◇闇の狩人 再臨編


第六話  Lの悲劇



一、

『ねえ、おいで。ボクのところへ…。』

 今まで感じたこともない、男性の声が、どこか遠くで響いてくるように思えた。
 誘うような声。どこかで聴いたことがあるような、落ち着いた声。

「誰?あたしを呼ぶのは…。」



 ふっと、目が開くと、淡い橙色のライトが目に入った。

「あたし…。」

 あかねは、ゆっくりとベッドから身体を起した。
 誰かに呼ばれたような声で、目が覚めたのだ。
 思わず座ったまま、耳を済ませたが、どうやら夢の中での出来事だったようで、見回しても何の反応も見出すことが出来なかった。
 代わりに傍らのデスクに置かれた乱馬が書いたメモの切れ端へと目がいった。

『俺はなびきたちの部屋へ行ってる。じきに戻るから、ゆっくり休め。』

 記名はなかったが、明らかに乱馬の筆跡だった。

 そう、己は、最下層にて、転送装置から、大量に出現した遺体に、我を失い、乱馬に寄りかかるように、部屋へ戻って来て、ここへ寝かされた。
 花嫁や花婿たちの色褪せぬ遺体は、かなりの衝撃をあかねに与えていた。
 三年前のミッションが、否が応でも脳裏に蘇ろうとする。
 このアンナケで何があったのか。実のところ、殆ど覚えていない。
 乱馬によると「ダークエンジェル」の超力が己に宿され、それが発動し、ゼナの兵士やマスターを闇に帰したという。
 その時、何かに意識ごと身体を乗っ取られていたような感覚だけが記憶に残っていた。だが、その他の記憶は全て欠落していた。記憶は奥深くに封印されたように途切れていたのだ。
『無理に思い出さなくても良いさ。おまえ自身の脳が思い出すことを拒否しているなら、そのまま流せよ…。』
 乱馬はそうあかねに言い聞かせた。
 人の脳には苦しい記憶を自然に封印する「忘却」という防御本能が働くことがあるという。己の記憶を操作する脳の部分が、その人格を壊しかねないほどの衝撃を与えられた時、拒否反応のようなものを持って、記憶を浮かび上がらせることを拒否するというのだ。
 その「防御本能」と関係があるのだろうと、彼は言っていた。
『だから、無理に思い出すな…。』
 乱馬はいつも言っていた。
『必要があれば思い出すさ…。』
 一度、藤原晃に、記憶の一部を操作され、封印された血の記憶を、一気に取りもどした時、その反動からか、いつもよりもゼナの闇を浄化するのに時間がかかったのも記憶に新しい。その時、常に傍に寄り添い、記憶を取りもどしたことによる混乱に陥らぬように支えてくれた逞しい存在。それが、乱馬だ。

 いつまでも彼に甘えていても良いのだろうか…。

 ベッドに寝そべったまま、あかねはふとそんなことを考えた。

 窓越しに見る、アンナケの夜景。
 この星には三つの小さな人工太陽があり、共に、地球時間を考慮に入れながら、二十四時間単位で照らしたり消されたりしている。
 地球標準時で現在は午後二十三時を少し過ぎたところだ。
 アンナケ星全体が夜の闇に包まれている。天上を照らす人工太陽の光は今は消され、その向こう側には、人気のない、ホテルなどの施設の建物が、不気味に闇に浮き上がっているのが見える。
 エアポートには点滅光があり、それぞれ、調査団を乗せてきた軍用や運搬のための宇宙艇が幾つも重なり合うように停留しているのが見える。ダークホース号もその一角に留まっているだろう。


『ねえ、おいで、ボクのところへ…。』

 また、誰かの声が背後で聞こえたような気がした。

「誰?」
 はっとして思わず、振り返ったが、シンと空気が静まり返っているだけであった。
 怪訝に思ったあかねは、ふらっと立ち上がると、ドアノブに手をかけ、そのまま、ホテルのロビーへと足を踏み出した。
 
 もしかすると、外側から誰かが己を呼んだのかと思ったのだが、辺りはシンと静まり返っている。

「気のせい?」
 あかねはドアから上半身を乗り出して、辺りをきょろきょろと見詰めた。
 
 このセントラルタワーの地上十数階は、調査団の人々が、それぞれの区分に分かれて宿泊している。研究者や作業員、それから警備員などである。
 あかねたちが居るフロアには、九能や玄馬、なびき、ナオムといった「仲間」はもとより、研究者のチームがいくつかに分かれて、休眠を取っている筈だ。
 昼間の作業の疲れからか、誰も居ないロビーは、煌々と明りだけが灯されている。

 どこからともなく、一陣の微かな風が、すうっと己の方へと吹き付けてくるような、そんな錯覚に囚われた。

『風を辿っておいで…。』
 また、誘うような声が、どこからともなく聞こえたような気がした。

「やっぱり、誰か、あたしを呼んでる?」
 どうしようか、迷ったが、結局あかねは、躊躇していた足を、風の渡ってくる方向へと手向けていた。声の主を確かめたいという好奇心が、警戒心を上回ったのだ。
 足音さえも遮断する、ふかふかのカーペット。その上を音もなく歩きながら、あかねはふらふらと歩き始めた。
 エレベーターホールを通り抜け、更に奥へ。微かだがその方向から風が渡ってくる気配を感じ取っていた。
 あかねは、風を感じる方向へ、ゆっくりと足を手向けていた。
 片側に並ぶ、ホテルの部屋。閉ざされた扉の向こう側では、アンナケ調査団に加わった人々が、深い眠りを貪っているころなのだろうか。物音一つ響いてこない。人の気配はその奥にあるのが、かえって不気味に思えてくる。
 だが、あかねはその前を、一歩一歩、踏みしめるように、風を目指して足を進めた。

 いつの間にか、並んでいた部屋も途切れ、ガラス張りの壁が大きく広がって見える空間へと出ていた。
 空中庭園。
 ガラス張りの壁の向こう側には、朽ちかけたオブジェや雑然とした花壇が並んでいた。三年前には、心地良い緑や花で溢れた憩いの場所だったところだ。今は見る影もなく、置き去りにされた幽霊屋敷よりも荒れ果てた光景が広がっている。
 風はその入口の外側から流れ込んで来るようだ。近寄ると、手開きのドアが半分ほど開いていた。

「誰か居るのかしら…。」

 そう思いながらも、あかねはドアノブへと手を差し伸べる。そして、ゆっくりと、向こう側を探りながら、ドアを開いた。
 谷間風が思ったよりも強く、押し退ける手に思わず力が入る。
 長い間使われていなかった扉は、ギギギと重い悲鳴を上げながら、外へと押し出された。
 ぶわっと真正面から風が吹きぬけて行くような気がした。
 外気温は十八度ほどに設定されているので、寒いとは思わなかったが、それでも、ビルの谷間を通り抜けていく風は、思った以上に強く感じられた。思わず目を閉じてしまったあかねが、次に目を見開いた時、確かにその人影がすぐ前にあった。
 すらりと伸びた黒いその人影。

「やあ、やっぱり来てくれたんだね。君ならこいつの声が聞こえると思ってたんだ。」
 そう言って、人影はあかねを見つけると嬉しそうに笑った。

「リー博士?」
 あかねの顔が驚きの表情に変わる。そして、固唾を飲みながら、その顔を彼に差し向けていた。
 彼の背後に、不気味に浮かび上がる、真っ暗な建物。電源を復旧することもなく沈黙する他のアンナケの遺構だった。

「大丈夫、何もあなたを取って食おうとは思っていませんよ、天道あかねさん。いや、早乙女あかねさんとお呼びした方がいいのかもしれませんけれどね…。」

 リーの目は妖しく揺れ動いた。



二、

「どんなデーターをマザーIから掠め取ったってんだ?」
 乱馬は思わずなびきの顔をしげしげと見詰めてしまった。

 連邦政府の中央に据えられた、スーパーコンピューター「マザーI」。昼間、大量に発見された遺体の身元を洗うべく、アクセスして流されてきたデーターを解析するうちに、面白いデーターを見つけてしまったと、なびきが口走ったこをと受けたのである。

「面白いデーターって、文字通りのことよ。」
 なびきはにやにやと笑いながら、乱馬へと顔を差し向けた。
「もったいぶってねえで、言えよ。なびき。」
 からかわれているのではないかと、乱馬は不機嫌な表情を作って見せた。
「ナオム…。さっきのデーターを乱子ちゃんに見せてあげてちょうだいな。」
 なびきはウインクして合図を送った。
「はい…。」
 ナオムは手元の小さなスイッチを親指で押した。
 グインッと機械が唸る音がして、ディスプレイが立ち上がった。
「これから、連邦宇宙局から送られてきた、三年前の事件に連座したと思われる人々のリストをあげます。」
 そう言いながら、ナオムはせっせと画面を操作した。そして、流れてくる画面から、必要な情報をセレクトして表示させた。
 ピコンと機械音がして、モニター画面へと、文字データーが羅列され始めていく。正面、横からの顔写真データーと共に、様々な人間データーが流れていく。目も留める暇もないほどに、次々にデーターが流れては消えていきを繰り返す。

「まずは、百聞に一見はしかずってね…。連邦の持ってた基本データーを見てちょうだい。」
 なびきは狙いを定め、ピッと画面を静止させた。

「え…。これは…。」

 そこへ映し出されたのは、一人の青年。
 見覚えのある顔だった。

「リー・ヤムソン、アジアン系、学者、三十三歳。」
 顔写真の横には、そう、書かれてあった。

「これって…。あのロボット野郎じゃねえのか?」
 乱馬は驚いて画面を見詰めた。
 そう、リー博士の顔写真とデーターが、そこへ赤々と映し出されていたのだ。

「そう、リー博士、ご本人のようねえ。」
 なびきが笑って見せた。
「生まれはユーラシア大陸。って地球生まれか、あの野郎。」
 乱馬は冒頭部にかかれた出身地について眺めながら吐き出した。地球生まれそのものが、だんだん珍しくなっている昨今、ある程度、羨望の眼差しがないとも言えない。生い立ちのデーターには親兄弟、親戚関係の名前はもとより、教育的な記録も一緒に羅列されていた。
「連邦工科大学主席卒業。連邦科学局勤務。研究分野は生命体組織工学。ふーん…遺跡や考古学関係かと思ってたけど…。お門違いか。何で調査団に居やがるんだ?」
 乱馬は顔をしかめながら経歴を丹念に読み解く。
「生命体組織工学の他にも、ロボット工学も博士号を持ち、いわゆる、天才肌の学者として頭角を持っている…か。研究分野の逸材ってわけだな。」

「そういうことだ。肉体派のおまえとは根本的に頭脳内容が違うというわけだ。」
 九能が笑いながら言った。
「ちぇっ!ぬかせっ!頭ばっかよくってもだなあ、最後に物を言うのは体力だぜ?」
 乱馬は口を尖らせながらも、先を読み進める。
「三十三歳…。ほお…。結構年食ってるんだな。三年前のデーターだから、今は三十六ってか。ふーん…。ミュー因子もかなり高レベル保持者ってことになってるな。」
「ええ、ゼナが欲しがったのもわかるでしょう?」
 なびきが曰くありげに言葉を継いだ。
「ってことで、あのふざけた結婚セレモニーに招かれたってわけか…。」
 ふううっと乱馬は溜息を吐き出した。
「そういうことになるわね…。」
「結婚セレモニーっつー具合だからな…。お、おいっ!てっことは相手が居たってことなのかよう。」
 乱馬の目がはっと見開かれた。


「あんたさあ、気が付くの遅すぎでしょう?もう…。ナオム。」
 なびきがナオム少年に合図を送ると、待っていましたとばかりに、別のデーターを読み出してきて、二つ並べた。

「今出したのは、リー博士の婚約者のデーターです。」
 ナオムが笑いを堪えて立ち上げた。

「うっそ…。」
 乱馬は思わず画面に食い入ってしまった。
「あの、ロボットオタクの堅物からは想像もできねえ、美人じゃねえか…。」
「ほお…。貴様も美的感覚だけは鋭いようだな。あかねくんをたらしこんでいるだけはある。」
「るせー、九能。」
 並べられて出てきた顔写真。そこには、かなりな美人が写り込んでいた。
「えーっと何々、フィーネ・リブロック。連邦科学局勤務。専攻は生命体組織工学。野郎(リー)と一緒かよう。」
「ま、そこで出会って恋愛してってところなんでしょうね。」
「人間の繋がりなんか、限られた中で生まれて結ばれていくものだからな。科学オタクは科学オタク同士で気があってたのかもしんねえし…。お手軽恋愛って奴なんだろうな…。」
「ふふ、あんただって、限られた空間の中で恋愛して…ですものね。」
 なびきが笑みを浮かべながら乱馬を見返した。
「うっせーっ!俺の場合は親父にはめられたようなもんだ!」
「でも、はめられたとは言え、気に入ってることには違いないじゃろうが…。結局は「お手軽恋愛」にどっぷり浸かっているんじゃないのか?おまえは。」
「お、親父にそこまで言われたかねえっ!!」
 真っ赤になって怒鳴った乱馬に、九能が追い討ちをかける。
「貴様が婚約を破棄するのなら、いつだって、あかね君をこの僕が貰い受けてやるぞ!今からでも遅くはない。別れてみてはどうかな?」
「だっ、誰がてめえなんかに、あかねをやるかっ!!」
 いつの間にか、主旨が乱馬とあかねの話題に摩り替わっている。

「とにかく、リー博士に婚約者が居て、この地でバレル一味が仕組んだ「アンナケ・ドリーム・ウエディング」に参加していたってこと…。勿論、奥さんになるべく「フィーネ博士」もかなりハイレベルなミュー因子保有者だったってことも注目に値するわね。」
 なびきが話題を斬るように言った。
「で、その、奴の婚約者はどうなったんだ?結婚したのかよう…。案外離婚してたりしてな。」
 乱馬はお茶らけて言葉を発した。
「もう…。よく見なさいよ、資料を!」
 なびきが呆れ顔で言い放った。そして、ある一箇所を指差した。

『MISSING』
 赤文字でそう書かれていた。

「ミッシング…。ってことは…。」
「文字通り、行方不明ってことよ。あのアンナケ・ウエディング以来ね…。」
 なびきが一瞬、険しい顔を手向けた。
 ふざけていた乱馬も、さすがに言葉を詰まらせる。
「何で、奴だけ生きてんだ?」
「さあ…。そこまではデーターからは読み解けないから、本人に聞かないとね…。」

 嫌な沈黙が一同の上を渡っていった。

「もしかして、奴は、行方不明の婚約者を探すという目的も持って、この調査団に参加したってことはねえだろうな。」
「充分ありえるわね。第一、元々専攻していた生命体組織工学や、ロボット工学じゃなくって、宇宙考古学の分野でここまで乗り込んで来たんだもの。ユルリナ博士の助手としてね。」
「ユルリナ博士の助手ねえ…。」
「リー博士ってロボットの秘書を使いこなして、あらゆるデーターの解析を一瞬でやってのける、相当優秀な助手らしいわよ。あ…。これは連邦政府のデーターからぱくったんじゃなくって、あたしの集めたデーターからの情報だからね。」
 そう言ってなびきは笑った。

「で、さっき、転送装置から飛び出してきた、行方不明者の遺体の中には…。」
「なかったわね。」
「あん?もう、確認終わったのか?」
「ええ、粗方ね。だって、まるで生きているくらいに、何の損傷もない綺麗な遺体ばっかりだったもの…。顔写真と見比べれば、誰だって簡単に判明できるわよ。」
「まあな…。そっか…。なかったのか。」

「でさ…。もう一つ、連邦政府側からの三年前のデーターを集積していてわかったことなんだけど…。」
 苦笑いしながらなびきが言葉を続ける。
「デリートした筈のあんたたちのデーターも一部、残ってたわ。」


「なっ、何いっ!!」

 今度はさっきとは比べ物にならぬくらいに大声を張り上げていた。



三、

「まさか、こんなところで、あの悲劇の関係者に遭遇できるとは思っていなかったものですから…。ちょっと嬉しくなってここへ呼び出させていただいたわけですよ。」

 リーはあかねを見て冷たく笑った。

「な、何を…。あたしはあの悲劇には…。」

「関係ないと言いたいのでしょうが…。残念ながら、僕がアクセスした連邦政府のアンナケ関係のデーターベースの中に、あなたの名前が刻み込まれていたんですよ。あかね・天道さん。」

 これは誘導尋問かもしれない。そう思ったあかねは、言葉を返すことなく、黙り込んだ。

「僕の拾い上げたデーターによると、早乙女乱馬という男性とあのウエディングへ列席していた。…まあ、あのウエディングショーには一千組のカップルが、太陽系内外から集ってきたわけですから…。何人かは今も元気に生きて、夫婦を続けて居る者も居るでしょう…。でも…。僕の拾ったデーターには、もっと面白いことが書かれていた。そう、そこには、あなたが連邦宇宙局のエージェントクルーであるとね…。」

 リーはすいっとあかねを見詰めた。まるで、獲物を捕らえた鷹の目であった。視線を反らせることもままならず、あかねはじりっじりっと空中庭園の縁へと追い詰められていった。

「最初に申し上げておきますが、何もあなたを抹殺しようなんて、思っていませんから…。あなたに協力していただきたいことがあるだけです。」

「あたしに協力して欲しいこと?」

 こくんと揺れる、真っ黒なリーの髪。乱馬とは違って、後ろに垂らされた黒い長い髪を、一つところで結んである。その穂先がゆらゆらと風に煽られて揺れた。


「実はね、僕もあのウエディングセレモニーに参加していた一人なのですよ、あかねさん。」
 目を細めながらリーが言った。
「えっ?」
 思わず小声が漏れた。
「僕は何も知らない、一般参加です。あなたたちのような、連邦政府のエージェントなどではなく。…バレル財団の五十周年企画を素直に信じ、それに申し込んで、抽選に当たった。一介の幸運なカップルとして、婚約者と共にこの星へと降り立ったんです。希望に満ち溢れてね。」
 少し寂しげな瞳が揺れた。
「裏側でゼナ関係の陰謀が張り巡らされていたなどということは、知る由もなかった。もっとも、知っていれば、誰も喜んでアンナケに飛んでは来なかったでしょう。何の疑いもなく、僕らはここへと導かれ、そして、悲劇は起きた。」
「悲劇?」
「ええそうです…。」
 ゆっくりとリーはあかねへ顔を手向けた。

「あなたも見たでしょう?転送装置。たくさんの幸せな遺体が彷徨っていたあの忌まわしい装置。あそこへと、婚約者共々、吸い込まれたんですよ。式場でね。」

 あかねの記憶が巡りだす。
 自分も乱馬と共に、あの装置へと導かれかけた。だが、彼の機転で装置へと吸い込まれることはなかった。
 目の前のこの青年は婚約者と共に、装置へと吸い込まれたと言うのだ。

「でも、あなたは生きてる…。」

「ええ。辛うじてね…。」
 そう言いながら、青年は、己の着ていた宇宙服の上着をはだけ、上半身をさらけ出した。
あかねの目が彼の体に釘付けられた。
「そ、それは…。」
 そのまま絶句してしまったのだった。

 彼の右半身の胴体は義体だった。
 えぐれるように生傷が身体の右側を走っていた。

「今の技術なら、人工皮膚を植え込むことも簡単だけれどね…。胴体の部分はこうやって傷を残してあるのです。勿論、足や手、など、人の目に触れる部分は、最新の技術を使って再生してありますがね…。そうそう、あと、内臓も。」
 リーはそう言いながら、剥ぎ取った上着を再び身にまとう。

「その身体…。」
 やっと口を開いたあかねが、言葉をかけた。

「転送装置へ吸い込まれる直前に、押し出されたんですよ。フィーネによってね…。彼女は己の身を犠牲にしても、僕を装置の外側に放り出そうと最後に動いたんですよ。そして…。フィーネは闇に飲み込まれた。そのまま行方知れずに…。転送装置の中でまだ、彷徨っているのか、それとも、あの最下層の血糊の中に斃れていたのか…。」
 リーはあかねを見据えて言った。
「判っていることは、彼女は何処ともなく消えうせてしまった…。その事実だけです。イーストエデンのエージェントさん。」
 その呼びかけにあかねははっと顔を見上げた。
 どうしてと口が動きかけたが、何とか止めた。
 ここで認めてしまうわけには行くまい。彼だけが敵だとは思えなかったからだ。他に人影が潜んでいたら、敵の思う壺にはまる。だから、ぐっと、言葉を喉の奥へと飲み込んだ。

「ど、どんなことがデーターに書かれていたかは知らないけれど…。あたしは、殆どあの時の記憶はないの。残念ながら、あなたの婚約者のこともわからない…。気が付いたら、アンナケを離れて帰還していた。ただそれだけよ。」

「君がエージェントということはわかってるんですよ。地球連邦のデーターを改ざんしたのは誰か知らないけれど、エージェントに付けられる認識番号が残っていたんです。誰が作業したのか…間抜けな話ですね。データーは殆ど消されたに等しいのに、認識番号と名前の記録が残っていた君のデーターはそこから辿りました。勿論、行方不明者として扱われていましたけどね…。まあ、一般の技術者にはそこまで読み解く能力はないのでしょうが、僕の目に留まったのが運の尽きだったかもしれません。」
 あかねは言い返すことなく、大人しく彼の言葉を聞いていた。
「さてと、いくつかの疑問に答えてもらいたいんですけどね…。まず、君と組んでいたのは「早乙女乱馬」。彼も超一流のエージェントとして名を馳せていたようですね。勿論、その実体は不明。…その彼は今、何処に居るんでしょうかねえ?」

「さあ…。もっとも、あたしがエージェントだったとしても、彼の全部は把握していないわ。たとえ知っていてもあなたに話す義理などないもの。」
「ふーん…。あの時一回きりのコンビネーションだったってわけですか。」
「想像に任せるわ。あたしが本当にイーストの人間なのかどうかということも含めてね。」
 リーの唐突な呼び出しに後れを取っていたあかねの瞳に、ようやく光が戻り始めた。
「今回の君の使命は何です?…遺跡発掘の情報収集?それとも、不測の事態に備えるため?」
 あかねは黙ってリーを見上げた。答える義理はない。勝気な瞳がそう叫んでいた。
「ふっ、こんなことを僕が問いかけても答えるつもりはない…ですか。だったら、君の脳内にアクセスして、引き出すまでです…。三年前の記憶が本当にないのか。そして、君と組んでいた早乙女乱馬というエージェントのことも全て…。」
 リーの瞳が怪しく揺らいだ。

「甘く見ないでっ!」

 あかねはさっと後ろに飛びのいた。危険を察知したからだ。

「さすがに反射神経は並以上のようだな…。鍛え抜かれたエージェントだけはある。だが…。僕の攻撃から逃れることはできない。」

 リーはそう言うと、傍らに控えさせていたロボットのスイッチをひねった。

「何を…。」
 グインっとうねる音が流れた。

「か、身体が動かない?」
 地面に張り付くように、足がピクリとも動かない。
 それどころか、激しい頭痛に襲われた。
「貴方の動きは全て塞ぎました。このロボットが発する特殊な磁場を使ってね…。」
「な、何のためにこんな…。」
「協力して欲しいのですよ…。僕の野望を満たすためにね…。あかねさん。」
 リーがにやっと笑ったときだった。
 
 バシッと音がして、あかねの足の呪縛が解けた。
 その反動で思わず、あかねはコンクリートの地面へと叩きつけられた。だが、彼女はすんでで、地面をかわし、受身を取って衝撃を回避した。


「そのくらいにしておきなよ…。リー・ヤムソン博士。」
 はっしと睨みつける二つの瞳があった。
 乱馬であった。勿論、今は女然としているので、乱子と言った方が適当だろうか。

「君は…確か。乙女乱子くん…。そうか。やはり君もイーストのエージェントだったか。」
 にやっとリーが笑った。
「だったらどうだってんだ?…。貴様のロボットが作った磁場は無力化したぜ…。あかねの下に強力な磁場をめぐらせて、あかねの動きを止めたみてえだけどな。」
 そう言いながらリーを睨みつける。
「俺の相棒に、これ以上危害を加える気なら、連邦のドクターにだって容赦はしねえ…。てめえも知ってるだろ?俺たちエージェントの中には「強行捜査認可」があるってことをさ…。」

「へえ。場合によっては連邦の関係者でも殺したってかまわないというその特別認可証を、若い君が持っているとでもいうのかい?」
 リーは挑発するように言葉を乱馬へ向けて差し向ける。
「ああ…。持ってるさ。だから、たとえ俺が貴様を血祭りに上げても、罪には問われねえ…。何なら体で確かめてみるか?」
 いきりこんだ乱馬に、リーはすっと殺気を納めた。

「どうやら、嘘ではないらしいようですね…。ふん、良いでしょう。この場は手を引きます。僕は平和主義者なんでね。」
 リーはロボットのスイッチを切った。ひゅうひゅうひゅうと音をたてて、ロボットの触手が体へと戻った。
「何が平和主義者だよ。ただの臆病者が…。」
 乱馬はまだ戦闘隊形を緩めずに、神経を張り巡らせていた。
「君は優秀なエージェントなんだな…。連邦政府も安泰ってわけだ。はっはっは。まだ、諦めたわけじゃないからね。そのために手段は選ばないさ…。」
「ああ、今回は俺たちも不問にしておいてやる。だが…。今度あかねを狙いやがったら容赦はしねえ。特別認可を発動させてやる…。」
 乱馬は凄むことを忘れなかった。

「いいでしょう…。その挑戦状、とくと受けてあげますよ…。」

 リーは笑いながら、その場を離れた。



「たく…。大丈夫か?あかね。」
 乱馬はふうっと溜息を吐き出した。
「ええ、何とかね…。」
「敵は何処に潜んでいるかわからねえか…。この任務、かなり危険で胡散臭いものになりそうだぜ。」
 あかねも覚悟をするようにこくんと頷いた。
「でも…。婚約者が行方不明って…。」
「ああ、あの事件は闇から闇へ葬られた部分もかなりあるって言うからな…。」
 吐き出すように乱馬は言った。



つづく




一之瀬的戯言
 だんだん根幹部へと物語は走り出しましたが…。これだけで終わるはずはなく。どんな陰謀が二人を待ち受けていますことやら。
 乱馬君、頑張れ!

(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。