◇五月の風のようなあなたに   〜あかねVER




「ねえ、乱馬。」
 あたしは、徐に、フェンスの上を歩く乱馬へ向かって、声をかけた。
「あん?」
 急に声をかけられて、不審に思った瞳が、あたしを見下ろしてくる。一体全体何だ?と言いたげに。
 川べりに植えられた並木は一斉に芽吹き、鮮やかな緑色を称えている。
 時はゴールデンウィークの狭間の平日。つまり、登校日。その帰り道、ゆったりと歩きながら帰宅する途中。
「あのさあ、連休中、ちょっとでいいから、修行につきあってくんないかなあ…。」
 少し上目遣いで、フェンスの上の彼を見つめる。
「修行?何の…。」
 と即座に投げられた。
「うん…。気技の練習相手をして欲しいんだ。一人だと、なかなか状況がつかめなくて、困ってるの。ねえっ!お願いっ!」
 媚びたの瞳で、懇願してみせる。こんな、見え透いた手に引っかかる乱馬ではないことは、百も承知。
「俺でなくても、親父たちが居るじゃねーか。」
 ほら来た。面倒臭がり屋の答え。
「お父さんたちって、気技を使わないじゃない。」
「じゃあ、じじいが居るじゃん。」
「ってあんたさー。おじいちゃんが真面目に修行つけてくれると思ってるの?それに、あのスケベ爺さんと修行して、無事だと思う訳?」
 じっと睨み上げる瞳。
「あ…それもそーか…。」
「そーかじゃないわよ!」
「ペチャパイのおまえでも、一応、女だしなあ…。じじいとの修行は、不味いか…。」
 その言に、つい、小石を投げてしまったわ。失礼ね!誰がペチャパイですって?
「痛ってーな!何しやがる。」

 石ころがパツンと腕に当たって、睨み返された。そのくらい、軽く避けなさいよ!何、当たってるのよ!それでも、無差別格闘流の使い手なの?
 そう心に念じて、「バーカ!」と一言投げる。
「たく、俺に頼むにしても、もっと真摯な態度ってーのがあるだろーが?かわいくねーな!」
 ほらほら、常套句が飛び出してきた。ということは、もうひと押しかな?
「いーよ!もう頼まないわ!その代わりゴールデンウィークの宿題は、手伝ってあげないからね!」
 わざと大声で吐き出して言い切る。チラッと見上げたフェンスの上から慌てて投げ下ろされて来た言葉。
「それは、困る!」
「え?何て?」
 わざと訊き返す。
「わーったよ!相手してやるよ。その代わり、宿題…。」
語尾は少し声が小さくなった。
「ちゃんと、相手してくれるなら、いーよ。解説付きで写させてあげる。」
 と微笑む。
「解説付き?」
「だって、多分、連休が明けたらテストがあるよ。理解してなきゃ不味いんじゃないの?」
「うーん…そーか…面倒だけど…そーだな。欠点とるのもやばいか…。」
 腕組みしながら歩いている。
「じゃ、約束よ。」
「ああ、その代わり、宿題頼むぜ!」

 契約成立。

 ほんと、単純なんだから。
 エサはゴールデンウイーク中に出された、主要教科の宿題。多分、休日明けにテストがあると思われるから、それなりちゃんと解いておかないと。高校三年生になって、どんどん教科内容のハードルが上がり始めている。
 そろそろ、本気で、一年後のことを考えなければいけない、ターニングポイントに差しかかかっているせいもある。
 すでに予備校へ通いだしている友人も居る。みんな、それぞれ、将来のことを真剣に考え始めている。

 それなのに…あたし…。

 決めているのは、進学するということだけ。正直なところ、己の行く道を迷い始めていた。
 体育会系の推薦進学に甘んじるか、それとも、一般入試を受けるか。
 風林館高校は、中堅どころ。進学が圧倒的だけれど、国公立から専門学校まで幅広い。校長があのいい加減な九能先生であるが、どういう訳か、スポーツ系の進学は、毎年、いくつか学内へと舞いこんでくる。格闘系の学生を求めてくるところも、案外多いのだ。
 特に強いクラブがある訳ではないが、金の卵は確かに居る。例えば、乱馬。実は、無差別格闘技の若手ホープとして、既に光り始めていた。乱馬ほど目立った存在ではないけれど、あたしも、一応女子部の筆頭に居る。故にか、チラチラと推薦入学の話が来ているという。

 けれど…。

 安易に進学してもいいのか、迷うのも事実。進路指導の先生は、推薦を受けるにしても、秋までまだ時間があるから、次の試合を真摯に闘って、結論を見出せばいいのではないかと、連休前の進路面接でアドバイスしてくれた。
 推薦を受けるにしても、武器が居る。格闘センスがプロ並みの乱馬ならともかく、あたしのレベルは、高校生女子として少しだけ抜きんでているだけだ。もし、推薦で体育系の大学を目指すなら、目玉になる力が欲しいもの。その目玉を「気技」にしてやろうと、目論んでいる訳。
 否、目論むというよりは、気技を自在に使えるようにならなければ、このまま、無差別格闘の道をまい進するのも、心許ない。それが正直なところ。同世代の気技を完全に扱いこなすのは、乱馬や良牙君くらいのものなのだろうけれど…。
 だから、真剣に「気技」と取り組み始めた。そして、やっと、小さいけれど、気技を会得したところ。ほとばしる気を掌に集め、それを軌道に乗せて放つ、初歩の初歩の気技を。それを、乱馬と組手して試してみたい。成功したら、次の試合で使ってみたい。

 そんな、あたしの下心を知る由もない乱馬。ポケットに手を突っ込んで、フェンスの上を器用に歩いている。
 いつも見下ろされているような気分。たまには、肩を並べて歩きたいのに…。恨めし気にチラッと彼と見ると、プイッと横を向かれてしまった。相変わらず、乙女心がわからない奴。可愛い女の子に変身できるというのに。
 
 ねえ、…卒業後…乱馬(あんた)は一体どうするつもりなの?
 進学するの?それとも、このままプロの世界へ飛び込むの?
 聞いてみたいけれど、聞くのも怖い。彼が天道家を出ていくことなど、今更考えられなくなっているから…。
 つかず離れず…それが今の現状。フェンスの上とその下と。肩を並べるには、まだ、遠い距離。
 あたしのことを、想っていてくれることは何となくわかってはいるものの、具体的な行動は未だ無に等しい。
 愛の言葉を囁き合うわけでもなければ、相変わらずの喧嘩三昧。それが、あたしたち二人の有り方だと、何となく気付いているものの…二人の関係をどう転がしたいのか…良くわからないあたしがここに居る。

 はああっとため息を漏らしたら。
「色気がねえ溜息だな…。」
 と、即座に返された。

 わかっています!あたしに、色気は期待しないで!

 と、川の向こう側に、珊璞が自転車で岡持ちを持って走り抜けて行くのが見えた。そのかごの中には、沐絲がアヒルと化して、ちょこんと乗っているのが見えた。あの二人も進展があるのか、無いのか…良くわからない。ただ、珊璞の乱馬への絡み方が、以前よりあっさりとしてきたようにも思うのは、気のせいかな。
「あいつら、楽しそうにしているなあ…。」
 ふとフェンスの上の乱馬からも、そんな言葉が漏れ聞こえた。
「乱馬には楽しそうに見えるの?」
 と投げて見たら、
「ああ。珊璞だって、あれだけ沐絲に思われているのは、悪い気がしねーと思うぜ。幼馴染なんだからよー。」
「じゃあ、幼馴染の右京にも、そんなことを思って居る訳?」
「アホ!んな訳ねーよ!何可愛くねえ、ヤキモチ妬いてんだよ!」
 と返された。
「なら、たまには、降りて来て、隣りを歩いてみてよ。」
「やだね!」
「どーして?」
「降りるの面倒臭え!」
 そう言って、駆け出した。

 どこまで本気なのよ。あたしのこと。

 そう問い質したいのをグッと堪えながら、遠ざかる背中を見送った。





 翌日、お天気は上々。夜明けもすっかり早くなっていて、さわやかな青空が広がっている。

 パジャマから、直に道着へと着替える。
 黒帯をギュッと締め、気合十分。あとは、乱馬を起こしに行くだけ。

「乱馬!早く起きて!」
 襖をガラッと開いて、声を投げる。

「ああ…うう…。」
 あたしの声に反応したとはいえ、素直に起き上がる節は無い。枕を抱えこんで、ゴロンと反対側へと寝返ってしまった。
「ほら、もー、起きてって!」
 さらに、語気を強めて呼んでみたが、無反応。
「起きなさいったら!」
 そう言って、お蒲団に掴みかかろうとしたら、いきなり手首をつかまれた。
「きゃあ!」
 あまりに不意な乱馬の行動に、あたしは身体のバランスを崩して、乱馬の上体の上に真っ逆さま。
 トスン!
 もしかして、これは、故意?そう思ってしまえるほど、乱馬は掴んだ手を離してくれない。一体全体、何なのよ!どういうつもりよあんたは!
 散々文句を言いたかったけれど、あたしの顔は、乱馬の蒲団に押し付けられたまま。しかも、蒲団の上からもわかる、分厚い胸板の上。押し付けられるように、沈んだまま。

 ああ!このままだと、息ができない!苦しい!

 危険を感じたあたしは、掴まれていない左手を振り回し始めた。こうなったら、意地でも手を離させてやらなきゃ!
 手あたり次第、手に当たる物へアタック開始。でも、敵も心得たもので、なかなかままならない。
 と、手に当たったもの。それは、おさげ。無我夢中、それに手を伸ばして、勢いよく引っ張ったら…ブチッち音が弾け飛んだ。
「痛ってー!何しやがる!」
 乱馬の怒声が響き渡る。どうやら、乱馬の髪を結んでいた紐が切れたらしい。
 やっと離れた隙に、彼の胸板から逃げ出す。そして、一声投げ捨てる。

「それはこっちのセリフよ!何しようとしてたのよ!あんたはぁっ!」
 息を詰まらせたまま、思い切り文句を吐きつけた、あたし。
 油断していたあたしを、たしなめたかったの?それとも、抱きしめたかったの?ただ、からかっていただけ?

「たく!髪が痛いだろーが!あー、ほら、何本か、抜けてるじゃねーか!」
 そう言いながら、抜けた髪の毛をあたしの目の前でプランプラン。
「親父みてーに、髪が抜け散らかったらどーしてくれるんだよ?」
 恨みつらみな瞳があたしを睨んでくる。
「あたしだって、息が苦しかったんだから!おあい子よ!」
 まだ、吐きだす息が荒い。本当に死にそうだったんだからね!許婚の胸で窒息死…だなんて、勘弁して欲しいわよ!

「わかったよ。起きるから、そこ、どけ!」
 そう言われて気が付いた。
 乱馬は、髪の毛を引っ張った拍子に、乱馬の腹上に馬乗りになっていた。尻下にあるのは、乱馬のお腹。
 近い…近すぎる距離。それに、俯いた目の前に鎖骨がチラチラ見え隠れする乱れたナルト柄のパジャマ。
「きゃ!」
 聞こえないくらいの悲鳴をあげて、横に飛び退く。
 ドキドキと胸が高鳴りし始めた。
「たく…。せっかくの休みなんだぜ…。もうちょっと寝かせろよ。」
 当の乱馬は、乙女にじろじろと見られているにもかかわらず、至って平静。あたしなんて、まるで意識していませんという様子だった。
 ふわああっっと、大きなあくびををしながら、伸びあがる。それから、パキパキっと身体の関節を軽く鳴らして、見せる。
 浅黒い肌、そして、ばっさりと解けた長い髪。おさげが解け乱れた髪の乱馬が、とてもセクシーに見えてしまったあたし。 
 目のやり場にも困ってしまうほど、視線が泳ぎ始める。まともに顔が見られずに、落とした瞳に映ったもの。肌蹴たパジャマからチラッと見える逞しい胸板。
 また、体つきが一回り大きくなったのね…。
 そんなことを思ってしまった。
 そのパジャマ、ゆるゆるで着ていたはずなのに…結構、きゅうきゅうになってきている。パジャマの上からでも胸板の張り具合が、くっきりとわかる。
 さっき、あの胸元に顔を埋めていたのね、あたし…。そう思っただけで、心臓がまた、踊り始める。

 と、さらに追い打ちが、かかった。

 乱馬が、ほどけた髪を、手櫛で掻き上げたのだった。その一瞬の動作にも、ドキッと反応するあたしの心。
 つい、「梳(と)いてあげようか?」と次の瞬間、言葉をかけてしまった。
 無性に乱馬の髪の毛に触れてみたくなったのだ。何故?…どうして?理由はわからない。
 
「いい、おめーがやると、時間がかかって仕方がねー。それに、道場でやり合うなら、丁寧にやらなくても、いいからよー。」

 その声に、かろうじて自制心が働いた。その言葉にホッとしたような、髪に触れられなくて、がっかりしたような。複雑な気持ち。

 そう…そうよね。あたしって不器用だから、ちゃんと結ってあげられないもの。

 毎日のように、結いあげている彼の方が、不器用なあたしの何倍も、おさげを編むのは得意だ。髪の毛を均等に三等分すると、スイスイと編んでいく。その様子を物珍し気に眺めながら、「案外、乱馬の髪の毛って、細くて柔らかいんだね。」と正直な感想を言ってしまった。ごわごわしていない、さらさらとした髪の毛。ずっとのばしつづけていたせいかもしれない。あたしの髪の毛よりも、もっと艶っぽくて黒色がきれい。
「まーな。一応、おふくろ似だからな。」

 父親似じゃないから、ハゲないぜ…とでも言いたいのだろうか。でも、確かに、おば様に似ている。それに、禿げ頭はあたしもちょっと嫌かな。こんなことを言ったら、おばさまに叱られそうだけれど…。おば様はおじさまに惚れたからこそ、乱馬がここに居るのだから。

「それより、着替えるから、道場で待っとけよ。」
 編み終えると、そんな言葉を投げてきた。えっと思って見返すと、ニッと笑った。そして、
「それとも何か?俺の均整の取れた上半身、見たいのかな?あかねちゃんは…。」
少し含み笑いしながら、あたしを見返してくる。

 もしかして、その逞しい身体を見て、軽い目眩を起こしたことに、感づいちゃったの?

「そ…そんな訳、ないわよ!」
 と言葉を投げた。精いっぱいの強がり。
「さっさと着替えて、道場に来てね!先に行ってるから!」

 これ以上ここに居たら、ドキドキしていることが、乱馬にばれてしまう。
 そう悟ったあたしは、そそくさとその場を退散した。
 階段を駆け下りて、そのまま、道場へと勢いよく走り込んだ。
 引き戸をくぐり抜けて、ひんやりとした板の間に立ってもなお、どっどっどっと心臓が唸っている。
 乱馬の逞しい身体、それと相、対するようなきれいな髪の毛。
 案外、均整の取れた目鼻立ち。真っすぐな瞳。
 そんな彼に、どんどん惹かれていくあたしが居る。
 親の決めたただの許婚…から抜き出ていない二人の関係。何一つ、求めるでもなく。求められるでもなく。好きとそうじゃないの間を行ったり来たり。感情は揺れ動く。
 勝手に家に乗りこんで来て、勝手に人の心を盗んでおいて、平然な顔をしているとうへんぼく。
 「このあたしが天邪鬼になるほど愛しい人。」それが乱馬。

 千々に乱れ始めた心。起こしに行かなきゃ良かった。起きて来るのをじっと待って居たほうが賢明だったのかもしれない。
 これじゃあ、闘いにならない!
 ダメ!そんな弱気じゃ、気は打てないわ!
 この状態で、乱馬を出し抜いて、気技を仕掛けるだなんて、夢のまた夢よ。

 散々、心をかき乱し切ったところで、勝気なあたしが目を覚ます。
 「勝気」と言うオブラートですっぽりと覆う乙女の本心。闘いに於いて、女々しさは厳禁。
 深い呼吸を繰り返し、闘争心を沸き立たせていく。
 あたしも武道家。乱馬とやり合うならば、一本くらいはこの手ではぎ取りたい。できれば、覚えたての気技で。





 と、カタンと道場の入り口で音が鳴った。見ると、人影がひとつ。
 乱馬だった。道着を身に付けてはいたが、容姿は女。

「ほれ、わざわざ女になってやったんだから、中途半端は許さねーぞぉ。」
 と、道場へ足を踏み入れるなり、一言投げられた。
 その言い方が横柄だったので、あたしの心は闘いへと集中していく。
「わかってるわよ!恩着せがましく言わないでよ!」
 女なって相手してくれ…だなんて、一言も頼んでいなかったのに。なのに、当然の如く、女に変化して現れた乱馬。
 恐らく、本気で相手してくれる気になったのだろう。
 日ごろ、女となんか組みたくねえ…とあたしと組むことを拒むことが多い。父親たちに命じられて、渋々、組む。そんな感じが透けて見える。そんな彼が、わざわざ女に変身して目の前に現れるなんて…。

「女になっても、手は抜かねーぞ!」
「誰も抜いてなんて言ってないわよ!」
 と、荒げた声で答える。かわいくないあたし。
「ごちゃごちゃ言ってねーで、かかってこい!」
 間髪入れず、乱馬の怒号が響き渡った。
「じゃあ、遠慮なく。行くわよ!」
 すうっと、深く肺へと呼吸を流し込むと、グッと鼻先で息を止めた。
「でやあああっ!」
 満を持して、床板を蹴った。これなら、乱馬に届く…と思った途端、「あらよっと!」。突っ込んだ右手をかわされて、あたしの手に己の手をペチンと叩いて、その反動で空へと飛びあがる。
 えっと、前につんのめるや否や、見事な跳躍で空を舞った。悔しいほど、流れるように美しく。
「猪突猛進過ぎるぜ!」
 軽々しくトンとつま先で降り立って、白い歯を見せて笑った。からかい口調だ。
「もー、真面目にやんなさいよ!」
 振り向きざまに一発、仕掛けながら、叫んだ。
「俺はいつも真面目だぜ!」
 今度は乱馬の方からこちらへ飛び込んで来た。

 舐められたものね。それで、突破口を開いたつもり?
 そんなに近づいたら、こっちが有利よ。

 大きく拳を握って見せると、また、目の前で、ニッと笑われた。
「攻撃の型が一辺倒すぎるぜっと!」
 シャッと頭を下にかがめて、あたしの腕から逃げる。
「じゃあ、これはどう?」
 あらかじめ織り込み済よ。そういう回避パターンは。そっちがその気なら、落下点で拳をお見舞いしてやるわ!
 そう思って、繰り出した右腕。
「やー!」
「っと!あぶねえ!」
 そう吐きつけると、目の前に突き出したあたしの右腕に軽くタッチすると、また頭上を越えて舞い上がった。
 今度は後ろから攻撃してやるわ!
 あたしは、ダンと床を蹴って乱馬の方へと飛び込んだ。そして、着地際、右脚を軸にして、素早く左足を振り上げる。
「たーっ!」
 でも、乱馬の方が一枚上手。
「よっと!」
 器用に交わして、また、横に大きく飛び上がった。
 本当に、そこまで、見通してくれて!心底、ムカつくわ!
 猪突猛進だとわかっていても、あたしは荒々しく、乱馬へと食い下がる。

「とーっ!」
「でやーっ!」
「たああっ!」
 渾身で腕や脚を差し向ける。
 すいすいと交わして見せる乱馬。小憎たらしいったらありゃしない。
 でも、実は、これも、あたしの計算のうち。攻撃を避けさせて、乱馬に優越感を与える作戦だった。
 そう。あたしは、猪突猛進するように見せかけながら、右手へと気を集め始めていた。もちろん、気技を使うために。
 集めきったら、放ってやるの。油断している乱馬に向けて。

 右手が熱くなってきたわ。至近距離からだと、これで充分ね!

 軽く息を吸い込んで、丹田に力を込めた。

 行くわよ!

 目の前に居る乱馬目がけて、一発。
 右手から気弾が弾けて飛んだ。
 
 ボスン!

 炸裂音が、目の前で弾け飛んだ。

 してやったり!
 そう思ったのがいけなかった。
 次の瞬間、予想外の烈風が、吹きあがった。

「え?あ?きゃああっ!」

 思っていた以上の風圧で、踏ん張っていた足元が、一気に崩れ去る。風にすくわれて、床板目がけ、落下する身体。
 
 ダメ、床に打ち付けられる!

 そう思ったあたしの身体。それを下から伸びあがって来た別の身体が、受け止めてくれた。一瞬、軽く浮き上がって、それから、再び床へと落下する。
 ズンと鈍い音がした。
 その音の後、静寂が道場内を包んだ。
 あたしの身体の下にある、別のぬくもり。柔らかくて張りのある、少女の膨らみが、触れてくる。
 でも…。微かに香る汗の匂いは、決して少女のそれではなかった。良く知っている、乱馬という青年の…あたしの許婚の汗の匂い。
 その香りに包まれて、ホッと心が解きほぐされていく。そんな、センチメンタルな感情に浸ったのがいけなかった。
 乱馬の腕が下から伸びあがって来て、あたしを軽く抱きしめてきた。多分、故意ではなく、無意識にとった行動なのだろうけれど…。

…え?…

 バランスが微かに変わった瞬間。
 ずっぽりと顔が彼の道着からはみ出ていた、おっぱいへと張り付いてしまった。
 つまり、女に変化した乱馬の豊潤な胸へと鼻が突っ込んでしまった…という…微妙な形状。しかも、身体にまきついてくる乱馬の腕に、身動きだにできない…。
 つまり、間抜けなことに、乱馬の胸で窒息状態に陥ってしまったのだった…。

「く…くるしい…。ダメ…死んじゃう…。」

 あまりの息苦しさに、ジタバタ。絡んだ腕を解いて欲しさに、手あたり次第あちこち、触れて回る。目も一緒におっぱいに押し付けられて、真っ暗。乱馬の三つ編みらしき物へと手をかけた瞬間…思い切り引っ張っていた。
 
 ブチッ!という音と共に響き渡った、乱馬の怒声。
「痛ってーっ!」
 その声と共に、やっとほどけた、腕の拘束。
「もー乱馬のバカーっ!」
 息と共に、そんな言葉があたしの口から滑り落ちた。
 お腹の下で乱馬が、こちらを真摯に見つめている。口元が少し笑っているような。よく見て居なかったけれど。
 つい、条件反射してしまう、あたしの右手。乱馬の頬へ向けて、平手打ちをぶちかましてしまった。
 
 バチコーン!
「こらぁ!何しやがるーっ!」
 乱馬の悲鳴めいた怒声が、すぐ下で響き渡っていった。
 と、仰向けに転がっていた、乱馬の身体が、床から跳ね上がった。あたしの平手打ちがまともに入ったのだろう。
 もちろん、その上に乗っかっていたあたしは、再びバランスを崩して、床へと投げ出された訳で…。

「きゃああ!」
「わあああっ!」

 ズン…。

 別の方向にバランスを崩して、二人一緒に、横倒し。
 でも、再び乱馬は、あたしの身体を器用に受け止めてくれて、痛みはなく。
 今度は真正面に、乱馬の顔が見えた。柔らかく包み込んでくれる腕。それから、また、香ってくる乱馬の汗の匂い。
 正面に居るのは、女の子でも、それはまさしく乱馬そのもの。何故だろう。胸がキュンと鳴った。女の方の乱馬に時めいているのではなく、あたしは、乱馬という個体に時めいている訳で…。
 そっと目を閉じる。目さえ閉じれば、そこに居るのは、男の方の乱馬。

 少しの間だけでいい。まとわりついているのが、女の子の乱馬でもいい。乱馬は乱馬なのだから…。このまま、いさせて…。

 幸せを感じながら、じっとしていると、ウウンという咳払いと共に、傍(かたわ)らから声がした。

「何やっているのかね?朝っぱらから。」
 ハッとして瞳を開くと、お父さんが苦笑いしているのが見えた。
 その後ろでパンダ化したおじさまが、看板片手に踊っている。
『仲良きことはいいが…危ないぞ、女同士で』

 その様子に、真っ赤に熟れあがっていく、あたしの顔。多分、乱馬も。
「うるせー!勝負してたんだ!介入してくるな、バカ親父!」
 あたしは、乱馬から離れることができず、ただただ、黙って、顔を赤らめさせて、ちょこんと道場の真ん中で座り続けていた。






 カランとやかんが庭先へと転がった。
 滴り落ちた湯と共に、もくもくと上がる白い湯気。
「たく…。朝っぱらから、何でこんな目に合わされなきゃ、なんねーんだよ…。」
 湯気の向こう側から、恨みつらみの籠った瞳がこちらを凝視してくる。
 強い光のこもった、きれいな瞳。思わず、ドキッとして、あたしは意識的に視線を逸らせた。
「だって、しょうがないじゃない…。」
 縁側に座ったまま、動揺する心を押し殺して、スポーツタオルを差し出す。
 少し緊張した手から、何事もなく、すっとタオルを受け取って、ごしごしと乱暴に頭を拭き始めた。
 三つ編みはほどけて、滴った湯をバシバシとタオルで叩きながら拭いているものだから、髪はまとまりを失って、だらりと背中へと垂れ放題だ。天上から差し込める太陽の光に、キラキラとまとわりついた水分が光っている。

 その髪に触れたい…即座に思ってしまった不埒なあたしは、すっと傍にあったブラシを手に取った。
「ちゃんと、髪の毛、梳(と)いてあげるわ。」
 少し緊張気味に、問いかける。
 どうせ、拒否されると思っていたが、
「じゃ、遠慮なく。」
 という返答と共に、縁側に軽く後ろ向けに腰かけた。
 湯を浴びたところだから、上半身には何も身に付けていない。つまり、むき出し。
 渡したスポーツタオルを、肩へと軽くかけているだけ。
 一切無駄のないきれいな筋肉。真正面の胸板に負けないほど、肩甲骨も背骨もきれいに栄える筋肉。
 その背中に、触れたくなるのを、グッと我慢して、ブラシを持った。
 そして、背中を覆う、黒髪を梳かし始める。つい、力が入ってしまうのは、あたしが、不器用なせいだけではない。こうやって、背中を任された嬉しさも混じる。
 グッと引っかかった髪を無理矢理、梳(す)かそうとして、怒声が投げられた。
「っと!もっと、丁寧にやりやがれ!」
 ハッとして手元を緩める。
「あ…ごめん、痛かった?」
「ああ!」
 ブスッとした返答が返されてくる。
 と、タオルが横にずれて、目に入ったのは、左の首筋についた、くすんだピンク色に擦れた傷。
 さっき、道場で総崩れしたとき、あたしが引っ叩いた痕だ。
 何故だろう。その傷跡が愛おしくなった。
「ここも、痛い?」
 左手の人差し指で、そっと触れてみた。
「痛ってー!」
 ちょこっと触れただけなのに、大袈裟に声が漏れてきた。

 ホントに痛いの?それとも、わざと、痛いって言ったの?

「内出血しちゃったね…。」
「何がしちゃっただ!おめーがつけたんじゃねーか。」
 あたしの方を恨めしそうに、右側から振り向いて来て、ブラシをかっさらう。
「もーいい。自分でやる。」
 そう言いながら、はぎ取ったブラシで、ガシガシと髪の毛を梳かして行く。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。」
 ふうっと溜息を吐き出しながら、それに応じる。
「あのよー。」
 乱馬は背を向けて髪の毛を梳かしながら、あたしへと声をかけてきた。心成しか少し真剣みが感じられた。
「何?」
「おめーさー…やっぱり、気技はまだ早いぜ。」
 と、ポツンと一言投げられた。えっと思って、息を飲むと、続けざまに言葉を継ぎ始める。
「いや、その…練習するのはいいんだ。でも、目前の公式戦で使うには早いんでねーか。」
「やっぱり、そーかなあ…。」
 小さな溜息と共に漏れた言葉。
 やっぱり、彼には見抜かれている。浅はかなあたしの目論見。次の公式戦に使おうという腹で修行していたことを。
「ああ。危なっかしすぎるぜ。」
 トンとブラシを脇に置いて、おさげを結い始める。そして、手を懸命に動かしながらも、あたしへとチクッとくぎを刺し始めた。
「使いたいなら、もうちょっと基本を修行しねーとな…。」
「うん…。」
 キュッと握った両手。そう、彼に指摘されるまでもなく…まだまだ、無理だということは、さっきの組手で良く理解していた。
「付け焼き刃の気技は危険だ…。百も承知だろ?」
「うん…。」
 あたしがあまりにも、神妙に答えていたからなのか。見つめていた背中から発していた険しい気が、少しだけ緩んだ。そして、投げられた一言。
「ひとつだけ、アドバイスしておいてやるよ。」
「え…アドバイス?」
 それは、意外な言葉だった。否定だけしかしないと思っていた彼の口から、流れ出したのは、あたしへの提言。
「ああ…。気技をきちんと会得したいなら、引く呼吸もちゃんと利かさなきゃダメだ。」
「引く呼吸?」
「ああ…。おめーのは、押す呼吸ばかりが目立ってる。」
「押す呼吸と引く呼吸?」
 ゆっくりと、呼吸をしながら、問い質す。乱馬が言わんとしていることを、あたしなりに、飲み込もうとしたのだ。その有様を背中で感じながら、ゆっくりと言葉を投げてくる乱馬。

「ああ…。吐き出すばかりが呼吸じゃねえだろ?…引く呼吸…つまり、吸う呼吸だよ。…相手の動きを見極めて、避ける呼吸…とでもいうのかな…。」
 とぎれとぎれで吐き出される言葉を、ゆっくりと呼吸しながら、噛み砕いて飲み込んでいくあたし。
 彼の指摘するように、試合中のあたしの呼吸は、吐く息ばかりが際立っていた。技を仕掛けるときは息を強く吐く。それが、無差別格闘天道流の根底に流れている。それを真っ向から否定してくる、乱馬。あたしの攻撃パターンを呼吸になぞらえて、説明してくれているようだった。

「あえて言わせてもらうけど、おめーには、押す呼吸は溢れているが、引く呼吸…それが少ねえ…。」
 その言葉にハッとした。まさに、彼の指摘通りだ。

「なるほど、あたしには、引くって概念が元々、薄いかもしれないわ。」
「薄すぎるな。引く呼吸…それが上手く作用すれば、気技も容易になるんじゃねーかな。猪突猛進過ぎるのは、おめーの長所でもあり、短所だ。ま、そこのところの練習に、ちょっとくれえ、付き合ってやるよ。」
「ほんとに?つきあってくれるの?」
「ああ…男に二言はねえよ。」
 そうにっこり微笑みながら、チャイナ上着を羽織った。

 彼の言葉に、沈みかけていたあたしの心は浮き上がった。
 端的、それでいて明瞭な提言。あたしの良きも悪きも…この生意気な許婚は全て、飲み込んでくれている。そう、あたしのことを、真摯に見つめてくれている証、それが今の提言に現れていた。
 見ていない素振りをしながらも、本質の深い部分にまで目を配ってくれている。

 あたしは、彼に愛されている…。そう確信した。
 深読みしすぎなのかもしれないけれど…。
 格闘バカの許婚同志。それで、いい…と素直に思えた。

「押しと…引く…かあ。押しと引く…その呼吸を大切に修行しなおすわ。」
 納得したあたし。
 そして、くいっと、俺のおさげを、真正面から引っ張った。

 あたしが彼につけてしまった傷。引っ叩いた傷。
 あたしが付けてしまった傷…。でも、何故か愛おしくなった傷…だからこそ…。
 乱馬への熱い想いを塗りこめた唇。
 それを、軽く、首筋の傷へと手向けた。


 乱馬に触れた瞬間、時が止まった。吹いていたそよ風も…。
 ほんの一瞬、凪いだ風。

 ちょっとだけ嬉しかった。乱馬の感情も、一気に高まったのが、唇を通してわかったから。ほら、耳元まで真っ赤になって固まってしまっている。
 唇を放して立ち上がると、また、さわさわと梢を揺らせて吹き始めた。

「ありがとう…乱馬。」
 離れ際、耳元で小さく囁いた。
『大好きよ…。』続けたかった言葉は、そのまま、心へと握りこんで飲み込んだ。


 愛を語り合うには、まだ時期尚早な二人。
 それで、いいの。
 しばらくは、そのままで、あたしの傍に居て。
 五月の風のような愛しい人。
 でもいつか…いつか、きっと…。ちゃんと愛を語って。
 その唇で…。


 吹いてくる風を背に、真っ赤に顔を熟れさせた愛しい人を残して、あたしは、その場から足早に立ち去った。




2017年5月9日





一之瀬的戯言

元になっているのは、「ちょっとだけ恋人」という歌でありましたとさw←あまりにマニアックすぎて知っている方はいらっしゃらないでしょうw

で、この作品を仕込んでいる真っ最中に、娘から無事入籍したとの連絡が来ました。目出度い!

(c)Copyright 2000-2017 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。