◇十五夜の客
前編



一、

「じゃあ、行って来るわね、あかねちゃん。」

 ここは、天道家の玄関先。
 早雲を筆頭に、家族揃って、外出する様子だった。特に着飾った訳でもなく、皆、一様に普段着だ。玄馬など、パンダ姿のままである。思い思いの格好で、靴を履く。
 今日は十五夜。ご町内の公園で、「観月会」が催される。
 まん丸のお月さまを愛でるだけでなく、夜店が出たり、カラオケ大会やライブ演奏もあるという。町内の秋祭りを兼ねた観月会だった。
 イベント好きな天道家の面々が、見逃す筈はない。家族総出で出掛けるところであった。

「たく、一番丈夫そうなあんたが風邪をひくとはねえ…。」
 なびきがチラッと妹を見やった。
「ちゃんと布団の上で寝なさいね。風邪はひきはじめが肝心ですよ。」
「うん…皆が出て行ったら、ベッドに横になるわ。」
 嗜める姉たちに、あかねはコクンと頷いた。
「お粥を炊いてあるから、お腹がすいたら食べなさいね。それから、忘れずにちゃんと水分も摂りなさいよ。」
 母親代わりのかすみは、注意喚起も忘れない。発熱時には水分補給も大切だからだ。
「わかってる、お茶もちゃんと飲むわ。」
「お医者さんには行かないのかね?」
 早雲が心配げにあかねを見た。
「あいにくかかり付けの内科は、午後は休診だから、一晩寝てすっきりしなかったら、明日にでもちゃんと行くわ。」
 と答えた。
「懸命な判断ね…。あかねのことだし…明日の朝になったらケロッとしてるんじゃない?」
「それどういう意味?…なびきお姉ちゃん。」
 ムッとした顔をなびきへと手向ける。
「言葉通りよ。あんたは体力の塊じゃない。風邪なんて一晩眠れば、治せるんじゃないの?」
 姉妹間の空気が悪くなりかけたのを受けて、慌てて早雲が口を挟んだ。
「まあまあまあ…出がけに喧嘩は止しなさい…。と、とにかく、ゆっくり身体を休めるのが一番だ。もちろん、お土産はちゃんと買ってくるからね。」
 と、機嫌を損ないかけている末娘をとりなす。
「戸締りはどうしましょう…。まだ乱馬君が帰って来てないみたいですけど…。玄関は鍵を締めておかないと不用心ですし…。」
 かすみが少し困った表情を浮かべた。普段、誰も居なくなることが無い天道家だ。居候の乱馬は合鍵など持っていない。
「うーん…ここのところ、町内で空き巣被害も出ているみたいだし。観月会の時は、戸締りは厳重にって回覧板も来てたしなあ…。」
「泥棒が欲しがるような物なんて、この家にあったっけ?」
 となびきが茶々を入れた。
「盗られるような物は無いでしょうけど…あかねちゃんが心配だわ。」
 とかすみが即座に答えた。
「あら、あかねの馬鹿力があったら、泥棒なんてへっちゃらじゃないの?」
「体調が悪いんだったら、馬鹿力がセーブできないでしょう?うっかり泥棒さんが入っちゃったりしたら、地獄よ…なびきちゃん…。」
「それ、さりげにあたしよりきついこと言ってるわよ…お姉ちゃん…。」
 思わず、苦笑いのなびき。勿論、あかねも笑顔がひきつっている。
「まあ、この時間になっても帰宅しないあの子が悪いということで、玄関は締めておきましょう、かすみちゃん。」
 横からのどかが声をかけた。
「それが正解かもねー。もしかすると、もう会場に行っちゃってるかもしれないしー。」
「ま、もしもの時のために、裏のバルコニーの窓の鍵だけは開けておけば、良いのではないのかね?今までも何回かそういうことがあったし…乱馬君もそれとなくわかるだろう。」
 早雲が、ウンウンと頷いた。
「そうね、一階は戸締りは厳重にして行きましょう。裏口はあかねちゃんが締めておいてね。」
 とかすみがあかねへと声を賭けた。
「うん、部屋に戻る前に締めておくわ。心配なく…。気がねせずにゆっくり楽しんできて、みんな…。」
 とあかねは微笑み返した。本当は、もうにこやかな作り笑いをする余裕など無かったのだが、出て行くみんなに心配をかけまいと、精一杯演じて見せた。

「じゃあ、お留守番、頼むわね、あかねちゃん。」
 かすみの言葉を皮きりに、異口同音、「行って来ます。」と声をかけながら、ぞろぞろと連れ立って玄関を出て行く。
 最後に図体のでかいパンダ玄馬が『じゃ、行ってきます』という看板を差し出して、一度あかねに手を振ると、ピシャンと玄関の引き戸を締めた。
 ガチャガチャと外からカギを締める音も後に続いた。

 人影がガラスの引き戸から消えると、あかねは、ふうっと大きな溜息を吐きだす。それからくるりと玄関から背を向け、台所へと向かった。裏口の鍵を締めるためである。

 火の気が消えた台所。かすみが作ってくれたお粥が鍋にかけてあったが、それをよそって食べる気も起こらなかった。
 熱が上がって来たのだろう。ペコペコである筈のお腹も、腹の虫が静まり返っている。
 脱水状態が怖いから、コップに水をなみなみと注いで、グイッと飲み干す。それが精一杯だった。

「みんなが帰ってくるまで、一寝入りしよう…。」

 辺りはそろそろ薄暗くなりかかっている。電灯もつけず、足元が暗いままトントントンと階段を上ると、二階の自室へと転がり込む。
 パジャマに着替える気も起こらなかった。制服から着替えた普段着のカットソーとスカートのまま、ドッとベッドへと身を投げ出す。

「あー、もうダメ…限界…。」
 そう吐き出すと、ベッドへと沈んでしまった。



 物音一つ聞こえない、シンと静まりかえる天道家。
 いつもなら灯っている、庭の外灯も玄関先の電灯も消えている。
 広い敷地の家だから、暗がりに包まれると侘しさも増す。
 今夜は十五夜だ。まん丸い形をしたお月さまが、東の空から姿を見せた。
 何故か十五夜が昇る時、いつもより大きく見える。空高く昇って南中してしまうと、若干、小さくなったような気もする。
 夕陽が大きく見えるのと原理は同じで、脳の錯覚からそう見えるだけのことらしい。
 ひっそりと静まり返った天道家の屋根越しに、月まで寂しげに浮かんでいるように見えた。


「たく…酷い目に合ったぜ…。」
 天道家に続く道を辿りながら、一人の少女がトボトボと歩いていた。
 いや、少女では無い。正確には少女の姿に変化を余儀なくされた青年…乱馬だった。
 どこかの水場にでも落っこちたのだろう。髪の毛が濡れていた。
「あいつらめ…。風邪ひいたら、どーしてくれるんだよっ…たく…。」
 と愚痴もこぼれた。

 それは、放課後のことだった。

 校門のところで、右京、シャンプー、小太刀の三人娘に捕まった。
 彼女たちは互いに火花を散らしながら、乱馬を誘うべく、こぞって待ち構えていたのである。
「乱馬っ!これから私と来るよろしっ!今夜の観月会に出す「月餅(げっぺい)」、真っ先に乱馬に食べさせてあげるね。」
「何言うんや!うっとこの満月お好み焼きの試食が先やっ!」
「ほほほほ…九能家の月見にご招待いたしますわ…いざっ!わたくしとご一緒に参りましょう!」
 それぞれ立ち並んで、乱馬のお出ましを待っていたのだ。
 
「たく…てめーら…性懲りも無く…。」
 彼女たちの姿を校門先に認めると、じわっじわっと後ずさる。

 当然のごとく、乱馬には三人娘の誰の相手をする気はさらさら無い。行事ごとに理由をつけて、雁首並べて乱馬を誘って来る彼女たち。迷惑以外の何物でもなかった。
 今夜は天道家の面々と一緒に揃って出掛けることに決めていた。日が暮れる前に、帰宅してくるように母のどかにも念を押されていたし、そうするつもりだった。
 みんな一緒に十五夜を愉しむ。
 家族一緒…つまり家人に混じって、許婚のあかねが居ればそれで良いと思っていたのである。
 当然ながら、
「俺…今日は予定があるから…。」
 と三人娘の申し出は、さくっと断ろうとした。
 が、彼女たちには乱馬の拒否の言葉など、右耳から左耳へと通り抜けるだけだ。「はいそうですか。」と素直に聞き入れてくれる連中なら、苦労はしない。

「さあ、乱馬、私と来るよろし…。」
「いいや、ウチとやっ!」
「わたくしと…ですわ、乱馬様。」
 じわじわと三人娘は、思い思いの武器を手に、にじり寄る。とても、穏やかに誘っている風には見えなかった。誘うというよりは、白黒求めて、乱馬に戦いを挑んでいるような状況だ。

「だから予定があるんだってば…。おい、あかね…何とか言ってくれよ…。」
 これまた、いつものように、乱馬はあかねに助け船を求めようと振り返った。が、どういう訳かあかねはその場になかった。教室を出た時は確かに彼女とほぼ同時だった筈なのに…。ある筈の姿が、視界に入って来なかった。

「乱馬…どこにあかね居るか?」
「せや…。何で、居(お)らんあかねに助け舟求めてるん?」
「ほほほほ…天道あかねの姿などどこにもありませんことよ!」
 三人娘の苦笑いが乱馬の前に飛ぶ。

 いつもなら、あかねへ助け舟を求めると、思い切り無視されるか、途端、不機嫌になるか、或いは三人娘の態度に食ってかかるか…あかねのパターンはこの三者択一。あかねが機嫌を損ねて三人娘に食ってかかる僅かな隙を見て、ささっと逃げの戦法に出るのが彼の常とう手段であった。が、いかんせん、あかねが傍に居ない。その作戦を実行するのは不可能だ。
「あれ…あかね?確かに、一緒に教室を出て来た筈なのに…。たははは…こりゃ、参ったな…。」
 へらへらと作り笑いを浮かべながら、一歩、また一歩、後ずさる。
 目の前に立ちはだかる三人娘は、それぞれ「必死」の形相だ。しかも、あかねの姿が無い。この絶好のチャンスを逃すまいと間合いを詰めて来た。
 
 近くを歩いていた風林館の生徒たちは、身の危険を感じたのか、ささっとみんな一斉に距離を置いた。乱馬と三人娘の「いざこざ」は、ある意味、日常茶飯事だったので、みんな慣れたものだ。とばっちりは食いたく無い。当然の行動だった。
 こんな危険地帯に、のこのこと顔を出すのは、九能くらいだろう。
 今日も九能だけは、他の生徒たちが身を引く中、平然と歩いて来た。
「はははは…皆、御苦労!この九能帯刀に遠慮して道を譲ってくれたか。」
 などとオオボケな言葉を吐きつけながら、ささっと身を引いた生徒たちを横目に、校門へと向かって、悠々と歩き出す。
 当然、そんな九能が、三人娘と乱馬の修羅場の犠牲者にならない筈が無い。

「行くねっ!」
「今日は逃がさんでーっ!」
「お覚悟っ!」
 三人娘は一斉に飛び出した。
 何故、ただのデートへの勧誘が格闘になるのか、理不尽ではあるが、これが乱馬に突きつけられた現状である。
 ある意味、袋叩きである。
 当然、乱馬も黙って襲われる込気など毛頭ない。三人娘の誰とも放課後ランデブーを楽しむ予定は無いし、楽しみたいとも思っていない。 

 ここは「逃げ」の一手、あるのみ。

「でえええっ!俺はおめーらの相手する気はねーんだっ!」
 と雄叫びを挙げながら、パッと逃げに転じる。

 乱馬目掛けて少女たちが襲いかかったその瞬間、幸か不幸か、九能が何も気にかけず歩いて来たのだ。
 逃げる乱馬も三人娘も、己の視界に九能は無かった。そこに悲劇が起こる。
 乱馬と九能が、少女たちの襲撃の刹那、交錯したのだ。


 ひゅんっ!ダダッ!ずどんっ!どごっ!めこっ!バタンッ!


 続けざまに衝撃音が鳴り響いて、瞬時に砂煙が舞い上がった。
 一斉に乱馬目掛けて、三人娘が飛び道具を繰り出した音、乱馬が逃げ出す音、それから九能が三人娘の放った飛び道具の餌食になる音などなど。
 ありとあらゆる音が飛び交った後、吐きつけられる怒号。

「逃げる、卑怯あるっ、乱馬っ!」
「乱ちゃん、待ちーやっ!」
「地の果てまでも追いかけますわよ。」
 最初の攻撃が空振りに終わったと知るや、三人娘は逃げた乱馬目掛けて追いすがり始めた。各人、今夜の月見ランデブーを物にしたい…その一心で乱馬を猛追する。そのしつこさは、いつもより数段増しだった。

 もうもうと舞い上がった砂煙が引くと、大の字に地面に這いつくばった九能帯刀が姿を現す。後頭部には巨大なタンコブが数個。否それだけでは無い。制服も砂にまみれ、無惨な状況だった。
 その場に居た、風林館高校の生徒たちは、固唾を飲んで、九能を見守る。

「おーのーれー……この九能帯刀をこけにしよってーっ!許さんっ!」

 九能の反撃が乱馬や三人娘に向けて繰り出す…その場に居た全ての者がそう思っていたのだが…そこに、怒りを背に、起きあがろうとした九能の後頭部を思い切り踏んで通り過ぎた者が一人。

 天道あかねである。

 彼女は確かに乱馬とほぼ同時に教室を出たのだが、体調の悪化により、少しばかりふらふらしていたため、乱馬から遅れること数分。下駄箱へと辿りついた。ぼーっとしたまま、上履きをしまい、スニーカーに履き替え、昇校口を出て校門へ向かって歩いていた。


「早乙女乱馬…今日こそ…決着つけてやろうぞ!」
 九能が怒りに燃えて起きあがろうと上半身を起こそうとした瞬間…あかねの蹴りがまともに顔面へ入った。 
 既に熱でうかされていたあかねは、九能がそこへ倒れ込んでいることなど、眼中に入らなかったのである。
 

 ドカッ!


 あかねの蹴りが、九能の後頭部を見事に捕えて直撃した。仮にしも、無差別格闘天道流の跡取り娘だ。その脚力も生半可では無い。
 たまらないのは九能だった。
 哀れ九能は、そのまま、バタンと再び地面へと這いつくばる。
 もちろん、まだまだ九能の悲劇はそれだけでは終わらなかった。
 あかねがご丁寧に、九能の全身を踏みつけながら、通り抜けたのである。

 ズカッ!ズカッ!ズカッ!ふぎゅっ!

 あかねが通り過ぎると、彼女のスニーカーの足跡が、後頭部から背中へかけて、きれいに軌跡を描いていた。
 あかねによって踏み尽された九能は、完全に意識が吹っ飛び、地面に沈む。
 熱にうかされてぼんやりしていたあかねは、九能という異物を踏んでも気に留めることなく、そのまま校門から外へと出て行ってしまったのだった。
 恐らくあかねは、九能を踏みつけた事実にも気付いていないだろう。

 呆気に取られていた生徒たちは、目を丸くしたまま九能へと視線を流した。
「あーあ…。九能の奴…。」
「乱馬たちのいざこざを避けねえなんて…やっぱ、馬鹿だな…。」
「乱馬だけじゃなくって…天道あかねもやるよな…。」
「あかね…しつこい九能先輩に対する恨み辛身(つらみ)が溜まってたのかしら…?」
「いや、九能なんて眼中にも入ってなかったみてーだぞ。」
 と男子生徒も女子生徒っもひそひそと話し合う。
「九能はどうする?保健室にでも連れて行くか?」
「このままでも平気じゃねー?」
「ま、いいか…。別にこのままでも…。」
「関わりにならない方が良いわよ…。」

 危険が去ったことを再確認すると、最早、誰も彼を気に留めることなく、その場を立ち去って行く。
 勿論、当該者の乱馬もあかねも、九能のことなど、記憶の片隅にも残っては居ない。

 あかねはそのまま家に帰り、留守番を決め込んだし、乱馬はというと、三人娘に日没頃までしつこく追いかけられたのである。

 逃げ惑う中で、乱馬は水たまりに突っ込んで、ずぶ濡れになり、案の定、女へと変身してしまった。
 追いかけっこから最初に脱落したのは、女乱馬と男乱馬が同一人物であると自覚していない九能小太刀だった。乱馬が女に変身するや否や、「乱馬様はいずこ?」とどこかに行ってしまった。
 シャンプーと右京の二人になったからとて、追跡の魔の手が緩む訳ではない。一騎打ちになった分、執拗になる。逃げる乱馬も女に変身した分、手足が短くなり、彼女たちには追い易くなってしまっている。
「でええええっ!しつけえーっ!」
 と必死で逃げ惑う。

 乱馬が彼女たちの魔の手から解放されたのは、日没前後だった。
「これ、シャンプー。ぼちぼち行くぞっ!そろそろ、観月会に人が集まって来る頃じゃ。」
「右京様もそろそろ行かなければ、折角の商売あがったりですわよ。」
 猫飯店もお好み焼きうっちゃんも、観月会に出店していたのである。
 シャンプーはコロンに、右京は小夏に、それぞれ呼びとめられ、乱馬はようやく解放されるに至ったのだ。。
「ふー…助かった…。」
 シャンプーと右京の二人が渋々引き上げて行ってしまうと、乱馬はホッと胸をなでおろした。
 が、いかんせん、女に変身してしまっている上に、泥だらけだ。しかも、日もすっかり沈んでしまった。
 心は情けない気持ちで一杯だった。

「もう、みんな出かけちまたか…。」
 真っ暗な天道家の玄関先に帰りついた時、大きな溜息がほおっと零れ落ちた。
「鍵もかかってるし…電灯も消えてやがる…。しゃあねえ…。庭に回って、開いてる場所を探すか…。」
 そう言いながら、天道家の真っ暗な庭へと回った。経験上、裏側にある二階のバルコニーの窓は鍵が開けられていることが多い。家族揃って急に出かけるときは、乱馬が締め出されないようにと、決まって天道家はそこの窓だけ鍵をかけずにおいてくれることが多々あったからだ。
 恐らく、今日もそうしてくれているに違いない。淡い期待を抱きながら、庭へと入る。
 まん丸なお月さまが、庭の池に映り込んで光り輝いている。
 
「早く家に入って、シャワー浴びて出掛けねえと…。あかねの奴、怒ってるかなあ…やっぱ…。」
 とふうっとまた、一つ溜息が漏れた。

 その時であった。池の水が月影を映してゆらゆらと揺れた。その刹那、パアッと光が差し込んで来たようにも思えた。
 と、背中からいきなり声をかけられた。
「何や…時化(しけ)た顔しとるなあ…姉ちゃん。溜息なんかついてたら、幸せが逃げてまうで…。」
 そいつは、乱馬のすぐ背後に佇んでいた。
 


二、

 天道家の庭先に侵入者か…そう思って、乱馬は身構えながら振り返った。
「人ん家の庭先でっ!何者だ?てめーは?」
 きびっとした顔で声の主を振り返る。

 えっと息を飲んだ。
 そこに立っていたのは、人間では無かったからだ。
 
 そこに居たのは、ウサギ。それも真っ白なウサギだった。
 しかもだ。そのウサギは着物まで着ていた。紺色の半纏のような着物である。背中の「○」の中に「卯」の字が染め抜かれている。おまけに鉢巻まで耳元に巻いていた。

「…俺…疲れてんのかな…。ウサギが人間の言葉をしゃべる訳ねーもんな…。」
 ボリボリと頭をかくと、くるりと背を向けた。

「おい…こらっ!」
 ウサギは乱馬へと声をかけた。

 が、乱馬はひたすら無視を続けた。こいつが喋るウサギであったとしても、ここで関わったら負けだ…経験上、そう思ったのである。

「こらっ!無視すなっ!」
 そいつは、乱馬の背中を思いっきり蹴って来た。
 結構強い蹴りだった。とても、小動物の「蹴(け)たぐり」とは思えないほど、強烈だった。
 乱馬はそのまま前へとつんのめった。

「痛ててっ!痛えーじゃねーか、この野郎っ!」
 関わりになってはいけないという決意が脆(もろ)くも崩れ去る。
 カッとした瞬間、己を忘れてしまった。
「だから、無視するおまえが悪いんやんけっ!」
 ウサギはこちらを見詰めて来る。

「うるせーっ!それより何だ?俺を呼びとめて…。」
 乱馬は睨みながらウサギを見た。

「おまえ、この家の娘っ子か?」
 ウサギは返す口でそんなことを尋ねてきた。

「いや…。この家の娘じゃねえ…。」
 ブスッとしたまま、乱馬は答えを返す。

「そやったら、何で、この家に入ろうとしてたんや?おまえ、この家の娘とちゃうんやろ?だっらた、何で門戸をくぐったんや?」
 かなり言い方がゾンザイな奴だった。しかも、関西弁を喋るウサギだ。強烈だった。
「そんなこと、おめーに問いかけられる筋合いなんて、無えっつーんだっ!おめーだって、この家の者じゃねーだろっ!第一、天道家はペットなんか飼って……。」
 そう言いかけて、乱馬はPちゃんを思い出した。響良牙の変身後の姿だ。彼はPちゃんとして時々天道家に姿を現す。未だあかねはPちゃんが良牙だという事実に気がついて居ない。しかも、慣れたもので、Pちゃんの姿が見えなくなっても、そのうち帰ってくるだろうと、大騒ぎするでも無かった。
 従って、Pちゃんは天道家の「時々ペット」なのである。
「あ、黒子豚が時々ペットで居るんだっけか…。」
 とボソッと口から零れた。
 
「こらっ!ちゃんとワシの問いに答えんかいっ!」
 乱馬の煮え切らない言葉に、イラッと来たのだろう。また、乱馬の背中へと思い切り蹴りを入れて来た。

「俺はこの家の娘じゃねーけど、ここに住んでるんでいっ!悪いかっ!」
 蹴られた乱馬が、そう吐き出した。

「下宿人か?」
 ウサギは尋ねる。
「いや…居候だ…。」
 歯切れ悪く乱馬は答えた。
「ふーん…居候ねえ…。なるほどなあ…。」
 後ろに手を組んで、ウサギはじろじろと乱馬を見上げる。
 
「で?てめーは天道家(うち)に何か用か?」
 ムスッとしたまま、乱馬はウサギへと逆に問いかけた。

「ああ。用向きがあるからこうやって、下界へと降りて来たんやんけ…。」
 ウサギは言った。
「あん?」
 意味が良く汲み取れず、乱馬は思わず、ウサギへと聞き返していた。
「せやから、今年の十五夜の享受(きょうじゅ)を求めてここへ来た。」
「あん?きょうじゅ?…何だそれ?」
 乱馬は思わず聞き返していた。
「おまえ、享受って言葉知らんのけ?」
 馬鹿にしたような瞳を乱馬へと手向けた。
「知らねー。」
 即答した乱馬に、ウサギは言った。
「ったく…今日日の若者は、享受っちゅう言葉も知らんのけ…。味わって楽しむっちゅう意味じゃ、覚えとけっ!」
 とまた、ポカッと乱馬を蹴った。
「いちいち、蹴るなっつーのっ!」
 乱馬は恨めしげにウサギを見やった。
 それからキッと言葉を続けた。
「その…十五夜の享受ってーのは、具体的に何だ?」
 乱馬は身構えながら問いかけた。これ以上、蹴りを入れられたくなかったからだ。この場合、自衛するのが最良策だと思ったのだ。
「十五夜のお供え物をこの家から有り難く頂戴しようと言ってるんや。わからん奴やなあ…。」
「意味不明なのは、てめーだっ!何なんだ?そのお供え物ってーのは…。」
 キッとしながら問い質す。
「おまえもこの家に居候しとる貧乏神やったらわかるやろっ!今夜は十五夜やで?十五夜っ!」
 興奮してウサギが食ってかかって来た。

「誰が貧乏神だ?誰がっ!」
 乱馬は言葉尻を捕えながら、ウサギに突っかかった。

「貧乏神は居候するのが普通やないけっ!おまえ、この家に居候している貧乏神ちゃうんけ?」
 キョトンと答えが帰って来た。

「人を貧乏神呼ばわりすんなっ!確かに俺は居候だけど、貧乏神とはちがわーっ!」
 そう言いながら突っかかった乱馬を、ささりと身を翻して避けながら、ウサギは続ける。
「なら、座敷わらしか?まさか…福の神とか…。」
「どっちでもねーっ!俺は人間だっ!」
「へ?おまえ人間なんか?なら、なんでワシが見えるんや?普通の人間には、ワシの姿は見えん筈やのに…。」
 そう言いながら、ウサギは首を傾げていた。
「どういう意味だ?それは…。」
 乱馬はグッと拳を握ったまま、動作を止め、ウサギを振り返った。
 どうやらこのウサギは己のことを勘違いしているようだ。

「せやから、ワシは普通の人間には姿が見えんのやっ!どらっ!」
 そう言うと、ウサギはズイッと乱馬の方へ身を乗り出して来た。真っ赤な瞳を巡らせ、懐から小さな丸い鏡を取り出す。神社に祭ってあるようなまん丸鏡のミニチュア版のような鏡だった。古墳時代の三角縁神獣鏡の小型のような銅鏡のようにも見える。
 その鏡へと乱馬の姿を映し出した。キラキラと鏡面が月明かりに輝いた。

「ふーん…なるほどなあ…。おまえ、変態か…。」

「なっ!」
 乱馬の顔がまた怒りに変わる。ウサギに変態呼ばわりされたのだ。憤慨しない筈が無い。
「バカにしてやがんのかーっ!」
 と拳をウサギ目掛けて振り下ろす。
「たく…短気は損気やっちゅうてるやろっ!」
 ウサギは身軽にひょいっと避けると、また、乱馬の背中にピョンと飛び蹴りを入れた。
「せやから…変態の泉、呪泉に落っこちた間抜けな人間なんやろ?」
 また失礼な言葉を投げて来た。
「間抜けは余計でぇーっ!」
 突っかかって来る乱馬を、ピョンピョンと面白いくらい避けながら、ウサギは続ける。
「真実の鏡が言うには…娘溺泉に溺れたってことは…本性は男か…。」
「だったらどうだってーんだよっ!」
 ドガッと乱馬は突っかかった。
「ほんま、短気な奴やなあ…。そんなんやと、出世せーへんどっ!」
 そう言うと、鏡を翻して、乱馬へと宛がった。

 パアッと月の光が射しこめて、乱馬の姿が女から男へと変化する。湯を浴びた訳では無いのに、男へと戻ったのである。

「え?」
 そう言って、乱馬は立ち止った。己の身体が変化したからだ。

「そいつが、本当のおまえの姿か…。」
 ニッとウサギは笑った。
「あ…言っとくが、湯を浴びたのと効果は同じやど…。完全に戻したわけやないで。そこまではさすがにワシでもでけへんからな。水浴びたら、また女に変身するで。」

 男に戻されたことで、すっかり怒りも闘気も失せていた。完全に怒気をくじかれてしまった。

(このウサ公…タダ者じゃねえ…。)
 そう思った。
 とニッとウサギは笑って乱馬へとまた声をかけて来た。

「ワシはあのお月さんの使者や。こうやって、年に一回、仲秋の名月の日だけあっこから降りて来るんや。」

「お月さんの使者だあ?あの月のか?」
 天上の月を指差しながら、乱馬は問いかけた。

「せや…。正確には月の女神様に仕えてるんやけどな。」
「月の女神ねえ…。かぐや姫とかセーラー戦士とか言うんじゃねーだろーな?」
 と乱馬は問いかけた。
「アホ抜かせっ!そんな想像上の女神さまとはちゃうわっ!」
「じゃあ、その女神様の名前って?」
「…名前は内緒や…。」
「はん?名無しの権兵衛か?」
「ドあほっ!罰当たるでっ!…ま、いろいろ事情があって、人間には口にしてはあかんことになっとんのじゃ!とにかく、月の女神様のお使いで、十五夜になったら、ワシらウサギの近習(きんじゅう=間近で使える者)は地上へ降りて来るのが常になっとんねんっ!」
 ウサギは怒鳴った。

「…まあいい…。百歩譲って、「月の女神様(仮)」(つきのめがみさま・カッコかり)が実際に居たとして…。おめーは何用があって、天道家の庭に入り込んだんだ?」

「ほう…ここの家主は天道さん、っつーんか…。そら幸先ええやんけ。天の道…天道。供物を享受してもらうのに、ほんま、丁度ええわ。うん…ワシ、なかなかセンスあるやんけ。」
 とウサギはピョンと飛び跳ねた。

「こら、ちゃんと質問に答えやがれっ!」
 乱馬は怒鳴った。

「せやから、月の女神様の代わりに、十五夜のお供え物を享受しに来たっつーとるやろ?頭悪いんか?おのれは…。」
 ウサギは乱馬をチラっと見た。

「つまり…十五夜のお供え物を盗みに来たのか?」
 ブスッとして乱馬はそれに問いかけた。
「盗みに来たんと違(ちご)て、貰いに来たゆーとるやろっ!ボケッ!」
 今度は後頭部に蹴りが入った。
「盗りに来たも貰いに来たも、勝手に持って行くなら泥棒と同義になるだろーがっ!」
 頭をさすりながら、ジロリと乱馬はウサギを睨みかえした。

「ほんまは貧乏神とか座敷わらしとか福の神とかこの家に棲みついてる精霊に立ちあって貰うのがええんやけど…。この家の精霊は今、留守してるみたいやな…。」

「こらっ!俺の問いかけは無視かよっ!」
 乱馬が怒鳴る。

「同じことばっかり説明すんのもうんざりやねん。ちっと黙っとれっ!」
 今度はポカリと前足で乱馬を小突いた。
 これ以上、ウサギに小馬鹿にされるのも面倒だと、乱馬はそのまま押し黙り、じっとウサギを見詰めた。何か不穏な動きを見せたら、今度こそ、パンチを決めてやると、グッと闘気を身体に廻らせることは忘れなかった。

「ここの家の精霊…今は長期休暇でバカンスに行ってるみたいやな…。」
 ウサギは素っ頓狂な事を口にした。

「あん?精霊がバカンスだあ?」
 思わず、茶々を入れてしまった。

「ああ…今年の夏は暑かったから、ちょっと早めに休暇貰って、出掛けたらしいで。ま、力つけるために、伊勢とか出雲とかパワースポット廻りに行ったんやろうけどな…。精霊は神様と違うから、バカンスは十月って決まってる訳でもあらへんからな。」
「はあ?神様ってーのは、十月にバカンスとるのか?」
「そやで…。それも出雲へ繰り出すって決まってるんやけどな…。」
「十月に出雲?神様がバカンスで?」
「ああ。だから、神無月って言うやろ?出雲では神有月って言うんやどっ!覚えとけっ!」
「し、知るか、んなこと。…ってか、神様って十月に休暇で休暇で行くのか?…初耳だぜ。」
「ただの休暇やないど…。一応、サミットも開いとるで。」
「サミット?」
「ああ…いろいろ決めごとするんや。人間の婚姻なんかも話し合うんやで。そんで、一緒に休暇も取る。」
「…何か、訳わかんなくなってきたな…。」
 ウサギの話に耳を傾けながら、乱馬は目を白黒させた。

「ホンマは、この家の精霊に立ちあって貰わんとあかんのやけど…留守やったらしゃーないな…。それに…丁度良い具合に、ワシが見える人間もいることやから…。決めた、今年はここにしようっ!」
 ニッと笑ってウサギは乱馬を見詰めた。

 思わず、冷たい物が乱馬の背中を流れて行く。いわゆる、冷や汗という物だ。
 何か、変な物と関わってしまった…と、ゴクンと唾を飲み込む。
 断ろうとした乱馬を察したのか、ウサギが先手を打って来た。

「あ…先に言っとくけど、断ったら、この家、衰退するで。」
 と脅しを入れて来たのだ。

「衰退?」

「ああ。せや。月の使いを断ったら、大挙として貧乏神が押し寄せて、住み着いてまうど…。この家、広いから、一人や二人ちゃうど…。少なく見積もっても二ケタは覚悟してもらわんとあかんからな。それでもええのかな?」
 にこっとえげつない程、にこやかな微笑みを乱馬へと手向ける。

「…別に俺は天道家の人間じゃねーし…。」

「ほう、居候には何の災厄が降りかからんと思とるのか?せやったら、そういう考えは捨てなあかんど…。確実に兄ちゃんにも禍は降りかかるど…。」
「もう、充分、禍なら降りかかってっけどよ…。じゃねーと、この体質は…。」
「甘いっ!甘いでぇ…。もっと災難降りかかったら、それ以上のこと起こるど…。」

「わかったよ…。立ちあってやらあ…。俺もこの家と全く関係ねえって訳でもないし…。」

 こういう変な手合いに捕まったが最後、このままではどうにもなるまい。経験上、そんなことも身に浸みていた乱馬は、つい、承諾してしまった。



 つづく




一之瀬的戯言
軽い話です。後編はもっと軽い…。

 


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