■青丹よし■



 残業疲れの秋の夜。明日はやっと巡り来た週末の休日。
 遅いご飯を、台所で一人で食べて、後は風呂へ入って眠るのみ。そう思って、椅子を立ちかけた時、携帯電話が鳴った。

 この着信音は乱馬ね。

「はい、あかねです。」
 とちょっと気取って通話に出た。

『よっ!元気か?』
 聴き慣れた声。
 やっぱり乱馬だ。
「なあに?こんな遅い時間に…。」
 と口を尖らせてみるも、相手はお構いなしに己の用件を話し始める。
『なあ、明日さ、こっちへ出て来いよ。一本仕事がキャンセルになったんだ。』
「出て来いってあんた、今、どこよ?」
 と一応訊いてみる。
 ここのところ、乱馬は忙しく、日本全国飛び回っている。殆ど、練馬に居ない。
『奈良だ。』
「奈良ですってえ?」
 きびすを返した。
『あれ?婚約者の行動予定、把握してねえわけ?薄情だなあ!』
 と、厳しいお言葉。
「そんなのいちいち覚えきれないわよ。あんたのマネージャーじゃあるまいしさあ。」
『マネージャーよりも濃密な関係じゃねえのか?俺たちって。』
「何よ、藪から棒に!」
『ま、いいや。明日の朝七時ごろさあ、佐助さんを迎えにやるから、新幹線で出て来いよ。敏腕マネージャーには、チケットも全部取ってもらってる。近鉄奈良駅の改札口で待ってるからよ。』
「ちょっと!あたしに奈良まで出て来いって言うわけ?」
 焦ったあたしは、問い返したが、
『じゃあな。待ってるぜ。』
 と言ったきり、切れた。


「ちょっと、どういうつもりよーっ!あたしの都合も訊かないで勝手に決めないでよーっ!」

 と携帯電話機に向かって雄叫びを上げたが、切れた後では聴こえよう筈もない。
 苦情の折り返し電話を入れてやろうかと思ったが、辞めた。
 あの、自己本位男の成せる技。通常は携帯の電源を切っている。メールを送信したところで、帰宅してから開くのが関の山だ。いや、何十通、何百通ためているかも妖しいものだ。
 何のための携帯電話かと問い返したくなる。携帯に振り回されるのは嫌だと訳のわからないことを言う。つまり、己の思い立った相手だけに電話するだけの道具と化しているのだ。乱馬の携帯は。
 マネージメントはなびき姉さんがこなしていたから、携帯電話など彼には無用の長物なのかもしれない。

「たく、疲れてんのよ。このところの残業続きで。あたしは…。それを奈良まで出て来いですって?」
 ブツクサと口を吐(つ)く独り言。
「この前、京都まで呼び出されて、散策してきたばかりよ。
 まだ、一月も間があかないのに、今度は奈良ってわけ?人遣い荒すぎよ。」

 思い切り脱力したが、結局は、乱馬の都合に合わせて動く事になる自分がそこに居た。
 優柔不断と言う事なかれ。
 格闘界の中心に居る乱馬に、結婚を決めたといえども、しょっちゅう顔をあわせているわけではない。婚約を発表して以来、マスコミ各社に付回されて、辟易としているのもあるのだろうが、殆ど、天道家に帰って来ないのだ。
 勿論、あたしの周りにも、きな臭いマスメディアの影はちらつくが、一応、素人ということで、乱馬よりはガードがマシなのだろう。
 正直、婚約を告げただけで、ここまで追い回されるとは思っていなかった。
 ここのところの残業続きも、いわゆる「寿退社」の成せる技だ。不器用な己には、格闘家早乙女乱馬の妻という肩書きだけで手いっぱいだろうと、周りの進言もあって決めたこと。
 勿論、それ相応、悩んだ末の選択だった。



 次の日の朝早く、佐助さんがセダンを飛ばして迎えに来た。自らハンドルを握ってのお迎えだ。
「佐助さんも大変よねえ…。こんな朝早くからさあ…。」
 と、車に乗り込みながら気の毒そうに言う。
「なあに、朝早いのは、九能家にお仕えしていた頃から慣れっこでござるよ。」
 と、気の良い返事。
「九能先輩のお庭番だったのに、最近じゃあ、乱馬のお庭番になっちゃってるわよね、佐助さん。」
「あははは。乱馬殿は我が社の稼ぎ頭でござるからなあ…。」
「九能先輩はどうなの?昔はあれだけライバル視していたのに。」
「なびき殿の手腕で、会社は順風万端成長し放題でございまするから、何かと忙しいのでござるよ。」
「乱馬を相手にする余裕がなくなったのね。」
「というか、新人女子アイドルタレントを発掘するのに、懸命なのでござるよ。ほれ、元々、女好きな上に思い込みが激しいお方でございましょう?」
「女好きで思い込みが激しい…ねえ…。」
 思わず苦笑いした。
 確かにそうだ。新人タレント発掘に懸命になるのも、わかるようなわからないような。
「もっとも、おさげの女は忽然と姿をお消しになられましたし、あかね殿は乱馬殿と婚約なさってしまわれましたし…。一時はどうなるかと心配もしたのでありますがねえ。案外あっさりなさっていてホッとしているのでござるよ。
 『今や、次世代のアイドルはこの僕が発掘するのだー!』と、それはもう、鼻息が荒いのでござりまするよ、わっはっは。」
 声色を真似て見せた佐助さんに
「あ、そうなの…。」
 と相槌を打ち返す。
 九能先輩とも何のかんのと随分付き合いが長いので、だいたいの想像はつく。
「あ、それから、乱馬殿より伝言でござる。」
「乱馬からの伝言?」
「新幹線の中で朝ご飯兼の駅弁でも買って食べておくようにと。」
「何よ、それ…。」
「何でも、時間が勿体無いということで、昼ご飯は抜きで奈良市内を観光なさるそうで。」
「はいはい、わかったわ。」
 了解の返事を返す。

 佐助さんに送られ、東京駅で車を降りると、乱馬に言われたとおり、キオスクでランチ用にサンドイッチを買う。
 それから、指定券のある新幹線に飛び乗った。平日の朝ということで、まわりは、スーツ姿のビジネスマンやビジネスレディーで溢れている。関西方面へ出張するのだろう。
 もう少し後の時間になると、旅行気分の熟年層が増えてくるのだろうが、ビジネス色の濃い車両だった。
「ふう…。」
 暇つぶしに持って来た文庫本を開いてみる。だが、朝早かったせいもあり、うつらうつらと、線路の響きを心地良く感じながら、泡沫の睡眠を貪った。

 座席は目いっぱい満席。その中でお弁当を広げるにはかなりの勇気が居ることを、あのとうへんぼくはわかってないんじゃないのかしらん。
 サンドイッチでも食べる気になれず、結局、そのまま京都に着いた。

 京都駅から近鉄線への乗り換えは便利だ。良牙君でも迷わないだろうほど簡単。目の前に近鉄線の改札口がある。
 予め、佐助さんに関西版のパスネット「スルット関西」カードを貰っていたから、切符を買う手間も省けた。なびきお姉ちゃんの差し金だろうけれど、これはありがたかった。
 奈良までは近鉄特急で来いとこちらも予め指定券を渡されていたので、すんなりと目指す電車へ。関西の私鉄は特急料金を取らないところが多いらしいけれど、この近鉄線は名古屋、伊勢、志摩とかなり遠距離まで走るので、きちんと特急料金を取るのだそうな。
 京都から奈良までは特急で三十五分ほどらしいので、短時間短距離をわざわざ特急利用する人も少ない。でも、早く来いということなのか、乱馬は特急券を用意してくれた。
 変なところ、気が利いている。他の事にもっと気遣えば良いのに…。
 こんな昼日中、奈良までの短距離を特急行脚する人も少なく、座席は余裕。有難い事に横に誰も座らなかったので、この中で遅い朝ごはんのパンを頬張ることができた。

 車窓の向こう側は雨。
 静岡過ぎた頃から空模様がおかしくなり、とうとう降ってきた。昔の乱馬なら、雨を嫌がったろうが、呪泉へ再訪問し、完全な男に戻った今は、特に平気だろう。
 特急電車はのどかな田園地帯を走り抜ける。東京近郊じゃあんまり見かけなくなった田畑もまだたくさん残っている。それが雨に霞んでいる。関東平野とは違い、山が案外近い。削られて赤レンガ風の立派な大学らしき建物なんかも山肌にそって建てられている場所もあったが、それでも、山の緑が延々と続く。

 やがて電車は停車駅の大和西大寺へ着いた。田舎のターミナル駅って感じで建物も低い。
 京都も奈良も保存条例が厳しいだろうから、高層は建てられないのかもしれない。
 この先、意外なことに地下へと電車は潜っていく。
「へえ…。古都の地下を電車が通っていくんだ。」
 と変なところに感心してしまった。
 さぞかし古代人はびっくりするだろうな。
 地下に引き込まれて数分もしないうちに、終着駅「近鉄奈良」へと着いた。どうやら、改札は一方向なのか、人の流れも一定だ。これなら迷うこともあるまい。
 コンクリの階段を上って広いコンコースへ出れば、見覚えのあるおさげの青年が居る。周りを修学旅行生か、たくさんの制服姿の学生たちが取り囲んでいるのが見える。

 たく…。あれほど素顔のまんま、出歩くなって、お姉ちゃんに言われてるくせに。あれじゃあ、早乙女乱馬が居ますって自分から言っているみたいじゃないの。

 サービス精神旺盛な彼は、乞われたサインや握手は拒まない。
 ちゃっかりと携帯の写メールを向ける少女や少年たちと一緒にピースショット。
 そんな彼に、躊躇しながら視線を手向けると、よっと右手を挙げた。

 案の定、わああっと少年少女たちの色めき立つ。
「あれって、乱馬さんの婚約者じゃないの?」
「マジ?」
「へえ…。結構、かわいい人じゃん。」
 などと人のことを評する声が聞こえてくる。

「悪いな。これからデートだから、この辺で勘弁してくれよ。」
 と乱馬。
 デートという言葉は、若者には刺激が強いのだろう。きゃあきゃあと黄色い声が響き渡る。
 デートだなんて、大衆の面前で言わないでよ、恥ずかしいじゃない!

「行くぜ!あかね。」
 そう言うと、彼はあたしの手を引き寄せる。
「ちょ、ちょっと、乱馬。」
 らしくない積極的なりアクションに、思わず焦った。
 繋がった手と手。その様子を見て、見送る制服たちが、また、囃したてる。あたしの顔は真っ赤に熟れて、今にも火を噴きそうだ。
 でも、彼はお構い無しに歩き出す。

 地上に上がると、雨は小雨になっていた。細い霧のような細かい雨だ。

 商店街を横目に見て、そのまま、山手へ向かって緩い坂道を歩き出す。案外、目抜き通りの登大路は広い。両脇に緑豊かな空間が広がる。
 常緑樹が多いので、あまり枯れた感じはない。
 雨の古都は観光シーズンにも関わらず、人影はまばらだった。
「きゃ、鹿。鹿よ。」
 思わず、歩道に出て来た鹿を見て、声を上げた。
「ははは、そんなに珍しい風景かよ。」
「珍しいわよ!東京じゃあ、鹿なんて街中歩いてないでしょうが。」
 良く見ると、そこここに鹿が闊歩している。
 鹿が堂々と街中を闊歩しているのも不思議だ。
 皆、角は額から切り取られている。そういえば、角切りしったって、この前、テレビで紹介してたっけ。
 鹿せんべいを売る店も雨に濡れている。それでも、鹿は餌を与えてくれる人は良く知っていて、鹿せんべいを持った観光客に群がっていく。逞しきかな、人に馴れた鹿。
 興福寺の五重塔を右手に見て、ずんずんと山際へ歩く。
 国立博物館辺りから、登大路は車線が狭まる。けれど、歩行者には歩道が確保されているから、歩くには不便を感じない。
「正倉院展は終わっちまったからなあ。」
 国立博物館を見ながら、乱馬が笑った。
「あんた、そんな文化的な展覧会に造詣なんかあるの?」
 とからかう。
「うるせーな!」
 と笑いながら、あたしを見返した。

 真正面に見える山肌は「若草山」。目指すは東大寺かしら。
 
 でも、乱馬は左手の東大寺の方へとは折れずに、右側の小道を真っ直ぐに上がっていく。
「あれ?大仏さん、見るんじゃなかったの?」
 ときょとんとあたし。
「ああ、大仏さんよりも行ってみてえところがあってよ。」
 道案内には「春日大社」と書かれている。
 公園内の砂利道を、春日大社の方へと進んでいるようだ。
 彼が行きたいところは、春日大社なのかな、などと思いながら、横を歩く。傘を差し出して、繋いでいた手は離れていた。
 相変わらず、乱馬は、隣を歩くあたしの歩調など、お構いなしだ。雨の砂利道。低めのパンプスは、とても歩き辛いんだから。
 端から見たら、ひょこひょこと滑稽な歩き方に違いない。
 春日大社の石灯籠が、お行儀良く山に向かって並んでいる。
 お盆と節分の万灯会の折は、幻想的な風景になるというが、雨の昼日中。そんな風流さはない。
 茶店が並ぶところへ出て、乱馬はまた道を違える。
「ねえ、春日大社の本殿はあっちみたいだけど…。」
 怪訝になって尋ねても
「別に、神社にお参りしに来たわけじゃねえんだ。」
 と素っ気無い返答。
「藤原氏でもねえのに、ゆかりの無い神社に詣でたところで、どってことねえだろ?」
 ですって。
「そうかなあ…。春日大社の神様って確か鹿島大社と香取大社の祭神が主祭神だったと思うんだけど…。どちらも武道神としても、有名じゃなかったっけ?天道道場(うち)の神棚も確か、この神様のお札を貰ってたと思うけど…。」
「んなの、知るかよ。俺はもっと別なところへ行きたいの。」
 とお構いなし。
「ちょっと、今度は下るの?」
 茶店から斜めに入った参道へと折れる。明らかに下り坂だ。しかも、今辿って来た道よりももっと足場が悪い。砂利道には違いないが、所々、赤土がむき出している。両脇にそびえ立つ常緑樹の木立も、雑然としている。
 落雷か何かで立ち枯れた木の根もあるし、昼日中というのに、鬱蒼と暗い。
「ねえ、乱馬ったら。」
 足場が悪くなり、あたしの歩調は途端遅れ始める。あまり急ぐと、滑って転んでしまいそうだ。雨脚もさっきより速くなったような気もする。
 両側から垂れ下がるように茂る、高木からも、ボタボタと大粒の雨粒。
「ちょっとは、あたしの歩調に合わせて、ゆっくり歩いてよ!」 
と思わず叫んでいた。
 あたしたちの他に人影は無い。鹿もこんな奥には来ないらしく、ポツンと二人きり。
「あ、悪い、悪い。つい、いつもの歩調で歩いてたよな。」
 彼は悪びれる風もなく、笑って立ち止まる。
 もう、少しは気遣いなさいな。そんなんじゃ、紳士としては失格よ!
 ふうっとこぼれる溜息。
「ここいらは、本当に雰囲気があるなあ。」
 と笑った。
「雰囲気あり過ぎよ!あたしたちの他に誰にもすれ違わないし。」
「「ささやきの小道」ってロマンチックな名前がついてんだぜ。」
「はあ?」
 雨が降ってずるずるの小道にロマンスの欠片など、全く感じない。それよりも、滑らないで歩くのが精一杯。
「この森だって「馬酔木(あしび)の森」って呼ばれてるらしいし。」
「ふーん。あんた、いつから文学的な情緒をかもし出すようになったのよ。」
 と覗き込む。凡そ、乱馬とはかけ離れた「通り名」を口走るからだ。
「晴れてたらなあ…。もうちょっと情緒があったのかもしれねえが。」
 恨めしそうに天を仰ぐ。
「ま、いいや、人気もないから…。」
 彼はすっとあたしの傘に手を伸ばす。
「一本で行こうぜ。」
 とあたしのさしていた傘を取り上げると、下に向けてすぼめた。
「結構、降ってるわよ。」
「いいから、いいから。」
 何だか嬉しそうな顔を手向ける。
 同じ傘の下。相合傘。
 ぐんと距離が近くなった。
 ジャリジャリという小石の中で、心臓もドックンドックンと波打ち始める。
「何、かたくなってんだよ。」
「べ、別に。」
「俺と相合傘じゃ嫌か?」
「そんなこと言ってないじゃないの!」
「なら、良いさ。」
 
 しっとりと降る雨の中、古都の侘しい道に二人。

「ねえ、本当、どこへ行く気なの?それともあてなんて無いのかしら?」
 ぼそっと乱馬に話し掛けた。
「ちょっと行ってみたいところがあってさ。昨日、宿でタウン誌くって、調べて来てみたわけ。」
「行ってみたいところ?」
「ああ、もうすぐだぜ。」
 でも、ささやきの小道はここで終わりみたいよ。だって、ほら、人家が見える。普通の閑静な住宅地のアスファルト道へと変わったじゃない。
 そんなことを思ったあたしの目の前で、乱馬は立ち止まる。
「おっ、あったあった、ここだ。」
「え?」
 閑静な住宅地の中の民家。
 立ち止まったところに看板。注意してみないと見逃してしまいそうな、ごく普通の館。
 「志賀直哉旧邸」。そう書かれていた。
「志賀直哉って…あの文豪の?」
 志賀直哉。明治、大正、昭和と三時代を書き続けた文豪。同窓の武者小路実篤、有島武郎らと共に「白樺派」と呼ばれている。代表作「暗夜行路」「城の崎にて」。高校時代に国語の授業で教わったこと。
 乱馬と志賀直哉が、正直結びつかなかった。どう考えても、彼と近代文学が接点などあろう筈がない。高校時代の読書感想文は、全て、あたしのを見てアレンジして適当に書いていた筈。彼の部屋にも格闘技系の書籍以外、並んでいるのは見たことがない。
 何故?という疑問符が点等するあたしを横に、さっさと入館料を払っている。生憎の雨に、あたしたち以外の観光客の姿は無く。
「ほら、行くぜ。」
 パンフレットを貰って、先導する乱馬の後に続く。
 昭和の初期に建てられた数奇屋風の建物。ちょっと変わった雰囲気の日本家屋だ。引越し魔だった直哉が一番長く腰を落ち着けたのがこの旧邸らしい。
 北側から入り、解放された家の中が良く見えるように展覧させてもらえる。ガイド用に設えられたテープのボタンを押すと、上方落語家然した声で邸内の案内をしてくれる。 雨の音が響く中、ゆったりとした上方言葉の語りが、情緒をかもし出している。
 それによると、この屋敷は、直哉が四十代に十数年を過ごした邸宅らしい。育ち盛りだった子供たちや妻のために直哉自らが設計したという。特筆すべきことは、日当たりの良い南側に妻や子供たちの部屋を置き、己の書斎や寝室は北側の部屋へわざわざ作らせたという。
 とかく女性はつい最近まで、「奥様」という言葉が象徴するように、家の奥へ奥へと追い遣られていたイメージが強い。昭和初期では、妻に一つの部屋が宛がわれていたことすら珍しかったように思うのに、今で言う「リビング」や「キッチン」にも近い家の中央に、妻の部屋を用意するだなんて。しかも、子供たちがあまり母親を頼らないようにと自立も考えて間取りするなど、ただただ感嘆あるのみ。今は片鱗しか残っていないが、子供たち用にプールまで設えてあったというから、驚く。
 調度品も何もない、がらんとした部屋を見ながら、廊下で目を閉じると、子供たちの明るい声が響いてきそうだった。
 キッチンの横にはサンルームまである。このサンルームには当時の文化人たちが数多訪れて「高畑サロン」などと呼び称されていたそうだ。
 昭和初期という時代に、このような空間を持つ家があったこと自体が、不思議に思えた。同じ頃建てられた、天道家(うち)とはちょっと違う。


「文豪、志賀直哉って家族を愛してたのね…。」
 見学を終えて、歩きながら、隣の乱馬に話しかける。
「ああ、彼にとって、家族はかけがえのない宝だったんだろうな。」
 と神妙な言葉が返ってきた。
「あの家は、優しさに包まれてたよな。」
 と、乱馬がポツンと言った。
「で?何で志賀直哉の邸宅だったの?あんたが、文学と縁が深いとは思わないし。教科書に載ってた「清兵衛と瓢箪」くらいしかまともに読んだこともないんじゃないの?」
「ああ、あの瓢箪の短編って志賀直哉の作品だったのか?」
 とすっとぼけた答えが返って来る。やっぱり、この程度の認識しか無い奴が、何であたしをここへ連れて来たのか、よくわからなかった。
「あはは、実はさあ、最近、仕事で知り合った奴が奈良出身でさ、今度俺が婚約した事を受けて、是非、直哉の旧邸を見とけって進言してくれたんだ。得るところがたくさんあるってな。」
「それって、女性?」
「こらこら、こんなところでヤキモチか?」
 と乱馬が笑い出す。
「だって、あんたの仕事周りには、綺麗な女性タレントも多いんでしょ?」
「俺が他の女に現(うつつ)ぬかすわけねーだろ?こら…。
 それはともかく、家族を優しく包むということがどんなことか、この家は教えてくれるってな。確かに、得るところはたくさんあったぜ。」
「どういう風に?」
「それは追々、結婚生活を送る中で見せてやるよ。」
 と乱馬は微笑んだ。その優しい横顔。頼もしき伴侶に思えた。

 いつの間にか住宅地を抜け、飛火野を右手に見ながら左手に曲がり、小さな池に出た。猿沢の池。水鳥が雨の中濡れ佇む水面を横手に見ながら、佇む。
「おまえは俺の宝だから…。」
 とポツンと彼が呟くように言った。雨の音にかき消されんばかりの小さな声だった。その声に応えるように、あたしは右の肩を彼の方向へ、少し近づけて傾けた。
 雨脚が少し強くなる。乱馬は傘を右手に持ち返ると、ぎゅっと肩を引き寄せてきた。降りてくる熱い唇。
 傘の上で雨粒が、一際、大きく跳ね上がったように思った。






「で、お土産は?」
 にんまりと笑いながらなびきお姉ちゃんが覗き込んできた。
「雨降ってたからな、たいしたもんはねえよ。」
 そう言いながら乱馬が菓子箱を置く。
「でっかい三笠饅頭だこと。」
「ビッグサイズだね。」
「早乙女君向きだよ。」
 とお父さんたちも目を丸くする。
 三笠饅頭は奈良の銘菓だそうだけど、人の顔よりも大きいサイズのが面白いと、乱馬が買った。
「あ、他にもあるぜ、ほら。」
 と修学旅行から帰ってきた悪戯な少年のように、並べ立てる。
「鹿のフン?何よこれ!」
 なびきお姉ちゃんが吐き出す。
「チョコレート菓子だよ。鹿のフンみたいな形してるんだとさ。」
「変なの…。」
 なびきが某タレントが鹿の着ぐるみを着たイラストが書かれているパッケージを見て目を丸くさせた。
「まだまだ、ほら。大仏さんの鼻くそだぜー。ほーれほれ。」
「何てネーミングなのよ!このお菓子も!」
「ちゃんと食えよ。せっかく「弟」が買ってきたんだからな。」
 と大袈裟に笑いながら乱馬がお姉ちゃんをからかう。

「はいはい、ありがたく頂戴するわ。で、明日は朝一番から六本木のテレビ局の仕事とスポーツ紙の取材入ってるからね。よろしく、乱馬君。」
「げえ、また、休みなしかよっ!」
「ちゃんと奈良であかねと水入らずしてきたでしょう?しっかり稼ぎなさいよ、弟君。」
「水入らずっつーたって、二人でお泊りもできなかったんだぜ!」
 と口を尖らせる。
「こらこら、まだ結婚しとらんだろうが!」
「入籍はまだだろ?」
 とニコニコ顔のお父さんたち。

「また、暇になったらゆっくり行けばいいじゃん。」
「暇っていつ来るんだよ!」
「あんたが引退したら…かな。当分無理ね。あかねのためにもしーっかりと稼ぎなさいよ。」
「おめーのためもあるんじゃねえのか?」

 平和な家族たちの会話を聞きながら、あたしは「鹿のフン」を頬張った。甘いチョコレートの味が口いっぱいに広がる。

『結婚したら、ゆっくり奈良に来ようぜ。奈良公園内に並んでた、料理旅館の離れに泊まって、若草鍋も食べような。』
 彼と交わしたそんな約束が実現するのは、まだまだ遠い未来なのかもしれない。




 

 ※注…一之瀬は奈良県民です。

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