◇五月の風のようなあなたに~乱馬VER
町中を艶やかに彩っていた桜が散り染めて、そろそろ、青空が眩く感じ始める季節。天道家の庭木も、一斉に芽吹いた。
連休に入って間もない朝。もう少し寝たいという思いとは裏腹に、俺の許婚は朝から元気だ。
「乱馬!早く起きて!」
と襖を開けて一言、投げられる。
「ああ…うう…。」
訳の分からない文言を吐きつけて、寝がえりを打つ。もちろん、目は閉じて枕を抱えこんだまま。
「ほら、もー、起きてって!」
業を煮やした声が飛んでくる。
もちろん、それに対しても無視を決め込む。まだ眠いんだ!と無言の抵抗。
「起きなさいったら!」
奴さん、たまらず、俺の蒲団を剥ごうと手を伸ばして来た。
待っていましたと言わんばかりに、その手首を掴んで、くいっと引っ張った。
「きゃあ!」
不意につかまれて驚いたあかねが、素っ頓狂な声を張り上げて、バランスを崩す。
トスン!
軽い落下音が傍で弾けた。
だが、俺は掴んだ手を決して離してはやらない。急に手を引かれて、蒲団の上へと転げ込んだあかね。手はまだ俺が引っ張っているから、顔を布団に押し付けられたままで、ジタバタ。俺の胸元に彼女の吐息がかかってくる。くすぐったくなるくらい、良い気持ち。
すると、息ができず苦しくなったあかねが、もう片方の掴まれていない左手をブンブン振り回し始めた。
強行突破をはかろうとする、乱暴な左手。こいつも掴んでやろうかと思案していたら、ブチッ!と耳元で音が弾けた。
「痛ってー!何しやがる!」
思わず手を離して、叫んじまった。
この、乱暴女。苦し紛れに、俺のおさげを結わえていた紐を思い切り引っ張りやがったのだ。
「それはこっちのセリフよ!何しようとしてたのよ!あんたはぁっ!」
顔を真っ赤にした山の神が、息を切らせて睨みつけて来やがる。
「たく!髪が痛いだろーが!あー、ほら、何本か、抜けてるじゃねーか!」
思わず、苦言を吐きつけた。引っ張り抜かれた紐に、何本かの長い毛がくっついていた。十本ほど抜けたんじゃねーかな。
「親父みてーに、髪が抜け散らかったらどーしてくれるんでー!」
「あたしだって、息が苦しかったんだから!おあい子よ!」
蒲団に顔をこすりつけられて、本当に息が苦しかったのだろう。少し、息が上がっている。ぺたんと俺の体の上に馬乗りに座っている。道着姿のあかね。もう、道着を着こんでやがんのか、可愛くねえ。
…起こしに来るなら、色っぽい恰好…いや、普段着で来いよ。何で、道着なんだよ!色気ねーぞ、こらっ!
そう叫びたいのをグッと胸に飲み込んで、あかねに声をかけた。
「わかったよ。起きるから、そこ、どけ!」
このまま、起き上がったら、抱きつきたくなるほど近いだろ?…そんな言葉を差し向けた瞳に込める。
「あ…。」
と、あかねも、俺の言わんことを理解したのか、小さく声をあげて、パッと横に飛び退いた。
「たく…。せっかくの休みなんだぜ…。もうちょっと寝かせろよ。」
少し膨れてみせながら、よっこらせと、蒲団から上半身を起こした。
ふわああっ、わざと大きなあくびをしてみせながら、思いっきり伸びあがる。パキパキっと身体の関節を軽く鳴らして、深呼吸。ふうっと長い息を溜息のように吐き出し、また、大きく息を吸う。繰り返すこと数回。
やっと、身体も頭も目覚める。
髪の毛は、あかねのおかげで、ぼっさぼさだ。ポニーテイルのように、頭側の紐は残っているモノの、おさげは完全にほどけてしまっていた。
くいくいくいっと指で引っ張りながら、残った紐を手で解く。バサバサッと髪の毛が背中に広がり落ちる。手櫛で掻き上げていたら、「梳いてあげようか?」と言われた。
「いい、おめーがやると、時間がかかって仕方がねー。それに、道場でやり合うなら、丁寧にやらなくても、いいからよー。」
慣れた手つきで、グッと髪を結いあげる。竜のヒゲ騒動よりこちら、髪の毛は解かないで寝ている。おさげのまま、四六時中居るわけだが、当然のことながら、一日に何度かは結い直している。
「案外、乱馬の髪の毛って、細くて柔らかいんだね。」
俺の手突きを見ながら、そんなことを言うあかね。
「まーな。一応、おふくろ似だからな。」
ものの数分でおさげを結う。
「それより、着替えるから道場で待っとけよ。」
と声をかけた。
「それとも何か?俺の均整の取れた上半身、見たいのかな?あかねちゃんは…。」
少し含み笑いしながら、あかねを見返す。
「そんな訳、ないわよ!さっさと着替えて、道場に来てね!先に行ってるから!」
慌てて、俺の部屋から逃走を図るあかね。
明らか、動揺してやがる。
本当は見たいんじゃねーのかな…俺の上半身…。
とか、思いながら、蒲団をあげにかかる。押入れは無いから、壁の方へ寄せて畳んでおくだけだ。後で瓦屋根に干しておくかな。
窓を開くと、さわやかな風が、渡ってくる。ここは天道家の二階。窓の外には、住宅街が色がる。青空は澄んでいて、上天気だ。
さてと、あんまり待たせたら、へそを曲げるよな…。朝練は彼女との約束だから、仕方ねーか…。
チャイナ服ではなく、道着へと手を伸ばす。
この連休中の朝練では、あかねと道場で真剣に相手してやる約束になっていた。
気技の練習に付き合って欲しいと、ごり押しされてしまったのだ。
彼女は、最近、気技を習得しようと夢中になっている。今月末、無差別格闘の大会がある。そこで、気技をぶちかまそうと、企みを持っているらしい。
大人の男でも、気技を打てる奴はそうざらにいない。多分、女子は皆無に近いだろう。公式戦で使うことは、禁じられていないものの、危険を伴うのは確かだ。気弾が観客席にぶっ飛んだら怪我人を出しかねないし、下手に炸裂させたら、施設にまで被害が及ぶだろう。それを使いたいと思っているのは、俺から見れば危険極まりない行為だ。
俺でも、限られた試合でしか使わねえ。相手が強敵な場合や早く試合を終わらせたい時だけに使うくらいだ。素人のあかねが使っていいものではない。
それを、制するためにも、相手してやった方がいいと、判断した。やめとけと、口で言って、どうにかなる奴でもねーし、ここは身体でわからせないと、諦めねーのは、確かだ。
ったく…面倒くせー!
何が、彼女を危険な気技に向かわせているのか…。
それは、そろそろ、本気で将来のことを見据えたい時期にきているからに違いなあるまい。
この春で、俺たちもは、高校三年生。
そう、十八歳の大きな分岐点に来ている。
生徒という身分に甘んじていられるのも、あとわずかだ。早い奴は、来春にも、社会の荒波へ飛び出す。よしんば、大学に進学しても、身分は、生徒から学生へと転じる。一方的に教えられる「生徒」という存在から、自主的に学ぶ「学生」という存在に。
進学を希望しているあかねは、ここらへんで、ちゃんとした格闘技のスタンスを固めたいのだろう。そんな、あかねの目論見が透けて見えてくるのだ。
生真面目なあいつのことだ。気技を会得出来るか否かで、進学先を決めようとしているのが透けて見える。体育で進学するか…はたまた、学問で入学するか。相当、迷っているようだ。
とにかくだ。「たまには、本気であたしの相手をしてよ。」と、懇願された。円らな瞳を目いっぱい開いて、俺に迫るあかね。これくらい素直に、キスをねだってくれれば、一発OKするのに…などと、不埒な考えが過ぎるほど、純粋な瞳をしていた。
ストレートに云(うん)と言うのもバツが悪いから、連休中の宿題の手伝いをしてもらうということで、ケリをつけた俺。
だんだん教科は難しくなっているし、一人じゃやる気も起こらねえし。だからと言ってやらねー訳にもいかねーし。留年はもっといやだし…。みたいな、お為ごかしな言葉で誤魔化す。
「いいわよ、それくらい。つきあってあげるわ。」
あかねもまた、ごかし顔で受け合ったような気がする。
道着に着替えると、洗面所に入って、水道栓をひねる。
自ら水をかぶって、女に変化して見せた。
相手してやる以上、女化していた方が、良かろう。
「ほれ、わざわざ女になってやったんだから、中途半端は許さねーぞぉ。」
と、道場へ足を踏み入れるなり、不機嫌なふりをして一言。
「わかってるわよ!恩着せがましく言わないでよ!」
ほら、すぐ、ムキになりやがる。短気なところは相変わらずだ。
「女になっても、手は抜かねーぞ!」
「誰も抜いてなんて言ってないわよ!」
「ごちゃごちゃ言ってねーで、かかってこい!」
「じゃあ、遠慮なく。行くわよ!」
俺のあからさまな挑発に乗って、彼女が床を蹴った。
「でやあああっ!」
荒々しい奴だな、相変わらず。真っすぐ過ぎて、やる気が削げそうだぜ。
「あらよっと!」
俺は、あいつの頭にトンと手をついて、空を舞う。
「猪突猛進過ぎるぜ!」
トンとつま先で軽く降り立って、白い歯を見せるてやる。
「もー、真面目にやんなさいよ!」
振り向きざまに一言投げつけて来やががった。頭を軽く超えられて、悔し気な顔。
「俺はいつも真面目だぜ!」
今度はこっちから間合いに飛び込む。
と、待ってましたとばかりに、拳を振り上げてきた。
わかり易い奴だな。
「攻撃の型が一辺倒すぎるぜっと!」
シャッと頭を下にかがめて、そいつをかわす。
「じゃあ、これはどう?」
と、今度はボールを蹴るように左足が強襲してくる。
俺の頭をサッカーボールだと思ってやがんのか?こいつは…。
床に手を突いて、横に飛んで避ける。
女に変化して、身体が軽くなっているから、跳躍だって半端ねーぜ。
きれいな放物線を描いて、空を飛ぶ。
「やー!」
今度は、俺の落下点を見定めて、まっすぐな突き手が繰り出されて来た。
「っと!あぶねえ!」
突き出されあかねの右腕に軽くタッチすると、また頭上を越えて見せる。後ろへ回りこんだところを強襲するつもりだったのだろう。ダンと床に足を踏み込む音が、すぐ向こう側で弾けた。
「たーっ!」
思った通り、右脚を軸にして踏ん張り、左脚で後ろ蹴りを仕掛けてきた。
彼女の蹴りの威力は半端ねえ。あんなの食らったら、あばらの一本も折れちまう。もちろん、食らう気はねえ。
「よっと!」
器用に交わしてまた、横に飛ぶ。
「とーっ!」
今度は振り上げた左足を床につくと、身体全体で真っすぐに飛び込んできやがった。
「でやーっ!」
勢いよく差し出された右手が俺の顔面をねらい打ってくる。
「おっと!」
俺はすっと、皮一つでそれを避けて見せる。
と、したり顔が横で弾けた。
…こいつ、まさか、気技を…。
そう思って、咄嗟に気を体内から弾き出した俺。
ボスンと空音が傍で弾けた。
俺の放った気とあかねの放った気が、触れて炸裂した音だった。
もちろん、音だけでは済まされない、共に放った気砲が触れたのだから、それ相応の炸裂烈風があって然りだ。
ゴオオっと音をたてて、烈風が吹き抜けていく。
弾けた風圧をまともに食らうとは予測だにしていなかったのであろう。踏ん張り切れず、あかねの身体がよろめいた。そして、制御できなくなった彼女の身体が、勢いよく、踏ん張った俺めがけて覆いかぶさってくる。
「きゃっ!」
「わっ!」
二人一緒に総崩れ。
「くっ!」
苦し紛れに後ろへ一発。これで何とか激突は免れたはずだ。軽く打ったから、床板は壊れはしまい。
ズンと鈍い音がして、道場の板の上に着地する。あかねが上で、俺が下。
あかねの柔らかな髪が、ふわっと俺の頬に触れた。いい匂いのする髪に跳ね上がった俺の心臓。
もちろん、髪だけじゃねえ。膨らみを帯びた胸同志が、ぶつかってプルンと弾けた。
俺ががっしりと受け止めて、あかねが上から絡みつく。女同士で倒れて絡まる。見ようによっては、危ない構図。
いや、正直、女に変化していてよかったと思うぜ。男の身体だったら、明らかに、下半身がいかれちまっているだろう。股間が硬くなってみろ。それが知れたら、絶対、変態扱いされるに決まっている。
覆いかぶさったあかねの身体は、柔らかくていい匂いがした。
倒れ際に思わず差し出した両腕。受け身をとりながら、ふんわりとあかねを抱きしめていた。ごく自然に…下心などなく…不埒な気持ちは一切無かったのだが…。
結果的には、そいつがいけなかった。
朝起きぬけの蒲団案件の再来だった。
違うのは、俺が女化していたことと、手首を掴まず両腕で抱きしめたことと、蒲団という衝立が無かったこと。この三つ。
つまり、この三点の相違により、あかねの顔が、俺の胸の谷間に挟まってしまったのだった。
しかも、両腕で俺が抱きしめていたことにより、俺の胸の谷間で身動きできんじあかねが居た。俺の豊胸で圧迫されて呼吸が苦しくなったようだった…。
「く…くるしい…。」
そんな言葉が上から聞こえてきた。そして、足掻き苦しむ彼女の手は、容赦なく、俺の髪の毛をひっつかんだ。
ブチッ!
またぞろ、そんな音が耳元で弾けたようにも思う。
「痛ってーっ!」
頭皮に衝撃が走り、思わず、抱きしめていた手を離す。
この痛。、髪を結わえていた紐と共に、何本かの髪の毛が犠牲になったに違いない。
「もー乱馬のバカーっ!」
すぐ耳元で、あかねの怒声が響き渡った。
俺に覆いかぶさりながら、真っ赤な顔で、こちらを睨んでやがる。いや、それだけで、事が済む訳がなく…。
やばいと思って、咄嗟に動いちまった。結果的にはこれが事態を悪化させちまった。
バチコーン!
ものすごい音と共に、左耳下辺りに、衝撃が走った。
「こらぁ!何しやがるーっ!」
思わす、叫んじまった。避けなければ頬っぺたに入ってた筈の彼女の平手打ちが、どういう訳か、耳の下辺り…つまり首根っこで炸裂しちまったのだ。まだ、ほっぺに食らっちまった方が、いいくらかマシだったのではないか…という痛さだ。
当然のことながら、床から跳ね起きた。あかねが上体に乗っているにもかかわらずだ。反射的に身体が反応しちまったのだった。
あまりに勢いよく置きあがったから、再び彼女が俺の体の上で、バランスを崩した訳で。
「きゃああ!」
「わあああっ!」
ズン…。
別の方向にバランスを崩して、二人して、横倒し。また、倒れ際に、あかねを無意識に抱きとめていた。
柔らかいあかねの身体。それを女化したまま、抱きしめる光景再び。
「何やっているのかね?朝っぱらから…。」
『仲良きことはいいが…危ないぞ、女同士で』
看板を掲げながら、パフォパフォ言う、パンダ声が響く。朝の光と共に、道場の入口に、中年オヤジとパンダがじっとこちらを見て、笑いながら立って居た。
「うるせー!勝負してたんだ!介入してくるな!バカ親父!」
思わず、叫んじまった俺。
当然、俺もあかねも、顔を真っ赤に熟れさせていたことに違いなく…。別にじゃれ合っていた訳じゃねえが、恥ずかしさマックスだった。
「たく…。朝っぱらから、何でこんな目に合わされなきゃ、なんねーんだよ…。」
やかん片手に、縁側の向こうで、湯をひっかぶって、恨みつらみの籠った瞳を手向ける。
「だって、しょうがないじゃない…。」
縁側に座ったまま、濡れそぼった俺に、スポーツタオルを差し出してくる。それを、右手で受け取って、頭からごしごしと湯にぬれた身体をごしごしと拭きとる。男の身体に戻って、筋肉が喜んでいるようにも思う。
「ちゃんと、髪の毛、梳いてあげるわ。」
と、ブラシを差し出しながら、苦笑いを浮かべている。
「じゃ、遠慮なく。」
俺は上半身をむき出しにしたまま、彼女の脇へと座り込んだ。
まだ、湯水がしたたり落ちているから、上着は着ていない。
あかねはブラシを持つと、勢いよく、髪の毛を梳かし始めた。
「っと!もっと、丁寧にやりやがれ!」
ブラシを思い切り引っ張られ、思わず苦言が漏れる。
…その剛腕で、俺の髪の毛を引っこ抜く気じゃ、ねーだろーな…この不器用娘め!…
そう言いたくなるのをグッと堪えた。
「痛かった?」
「ああ!」
ブスッと口をへの字に噛む。
「ここも?」
と左耳下へ触れてきた、彼女の左手。
「痛ってー!」
さっき、彼女が思い切り引っ叩いてくれたところだ。
「内出血しちゃったね…。」
「何がしちゃっただ!おめーがつけたんじゃねーか。」
あまりの痛さに、涙目になりながら、見上げる。
「もーいい。自分でやる。」
彼女の右手から、ブラシをかっさらうと、ガシガシと髪の毛を梳かして行く。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。」
そんな言葉が弾けた。明らか、少し、瞳がうるっときているような気もしたが、ここで、飲まれたら負けだ。ちゃんと言いたいことは告げてやらなければ、こいつのためにもならねーし。
勇気を少し振り絞る。
「あのよー。」
俺は髪の毛を梳かしながらあかねへと声をかけた。
「何?」
「おめーさー…やっぱり、気技はまだ早いぜ。」
ビクッとあかねの身体が一瞬、固まった気がする。
「いや、その…練習するのはいいんだ。でも、目前の公式戦で使うには早いんでねーか。」
チラッと彼女の動きをけん制しながら、言葉を投げた。
「やっぱり、そーかなあ…。」
小さな溜息と共に漏れた言葉。
「ああ。危なっかしすぎるぜ。」
トンとブラシを脇に置いて、おさげを結いながら、それに答えた。
「使いたいなら、もうちょっと基本を修行しねーとな…。」
「うん…。」
やけに素直じゃねーか。もっと食ってかかってこねーと…。あんまり、ガツガツ言えないじゃねーか。
そんなことを思いつつも、言葉を続ける。
「付け焼き刃の気技は危険だ…。百も承知だろ?」
「うん…。」
「ひとつだけ、アドバイスしておいてやるよ。」
「アドバイス?」
「ああ…。気技をきちんと会得したいなら、引く呼吸もちゃんと利かさなきゃダメだ。」
「引く呼吸?」
「ああ…。おめーのは、押す呼吸ばかりが目立ってる。」
「押す呼吸と引く呼吸?」
「ああ…。吐き出すばかりが呼吸じゃねえだろ?引く呼吸…つまり、吸う呼吸だよ。相手の動きを見極めて、避ける呼吸とでもいうのかな…。あえて言わせてもらうけど、おめーには、押す呼吸は溢れているが、引く呼吸…それが少ねえ…。」
「なるほど、あたしには、引くって概念が元々、薄いかもしれないわ。」
「薄すぎるな。引く呼吸…それが上手く作用すれば、気技も容易になるんじゃねーかな。猪突猛進過ぎるのは、おめーの長所でもあり、短所だ。ま、そこのところの練習に、付き合ってやるよ。」
「ほんとに?つきあってくれるの?」
「ああ…男に二言はねえよ。」
沈みかけていたあかねの顔が、ぱあっと明るくなった。
やっぱり…こいつも、格闘バカだ。俺と同じ。喜怒哀楽もはっきりしてやがる…。
編み上げたおさげを持つと、傍に置いてあった、チャイナ上着へと手をのばした。知れた首の傷が、ちょっと痛んだが、平気な顔をして、羽織って見せた。
「押しと…引く…かあ。押しと引く…その呼吸を大切に修行しなおすわ。」
傍であかねが小さく囁いた。
そして、くいっと、俺のおさげを引いた。
え?
不意打ちを食らった俺、
次の瞬間…首元の傷あたりに、柔らかな唇が触れた。
あかねの舌先が、軽く傷を舐めたような気もする。
柔らかないい匂いの髪の毛がふわりと、頬に触れた。
時が止まった。吹いていたそよ風も…。
押すことも引くこともできずに、呼吸を飲み込んだ俺。
ほんの一瞬、凪いだ風。
「ありがとう…乱馬。」
耳元で囁かれた、擦れた声。
あかねが離れると、また、さわさわと梢を揺らせて吹き始めた。
掴まれていたおさげが、すとんと鎖骨の溝へ垂れ下がった。
持って居た留め具が、手から滑り落ち、はらりと肌蹴た、チャイナ服。
五月のそよ風のように、俺の心を揺らせて、吹き抜けていった愛しい人。
呆然自失となった、俺を縁側に残したまま。
トントンと足音が、遠ざかって行った。
完
2017年5月2日
一之瀬的戯言
耳元で、
そのままでそのままでー五月の風のようなあなた~
そのままでそのままで~あたしの傍に居て~
という大好きな歌(ちょっとだけ恋人)のサビが頭の中でリフレインしていたという。
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