夫婦喧嘩は犬も食わない



 夫婦喧嘩は犬も食わない。

 言い得て妙な諺だと思う。


 年の瀬迫る国民の祝日。十二月中旬。
 その辺りは何処の家庭でも「年賀状」作りの佳境を迎える。 時節はクリスマスイブ前日。恋人たちの一大イベントの日であるが、家庭を持ってしまった身の上ともなると、少し状況は変わるかもしれない。
 そう、十二月二十四日は、クリスマスイブであると同時に、「年賀状の元旦配布締め日」でもあるのだ。
 年内どのくらいまでに投函すれば、年賀状は元旦配布されるのか。「ほぼ確実ライン」の締め切りが、クリスマスイブとされて久しい。
 この日までに投函すると、日本列島津々浦々、元旦に届けられるという。これを過ぎると、日ごと、遠方の地域から元旦配布は絶望的となっていくのである。元旦に配達されないと一月二日は郵便配達はないから、一月三日以降の配達となる。
 学生時代なら、「遅くなってゴメンネ。」も効くが、社会へ出て、なおかつ家庭を持ってしまうとそう言うわけにも行くまい。
 それが、新婚で、初めて夫婦二人の連名で出す賀状となると、もっと深刻だろう。

「ああん!もう…。本当にドジなんだからあっ!」
「うっせえっ!俺はこういう作業は苦手なんだよっ!」
「せっかくなびきお姉ちゃんが準備してくれたひな形、使わない手はないでしょうが…。今から百枚も手描きなんか出来ないんだからあっ!」
「ちょっと黙ってろ!今、やってっから。」


 朝から大騒動でパソコン画面と睨めっこ状態の彼。

「だから、ギリギリになってやんないでってあれほど言っておいたのに…。」
「今になってガタガタ言うなよっ!仕方がねえだろ?ずっと遠征やら試合やらで忙しくって、何もできなかったんだし。それに、こうなること予測できたから印刷屋に頼もうって俺は言ってたぜ。」
「だって…。写真現像の印刷って結構な値段するのよ!」
「おまえはなびきかっ!ったく…。はした金ケチるからこうなってるんだろ!」
「今のパソコンは性能がいいから、デジカメ繋いでさくさくと綺麗な印刷ができるってなびきお姉ちゃんも言ってたじゃない。プリンターで出力すれば、インク代だけで安上がりだって。」
「だからって、何も文明の利器に頼り切る必要もねえんじゃねえか?」
「今更文句言わないでよ。もう、締め切りは目前に迫ってるんだから。それに…。表書きはあたしがやっておいたんだから。つべこべ言わないで、とっとと、文面を印刷しちゃいましょうよ!」
「わかってるって…。さくさくできりゃあ苦労なんかしねえんだ!たく、デスクワークならいざ知らず、俺は格闘家だぜ!」
「でも、原始人みたいなもんじゃん。はあ…。なびきお姉ちゃんが居てくれたら…。」
「んなもん、居たら居たで手数料ぶんだくられるのがオチだろ?そうなったら印刷屋に頼んだ方が良いってことになるだろうし。」
「あーあ、もっと早くからやっておけば良かったな。」

 とまあ、結果的にはこのような感じになるのである。
 これもまた、年末の風景。
 それでも、マニュアル本片手に、やっとこどっとこ、慣れない作業をこなしながらも、印刷に入る。文明の利器は賢い物で、使い手が良ければ言うことは訊くが、ズブの初心者だと、途端、ぐずりだしてしまうものだ。対処方法が殆どわからないから始末が悪い。
 あかねとて、社会人経験があるから、或る程度の知識は持っていたが、会社という組織の中には、ちゃんと設定やら企画やらをこなす分野の人が居てのことだから、一からとなると勝手が違ってくる。
 ふたりああでもないこうでもないと言ううちに、だんだん苛々も積もってくる物だ。
 溜め込んだ苛々は或る時点で臨界点を越え、一気に爆発する。これもまた道理であろう。

「あれ…。変な色具合になってきたぜ!」
 焦った声を上げる乱馬。
「インクが切れたのよ。特定の色から切れるから、変な発色になってるのよ。」
「なるほど…。」
「本当にあんたってこういうの弱いのね。」
「おめえなあ…。人が散々苦労してるのに、その蔑(さげす)んだ物の言い方。」
「そんなつもりはさらさらないわよっ!」
「してるさ。ったく…。貴重な休日を使って仕方ねえからやってやってるっつーのによ。」
「そう言う言い方ないでしょう?年賀状は大切な一年の始まりの挨拶状なんだから。それに、あたしたち結婚して初めて送るのよ!年賀状。」
「たく、可愛くねえなあ!相変わらずっ!」
「何よっ!」
「やるか?」
「そんな暇ないわよっ!!」

 だんだんテンションは上がっていく。

「あーっ!もうやめだやめだっ!こんな作業。」
「そうやっていっつも面倒なことはあたしに押し付けるんだから、乱馬は。できないって投げ出すわけにも行かないでしょうが。この場合、インク換えればいいだけなんだし。」
「って…おまえできるのかよ。」
「この機械じゃやったことないわよっ!」
「そんなの自慢にならねえだろが。偉そうに言える立場かよ。…。」
「あーん!もう良いわよ、あたしが続きやるから。今日中に仕上げないと元旦に届かないし!」
「おーおー。そうしろ、あと数十枚で終わるんだから!」

 どうやら乱馬は玉砕したらしい。

 二人は極悪ムード。
 許婚時代と違って、今は夫婦関係を結んでいる。
 「喧嘩」は別の意味を帯びてくるのである。夫婦の危機と言えるかもしれない。
 元々、不器用な二人のこと。
 一度喧嘩となると、独身時代よりも長く尾を引いた。
 乱馬はふいっと部屋を出て行ってしまった。
 でも、年賀状は何とか仕上げないといけない。


「あんたたち、喧嘩してるの?さっき、乱馬君がむすっとした表情で出かけて行ったわよ。…ったく、まだ新婚だというのに、原因は何なの?」
 夕刻、久々に、天道家に顔を出したなびきが妹をちらっと見た。すぐ上の姉は比較的近くに居を構え、独立して暮らしているが、時々実家へ帰ってくる。まだ、天道家に彼女の部屋も健在だ。
「何だっていいわよ。本当、あいつったら頑固者なんだから。」
「頑固者はあんたも同じじゃないの…。まあ、夫婦喧嘩は犬も食わないから、あたしは口を挟まないけどさあ…。結婚しちゃったんだから、大人しく、あんたも乱馬君を立ててあげなさいよ。彼は居候じゃなくってこの道場の主となったんだから。」
 あかねは乱馬の姓である「早乙女」を名乗っていたが、この天道道場は無差別格闘道場として乱馬が今や背負って立っている。弟子たちもそこそこ出入りしている。見違えるように賑やか賑やな道場になっている。
「たく、お父さんだって、出先から帰って来て、あんたたちが険悪ムードだからって、気にしてまた何処かへ出て行ったわよ。多分、かすみお姉ちゃんのところだと思うけど…。」
 かすみは東風先生のところに降嫁していた。
 早乙女玄馬、のどか夫妻は今は天道家を出て、元の鞘に戻って、そう遠くないところに居を構えていた。これまた、時々父親たちは行き来しているから、もしかすると早雲はかすみのところではなく、こっちへ避難を決め込んでいるのかもしれないが。

「ま、あたしも今日は明日のパーティーに着る洋服を取りに立ち寄っただけだから…。」
「パーティー?」
「ええ…。うふふ、うちの企画事務所のパーティーよ。あ、大丈夫、乱馬君は外してあるから。せいぜい、新婚家庭のイブを楽しみなさいな。…って喧嘩してるなら無理かしらねえ…。」
 なびきはさっさと自分の用事を済ませると、天道家を後にした。広い母屋に残ったのはあかね一人。

「さて…。年賀状、たったか仕上げよう。」
 静かになった家の中で、あかねはそう一人で気合を入れると、再びプリンターと格闘を始めた。
 延々と時間の経つのも忘れて、印刷作業を繰り返す。その間に、ペンを取って、一枚一枚、簡単な近況を書き入れていく。
 親戚縁者、恩師、友人に先輩後輩などなど。
 最後の一枚に印刷をして、余白に簡単な近況報告を入れ終わるとほうっとあかねは息を吐いた。
 肩はバリバリに凝っている。

「何とか間に合ったわ…。これで明日投函すれば…。」
 ふと見上げるカレンダー。明日はクリスマスイブ。
「そっか…もう、クリスマスかあ…。」
 機械の電源を落として、ふうっと溜息を吐く。家の中は妙に静かだ。作業が一通り終わってしまうと、プリンターの音も聞こえなくなり、急に寂しい気持ちがこみ上げてきた。
 人っ子一人居ない家。
 普段居る父、早雲の気配もないし、勿論、乱馬も居ないようだ。なびきが来がけに言っていたように、とっととどこかへ呑みにでもでかけているのだろうか。

「どこほっつき歩いてるのかしらねえ…。」

 立ってご飯の用意でもしようかと思ったが、力が入らない。年賀状の印刷に疲れたというより、乱馬が居ない静けさに困惑しきったようだ。
 いつの間にか外は日暮れて、真っ暗になっていた。

 はああっとまた長い溜息を吐く。


「…おめえの溜息は色気がねえな。」

 背後で声がした。

「何よっ!まだ喧嘩ふっかけてくる気?」

「たく…本当におめえは勝気なんだから。」
 ひょいっと差し出されたのはビニールの風呂敷包みが二つ。一つは良い匂いが漂ってくる。もう一つは一見してケーキとわかる装飾箱だ。
「何よ…これ。」
「夕飯とデザートだ。どうせ、おめえ、ずっと年賀状と格闘して何も用意してねえだろ?だから、買ってきた。俺だって腹は減ってるんだからな。」
「でも…これって…。」
「クリスマスチキン。」
「イブは明日よ?」
「いいじゃねえか!たく、一言も二言も多いな。今日はイブの前日休暇だろ?今日、クリスマスパーティーやってる家だって数多あるに決まってらあ!それに…。人の仲直りの御調物には素直に喜べ。」
「何よ、それっ!」
 と力んだ拍子に

「ぐうううっ!」

 特大の音を出してお腹が鳴った。
 あかねは真っ赤な顔をして俯いた。

「はっはっは、腹は正直だなあ。喧嘩は一時休戦だ。腹が減ってたら、喧嘩なんかできねえからな。…まだやりたかったら、食った後で、とことん相手してやるぜ。」
 ブンブンと腕を振り回す。

「いいわよ、わかったわよっ!休戦してあげるわよ!」

 事実上、休戦ではなく停戦へと持ち込まれる。
 ご馳走を目の前にすると、途端、やる気は失せる。戦意は既に消失している。
 いつの間にか、ワインなんかも登場してきて、結局は何で喧嘩していたのか、いや、喧嘩していた事実すら忘却の彼方へ。

「一日早いけど…。クリスマスケーキ。」
 赤い箱の中には、それように作られたデコレーションケーキ。可愛いサンタさんの人形や柊の飾り物、それにチョコレートの家まである。
「食べるの勿体無いわね。」
「って言いながらしっかりケーキナイフー持ってきてるじゃないか。」
「だって、人の御調物には素直に喜べって言ったの乱馬でしょう?ミルクティーだって入れてあげたんだから文句は言わない。」
「へいへい…。って、こらっ!おまえっ!」


 あんぐり口を開ける乱馬。その目の前、あかねが不器用に切ったケーキが皿の上をごろんと転げて倒れてしまった。

「たくう…。そういうところは全然昔と変わらねえな…。その不細工なケーキの切り方…。」
「だって、ケーキ切るのって、難しいんだよ。そんなこと言うけど…。」
 また雲行きが妖しくなった…と、思ったら乱馬が思いっきりプッと噴き出した。

「良いんだよ…。あかねのそういう不器用さ…ひっくるめて全部好きなんだから…。勝気さも含めて…。だから…。そのままでいいさ。」
「可愛くなくても?」
「バーカ…。おめえは可愛いよ。可愛げがねえところもひっくるめてな。」
 耳元で囁くと、乱馬は軽く口付けた。

 一瞬、時が止る。

「さて…。後はケーキを食ってから…。」
「何が?」
「本格的な仲直りの印…。」
 にこっと微笑みかける乱馬。
「もう乱馬ったら…。」
「だって…。今夜は久々に俺たち二人きりだぜ…。思う存分。」
 手を丸めて招き猫になった乱馬。
「この助平っ!」
「今夜は寝かせてやんねえよ。」

 どこかで犬が遠吠えしているのが聞こえた。
 ほら、結局は仲直り。それも、前にも増して睦ましげに、ケーキを頬張る二人。

 夫婦喧嘩は犬も食わない。
 だから、存分に召し上がれ。甘い甘い愛のケーキを。



 完





 一部自爆ネタ…。毎度すんません(滝汗)


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