◇天使の休日
第五話 渚の恋人たち


一、


『ねえ、乱馬。必ずここへもう一度来て。
 私もあなたに会いに来るわ。
 時を越え、星を越えて、また、ここで、会いましょう。
 約束よ。乱馬。』

 再び、脳裏で誰かが語りかける。
 少女の声。いや、もっと幼い。
 年の頃合は、五、六歳と言ったところか。

(約束…。ずっとまえに交わした約束…。)

 考えを巡らせてみるが、思い出せない。
 遠い過去。あかねと出会うずっと前の…。


(あかね…。)

 短絡的思考の男は、ふと、考え巡らせたところで、愛しき名を呼ぶ。意識の下は、過去から現在へと流され、可愛いあかねの顔が、目の前に佇む。
 人工太陽の光が、煌めくように照らし付ける、小麦色の柔肌。
 乾いた咽喉が、ゴクンと鳴った。

(あかねっ!)

 自然に伸びる手。あかねの柔らかな肌に触れる幸せ。
 他の誰にも渡さない。極上の時間。

「あかね…。」

 ガラス窓からは、カーテン越しに、人工太陽の朝の光が、輝かしい一日の初まりを告げる。耳の向こう側には漣の音。
 直ぐ傍にある、温もり。目を閉じたまま、無意識に求める彼女の肉体。
 タオルケットごと柔らかに抱き寄せて、そのまま、唇を額に当てる。

「あかね…。」
 そう、囁くように呟きながら、ゆっくりと目を開く。

「ん?」
 きょとんと見上げる瞳にぶつかった。
 確かに、目の前にはあかねの寝顔があったが、その、少し下の胸元には、別の温もりが感じられる。
「あれ…?」
 はっとして、目覚めた目をめぐらせる。
 と、確かにあかねを抱き寄せては居たが、彼女と共に、もう一つ、塊を、胸に抱え込んでいた。そう、あかねとの間に、小さな女の子が、キュンと挟まれて、不思議そうに、乱馬とあかねの顔を見比べている。
 その気配に、あかねも、はっと、目が開く。

「ちょ、ちょっと!乱馬っ!」
 あかねも、すぐさま、傍の瞳に気がついたらしく、焦った声を上げた。
 だが、逞しい腕は、ぴったりとあかねを引き寄せて、絡みついたまま。
「こらっ!乱馬っ!ナミちゃんの前でしょうがっ!この手、放しなさいってっ!」
 がっとつかんで、引き剥がしにかかった。

「うわったっ!そっか…。おめえも同じ蒲団で寝てたんだっけ!」
 乱馬は、ようやく、己が置かれた立場を思い出したらしい。
 慌てて、あかねから離れようとした。

「ん?」
 下半身に違和感を感じた。
 朝から元気な下半身。そこに、微かだが刺激を感じたのである。
「お、おいっ!」
 乱馬は手に持っていたタオルケットを、がばっとめくった。
「げっ…。」
 そのまま、固まる。
 何と、ナミが膨らんだ乱馬の「ナニ」を物珍しそうに、眺めているではないか。幸い、きっちりパジャマを着込んでいたので、その「膨らみ」だけを見ているような形ではあった。
 これ何?と言わんばかりの疑問の瞳。それが、乱馬へと手向けられる。
「あの…、悪いけど、目放してくれねっかな…。」
 頭をぼりぼりとかきながら乱馬はナミに頼んだ。
「そう、見詰められると、俺…。そこは、男の大事なところだし…。」
 へらへらとごまかしに走る。

「こら、助平乱馬っ!朝っぱらから欲情しないでよ、もう!!」
 居た堪れなくなったあかねが、思わず、乱馬の頭へとすっぽり、タオルケットをかぶせた。

「こ、こらっ!あかねっ!てめえ、何しやがるっ!」

「だから、あんたこそ、そこっ、何とかなさいっ!少なくとも、子供に見せるもんじゃないでしょうがっ!」

「アホッ!これは男の生理現象でいっ!だいたいだなあ、こうなっちまってることには、おめえにも責任の一端っつーもんがあんだろがっ!おめえにもっ!」

「な、何で、あたしに責任の一端があんのよっ!このど変態っ!」

 ドタバタ始まった、二人を眺めて、くすっと少女が笑った。

「ほらっ!こいつが、笑ってるだろうがっ!この凶暴女っ!」

「誰が凶暴女よっ!朝っぱらから立ててるあんたに言われたかないわよっ!」

 端から聞けば、物凄い会話である。


「あのう…。乱馬さん、あかねさん…。もう起きられまして?」
 隣の部屋から、たまらず声が返って来た。

「あ、起きてます…。」
「ちこっと取り入ってるんで、そこ開けずに待っててください。アリサさん!」
 そう言いながら、二人は、ゆっくりとベッドから這い出た。

「すいません…。乱馬さん、あかねさん。お二人の突然に、休暇に割り込んでしまって。」
 護衛官の女性が、すまなさそうに、あかねと乱馬に対峙した。
「いえ、仕方ないですよ…。あたしたちだって、連邦のエージェントなんだし…。指令が出れば、それに従うのが、言ってみればお仕事なんですから。アリサさん。」
 護衛官の彼女はアリサという名前。

 一方、乱馬は明らかに「不機嫌」な面持ちだ。見事な筋肉に覆われた肉体へシャツを羽織りながら、憮然と女たちを見詰めていた。
 愛想笑いを浮かべようとしても、直情的な彼には無理な話だ。
 その様子に、あかねは、思わず、肘鉄を一発、ズンッと食らわせてしまったくらいだ。
 ナミが不思議そうに、二人を見比べている。

「でもよ…。ずっと、このナミって子、一言も喋らねえけど…。もしかして、俺たちみてえな「一般庶民」とは口が利きたくねえとかなのかよ…。」
 乱馬は視線が合った少女を傍目に、護衛官のアリサに向かって問いかけた。
「いえ…。喋りたくても、喋れないんです…。ナミ様は。」
 アリサが、声を落として答えた。
「喋れねえ?どういうことだ?」
 乱馬は怪訝な顔を、アリサに手向ける。
「だからね…。生まれつき、彼女には「声」が出ないらしいの。」
 あかねは乱馬に、告げた。昨晩、乱馬がなびきと通信している間に、幾許かアリサから「事情」を聞かされたようだ。
「声帯がねえとか、そういうのか?」
 乱馬が訊いた。
「ま、そんなところね。ナミちゃんは言葉を話せないそうよ。でも、聡明な子だから、こちらが言っている事は、理解しているそうよ。それから、筆談も、できるみたい。」
「ほお…。こんなに小さいのに字が書けるってか。」
 乱馬が感心して見せた。
「そりゃあそうよ。あんたと違って、頭(ここ)が良いってもんよ。」
「うっせえっ!」
 まだ何かと、クレメンティー兄妹とのイザコザが、頭の片隅に残っているのだろう。乱馬もあかねも、素っ気無い。
「私は、付き人になって、結構経ちますから、彼女の目を見れば、何を言いたいか、要求はだいたいわかるようになったつもりですけど…。」
 ふっとアリサが言った。
「空気で読むって奴か…。」
「ええ…。そんなところですね。」
 こくんと揺れるアリサの頭。
「で?肝心なことだけど、こいつの正体は何なんだ?これから、俺たちも、こいつの護衛に回らなきゃならないなら…。知っておく、必要はあると思うんだが…。」

「勿論、お伝えしておかねばならないでしょうね。…いかに連邦機密でも。」
 アリサは厳しい目を差し向けた。
 自動キッチンシステムが、朝食を運んで来た。
 この星の中央配膳から、注文した新鮮な食事が届けられるというシステムだ。
 それを、簡単に、キッチンで温めなおすだけで、食事にありつける。
 朝のメニューはトーストと珈琲。それから、スクランブルエッグにフレッシュフルーツ。ごく標準的な朝食である。

「連邦機密だって?そんな大袈裟な、ガキなのかよ、こいつ…。」
 早速、朝ご飯にがっつきながら、乱馬が問いかけた。

「ええ。とある連邦の高官のお孫様なんです。ナミ様は…。いろいろとありまして、今回、この星へと養生を兼ねていらっしゃったんですが…。どこからか、情報がリークしたらしく、連邦高官のお爺様を脅す材料にと、誘拐を企てた連中が居たんです。」

「誘拐…。もしかして「蒼い惑星」が絡んでるとか?」
 あかねは、持っていた疑問をそのまま投げかけた。
 こくんとアリサの頭が縦に揺れた。
「わかっているのは「蒼い惑星」の一味が、ナミ様を狙っているらしいということです。」
「なるほどね…。さっきの暴漢連中も大方、「蒼い惑星」の息がかかった組織の人間たちか。昼間のこともあるからな。」
 乱馬は、撃墜した爆弾魔の事を思い出しつつ続けた。
「でも、何でこんな、辺境のエララへなんか、来たんだ?このお嬢様は…。」
 乱馬は、気になったらしく、アリサへと疑問を更に投げつけた。
「ナミ様は、見てのとおり、言葉が喋れません。前々から一度、パンフレットで見た、エララ星へと憧れのようなものを持っていらしたようです。」
「エララ星に憧れねえ…。」
「この星の海で星石(せいせき)を拾ったら、幸せになるという言い伝えを御存知ですか?」
「星石?」
 乱馬が言葉を投げかけた。
「ええ、星石。スター・ストーンとも呼ばれている、光る石です。」
「元々、この星を開発する前から、地底に眠っているという「星型」の小さな小石のことでしょう?乳白色の少し大きめな金平糖の形をしているって言われてますよね。」
 あかねが、即座に答えた。
「そうです…。その石を見つけると、願い事が叶うと言われていますよね。」

「おめえ、そんな石のこと、どこで知ったんだ?」
 乱馬がじっとあかねを覗き返した。
「ふふふ…。女の子の常識ね。」
 あかねが、ふふんと鼻先で得意がって見せた。
「女の子の常識ねえ…。おめえさあ、そんな事で喜ぶ年齢は、とっくに過ぎてるだろうが…。」
 乱馬はじと目であかねを見返した。
「ホント!あんたって浪漫の欠片もないんだから…。現実主義と言うか、欲情的と言うか…。」
「その、「欲情的」ってえのは、何なんだよ?」
「文字まんまよ。朝っぱらから、欲情を下半身に滾(ほとばし)らせてたじゃない!」
「あんなあっ!あれは生理現象だっつーてるだろがっ!俺は健康な二十代の男なんだ。朝は立ってて当たり前なんだぞっ!むしろ、立ってねえ方が、問題なんだっ!わかるか?」
「わかんないわよっ!そんなのっ!!」

 思わず、横道に走る会話に、コホンとアリサが咳払いを一つ。
「あんまり、下ネタはナミ様の教育上、宜しくないことでございますから…。少し、ご考慮願えませんか?」

「……。」
 乱馬とあかねは、顔を赤らめて立っていた席へ腰を下ろした。

「まあまあまあ…。欲情云々はともかく、ナミ様は地球(テラ)へ向かう前のラストステイに、このエララ星を選ばれたんです。」

「地球(テラ)へ向かう前のラストステイだって?」
 乱馬がアリサを見返した。
「ええ、ラストステイです。ナミ様はいずれは連邦政府の中心的存在になられてもおかしくない出自をお持ちですからね。ある一定年齢になられたら、地球で暮らし、そこで教育も受けられることになっていますから。」

「なるほど…。地球で英才教育を受けられる、エリートってことか。この子は…。」

「そう言うことです。」

「元々、俺たちとは住む世界が違う人間か…。」
 乱馬は、寝入ってしまったナミを見ながら、ふっと呟いた。

「それ故、星石をお望みになられたのでしょうね…。」
 アリサも複雑な表情で、それに答えた。

「ついでに、星石も、連邦政府の力で探し出してやれば良いんじゃねえのか?…そんなに欲しいものなら。」
 つい、嫌味らしき言葉が漏れた。

「あんたねえ…。それじゃあ意味がないのよ。自分の力で宝物は見つけ出さなきゃ。それがわかってるから、わざわざこの子はこの星まで出向いたんじゃないかしらね…。」
 あかねが嗜めるように言った。

「ふうん…。そんなもんかね…。」

「そ。女は叙情と浪漫を大切にする種族なの。こんな幼い子だって、大人になったって、基本は変わらないわ。即物的欲情に突っ走る、あんたみたいな男とは違ってね…。」

「お、おい!何か、おめえ…。剣がある言い方だぜ。それっ!」
 たじっとなりながら、乱馬が言い返す。

「とにかく、ナミ様がお二人を気に入られたことは確かなようですから…。ささやかな休日を、思い出深く過ごさせるためにも、どうか、ガードをよろしくお願いいたします。」

「ああ…。乗っちまった船だからな…。任務を言い付かった以上は、俺も、イーストの特務官だから…。」
 乱馬が言った。
「こいつ、一人じゃあ、なにやらかすか、わかったもんじゃないから、あたしもしっかり頑張ります。安心してください、アリサさん。」
 あかねは、バンバンと胸を叩いた。
「たく…。俺が居ねえと、頼りになんねえ癖に…。」
「何か言った?」
「いえいえ…。せいぜい頑張りましょうや。相棒。」

「それを伺って安心しました…。」
 力なく、アリサが微笑んだ。
「で、アリサさんだっけ?てめえはどうすんだ?見たところ、顔色も優れねえみてえだけど…。」
 殆ど手をつけていない皿を眺めながら、乱馬はアリサへと問いかけた。
「傷が痛むの?」
 あかねも心配げにアリサを見返した。
 そう。昨夜襲撃された時に、いささか、アリサは怪我をしていたのだ。だが、任務を放り出すわけにも行かず、簡単な消毒だけで、ナミについて、乱馬とあかねの宿へと随行してきたのだ。

「やっぱり、傷には勝てませんね…。このまま化膿でもしたら、以後の任務にも支障が出ますから…。連邦側に無理言って、休養を貰うことにしました。いざって言う時にこれじゃあ、足を引っ張るだけですから。」
 やはり、相当、ダメージがあるのだろう。アリサはそう、打ち明けた。

「ああ、無理しねえ方が良いな。この先、どんな連中が、また襲ってくるとも限らねえし…。」
「そうね…。この場はあたしたちでこの子を護るから、あなたは傷を癒すことに専念してくださいな。」

「ありがとうございます。意外にもすんなりと連邦軍からの許可も下りましたし…。乱馬さんとあかねさんって、かなり上級クラスの連邦特務官なんですね。なかなかゴーサインは出ないと思っていたんですが…。彼らなら任せて安心だと、イーストの司令官も念を押して下さって…。」

「あの、タヌキ親父がか?」
 乱馬が、むっと苦笑いした。
「タヌキ親父って…。乱馬、イーストエデンの司令官知ってるの?」
 あかねが口を挟んだ。
「知るも知らぬも…。まあ、それは良い。」
「良かないわよ。何であんたがイーストエデンの最高幹部を知ってるのよ。」
「だから…。ガキの頃から何度も会った事があんだよ!俺、おめえと違って、この世界長いんだから、どこかですれ違ってても不思議じゃねえだろが!」
「あ…。そういうことね。」

「あの…。全然話が先に進まないんですが…。」
 苦笑いしているアリサ。その横で、楽しそうにナミが笑っている。

「あ、悪い、悪い。つい、横道にそれるな。」
 乱馬が頭を掻いた。

「ま、俺たちは、一部には、名前が通ったコンビなんでな。それなり、信用してくれる幹部連中も居るってわけだ。だから…。安心して、養生しなよ。アリサさん。」
 乱馬がフォローした。
「ええ、そうさせてもらいます。まだ、私には、ナミ様を地球まで無事にお連れするという任務もありますから。ここを去るまでには、傷を治して参りますわ。」

 朝食が終わると、アリサは、名残惜しそうにしながらも、任務から離脱した。



二、

「で…。何で、俺が、ガキの水遊びに付き合わなきゃならねーんだ?」

 あかねの横で、乱馬が溜息を吐いた。

「仕方ないでしょう?ずっとロッジに居たら、息苦しくて窒息しちゃうわよ。ねえ、ナミちゃん。」
 こくんと揺れるナミの頭。
 彼女はさっきから、せっせと波打ち際で、砂山を作って水と戯れていた。人工砂とはいえ、本物の海岸と、そっくり似せて作られている。人工波も程よく調整され、潮の満ち引きも演出されているというのだ。
「おまえも、もっと肌の露出度の高い水着、着てくれれば、それなり、雰囲気も出るんだけど…。その、ワンピースじゃなあ…。寸胴にしか見えねえ。」
「失礼しちゃうわねっ!誰が寸胴よ!」
「せめて、ビキニだと嬉しいのに…。クソッ!」
「あんまり、露出度の高いのは、刺激的過ぎて駄目なの…。それより、ほら、文句言わないで、さっさと、これ膨らませて。」
 あかねは、でっかいビニール浮き輪を乱馬に差し出す。
「膨らませってっ…。空気ポンプはどうしたんだ?」
「うーん…。どっか行っちゃってさあ…。見当たらないのよね。」
「だったら、売店行って買ってくりゃあ良いだろうが。」
「あんまり、巷をウロウロしたくないじゃない。一応、「お忍び」ってことで、一般人には知れてないわけだしさあ…。それに…。」
 とあかねは辺りを見回して見せた。

「確かにな…。あっちにもそっちにも…。さりげなく「護衛」がついてるよな。」
「あんまり、彼らを煩わせてもねえ…。」
 乱馬も、辺りの様子は肌で感じ取っていた。
 一般に告知されていないとしても、一応は、地球連邦幹部の娘さんということだ。このエララ星の警察官やら、軍関係者たちが、遠巻きに見守っている視線が感じられる。

「何か、こう…。監視されてるみてえで、落ち着かねえな。」
 乱馬はぼそっと吐き出した。
 足を投げ出して、水際のナミの横に座る。押し寄せては引いていく波が、彼女の作った砂山を浸していく。真ん中に彫ったトンネルが、水浸しだ。

「文句言わないの!それに…。ほら…。あっちの海岸のほう…。」
 あかねは、視線をめぐらせないで、それとなく、背中の方向をちらっと乱馬に示唆した。

「クレメンティー兄妹…も監視に借り出されてるって、か。へへ。」
 ちらっと視線を後ろに流して、乱馬がにっと笑った。

 脳裏には、昨夜のふざけた風景が広がる。
 乱馬は案外、執念深い。それが、あかね絡みだとなると、尚更、性格まで捻じ曲がる傾向にある。
「なあ…。俺たちって、一応、「仲良し子連れ夫婦」ってコンセプトで、この子のガードするってことになってたよな。」
 と、あかねに問いかけた。
「ええ、まあ、一応ね…。」
 何を言い出すかと、身構えながら、あかねが答えた。
「んじゃあ、こういうことしても、全然構わねえわけだよなっ!。」

 乱馬は、水に濡れたあかねを波打ち際で、がっしと絡め取る。

「ちょ、ちょっと、乱馬っ!」
 バタバタと手足を動かして抵抗を試みたが、彼の力のある二の腕から逃れる術はない。

「俺たちは、一般客から見たら「夫婦」。だろ?」
「え、ええ…。まあ、そうだけど…。」
「せっかくだから、昨日の仕返しに、クレメンティー兄妹(あいつら)に、見せ付けてやるんだっ!」
「なっ!何考えてるのよっ!あんたはっ!」
 がしっと身構えるあかね。
 だが、無駄な抵抗であった。

「ん…。」

 眩い、人工太陽の光が遮られ、乱馬の濡れた身体があかねを覆い尽くす。腰へ手を添えられ、ぐっと引き寄せられる。
 舐めるように吸い上げられる、熱い口元。
 いつものことだが、求め、与えられる、濃厚なキス。

 冷たい海水が、ヘソの辺りまでしっとりと浸してくる。
 絡み付く、逞しい乱馬の腕の他に。もう一つ、別の感触が伸びてくるのを、閉じた瞳越しに感じた。乱馬よりもずっと小さな手。力は弱いが、柔らかな手が、あかねの腕にすがりついた。

『ねえ、あかね。乱馬と二人で、唇を合わせて、何をしているの?』
 すっと流れ込んで来る、ナミの声。あかねの脳内に直接話しかけているようだった。
 その言葉に、はっと我に返ったあかねだった。
(こんなこと、ナミちゃんの目の前でやってる場合じゃない!)
 そう思ったのだ。理性が本能を打ち破った瞬間。

「うん!」

 と、あかねは、思いっきり、身をくねらせて、圧し掛かってくる乱馬の腕を、遠ざけようと足掻き始めた。

「あかね?」

 あかねの思わぬ反撃とも取れる、行動に、乱馬がはっとして、唇を離した。

「乱馬あ…っ!あんたねえ…。」
 ずごごごと、怒りの波動が、あかねを駆け抜ける。

「お、おいっ!な、何だってんだよっ!あかねっ!」
 いつもなら、大人しく、腕の中に沈むあかねが、今は反撃に出ている。

「あたしたちの任務は、ナミちゃんを護る事。それ以外はないでしょうが…。」

「ちょ、ちょっと落ち着け!何、怒ってんだ?てめえ…。」
 たじっとなって、あかねを見返した。
 と、その視線の先に、こちらを、こそっと覗くように見ている、二つの瞳とぶつかった。
 瞳が少し、熱っぽいような気がする。

「だから、ナミちゃんの前で、キスなんか、するなって、言ってるのよっ!この色情魔っ!」
 バッシャと水と共に、後ろに引き倒された。
 がはがはっと咳き込みながら、乱馬はあかねを見上げる。ぶるぶると耳に入った水を抜きにかかった。
 さすがに角までは見えていないが、目の前のあかねはかなりのオカンムリである。
「良いじゃんかよう…。キスくれえ。」

「あんた、よもや、キスを軽く考えてるんじゃないでしょうねえっ!」
 ずいいっとあかねが迫ってきた。物凄い形相でだ。
「か、考えてねえ…つもりだけど。」
 後の方は小さくなる声。
「と、とにかく、子供の前でキスを見せ付けるなんて、破廉恥な行動だけはやめてくれるかしら?」
 ずずずいっと身を乗り出して、あかねは乱馬を睨み付けた。
「だってよ…。本来なら、休暇中だったはずなんだぜ。俺たちは。」
 乱馬はあかねと視線を外して、ぼそぼそと呟くように言った。
「あのね、指令が入ったの。あたしたちは、親子のふりしても良いから、ナミちゃんをガードするっていう、大切な。わかる?」
 この期に及んで、何を言い出すかと言わんばかりのあかねの勢いであった。
「じゃ、訊くけど、ナミちゃんが見て無いところだったら、良いんだよな?」
 逆に乱馬は問い返してきた。
「そ、それは…。」
 今度はあかねが押し戻される番だ。
「本来は、おめえと、ずっといちゃいちゃモードでゆっくりする筈だったんだぜ。仕方が無いから指令につきあってはいるけどよ。あの子が眠ってしまった後とか、大人の時間には、俺に付き合ってくれたって良いんじゃねえのか?それとも、おめえ、俺とバカンス過ごすのは嫌だとか…。」
 ずずっと裸体の上半身をあかねに迫り出してくる。
「そ、そんなわけないでしょうっ!」
 あかねが吐き出した。
「だったら、良いじゃん。ナミちゃんが見て無いところでは…。キスくれえ。」
 ふっと勝ち誇った瞳を返す。
「わかったわよ!その代わり、任務優先よ。ナミちゃんが見てるところでは、絶対に、教育上悪い行動はしない。あたしたちは親子なんだから。いい?わかった?」
「了解。」
 にっと悪戯坊主は笑った。
 何だか、問題が摩り替わってしまったような気もするが、これで、海に出ている間だけでも、それなりの緊張感を持って、乱馬が臨んでくれるだろうと思ったのだ。

「じゃ、決まりっと…。」
 乱馬はすっとあかねに近づいて、再び唇をあかねに寄せる。
 あかねの頬に軽くキスした。

「こらっ!乱馬あっ!あんたねえっ!」
 あかねが怒鳴った。

「へへ、唇にしたんじゃねえから、良いだろ?夫婦が仲が良いってのは、子育ての環境には一番大事な事なんだから。」
 と笑った。
「だからっ!それは本当の親子の場合でしょうがっ!」
 振り上げたあかねの拳をひょいひょいとかわすと、ざぶんと乱馬は海水の中へと身体を沈めて行った。

「もう!緊張感の欠片もないんだから!乱馬の奴っ!」
 あかねは勿論、ぷんぷんだ。
 はあっと溜息を吐き出したとき、不思議そうに見詰めているナミの視線とかち合った。
「ごめんね…。ナミちゃん。乱馬ったらあんな風で。」
 あかねは苦笑いを投げかける。

『ねえ、あかね。さっき、乱馬はあかねに何をしたの?キスってなあに?』
 真摯な瞳が問いかけてきた。
「え…。あ…。」
 あかねはドキッとしてナミを見返した。
 どう返事をしたら良いのやら、迷ったのだ。相手は年端も行かない子供。滅多なことは言えない。好奇心の塊だからこそ、かえって答え辛い質問もある。
『大丈夫…。私はそこそこ教育された知識を持っているから、あかねの言葉が理解できると思うわ。』
 とませた答えが返って来た。

(キスっていうのはね、愛情表現の一つなのよ。唇で相手に触れることなの。)
 あかねは、頭の中でナミの声に向かって囁きかけた。

『愛情って?』
(人が人を好きになる感情よ。とっても大事な感情なの。人が人として生きていくためには。)
 どうやら、ピンと来なかったのか、ナミは更に続けた。
『ふうん…。じゃあ、あかねは乱馬が好きなの?』
(ええ、好きよ。大好きよ。)
 丁寧に答えた。
『好きだから、キスするの?何のために?』
(そうよ。それぞれの愛情を伝え、感じ取るために、人はキスするの。)
『じゃあ、好きになれば誰でもキスできるの?』
 あかねは一呼吸置いて、その問いに答えた。
(時と場合によりけりだけどね…。)
『例えば、あかねは、私にもキスできる?』
 小さな瞳があかねを見詰めた。
(ええ、できるわ。)
 あかねはにっこりと微笑んだ。
 それから、ナミの傍へ行くと、真っ直ぐに瞳を見詰めた。
(目を閉じて御覧なさい、ナミそしたら、キスしてあげるわ。)
 『どうして?どうして目を閉じるの?』
 ナミは、率直に疑問をぶつけてくる。わからないことは、どんなことも積極的に訊いてくるのだ。好奇心に溢れている幼子と同じだ。
(目を閉じるのは、キスしてもらうときの礼儀。)
 あかねは微笑みかけながら、心で語った。
『礼儀?』
(ええ…。そうよ。キスを貰う時は、瞳を閉じるの。)
 あかねに誘導されると、ナミはすっと瞼を閉じた。
 あかねは、そんなナミを、柔らかな瞳で見詰めると、ナミの右頬へと、唇を寄せた。

 くすぐったい唇の感触。ナミの心臓が、ドキンとうねり音をあげたような気がした。

 なみは、ふっと目を見開いた。そして、再び、あかねに疑問を投げかける。
『乱馬のときみたいに、口にはしないのは何故?』
 と。

 あかねはすっと人差し指をナミに差し出すと、少し悪戯な瞳を差し向けて、諭した。
(唇を合わせられるのは、大切なオンリーワン、たった一人だけなのよ。そう、あなたも、もう少し大人になって、恋をするようになればわかるわ。あなたの唇に触れられるのは、あなたをオンリーワンと思う男性(ひと)だけ。)
 と、微笑みながら、心へ伝えた。
『じゃあ、あかねが唇を合わせるのは、あかねのオンリーワンだけなのね?』
 ナミはあかねに問い返した。
(ええ…。あたしが唇を合わせられるのは、あたしのオンリーワン。)
『あかねのオンリーワン。それが、乱馬なのね?』
 あかねは、コクンと一つ、頷いた。
(でも、ナミちゃんも好きだから、キスできるの。勿論、頬やおでこに…。だけどね。)
『ありがとう、あかね…。』
 そう囁きかけると、ナミは受けて、にっこりと微笑んだ。


「何やってんだ?おめえら…。」
 ふっと背後で乱馬の声がした。
 潜っていた水から、上がってきたのだろう。全身がずぶ濡れになっている。

「な、なんでもないわ…。ね、ナミちゃん。」
 あかねは、慌てて、そう答えた。まさか、ナミにキスを教えていたなどとは言えまい。
 それに答えるかのように、ナミもふっと微笑んだ。乱馬に笑顔を見せたのははじめてかもしれない。

(ん?)
 ナミの笑顔を見て、乱馬の心が動いた。
(こいつ…。どこかで…。)
 にっこりと微笑んだ顔に、どこか見覚えがあるように、思えたのだ。過去にどこかで会っている。そんな、微かな記憶が、乱馬を刺激したのだ。
 ナミの瞳をじっと見詰めて、己の記憶へ問いかけてみたが、何も思い浮かばなかった。漠然と、どこかで出会ったことがある。ただそれだけが、ぼんやりと輪郭を象るだけ。


「ねえ、乱馬、それ何?」
 ふと、あかねが乱馬の手にするものを指差して、問いかけた。

「え?あ、ああ…。これか。」
 いきなり、現実に引き戻されて、乱馬はハッと手の中の物を引き出した。

「それ…。石?」
 あかねが不思議そうに目を見張った。

「多分、星石の欠片だよ。」
 そう言って乱馬は掌をぐっと前に突き出した。
「星石の欠片?」
 あかねはじっと目を近づけて凝らす。
「俺の思ってる石がその、星石だったらって前置きがつくけどな…。」
 大理石のような、白い石が、掌の上で光っている。
「おめえ、まさか、星石がどんな物か知らねえんじゃあ。」
 半ば呆れた顔をあかねに差し向ける。
「だって…。本物なんて見た事ないし、前に雑誌か何かでちらっと写真を見ただけだもの。」
 あかねはばつが悪そうに言う。
「それより…。あんたこそ、それが星石なの?」
 と問い質していた。
「多分な…。」
 乱馬はポツンと言った。
「随分、いい加減な話なのねえ。」
 あかねは目を細めて乱馬を見詰め返した。
「おめえこそ、どんなものか知らないくせに、探そうとしてたのかよ。」
 と半ば呆れ顔であかねを見返す。
 その言葉にあかねは黙って俯いてしまった。
「たく、これだからなあ…。おめえは…。」
 乱馬はふつっと答えた。

「何よ、その石だって、本当に星石かどうか、あやふやなんでしょ?」
 あかねは不機嫌そうに乱馬を見詰めた。

「多分、そうだと思うぜ。ずっと前に来た時に、幾つか拾って、集めておいた場所があってよ。それを思い出して、探ってみたんだ。そしたら、形は丸くなってたけどよ…。多分、これが星石だよ。」
 乱馬は掌を開いた。そこには、角がとれてしまった、丸い石が幾つか握られている。

「でも、星石って星型なのよ。それは、ただの丸い石じゃないの。」
 怪訝な顔をしたあかねが掌を覗き込んだ。
「柔らかい石だからな。こいつは。波に削られて丸くなったんだろうさ。」
「たった数年で?」
「ああ、確かに昔は星型の石だったと思うぜ。こいつも。」
 乱馬は石を撫でながら言った。
「何で断言できるのよ。」
 あかねは相変わらず疑りながら問い返す。
「ガキの頃、この星に来た時に、その石を取り沙汰した事があるんだよ。俺もきっちり忘れていたけど、思い出したんだ。こいつが何で星石って言われてるか…。夜になったらわかるよ。」
 乱馬は自信ありげだった。



つづく




一之瀬的戯言
 制限すれすれの表現、失礼いたしました。
 ここに描いている「ナミ」は実は、伊耶那美尊から命名しております。
 懲りずに記紀神話(笑。何故かはそのうち明白になる…かな?
 ついでに、乱馬には何故か「CITY HUNTER」の冴羽りょうも混じっているかもしれません。ナミの中にCHゲストキャラ、人の心を読む少女「西九条沙羅」が見えた方、あなたは偉い(笑
 「CITY HUNTER」の原作者パラレル「ANGEL HEART」もアニメ化され、いろいろと。最初は香さんが死んでメチャクチャショックな原作と思ったんですが…物語が進むにつれ、なるほどと感じるところもあります。切ない愛情がぐぐぐっと。でも、「CITY HUNTER」ほど魅力的な輝きは私の中には起きてこないのであります。りょうも香も大好きなカップルだっただけに。(もし、WEBがもっと前に開発されていたら、間違いなく私は「CH」で同人をやっていたに違いない…ほど好きな作品でした。…既に過去形ですが。)

 「DARK ANGEL」は新旧いろいろな作品のパロディー的部分が入っているので、その辺りも楽しんでくださいませ。



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