◇星河夜話


第九話 聖なる星の海で

一、

 ダークホース号へと目の前まで迫り来る、アルファ108星は、三度目の砲撃で、跡形も残らず破壊された。飛ばされた破片は、塵となることもなく、ただ、宇宙空間へと飲み込まれるように消えて行く。そう、ダークエンジェルの超力が発動した時と、ほぼ同じようにだ。ゼナを闇に帰するときと同じように、一つ一つ、最期の断末魔を光に上げながら、闇に飲み込まれ消えていく。
 その様子を、放り出されながら、乱馬は見た。
 己も頼りにしていた命綱が、腰元からぷっつりと切れ、そのまま、ゆっくりとダークホース号から離れて行く。捕まろうにも、船体には手が届かない。
 だが、乱馬自身は、満足そうに微笑みを浮かべていた。
 このまま、宇宙の塵と化しても、心残りはなかった。全力でぶつかり、結果、こういうことになった訳だ。その上、当初の目的でもあった「ダークホース号とあかねを守る」ことは完遂できた。これ以上を望む事はもうない。

『あばよ、あかね…。俺の分も逞しく生き抜けよ…。もう、守ってやることはできねえけどな…。』
 遠くなるダークホース号に向かって吐き出していた。
 宇宙服もボロボロになり、そろそろ背負って出た酸素の量も危なかった。もう、数分も持つまい。小惑星の向こう側に、蒼白く光る星を見つける。いや、幻を見ただけかもしれない。それは、みるみる乱馬の目の前で大きくなる。
 まだ。未踏の母星「地球」だ。
 映像や写真では見慣れていたので、思い浮かべるのは容易だった。青く光る海と茶けて見える大地。そして、渦巻く大気の雲。
『地球か…。結局、足を踏めずに終わったな…。最期に俺を見送りに幻が出てきやがったか…。』
 薄くなる空気。もう、意識も途切れ始めた。


『冗談じゃないわよっ!パートナーのあたしを放って、自分だけ逝ってしまうつもりなの?』
 すぐ耳元で、あかねの声がしたように思った。
『あかね?』
 そう思った瞬間だった。
 眩いばかりの光が、どこからともなく競りあがってきて、己を包み込んでゆくのがわかった。
 と同時に、ぐいっと引っ張られるように、身体がぶわっと浮き上がる。そして、ヒュンと飛ばされた。
『なっ?』
 七色の光が、己の回りに渦巻いて見えた。
 一体全体、それが何だったのか、わからなかった。だが、それは己を物凄い勢いで、空間を移動させている。そんな感覚がした。

『大丈夫よ。あの子があなたを守ってくれているわ!』
 また、女性の声がした。さっき、乱馬に分子破壊砲弾を撃つ時に浮上した声だった。
 どうやら、この光は彼女の仕業らしい。そう思った。
『おまえ…誰だ?何故、俺に話しかける?』
 思わず、その声に向かって問いかけていた。
『今ここで貴方を死なせるわけにはいかないの…。貴方が死ねば、あの子が哀しむ。…だから、ね。』
 あの子というのは、あかねのことを指しているのだろう。
 己の脳を目いっぱい活性させて、記憶の引き出しを片っ端から引き出す。
 最初は「アンナケの時の女神」かとも思ったが、抑揚の無い彼女の声とは明らかに異質だった。柔らかく、落ち着き払った人の声。それでいて、懐かしさを感じる声。しかも、どこかで耳にした声だ。巡らせる記憶。だが、答えはなかったが、一つの結論に達した。
『おまえ…。やっぱり…ダークホース号の中に居る、ヒトゲノムか?』
 それ以外には思い浮かばなかった。
 そうだとしたら、全てが納得できる。己と同調せよと命令してきた事、それから、やたら、乱馬の行動パターンに詳しそうだった事。等など。
 この船、ダークホース号の駆動系、もしくは中枢部を担うのは間違いなくかつては人間だった「ヒトゲノム」という伝送体。ヒトゲノム伝送体が艇内に居る人間に、直接話しかけるほどの意思を持つことは理論上は不可能ということになっている。「ヒトノゲム」を形成するのは、死んだ人間。つまり、真新しい屍から取り出された脳細胞を形成していた物体であるからだ。幽霊にもなりきれない、生命体の抜け殻。それがヒトノゲム伝送体であった。
 が、乱馬の問いかけに対する答えはなかった。
 答える意志がなかったのか、それとも、あっさりと、乱馬の仮定を認めてしまったのか。
 黙りこくった中に、言葉に出来ない「優しさ」がある。しかし、女声はそれに関して、何も答えてくれなかった。

『行きなさい!あの子が待っているわ!乱馬っ!私に課せられた事はあなたたち二人を見守るだけ…。』
 その声と共に、光が己が周りに溢れ出す。目を開けていられないほどの、眩い輝き。それに導かれるように、身体が引っ張られた。

『うわああっ!』
 トンネルの出口に引っ張られるように、光の筒の中を飛ばされた。

 どうやって、その光の中を抜け出たのか。
 気がつくと、仰向けに転がっていた。衝撃も何も無かった。見覚えのある天井や壁。そして、背にしている床。
『こ、ここは…。ダークホース号の中…。何で…?』
 狐につままれたような気分だった。まさに、そこは、ダークホース号のコクピットだったからだ。
 しかも、分厚い防護服は、脱げている。それどころか、身に付けているのは、上は黒いランニング、下は短パンという、下着のみ。
 夢でも見ていたのかと、思うほど、状況が変わっていた。しかし、夢にしてしまうには、記憶自体が生々しすぎた。

『乱馬っ!』
 いきなり首に抱きつかれた。
『わ、わわわっ!あかねっ!』
 あまりの勢いに、後ろ側に飛ばされる。そのまま、どおっと床に倒れこんだ。
 彼女の柔らかい体が、己の上に覆いかぶさる。ひしっとしがみ付いたまま、離れない。震えているところを見ると、どうやら、泣いているらしかった。
 女の涙など、見慣れた物ではない。しかも、それが、惚れた女性のものだとなると、もっと性質が悪い。鳴り物入りの敏腕エージェントも、どう対したら良いものかと、すっかり狼狽しきってしまった。

『良かった…。無事で…。』
 彼女は震えながら、胸にしがみ付いていた。
『お…おう。何とか、助かったみてえだけど…。一体、俺、どうなったんだ?さっきまで、ダークホース号の外側に居た筈なのによう…。』
 と、問いかける。
『あたしが引き戻したのよ…。』
 あかねがちらっと見返しながら返答した。
『おめえが引き戻したって?俺をか?』
 きょとんと乱馬はあかねを見上げた。それに反応して、コクンと揺れるあかねの頭。
『瞬間移動させたのよ…。乱馬をね。』
『しっ、瞬間移動だってえっ?』
 これが大声を上げずには居られまい。瞬間移動など、超怒級のミュー因子を持った超能力者でも、ままならぬ奇跡の能力だ。第一、あかねにそんな芸当が出来るなどということは、訊いた事もなかった。

『お、おいっ!な、何でおめえが瞬間移動なんて、できるんだよ…。』
 放心したまま、乱馬はあかねを問い質した。

『わかんないわよ…。ただ、飛ばされるあんたを助けようと、必死で念じたのよ。そしたら、光があんたを包んで、そして、こっちへ戻せたの。本当よ…。』
 あかねは、乱馬から離れると、そのまま、へたっと床にへたり込んだ。
 どうやら、嘘ではないらしい。相当な超力を使ったようで、息が上がっていた。
『ああ…。どうやら嘘じゃねえみてえだな…。』
 乱馬はふっと頬を緩めた。

 「火事場の馬鹿力」。そんな言葉がある。恐らく、あかねに眠っている、強大なミューの超力が、乱馬の危機に際して、瞬間的に作動したのだろう。無我の境地が作り出した奇跡。それが、乱馬の命を救ったようだ。

 その時だった。

『乱ちゃん…。』

 ブンッと音がして、ダークホース号内のモニターが稼動した。

『右京…。』
 乱馬は立ち上がった通信機に向かって呼びかけていた。
 目の前には、右京の姿が、映し出される。電磁波や磁気で画像や音声は一部、乱れているが、すぐさま、彼女だとわかった。

『やっと、通信回線が回復したみたいやわ。ここを去る前に、一言、あんたらに詫びを入れておこうと思ってな…。通信回線を繋いだんや。』

『無事だったのか?怪我はなかったか?ウっちゃん。』
 乱馬は右京を労わるように問いかけた。

『ああ。ウチらは大丈夫や。あかねが助けてくれたさかいにな…。あかねがダークホース号で曳航して、ウチらを小惑星群の外側へ誘導してくれたんや。だから、もう、安全圏を飛んでる。』

『そうか…。』
 乱馬は安堵した表情を見せた。
『で?詫びってのは?』

『言葉どおりや。詫び入れんとあかんねん。ウチらは。』
 そう言うと、あかねの方を向いた。
『あかね。あんたを乱ちゃんから引き離そうと、この認定試験の監督官の委託を受けたウチやけど…。』
『認定試験?』
 あかねは怪訝な眼差しを向けた。彼女は、右京が連邦政府から回された、試験官だった事実を知らされていない。だから、疑問符のついた顔で、画面の右京を見上げた。
『そや…。これは連邦政府が予め、敷いていたあんたへの試験や。連邦政府は、あんたを乱ちゃんのパートナーとしてこの先も一緒に任官するに相応しい能力を持っているか否か、判断したかったんやろうな。』
『……。』
 あかねは黙って俯いた。それはそうだろう。これは、乱馬を巡るレースだと、今の今まで信じきっていたからだ。唐突にこれは試験だと言い出されても、困惑するだけだった。
 
『連邦宇宙局の幹部連中の考える事は、ウチにはわからへん…。でも、悟ったわ。あんたは、立派に乱ちゃんのパートナーをこなしていけるだけの腕、持っとるってな。
 ウチ、あんたには負けたわ。パイロットの腕も、度胸も全部な…。』
 右京は自嘲気味に笑った。

『どうして?レースはアクシデントで中止になったわ。決着はまだ着いていないわよ!これが試験だって言うのなら、尚更、中途で止める訳には…。』
 あかねは右京を見上げた。きゅっと眉がつり上がっている。動揺を隠せず、つい、態度が硬化した。

『いや、あの勝負はウチの負けや。つばさと小夏が影であんたに不利になるようにって、ウチの知らんところで、勝負の糸を引いとったんやからな。これは重大な試験規定違反や!試験、続行は不可能や。』

『裏で糸を?』

『そや。こら、あんたら!さっさとワビを入れんかい!神聖な勝負を邪魔しくさって!』
 右京に促されて、画面の向こう側で、つばさと小夏が決まり悪そうに、ペコンと頭を下げた。
『ごめんなさい…。あかねさん。どうしても右京様に勝って貰おうと、あたしたち…。ナイショで仕掛けていたんです。妨害を…。』
『まさか、こんな激しい磁気嵐を発生させてしまうなんて思わなかったんです。』
 二人は、申し訳なさそうに詫びを入れた。だが、勿論、裏の裏にウエストのキース・アンダーソンが関わっていたことは、決して口には出さなかった。恐らく、極秘に動いていたので、右京は全く、彼の存在を知らないのだろう。知らせれば、右京の身に危険が及ぶ可能性もある。そう、彼らなりに判断したのだろう。

 勿論、乱馬は苦虫を潰したような顔を、二人に向かって、差し向けていた。が、彼もまた、余計な事は言わないつもりだった。つばさと小夏が明らかにしたがらないなら、それ以上、キースの関わりを示唆するのは、彼にとっても得策ではあるまい。
(キースの奴め…。予め固く口止めしてやがったな…。つばさも小夏も何も言及しねえところを見ると、脅しも入ってるかもしれねえ…。他言したら、右京の命を付け狙うとか…。)
 充分有り得る話だった。

『この磁気嵐は、こいつらが作り出した人為的な妨害やったんや…。勿論、試験の予定には入ってへんかった!
 ってことで、ウチは、乱ちゃんとあんたらの間からは、一端、手を引く事にした。ほんまやったら、この勝負に勝って、連邦宇宙局に掛け合って、乱ちゃんと婚姻を結ばせてもらう予定やってんけどな。』
 と右京は言った。誇張ではないだろう。本気でそう思っていたようだ。
 軍部ではない右京は、民間人。という事で、あかねよりも乱馬と婚姻関係を結び易かったろう。しかも、お墨付きとも言える、乱馬の父親の証文まで持っているのだ。
『乱ちゃんのおっちゃんと交わしたこの証文も、破棄するわ。』
 そう言いながら、目の前で、「許婚の証文」を、ビリビリと破り捨てた。
『これで、乱ちゃんとウチの間には婚姻の約束事は無かった事になる…。』
 あっさりと手を引いた右京。だが、返す瞳で、乱馬とあかねを見比べて言った。
『でも、勘違いしてもろたら困るで。親が交わした許婚の証文は無に帰したけど、ウチは乱ちゃんと結ばれる事を諦めた訳やない。乱ちゃんがその気になってくれたら、いつでも、乱ちゃんの嫁になりに来る。乱ちゃんを愛する気持ちは変わらへん。ウチが乱ちゃんに惚れたと事実は、誰にも止められへんし曲げられへんねんから。』
 それは、新たな挑戦状の如く、あかねの耳に響いた。
『いつか、あんたよりも強くてええ女になったる。そしたら、もう一回、乱ちゃんを賭けて、真っ向から勝負を挑みに来るわ!それまで、勝負はお預けや。』
 キラキラと右京の瞳は輝いているように見えた。どこから、そのような恋の闘志が燃え上がるのか、不思議でならなかった。

『勿論!真っ向勝負なら、いつでも受けて立ってあげる…。』
 あかねは右京の真意を汲み取ったのか、静かにそれに答えた。

『ウチがあんたを倒すまで、死んだらあかんで!』

『ええっ!死ぬもんですか!』

 あかねと右京は、互いに笑った。
 命を賭して太陽系を渡り歩く、宇宙少女二人の、奇妙な一体感であった。

『連邦宇宙局にはよしなに報告しておくわ。現況では、早乙女乱馬の相棒として、天道あかねは充分、有効やってな。それでええな?乱ちゃん。』
 右京は最後に、乱馬に同意を求めた。

『ああ。』
 乱馬は短く答えた。

『ほな…。ウチらは退散するわ。磁気嵐も、もう収まったみたいやし…。いくら給金がええって言っても、本業の商売をずっとほったらかしにするわけにもいかんからね…。ほな、またな。また、どっかの惑星間で会おうやないか。』
 右京はすっと立ち上がった。そして、一礼すると、ブンと通信が切れた。

 消えた画面に向かって、あかねは何を思ったか、すっと真っ直ぐに右手を額に伸ばし、敬礼した。
 軍人として、敬意を右京に奏したのだろう。

『またな…。ウっちゃん。』
 乱馬は、小さな声で、彼女に暇乞いを述べた。


二、

 通信が消えた後、二人は押し黙ったまま、じっと暗い宇宙空間を眺めて居た。

 右京が言ったとおり、磁気嵐はようやく収まったようだ。「アルファ108星」も宇宙航路図上から消え果てた。跡形も無く、きれいさっぱりとだ。
 キースも既にこの空域を離脱してしまったようだ。気配一つ感じられない。
 己が居たという痕跡さえ残さなければ、いくら乱馬たちが公に、ウエスト・エデンへ抗議したとて、取り合っては貰えまい。キースくらいの幹部が、証拠を残すような真似をするとも思えなかったし、彼の口ぶりから、連邦政府の高官も幾人か絡んだ事案だったようだ。 
 ということは、取り合うだけ、時間と労力の無駄だと言う事だ。殺されかけたという釈然としない気持ちは残っていたが、仕方があるまい。つばさと小夏を巻き込む手もあったが、彼らとて、キースに脅されている筈だ。恐らく、下手な言動に出れば、右京にも火の粉が降りかかる。
 ならば、ここで黙っている他に、方法はない。
 だが、いずれ、乱馬たちが生きて脱出したということは、迅速に、関係者各位へ伝えられる筈だ。そう、乱馬とあかねはキースに勝利したのだ。「ダークエンジェル」を葬り去ろうとした陰謀を乗り越えたのだ。二人とも、命を永らえた。
 これで、恐らく、抹殺に傾いていた連中も黙らざるを得まい。このコンビネーションをかい離させること無く、巻き込んで利用したほうが、連邦軍にとっても有益となると、利口な判断がなされる筈だ。連邦の最大の敵となる「ゼナ」という闇と台頭できる術の一つとして。


 右京が去った後、奇妙な静けさが、ダークホース号艦内を支配していた。
 いや、艦内が静かだったのは、それだけが理由ではなかった。

『ねえ…。全てが終わったのなら…早く反転させて、天道ステーションへ帰りましょうよ。』
 静かにあかねが、乱馬に言った。

 乱馬が一向に、エンジンを全開させないことに、疑問を感じていたようだ。
 計器類と睨めっこしながら、乱馬は言った。

『生憎、すぐに帰還…ってなわけにいきそうにねえや…。』
 乱馬は投槍に答えた。
『どうして?』
『おめえなあ…。このマシン状況を見て、何も思わねえ訳?』
 乱馬はすっと、目の前でちらついている船のマシン状況を知らせる画面を、あかねに指し示す。「エマージェンシー・レッド」。尽く、そいつが点灯しているではないか。
『何よ…。これっ!』
 一緒に画面を覗き込んだあかねは、思わず、声を荒げた。
『何って…、今の状況じゃあ、手も足も出ねえってことだよ。』
 乱馬もムスッとそれに答えた。
 どうやら、船内が妙にシンと静まり返っているのは、システムダウンのせいだったようだ。
『何で、こんな状況になってるのよ!』
『おめえなあ…忘れたのか?さっき、キースにバグを仕掛けられたろうが…。』
『あ…。』
『たく…。これだからなあ、おまえは…。バグのせいで自動修復システムが走っている真っ最中なんだよ。正常稼動してるのは、危険物自動回避装置くらいだ。』
 ドサッと乱馬は上体を、椅子の上に投げ出した。

『どうするのよ?こんな状況で…。』

『自動回復システムが走ってる間は、手も足も出ねえさ…。一端、システムをリセットして、新たに立ち上げてる最中なんだからな…。そして、飛行に必要なシステムがちゃんと復旧してからじゃねえと、怖くて飛べねえよ。こんなクズ星だらけの星域なんてよ…。俺の腕を持ってしてもな…。』
 と投槍な言い方だった。

『復旧まで、どのくらいかかるの?』
 恐る恐る、あかねが尋ねてくる。

『さあな…。ダークホース号(この船)がここまで酷くやられたのは初めてだからな…。少なく見積もっても、システムの自動データー修復には半日以上はかかるだろうな…。』
『半日…。』
『ああ、一眠りする間くれえ充分にあらあっ!』
 平然と言ってのける乱馬。
『ま、焦ったって仕方ねえよ…。磁場嵐の空間は通り抜けられたみてえだし…。危険物回避装置だけは正常に稼動してるみてえだ。幸い、この辺りは小惑星のねえ、ポケットになってるみてえだから、星屑が船体に激突する可能性も殆どねえさ。ここで停泊して、じっと、システムそのものが復旧するまで、時間を潰すのが最善策だろうぜ。』
『通信は?天道ステーションへ急難信号を出して、牽引を頼むのも良いんじゃないの?右京たちだって、まだ、この辺りを飛んでるんでしょう?』
『通信回線もダウンしてる。通信機もさっきの磁場にやられたんだろうな。右京の連絡を受けて切ったら、ピクリともしなくなった。こっちも、システムが回復しねえと、元に戻らねえだろうな。』
『最悪じゃない…。それって…。』
『そんなに、アクセクしたところで、仕方ねえぞ。食料と水なら、確保してあっから、腹、満たしたら、じっとしてるのが一番良いのさ…。』
 悠長な口調で乱馬は答えた。すっかり腹は据わっているのだろう。
『あんた…。あっさりしてるわねえ…。』
 あかねが呆れたと言わんばかりに、乱馬を見た。
『焦ったって、どうにもなるこっちゃねえからな…。横にでもなって、じっとしてるのが一番だよ。無駄な足掻きは体を疲弊させるだけさ。』
 乱馬は、完全に休息モードに入っていた。さっきまで、闘いの渦中に居たのだ。その疲れが、どっときているのかもしれなかった。
 操縦席のシートを思い切り倒し、仰向けに転がる。
 あかねもそれに従うしかなかった。彼女もまた、シートを後ろ側に倒し、横になる。

 奇妙な静けさの中、二人、並んで仰向けに寝そべる。この静かな宇宙船の中で、二人きり。
 疲れているはずなのに、寝付くこともなく、ただ、静かな空間を漂っていた。
 互いの 息遣いまで聴こえてきそうな、静けさだった。
 エンジンも止まってしまっている。いつも感じる、宇宙船の振動も無い。

『あのさ…。あんたは知ってたの?これが試験だったってこと…。』
 溜まらず、あかねは乱馬に話し掛けた。右京にたきつけられたレースが、実は己に向けた、連邦宇宙局の試験だったことに、少なからずとも、衝撃を受けていたのだ。心に引っかかった疑問は質さずには居られない。それがあかねの性分だ。

『ああ…。一応、天道司令(おやっさん)から聴かされてたからな。』
 と受け答える。今更、嘘を言っても始まるまい。

『そう…。知ってたの…。』
 少しばかり、怒ったような瞳を差し向けた。

『だったら何だよ。おやっさんには固く口止めされてたしな。守秘義務っつうのもあるしな。試験はこの先もおめえが俺と組んでいけるかどうか、それを秘密裏に確かめるためのものだった。常識的に考えても、おめえに伝えるわけにはいかねーだろ?』
 乱馬は、横を向いて、あかねを見た。

『そうよね…。あたしは単なるパートナーとして、存在意義があるか否かを見るための試験だったわけだし…。』
 そう言いながら目を背けたあかね。
『あん?』
 思わず、何だ?ときびすを返した。明らかに、あかねの態度が少し変だったからだ。

『おまえなあ…。言いたいことがあんなら、はっきり言えよ!』
 つい、起き上がって、喧嘩腰に言葉を叩きつけた。

『あたし、耳にしたのよね…。エンジェルボーイという連邦の敏腕エージェントの数々の噂話。』
 それは、唐突な口火の切り方だった。
『エンジェルボーイの噂だあ?』
 乱馬は、きょとんとあかねを見返した。エンジェルボーイ、即ち、あかねとコンビを組む前の己のコードネームだ。
『ええ…。相当、好色的少年特務官だった…ってね。』

『何だよ!そいつはっ!』
 思わず、乱馬はきつくあかねを見返していた。

『その手腕をエサに、年端もいかないくせに、あちこちで、女を口説きまわってたってね…。口説きのテクニックも超一流で、言い寄られた女たちは数知れず、上は三十代、下は十代前半…。守備範囲も広いってね。』

『こらっ!何だ?それはっ!』
 あかねの暴言に、思わず、声が荒れた。

『こっちが訊きたいわよ!あんたさあ…。今まで、何人の女性を手玉に取って来たの?』
『はああ?手玉に取るだあ?!』
『右京がレース前に言ってたもの…。乱馬には、他にも許婚が居るかもしれないって…。いや、許婚といかないまでも、肉体関係を持った事だって一度や二度じゃないだろうってね…。』
 その言葉に、当の本人は思いっきり脱力した。
『あのなあ…。おまえ。そいつは、右京の揺さぶりだっつーのがわかんねーのかよっ!アレだよ、アレッ!勝負の前におまえに動揺を引き起こすために、予め仕組まれた精神的攻撃だっ!バカッ!』
 思わず、荒い声になっていた。
『どうだかっ!エンジェルボーイって言えば、連邦切っての敏腕エージェントだもの。浮名だって、幾つも流してるんじゃないの?現に、いくつか耳に入ってるわよ。』

『ああん?』
 あかねの言葉に、思い切り、きびすを返してしまった。

『なびきお姉ちゃんが、いくつか教えてくれたわ。』
 と、あかねは鬼の首を取ったように言った。
『何をだよっ!』
『エンジェルボーイの風評。』
『それが、女を口説きまわってたってことになるのかよっ!』
『火の無いところに煙はたたないわよ。』
『あほっ!俺がいつ、女を口説いたよ!』
『知らないわよ、そんな事。あたしに訊かれても知るわけないじゃない。』
『知らねーくせに、突っかかってくるのか?おまいはっ!』
『あたしは知らなくても、右京は知ってるみたいだったわ。現に、あんたに口説かれたって言ってたわよ。』
『な、なにいっ?』
 思わず、声が裏返ってしまった。
『以前にあんたに会ったときに、手を握られて、キスされたって…。ベッドインこそしなかったけれど、随分、思わせぶりだったってね…。』

『ばっきゃろっー!んな事実は一切ねえっ!』
 勢い込んで、あかねをつかんでいた。いい加減にしろ、と言わんばかりにだ。

『おめえなあ、だから、右京に揺さぶりを入れられたんだよ!予め、おめえの心理状態を極限へ追い込む。そういう試験プログラムが組まれてたんじゃねえのか?おいっ!』
 がばっとあかねに食らい下がる乱馬。
『それに…。俺は、そんないい加減な男じゃねえぞっ!』
『でも、なびきお姉ちゃんが示したデーターにだって…。』
『だから、それだってどこかから仕入れてきた風評のデーターだろうがっ!俺に対して、敵意を持ってる連中は、そこいら中に居るんだっ!中には誹謗中傷をそのまんま垂れ流した物もあるんじゃねえのか?ああん?』
 ずいっとあかねににじり寄る。相当、頭に来ている証拠だ。

『じゃあ、右京の存在は、どう、説明してくれるのよ!』

『あのなあ…。始めっから言ってるだろう?ウっちゃんは俺の幼馴染みだ。土星・天王星星域辺りを、漂泊していた頃、利用していた宇宙行商人の子なんだよ!それに…。俺は、再会するまで、彼女が女だとは思わなかったんでいっ!そんな奴に、どうやって手を出したっつーんだよっ!』

『嘘っ!』
『嘘じゃねえっ!』

 ダンッ、と壁際にあかねを追い詰め、そのまま、右手を壁に勢い良く押し付けた。ぐっと迫り出しながら、あかねに迫り来る、漆黒の瞳。
 身体ごと、前に立たれたら、逃れる術は無い。
 真っ直ぐに見下ろしてくる、その瞳の輝きに、引き込まれそうになり、息を飲むあかね。つい、目を反らせようとした時だ。
『目を反らすなっ!俺を見ろっ!』
 と声が飛んだ。
 恐る恐る見上げると、鋭い眼光は、ふっと、柔らかい眼差しに変わった。
『たく…。本当に、おめえは…。真っ直ぐなんだな。』
 と緩む頬。
『真っ直ぐって?』
『曲がった事を許さねえ…。それは自分自身に対してもだが、パートナーの俺にも強要してくる。
 言っとくがな、俺は曲がった事は何一つしちゃあいねえ。他の奴らがどんな誹謗中傷をしようとも、だ。女を口説いた事はねえし、交わった事もねえ。それが真実だ!』
『でも…。』
 反論を試みようとしたあかねを、身体で、ぐっと、押さえ込んだ。そればかりではない、空いた左手で、あかねの右手首をぎゅっとつかんだ。
『で、この際だから、一つだけ言っといてやる。この先、どんな女に巡り合おうとも、俺が口説くのは、この世に一人だけって決めてんだ。』
『何よそれっ!』
 あかねの怒気が入った声が響く。
『だから…。おめえだよ…。口説くんだったら。』

『えっ?』
 あかねの大きな瞳は、見開いた。すぐ目の前に、己の姿が映る漆黒の瞳がある。ドキンと心が動いた。

『おめえ以外は、口説かねえ…。出合った時から、そう決めたんだ。俺は。』
 そう言いながら、乱馬の逞しい腕が、あかねの細腕を捕まえた。
『覚えてっか?最初に出合った時のことを。』
 乱馬が畳み掛けるようにあかねに尋ねた。
『忘れろったって、忘れられないわよ!あんた、開口一番、あたしをバカにしたじゃないの。』
 鮮烈な宇宙での出会いがあかねの脳裏へと蘇った。
 任務へ向かう途中、流星の如く駆け抜けて追い越していった小型艇のパイロットだった乱馬。小惑星を破壊し損ねて、玉砕しかけたあかねの操縦艇を援護してくれたその凄腕。そして、「へっぽこパイロット!」とののしられたことが鮮やかに蘇る。
『下手糞な操縦してたからなあ…、おめーは…。こいつが新しいパートナーだと知ったときは、本当、大丈夫かと愕然としたぜ。…でも…。』
 乱馬は長い溜息を吐き出した後に言った。
『何故だろうな…。運命とか宿命とか…んなもんクソ喰らえと思ってた俺が、初めて守りたいと思った女がおまえだった。ずっと昔から繋がっていたような不思議な縁の糸。…あーあ…畜生!惚れたもん負けだな。こりゃ。』
 乱馬はあかねの手を離すと、後ろ側へと倒れこんだ。
『惚れた者負けねえ…。ってことは、惚れさせたあたしの勝ち?』
『うるせー!』
 怒鳴った乱馬に、柔らかい唇が降りて来た。それは一瞬の出来事。
 あかねが薄桃色の唇を乱馬の元へと宛がったのだ。突然の出来事に、身体を硬直させた乱馬だったが、すぐに取って反した。覆いかぶさってきたあかねの身体をぐいっと引っ張ると、器用にゴロンと寝返った。
『ちょっと、何すんのよ。』
 焦ったのはあかねだった。乱馬が馬乗りに上にのしかかってきたからだ。
『やっぱ、負けっぱなしじゃ、悔しいからな…。勝ちに行く。…もう、決めた。』

『ちょっと、乱馬っ!ふざけないでよっ!』

『ふざけてなんか、いねえっ!』

 不意に伸びてきた、乱馬の腕に、あかねは溜まらず、声を荒げていた。
 二人きりの宇宙船。それも、制御系が殆どやられていて、復旧を待つ間、前進も後退もできない。その中で、若き男と女が、真剣に向き合う。

 腕力で押さえつけられたら、敵うはずが無い。
 あかねはゴクンと唾を飲み込みながら、彼の次の行動を待った。
事と次第によったら、ただではすまないだろう。

 が、予想に反し、乱馬の手は、すっと離れた。

『やめだ!…ったく、俺らしくねえ。』
 そう言いながら、あかねに課した呪縛を解く。
 切迫しかけた最中、急に身体が自由になり、今度はあかねが、ずいっと乱馬を睨み付けた。
『ほら、やっぱり…。本気じゃないんでしょう?あたしをからかっただけなんだ。』
 そう言ってソッポを向いた。
 別に、腹が立ったわけではない。どちらかというと、相手にされなくなったことをすねているような感覚。それが「複雑な女心」だと気がつくまでには、まだ年齢を重ねねばならぬだろう。
 そんな、あかねの微妙な心の動きを掴みきれない奥手な男は思った。
『ったく…。おめえと出逢ってから、調子が狂いっぱなしだぜ…。』
 長い溜息が乱馬の口から漏れた。あかねの背後から愚痴っぽく投げかける。
 正直な感想だった。

 陥れられるような形で、あかねとコンビネーションを組まされた。彼女は、まだ、経験も浅い、危なっかしい未熟な新人に毛が生えた状態だった。このまま、宇宙に放り出したら、間違いなく数ヶ月も生きちゃあいないだろう。
 結局、放り出せず、そのまま天道ステーションに居つき、早、一年が経った。
 口では「許婚」という言葉に疎みながらも、すぐさま惹かれていった。確かに未熟で危なっかしいが、彼女は磨けば光る原石だ。これまで数多遭遇した、地球連邦のエージェントたちとは、全く違うタイプの逸材だった。
 お節介的な好奇心が、次第に心を惹きつけ、結果、命を預けられる無二のパートナーとして、育て上げる事に固執し始めた己が居た。勝気な彼女の、心の奥に潜む「儚さ」を慈しむ感情が生まれていた。
 これが「恋」だと悟るまでには、そう時間はかからなかった。
「エージェントに恋心など要らない。」物心ついた頃から宇宙を駆け巡っていた彼にとって、恋など無用の長物だと思っていた。恋は時には人を物狂わせる。そんな大人たちを数多、見てきた。


『乱馬よ…。本当に強くなりたければ、恋をする事だ。おまえはまだ、恋を経験しとらん分、青いのだよ。』
 あるとき、父親の玄馬が、真摯に言った言葉がある。厳しい任務の中で、ウエストエデンのとある野郎に、手柄を全部持って行かれた後、悔しくてたまらなかった時に、言われた言葉だった。
『恋なんて、特務官には要らねえ…。邪魔になるだけだ。』
 そう反論した。
『だから、おまえはいつまでたっても半人前なんじゃ。』
 少年期から青年期に変わる、十代中盤の頃のことだった。
『もっとも、燃え上がるような恋は、一生に一度…それだけで充分じゃがな。』
 とても外見からは似つかわしくない言葉を、さらりと息子へ吐き出したから、今でも印象に残っているのだ。
『何だよ…。それ…。』
『ワシが父親として、進言してやっておるのだろうが!最強の男になりたければ、命がけの恋をする事だな。誠心込めて守りたい。そう思う女性(ひと)が現れてこそ、男はもっと強くなる。ワシにも経験があるからなあ…。』
『へっ!さも、己が命がけで恋したみてえに言いやがって!』
『わっはっは。だからこそ、おまえがこの世に生を受けたのではないか!』
 バシッと背中を叩いて、父親は何処かへ行ってしまった。
 どうせあの父親のことだから、間違って出来た子を、養育せよと母なる女性に押し付けられた。だからこそ、幼少期から二人で宇宙で放浪生活。勿論、母の記憶も皆無だ。それが当たり前のように生活してきたから、父親に問い返す気にもなれず、それっきり。
 それだけの思い出だが、こんな時に蘇ってきたのだ。

 あかねと出会い、彼女とコンビネーションを続けるに当たって、だんだんと、あの時父親が言った言葉の意味が、少しわかってきたような気がする。
 まだ、未完成なあかねを守るのは、己だけだ。彼女と行動を共にしながら、そんな事を思うようになっていた。己の命だけを守るのでも厳しい世界だ。それを二人で渡っていかねばならないのだ。強くならなければ生き抜けない。
 それに、強いというのは、何も腕力や体力だけを指すのでは無い。あかねと出会って、それがわかりだした。心も強くなければならない。



『あーあ、俺もヤキが回っちまったよな…。』
 玄馬の言動を思い出しながら、吐き出した。
『何よそれ…。どういう意味よ。』
 じろりとあかねが、背けた顔をまた、こちらへ向ける。
『別に深い意味はねえよ。』
 と、今度は乱馬が顔を背けた。一瞬でもムキになった自分に対し、嫌悪感を感じ始めていたのだ。だが、そんな乱馬の心の事情など、あかねにわかろう筈もなく。
『この、卑怯者!』
 と、一言、乱馬に向かって吐きつけた。
『あん?』
 今度は乱馬が問い返す番だった。
 顔を上げると、そこには、勝気な瞳が、こちらを睨みつけながら輝いている。
『勝負を挑んでおいて、逃げる気なの?』
『勝負だと?』
『ええ、そうよ!あんた、一生に口説く相手は一人って決めてるって言ってたじゃない。でも、あんたさあ、まともに口説かぬうちに、すんなりと手を引く気?』
 目の前で輝く、勝気な漆黒の瞳。

『おめえなあ…。これ以上、勝負したら、俺…。どうなっちまうか責任持てねえぞ!』
 と乱馬はきびすを返した。正直な心情だった。
 さっきは、咄嗟に自制心が働いたが、タガが外れてしまうと、恐らく、寸止めは効かないだろう。

『本当にいい加減なんだから…。あんたは。』
 あかねはキッと彼を見詰めた。決して、逸らさない瞳が彼女なりの強い意志を指し示している。
『ああ、何とでも言え!』
 この男も、一度へそを曲げたら、テコでも動かない。頑固者だった。こちらも逸らさぬ瞳。
 目を逸らした方が負け。どちらともなく、そんな風に思う。
 長い間、じっと互いを見詰め合う。
 出会ってから一年。通り過ぎた二人の時間が、一瞬に駆け抜ける。
 それぞれの生い立ちは未知数。生まれてこの方過ごしてきたうち、共有しているのは、たったの一年。「運命」とか「宿世」とかそんな言葉を信じている訳ではないが、この出逢いは「貴重」だった。
 反発の中から芽生えた確かな絆。

『なら、おめえは…。覚悟できてるって言うんだな?』
 乱馬は静かに言葉を解き放った。
 ピクンとあかねの肩が動いた。
『な、何の覚悟よ。』
 澄んだ声で問い返される。
『俺を…俺の想いを全て、受け止めるって覚悟だ。』
 いつもよりも真摯な瞳が、あかねの心を突き刺した。とんでもない虎を起してしまったのかもしれない。だが、彼女も引くつもりはなかった。
『あんたはどうなのよ。』
 勝気な瞳で乱馬へ問い返した。
『俺なら、とっくに出来ている…。おまえとこの宇宙を駆けようと決めた日から…。』
 大きな光が映りこんだ瞳。その中に己が居る。
『どんな覚悟よっ?』
『おまえと共に、この壮大な宇宙を生きる覚悟だよ。決まってるだろ?おまえはどうなんだ?俺はただの任務上だけのパートナーか?』
『それは…。』
 あかねは口ごもった。

 嘘はつけない。

 そう観念させられたのかもしれない。

『違う…わ…。』

 その言葉を受けて、乱馬はぐいっとあかねを引き寄せた。

『なら…。その証、今、ここで、貰い受ける。良いな?』
 迫って来る真摯な瞳に、反論できる余地などなかった。
『ええ…良いわ。』
 そう発した途端、今まで、感じた事が無いほどの強い力で、腕の中に引き込まれた。

 もう、後には戻れない。

 乱馬の強い力に引き込まれながら、観念した。
 最終的に彼に口火を切ったのは己だ。彼の心をこじ開けてしまった以上、証を立てる以外に道はあるまい。

『あかね…。』
 乱馬の濡れた唇が己を捕らえていた。
 身体が一気に火照り始める。
『ん…。』
 閉じていた口を、乱馬の舌がこじ開けて、中まで潜入してきた。甘い甘露な舌先が、あかねの心まで吸い上げていくような気がした。
 それは、長い、長い、キスだった。とろけるような甘い蜜に包まれた。
 生れて初めて味わう、異性の甘い蜜液。

 気付くとベッドの上に押し倒されていた。自分が仰向けになり下に、乱馬が折り重なるように上に乗ってくる。やがて、彼の逞しい右腕はしなやかに唸り、腰へとまわされ滑り込んできた。左腕は、あかねの存在を確かめるように、頬から首筋、そして、下半身へと動いていく。その間、決して彼の合わさった唇は、離れる事はなかった。
 やがて、彼の情熱にほだされるように、あかねの身体も熱気を帯び始める。


 止められなかった。
 止まらなかった。
 始めは押し退けようと働いていた本能が、次第に、受身へと変化するのがわかる。

 乱馬はあかねを抱いたまま、そっと、非常灯のスイッチを切った。と、艦内のモニターが周りの宇宙(そら)を浮かび上がらせる。
 下も上も銀河の星たちが一斉に瞬く。いや、真空空間の星は瞬く筈はないのだが、星屑たちが一斉に笑ったような気がした。
 深遠の星の海に抱かれながら、柔らかなあかねの体を抱きしめる。

(誰にも渡さない…。このぬくもりは、絶対に…。)

 星たちの祝祭を受けながら、二人は一つになった。



『やっぱ、おまえは、漆黒の天使だ…。』
 ふっと、乱馬は頬を緩めた。

 やがて、招き入れるかのように、深く身体が抱合した。


 遠くで誰かの声が乱馬の耳にこだました。




『黒き瞳の天使の元に、我、翼を休めん。
 その漆黒の瞳に映る、果てない宇宙(そら)。
 暫し、我、戦の宇宙に安穏と、束の間の夢をまどろみん。
 泡沫と消え去るとも、
 その広原たる輝きは、終ぞ絶えること無き…。』





三、

 カラン。
 氷が酒に溺れるように音をたてた。
 ふうっと酒臭い息を溜息と共に吐き出す。
 カタカタと宇宙ステーションのエンジン音が子守唄のように聞こえる。
 目の前には、すっかり酔いつぶれて、正体が無くなった、東風となびき。二人とも、テーブルへと突っ伏して、惰眠を貪っている。

「しこたま酔っちまったな…。やべー、肝臓が悲鳴を上げてやがるぜ…。」
 己も相当量を飲んでいる。酒に強いとはいえ、普段から呑みつけて居る訳ではない。長い宇宙生活の中で、父親から酒への耐性は十分に仕込まれた。勿論、未成年の己が口から摂取したのではない。薬剤によって幼きからアルコールへの耐性を植えつけられたのだ。好むと好まざる、そんなことは関係が無かった。
 目くじらを立てること無かれ。それがエージェントとしての父親の教育の賜物の一端だったのだ。
 ゆえに、酒が飲める年令になると、相当量を口から摂取しないと酔えない体質になっていた。乱馬からして見れば、迷惑な話であった。
 酒が旨いと思えるようになったのは、最近かもしれない。
 仕事の後の一杯が五臓六腑に染み渡るのだと、良く親父は一人で杯を傾けていたものだ。顔を赤らめる親父を見ながら、子供心にも不思議でならなかった。あんな苦い汁のどこが旨いというのか。
 酒には嫌な事を忘却させる作用があるという。
 任務が激務で、嫌なものであるほど、親父は酒を飲んでいたように思う。
 酒で現実逃避をはかるのはどうかとも幼心に思ったが、この年頃になって、そんな親父の飲んだくれが、少しは理解できるようになった。

『一人酒も良いが、仲間が居ればもっと愉しいぞ、乱馬。』
 辺境の星の小さな居酒屋で、行き会った見知らぬ男たちとグラスを傾けながら、親父は笑って見せたものだ。

「仲間かあ…。親父の言っていたことも、わかるような気もするな。」
 潰れてしまった二人を眺めながら、ふっと頬が緩んだ。
 ここにあかねが居れば、もっと愉しかったろう。いや、彼女が居れば、ここまで酔うまで飲む事も無かったか。
 妻が居ない間に、好き勝手飲んだくれている亭主のようだ。

「やっぱ、惚れた者負けなのかもしれねーな…。」
 ふっつりと、乱馬は言葉を吐き出した。
 漆黒の宇宙が広いステーションの向こう側に広がる。はるか彼方に見える赤い星、火星。そこにあかねは居るのだ。
 帰還予定日まであと何日。
 指を数えて折りながら、昔話に聞いた「七夕伝説」へと思いを馳せる。
 一年に一度の逢瀬しか与えられなかった悲劇の恋人たち。
 勿論、星が出会う事は物理的に不可能だから、ただの作り話にしか過ぎない。しかし、その悲哀が人々の心を打つのは何故だろう。
 七夕は宇宙時代に入り、「星祭り」へと形を変えた。恋人たちの祭りは、彦星や織姫に供え物を捧げ、また一年の安穏な宇宙の生活を祈る。
 恋人と離れ、星を渡る生活を強いられている人間たちにとって、一年に一度の祭典には違いないのだ。
 宇宙を駆け巡り、再び無事に愛する者たちの元へと戻るために、笹へと願い事の短冊を掲げる願い事。
「そういや、あの無精者の親父も、星祭だけはマメにちゃんとやってたっけな…。短冊に願い事こそ書き入れなかったが…。」
 ふと、幼き日の父親の姿が浮かんだ。
 宇宙を渡るアジアンの星祭り。ゲンを担ぐのか、小さな笹をどこからともなく手に入れてきて、色とりどりの色紙で飾り付ける。親父と色紙がミスマッチだっただけに、子供心に強烈に印象に残っているのかもしれない。
 短冊はいつも白紙だった。
 何故だと尋ねたことがあったが
「親父の奴は、大人の男は、願い事は心の中でするものぞ。と嘯いていたっけ。」
 乱馬が代わりに「髪の毛を生やしてください。」とか「美味しいものをたくさん食べさせてください。」とか、「パンダを治してください。」とかマジックで書き入れたものだ。ふざけるなと、コツンとやられたこともある。
 恐らく、己の願い事を、子供の前で短冊に書き認めることが照れくさかったのだろう。どんな願い事を胸に秘めていたのやら。
「親父、今年も笹と折り紙を買って、星祭り、やるつもりなのかな…。」
 ふと、父親へと思いを馳せる。
 こんなことは、滅多にあるものではない。
「やっぱ、相当酔ってるな、俺。」
 普段は殆ど過去など振り返らない。振り返ったところで戻らないものだと思っているからだ。

 もし、自分が短冊に願い事を書き入れるとしたら、何と記すだろう。
 短冊を手に、じっと心を研ぎ澄ます。

「ずっと、あいつと一緒に居られること、それにつきるな。」
 広げた短冊を手に、微笑みかける。己も、父親のように、まともに短冊へ願いを書き入れるのは気恥ずかしい。天道ステーションへ来てから、短冊に願い事など書き入れることはなくなった。
 あかねに問われても、男は短冊に本当の願いは書かないものだ…と父親と同じ事を言う己が居た。
「親父の奴の願い事も、ひょっとすると…。」
 そう思い馳せたが、ブンブンと頭を横に振った。
「あの親父に限って、女がらみの願いってのは有り得ねーか…。」
 とプッツンと想像を切った。
 父親と長らく二人、宇宙を放浪したが、母親に対する話は、億尾も出たことが無かったからだ。子供心に、父親は母親から見限られたのだ。そう直感していた。
 母親の事を訊きだそうと思ったこともあるにはあったが、無駄だとわかっていたので、一切、触れずに来た。
「ま、奴からお袋の話は、一切、聞き出せねーだろーな。」
 いったい、何処の誰に、己を孕ませたのか。或いは、どんな女に卵を貰った試験管ベビーなのか。出生についても、謎に包まれていた。
「知る必要もねーしな…。」
 そう思ったところで、眠気に襲われた。
「俺も、限界だな。」
 重い腰を挙げ、自室へと引き上げる。去り際、東風となびきに声をかけるべきかと迷ったが、あまりに気持ちよさそうに二人とも寝息をたてていたものだから、捨て置いた。エアーコントロールがきいたステーションの中だ。風邪をひくこともあるまい。そう判断したのだ。
「あかねが帰って来たら、また、激務が来るかもしんねーしな…。ゆっくり寝ておくか…。」
 ふわあっとあくびを一つ。

 まだ、彼は知らなかった。
 己の母親の真実も。あかねの母親の真実も。
 そして、次に起こる、事件のことも。

 
 ゆっくりと平和な独り寝をまどろみ始めた。

 手にした短冊に、ひと言。
「いつまでも、最愛の相棒と二人で漆黒の宇宙を駆けられますように…。」
 たどたどしい男文字で、そう書き付けられていた。









 完





 この続きはかなり間が開くかと思います…現在、構想練り直して書き直しております(苦笑…次回はあかねちゃんの章であります。

 
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