囁く。

「だから…何だと訊いてんだろ?訳のわかんねーもんをこいつに食わせる訳にはいかねーし…。」
 ボソボソッとウサギにたたみかける。
「月の薬餅(くすりもち)や。ワシらウサギは月の女神様の元で、様々な薬餅を杵でついとるんや…。」
「薬餅ねえ…。」
「霊験あらたかな餅やど…。風邪なんか、一発で治る。」
「毒とか入ってねーだろーな?」
「入っとるか、ボケッ!」
 ゴンと乱馬の左ひじを蹴った。
「結構その娘っ子、熱が上がってきとるんとちゃうか?ワシの声はともかく、おまえの囁き声にも全く反応しとらんぞ…。」
 ウサギの指摘は的確だった。
 ひそひそ声とはいえ、すぐ脇で乱馬はウサギとやり取りをしている。にもかかわらず、あかねは無言で乱馬に寄り添いながら、月を眺めているだけだった。しかも、目は熱っぽく、トロンとしている。
 相当、調子が悪そうだ。

「わかった…これを食わせたら風邪は確実に治るんだな?」
「ああ、そーや。できれば口うつしで食わしたり…。」
「出来るかーそんなことっ!」

 思わず、大声を張り上げていた。隣のあかねもギョッとして乱馬を見つめ返す。
「乱馬?」
 
「あ…。いや…。何でもねえ…。何でもねえけど…これ…。」
 と言って、あかねの掌にウサギが出してきた薬餅を懐紙ごと乗せた。
「何?これ…。お餅?」
 あかねは懐紙を開きながら尋ねた。
 ふわふわの小さい白い大副のような餅が、そこにあった。
「何か、逃げ惑ってた時によう…十五夜だからって餅を振る舞ってたところがあって、貰ったんだ。おめー、何も食ってねーんだろ?」
「うん…。でも、乱馬が貰ったんだから…。」
「二つ貰ったんだ…。俺はさっき一つ食ったから…その残りだ。」
 そう言いながらニッと笑った。精一杯の口から出まかせだった。

「全く、センスの無い嘘しか言えんのか…。この男は…。」
「うるせー、黙ってろっ!」
 背中から覗きこんだウサギを一蹴する。

 乱馬に分があったとすれば、それは、あかねの鈍さだろう。元々、鈍い上に、今日は熱で頭の回転も普段よりずっと悪い。
「じゃ、遠慮なくいただくわ。」
 そう言って、薬餅を口へと含んだ。
「柔らかくて…美味しい…。思ったより甘いのね。」
 モゴモゴと口を動かしながら、あかねはそんな感想を口にした。
「そっか?…そりゃ、良かった…。」
 たははと乱馬は笑った。

「何だかとっても良い気持ち…。」
 食べ終わったあかねが、フウッと息を吐きだした。何となく甘ったるい息だった。
「身体がポカポカするわ…。」
 そう言いながら、乱馬へと身を寄せて来た。

「おい…何か、あかねの様子がおかしいんだけど…。」
 こそっと隣りで様子を見詰めているウサギの身体を突いた。
「その薬餅は即効性の薬餌効果を持っとるからな…効いてきたようやな…。」
 ニッとウサギは笑った。
 
「何だかとっても気持ちがいいの…。熱も下がってくみたい…。」
「そっか?俺には熱っぽいのがまだ残ってるように見えるんだけど…。」
 月明かりしかないので、正確な顔色まではわからないが、まだ、あかねの身体には熱が籠ったままのような気がした。

「おい…明らかにあかねの様子がおかしんだけど…。こいつの効用は確かなもんなんだろーな?」
 乱馬はウサギへとにじり寄った。
「たははは…稀に口にすると、酒に酔っ払ったような感じになる人間も居るんやけどな…。害は無いで。」
「酒に酔っ払ったような感じだあ?」
 つい声を荒げてしまった。

「あたしは別に酔ってなんか居ないわよっと…。」
 そう言いながら、あかねが乱馬へと身を乗り出して来た。
「いや…明らかに酔っ払いと同じ感じじゃねーか…。」
「だからあ…あたしは、酔っ払ってなんかいないって…。第一、お酒なんか口にしたこともないしぃー。」
 ニコニコと笑いながら、バシバシと乱馬の肩を叩いて来る。
「こら、ウサ公…。この落とし前はどうつけてくれるんだよ?完全に酔っ払ってっぞ、こいつは…。」
「だから、人畜無害な薬餅やさかい、このまま放っておいたらええっちゅうーてるやろー。しつこいのーおまえも…。」
 ウサギは乱馬へと怒鳴り返した。
 
「あら…。そこに居るのは…。」
 あかねは乱馬の肩越しに、ウサギを見つけたようだった。
「きゃあー可愛い、ウサギちゃんっ!」
 そう言って、徐にウサギを抱きとり、頬ずりをする。いつもPちゃんにしているような仕草だ。
 いきなりあかねに抱きつかれて、ウサギも悪い気はしなかったらしく、ポッと頬を赤く染める。
「は…はじめまして…。ワシ、月から来たウサギや…。」
 とウサギは自ずから自己紹介する始末。
「月?あのお月さん?きゃあ、月のうさちゃんは喋れるのねっ!」
「あは…あははは…。よろしゅうに…。」
 ウサギはボリボリと頭を掻いた。その脇から乱馬が身を乗り出して、問いかける。
「おい…。おめーの姿は、普通の人間には見えないんじゃなかったのか?」
「さっき、この娘っ子、薬餅食ったやろ?その薬餌効果で見えるようになったんや。」

「ねえ、乱馬。このうさちゃん、いつからここに居たの?隠してたの?」
 あかねが瞳をキラキラさせながら問いかけてきた。
「いや、別に隠してた訳じゃなくて…。」
「もう、水臭いんだからっ!」
 そう言いながら、バシバシと乱馬の背中を叩いて来た。
「それより、折角、十五夜に家に来て貰ったんだから…。一緒に楽しみましょう!」
「ほお、この娘っ子は物わかりがええやんけっ!ワシはこういうのを待っとったんやっ!」
 ウサギの顔もパアッと輝き始めた。

「お…おい。こら。てめーら勝手に…。」

「もー、水臭いこと言わないのっ!年に一度の仲秋の名月なんだから、こいう、パーっと行きましょうよっ!パーっとっ!」
 こうなると、最早あかねは性質の悪い酔っ払いと同じだった。
 正確にはお酒では無く、あくまで薬餅の副作用なのだが、このハイテンションは留まることを知らなかった。
 普段真面目なあかねだけに、その豹変ぶりは目を引いてしまう。

「よっしゃっ!御馳走ならこのワシに任せてやー。この特製の杵で、沢山(たんと)出したるさかいになあっ!」
 そう言いながら、薬餅を出した、杵を空で振ること数回。
 きっと打出の小槌と原理は同じなのであろう。小槌が杵になっただけのようで、後から後から、秋にちなんだ農作物や魚類がてんこ盛りされた皿が、溢れんばかりに並んだ。
 
「きゃはっ!すっごーいっ!乱馬、見てみて、御馳走よっ!」
 その様子を見て、あかねははしゃぎ出す。呆気にとられたまま、声も出せずに突っ立ったまま居ると、バシッと背中を叩かれた。
「何、ぬぼーっとしてるのよっ!あんたも感動なさいよっ!」
「せやせや、こういうのは愉しんだ者勝っちゃ!パーっといこや、パーっと。」
 
 乱馬はどこか冷めた瞳で、ウサギとあかねを眺め続けていた。
 が一方で、愉しそうにはしゃぎまわる、あかねの姿を見詰めるのは、決して不愉快な事では無かった。
 フッと微笑みを浮かべながら、飽くこと無くあかねの笑顔を覗き見る。
 月明かりに照らされて、あかねの笑顔は輝いて見えた。

「ま…今夜は十五夜だし…。別に良いか…。」
 あかねとウサギが高揚してはしゃぎまわるのを、あえて止めることもせず、かといって、積極的に加わるでもなく、乱馬は傍で見守り続けた。


 だんだん月夜も更けてくる。
 あかねのテンションの高さと比例するように、ウサギのテンションも最高潮に達した。
 月が雲間にすいっと隠れた時、暗がりに足を取られて、あかねの身体が、よろっとよろめいた。

「あぶねえっ!」
 そう言いながら、乱馬はあかねを庇って手を伸ばした。
 ふわっとあかねの身体を抱きしめる。
 
「ったく…。あんまり羽目を外し過ぎてると、怪我するぜ…。」
 受け止めながら、そんな言葉をあかねへと手向ける。
「乱馬…心配してくれるの?」
 ふっと耳元で声がした。
「当り前なこと訊くなッ!バカッ!」
 照れ隠しか、こういうときでも悪言が口を吐く。
「だったら…。乱馬…。」
 あかねはボソッと言葉を吐きだした。
「何だ?」
「ちょっとだけでいいから…このままでいさせて…。」
 言葉の代わりに、乱馬はあかねを抱きとめる腕に少しだけ、力を入れた。
 
 ウサギとのドンチャン騒ぎに疲れ切れたのだろう。あかねが、乱馬の胸に顔を埋めたまま、穏やかな寝息をたて始めるまで、そう時間はかからなかった。
 スースーと響く柔らかな吐息は、規則正しく聞こえて来る。乱馬に身を預けたまま、あかねは穏やかな眠りへと落ちていったようだ。

「ほんま…ちゃっかり、居候の家の娘っ子に手を出しとるやんけっ!」
 バシッとウサギが軽く乱馬の背中を叩いた。

「あのなあ…誤解が無えように言っとくが…。俺がここへ居候してからこいつに手を出したのとは違うからな…。第一、ここに居候してるのも…親父たちによってたかって、こいつの許婚にされたことに端を発してんだっ!許婚になったの先で、居候になったのは二の次でいっ!」
 ボソッと乱馬は吐き出した。
「何、言い訳しとんねん…。でも…許婚か。そんな言葉がまだ、秋津島にも残っとんのか…。自由恋愛だのが主流になって、そんな言葉は死滅したと思うとったが…。そーか…己らは許婚同士か…。それはそれで、乙な関係やんけ。」
 ウサギはにんまりと笑った。

「一つ言っといたるわ…。この子のおまえに対する想いは本物やど…。可愛がったらな、罰当たるど…。」
 ウサギはじっとあかねを覗きこみながら言った。

「てめーにそんなことが分かるのかよっ!?」
 半信半疑の瞳をウサギへと手向ける。

「誰でもわかるわいっ!己の腕の中で、幸せそうなごっつうええ顔して眠っとるやんけ。この寝顔は…この娘っ子が、心底おまえに惚れてる証拠じゃ。良かったのーっ!」
 そう言って、またバシッとウサギは乱馬の背中を思い切り叩いた。
「痛ってー。たく、ちったあ加減しやがれ。」
 乱馬はボソッとウサギに吐きつけた。
「ま…この娘っ子だけやのうて…おまえの方も「ほの字」なんやろーけどな?わっはっは。」

 大声で笑いながら、ウサギはヒョイっと二人から離れた。

「さて…。そろそろ夜も更けてきたさかい、お暇(いとま)するわ…。」
 ウサギはそう言って、ニッと乱馬へ微笑みかけた。
「久しぶりに、愉しい十五夜やったわ…。月もそうやけど…。お月見飾りもきれいやったし…ま、強いて言うなら…ここにお供えの酒があったらもっとええな…月見酒…。
 また来ることもあるやろうさかい、来年からはちゃんと月見飾りの横に、お酒もお供えしてや…。頼んだでっ!
 それからええか?その娘っ子、離さずに大切に愛したりや…。」

 そう言うと、ウサギは月見飾りの周りを一度だけ、ゆっくりと回って見せた。右手には供えられたススキを持ち、それから、反対の手にはあかねが作ったいびつなお月見団子を持って。
 腰を大きく振り、まるで、月明かりにウサギがダンスでもしているかのように…。
 それから、月明かりが一番輝いている場所へ立つと、フッと姿が見えなくなった。

「…たく…勝手なことばっか、ほざきやがって…。てめーに忠告される筋合いなんてねーっつーのっ!
 俺はこいつを離す気なんて、さらさらねーんだからよ…。」
 そう呟きながら見上げると、天上高く昇りつめた月が、こちらを涼やかに見下ろしていた。
 疲れきって幸せそうに眠るあかねの顔が、月明かりに照らされて、キラキラと華やいで見えた。



 そののち、乱馬はあかねを抱いたまま、茶の間で眠ってしまい、観月会から帰宅した家族に、散々、冷やかされたことは言うまでも無く…。
 あかねは朝までぐっすりと眠り続け、目覚めると風邪は治っていた。が、彼女の記憶はふっつりと途切れていて、ウサギと宴会をしたことも何も覚えていないようだった。





 完



お後がよろしいようで…。

2013年9月19日



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